« December 2008 | Main | February 2009 »

2009.01.31

ひきこもりよ、腹を鍛えよ

政木和三さんは、著書にもよく書かれているし、講演でもよく話されたが、子供の頃、身体が丈夫でなく、健康増進目的で、小学3年生の時に腹式呼吸を熱心にやったようだ。
腹式呼吸に熟達した時のことだ。母親が意味は分からないながら熱心に唱えていたお経を彼が見たところ、その意味がスラスラと分かり、母親に説明して驚かれたという。
政木さんは、このことを、「脳波が複式呼吸でシータ波になり、前世の記憶が蘇った」と言っていた。
政木さんは、複式呼吸で、1分間に1回という呼吸ができたそうだが、そこまでなるにはかなり訓練が必要で、なかなか脳波もシータ波にならないが、自身が発明したパラメモリであれば、誰でもすぐに脳波がシータ波になると言う。(パラメモリは後にアルファシータ、そして、バイオソニックとなったが、現在は製造されていない)
そのこと自体は正しいのかもしれないが、私は最近、柳田誠二郎さんが書いた、岡田虎二郎さんの「静坐」に関する3冊の本を読む中で、政木さんは、腹式呼吸により腹を鍛えたことが一生を左右したのではないかと思うようになった。
日本では、昔から、「腹を決める」「腹を割って話す」とか言い、信頼できる人間を「腹心」と言う。これは中国でもそうであるらしい。腹というものが、人間の心や力に関して、いかに大事なものであるかが分かる。
また、気力のことを胆力と言うが、胆とは胃の前にある胆嚢のことで、やはり腹のことである。
岡田虎二郎さんは、腹に力を入れることをことを重要視しておられたようで、1日中、腹に力を込めるよう言い、腹の力を示した例として、「金?腹に力が出来れば、金はいくらでも出来ます」と言ったらしい。
かくいう私も、ひきこもっていた大学生の時、多少は腹式呼吸をやっていたことを思い出した。そういえば、それから苦しいながらも、それに打ち勝って全く失業することもなく働いている。
尚、大食していては、腹が緩んで力は入らない。腹に力をつけるには、ある程度の食の慎みが効果的である。

岡田式静坐法に関しては、初公開 田原の歴史~岡田虎二郎-静坐法とその思想に詳しく書かれている。
尚、岡田虎二郎さんが、静坐を行うのに正座スタイルを採用したのは、当時(明治から大正)の人は正座が馴染んでいたことからであり、私は正座は全く駄目で、胡坐で尻の下に座布を敷いたり、あるいは単純に椅子に座って(ただし背もたれにもたれてはいけない)工夫して行っている。
腹を鍛えれば無敵だ。皆さんもやってみてはどうかと思う。
尚、私は、スワイソウという導引術の運動や、その他の東洋式運動をいくつかやるが、いずれも下腹に力を入れてやっており、むしろ、腹に力を入れる練習のためにやっているようなものである。
別に、腹を鍛えてお金を得ようという魂胆はないが、確かに金はいくらでもできると思う。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.01.30

意図なき行為

食を節制することに関し、世間ではどうしても、ダイエットのためとか、健康のため、あるいは、食費の節約のためといった風にしか理解されない。
私は、元々は大食で甘いお菓子も大好きで大いに食べていたが、ある時期に1日1食の菜食とし、間食も一切やめた。しかし、私には、ダイエットだとか、健康増進などという目的は全くない。
結果として30kgほど痩せたし、大変に健康になったが、それはあくまでオマケである。
ただ、食を慎むことそのものが目的であるのだ。

例えば、特に正月でも七五三でもないのに神社にお参りに行くと言ったら、何か特別な願を掛けるのだと思われるだろう。そのような意図は全く無く、お参りそのものが目的であると言ったら理解されないと思う。
私なら、初詣や、その他の神社のお祭りに参拝しても、何か願うことも求めることもない。
やはり、お参りすること、そのものが目的なのである。

ところで、学校などで勉強するのはなぜであろうか?
良い学校に進学し、将来、良い仕事について裕福になったり、高い地位に就くためであろうか?
学校では、それを当然のこととしているので、岡本太郎やアインシュタインは自らの清らかな魂を守るべく、そんな学校に背を向けたのだ。

浄土宗や浄土真宗では、南無阿弥陀仏という念仏を唱えれば、死後、極楽浄土に行くことが出来るとしていると思っている方も多いと思う。そんな愚かな考えが広まっていることを歎いて、親鸞の弟子の唯円が書いたのが「歎異抄」だ。
極楽浄土に行く目的で念仏をするのではない。念仏に目的はないのだ。念仏とは、極楽浄土に行かせて下さる阿弥陀如来に対する感謝なのである。
法然や親鸞の教えでは、念仏をしようと思った時には、既に救われているのだ。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.01.29

機長に幸運をもたらしたものとは

今月15日、離陸直後にエンジンが停止するも、ニューヨークのハドソン川に不時着し、乗客乗員全員を守ったUSエアウェイズのサレンバーガー機長は、いまやオバマに並ぶアメリカンヒーローだ。
状況は決して安易ではなく、1人の犠牲も出さなかったことは奇跡であったと言われる。

私は、サレンバーガー機長が、盲導犬の育成や、癌研究のための寄付活動を行っていたことに注目した。
彼には、もちろん、技術も経験もあったが、運もあった。

ジャンボジェット機の機長である坂井優基氏は、空では人為のまるで及ばない状況もあり、乗客の安全を護るためには運も必要であると言う。そして、長年のパイロット生活で、運を高める法則を確信し、幸運を得るために必要なことを心がけ、確実にうまくいったという。
幸運が嫌いな人はいない。我々も彼に学ぼうではないか。

坂井機長は、運を高めるには、やはり陰徳が大切であることを強調する。
公園の掃除をしたり、仲間外れになっている人に声をかけたり、困っている人を助けるといった当たり前のことをすれば良いのである。
そして、上にも書いたサレンバーガー機長の陰徳が素晴らしい幸運を呼んだことは間違いないと思う。

これらは、坂井機長の著書「パイロットが空から学んだ運と縁の法則」(インデックス)に詳しく書かれている。

さて、では最高の陰徳とは何であるか、参考になる話を述べる。
江戸時代、水野南北は、18歳の時、酒代欲しさに強盗を働き、牢に入れられる。そこで南北は、一般の人間と囚人では、明らかに顔の相に違いがあることに気付く。そこで、牢から釈放されると、南北は人相見のところに行き、鑑定を受ける。
すると、南北は、人相見に、寿命は後1年。助かる道は徳を積むしかないと言われ、禅寺に行き、入門を願う。しかし、南北の人相の悪さに、寺の住職は、断るつもりで「1年間、麦と大豆しか口にしなければ入門を許す」と言った。
南北は言われた通り、1年の間、麦と大豆しか食べなかった。そして、再度、禅寺に入門を願う前に、あの人相見を再び訪れる。人相見は驚く。「おまえは、人の命を助けるとか、寺を建てるなど、よほどの功徳を積んだのか?悪相が消えている」と言う。
南北が、「そんなことは何もしていない。ただ、1年の間、麦と大豆しか食べなかった」と言うと、人相見は、「食の慎みこそ最大の陰徳である」と言った。
南北は、出家をやめて観相家の修行をし、当代随一の観相家となる。そしてさらに、完璧な観相の道を目指し、伊勢神宮近くの五十鈴川での21日の断食、水行の末、「食が全て」との啓示を受け、最大の観相家として知られるようになり、皇室に招かれるほどになり、7つの蔵を建てる長者となり、当時としては異例の78歳まで幸せに生きた。
食の慎みこそ、至高の徳であり、幸運の最大の因であったのである。

坂井機長は、食を慎むという最大の陰徳については書かれていないと思うが、食の慎みこそ、天に徳を積むことであり、それができれば、自然、他の徳も行うようになる。
食の慎みは、最初はやや辛いが、誰にでも出来、お金もかからない上、最も確実に行える陰徳である。我々も食を慎まずにいられようか?

