ひらがなを意識的に使おう
パソコンや携帯電話の漢字変換機能を使うことから、漢字が書けなくなったという話をよく聞きます。
もちろん、これは悪いことのように言われますし、ほとんど誰もがそう考えています。
しかし、私は、ひらがなを使えば良いと思います。
私は、イェイツの詩集を何冊か買いました。イェイツはアイルランド人で、原詩は英語で書かれています。
私は英語は駄目(他の言語もですが)ですので、翻訳を買います。
ところが、多くの翻訳書は、難しい漢字が沢山使われていて、さっぱり読めません。私の漢字能力も高くはありませんが、標準程度ではあると思います。しかし、日常、決して見ることのないような漢字が多く使われ、全く歯が立ちません。
漢字は、確かに、同じ読みや意味でも、違う漢字を使えば雰囲気は変わります。例えば、「戦う」と「闘う」では、後者の方が激しい感じがしないでもありません。ただ、あくまでそう感じるだけで、「闘う」が「戦う」に優る訳ではありません。そして、「倒れる」を「斃れる」と書かれたら、私には読めません。
イェイツの英文詩を読んでみましたら、非常にシンプルな英語で、小難しい翻訳より分かりやすいようにすら思えます。こんなきれいな文章を、あんな難しい言葉で翻訳をするセンスには呆れます。
尚、イェイツの本当の名訳は、やはり分かりやすいものです。まあ、小難しい方が有難いなら、そちらを選べば良いのですが、イェイツはあまり嬉しくないでしょう。
詩に限らず、例えば仏教の経典で有名な法華経は、本来、教養の全くない庶民にも分かりやすいものだったようです。仏教の真の目的から考えれば、それが当然と思います。しかし、中国や日本の学者達が、自分や自分の学派の権威を高めるために、どんどん難解にしてしまったという話もありますが、私はそれが本当ではないかと思います。法華経の中に深い意味はあるとしても、書いていることは、文章的には絶対に簡単に書ける程度のものなのです。
明治から昭和初期の本の中には、やはり難しい漢字だらけでさっぱり読めないものも沢山あります。
当時の人はよく勉強していたという説もありますが、現代の我々は、当時の人たちよりはるかに広い範囲の知識を必要とし、漢字にそれほど注力はしていられません。
それでも、今では忘れられた当時の本には素晴らしいものが沢山ありますので、是非、分かりやすく書き直して欲しいものです。そのようにして蘇り、現代の日本人に良い影響を与えている本もあるはずです。
土台、漢字は中国のものです。それは中国の国土や自然、風習の中で生成発展し、中国人にはよく合うものかもしれません。しかし、日本人に向いているわけではありません。
日本人は、本来、カナを使ってきました。カナは、漢字に比べ、非常に数が少ないですが、たった1文字でも多くの意味を表せるように出来ています。これは、アルファベット1文字には全く意味がないのともかなり違います。
現代の我々には、1文字にいろんな意味があったら、使い分けに困るという観念しかないと思います。しかし、日本語には、今では忘れられた神秘的とも言える力があり、それが日本人の力でもあったわけです。ここらのことは、とてもではありませんが簡単に言えませんので、例えば「ひらがなで読めばわかる日本語(新潮文庫)」や「日本語の力(集英社文庫)」などを読んでいただければと思います。また、日本語と神道の結びつきは当然強いですので、神道を分かりやすく教える葉室頼昭さんの著書が沢山出ており、それらにもよく説明されています。
1つだけ簡単に考察しますと、たった1文字ですら深い意味を伝えられるような深い感性が日本人にはあったということです。感性の中には、知的能力とは異なる人間の能力があります。漢字の国、中国の「荘子」に、人には知を超えるものがあり、それは言葉で表現できないが、あえて明と呼ぶと書かれているのは面白いことです。
漢字は象形文字ですが、カナやかなもそうです。しかし、文字を形成する感性は両者で全く異なります。どちらが優れているとは言えませんが、カナやかなの造形感覚は素晴らしいものです。それは、現在の我々のDNAの中にも生きていると思います。それならば、我々はもっとカナやかなを使った方が良いかもしれません。
例えば、「目」はひらがなで「め」ですが、植物の「芽」の形から出来たとも言われます。芽は植物の最初の段階ですが、我々の感覚も目が先んじる場合が多いものです。歌にも「恋人はどこから?目から心」というのがあり、恋が芽生えるのもやはり視覚から始まるようなものです。
そして、日本人は、以心伝心というように、あまり多くの言葉を必要としません。これは国際社会では不適切と言われることもありますが、美しいものであるという点も忘れてはいけません。以心伝心は思いやりの上に立ってこそのものであり、日本人は本来、思いやりのある民族なのです。その思いやりある民族が、なぜ集団になると残虐になるのかについては、私はひらがなを使わなくなったことと関係すると思っています。しかし、これは難しい問題なので、別の機会に書こうと思います。
日本語の力を最も感じるのは、神道の祝詞ではないかと思います。最も代表的な祝詞である「大祓詞」は、「古事記」のダイジェストのようですが、むしろ大祓詞が先にあったように思います。
大祓詞の漢字文の訳を見て、「なるほど。こんな意味か」なんて思わない方が良いようです。大祓詞にあてはめた漢字は、あくまでこじつけの漢字で、その意味もまたこじつけです。本当の意味はあまりに壮大で、万巻の書でもっても書ききれません。
日本語とは、それほどまでに凄いもので、本来の以心伝心は実に奥深いものです。
霊界の様子を書いたことで知られるエマニュエル・スウェーデンボルグは、霊界の文字について、「1文字で百科事典何冊もの意味があるのだ」と言っていますが、カナやかなは、この世においても、それに近いものかもしれません。
少なくとも、我々はカナやかなを軽視せず、もっと敬意を持って使いたいものです。そこに日本の復活があるかもしれません。
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