自動車産業の衰退は良い点も多い
昨年の、国内の車の保有年数の平均が8年を超えたようだ。
これまでは、2007年の7.1年が最高であった。
また、廃車になるまでの平均使用年数は11.67年である。
これに対し、自動車産業側では、これらのサイクルが短くなるような政策を政府に強く要望するのだろうし、政府もそれを実現しようとするだろう。
馬鹿を言ってはいけない。
ものを大事に使うのが日本の美しい伝統であり、誇りであり、どんな形であれ、それが復活してきたことを喜ぶべきである。
車は、大事に乗れば20年くらいは軽く乗れるはずだし、それくらい乗れるように作り、メンテナンスを出来るような体制を整えるべきである。
たったの12年弱で廃車にするなど、勿体無いにも程がある。
車の性能はもちろん、年々向上しているとは思うが、20年前の車以上に必要なものなど何もない。
そもそも、不必要な車が多過ぎるかもしれない。
年齢を問わず、運転免許を持っていない人もよくいるが、別段、不都合があることは全くないように思える。
私も、車は何台か買い、特に運転し始めの頃は無駄によく乗ったものだ。それはそれで楽しい思い出もあるが、車がなければもっと良いことが出来たかもしれないし、車があったので悪かったことも少なくはなかった。
車は、購入はもちろんだが、維持にかなりのお金がかかる。そのお金を、もっと別の良いことに回せば、非常に有益であろう。
200万円の新車を買うお金で、2000円の立派な本が1000冊も買えるのである。
アメリカなら、車がなければ生活が成り立たないことも多いだろうが、日本ではそのようなことは滅多にない。自分で車を所有するより、頻繁にタクシーを利用した方がはるかに経済的だ。
車に限らない。
現在は使い捨ての悪しき習慣がすっかり定着した感のある日本だが、それは西洋からもたらされた大量生産大量消費を善とする資本主義経済で堕落しきったのである。
日本人は、元来、心を込めて丁寧に作ったものを、長く大切に使うことを美徳としてきた。
日本の伝統では、ものを作る時は、長く使える工夫をし、長く使えば使うほど手に馴染み、色艶にも風格が顕れた。使う方も長く使うほどに愛着が湧き、ますます大切にした。
ドイツの機械では、今でも、長く使って歯車が磨耗してくれば、ますますスムーズに動くという素晴らしいものが作られているらしいが、日本のは全くそんなことはない。日本は既に、工業大国としても地位を大きく下げているのだ。
マタギ(日本の職業狩猟集団)では、名工が作った狩猟刀が孫にまで譲られることもあるらしい。
ところで、私は、自宅では作務衣(さむえ)と呼ばれる、主に作業時に着用された和服を着ているが、数年前に同じものを2着買い、今年やっと2着目を出した。1着目が全く何ともないので出さなかっただけである。自宅では、それしか着ない。
和服というのは、体形が相当変化しても、そのままで問題なく着れるし、仮に切れなくなったとしても修正は容易だ。
別に庶民に限らず、高貴な人でも、着物を譲るということはよく行われたと思う。
もはや、大量生産大量消費は時代遅れである。
そのようなものに支えられた自動車産業を元のようにする必要はない。
もちろん、自動車は良いものであり、なくてはならないものだ。
しかし、そのあり方を変える必要がある。当然、以前のような多くの工場も、多くの従業員も必要ないであろう。
日本は食糧の自給率が危機的に低い。国家は農林水産業を奨励し、また、農林水産業の方でも、新規事業者、労働者が参入しやすいよう門戸を開き、国はこれに協力しなければならない。
性格的に資本主義経済社会特有の職場に合わない人は多いはずだ。
そこは弱肉強食の世界であり、大量に作り、強引に売ることが正義である。慈愛、謙譲、博愛の精神は極めて軽視される。精神的にそれに適応できない人間には居づらい場所である。
しかし、生活のためには、そんな職場で働かないといけないのである。
それは無理なことではない。いかなる社会であろうと、自分の食い分は自分で稼がないといけない。
だが、現在存在する産業以外での労働が可能になれば、より多くの人が生き甲斐を感じられるようになるに違いない。そのためには、今回の世界大不況も決して悪いことばかりではない。私はそう思っている。
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