現在、アメリカ最大のヒーローであるオバマ大統領の食の慎みも素晴らしい。大統領選挙中、夕食は毎日、ライス、サーモン、ブロッコリーであった。フライドポテトは食べても、ハンバーガーは食べなかった。

尚、坂井優基機長のホームページは、SakaiYuukiHPだ。
余談だが、坂井優基という名前が私には衝撃であった。
私の大好きな小説、アニメの「灼眼のシャナ」の主人公の1人である、高校1年生、坂井悠二ととてもよく似ている。
ヒロインのシャナに、最初はモノ扱いされながら、成長し、大きな存在となる悠二もまた、運を呼び込む特質に満ちていた。

尚、陰徳を積むことと反対のことをすれば、運に見放されることもついでに注意しておく。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.01.28

肥満と巨漢

中年過ぎの男が、腹が出ているのは一概に悪いとは思わない。
非常に立派に見えることもある。
しかし、現在の日本では、腹の出っ張った中年男の大半は、単にみっともないのも事実であると思う。

肥満と巨漢は違うと思う。
巨漢であれば、「堂々たる体格」といった表現になる。
しかし、単に太った男をそのようには言わない。

明治、大正の時代の偉人に岡田虎二郎という人物がいた。
本人が死ぬ前に、書いたものを全て燃やしたこともあり、今では忘れられているが、現在でも優れた人物の中に信望者が沢山いる。
岡田虎二郎に関しては、柳田誠二郎さんの本で知ることができるが、絶版が多くなってきた。誠に残念である。
柳田氏は、学生の時に、岡田虎二郎が教えていた「静坐」を学び、悲惨であった心身の状態を改善し、以後、日銀副総裁、日航社長等を歴任し、静坐も70年以上続け、百歳で亡くなった。

私が憧れる巨漢とは、まさに写真で見る岡田虎二郎の姿だ。
岡田虎二郎は、体重30貫ほどというから、112kg程度である。写真で見ると、確かに堂々たる豊かな体躯である。美しいと思う。腹もでかいと思う。
岡田虎二郎は、腹を作れという言い方をした。

岡田虎二郎の教える静坐は、健康法のように思われており、確かに素晴らしい健康法でもあるが、それは正しく道である。柳田氏の本を読むと、親鸞の念仏と同じであると思う。岡田虎二郎も、親鸞を高く評価しているようだ。
私は、親鸞については、唯円の書いたと言われる「歎異抄」でしか知らないのであるが、親鸞の念仏と岡田虎二郎の静坐が全く同じであることは分かるように思う。

岡田虎二郎は、「頭の人」、即ち、知識を詰め込むだけの人は最低と言ったようだが、岡田虎二郎は無学の人ではなく、あの時代にアメリカに遊学し、おびただしい西洋の文献を読んでいる。
読書に対する岡田虎二郎の態度はエマーソンと同じと思う。自己を知るために読むのである。エマーソンは、偉人の伝記を読む時、自分について書かれてあると思えと「精神について」で書いている。
柳田氏の本で具体例は見ていないが、岡田虎二郎も、エマーソンをよく引用したらしい。私は、岡田虎二郎と、このラルフ・ウォルドー・エマーソンが、日米の最大の思想家であると思っている。

腹の出来ている巨漢は美しく堂々としているのだ。
腹の出来ていない肥満は、単に太っているだけでみっともない。
腹を作るには、岡田虎二郎が教えたとおりの静坐をすれば良い。

現在でも、「静坐のすすめ―岡田式」(柳田誠二郎著。地湧社)は入手可能である。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (1)

2009.01.27

差別が蘇る時

米国に黒人大統領が誕生したと言っても、米国はもちろん、世界に人種差別が無くなったわけではない。
少なくとも、人種差別問題に関する大きな発展があったと見る向きも多いと思うし、表面的には確かにそうだ。しかし、今後、深刻な問題が発生する可能性がある。

1970年頃の英国のSFテレビドラマ「UFO(邦題は「謎の円盤UFO)」で、この問題を非常に鋭く指摘する話がある。
このドラマの製作者は、「サンダーバード」で有名なジェリー・アンダーソンだ。サンダーバード以前にも、アンダーソンは人形劇ドラマを作っているが、その中で、黒人の人形を使おうとしたところ、番組側から強制的に白人の人形に変えられたことがあったそうだ。
さて、「UFO」は、当時から言えば近未来である1980年を舞台とした、人類と宇宙からの侵略者との戦いを描いた、今尚人気のある特撮SFで、アンダーソン初の俳優を使ったドラマだ。
月面基地の白人の司令官が事故で死んだと見なされ、新しい司令官が必要になる。ストレイカー最高司令官は、黒人の大佐に司令官就任を要望する。
「驚いたかね?」
「いいえ。話があることは分っていました」
「そうか。では返事は?」
「私が断ったらどうします?」
「やる気がないのか?」
「いいえ、あります。それに名誉にも思っています」
「いったいどういうことだね?意欲もあり名誉だと言いながら、君は断ると言う。説明したまえ!」
「分りませんか?私の肌の色です」
「馬鹿な(意識的な苦笑)。人種差別など、5年も前に無くなったはずだ」
「表面的にはその通りです。でも、危機的状況になれば、必ずそれが問題になるんです」

現在は、オバマ大統領は始まったばかりで、全米は熱狂している。
しかし、時が経ち、オバマが期待を裏切ったと感じた時、白人大統領の場合より否定的な感情が発生する可能性が高いのである。それは、憎しみにまで容易に発展するかもしれない。
おそらく、オバマ大統領もそれは覚悟していると思う。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.01.26

私とは?

オバマ大統領の就任式の観衆が200万人であったという。
200万人というのが、どのくらいの数かまるで想像がつかない。岡山県や栃木県の人口がそれ位としても、やはりピンとこない。
甲子園球場や東京ドームの収容可能人数が5万人位なので、その40倍と言った方が分りやすいかもしれない。
200万人の観衆をちょっと見てみたかったと思う。もちろん、一目で見渡せるものではないだろう。

5万人の観衆を見て人生を変えたというお話がある。
それを見た小学校6年生の女の子が神になったのだ。
「涼宮ハルヒの憂鬱」という、シリーズで500万部売れたという小説と、そのアニメのお話である。
ハルヒというヒロインの少女は、小学6年生の時、家族と一緒に初めて野球観戦に行く。おそらく甲子園球場だろう。
ハルヒは、球場の観衆を見て圧倒される。日本中の人が、みんなここにいるのではないかと感じた。
父親に(彼女は「おやじ」と呼ぶが)、いったい、どれくらいの人がいるのかと尋ねたら、満員なので5万人くらいだろうと言われた。
家に帰ってから、ハルヒは電卓で計算する。日本の人口が1億人くらいだと学校で教わっていた。割り算をすると、あそこにいた観衆の人数は日本の人口のわずか1/2000。
ハルヒは愕然とし、自分の人生が色褪せてしまうのを感じる。
自分がいかにちっぽけな存在か思い知ったのだ。
自分は何か特別な存在だと思っていたが、そうではなかった。そして、自分のような生活はありふれた誰でもやっているものだということに気付いた。
だけど、世の中には、ちっとも普通じゃない楽しい生活をしている人もいるに違いない。なぜ、それが自分でないのだろう?
ハルヒは思う。面白いことは待っていても来ない。中学生になった彼女は自分を変えてやろうと思った。待っているだけの女じゃないことを世界に訴えた。しかし、高校生になっても何も変わらなかった。ただ、彼女が知らないだけなのだが・・・。

