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2009.02.28

幸福になる純粋にして明晰な道

誰にも、偶然、目にしたり聞いたりしたことをいつまでも憶えていることがあるだろうと思う。
他人からみれば、どうでも良いことであったり、自分ですらさしたることと思わないのに、なぜか時が流れてもよく憶えているようなこと。
私にもいくらかある。
そして、そういったものこそが、神様からのメッセージであると私は確信している。

オーソン・ウエルズ主演、監督、脚本の「市民ケーン」(1941)という名作映画は、人間のそんな不思議なところに着目している。
新聞王であった伝説の大富豪ケーンは、「バラのつぼみ」という謎の言葉を残して死ぬ。
新聞社は、その言葉の意味を全力をあげて調べる。だが、それは全く解明されない。
ある老人が言う。「きっと大したことじゃないんだ。人間はつまらぬことを憶えているものさ。私にもある。ずっと昔、一瞬見ただけの、白いパラソルを持った少女のことを私はなぜかいつまでも憶えている。向こうは、私を見てもいなかったのに」
彼は、白いパラソルの少女が、自分にいかに大きな影響を与えたかに気付いていない。
そして、「バラのつぼみ」もまた、実に他愛ないことだった。だが、ケーンの人生を大きく動かしたのはそれだった。

私が、ひきこもりのニートだったのが、セールスマンとして働き始めた時のことだった。
ためになるかもしれないと思って、ビジネス啓蒙書を1冊買って読んだ。その本のタイトルは憶えていないが、こんなことが書いてあった。ある成功した社長の若い頃の目標である。それは、「せめてタバコくらい吸えるようになりたい」だった。この慎ましい目標を持った社長は大金持ちになった。

彼はきっと、タバコさえ吸えれば満足だと思ったに違いない。だから成功したのだ。その欲望の少なさゆえにだ。欲望を捨てることが、自然のエネルギーとつながる道だ。タバコはできるならやめたが良いがね(笑)。

何度か書いたことがあるが、「エル・カザド」というアニメで、マフィアの大物サンチェスは「毎日3食たべられれば天国だ」と言っていた。だから、野良犬同様に拾われた彼がマフィアのNo.2になれたのだ。

戦後の日本では、国家や大企業、そして、その下僕であるマスコミは「大きな望み」を奨励する。
それは資本主義経済社会のためであり、我々の幸福のためではないので、騙されないように。

これで、幸福になる方法が純粋にして明晰になったであろう(シャーロック・ホームズ的表現)。

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2009.02.27

毎日同じものを食べる

少食・粗食にすることができれば、良いことだらけである。
少なくとも、スリムになるし、糖尿病や高コレステロールの危険が下がり、健康が増進される可能性が高い。
食費も少なくなり経済的だ。
また、信じないのも自由だが、運が良くなり、健康・長寿で、経済的にも恵まれるようになり、その気があれば立身出世も望める。
病気の大半は、厳しく食を節すれば治るという話もよく聞くが、私もその通りと思う。

しかし、少食・粗食が良いということはなんとなく分かったとしても、その実践は難しいものらしい。「らしい」とひとごとのように言うのは、私はかなりの大食・美食であったが、簡単に少食・粗食にすることができ、食べたい気持ちは変わらないが、半年を過ぎた今でも、何ら問題なく続いているからだ。体重は30kg落ち、これまで、毎年の健康診断では病人並の診断結果だったのが、完全に健康と診断され、あらゆることで何の不足もない幸福な日常となった。

最近、いろいろな例を見るうちに少食・粗食にするのに良い方法は「毎日同じものを食べる」ということであると思い当たった。
もちろん、食事と別に毎日同じものを余分に食べるのではなく、毎日同じ内容の食事をするという意味である。
その毎日食べる食事は、基本的に、何でも良い。もちろん、チョコレートやケーキといった極端なものでは駄目なことは言うまでもないが、カレーライスやピザだって構わない。ただ、カレーライスでもピザでも良いが、毎日同じ種類のものを食べることが大事だ。
例をあげると、宮崎駿監督は、ご飯を詰め込み、ソーセージ、卵焼き、沢庵程度をごろっと入れた1つのお弁当を昼と夜に分けて食べることを25年続けている。アメリカのオバマ大統領は、夕食は毎日、ライス、サーモン、ブロッコリーで、非常に少食である。
私は、栄養学などは全く信用しておらず、嘘と決め付けている。世界には、ひいたトウモロコシしか食べない民族や、ある種のイモしか食べない民族などがあるが、これらの民族は長寿で健康である。
当然のことながら、宮崎駿監督もオバマ大統領も大変に健康である。

昼食すら、毎日同じものを食べると、下手したら2日目で「昨日も食べたじゃないか」と不満を感じる人も少なくないと思う。
そんな人は、明らかに食べ過ぎている。空腹でもないのに昼食を食べようとするから、そのようなことになるのだ。
ちゃんと空腹であれば、毎日同じものを食べても美味しく食べられるはずである。

そして、毎日決めたもの以外は食べないことだ。大人であれば間食は必要ないし、どうしてもというなら、間食も毎日同じものだけを同じ時刻に摂るようにする。

このようにすれば、余分なものを食べなくなり、自然に少食となる。
毎日、適度な量の同じものを美味しく食べ続けられるかどうかが、本当に少食になっているかの目安にもなると思う。

ちなみに私が1日に食べるものは、夕食にライス(半合)、豆腐、漬物、野菜(レタス、アスパラ、ブロッコリーの内1つ)、インゲン豆である。野菜は多目のこともある。
食後に、ブラックコーヒーと共に、はったい粉(はだか麦)1/3合、アーモンドまたはクルミ、リンゴ1/4を食べる。
コーヒー、紅茶、ココアは、合わせて1日3杯くらい。
他に、玄米粉であるビブレフラワーを溶かしたお茶を2杯飲む。
最近は、ほぼこれで固定している。
それなりに食べているので、180cm、63kgから減らなくなった。
ただ、本当を言うと、はったい粉とアーモンドだけでも良いのであるが、色々あって、これだけ食べている。
運動は、最低、スワイソウ1日900回と他2種類の運動を毎日行う。
また、通勤で駅まで2kmの道を毎日往復で、かなり速く歩く。

少食で大切なのは、食の安定である。
3日断食して、その後は食を節しないなら、全く意味はない。むしろ悪いかもしれない。
普通には、腹8分目を一生続ければ良い。
朝は抜くのが絶対に良い。
運動は、車を使わずによく歩き、普段から掃除などでよく動くなら不要と思う。筋トレみたいなものは、特定部分のみの運動になる傾向が強く、かえって身体を痛めることが多いはずだ。
食が安定しないと、仕事も安定せず、収入も、そして、健康も安定しないものである。

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2009.02.26

自動車産業の衰退は良い点も多い

昨年の、国内の車の保有年数の平均が8年を超えたようだ。
これまでは、2007年の7.1年が最高であった。
また、廃車になるまでの平均使用年数は11.67年である。

これに対し、自動車産業側では、これらのサイクルが短くなるような政策を政府に強く要望するのだろうし、政府もそれを実現しようとするだろう。

馬鹿を言ってはいけない。
ものを大事に使うのが日本の美しい伝統であり、誇りであり、どんな形であれ、それが復活してきたことを喜ぶべきである。
車は、大事に乗れば20年くらいは軽く乗れるはずだし、それくらい乗れるように作り、メンテナンスを出来るような体制を整えるべきである。
たったの12年弱で廃車にするなど、勿体無いにも程がある。

車の性能はもちろん、年々向上しているとは思うが、20年前の車以上に必要なものなど何もない。
そもそも、不必要な車が多過ぎるかもしれない。
年齢を問わず、運転免許を持っていない人もよくいるが、別段、不都合があることは全くないように思える。
私も、車は何台か買い、特に運転し始めの頃は無駄によく乗ったものだ。それはそれで楽しい思い出もあるが、車がなければもっと良いことが出来たかもしれないし、車があったので悪かったことも少なくはなかった。
車は、購入はもちろんだが、維持にかなりのお金がかかる。そのお金を、もっと別の良いことに回せば、非常に有益であろう。
200万円の新車を買うお金で、2000円の立派な本が1000冊も買えるのである。
アメリカなら、車がなければ生活が成り立たないことも多いだろうが、日本ではそのようなことは滅多にない。自分で車を所有するより、頻繁にタクシーを利用した方がはるかに経済的だ。

車に限らない。
現在は使い捨ての悪しき習慣がすっかり定着した感のある日本だが、それは西洋からもたらされた大量生産大量消費を善とする資本主義経済で堕落しきったのである。
日本人は、元来、心を込めて丁寧に作ったものを、長く大切に使うことを美徳としてきた。

日本の伝統では、ものを作る時は、長く使える工夫をし、長く使えば使うほど手に馴染み、色艶にも風格が顕れた。使う方も長く使うほどに愛着が湧き、ますます大切にした。
ドイツの機械では、今でも、長く使って歯車が磨耗してくれば、ますますスムーズに動くという素晴らしいものが作られているらしいが、日本のは全くそんなことはない。日本は既に、工業大国としても地位を大きく下げているのだ。

マタギ(日本の職業狩猟集団)では、名工が作った狩猟刀が孫にまで譲られることもあるらしい。
ところで、私は、自宅では作務衣(さむえ)と呼ばれる、主に作業時に着用された和服を着ているが、数年前に同じものを2着買い、今年やっと2着目を出した。1着目が全く何ともないので出さなかっただけである。自宅では、それしか着ない。
和服というのは、体形が相当変化しても、そのままで問題なく着れるし、仮に切れなくなったとしても修正は容易だ。
別に庶民に限らず、高貴な人でも、着物を譲るということはよく行われたと思う。

もはや、大量生産大量消費は時代遅れである。
そのようなものに支えられた自動車産業を元のようにする必要はない。
もちろん、自動車は良いものであり、なくてはならないものだ。
しかし、そのあり方を変える必要がある。当然、以前のような多くの工場も、多くの従業員も必要ないであろう。
日本は食糧の自給率が危機的に低い。国家は農林水産業を奨励し、また、農林水産業の方でも、新規事業者、労働者が参入しやすいよう門戸を開き、国はこれに協力しなければならない。

性格的に資本主義経済社会特有の職場に合わない人は多いはずだ。
そこは弱肉強食の世界であり、大量に作り、強引に売ることが正義である。慈愛、謙譲、博愛の精神は極めて軽視される。精神的にそれに適応できない人間には居づらい場所である。
しかし、生活のためには、そんな職場で働かないといけないのである。
それは無理なことではない。いかなる社会であろうと、自分の食い分は自分で稼がないといけない。
だが、現在存在する産業以外での労働が可能になれば、より多くの人が生き甲斐を感じられるようになるに違いない。そのためには、今回の世界大不況も決して悪いことばかりではない。私はそう思っている。

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2009.02.25

忙しくてできないことなど、この世にない

「忙しくて出来ません」という言葉は使わない方が良い。

ビジネスの世界では、「仕事は忙しい人に頼め」という格言がある。
忙しい人に頼むのが一番安全なのだ。
「忙しいから出来ない」と言う人にはもちろん頼まない。どれだけ時間があっても出来ない人かもしれないし、仕事を頼んだら、きっと大変な迷惑を蒙るはずだ。

竹村健一さんは、最も多忙な50代の時、「時間はなんぼでもある」と言っていたものだ。
そして、常にスキーやダンス等、新しい趣味を始め、海外旅行に行き、膨大な書籍を読んでいた。
そこらのおばちゃんが「忙しくて本なんて読んでる暇ないわよ」って言うかもしれないけどね(笑)。

「多忙になりましたので、ブログの更新をお休みします」とか「廃止します」などと平気で書いている人もよく見る。まあ、本当なのかもしれないけどね。
では、毎日更新している私は暇人かい?(笑)
芸能人のブログは下らないものが多いので見ないが、学生さんなどにも多い、「忙しくてブログが更新できない」人は、著名な文化人・知識人で頻繁にブログを更新している人より忙しいとでも言うのだろうか?
言うまでも無く、忙しい人ほど中味のあるブログ記事を書く。
なぜなら、忙しいということは、毎日、良い経験をしているということであり、書くネタが沢山あるからだ。
学生さんでも、忙しい学生さんは良いブログを書くのである。

