« ひきこもりよ、腹を鍛えよ | Main | 人生最期の楽しみ »

2009.02.01

究極の1冊

私は、世界最高クラスのヴァイオリニストやピアニストを見ると、強い羨望を感じる。
別に、その名声や腕に対してではない。はっきり言って私は音楽はあまり分からない。
そうではなく、子供の頃から、毎日7~8時間以上、熱心にレッスンをしてきたということに対して羨ましいのだ。
もちろん、親などによる強制もかなりあり、本人は苦しい時期もあったであろう。しかし、強制されただけで何かできるものではない。
そして、本人の素質や気力というものも重要であるのだが、やはりそこには「縁」というものがあったのだ。
縁なくして何も起こらない。

音楽だけではない。
中学校しか出ていないが、医療以上の成果をあげる健康事業を行っている天才がいるが、彼は若い時、霊能の大家を訪れ、弟子入りを願ったが、ロクに相手にされず、ただ「ローム太霊講話集」をボロボロになるまで読めと言われた。彼は素直にこの本を10年以上かけて本当にボロボロになるまで読み、再び霊能の大家を訪れ、閉じ糸も取れてバラバラになった本を見せると、霊能の大家は涙を流して喜び、弟子ではなく友人になってくれと頼んだという。

私は、これならできると思い、究極の1冊を探した頃があった。
無人島に1冊だけ持っていけるならどの本を選ぶかの問いに、「聖書」と答えるクリスチャンは多いと思う。
ある偉人は、子供の時、家にある本が1冊の聖書しかなかったので、そればかり繰り返し読み、偉大な知恵を得た。
数学者の岡潔は、意味は全く分からなかったが、道元禅師の「正法眼蔵」を20年間、座右の書とし、繰り返し読んでいたが、ある日突然、その全てが理解できたという。

私は、「ローム太霊講話集」も「正法眼蔵」も読んだが、長続きしなかった。
そして、ニサルダガッタ・マハラジの「アイアムザット」に巡りあい、「これだ」と思い、一生これだけを読もうと思った。600ページ近くある分厚い本だが、4回目を読んでいる時、エマーソンの「精神について」を知り、読まずに過ごすにはあまりにもったいないと思い、そちらを読み始めた。

翻訳書の場合は特に注意が必要だ。
まあ、所詮、言葉で真理を伝えるのは不可能なので、ある種の霊感のようなものは必要だ。
そして、特に翻訳では難しい。どうしても、言葉に齟齬が発生する。
小説・アニメの「涼宮ハルヒの憂鬱」で、宇宙人の長門有希が、主人公のキョンに宇宙の情報を伝える時、「言葉では概念をうまく伝えられない。情報に齟齬が発生する」と前置きをして話したのが印象的だ。
ある意味、言葉を信じてはいけない。
私が一時夢中になった「アイアムザット」は、ニサルダガッタ・マハラジがインドの一部の地域の方言で話された録音テープから英語に翻訳し、さらに日本語にしたものだ。英語にする際には、マハラジに慎重な確認をし、マハラジも熱心に協力したと聞くが、それでも齟齬は多いはずだ。そして、マハラジが聖者であっても、肉体を持つ以上、いくらかの偏りはあると思う。はっきり言って、内容に矛盾を感じることもあった。
ドイツの「心身医学の父」と言われるゲオルグ・グロデックの「エスの本」は、心理学者の岸田秀さんが山下公子さんと2人で分担して翻訳したものだが、自分の分担でない方も原文と照らし合わせて厳しくチェックし合ったという。岸田さんというのはふざけた心理学者と思っていたが、認識を改めた。まあ、そうでないと、何十冊も著書を為したりしないであろう。
最近、37年かけて、ようやく翻訳完了したという新約聖書を買った。これだけ聖書の翻訳がある中で、それほどの苦労をして翻訳する意味があるのである。翻訳がいかに大変か分かろうというものだ。

私は、生涯の友とする本について、もともとは「荘子」ではないかと思っていた。「老子」や「法句教」、「法華経」も素晴らしい。しかし、これらも翻訳の際の齟齬もあるし、特に、経典の場合は、学者達がわざと難解に歪めてしまっている。
では、日本のものが良いと思い、「古事記」を見た。一見、漫画のような馬鹿話であるが、恐るべき知恵の書で、生涯読むに値するが、これすら現代語訳に頼るしかない。また、これの現代語訳は実に多いのだ。
「古事記」では、河出文庫の「現代語訳古事記」が最も名訳と私は思う。
実は、私が一番好きな本は「歎異抄」である。こちらも現代語約は多い。本文そのものは非常に短い。これを読んでいると、「唯信鈔」や法然の「選択本願念仏集」も読みたくなった。
結局、私の部屋には、いまだ本が溢れかえっているばかりか、今でも増え続けている。
最近は、葉室頼昭さんの神道の本や、岡田虎二郎さんの静坐関連の本を愛読している。
究極の1冊というのは難しいものである。そう思っている限り、私の精神は安定しないかもしれない。所詮、本に頼ってはいけないのであるが、俗人の弱さである。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

|

« ひきこもりよ、腹を鍛えよ | Main | 人生最期の楽しみ »

Comments

「好きだから・楽しいから」といった感覚には、言葉以上の力が秘められているように思います(^-^)
自分が、「これが好きだからやる・これが好きだから読む」・・・
その1冊なり、その1つなりを見つけることは、自分探しの旅?になるのかなぁ・・・

たくさんの本を読まれるのですね。知識、知るということは、生きていく上で、とても重要なことですものね☆

Posted by: さゆり | 2009.02.01 03:38 PM

★さゆりさん
私は、「好き」「楽しい」といった感覚で本を選んだり、何かをしたことは・・・おそらく無いと思います。
ちょっと昔までなら、「賢くなれるか」「強くなれるか」ばかりだったと思います。
ただ、最近では、「縁」の問題かなあと思います。
画家の横尾忠則さんが、自身のサイトのBBSで「読むべき本なら、本の方からやってきます」と書かれていましたが、本の方から来るでも良いですし、やはり神仏が逢わせてくれるのだろうとか思っています。

知恵や精神性を重んじる人には、知識をないがしろにする人もいるのですが、私は、まず知識だろうなあと思います。特別な例外を除き、真に賢い人は皆、大変に知識を持っているものだと思います。

Posted by: Kay | 2009.02.01 07:56 PM

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 究極の1冊:

« ひきこもりよ、腹を鍛えよ | Main | 人生最期の楽しみ »