面白い話だ。
ハルヒは自我の崩壊の危機に直面したのだろう。
彼女は自分を特別な存在だと感じていた。その根拠は、彼女が並外れた美少女で、学校の成績も良かったというところにあったと思う。
それらの美点は、彼女の生活を楽しいものにしていたのだろう。
しかし、知的な彼女は、大観衆の中では、それがちっぽけなつまらないものであることに気付き、それまで自分の自我を支えていた、自分が特別であるという根拠が壊れ、自我は安定を失ったのだ。
ある意味、健康な衝撃ではあるのだが、やや激しすぎたのだ。
人は誰でも、神からスタートする。赤ん坊の時、自分は何もしなくても全ての必要が満たされる。そもそも世界と自分の間に区別を感じない。そして、精神分析学の教えるところでは、その影響は一生残る。
だがやがて、人は自分が神でないことを理解していく。
しかし、挫折を経験すると、かつての神であった時の記憶に逃れ、尊大な振る舞いをし、現実に立ち向かおうとしなくなる場合がある。幼児性退行と呼ばれる現象である。子供の頃から外見が良かったり、学校の成績が良くてちやほやされたり、親が過剰に甘やかすとそうなりやすい。一流大学は出たが、社会に出る意欲がないなどはその典型かもしれない。
ひきこもりの多くの原因もここにある。
だが、ハルヒは自分で神の地位を取り戻そうとしたのかもしれない。
美しく、優秀な彼女は幼児性退行を起さず、ひきこもりにもならなかった。
彼女は、エンスージアズム(情熱)を掻き立て、世界をも征服しようとしたのだ。
結果、彼女は神になる。
前にも書いたが、ハルヒとは、張る霊(ひ)である。魂にエネルギーを与え膨張させることなのだ。
子供は、一度は自我を確立せねばならない。
そして、その自我が強ければ強いほど大きな壁に突き当たる。
だが、壁に思えたものは実際には存在しない幻想だ。滅ぼすべきは自我である。
人は、自我を滅ぼすことを恐ろしいことだと感じる。しかし、それを成し遂げることで神に近付く。
ニサルダガッタ・マハラジは言った。「堅い木ほど燃えやすいように、個性も強い方が滅しやすい」と。
何もしなかった人間より、波乱万丈の人生を送った人間の方が人間性が高いのはそのためだ。
ひきこもりが悪いとは言わないが、ひきこもりはよほど慎みがないといけないのだ。でないと、かえって自我を増大させる危険が高いのだ。何もできない人間ほどプライドは高いものである。

ハルヒは高校1年生で再び壁に突き当たったのだが、既に彼女は神だった。
なんともややこしい話だ。
だが、古事記を読んでいるなら、さして違和感はない。
天照大神(アマテラスオオミカミ)という、高天原(天界)を統べる女神はとても人間的だ。
いや、古事記の神々はみんな人間的なのだ。

自分が特別でないことを悲しむ、小学6年生の愛くるしいハルヒに私は何を言うべきだろう。
何も言う必要はないが、面白いお話がある。

ヴェルタースオリジナルという、ストーク社(ドイツ)のキャンディがある。私は食べたことはないが(笑)。
テレビCMを見た方は多いと思うが、老人が、4歳の時、おじいさんからこのキャンディをもらったが、こんな素晴らしいキャンディをもらえる自分は特別な存在に違いないと思ったと言う。

だが、彼はやがて、他の子供達も、このキャンディをもらえることを知ったと思う。
その時も、彼は、自分が特別なわけではないと思い、ハルヒのようにがっかりしたのだろうか?
私は、きっとそうだと思う。そして、彼はハルヒのように、自我の確立を目指すのだ。

そして、老人は最後に言う。
私の孫は特別な存在なので、彼にこのキャンディをあげるのだと。
これを、小市民的に、「私の孫は、自分にとって特別な存在」という意味に取るのも良いだろう。大ヒットした大泉逸郎さんの演歌「孫」の世界である。
しかし、この老人は、口で言わなくても、そうではないと思っているはずだ。

オバマ大統領の就任式に駆けつけた200万人の観衆は、自分は歴史的な場面に遭遇した特別な人間だと思っているはずだ。自分の他にも200万人いようが100億人いようが知ったことではないだろう。やはり特別なのだ。
ハルヒは冷笑しながら言った。「野球なんて興味なかった」
彼女の意識は受動的だった。
自発的、能動的、意欲的にオバマ大統領の就任式に集まった人たちとの違いはそこにある。
ハルヒは、生活全般において、知らず知らず、精神が受動的になっていたのだ。
野球場の観衆は、トドメの一撃であっただけだ。彼女の憂鬱は、遅かれ早かれ訪れたのだ。
映画「タイタニック」で、ローズが自分をカゴの鳥と感じ、17歳にして人生に絶望していた理由もそれだ。
ローズと違い、ハルヒは自分を奮い立たせ、全てに能動的になった。
だが、エネルギー切れは必然だった。
彼女は活力の補給を必要とした。いや、正しくは、エネルギーの供給を邪魔するものと戦わねばならなかった。そのために、閉鎖空間を発生させ、神人を暴れさせた。
だが、ある時から、彼女はあまり閉鎖空間を発生させなくなる。
もちろん、キョン(主人公でハルヒのクラスメイトの高1男子)と出逢ってからだ。
だが、キョンは自分の価値観にいちいち逆らってくる。そして・・・他の美少女を見てしまう。
ハルヒのイライラは最高潮に達し、世界は崩壊の危機を迎える。
この時の危機は回避され、ハルヒの精神は安定するが、キョンの中学時代の同級生の美少女の登場で、本質は普通の乙女であるハルヒは再び閉鎖空間を発生させる。

だが、著者の谷川流氏は、この続きをなかなか書かない。もう1年以上。

オバマ大統領は、母親は白人である。
両親はオバマが幼い時に離婚し、彼は母親に引き取られた。
オバマは、家庭では白人として暮らすが、学校では黒人としていじめにも遭う。
そして、「自分はいったい何者だろう?」と考え続ける。

ハルヒも、そして、著者の谷川流氏も、自分とはいったい何かを考え続けたに違いない。

「私とは?」
これは人類最大のテーマでもある。
南インドの聖者ラマナ・マハリシは、ただこのことだけを問い続け、ただこのことだけを問えと言う。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (5) | TrackBack (0)

2009.01.25

ニートの掟

私は、強いひきこもり気質で、実際に家でひきこもっていた時期もあるが、まあ、現在は世間的には十分に働いているし、失業期間といったものもほとんどない。
しかし、現在の日本の社会では、ひきこもりの人が働けないということに関しても理解はある。

だが、こんなことがあった。
二十歳の時、社員面接に行った。社員といっても、アルバイトや契約社員と別段変わらないという場合もよくあるが、まあ、そんな類である。
印鑑の訪問セールスの仕事だった。印鑑といっても、主要商品は10万円以上で、数十万円の商品もザラだ。
それはすさまじいセールスマンの世界で、面接相手は、小さいながらその販売会社の社長で、そんな印鑑を売りまくった人だろう。
穏やかに話していても、どこかすごみが感じられ、正直言ってヤクザのような雰囲気もあるが、鍛えられた大人だった。
その人が言った言葉が忘れられなかった。
「19にもなって、親にコヅカイをもらうようなのは、言っては悪いがもう駄目ですね」

私は面接に行っただけで、世間の常識というものを教えてもらったのだった。
有難いことである。
その会社に入ることはなかったが、以降、いかに辛くても、こづかいくらいは自分でなんとかした。

私はニートが悪いとは思っていない。
しかし、二十歳にもなったら、こづかいくらいは自分で稼がないといけないのも確かだ。
もちろん、バイトをするしかない。
学生にとって、バイト経験の貴重さは言うまでもないが、ニートであっても、こづかいを稼ぐためにバイトすれば、衣食住を親に依存する現実をリアルに感じてくる。
そして、バイトに少しずつ慣れていけば、働くこともできるようになる。そもそも、社員とバイトで別段違いがあるわけではないと思う。

若ければ、アルバイトするところなんていくらでもある。
こづかいくらいは自分で稼ぐというのは、掟と言っても良いと思う。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (5) | TrackBack (0)

日本の真の力は世界の非常識

皆さんも学校で、「日本人は真似は上手いが、オリジナルなものを作れない」とか教えられ、それを信じてしまったのではないでしょうか?
私も愚かにも信じていました。
例えば、日本人は、飛行機や自動車を自分では発明しなかったけど、その基本技術を修得して、より優れた飛行機や自動車を作るのはべらぼうに上手い。しかし、やはり、元々の発明はできない国民だってね。