忙しい人ほど時間があるのだ。
ビル・ゲイツは17歳の時からフルタイムで働いてきて、これからもそうするつもりらしい。
彼はきっと、膨大な時間を生きているだろう。
そして、死ぬときは、「ああ、もう十分さ」と言うのだと思う。

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2009.02.24

静けさの力

数日前から老子を読んでいますと、心の中に「静かに」という声が浮かんできました。
道(タオ)の真髄とは、まさに静かであることに他なりません。
謙虚さこそ、人間最上の美徳であることはご存知と思います。
では、謙虚とはどのようなものでしょう?
謙(へりくだ)って、虚なること。それは静かであることです。

明治、大正の偉人、岡田虎二郎が教えた行法は静坐です。
「静かに坐る」という言葉が全てを表しています。
静坐は、日本人の生活習慣に合わせ、正座の坐り方を採用しましたが、本質的には座禅と同じです。
その座禅の禅ですが、「ゆずる」とか「しずか」という意味です。まさに、座禅も静坐なのです。

静かであれば安心ですし、無敵です。
キリスト教では「心を静め、自分が神であると知れ」と言います。
心静かな人こそ、イエスが言った「私より大きな奇跡を起こす人」です。
逆に、「弱い犬ほどよく吼える」と言います。この格言は、もちろん、人について語っているのです。
本当に強い人は静かです。それは子供でも知っています。
私が小学3年生の時、ある漫画で、「本当に凶暴な人間は、普段はむしろ普通の人より静かなのだ」と書かれていたのを見て、それを忘れなかったということは、人は学ばずとも真理を知っているということなのでしょう。ただ、ここでの凶暴とは、凶悪という意味ではなく、例え残念な性質であっても、徹底した強者は普段は荒ぶらないといったような意味でした。ましてや、立派なことで真に優れた人物が静かであることは当然です。

静かであるとは、仏教の真言密教的に言えば、「身口意(しんくい)」において静かであるということです。
人間の場合は身口意の三業と言い、仏の場合は身口意の三密と言うのだと思います。
まずは、行動(身)と言葉(口)を冷静で穏やかにし、意(心)においても静かにしていくよう工夫し努力するのが正しい修行です。
もちろん、心を静かにするのは難しい。これができるなら、その者は神と言ってよく、不可能はありません。
心を動かすものは何かと言いますと、欲望です。貪欲な人間の心が静まることはありません。
不要なものを求めなければ、貪欲は去り、心は静かになります。
そして、そのためには、食を慎む以外に適当な方法はありません。
ラマナ・マハリシは、心を静め、解脱を得るためには、「『私は誰か』と問い続ける以外に適当な方法はない」と言いました。しかし、彼の周りにいる人々はもともと質素で貧しい人ばかりでした。
彼は、食べることに関し、ただ「清らかなものを適量」と言いました。当時のインドの庶民は、それ以下の食事をしているのが普通でした。
しかし、特に我々は違います。
美味しい食べ物を大量に食べながら、さらに美味しいものを求めています。
我々は、食を厳しく節しない限り、心が静かになることはありません。
しかし、逆に言えば、食を慎みさえすれば心が静かになり、道(タオ)に通じることができます。
美食を避け、腹八分目にとどめる食事を1年続ければ、心身に変化が起こり、外界の状況も変わると思います。
そうすれば、マハリシの教える通り、「私は誰か」と問い続けることが容易となり、計り知れない効果をもたらすことでしょう。

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2009.02.23

私にはダイエット運動が恐ろしい

ダイエットのための運動というのはありふれているとは思うが、私には空恐ろしい。
運を悪くしたり、健康にさえ害を及ぼす可能性が高いと思うのだ。
仕事で身体を動かして痩せるならもちろん良い。
しかし、痩せるために、必要もないのに運動してカロリーを消費するということは、食物を無駄にすることであり、それは徳を損じることなのだ。
しかも、その痩せるという目的は、たとえ健康のためであっても我欲に他ならず、ましてや、異性を誘惑して良い思いをするためであれば、目には見えなくても、確実に大切なものを失う。

ついでに言えば、運動で痩せることはない。
もし痩せたいなら、食を節するしかない。また、食べないで痩せるなら、それで何か見返りがあることを目論んでいるとしても、多少のことは赦される。食を慎む徳は大きいからだ。

運動なんかしなくても、なるべく車を使わずに歩いたり、自転車を使えば、自然に肥満は防止できる。もちろん、それでも、食べ過ぎていれば肥満する。
大半の人は、車を処分すれば良いと思うし、車を買う必要もない。車にかかるお金を良い事に回せば、実に豊かになるだろう。
私の場合は、必要があって車を使っているが、滅多には使わないし、古い車を大事に使っている。だから、車にかかる程度のお金は、神様が余裕を持って回してくれる。

昨日、NHKの「週間こどもニュース」の中で、日本のGDP(国内総生産)が下がっていることを取り上げ、自動車などのものが売れないことや、それらの輸出が減っていることの悪い面にばかり注意をひかせ、再び以前のように売れるようにすることが全面的に良いことであるような考え方を出演の子供達にまで同意させる様子がなんとも愚かしかった。
無駄なものを作り、無駄なものを売り、そのために貪欲さを増長させて人間性を崩壊させ、食べ物の半分を捨ててしまう、恐ろしい日本のあり方に、ようやく歯止めがかかる道が見えてきたという考え方も注目しないといけない。不況こそ、神の恵みかもしれないのだ。
そして、不況になっても、何らの災難も不具合も感じない生き方を修得するチャンスかもしれないのである。

尚、私も運動はよくしているが、もちろんダイエットのためではないし、そんな用途には全く役に立たない、汗もかかなければ、息も乱れない運動だ。むしろ呼吸は整う。
私のやっている運動は、実践には細かい注意が必要で、文章で書くと非常に長くなってしまうので書かない。
やっているのは、スワイソウと「手振り」というものだ。1日3回、各10分程度でやれる。休日は5~10回やる。
運動というよりは、立禅(立ってやる禅)のつもりであり、下腹に力を込める練習にやっているというのが本当だ。
そして、これらも、毎日、少食でないと効果はない。
結果として、健康を増進し、病気やアレルギーを治し、精神や呼吸を静めるのを助ける。自分の世界を支配する力も高まり、運も良くなるように思う。

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2009.02.22

安楽な仕事と生活程度ならわけない

私は、大芸術家になる方法や、スポーツの世界チャンピオンになる方法、解脱した聖者になる方法や大富豪になる方法なんか知らない。
そんなものになったこともなければ、なる気もない。
しかし、不安なく、安楽に、そして、少し豊かに生きる方法なら十分に教えられる。

だが、悲惨な状況にある人々を救済するのは政府の仕事である。政府がそれをできない国では、先進国政府がそれを援助する責任がある。
ボランティアはもちろん必要だし素晴らしいが、我々にボランティアをする義務があるのではなく、我々の真の責任は政府をちゃんと働かせることである。
政治家は、我々が税金で雇っている下僕だということを、我々も政治家も忘れてはいけない。政治家を先生と呼ぶのが根本的な間違いなのだ。

さて、不安なく安楽に生きる方法であるが、無論、最低限の条件はある。
空手の世界チャンピオンになりたいなら、いくらなんでも、空手部に入ったり空手道場に入門するところから始める必要がある。
不安なく安楽に生きたいなら、いくらなんでも働く必要がある。
税金を納めてこそ、政治家を下僕と見なせるのである。
仕事がないなら、いくらなんでも、1日に1回は求職のための電話をかけるのが当然だ。

私もニートの時代が短からずあったが、その時、1日中考えていたのは、お金を稼ぐことだった。
それが当然と思う。
親はまだ元気で働いていたが、親が、自分達の楽しみのために使うべきお金や、老後にのんびり過ごすためのお金をこれ以上使うわけにはいかないと思うのも当然だ。

たとえ、明日にも解雇されるかも分からない身であっても、毎日働いているなら大丈夫だ。
職場は、霊的パワーを発揮する実験室だ。うまく力を使えば、ものごとは思うようにいく。
これは、決して勝手なことを言っているのではなく、私ほど厳しく辛い仕事を体験した人は、一般の人ではそうはいないはずだ。
ひきこもりにとっては、我がままで傲慢な女子社員は、職場を追われかねないほど深刻だ(実際、追い出されたことが2~3度ある^^;)。
あえて女性の反感を買うようなことを言うなら、男は小人物であっても道理は解するが、女性はそうではない。もっとも「全くそうだわ」と笑う女性は賢く、幸運が押し寄せるはずだ。それに、男は道理が分かるとは言ったが、女性より馬鹿だと言ってないわけではない(笑)。
強引に売らないと1円ももらえないフルコミッション・セールスやサラ金の回収すらやったこともある(でも危ない人じゃないよ^^;)。
お客様の無理難題できりきり舞いさせられたことなど数え切れない。
顧客の工場で、そこにあった金属片に触りかけたら、「それ200Vや。触ったら死ぬで」と平然と言われ、偶然生き延びた。人間、他人の命には無関心なものと痛感した。

いろいろ書いたが、結局、言いたいことは、こんなに苦労する必要はなかったということだ。
なんでこんなに苦労したかと言うと、結論として、食べ過ぎていたからだ。細かい説明はこれまで何度もしたし、今後もするだろうが、他に原因はないのだ。
どんな霊的書物や、貴重な教えを聞いたとて、飽食・美食であれば、何の力も発揮できない。
逆に、少食・粗食であれば、教えの効力が素早く現れ、宇宙全部が味方になってくれるだろう。

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2009.02.21

古事記に秘められたもの

自己を向上させるための最高の書を読みたいと願った時、特に宗教心のある者でなくても、宗教の聖典に思いが向くのは不思議なことではないと思う。

世界史上最大のベストセラーである聖書や仏典の人気は高いが、バラモン教の聖典ヴェーダや、ヒンズー教の聖典バガバッドギーターも評判が高い。
また、特にビジネスマンの間では、ユダヤ教の聖典タルムードに関心を持つ人も多いと思う。
また、「論語」「老子」「荘子」といった、儒教、道教の聖典とも言われる古代中国思想書も大変に人気がある。

もちろん、アリストテレスやソクラテスといった古代の哲学者や、ニーチェ、シュタイナー、エマーソンといった思想家を第一とする人も少なくはないと思うが、ここでは、宗教聖典を取上げる。
すると、我々日本人は何を読んできたか、あるいは、読むべきであるかである。
聖書もバガバッドギーターも法華経も論語も、ほとんどの人が翻訳で読むことになる。この翻訳というのが厄介なもので、原典の内容が翻訳で完全に伝わることはまずないと言って良い。
これら海外の聖典は長い年月の間に数多くの翻訳が作られたが、現在も作られ、そして、これからも間違いなく作られるのである。このことから言っても、完全な翻訳はあり得ないことが分る。
また、文化の違いもある。もちろん、時代が違うのだから、現地の人たちにとっても、これらの聖典が書かれた頃との文化や習慣の違いは小さくはないが、外国人であれば、さらに比較にならないくらいの違いがあると考えるべきと思う。

しかし、日本に、古代から伝わる宗教的聖典はない。
では、日本固有の宗教である神道はどうか?
ここで神道を宗教と言ったのは、明治政府の定めた国家神道としてではなく、民族宗教としての神道である。
神道には、教団も教義も教祖もない。聖典もないとされる。
それでいて、日本人の生活習慣の中に神道の神事や行事は自然に根付いている。神道は日本人にとって空気のようなもので、もしかしたら、世界に類を見ない純粋な宗教なのかもしれない。
さて、神道に聖典もないとされると、やや曖昧な書き方をしたが、私は「古事記」は、海外の宗教聖典に優るとも劣らない価値があると考えている。
古事記を漫画にした(上巻のみ)石ノ森章太郎さんは、古事記は正に漫画と言っているが、確かに表面的に読むなら、漫画以下と言って差し支えない。
しかし、古事記に、表面的な内容しか無いとしたら、これほど力強く伝わり続け、多くの現代語訳が出版され続け、多くの知恵者が熱心に語るはずがない。
古事記は神話であるが、神話や民話に、深い意味が隠されていることがあるのはよく知られているが、古事記に秘められたものの壮大さは、もしかしたら聖書や仏典をはるかに上回るものであるかもしれないのである。私はそう思っている。
表面的に馬鹿話であるほどに、その内容の隠され方は強く、その必要があるほどに恐るべきものが隠されているのである。そして、古事記に隠されたものは、日本人でないと滅多なことでは読み解けないのである。