それはね、目に見える部分しか見ていないからそう思うのですよ。それと、後は日本人に対するひがみも多分にありますよ(笑)。
オリジナル持ってない民族が、オリジナルを作った民族より良いものを作れるはずがないじゃないですか?
日本人のオリジナルは見えないのですよ。日本人のオリジナルは知恵だったのです。
そして、実は日本人のオリジナルの「もの」も沢山あるのですよ。ただ、外国人には、戦争の役に立たないもの、儲からないもの、楽をできないものは見えないのですよ。
日本人って、もともと、戦争道具は作らなかったのですよ。それに関しては輸入専門で、確かに応用しかやらなかったのです。自動車だって、日本の道路状況などを考えたら、それを作ろうという発想はなかったと思います。しかし、知恵と根気があるから、オリジナルをすぐに追い抜いてしまう。それを外国では、やっかみ半分で日本人は真似ばかりと言ったのですよ。

ただ、ある時期から、日本人は真似も下手になりました。
コンピュータの世界でも、日本人が作った基本ソフトウェア(OSやプログラミング言語)の優れたものはありません。
なぜかというと、日本人に知恵がなくなったからです。そして、儲かることや、単に楽になることや面白いことにしか興味を持たなくなったからです。
その中で、日本人のまつもとゆきひろさんの作ったプログラミング言語Rubyは世界的に注目されています。
Rubyもまた、オリジナルではなく応用です。外国で作られたプログラミング言語を発展させたものです。しかし、プログラミングを楽しくし、人々を幸せにする目標があったから知恵が湧いたのだと思います。

竹村健一さんは、昔、有名な言葉ですが、「日本の常識は世界の非常識」と言いました。
確かに、言われることも分かります。特に今の日本の政治家には良い言葉かも知れません。
しかしね、世界で非常識と思われるであろう、日本の素晴らしいものも沢山あるのです。
いや、日本の真の力は、海外から見れば常識を超えているのですよ。
それもまた忘れてはなりません。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.01.24

私が極端に食を慎む訳

私は、1日1食の菜食・粗食で、間食も一切しないが、他人に1日1食を薦める気は全くない。ただ、腹8分目の食事を勧めるだけだ。
しかし、大人であれば、間食はしないことはお薦めする。

私が、かなり極端な少食を敢えてするのは、人間性が低いからである。
岡田虎二郎は「忍耐、克己、努力の人は、力の伴わないやせ我慢の人間。こんなのでは駄目だ」と言ったそうだが、まさにその通りと思う。

だが、「食が全て」であることも確かなのだ。
現在の日本で、普通に腹8分目の食事など可能であろうか?

ニュース番組でさえ、食の紹介のようなものでは、いかにも食欲をそそる美味しそうな食べ物(その多くは獣肉だ)を、容姿端麗の女性アナウンサーが至福の表情で食べ、同時に、同じく美形のアナウンサー達が、いかにも共感せざるを得ない羨望の眼差しでそれを見る表情まで見せ付けられる。

また、テレビCMでは、容姿に非常に恵まれて生まれた可愛いアイドルが、それを食べると最高の幸せを感じることができることを表す最上の笑顔と共に、素晴らしい食べ物の最高の映像が流れる。

過食、飽食でなければ経済は発展しない。食べ物の半分を捨てているのが経済大国の実態だ。
国と大企業が結託し、本来は公正なものであるはずのマスコミを使って国民の食欲を増大させ、貪り食うよう煽り立てている。また、「朝食を食べないといけない」「多品目を食べないといけない」「3食食べないといけない」「沢山食べないといけない」「食欲を増すためにスポーツしないといけない」ことを強力に洗脳することにほぼ成功しているようだ。
「太ったら、ダイエット食品で痩せればいい」「たらふく食べて痩せるのが現代流」といった商売も大きな税収の元であるので奨励されている。
結果、国民の心身は病み、もはや取り返しのつかない状態にまでなってしまった。

その中で、人間性を取り戻し、本当の幸福を得るには、多少の無理も必要かもしれない。
そのような訳で、私はやや極端に食を慎んでいる。
1日1食を半年近く続け、ようやく普通の人間に近付いてきたように思う。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (6) | TrackBack (0)

2009.01.23

人の心の内を知るという意味

人の心の中を覗きたいと思うだろうか?
もし、それができたならば・・・人間に、人生に絶望するに十分であろう。
人がいかに、夫に、妻に、親に、祖父母に、あるいは関係の深い叔父さん叔母さんに、恨みや憎しみを抱いているかは想像を超えている。
そして、例えば親への憎しみを自覚している場合はまだ良い。そうでない場合、その憎しみは心の中で変質し、子供への憎しみに変わり、きっかけがあれば、子供をおぞましいまでに虐待することになる。

古いアダルト漫画で、当然かなり冗談めかしてはいたが、なかなか鋭い作品があった。
12歳くらいの超のつく美少女が登場するのだが、実は彼女は超能力者で、他人の心が読める。電車にでも乗ると、大人の男たちは、そしらぬ顔で、実は彼女に対する性的欲望を燃やすのであるが、そのすさまじさ、おぞましさを、読者は想像を超えると思うか、あるいは想像通りと思うか、あるいは、「俺ならそんなものじゃない」と感じるか(笑)。

だが、絶望させるばかりが本意ではないので、慰めではないが、別の事実も書いておく。
CLAMPさんの漫画「ちょびっツ」で、冴えない大学浪人生の本須和秀樹(もとすわひでき)は、人型パソコン、はやい話がアンドロイドのちぃを愛するようになる。ちぃは、見かけは15歳くらいの大変な美少女であるが、あくまで機械だ。
ちぃの双子の姉であるフレイヤは秀樹に言う。ちぃに心はない。プログラム通りに動いているだけだと。
だが、秀樹は言う。「ちぃの心は俺の中にある」
愛の力とはすごい。平凡な青年である秀樹は瞬間、悟りを開いたわけだ。
この世に他人なんていない。全ての人の心は自分の中にあるのだ。言い換えれば、全て自分なのである。
日本人は、大昔から八百万(やおよろず)の神といって、全てのものの中に神を見ていた。それらの神は、時に荒ぶる神であり、祟(たた)る神であった。古事記に出てくる神々のなんと人間臭いこと。男の神は、美少女を見るとすぐに行為におよび(笑)、次の瞬間には次々に子供が生まれるのだ(笑)。
全ては神の現れだと言うなら、自分もその中に含まれる。そして、不思議かもしれないが、同時に全ては自分の中にある。宇宙とはそのようなものだ。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.01.22

古事記の神秘な力

私はね、人間の最も美しい感情というのは、郷愁、すなわち、ノスタルジアだと思っています。

他人を虫けらのように扱い、冷血な心で非道な行いを重ねてきた悪党でも、子供の頃に遊んだ風景を懐かしむものです。
裏社会の大物になった悪党でも、子供の時にいじめっ子からかばってくれたごく平凡な人間に頭が上がりません。
お金持ちになり、美食ですっかり口が驕ってしまった者でも、貧しい子供の時に好物だった食べ物を食べるときは、美味しいとは思わないかもしれませんが、必ず郷愁に襲われます。

我々日本人には理解できないかもしれませんが、子供の頃から聖書に馴染んでいるアメリカ人にとって、大統領が就任式で聖書を使うのは、ごく当然なことでしょう。
子供の頃から、自由の女神を見て育ったなら、泥棒でも、自由の女神の修復式典の日は仕事を休みます。実際、1980年代のその日は、ニューヨーク中の泥棒が休業し、車のホイール1個盗まれなかったといいます(リー・アイアコッカ自伝「アイアコッカ2」より)。

人間には、幼い頃や、ごく若い頃の心に、力の秘密が隠されています。
横尾忠則さんは、10代の頃に好きだったことの重要性をよく訴えていますし、彼にとってはターザンや、ある冒険小説であったと言われていたと思います。
私など、高校生の時には既にエネルギーが切れておりましたが(笑)、幸い、グリムやアンデルセンの童話を猛然と読むことで、なんとか生きることができました。
エネルギーを自分の中から汲み出したければ、郷愁を誘う、幼い頃や、ごく若い頃の記憶を呼び覚ます必要があります。
ただ、その想い出は、美しいもの、知恵の隠されたものでなくてはなりません。

キリスト教圏では、幼い頃から聖書に馴染むように、宗教というのは、その意味でも重要なものです。
では、宗教を持たないとされる我々日本人は、美しく知恵に満ちたノスタルジアを呼び覚ますキーが無いかと言いますと、日本の昔話が記憶に残っていれば幸いです。日本の童話を特にお伽噺と言うのですが、お伽噺には知恵が秘められています。
そして、さらに我々日本人が、幼い頃から自然に馴染む思想は神道であると思います。それは意外に感じるかもしれませんが、神道はあまりに自然で空気のようなものなので、かえってそれが自分の中にあることに気付かないのです。
そして、更に秘密を明かすと、たとえ幼い頃に神道への関わりが希薄であっても、記憶には個人的なものとは別に、遺伝子の記憶もあり、そこには予想もできないような神道の記憶があります。
古事記を読むと、最初は漫画みたいに感じても、やがてそこに秘められた日本人の偉大な知恵を呼び覚ますことも可能です。
心が病み、エネルギーが枯渇したと思うなら、古事記を読むことをお薦めします。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (5) | TrackBack (0)

2009.01.21

日本人の感じる少女の美

日本人は少女好きである。
とはいえ、本来はロリコンという意味ではない。
欧米で、美しい少女を主人公にした映画などを作ったり、あるいは、ディズニーで白雪姫やシンデレラの舞台をやると、日本人にとっては、ヒロインの少女には、かなりの違和感や落胆を感じるはずだ。つまり、欧米人が考える美少女は、日本人の考える美少女と趣がかなり異なるのである。
欧米的美少女は、単に小型の女である。日本人が思う少女としての美しさはほとんど無い。
ディズニーの白雪姫あたりは、正直言って気色悪いと感じるのではないだろうか?いや、私も、美少女をテーマにした欧米の映画を色々見たが、良いと思ったものはなかった。
キューブリック監督の「ロリータ」(原作はナボコフの小説)は、当時14歳だったスー・リオンにロリータ役に起用して物議を呼んだ。これも、映画としては大変に素晴らしかったのであるが、この映画のロリータも、単に若い馬鹿な女でしかなかった。そもそも、原作を書いたウラジミル・ナボコフ自体、欧米的な美少女のイメージで小説を書いたのかもしれない。

さて、ではなぜ、日本人の美少女感は特別で、おそらくは、深い情緒性があるのはなぜであるかを説明する。
まず、なぞかけのような答を言うなら、
「日本は四季がはっきりしている」
「猛獣がいない」
からである。

「枕草子」にはこのように書かれている。
春は明け方が良い。
夏は夜が良い。
秋は夕暮れが良い。
冬は早朝が良い。

なるほど、そうだとも思う。だが、夏の明け方や夕暮れも素晴らしいだろう。
いや、どの季節だって、明け方や夕暮れは美しいのである。特に日本の自然のある場所では。
日本人には、本来、明け方や夕暮れといった微妙な時の美しさを特に愛でてきたのである。山や海での明け方や夕暮れの美しさに心洗われないはずはない。
この微妙さが、日本人の感じる少女の美しさなのである。日中でもなければ夜でもないが、単にその中間でもない特別な美であるのだ。同じように、子供でも大人でもない、特別な美しさが少女にあることを感じるのが日本の伝統であった。
上に「猛獣がいない」という一見不思議な条件をあげた。ジャングルでも夕暮れは美しいのであるが、そこでは夕暮れは夜行性である猛獣が目を覚ます合図であり、人々にとっては、恐怖や警告の合図でしかない。
自然が豊かで、なおかつ、猛獣がいない。狼がいたとしても、狼は人は襲わない。このような恵まれた中に日本人はいたのであり、そこで独特な情感を発達させた。わび、さび、もののあはれ・・・これらは、欧米人にはなかなか理解できないものである。

そして、現在、日本に少女がいなくなってきた。
年齢的には少女でも、単に大きくなった子供か、若い大人の女でしかない。欧米と同じである。それも、日本人が自然に接しなくなったからというのが大きいと思う。
現在の「萌え」の中に、少女の美しさを捉えている部分は確かにある。上に書いた通り、既に少女の居ない日本で、現実の女の子より、アニメの中の少女の美しさに真の美を感じるのもその表れであろう。しかし、やはり自然に接して情感を磨いていないので、性的魅力にばかり関心が向かってしまっているのである。そのため、萌えとロリコンが非常に近くなってしまっている。
日本人はもっと自然に接し、その中に神秘を見出し、これらを神と感じた古来の感覚を蘇らせることで、再び特別な民族となるであろう。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.01.20

以心伝心の美徳

日本人の性質を表す言葉として「以心伝心」というものがある。
言わなくとも考えが伝わるといった意味で、美点とも欠点とも言われることがある。
ただ、最近では、こういった日本人の性質に対する批判の方が目立つように思う。

私は、結論から言うと、以心伝心というものが悪いのではなく、日本人から美しい以心伝心が消えたのだと思う。
日本人が本来持っていた以心伝心は素晴らしいものである。
現在の日本人は我欲が強くなってしまったことが、良い以心伝心が出来なくなった原因と思う。

アメリカを典型として、多民族国家では、同じ地域に住んでいる人々でも、考え方が相当に異なるのが当たり前であるため、そのような国ではコミュニケーション技術がないと、うまくやっていけない。多様な相手に対する説得技術、それでいて反感を持たれないための観察と対応技術、その他、あらゆる対話術が発達した。特に立場の弱い者は、その能力を高めないと生きていけないという事情がある。
そのような場所で、以心伝心なんて言ってたら、何も相手に伝わらないし、何も得られない。どうすれば自分の主張を通し、相手を説得し、有利な条件で取引するか必死で考えないといけないのだ。
下手な主張をすれば殺されるし、かといって主張せずに大人しくしていたら全て奪われるという厳しい状況で磨かれた交渉技術は、日本人の太刀打ちできるものではない。
日本人は政治的な交渉が下手で、外国に不利な条件を押し付けられることが多いが、それも多額の金を貸しているような相手からすらそうである。国際社会では圧倒的に有利な立場にあるはずなのに、立場の弱い北朝鮮に対してすら手も足も出ないと言って間違いない。
中国や韓国相手の交渉を見ると、いったいどちらが借金をしている方の国なのか絶対に分らない(当然、日本が莫大な金を貸しており、それが返ってくる見込みはほぼ無い)。ましてや、アメリカと対等な交渉ができるはずがない。

では、日本人同士の以心伝心というものはどうであろう。
現在でも、我々は、形の上では、多くのことで以心伝心に頼っている。
ただ、皆が、自分に都合の良い考えが伝わり、それが了承されているはずだという、おかしな以心伝心になってしまっているのだ。
それで、いざ、言葉で伝えると、相手の考えが、自分の期待するものと全く異なることが分って愕然としたり、その時に初めて文句を言ったり、うろたえたりするのだ。
「私はあなたを愛しているの。あなたもそうでしょう?」
「あれは遊びだろう。君もそのつもりだと思っていたさ」
なんてことは、あまりにありふれたものである。
西洋では、恋人や夫婦がいつもキスをし、「アイラブユー」と言う。日本人から見ると、堂々としている点が羨ましい場合もあるが、慎みに欠け情緒がないようにも感じる。しかし、彼らの、「言わなければ何も伝わらない」という伝統は愛情に関しても例外ではなく、常に愛していると外面的に表現しないと愛していることにならないのである。それは、男女の間だけでなく、親子の間でも、「愛しているよ」とはっきりと、そして、頻繁に言う。
西洋人の恋人を持つと、日本人はとまどう場合が多い。日本人の男の子はアイラブユーを言わないので、西洋の女の子は愛情を疑うし、日本人の女の子は人前で恋人といちゃいちゃせず、他の男の子と同じように扱うので、西洋人の彼はヤキモチを焼くのである。