古事記を読み解きたい場合、まずは神道の祝詞である大祓詞(おおはらえのことば)を毎日唱えて感覚を研ぎ澄ます必要がある。そして、現代的な飽食をやめ、出来るだけ少食とし、古来から日本人が食べてきたような食事に近付ける。それは菜食中心であるが、魚は日本人も多く食べてきたので良いと思う。大祓詞は、漢字の文から意味を考えてはならない。ただ、大和言葉である音のみを無心に毎日唱えるのである。その上で古事記に挑めば、我々の中に隠れた霊性が自ずと発現し、その意味が明らかにされる。
その上、我欲を捨て、足るを知る生活をすれば、我々に不可能はなくなる。
今後の日本人は、こうして(あくまで内面的に)神的人類となるか、貪りと我欲で滅びる人間になるかにはっきり別れるかもしれない。
尚、神道の思想は、中国の道(タオ)と通じる点も多い。よって、良い訳であれば読むことが有益であると思う。

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2009.02.20

エスとタオ

エスという言葉をご存知だろうか?
フロイト精神分析学の用語として有名で、ラテン語のイドであるが、英語で言えば単なるイット(it)だ。
Wikipediaには「無意識層の中心の機能」とか書いてあるが、いい加減なものだ(笑)。
早い話がエスなんてものを説明しようがないのだ。
フロイトが精神分析学の用語にしたのが、そもそもの間違いだった。もともとはニーチェが言い出し、ドイツ人医師のグロデックが使った言葉であるが、あまりに不可思議なものであり、科学や医学の範疇に収まるようなものではない。
もちろん、限定的にはフロイトはエスを興味深く説明したと思う。彼は天才だからね。
しかし、その神秘さ加減は、中国の道(タオ)といい勝負かもしれない(共に勝つ気はないと思うが・・・)。

グロデックによれば、エスによらずに起こることはない。
あらゆる病気を作るのも、それを治すのもエスの働きだ。
アレルギーや抜け毛もエスのせいである。
女の子が、好きな男性の前では手が冷たくなるのもエスの一般的な作用である。「温めて欲しい」という彼女の意思を表現しているのだ。
性欲が高まった女性がフェロモンを発するにもエスがやることに違いない。
目ざとく何かを見つけたり、逆に、見えるはずのものを見逃してしまうのもエスによるのである。

かなり前のことだ。
雨の振る駅でのことである。
電車がプラットフォームに入って停止し、ドアが開いた。乗客が降り始めると同時に乗り込んで行った男がいた。彼はいつもそうである。その彼が、電車に入るなり、いきなりスッテーンと転んだ。
これもエスの起したことなのである。

美少女だが、運動の苦手な撫子さんが、木に登っていった。巣から落ちたヒナを返すためだ。
彼女は心優しい乙女である。
無事、ヒナを巣に戻したが、直後、転落してしまう。
だが、その下を歩いていた木之本藤隆さんと激突し、彼がクッションとなってケガをしなかった。
下敷きになった藤隆さんは、「天使が落ちてきたのかと思いましたよ」と何らの意図もなく微笑みながら言い、清純可憐そのものの16歳の撫子さんと、彼女の高校に赴任してきたばかりの高校教師である25歳の藤隆さんはすぐに同棲を始め、毎日、手を繋いで登校するようになった。
撫子さんを藤隆さんの上に落としたのもエスの計らいである。この程度、エスには何でもないことだ。
だが、娘のさくらが3歳の時に撫子さんが死んだのもまた、エスのしたことである。
~ストーリーは「カードキャプターさくら」(CLAMP著)から~

グロデックとて、エスの正体を掴んでいたわけではないし、掴めるはずもない。
エスは生命の源であり、霊のようなものかもしれない。
道(タオ)もまた、名付けることができないものなので、老子は玄と呼んだり、大と呼んだりしたのだ。
エスが一人一人の個人に宿るものであるのかどうかも分らない。
「禁断の惑星」という映画では、地球人類にも、アルテア第4惑星の住民にも共通にある、潜在意識の中の何かをイドと言ったが、先にも述べた通り、イドはラテン語でエスのことである。このイドは、アルテア第4惑星の高度な文明人を滅ぼし、この星に来た地球人を殺し、破壊を行った。しかし、イドは悪ではない。潜在意識に従っただけである。

エスを味方につければ無敵かもしれないが、そんな無謀なことは考えない方が良い。
エスに頼みごとをする方法なんて分るはずもない。
グロデックは、エスの性質を少しは理解し、他の医者が見離した患者専門に治療を行い、奇跡的な成果を上げたこともあるが、あっさり死なせたこともあった。
これは、グロデックの失敗というより、患者の方の問題であったのであろう。グロデックには不可抗力というものだ。

エスを従わせることはできない。
道(タオ)を従わせることができないのと同じだ。
だが、道(タオ)に従う者にはエスは奉仕するのだ。
道(タオ)に従う術を知りたいなら、老子を読むことだ。
しかし、老子の訳って、訳者によりてんでバラバラだ。
私が一番良い訳だと思ったのは、なんと、ディヴィッド・ローゼンの「ユングの生涯とタオ」(創元社)で引用されたいくつかの老子(と荘子)であった。なんてこったい(笑)。
英文学者で、詩人、画家の加島祥造さんも、老子が分らなかったらしいが、英訳の老子を読んで理解でき、以来、タオイストになったらしい。では、彼が英訳を参考にした「タオ-老子」(ちくま文庫)を読めば良いだろう。読んでみたが、やはり良い。
老子自体、詩と言って良く、詩人の訳した老子はやはり良いと思う。
尚、私の愛読の老子は、日本語、中国語共に自在な王明さんの「老子(全)」(地湧社)だ。地湧社は、柳田誠二郎さんによる、岡田式静坐の本を3冊出している素晴らしい出版社だが、この老子は良い。無駄な解説なんか一切ない。やや意訳もあるが、シンプルで自然だ。
王明さんも詩人である。

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2009.02.19

高いところで吹く風のように

心には2つある。
1つは、活発な心で、我々もよく知るものだ。一般には、心とは、この活発な心のことである。
もう1つの心は、静かな心と言うべきものである。
この静かな心は、ほとんど意識されず、これがあると知る者も少ない。
活発な心はあまり相手にしてはならない。我々は、静かな心にこそ耳を澄まし、注意しなければならないのだ。
では、静かな心を感じるにはどうすれば良いであろうか?
それには、活発な心を鎮めることだ。
しかし、活発な心は、欲望や不安に翻弄され、静まることはない。
全てを夢とみなし、動じないことだ。すると、静かな心が立ち現われてくるだろう。
江戸川乱歩は、「夜見る夢こそ本当。現実が夢」と言った。言い換えれば、我々が現実と認識している世界は幻であり、実体はないということである。
ラマナ・マハリシはこう言っている。「目覚めは長く、夢見は短い。その他に両者に違いは無い」と。

全てを夢とみなし、静かな心に従えば、不安は消え、災難に遭うことは決してなく、安心して生きていられる。
ただ、それでも活発な心が騒ぐことがある。欲深過ぎればそうなる。残念ながら、現代の日本人の大半はそうである。食べ過ぎることで、過剰な栄養が異常性欲を引き起こし、さらに食欲を増大させて、その反動で餓えを恐れ、必要もないものまで持ちたがる。そして、自我は愚かなまでに自尊心を求める。そうなれば、活発な心は狂気のように騒ぐのである。
活発な心を静めるには、ただ食を慎むしかないのである。
そうすれば、静かな心に導かれ、高いところで吹く風のように自由な超越した者になるだろう。

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2009.02.18

望みを叶える心構え

実話かどうかは疑わしいが、ある男が、「自分の手に鳥が巣を作るまでは、手を上げたまま降ろさない」と誓い、何年かかったか何十年かかったかは忘れたが、遂には鳥が巣を作ったらしい。
インドには、極端な苦行を行う者がいるらしく、例えば、何十年も喋らなかったり、生涯、横になって眠らないといったことを誓い、それで悟りを得ようとするようだ。
これらほどの難行でない、もっと簡単なものであれば、「願掛け」として知られているし、やってみたことがある、あるいは、やっているという人もいるかもしれない。
「大好きなチョコレートを食べない」とか、「髪を切らない」といったことで、それとひきかえに願いが叶うことを祈るのである。
成就には何らかの犠牲が必要というのは全く正しいと私も思う。
徳川家光の乳母であった春日局は、3歳の家光が大病した際、自分が生涯薬を飲まないことと引き換えに、家光の回復を神に祈ったという話がある。

しかし、私は、神頼みというのはあまり好きではない。
それは、神を信じないということではない。
イエスも言ったように、神は我々に必要なものなど、我々よりもご存知であり、心配しなくてもそれは必ず与えられるからである。
何度か書いたが、春日大社の宮司であった葉室頼昭さんは、取り越し苦労や持ち越し苦労(先のことを不安に思ったり、過去のことを悔やむこと)は、神様を侮辱することであると言っておられた。
また、神様に願い事をし、それを叶えてもらえたら感謝するというのは根本的な大間違いで、今の恵みを感謝してこそ運も開かれるのである。

とはいえ、最初に述べた、非常な難題に挑む人たちのことも興味のあるところである。
何か強い願いがあり、そのために、常人には到底不可能な対価を払って、それを叶えようとするようなもので、神様がそれに応じるかどうかは分らないが、命懸けの態度や献身振りは見るべきところがあるかもしれない。
その願いが高貴なものであった場合、誓いをどのくらい守れるかを見ることで、それを得るに相応しい者かどうかを神が試す場合もあるのかもしれない。ただし、人が神を試してはならない。だから、如何に大きな対価を払うことを決意したとしても、その願いが叶うかどうかは、自分は関知しないという態度が必要と思う。
春日局は、生涯の薬絶ちをもって家光の回復を祈ったが、それが叶えられるかどうかは神様次第であったと思う。

「ツバサ・クロニクル」という、CLAMPさんの漫画・アニメで、小狼(シャオラン)という少年は、愛するサクラ姫の命を救うため、時の魔女に助けを求めた。時の魔女が、「それには対価が必要。あなたにはそれを払う気があるかしら?」と言うと、小狼は即座に「はい」と返事をし、時の魔女を驚かせた。対価が何であるかを時の魔女はまだ言っていないからだ。つまり、小狼は、たとえどんなものでも、時の魔女が要求するものを渡すつもりなのだった。時の魔女は「あなたには、成功する心構えがある」と褒めた。

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2009.02.17

食の慎みで豊かになれる理由

現在の食事に完全に満足していれば、未来においても、同じ食事は確実に与えられる。
私などは、1日1食の菜食で間食もしないので常に空腹で胃腸の調子も良いことから、ご飯と豆腐と漬物の夕食が食べられれば天国だと感じており、これにジャガイモのコロッケでも加わるなら、涙を流すくらいであるので、将来の食も保証されているのである。
逆に、大多数の人がそうかもしれないが、現在の食に不満であれば、将来は同じ程度の食事も得られないだろう。
実際は、現在の食事に満足であれば、将来はもっと良い食事を得られるものであるが、敢えてそれを辞退するなら、素晴らしい幸運が得られるであろう。
食に限らず、衣食住の残りの2つである着るものと住むところに関しても同じである。
私は、私服はもう何年も買っていないが不満はないし、住んでいるところは、亡くなった父親が建ててくれた家であるが、非常に満足で感謝している。車も古いマーク2に乗っているが、何の不足もない。
人間というのは、富があると言っても、それを使うのは基本的には衣食住である。
これらに関しては、上に述べたごとく、足るを知ることで充実する。
そして、家族、仕事、近所や職場の人間関係なども、やはり同じであるのだ。

イエスも言ったとおり、「持つ者には与えられ、持たぬ者からは取上げられる」のである。
この持つとは、感謝の心である。

昔、竹村健一さんは、車は10年落ちのローレル(2002年に生産終了した、トヨタのマーク2と同等クラスの日産車)に乗り、コートは普通の百貨店で買ったものを着ていたが、それで十分だと言っていた。当時、竹村さんはお金持ちだった。当然、竹村さんは、一層のお金持ちになった。

「オヤジ(親代わりのマフィアのボス)に可愛がられたことはなかったが、側にいることは許された。それで十分だ。1日3回食べられれば天国だ」
~アニメ「エル・カザド」より。サンチェス(マフィアのNo.2)のセリフ~

古来から、賢者達は、未来を幸福にする方法そのものに頭を悩ますことはなかった。
ただ、どうすれば現在を幸福に感じることができるかに知恵を絞ったのだ。
なぜなら、今を幸福に過ごせば、未来は幸福に決まっているからだ。
その答は、江戸時代の観相家、水野南北に、食の神である豊宇気毘売神 ( トヨウケヒメノカミ )により与えられた。
ただ食を慎めば良いのである。
現在の食にそのままで満足できればそれで良いのだが、この飽食の時代にはそれは難しい。
やはり、食をある程度節し、空腹になることで、食の有難さを実感するのが簡単な方法だ。

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2009.02.16

いじめはなくならない

いじめの問題について、ほとんどの人が思い違いをするに違いない重要な問題について述べる。
それは、いじめは絶対になくならないということを大前提にしなければならないということである。
いじめをなくすということは、この世の悪をなくすというに等しい。

1963年のアニメ「8マン」で、原作者のSF作家である平井和正氏自らが脚本を書いた「ゼロへの挑戦」という話は、8マンが大勢の人間を救うために、成功率0.1パーセントという難しい試みに挑戦するというものであった。成功する確率はほぼゼロで、しかも失敗すれば自らも死ぬが、8マンは躊躇なく実行を決意する。
奇跡的な成功を果たした8マンは言う。「この世の悪を滅ぼす可能性もゼロに近いだろうが、私は挑戦する」と。

どうやら、このスーパロボットの電子頭脳も、大変な成功で熱くなり過ぎたようである。
この世の悪を滅ぼすことはできない。もしそれが為されるとすれば、それは即ち、人類の絶滅を意味する。

前置きが長くなったが、元に戻ると、いじめというものは、今後も数多く存在し続けることであろう。
それをなくそうと試みたところで、結果は、「いじめがなくなったという虚偽や欺瞞がはびこるだけ」であり、いじめられる側にといっては、状況は一層悪いものになるのである。

悪いものというのは、表に現われているより、隠れて潜む方がはるかに歪んでいて、陰湿で残酷なものであることはご存知かもしれない。
昨今、児童ポルノをなくそうなどと主張する馬鹿な連中が多いが、そんなものがなくなる訳がない。それを表面上、見えないものにしてしまえば、どれほど深刻な事態になるか分ったものではない。

では、いじめの問題はどうすれば良いか?
もちろん、いじめはあって当然であるが、それを前提の上で、いじめられる者が被害から逃れられるようにすれば良いのである。
ところが、現在の学校は、いじめの被害者は、一方的にいじめられて逃れる術がなく、唯一の逃亡は死であるという状況なのだ。
学校では単独で行動することが許可されない。みんなで一緒に同じことをしないといけないのだ。なら、いじめられる側は、いじめる側に「いじめて下さい」と無防備に晒され続けるしかないのだ。
猛獣の折の中に猫を放り込むようなものであり、変質者の男に可愛い少女の養育を任せるようなものである。
猫は猛獣の折から出ても良いし、少女は変質者の養育を拒否して良いのである。
だが、現在の学校では、猛獣は大人しい猫であり、変質者は存在しないという妄言を押し付けるのみであう。

いじめを行う教師や生徒が存在する教室では、誰の許可を得ることもなく、そこを出て行って良いのである。
(教師がいじめの主体であることは学校は絶対に認めないが、それが多いことは明白である)
学校にいれば危険であると自分で判断すれば、もう登校する必要はないのである。判断すべきは、子供本人であり、教師や親ではないのだ。
教師も親も、それを当然と受け止め、他の生徒にも、去っていった子にネガティブな感情を持たせないよう指導する必要があるというだけなのだ。
その生徒が教室から出て行けば、あるいは、学校に来なくなれば、そこに何かがあるということが分かる。もちろん、いじめとは別の理由で、そして、出て行った子の方に問題がある場合もあるだろう。しかし、深刻ないじめを放置したり、その子が死を選ぶよりはずっと良い。
その上で、いじめられる子がちゃんと学習できるような方策をとれば良いのであるが、難しいことであるはずがない。ただし、現在の学校のやり方をすっかり変える必要はある。
しかし、さしあたっては、いじめは未来永劫存在することを前提に、被害者が一方的に被害を受ける状況を改善することから始めねばならない。まずは、いじめられる子が、生命はもちろん、致命的なダメージを受けることだけは避けねばならないのは当然という、あまりに当たり前のことを認識することから始めれば良いのである。

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2009.02.15

私が憧れた食事

身長180cmの非常に健康で、逞しい骨格を持つが、1日1回しか食事をせず、しかも、肉を食べず、お菓子も食べない私が、ものすごく憧れた食事がある、

私のホームページのBBSで、market_3eさんが教えてくれた情報にある、宮崎駿さんの食事である。
宮崎駿さんは、25年間、同じ昼食と夕食を食べているらしいのだ。
弁当箱にご飯をぎゅうぎゅう詰めにし、そこに、卵焼き、沢庵、ソーセージがコロっと入っていたり、ハムや揚げ物が入る程度らしい。
それを半分に分け、昼と夜に食べるのだ。1回の食事は5分程度である。
これは糸井重里さんと鈴木敏夫さんの対談で話されていることなのだが、鈴木さんは、宮崎駿さんの食事を美味くないものと決め付けている。
しかし、私には、あまりにも素晴らしい美味しそうなお弁当で、天国の食事としか思えない。
宮崎駿さんだって、十分に満足しているのではないかと私は思う。

私は、ソーセージやハム、あるいは、揚げ物でも肉類は食べないので、もし、同じようにするなら、沢庵、ブロッコリー、昆布、ジャガイモといった感じになるだろうか?卵もたまになら良い。
やはり美味しそうである。しかし、これですら、私には贅沢に思える。

私は夜しか食べないので、お弁当にする必要もないのであるが、お弁当というのは何やら楽しい感じがする。それに、私は、ご飯にしても、温かいご飯より冷たいご飯が好きなのだ。
私はひきこもりなので、人と一緒に仕事をするのは向いておらず、お弁当を持って出かけることに縁がなさそうであるが、作ってみたいものである。
こんな食事をするようになるのが、私の夢と言えるかもしれない。

毎日、同じものを食べることは良いことと思えてならない。
オバマ大統領も、夕食は毎日、ライス、サーモン、ブロッコリーであるとニューズウィーク日本版に書かれていたし、特撮の神様、円谷英二さんも、毎日カレーライスでも良いと言っていたらしい。
少食であれば、毎日同じものを食べていても、十二分に満足なのだ。そして、江戸時代の偉大な観相家、水野南北が断言した通り、運命は食の慎みで全て決まると私も思う。ならば、偉大な人物には、毎日同じものを食べていた人は実は多いと思う。
そして、私は栄養学など全く信用していない。ほとんどの動物は非常に少ない種類のものしか食べないし、人間でも、ひいたトウモロコシしか食べないとか、ある種の芋しか食べないが、健康で長寿の民族もいる。
むしろ、宮崎駿さんやオバマ大統領の食事の彩りは豊かとさえ思う。
動物の身体は、必要なものは作りだせるし、最も高度で繊細に進歩した身体を持つ人間であれば、いっそうそうであると思う。

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2009.02.14

神秘主義者の成功とは

神秘主義者の成功とは何でしょう?
いかなることであっても、成功とはつまるところ自己満足かもしれません。
例えば、ミュージシャンの成功といった場合、曲がヒットし、大きな収入を得ることが一般的ですが、本人が満足していなければ成功とは言えません。逆に、本人が満足でさえあれば、いかなる状況であれ成功なわけです。
しかし、ある程度の物質面の成功、言い換えれば、お金を得なければ満足を得ることは難しいでしょう。
何らかの分野で成功したということは、自己満足と共に、ほとんどの場合は、ある程度の富が必要です。

神秘主義と世俗的成功とは、相容れないもののように思われます。
しかし、案外にそうでないと思うこともあります。
岡田虎二郎の岡田式静坐法を神秘主義と言ったら怒られそうですが、宗教的な面があることを岡田虎二郎も否定してはいなかったと思います。
岡田式静坐法は、道元の座禅や、法然、親鸞の念仏と根本では同じものと言っても良いと思います。
学生時代に岡田虎二郎の静坐を学び、以後70年以上に渡って実践し、80歳を過ぎてから95歳までに、岡田式静坐法に関わる書を3冊書いた柳田誠二郎さんは、「お金持ちになりたい人にも静坐は薦められる。これをやることで、正しくお金は入ってくる」と書いています。
柳田さんは、高校時代、心身共に危機的状況にあったのが岡田式静坐法で見事に甦り、社会に出てからは、日銀副総裁、日本航空社長を歴任しており、その言葉には説得力があります。また、岡田虎二郎自身、静坐を学びに来た人に、人生におけるお金の必要を訴えられた時、「金?腹に力がつけば、お金はいくらでも出来ますよ」と言ったということです。

ただし、お金を目的とした神秘主義が成功することはないと私は思います。
無欲であることが神秘主義者の成功の条件と思います。そして、無欲であれば、必要なお金は必ず出来るはずです。
神秘主義の正確な意味での成功は、生命の根源とでも言えるエネルギーに繋がるということだと思います。これに関して、戦後、来日して、座禅や岡田式静坐法を学んで本国に持ち帰って成果を上げたドイツ人哲学者、心理学者、心理療法家のデュルクハイムが、「肚―人間の重心」という世界的名著を書いていますが、彼も、その究極のエネルギーに繋がることで、結果として世俗的な成功も得られると書いています。世俗的成功は、目的ではなくオマケのようなものかもしれません。

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2009.02.13

スポーツトレーニングは心身を害する

よく、「ジョギングが続かない」とか、「腹筋運動が続かない」という話をよく聞かないだろうか?
そもそも、何か発想が間違っていると気付かないのだろうか?
なぜ、そんなことをやる必要があるのだろう?
スポーツ選手でも目指しているなら、そういった、身体に悪く、楽しくも無いこともやる必要があるのかもしれない。

スポーツが身体に良いなどと誤解していないだろうか?
あるいは、スポーツトレーニングに意味もない自己満足を感じていないだろうか?
そのような妄想をなぜ多くの人が持つようになったかというと、スポーツのイメージを高めることで利益を得る者達に騙されただけなのである。
スポーツが美化され、スポーツ選手が英雄視され、アイドル化されるのは、スポーツで巨大な利益を得る勢力の強力なイメージ戦略(洗脳)の成果なのだ。
時には、自分がやっていたスポーツは身体に悪く、人々が思っているような美しいものでないことを暴露する元スター選手も出てくるが、ほとんどの場合は、彼ら自身が別の身体に悪いスポーツで自分が儲けようとしているに過ぎないし、いずれにせよ、巨大な勢力に潰されるだけである。

スポーツを、その実際の価値で皆が見るようになったら、スポーツビジネスに今のような巨万の金が動くこともあるまい。
一流スポーツ選手の身体は、皆ボロボロと言って間違いない。
元一流スポーツ選手の多くは、生涯、現役時代の後遺症に苦しめられているのだ。
いや、身体だけではなく、心も破綻している場合も少なくはないだろう。

私が、朝早くの通勤で駅に向かって歩いていると、父親と思われる男性が、小学生の娘2人を先導してジョギングをしているのにすれ違った。
私と目があった女の子の表情は私に複雑なものを感じさせた。彼女の表情は、自分は立派な良いことをしているのだと必死でアピールしたい部分と、本当はそんなことはやりたくないという部分が混ざり合っているようである。はっきり言って、全然良くも立派でもない。やりたくなくて当然だ。
私の知っているスポーツトレーニングマニアの男性は、自分の子供を小さい時から、ジョギング、野球、その他のトレーニングで鍛えた。お正月に家族で私の家に遊びに来る時すら、車に野球のグローブとボールを用意し、のんびりテレビを見たり、楽しくおしゃべりしているのに、不意に寒風の吹く外に連れ出して一緒に運動していた。その子供は今、精神病院に入院中だ(実話である)。