日本の自動車メーカーや電気製品メーカーは、「不況になれば、期間従業員や派遣労働者を抱えておれないのは、彼らだって分っているはずだ」と思っているが、労働者の方は、「会社は、我々の生活を配慮するはずだ」と思っている。お互いの意思は全く伝わっていないが、この場合、立場の強い会社側の思い通りになる。そして、強い反発を見せる労働者達に、会社幹部も戸惑っているだろう。「こんなリスキーな労働形態を選んで働いているのだから、いざという時の準備くらいしておくべきだ」と思っているに違いない。
親と子、上司と部下など、現在、ほとんど以心伝心が正しく伝わらない間では、立場の強い方の意思が通ることとなる。弱い立場の者が、心を抑圧され、その場所に行こうとしなくなって、登校拒否や登社拒否となり、ひきこもりになってしまう場合も多いだろう。

人気アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」で、ドイツから来て日本の風習が分らずに戸惑うアスカに、ミサトは「察しと思いやりが日本の伝統なのよ」と言う。
そして、今の日本人は、相手の心を察する感受性と思いやりに欠けているのだ。そのような中で、以心伝心に頼ると、上にあげたようなことになってしまうのだ。

そう、日本の以心伝心は、察しと思いやりの上に成り立っていたのだ。
実際には、相手の考えなど分らない場合の方が多いだろう。
しかし、その場合でも、相手を悪く思わない。誤解するとしても良い方に誤解するという美徳があったのだ。
ZARDの「心を開いて」という歌に、「私はあなたが思ってるような人じゃないかもしれない」という詩がある。
また、子供が悪いことをした時も、「あなたは、あの子を助けたくてわざとやっただけでしょう?」とかばってあげる。
そうすれば、良い誤解を受けたり、かばわれた方も、相手の思いやりや期待に答えようとするものであった。
いや、実際は、いくら良く思ってあげたり、かばってあげても、何度も裏切られることもある。しかし、それでも信じてあげるという愚直な人間を賞賛する性質も日本人にはあったのだ。
実を言うと、本来のキリスト教の教えもこれに近いはずである。イエスは「自分がして欲しいように他人に対してもせよ」と言っている。これは黄金律(ゴールデン・ルール)と呼ばれているものと思う。黄金律の実践には「察しと思いやり」が必要である。また、ハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」とは反対に、「右の頬を打たれたら、左を差し出せ」という様に忍耐も要求している。

自己主張も大切なものとは思うが、慎みも大切であり、日本においては、特に自分の利益のためのことに関しては慎みを美徳としてきた。
しかし、現在の日本人は慎みを忘れ、かといって、アメリカなどのように、コミュニケーション技術を、生死を賭けた交渉で磨いてきたわけでもない。
それで、身の程も知らずに、ただ要求するだけの日本人だらけになってしまったように思う。

ディベートや交渉術は日本人向きではないと思う。
日本人は、ディベートや交渉が通じない自然の中で、自然と共生して生きてきたのだ。
その中で、自我を消滅させることで、正しく以心伝心が成立し、何事もうまくいくことを知っていた。それは自然すら味方にすることができた。
不要なものを求めず、現状を幸福に思い感謝することで自我を消すことができる。
そうなれば、恐れることは何もない。
どうすれば、不要なものを求めず、現状を幸福に思い感謝できるかというなら、食を慎むのが最も簡単である。それ以外の方法がもしあるとしても、非常に難しいと思う。常に空腹に感じる程度に食を慎めば、心は治まり、我欲は少なくなり、感謝しやすい心となる。
自然と共生してきた日本人には特にその効果は大きいのである。ならば、少食にせずにいられようか。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (6) | TrackBack (0)

2009.01.19

内定取消しは、それほど悪いのだろうか?

企業の新入社員内定取消しは、そりゃ良くないことでしょうが、私は、「そういうこともある」という認識を持っている。
学校の入学取消しじゃないんだから。
問題は、さほど深刻な業績低迷でもないのに、採用取消しを行うことがいけないということだと思うが、深刻かどうかなんて、その企業にしか分らない部分も多い。政府よりよほどまともな目を持つ経験豊かな投資家や証券アナリストの予想だって外れるのだ。
だってね、深刻かどうかを判断するには、その企業の収支だけでなく、海外を含む取引き先の状況や、世界の政治、紛争、気象その他の多くの要因が関わることもあるし、いかに経営状態良好な会社だって、明日にはあっけなく潰れることもあるのだ。
経営危機を主張する会社に対し、なぜ危機的かと質問して、経営トップが「俺の勘だ」と答えたとしたら、それはかなり重要な根拠である。
例えば、ある国で事業展開をし、順調に行きかけた途端、その事業が国有化され、その国に没収されるなんてこともいくらでもある。

会社や、ましてがトップが、新しい社員を抱えていく自信がないと思っているなら、むしろ、それをもっと表明させた方が良い。
今、入社できても、業績がどんどん悪くなって、待遇が悪くなり、あげく、リストラされたり、会社が潰れるよりずっと良いではないか?
特に、学生のように若ければ、選ばなければ仕事はいくらでもあるのだ。
家庭向けセールスや、キャバレーのボーイ、それに、大手は無理かもしれないが、サラ金の回収員なら結構募集している。こういった仕事は素晴らしい経験になる。経験者は語るってやつだ(笑)。
だいたい、仕事の経験もないうちに、立派な会社できれいな仕事をやりたいって根性がいけないと思うのだよ。若いうちは、ドロドロの仕事をやってみることだ。違法でない範囲でね(笑)。
きっと、きみの大きな財産となるはずだし、ものを見る目も違ってくるさ。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.01.18

ハルヒとのシンクロと、ハルヒの意味

阪急西宮北口駅周辺は、西日本最大のショッピングセンターである西宮ガーデンズができたおかげで、すっかり人が多くなった。
ことに土日はそうで、西宮ガーデンズの中はもちろん、周辺の喫茶店も混むようになった。
午後3時頃、入れる喫茶店を探して歩いていたら、入れそうなところがあったので入った。
そして、メニューを見て、「あっ」っと思った。「夢(Dream)」が店の名前だ。周りを見回す。
間違いなかった。「涼宮ハルヒの憂鬱」で、ハルヒ達がよく利用する喫茶店だ。
ハルヒやキョン達は、西宮北口駅(小説やアニメでは「北口駅」)の北側の公園で待ち合わせをし、この喫茶店に入るのである。
著者の谷川流氏も、この喫茶店を利用したのだろうか。
入口の正面にあるガラスケースの中に、しっかり「涼宮ハルヒの憂鬱」の小説が置かれていた。

ところで、これは著者が解説したことがあるのかどうかは全く知らないが、「ハルヒ」とは、おそらく「張る霊(ひ)」だと思う。
これは、神道の「祓(はら)い」の語源という説もある。
「張る」は「春」である。春は、草が萌え出でる季節であり、生命が膨張するという「張る」が「春」になったのだ。
つまり、祓うとは、春のように、霊魂にエネルギーを与えるという意味なのである。
私は、今年正月から毎日、「大祓詞(おおはらえのことば)」という祝詞を上げているが、まさに神道家であると共に、ハルヒ信者である(笑)。

Yuki_2
「涼宮ハルヒ」シリーズの登場人物の1人、長門有希(高校1年生)。その正体は、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース。早い話が宇宙人製アンドロイドだ。ただ、有機アンドロイドなので食事はする。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.01.17