健康で自然美に満ちた身体を持ちたいなら、スポーツトレーニングをしてはならない。
通常は、あまり車を使わず、適度な速さでよく歩き、立っている時や座っている時に正しい姿勢をしていれば十分である。
しかし、多くの人たちの異常なまでの歩行速度の遅さ、異様に乱れた姿勢に驚くことがよくある。それは10代や20代の若い人に大変に多いように思う。
ほんの数十メートル先にゴミを出すのに車を使う中年の人もよく見る。
そして、何より、食べ過ぎている。しかも、美味には感じるが身体に悪い食べ物が多い。
その上に、身体を壊すスポーツをしていたら無事に済むはずもない。
また、学校で習う「姿勢を正して」の姿勢は大変に不合理で身体に悪いことも付け加えておく。

健康の基本は、まず食の慎みである。
「腹8分目に医者要らず」という言葉は大抵誰でも知っているのに、それを行う者は少ない。それは、本人の意思が弱いというよりは、人々を飽食にすることで利益を得る者達に食べさせられているのである。
大食、美食を続けると、身体だけではなく、心も病んでくる。
それを修正するのも、ただ食を慎めば良いのであるが、心を鎮めたり、身体を調整する良い運動もある。ただ、それらを用いても、大食・飽食していては効果は無い。

心を鎮めるには、座禅や静坐といった、正しい姿勢、呼吸、緊張と弛緩の行法を用いるのも効果的である。
日本には、岡田式静坐という優れたものがあり、現在でも実施している人々がいるとは思うが、一般には知られていない。
ドイツ人哲学者、心理学者、心理療法家のデュルクハイムが、座禅や岡田式静坐法を持ち帰って成果を上げ、「肚―人間の重心」という世界的名著を書いたのに、それが日本で顧みられないとは嘆かわしいことである。

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2009.02.12

私は幽霊以下である

二宮尊徳の語録である「二宮翁-夜話」を読んで、はっきり感じた。人はまず、しっかりとした自己(自我)を確立した後、これをできるだけ破壊して神に近付くものだなあと。
しかし、この私は、自我というものを構築したことがないのである。
当然、学校時代は1人の友人もいなかったし、社会で働けるはずもなかったのだが、社会人としては、最も自我の必要な営業職からスタートした。営業職を勤めるために強い自我が必要というのは分かり難いだろうが、営業なんて決して紳士的な場面ばかりでなく、ある程度破廉恥なところのある仕事であり、強い個性が必要で、客と戦う気構えがないととても勤まらない。
だが、私は営業で好成績を上げた。
私は、作りものの自我を作ったのだ。これは、言って見ればアンドロイドを製作したようなものだ。
私に限らず、ひきこもりって、自我を構築することに失敗した人だと思うのだ。

心理学者の岸田秀さんの本を読むと、偽者の自我を作った著名人には、三島由紀夫や芥川龍之介がいた。彼らは天才なので大成功したが、当然の結果として自殺した。
エネルギーが切れたのだ。三島由紀夫は「葉隠入門」で、「芸術家には心を鼓舞するものが必要だ。私には葉隠がそれだ」といったことを書いているが、これを見て、岸田さんの言うことが納得できた。芸術家は生命の源からエネルギーを汲み出すべきなのに、そこへの直接の通路が閉ざされているのであるから無理があったのだ。
私も、セールスコンテストで優勝した後で嫌になって営業をやめた。しかし、天才でない分、エネルギーの消費が少ないので、自殺には至らなかった。しかし今は、ゆるゆると餓死したいと思うことがある。

私は、人工の存在や、本当は死んでいる者といった設定のお話に異様なほど惹かれる。「どろろ」の百鬼丸や、「灼眼のシャナ」の坂井悠二や、「涼宮ハルヒの憂鬱」の長門有希などである。彼らだけが私の友人である。

確固とした自我を築けた人なら、後はそれを壊すがいい。それで悟りへと進めるだろう。
ただ、今は、自我を異常に増大させる者が多くなってきているが、それもある意味、私のような者と似ているのだ。
その違いは、子供っぽいなら自我が弱すぎ、老人臭ければ自我が強すぎるのだ。
いずれの場合も、自分の自我への領域に対する侵入に対し、異常に攻撃的になるが、自我の弱すぎる人間は、時に英雄的行為をするものだ。例えば、放射能漏れが発生し、放射能防御服が1着だけ足りない時、自分は敢えてそれを取ることを放棄して自己満足するなどである。それで弱い自我を守れるのである。
電車の中で、自分が座れないと被害者意識を持つのは自我の強い人間で、疲れているほど敢えて座らない自分に満足するのが自我の弱すぎる人間だ。

自我の強すぎる人間、弱すぎる人間・・・どちらも問題だ。
私の場合、伝記で読んだ偉人や、小説や漫画の登場人物の個性を借りた。つまり、「なりきった」。
嘘っぽさや、まがい物感は仕方がない。時には、イエス・キリストにすらなってみた。
まあ、出来損ないのアンドロイドである。個性を借りる相手をよく変えるので、私の個性もコロコロ変わる。少し前の自分は、もはや自分と感じない。
趣味だって極端に変わることもある。ある意味、面白い(笑)。
立派な精神病だな(笑)。
幽霊というのは、まだ自我がしっかりしているのだ。ということは、私は幽霊以下である。
だが、有能なビジネスマンの個性を作れば、お金持ちにもなれるであろう。そんなひきこもりもいるのだ。

ところで、本当を言うと、三島由紀夫や芥川龍之介に限らず、作家というのは大抵が作りものの自我の持ち主だ。
江戸川乱歩なんてその典型と思う、名前からして、エドガー・アラン・ポーの借り物だ。
彼が、「怪人二十面相」なんて、仮の姿を次々演じるダーク・ヒーローを考えたのも必然だった。
彼はいつも言っていた。「うつし世は夢。夜の夢こそまこと(現実世界は夢。夜の夢が本物)」ってね。
私も同感だ。
ならば、親愛なるひきこもり諸君。全て夢とみなして動じないことだ。

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2009.02.11

私はなぜ少食を続けられるのか

私は、昨年8月7日から、1日1食の菜食主義で、間食もしない生活を始め、半年が経過した。
体重が30kg程減り、外見に相当な変化があることから、いろいろ聞かれることも多いので、このことを話すと、ほとんどの場合、返って来る反応が「大変な意思の強さですね」「私には真似できません」である。
ところで、世の中には、生まれつき少食という人間もいて、そんな人には、私の少食生活もさしたるものには感じないに違いない。
だが、私は生まれ付いての少食ではなく、それどころか相当な大食で、しかも肉食好みであったし、甘いお菓子も大好きであった。それをすっぱりと、肉も魚もやめ、1日1食で、唯一の食事である夕食のメニューはご飯半合と豆腐と漬物。おやつは一切食べず、それがいつまでも続くのであるから、相当な根性があるのだと思うかもしれない。

もし、私がダイエット目的や健康目的であったのなら、まず続かなかったと思う。
また、少食のきっかけであった、江戸時代の観相家、水野南北が言う、「食を慎めば、運勢が良くなる」ことを目当てにしていたのなら、やはり続かないものではないかと思う。
結果として、体重は減り、健康になり、運も良くなったと思うし、それらの目的が全くなかった訳でもないと思うが、一番の目的は単に「食べない」ことそのものであったと思う。食べないことを目的に食べなかったのである。つまり、その他に別段、何か求めていたわけではないのだ。
だから、全く脱線することもなく続き、今も無理なく続いているのであり、意図的に軌道変更しなければ一生続くのである。

何かをやる時に、目的をあまり持たない方が良いということはあると思う。
例えば、コーヒーショップを始めるとしたら、それで儲けようとか考えるのではなく、ただ、お客さんに美味しいコーヒーを飲んでもらいたいと思ってやった方がうまくいくと思う。もちろん、常識的な経済観念が必要なのは言うまでも無い。
あるいは、目的はあっても良いのであるが、普段は目的を忘れて、目の前のことを淡々とやるのである。

だから、私の少食を、ダイエット目的や、運の向上目的で真似されると心配があるのである。
もし、それらが目的であれば、私のように極端にやるべきでない。続かないし、続けば続いたで、問題が出るかもしれない。
私は、決して他人には1日1食や、極端な少食を薦めることはない。
運勢を良くするには、確かに少食が重要である。
しかし、水野南北にしたって、せいぜいが腹8分目を薦め、美食を戒めたのであり、極端な節食を指導したわけではない。
また、水野南北は、肉食もそう厳しくは禁じていないのである。

さて、私も最近は、やや食を増やしている。
1日1食は変わらないし、肉は食べないが、魚介類や卵は時々は食べている。お菓子は食べないが、はったい粉やナッツ類は少し食べる。
よく、「食の楽しみのない人生に意味は無い」という人もいるが、私こそ、最大に食を楽しんでいる。十分に空腹であれば、唯一の食事である夕食の楽しみなことは極めて大きいし、質素な食事が天国の食事と感じるのである。たとえ同じメニューが何日続いても常に美味しく、何の不満もない。私ほど食を楽しんでいる者は、そうはいないのではと思う。
それでいて、食べ過ぎることも絶対にない。食欲をコントロールできることに満足しているし、自分に自信も出来てくる。
あくまでおまけとしても、身体はスリムになり、特にウエストが非常に細くて美しい。身体が軽く、動作が速くなり、体調も良く、仕事をいくらしても疲れない。そして、良いことしか起こらない。いや、起こる全てのことを良いことと思っているのだろうが、そのような精神的傾向を持つことができるのである。

その他に、2つ、少食を続けられる理由を述べる。
1つは、テレビなどでの牛肉や鶏肉食品等の宣伝である。そこでは、牛や鳥の可愛らしいイラストが出ることが多く、さらにはそれをアニメーションにし、動きを入れたり、可愛らしく笑わせたりすらする。しかし・・・その可愛い牛や鳥を殺して食べるのだ。そんな動物達の屠殺(とさつ)現場の凄惨さは恐ろしいもので、有名な歌手のポール・マッカートニーは、それを見てベジタリアンになったという。
しかし、屠殺(とさつ)に関しては批判すまい。食べる人の代わりに仕事でそれをする人にはある種の敬意すら感じる。しかし、牛や鳥のイラストやアニメはあまりに酷い。人間としての知的認識力や想像力を否定していると言って間違いない。そのような企業が提供する食品を食べる気には到底ならないのだ。

そして、もう1つ。
人間が食べている姿は醜いのである。
特に、とりたてて空腹でもない時や、美食を食べている時にはいっそう醜くおぞましい。あるいは、大切なものである食べ物を大事に食べていない時の様子も見ていられない。子供の場合ですらそうである。
テレビ番組で、タレントがグルメ食を食べる様子を見せるものをよく放送しているが、その醜さ、下衆と言いたくなるほどの下品さには目をそむけたくなる程である。
そういえば、俳優の田村正和さんは、演技以外には食事をする姿は決して誰にも見せないらしい。田村さんは、人が食べる様子が実はひどく醜いことをよくご存知なのではないだろうか?実際、田村正和さんに高貴で優雅な印象しかないのはそのせいかもしれない。
また、田村さん自体が非常な少食であるらしく、そのために、年齢からは信じられないほどの美貌やダンディな雰囲気を保っておられるように思うし、大変に健康で、田村さんが病気をしたという話もない。少食であるなら当然と思う。
少食の美男タレントとしては、京本政樹さんやGacktさん(共にミュージシャンで俳優)がいるが、彼らは1日1食ながら、その1食が豪華・大食で、多くは肉食であるようだ。それでもさすがに2人とも美貌やスタイルを保ち、特に京本さんはもうすぐ50歳としては驚異的と思う。しかし、田村さんの年まで持つとは思えない。だが、菜食・粗食になれば、やはり末永く活躍するのではと思う。何と言っても元が良いのであるから。

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2009.02.10

チャンスとチョイス

自己実現に関する、全く異なる2つの方法を取る人がおり、面白いと思いましたのでここに書きます。
一人は、米国の作家、マーク・ハーナッキーです。
彼は、若い時から非常に積極的な努力家で、人生を前向きに考えていました。そして、お金持ちになりたいと思っていました。
そして、夢を実現するために、まずは学校教師になり、次に証券マンになりました。しかし、いずれの仕事にもうんざりし、猛勉強して弁護士になりましたが、これもさっぱり面白くないし、望みである金持ちになれません。
彼は、自分は人生の敗北者だと思うようになりました。
そして彼は病気になり、入院します。そして、自分について改めて考えてみました。
その時、彼は気付きます。自分は本当は作家になりたかったのだが、そんなことは無理だと最初から決め付け、トライすらしなかったことをです。
彼は辞表を出し、作家になる決意をします。病気はすぐに治りました。
そして、がむしゃらにやるうち、いつか作家として成功していました。

魔法じゃないけど 誰だってがむしゃらでいるなら
何とか形になって 夢だって叶えられたりする
情熱が似合うような君たちなら
~「HOT SPICE」より。詩、歌:奥井雅美~

なんて歌を思い出しました(笑)。
彼は、人に「作家ですか?羨ましいですね。私も作家になりたいと思っていたのです」と言われたら、即、「では、あなたも作家になれえばいいじゃないですか?」と言い返すそうです。
でも、当然、相手は、自分には無理だと思う。
ハーナッキーは、そう(自分は作家になれない)思っているのはその人だけなのだと指摘します。
ところで、面白いことに、ハーナッキーは抜群の探究心を持って調査し、世の中にある成功法則の本を読んで成功した人は、ほとんど全くいないことを統計的に暴きます。
彼は、我々の中にあるスーパーパワーは成功法則(引き寄せの法則も同じでしょう)など全く無関係。必要なのはただ1つ。目標を達成するために必要なことは何でもやるという心構えだけだと言います。

さて、次に、ハーナッキーと全く異なる信条ながら、素晴らしい人生を送り、この1月3日に亡くなられた、春日大社の宮司であった葉室頼昭さんについてです。
葉室さんは、元々はお医者さん(医学博士)で、日本では数少ない形成外科の分野で世界最高の医師でした。
それが65歳にして、春日大社の宮司になりました。それも、最高の形成外科の手術の極意を体得したのは63歳の時で、バリバリと手術をやっていた頃でした。
葉室さんは自分で宮司になりたかったわけではありませんでした。ただ、「神様のお導き」と言います。
葉室さんは、何においても、自分がこうしたいと思って何かを目指したようなことはないそうです。
そもそもが、医者になったのも自分の意思とは関わり無いことでした。
高校は学習院だったのですが、大学は東大農学部に入るつもりでした。ところが、大阪の医者のところに嫁いだ姉が、「関西に知り合いがなく寂しい。医者になって病院を継いで欲しい」と突飛なことを言い出したのですが、母親が「神様がそう望んでいる」と言うので、急遽、大阪大学の医学部を目指し、1浪して入学したと言います。
そんな感じで、春日大社の宮司にまでなったのですが、その後、神道に関する沢山の著作を出し、我々に神道の正しい理解を与えてくれたのでした。全ての本がベストセラーになっていますが、葉室さんはその報酬を全く受け取っていないそうです。

葉室さんのお考えは、全て神様に委ねるというものと思います。
70歳を過ぎて、ますます筆に磨きがかかった感のある、仏教学者のひろさちやさんがまさに、全て仏様におまかせするということを説いておられるように思いますが、神道と仏教ではあっても、非常によく似ていると思います。
葉室さんは、「神様を最も侮辱するのは、取り越し苦労と持ち越し苦労」と言います。なぜなら、神様を全く信頼していないことだからです。
神様を信頼してまかせておけば、神様が悪いようにするはずがないと言います。
これは、「困ったことなんか起こるはずがない」という、日本一の富豪、斎藤一人さんの教えにも通じます。
そして、神様にお祈りする時、頼みごとや願い事をしてはいけないと言います。絵馬などに「大学合格」なんて書くのも、本来は正しくないのでしょう。しっかり勉強したら、受かるか落ちるかは神様にまかせておけば良い。たとえ落ちても、神様がよかれと思ってそうしたのだというわけです。
ひろさちやさんも、子供の時、祖母に、仏様にお祈りする時は「ありがとうございます」とだけ言え、願い事をするなときつく教えられたようです。
私は、葉室さんもひろさちやさんも全く正しいと思います。

ところで、これとよく似たものに、イスラム教の教えがあると思います。
「全ては神の思し召し」というものです。
例えば、イスラム教徒同士で待ち合わせをする時は、「明日の午後3時に、あそこで会いましょう。それが神様の思し召しであるなら」と言います。そう言っても、翌日、なんらかのトラブル、あるいは、単なる約束忘れなどで、うまく会えないこともありますが、それは神様が望まなかったからだということになります。ある意味、便利な考え方ですね(笑)。
「お金は明日返しましょう。それが神様の思し召しなら」などとも言えるわけです(笑)。
まあ、その場合は、「では、明日、お金を返してくれなければ、神様が反対されない限り、あなたを訴えましょう」となるでしょうが・・・。

ハーナッキー方式で行くか、葉室・ひろ方式で行くかは、それぞれで考えていただきたいですが、私なら断然後者をお薦めします。
結局のところ、ハーナッキー方式でうまくいかなかった人が続出したことを、ハーナッキー自身が著書に書いています。
以前にも書きましたが、1日24時間、片時も忘れないほどの望みがある場合は、ハーナッキー方式が良いでしょう。その場合は叶います。

さて、最後に究極のものです。
こんな話があります。
あるアラブ人が、家を奪われた時、家族を殺された時、そして、自分の死が迫った時に、それぞれ合わせて3度、歓喜に包まれるのを体験します。
彼に聞きました。
「全てを神の思し召しとして尊重されるのですね?」
だが、アラブ人は否定します。
「それでは、神のチョイス(選択)を崇拝したことになります。私は神のチャンス(機会)を崇拝したことで世に知られたのです」

このお話は、アイルランドの詩聖W.B.イェイツの「年老いたアラブ人によって書かれた『3つの悦びの歌』」という謎のような手記の中にあります。
このお話は、ニーチェの「運命愛」とよく似た、あるいは同じことを表していると思います。
運命愛とは、いかなることも、自分の意思として愛するというものです。

アインシュタインは「神はサイコロ遊びをしない」と言いました。
彼は、宇宙は美しい法則の上に成り立っていると信じました。しかし、人の意識に左右されるような量子力学の理論を受け入れたくなくてそう言ったのでした。
だが、アラブ人は(当然、このアインシュタインの話とは全く関係なく)言いました。
「神のサイコロは無限の目を持つのです。出た目を自分の意思とする時、私は限りなく神に近付きます」

映画「タイタニック」でジャックは言いました。「どんなカードが配られても、それも人生」

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2009.02.09

優しく柔らかい強さ

昔のNHKの弁慶と義経のドラマで、本当に弁慶が言ったのではないと思うが、面白いセリフがあった。
それは、弁慶が、まだ牛若丸であった後の義経に逢って敬服し、牛若を主と思うようになってからのことだ。
弁慶は妻の玉虫に言う。
「俺はな、神輿に乗るより、担ぐ方が向いてるのだ」
これは、弁慶の、牛若の家臣になるという宣言でもある。

「老子」には、固くて強いものは下にあるべきで、しなやかで柔らかい、弱くて繊細なものが上にあるべきだと書かれている。
木がまさにそうで、根は固くて強く、葉や花は柔らかく弱い。
弁慶は固くて強い。牛若は弱くは無いが、女性的で優しいのだ。
上に立つものは、優しくて繊細でないといけないのである。それを強い者が支えれば良いのだ。
一方、老子は、弱いものは実は一番強いとも言っている。例えば、水や風である。

だが、これまでの世界は、固くて強いものが上に立ち、弱いもの、優しいものは下に置かれてきたのである。
日本もすっかりそのような社会になっていたが、それは自然でないので、社会も人々も苦しく不幸になり、狂気に満ちているのである。
だが、日本は本来、老子の説くようなところを、完全ではないが持っていたと思う。
それは、強大な武士でさえそうだった。いかに実質的に日本を支配する武士であったとしても、弱いかもしれないが、優美で繊細な天皇家には敬意を示した。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らが、力においては相手にもならないに関わらず、皇族には平伏する映画やTVドラマの場面を、子供の頃は不思議な気持ちで見たこともあるが、それが悪いものだとは思わなかった。

ヒラリー・クリントンとバラク・オバマでは、オバマの方がずっと女性的と思う。
そのオバマが上で、ヒラリーが下に控える状態は、実はとても良いのではないだろうか。
黒人が大統領になったこともだが、こういったことにも、アメリカ、そして世界の変化が伺えるのだ。
夕食には、ライスとサーモンとブロッコリーしか食べない痩せた、新しい大統領には柔軟で優しくあって欲しいと思う。そして、その強さは、雷のようでなく、水か風のようであって欲しい。
我々もまた、優しく柔らかくあってこそ、真に強くなれるのだと思う。

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2009.02.08

「投資の時代」とは「お前らが損する時代」という意味である

本日の「真相報道 バンキシャ!」に、ソフトブレーン創業者の宋文州さんがゲストに出ておられました。
宋さんが憶えているはずもありませんが、私は宋さんにお会いし、名刺交換もしたことがあります。
宋さんは、中国の山東省出身で、日本に来て北海道大学で博士号を取得、その後起業して資産を作り、そのまま中国に帰れば、一生優雅な生活が出来たものを、顧客のサポートのために事業を継続したと、宋さん自身から聞きました。
東証マザーズにはライブドアと同時に上場。当時は決して経営状態も良くなかったのですが、その頃は先進的だった、携帯電話を使った営業支援ソフトなど優れた商品を出し、2005年には東証1部に上場しました。しかし、同時に代表権を譲り会長となり、翌年には役員を退任します。
欲の無さ、引き際の鮮やかさは見事なものでした。

番組で、宋さんは、L&G事件についてコメントを求められると、私の考えと全く同じことを言って下さいました。
「こういう事件に対し、何か言う気力もない。騙される方も悪い。被害者も加害者なんだ」
全くその通りと思います。
なぜみんな、自分で稼いだ以上のお金を求めるのでしょうか?そもそも、それが間違いなのです。

以前、証券会社のテレビCMで、有名な俳優であろう人が「貯蓄から投資の時代と言われますが・・・」と当然のように言いますが、私は、これって詐欺的洗脳以外の何者でもないと思います。「投資の時代」なんて馬鹿なものがあるはずないのですよ。
投資ってのは、儲かることも損することも同様にあるのです。
「投資の時代」という言葉にの裏には「お前らが損する時代」という言葉があることくらいは知ってないといけません。
自分で稼いだお金以上のものを求めて損をしたって文句なんか言えないのですよ。
食べてさえいければそれでいいと思っていれば、騙されることはありません。
そして、食べてさえいければ、仕事をしながら自分を向上させ、やがて新たな視野を得て満足することもあるはずです。
資本主義経済の中で欲望を増大させ続けた愚かな国家とその国民でありたくはないものです。
まずは今日から、少食、粗食を実践し、穢れを祓うように努めれば、きっと良い日が来ると思います。

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ひらがなを意識的に使おう

パソコンや携帯電話の漢字変換機能を使うことから、漢字が書けなくなったという話をよく聞きます。
もちろん、これは悪いことのように言われますし、ほとんど誰もがそう考えています。
しかし、私は、ひらがなを使えば良いと思います。

私は、イェイツの詩集を何冊か買いました。イェイツはアイルランド人で、原詩は英語で書かれています。
私は英語は駄目(他の言語もですが)ですので、翻訳を買います。
ところが、多くの翻訳書は、難しい漢字が沢山使われていて、さっぱり読めません。私の漢字能力も高くはありませんが、標準程度ではあると思います。しかし、日常、決して見ることのないような漢字が多く使われ、全く歯が立ちません。
漢字は、確かに、同じ読みや意味でも、違う漢字を使えば雰囲気は変わります。例えば、「戦う」と「闘う」では、後者の方が激しい感じがしないでもありません。ただ、あくまでそう感じるだけで、「闘う」が「戦う」に優る訳ではありません。そして、「倒れる」を「斃れる」と書かれたら、私には読めません。
イェイツの英文詩を読んでみましたら、非常にシンプルな英語で、小難しい翻訳より分かりやすいようにすら思えます。こんなきれいな文章を、あんな難しい言葉で翻訳をするセンスには呆れます。
尚、イェイツの本当の名訳は、やはり分かりやすいものです。まあ、小難しい方が有難いなら、そちらを選べば良いのですが、イェイツはあまり嬉しくないでしょう。