西洋に劣等感を感じることができなくなるには

よく、「日本という国に誇りを持とう」とか「自分の国に誇りを持てないようでは駄目だ」と言う者はいるが、では、どう誇りを持てば良いのか、何に誇りを持てば良いのか言える人はほぼいない。
「美しい日本」と言うなら、他の国だって美しいさ。
そもそも、日本は江戸末期以降、西洋の列強から、あるいは、それら西洋の列強を知る日本人から、ずっと否定され続けてきたのだ。
明治時代に欧米に行った者は、資本主義が生み出した日本では考えられない壮大な事業・・・巨大な工場や運河の建設に圧倒され、契約社会、法律社会の合理性を見て、自分達の無知を徹底的に思い知らされた。
太平洋戦争中でも、現在と変わらない格好で自転車で大学に通うアメリカの大学生の映像を見せられ、また、アメリカの軍隊では、若い兵士すら、衛生的で快適な空母、戦艦の中で美味しいもの(おやつすら)を食べていたと知って、日本の軍隊との違いに愕然とする。
戦争が終わってしばらく経っても、欧米と日本の生活水準の差は大きく、1940年代のアメリカ映画では、中流家庭の家の庭でスプリンクラーで水が撒かれ、自家用車に乗り、冷蔵庫に氷があるのが当たり前。当時、日本では、冷蔵庫の存在を知らない人が圧倒的だった(1960年頃なら、まだ氷を買ってきて入れる冷蔵庫を使っていた)。庶民が、まさか自分が車を所有するなど、夢にも思わなかった時代だ。スプリンクラーで庭に水を撒く家って、今でも滅多にない。
日本人は馬鹿だった、日本人は劣っていたとして、日本人の間でも、いかに欧米化するかが誇りであったくらいだ。
そんな中、戦後、プロレスの力道山が、圧倒的に大きなアメリカ人レスラーをやっつけるのを見て熱狂したことがあるが、まさかあれで日本人が日本に誇りを持ったわけではない。単に喜んだだけだ。力道山に続く日本プロレス界のヒーローであったジャイアント馬場は、西洋人レスラーより大きかった。有名な精神科医の香山リカさんは、既に日本人が馬場を見る目は力道山を見る目と違っていたと書いていたような気がするが、私はそんなことはなかったと思う。日本が西洋に劣ると思うからこそ、西洋人に身体で優り、常に勝つ馬場さんを見て、どこか卑屈な快感を感じていたのではないか?
現在でも、オリンピックで日本人が日本を応援するのは当然であるが、特にマスコミや大企業の応援する様子は、昔の日本人が力道山を応援するのとちっとも変わっていないのではないか?あるいは、日本人をそのように煽っていないか?

池田満寿夫さんが欧米で大きな賞を次々受賞していった中、ある画家が池田さんに言ったそうだ。
「お前が成功したのは、版画であったというより、作品が小さかったからだ」
池田さんはそれをすぐに納得した。
日本人は、欧米人のような大きな空間感覚はないが、精巧なものを作る感覚は優っていると。
岡本太郎さんは二十歳くらいでフランスに行った時、他の日本人画家が西洋人画家の描き方を真似しているのを見て心苦しく思い、長い間絵が描けなかったという。
岡本太郎さんは、日本の芸術界は徹底的に非難したが、江戸時代以前の日本の芸術は高く評価している。
岡本太郎さんの作品は、もちろん伝統的な日本の芸術ではないが、西洋のものとも違う。あくまで独自のものではあるが、壮大なものを作っていても、どこか日本の感覚は感じる。
私がやっているような、コンピュータソフト開発の分野でも感じる。
アメリカ人はダイナミックだ。中国人は速い。しかし、日本人は丁寧だ。現在は、ダイナミックで速いが雑な日本人開発者がトラブルを起こしている。

芸術に限らず、日本には西洋とは異質の優れたものがあるのだが、それまでひっくるめて否定してしまってきたのだ。
いまだ、いわゆるナイスバディの女性を指して、「西洋人並のスタイル」なんて言葉が普通に使われるのは滑稽と思うが、そう認識している人は少ないと思う。
断言して良いが、日本には日本独自のものの中に、西洋にはるかに優るものが数多くあり、それを取り戻せば西洋への劣等感を持つこともできないし、真に日本人の誇りを取り戻せる。
そのためには、西洋への卑屈な崇拝に固まってしまった、現在の日本の教育、政治、経済あたりを消去する必要はあるかもしれない。だが、破壊することは特に考えなくて良いのだ。
いきなり言うと突飛に思えるのだが、必要なのは慎みだけである。その中でも、食の慎みだけが重要だ。誰でも、いますぐできるものだ。少し苦しくても見返りの大きさは大変なものである。
それにより、日本の優れたものを実感し、日本人であることに誇りを持ち、結果、日本は世界から真に評価され、指導的立場に立つこともあると思う。ただ、その前に、日本は一度どん底に落ちる必要はあると思う。それこそ、韓国のようにIMFの管理下に入り(財政破綻しているということであり、事実上、独立国家と見なされない)、国が潰れるところまでいくかもしれない。
しかし、何もそこまで苦労する必要もないのであり、ただ我々が食を慎むことで、飛躍が可能なのである。一方、富裕層になればすぐにグルメにのめり込む中国には見込みはない。しかし、タオイズム(道教)という素晴らしいものを持つ中国にもまた、別の飛躍のシナリオがあるかもしれない。中国仙道においても、食べないことこそ人間を超える道であったはずなのだ。少なくとも、我々が先に食の慎みを選べば、中国は恐るるに足りないはずである。

余談であるが、外見が欧米人に劣ると思われている日本人であるが、日本女性が世界的に人気があることはご存知かもしれないが、実は男性も案外にモテるのである。一例ではあるが、男性のカッコ良さで世界最高水準である北欧に留学した、昔型の(短脚胴長)日本人男性が、現地ではモテモテで、ダンスパーティーの時は、自分と踊るために、女の子達が列を作って待っていたという、その人の親でも信じてもらえなかったという状態であったらしい。ただ、そこでは、日本人の女の子も人気があるのであるが、その理由を現地の男性に聞くと、「日本人の女の子は誠実なだけでなく、歩き方がアヒルのようで愛らしい」。日本人男性も、欧米でモテても、アヒル歩きでモテたとは思いたくないものである(笑)。もっとも、現在の日本の女の子はアヒルではなく、すらりとした四肢を持つようにはなったが、誠実さはなくなったのではないかと心配する。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (3) | TrackBack (0)

2009.01.16

痩せると寒いですよ

昨年8月7日から、1日1食の菜食で、間食なしの食生活を始め、25kg以上体重が減った。そして初めての冬を迎えて面食らったのは「寒い」ということだった。
そりゃ、脂肪という保温層がほとんど無くなってしまったのだから当然である。
とにかく寒い。
それでも、少食の効果と思うが、風邪をひくことがなくなったのであるが、安心し過ぎて、薄い布団1枚で寝ていたら1度風邪をひいた。それはすぐに治ったのであるが、やはり恐ろしく寒い。
少食の唯一の弱点はこれであると思った。

寒さを防ぐには、身体が燃焼を起せば良いのであるが、その材料となる脂肪がない。
脂肪を付けるためには、脂肪分を摂取するという考えがあるが、草しか食べない牛に脂肪がたっぷり付いているように、生体というものは必要なものを作り出す能力を持っている。一頃、「脳のエネルギーになるのは砂糖だけ」などというテレビCMがあったが、脳はブドウ糖のみをエネルギー源とするのであり、これは砂糖を分解して作るのが最も簡単であることは確かだが、炭水化物(米、パン)、果物からも作られる。
甘いお菓子を食べると脂肪が付くが、その仕組みは次のようなものだ。糖分はブドウ糖に変わり血液に入る。いわゆる血糖である。血糖値が必要以上に上がると、インスリンという酵素により、ブドウ糖は中性脂肪に変わるのである。
それなら、私も糖分を摂取して、多少の脂肪を付ければ良いのではと考えたが、どのくらい糖分を摂れば、血液中のブドウ糖が中性脂肪に変わるのか分らない。
私が普段摂取する甘いものは、夕食時に少量の金時豆を食べる位である。私が愛食する金時豆はオリゴ糖を使っているとあるが、オリゴ糖は化学的にブドウ糖に近いので良いとは思うが、その程度の量では血糖値は上がらないと思われる。
そこで、出来るだけ身体に良いものということで、黒砂糖(沖縄産)を食べてみた。
いったんは脂肪が付かないと燃焼するはずもないが、毎日、黒砂糖の塊を2~3個食べてみても変化が見られない。体重やウエストサイズを計ると、寒くて高速で歩いたり階段を上るせいか、逆に減ってしまっていた。やはり、その程度の量では駄目なのだろう。