詩に限らず、例えば仏教の経典で有名な法華経は、本来、教養の全くない庶民にも分かりやすいものだったようです。仏教の真の目的から考えれば、それが当然と思います。しかし、中国や日本の学者達が、自分や自分の学派の権威を高めるために、どんどん難解にしてしまったという話もありますが、私はそれが本当ではないかと思います。法華経の中に深い意味はあるとしても、書いていることは、文章的には絶対に簡単に書ける程度のものなのです。

明治から昭和初期の本の中には、やはり難しい漢字だらけでさっぱり読めないものも沢山あります。
当時の人はよく勉強していたという説もありますが、現代の我々は、当時の人たちよりはるかに広い範囲の知識を必要とし、漢字にそれほど注力はしていられません。
それでも、今では忘れられた当時の本には素晴らしいものが沢山ありますので、是非、分かりやすく書き直して欲しいものです。そのようにして蘇り、現代の日本人に良い影響を与えている本もあるはずです。

土台、漢字は中国のものです。それは中国の国土や自然、風習の中で生成発展し、中国人にはよく合うものかもしれません。しかし、日本人に向いているわけではありません。
日本人は、本来、カナを使ってきました。カナは、漢字に比べ、非常に数が少ないですが、たった1文字でも多くの意味を表せるように出来ています。これは、アルファベット1文字には全く意味がないのともかなり違います。
現代の我々には、1文字にいろんな意味があったら、使い分けに困るという観念しかないと思います。しかし、日本語には、今では忘れられた神秘的とも言える力があり、それが日本人の力でもあったわけです。ここらのことは、とてもではありませんが簡単に言えませんので、例えば「ひらがなで読めばわかる日本語(新潮文庫)」や「日本語の力(集英社文庫)」などを読んでいただければと思います。また、日本語と神道の結びつきは当然強いですので、神道を分かりやすく教える葉室頼昭さんの著書が沢山出ており、それらにもよく説明されています。
1つだけ簡単に考察しますと、たった1文字ですら深い意味を伝えられるような深い感性が日本人にはあったということです。感性の中には、知的能力とは異なる人間の能力があります。漢字の国、中国の「荘子」に、人には知を超えるものがあり、それは言葉で表現できないが、あえて明と呼ぶと書かれているのは面白いことです。
漢字は象形文字ですが、カナやかなもそうです。しかし、文字を形成する感性は両者で全く異なります。どちらが優れているとは言えませんが、カナやかなの造形感覚は素晴らしいものです。それは、現在の我々のDNAの中にも生きていると思います。それならば、我々はもっとカナやかなを使った方が良いかもしれません。
例えば、「目」はひらがなで「め」ですが、植物の「芽」の形から出来たとも言われます。芽は植物の最初の段階ですが、我々の感覚も目が先んじる場合が多いものです。歌にも「恋人はどこから?目から心」というのがあり、恋が芽生えるのもやはり視覚から始まるようなものです。
そして、日本人は、以心伝心というように、あまり多くの言葉を必要としません。これは国際社会では不適切と言われることもありますが、美しいものであるという点も忘れてはいけません。以心伝心は思いやりの上に立ってこそのものであり、日本人は本来、思いやりのある民族なのです。その思いやりある民族が、なぜ集団になると残虐になるのかについては、私はひらがなを使わなくなったことと関係すると思っています。しかし、これは難しい問題なので、別の機会に書こうと思います。

日本語の力を最も感じるのは、神道の祝詞ではないかと思います。最も代表的な祝詞である「大祓詞」は、「古事記」のダイジェストのようですが、むしろ大祓詞が先にあったように思います。
大祓詞の漢字文の訳を見て、「なるほど。こんな意味か」なんて思わない方が良いようです。大祓詞にあてはめた漢字は、あくまでこじつけの漢字で、その意味もまたこじつけです。本当の意味はあまりに壮大で、万巻の書でもっても書ききれません。
日本語とは、それほどまでに凄いもので、本来の以心伝心は実に奥深いものです。
霊界の様子を書いたことで知られるエマニュエル・スウェーデンボルグは、霊界の文字について、「1文字で百科事典何冊もの意味があるのだ」と言っていますが、カナやかなは、この世においても、それに近いものかもしれません。
少なくとも、我々はカナやかなを軽視せず、もっと敬意を持って使いたいものです。そこに日本の復活があるかもしれません。

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2009.02.07

17の時より美しい

昼食の時に行く、特定の喫茶店の食事や、コンビニ弁当を「飽きたなあ」とか言うことがよくあると思います。
それは、明らかに食べ過ぎているのだと思います。
適切な空腹であれば、毎日同じものを食べてすら飽きることはないと思います。

オバマ大統領は、現在はどうか分りませんが、選挙期間中の夕食は、毎日、ライス、サーモン、ブロッコリーだったそうですし、イチロー選手の昼食は毎日カレーライスだという話もあります。
神様と言われた特撮監督の円谷英二さんも、夕食が毎日カレーライスでも構わないと言ってたらしいです。
私は1日1食で、間食もしませんが、毎日、ライス、豆腐、漬物でも、全く満足で、天国の食事と感じます。

ただ、多少の食の味わいを増やすのも悪いことではありませんので、私は毎夜、はったい粉(大麦の粉)1/3カップに、てんさい糖(砂糖大根を原料とする砂糖。身体を温める糖で、吸収も穏やかであるらしい)と天然塩を入れて食べております。至福の時間であります。加えて、超ヘルシーです。Webを見ておりますと、年配の方がはったい粉について「昔は美味しいと思ったが、いまはそう思わない」と言っておられるのを見て、残念に思いました。口が奢っていると言うより、やはり食べ過ぎと思います。こんなに美味しいものを感激を持って食べられないというのが私には信じられません。
飲み物に関しては、コーヒー、ココア、そして、仕事がら、目を酷使することもあり、紅茶にブルーベリージャムを入れて飲んでいます。
玄米粉であるリブレフラワーをお湯で溶かした玄米茶も飲みますが、香り、味ともに抜群です。
また、寝る前に、やはりブルーベリーエキスの入った、メルシャンの「健やかワイン」を30cc程度ですが飲みます。政木和三さんが、お逢いした時によく、寝る前に赤玉ワインを1杯だけ飲むと言われていたので、ちょっと真似しているわけです。
他にも、寒さ対策のためもあり、脂質とたんぱく質を多く含むアーモンドやクルミを少し食べます。これも美味しすぎて恐いです。
私には、月1万円にもならない食費の食事が天国の食物であり、これは大変に豊かであるということです。

昨年末に180cmで65kg(7月時は94kg)となり、理想的な体形と思いましたので、そろそろ現状維持をしようと思い、野菜やナッツを少々多く摂っていました。また、お正月は、来客と付き合い、かなりご馳走を食べたのですが、1月も2kg減りました。17歳の時(178cm、63kg)よりスリムになりましたが、当時より、胸囲が10cm大きく、ウエストは5cm減っています。当時は、ハードトレーニングで鍛えていましたが、腰や膝に故障がありました。今は東洋式の楽な運動を1日3回やりますが、当時よりスタイルが良く健康なわけです。

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2009.02.06

願いには3種類ある

人は、いろんなことを願うものであるが、願って良いものとそうでないものの区別を付けておく方が良い。
大原則は「不要なものは求めない」ということで、これができれば、不安はなくなり、人生は楽しくなる。

願いには、大きく分けて3種類がある。
そのいずれもが、本能と結びついてはいるが、これらの区別を理解しなかったので、フロイトは「人間は本能が壊れている」と言い、マズローは、欲求には5段階があるとして、およそおかしな区分をしたのだ。

以下は、非常に大雑把な説明となる。
願いの3つの種類とは「頭の願い」「感情・心の願い」「無心の願い」である。
頭の願いとは、「お金が欲しい」「恋人が欲しい」「地位が欲しい」といった我欲である。
感情・心の願いとは、「人にただ親切にしたい」「親孝行したい」「ペットを可愛がりたい」という、愛情に結びつくものである。
無心の願いとは、「真の自分になりたい」「世界を平和にしたい」といった高度なものである。

頭の願いは願ってはならない。
これらは妄想でしかない。言い換えれば幻想である。
願わなくても必要なら与えられる。不要なものを願うと苦しくなる。

感情・心の願いは、思考の余計な介入の無い限り、心の示すとおりにすれば良い。
ここでは、勇気が必要である。

無心の願いは、唯一、願って良いものである。
ただし、何をどう願って良いかは、一定のレベルまで成長しないと全く分らない。
分らなくても、信仰を持てれば、それに従い願えば良い。例えば、世界平和の祈りをするとかである。

尚、一昨日も書いたが、願いというものは、1日24時間思い続けることができるほどのものでない限り叶わない。それが可能なのは無心の願いだけである。

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2009.02.05

心を締める鍵

生活しながら絵を描いてるやつは、ロクな画家じゃないと思う。
絵を描きながら生活するようでないといけない。
岡本太郎が、人生即芸術なんて言ったのは、そんな意味じゃないかと思う。

野球選手でも、生活しながら野球やってるのは三流で、やはり一流は野球やりながら生活しているのだと思う。
一流の経営者は、経営しながら生活しているのだから、生活しながら仕事しているような専務が太刀打ちできるはずもない。
セールスマンてのも、一流セールスマンの本を読むと、やはりセールスしながら生活している。

ただ、こういったことは職業だけの問題ではないと思う。

明治、大正の頃、「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎を、私は稀有な偉人だと思うのであるが、彼は仏教の世界では親鸞聖人を非常に高く評価していた。そして、浄土真宗の極意を、「念仏しながら生活してこそ本物。生活しながら念仏するのはいけない」と言い、静坐も、「静坐しながら生活するようでないといけない。生活しながら静坐するのは駄目だ」と言ったそうだ。
ある何かをしながら生活するというものを持つことは重要だ。岡田虎二郎は、そのようなものを「大事な時に心を締める鍵」と表現したように思う。
道元なら、座禅しながら生活していただろうし、五井昌久さんの本当のお弟子さんなら、世界平和の祈りをしながら生活していると思う。
春日大社の宮司であった葉室頼昭さん(先月3日逝去された)は、1日中、大祓詞(神道の祝詞)を唱えていたというが、まさに、大祓詞を唱えながら生活していたのだと思う。
ただ、「大事な時に心を締める鍵」は、信念のようなものである場合もあると思う。
例えば、「求めない」という想いと共に生活している者は最高の賢者と言えると思う。
「感謝」と共に生活できれば貴い人生であるが、それはなかなか難しい。
「ものを大事にする」というポリシーも立派な「心を締める鍵」だ。
ラマナ・マハリシは、ただ「私は誰か」を問い続けろと言ったし、ニサルダガッタ・マハラジは「常に存在の感覚にしがみつけ」と言った。
神道では、慎みを最も重んじると思う。よって、慎みと共に生活すれば良いのであるが、あらゆることに慎むよりは、食を慎むことと共に生活すると確実にうまくいく。食を慎むなら、全てにおいて慎むようになるからである。

「大事な時に心を締める鍵」を持っていれば、何があっても恐れることはない。
「私は、これ(心を締める鍵)があるから、絶対に大丈夫だ」と思っていれば、本当に大丈夫になる。
我々も、そんな大きな鍵を持ちたいものである。
それは簡単なものが良い。
岡田虎二郎は、「静坐は易行である」と言った。
易行とは、修行無用の他力(神仏の力を頼ること)であり、法然や親鸞の念仏も同じである。
私の1日1食も同様である。単に「少食」と言っても良いが、何をもって少食と言うのか曖昧なので、1日1食とか、1日2食とか決めておくのである。私の場合、「1日1食の菜食、間食なし」となる。この鍵があれば、人生勝ったも同然である。ただ、それを苦しいとか修行だと思ってやっているようでは駄目なのである。空腹時に食べる1日1度の食事は掛け値なしに天国の食事である。その素晴らしい恵みには、自ずと感謝の心が湧き出る。念仏も静坐も食の慎みも、つまるところ、感謝であるのだ。「歎異抄」(親鸞の弟子の唯円が書いたと言われる、親鸞聖人の教えの要点の回想)にも、念仏とは、それを唱えれば浄土に生まれるといったような自力の行ではなく、念仏を唱えようと思った時には既に救われており、その感謝を顕すものであると書かれている。
キリスト教では、食事の前に「今日の恵みに感謝します」と言う。本当に感謝していれば、明日にも何の不安もない。だが、形だけの感謝の祈りなら、やらないようりはマシだが、心から不安が去らない。十分に少食であれば、自ずと感謝の気持ちが起こるはずだ。
感謝の心が神への不動の信頼となる。そうなれば、不安はなくなり、不安がなくなれば信仰は堅くなり、一切の煩いから解放されるであろうと思う。

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2009.02.04

偉大な心

ひきこもりは、ほとんどの場合、母親の影響が大きいものである。
思想家の吉本隆明氏は、子供がまだ胎内に居る頃の母親の精神状態の影響が大きいのではないかということを著書に書かれていた。
それもあるのかもしれないが、おそらく次のようなことが言えるのではないかと思う。それは、私もひきこもり気質であるが、他のひきこもりの人を間近に見たことから思うことでもある。

ひきこもりの男の子の場合、母親がその子を尊敬していないのだ。子供の間はもちろん、大人になり、ひきこもりとはいえ働いてお金を稼いでいる場合でもそうである。こう言うと、母親の方は、それが意外だという反応をするものである。「なぜ私がこの子を尊敬しないといけないのか?」と。それが根本的な誤りである。
母親にすら尊敬されない男の子は、誰からも尊敬されないのだ。
なら、ひきこもりになるのは当たり前なのである。
息子を尊敬しない母親が傲慢であるのだ。
日本では、昔であれば、武家の男子は15歳にもなれば元服といって大人と認め、特にそれ以降は、母親とはいえ、大人の武士として敬意を示した。もちろん、それまでも母親は息子に対し、それなりの敬意を見せるし、それに相応しいしつけもするが、やはり早くから立派な大人の男として扱うので、男の子も立派になるのである。
これは、別に日本でなくても、また、武家などの立派な家柄でなくても、息子を尊敬しない母親は母親としての資格に欠けているのである。
また、女の子の場合は、両親が信用してあげないといけない。親にすら信用されない子供は誰にも信用されないのだ。

平井和正さん原作の石ノ森章太郎さんの名作漫画「幻魔大戦」で、主人公である高校3年生の丈(じょう)は、本来はひきこもりだったと思う。彼には両親がいなかった。そして、高校生になっても多くの小学生に劣る体格であったが、劣等感の反動で勉強とスポーツにがむしゃらにがんばる。しかし、成果が出ず、精神に明らかな逸脱が見られた。ナポレオンやヒットラーのようになり、自分を虐げた人間達を見返すばかりか、支配したいと思うようになる。
このあたりを読むと、私などは涙が出るほどの共感を感じるのである。
だが、丈がそれでも、基本的には心優しく、常軌を保っていられたのは姉のおかげであった。
姉は母親以上と言って良いくらい、丈を深く愛していた。彼女も年頃ではあったが、結婚なんかできなくても、丈が誰からも尊敬される立派な人間になるまで、側で見守ろうと決意していた。
その決意は死んでも守られた。宇宙を征服するほどの力のある幻魔の前に、地球の超能力者は全く無力だった。地球の超能力者の中においては超一級のエスパーである丈も、幻魔の強者に無謀に戦いを挑み、簡単に敗れる。だが、そのような幻魔ですら、死んだ丈の姉の残された思念(残留思念)の力は強敵であると言う。
丈が宇宙屈指の超能力者にまで成長したのは、偉大な姉の心の力が大きな助けとなったはずである。
「幻魔大戦」は、軽く30年以上前の作品だが、現在でも増刷され、新品で入手可能だ。石ノ森章太郎さんは残念ながら亡くなられたが、これを「第2の聖書を書く意気込み」で描いたと言い、現在も活躍中の平井和正さんにとってはライフワークの1つだと言えると思う。

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2009.02.03

叶う願いと叶わない願いの違い

巷では、「潜在意識の法則」だの「引き寄せの法則」だのという、心の力を使って望みの一切を叶える方法は昔から人気がある。
しかし、それらを学んで、思うような成果を上げた者は、まあほとんどいない。

本当のことを言うと、願いを叶えるのに、引き寄せの法則も潜在意識の法則も知る必要はない。
問題は願いの強さである。
願いが十分に強ければ必ず叶うと言って良い。

多くの人が、なぜ願いが叶わないかというと、当然、願いが強くないからである。
例えば、何か欲しいものがあり、それを願ったと言っても、1日に10分や20分程度欲しいと思うだけで叶うと思う方が間違っているのである。
これが、寝ても醒めても、四六時中思い続けるほどの願いであるなら、間違いなく叶う。それは絶対である。
逆に言えば、それほどの願いでないなら、その者にとって必要のないものと言って良い。

今度、何か願いが起こった時、叶うまで毎日1日中そのことを考え続けてみよ。
おそらく、すぐに飽きてしまうことと思う。それではやはり叶わないのだ。
そして、そのような願いは自分にとって本当は必要ないものであると了解すれば良いのである。
逆に、四六時中思い続けることの出来る願いを持てばそれは叶う。そういうものを見出すことだ。

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2009.02.02

人生最期の楽しみ

私は、世の中に絶望したら、餓死をしたいと思う。
いや・・・餓死こそ私の夢である。

自殺の中でも、餓死だけは罪にならない。
そして、餓死は人間の尊厳を守りながら死ねるのである。

死ねば、どうしても周りの人に迷惑はかけるが、その中で、餓死はせめて最も迷惑のかからない方法なのだ。
死体の処理も最も楽なはずだ。死ぬまでに、汚物も可能な限り少なくできるからだ。
棺おけのサイズも小さくできるかもしれないし、何より棺おけが軽くなる。
一応、葬式無用、墓無用の遺言は残すつもりだが、それを守ってもらえなかった場合の配慮である。

餓死までの間は、念仏(南無阿弥陀仏)を唱え続けるつもりだ。
それは楽しみな時間でもある。
念仏とは、極楽浄土に迎えとって欲しいという願いの言葉ではない。
極楽浄土に迎えとってもらえることの感謝の言葉なのである。

できるだけ長く生き、できるだけ多く念仏し、できるだけひからびて死にたいものである。

ひょっとしたら、生命の炎の消える刹那、あるいは、消えた時、仙人や導師や天狗の仲間に迎え入れられるかもしれないが、それは求めない。

餓死を待つ中で、病気も去り、身体や心の痛みも去るだろう。
その安らぎの中で静かに死ぬのである。
そのためには、普段から食を謹んでおかないといけない。でないと、やはり苦しみが出てくるだろう。

死ぬ前に、知恵と情熱が湧き出て、不意に世間に復帰し、大事業を為すこともあるかもしれないが、それも求めない。
ただ死ぬのみである。

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2009.02.01

究極の1冊

私は、世界最高クラスのヴァイオリニストやピアニストを見ると、強い羨望を感じる。
別に、その名声や腕に対してではない。はっきり言って私は音楽はあまり分からない。
そうではなく、子供の頃から、毎日7~8時間以上、熱心にレッスンをしてきたということに対して羨ましいのだ。
もちろん、親などによる強制もかなりあり、本人は苦しい時期もあったであろう。しかし、強制されただけで何かできるものではない。
そして、本人の素質や気力というものも重要であるのだが、やはりそこには「縁」というものがあったのだ。
縁なくして何も起こらない。

音楽だけではない。
中学校しか出ていないが、医療以上の成果をあげる健康事業を行っている天才がいるが、彼は若い時、霊能の大家を訪れ、弟子入りを願ったが、ロクに相手にされず、ただ「ローム太霊講話集」をボロボロになるまで読めと言われた。彼は素直にこの本を10年以上かけて本当にボロボロになるまで読み、再び霊能の大家を訪れ、閉じ糸も取れてバラバラになった本を見せると、霊能の大家は涙を流して喜び、弟子ではなく友人になってくれと頼んだという。

私は、これならできると思い、究極の1冊を探した頃があった。
無人島に1冊だけ持っていけるならどの本を選ぶかの問いに、「聖書」と答えるクリスチャンは多いと思う。
ある偉人は、子供の時、家にある本が1冊の聖書しかなかったので、そればかり繰り返し読み、偉大な知恵を得た。
数学者の岡潔は、意味は全く分からなかったが、道元禅師の「正法眼蔵」を20年間、座右の書とし、繰り返し読んでいたが、ある日突然、その全てが理解できたという。

私は、「ローム太霊講話集」も「正法眼蔵」も読んだが、長続きしなかった。
そして、ニサルダガッタ・マハラジの「アイアムザット」に巡りあい、「これだ」と思い、一生これだけを読もうと思った。600ページ近くある分厚い本だが、4回目を読んでいる時、エマーソンの「精神について」を知り、読まずに過ごすにはあまりにもったいないと思い、そちらを読み始めた。

翻訳書の場合は特に注意が必要だ。
まあ、所詮、言葉で真理を伝えるのは不可能なので、ある種の霊感のようなものは必要だ。
そして、特に翻訳では難しい。どうしても、言葉に齟齬が発生する。
小説・アニメの「涼宮ハルヒの憂鬱」で、宇宙人の長門有希が、主人公のキョンに宇宙の情報を伝える時、「言葉では概念をうまく伝えられない。情報に齟齬が発生する」と前置きをして話したのが印象的だ。
ある意味、言葉を信じてはいけない。
私が一時夢中になった「アイアムザット」は、ニサルダガッタ・マハラジがインドの一部の地域の方言で話された録音テープから英語に翻訳し、さらに日本語にしたものだ。英語にする際には、マハラジに慎重な確認をし、マハラジも熱心に協力したと聞くが、それでも齟齬は多いはずだ。そして、マハラジが聖者であっても、肉体を持つ以上、いくらかの偏りはあると思う。はっきり言って、内容に矛盾を感じることもあった。
ドイツの「心身医学の父」と言われるゲオルグ・グロデックの「エスの本」は、心理学者の岸田秀さんが山下公子さんと2人で分担して翻訳したものだが、自分の分担でない方も原文と照らし合わせて厳しくチェックし合ったという。岸田さんというのはふざけた心理学者と思っていたが、認識を改めた。まあ、そうでないと、何十冊も著書を為したりしないであろう。
最近、37年かけて、ようやく翻訳完了したという新約聖書を買った。これだけ聖書の翻訳がある中で、それほどの苦労をして翻訳する意味があるのである。翻訳がいかに大変か分かろうというものだ。

私は、生涯の友とする本について、もともとは「荘子」ではないかと思っていた。「老子」や「法句教」、「法華経」も素晴らしい。しかし、これらも翻訳の際の齟齬もあるし、特に、経典の場合は、学者達がわざと難解に歪めてしまっている。
では、日本のものが良いと思い、「古事記」を見た。一見、漫画のような馬鹿話であるが、恐るべき知恵の書で、生涯読むに値するが、これすら現代語訳に頼るしかない。また、これの現代語訳は実に多いのだ。
「古事記」では、河出文庫の「現代語訳古事記」が最も名訳と私は思う。
実は、私が一番好きな本は「歎異抄」である。こちらも現代語約は多い。本文そのものは非常に短い。これを読んでいると、「唯信鈔」や法然の「選択本願念仏集」も読みたくなった。
結局、私の部屋には、いまだ本が溢れかえっているばかりか、今でも増え続けている。
最近は、葉室頼昭さんの神道の本や、岡田虎二郎さんの静坐関連の本を愛読している。
究極の1冊というのは難しいものである。そう思っている限り、私の精神は安定しないかもしれない。所詮、本に頼ってはいけないのであるが、俗人の弱さである。

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