ところで、意外なことだと思うが、身体の熱の45パーセントは頭から奪われるのだ。
だから、スキンヘッドの人などもかなり寒いはずだ。
よって、効果的な防寒対策は帽子を被ることである。

しかし寒い!
派遣の仕事を解雇されてホームレスになった方々のことが他人事に思えない。私なら耐えられず、銀行に行って、「お金をいただきにきました」と言って逮捕されるかもしれない。冗談ではない。
私は定額給付金なんかいらない。今日にでも彼らにあげて欲しい。また、施設に入り損ねている人を探して保護してやって欲しい。
会社に留保があり、社員、ことに偉い人達が十分に豊かな中で彼らを解雇した会社の製品はもう絶対に買わない。マークIIの買い替えも考えていたが、はっきりやめる。
日本人は思いやりある民族だったはずだ。その伝統を忘れた企業が生き残るとは絶対に思えない。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (5) | TrackBack (0)

2009.01.15

少食とダイエットの違い

昨年8月7日から始めた、1日1食、間食一切なし、菜食も5ヶ月を過ぎた。
以前は、相当な大食で甘いお菓子も大好きであったが、それらをぴたりとやめることが可能であることも分った。

ところで、30kg近くも体重が落ち、外見が相当変化したこともあり、ダイエットに興味を持っている人にいろいろ聞かれるようになった。
その中で、大変に驚かされたことをいくつかあげておく。
まず、私が、1日1食で、肉、魚を食べず、お菓子も一切食べないことに対して誰もが驚くが、よく、「それをどのくらい続けたのですか?」と聞かれるのだが、それは私を大いに戸惑わせた。なるほど、ダイエットや健康目的の場合、食事制限を1ヶ月とか期限を設けて、その間はがんばるというものであるのかもしれない。しかし、私が「今でもやってます」と答えると彼らは驚き、さらに、「一生続けますよ」と言うと絶句する。
彼らは、痩せるとか、健康状態が良くなることが目的であるのだが、私の場合は、言ってみれば、食べないこと自体が目的なのだ。結果として、痩せるし、健康になるが、それはオマケのようなものである。
そして、食べないこととは何かというと、言葉で言うのは難しいが、道(タオ)、徳に通じるものである。言い換えれば、道や徳が目的なのである。

もう1つ、ちょっとおかしなことがあった。
1日に1回だけの食事である夕食のメニューもよく尋ねられる。
もちろん、毎日同じものを食べるわけではないが、「例えば、ライスと豆腐、それに野菜」と言うと、ある人に「サラダですね?」と言われ、また戸惑ってしまった。今の私には、サラダとはいかなるものかというイメージがほとんどないのだ。この時の相手が大金持ちだったこともあるが、一般的に言っても、野菜といえば、調理され、味と彩りを整えたサラダであるのが普通かもしれない。しかし、私には、そんなものは贅沢過ぎるのである。私の食する野菜は、キャベツ、レタス、キュウリ、ブロッコリー、アスパラなど、洗って切ればそのまま食べられるもので、実際にそうやって食べている。別に何も付けなくても良いのであるが、リンゴ酢を付けて食べることも多い。

食に関する、一般の感覚と私のそれでは随分違ってきていることが実感されてきた。
しかし、以前は私も彼らと同様であったのだ。
グルメな方と付き合ったこともあり、フランス料理、イタリア料理、中華料理、会席料理など広く味わい、自分でも研究し、ワインなどもそれなりに詳しかったこともある。
私も、グルメ全部が悪いとは思っていないが、問題はやはり心なのである。

「奥様、食事というものは、ただ合理的なだけでは駄目なのでしょうか?」
「そうですねえ・・・。でないと、こんなに多くの料理はないと思いますよ。手を変え、品を変え、手間暇かけて愛情込めてこそ、楽しい食卓になるのではないでしょうか?」
~アニメ「灼眼のシャナ・セカンド」より ヴィルヘルミナ・カルメルと坂井千草の会話~

だが、現在は、主婦の多くが手間暇をかけるのは嫌がるが、皆、食欲を果てしなく増大させ、より美味しいものを渇望し、果てしなく食べ続ける、仏教で言う餓鬼の世界になってしまっている。
僅かな米と一汁一菜であったとしても、手間暇をかけ愛情を込めれば、楽しい食卓になるのである。
また、少食にしてこそ、食事の真の楽しさ、喜びが分り、そして、食べ物の本当の美味しさを味わうことができるのであると断言する。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.01.14

感謝する心を我に

何度かお逢いした政木和三さんは、常に、「自分ほど幸せな人間はいない」と言っておられた。

このように、感謝の心を持てば、幸福が約束されないはずがない。
それは、今、現在への感謝であることを忘れてはならない。
現在が、どんな状況であれ、感謝できることが重要であるのだ。

ただし、口先で「ありがとうございます」とか「感謝します」と言っても、すぐに不満や愚痴が出てくるようでは話にならない。
本当に感謝していないと駄目である。
本当に感謝しているなら、心は穏やかで明るく、不満や愚痴は出てこない。
恵みが欲しいという下心で感謝しても無駄である。
斎藤一人さんは、「ツイてる」「ありがたいなあ」「幸せだなあ」と、それぞれ口に出して千回言えと本に書いていたが、斎藤さんには悪いが、心が穢れた人間ではやはり無駄と思えてならないのだ。

では、感謝の心を持てるようになる秘法を授ける。
極端には、1週間ほど食事を抜けば良い。その後、粥の一杯でも食べれば、その有難さに、心から「有難いなあ」と思うだろう。
ただし、これはお薦めしない。
いったんは、有難いと心から思ったとしても、すぐに忘れるからだ。多分、食べてから数分でね(笑)。
一度だけ極端な断食のようなことをしても何の意味もない。常に、少食にすることだ。
24時間、いつも空腹を感じる程度にしか食べないことだ。満腹など、絶対にしてはならない。
食事の度に、有難さ、感謝の念が起こるように食を節すれば良い。
そうすれば、「有難いとはどういうことなのか」「感謝するとはどういうことなのか」というのが、少しずつ、しかし、はっきりと分かってくる。
おまけに、スリムになって動きやすくなる。食べずに痩せると美しくなる。健康になる。その上、感謝の心を持ち、運もよくなる。
良いことだらけである。

キリスト教の有名な聖者が、ただ1つの望みとして、感謝する心を願ったという話がある。
感謝する心は、俗界においても、宗教においても、実に素晴らしいものである。
それはただ、食を慎むことで得られるのである。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.01.13

塩のチカラ

塩化ナトリウム(NaCl)に「食塩」という名前が付いている。
昔、政木和三さんに、塩化ナトリウムに食塩と名前を付けたのは、国(旧厚生省か)の役人だと聞いた。政木さんは、「馬鹿なことをしたものだ」と非難されておられた。
政木さんは、疲れた時に少量の塩を口に入れると言った。医学的常識では、塩の摂取は高血圧を招くとかあるが、それは塩化ナトリウムの場合であり、政木さんは天然塩を摂取するという。天然塩には、マグネシウムをはじめ多くの成分が含まれており、味も甘みがあり、塩化ナトリウムだけの塩とは全く違うもので健康に良いらしい。
だから、塩化ナトリウムに食塩(食べる塩)という名前を付けるなど、言語道断という訳だ。

最近、春日大社の宮司である葉室頼昭さんの著書「神道 見えないものの力」を読んだが、この本の中では「塩のエネルギー」という章を割いて、塩の重要性について、神道と医学の両面について述べておられる。葉室さんは、神道の最高位であり、なおかつ医学博士で、特に形成外科における世界最高の医師であった。
血液は海水とほぼ同じ成分であり、医療でも、生体に活力を与える時には塩分を補給する。また、神道では、祓いの儀式に塩は欠かせない。また、日本では伝統的に塩を多く摂取し、食料保存にも塩漬けという手法を取るなど、塩の効用をよく知っていたことなどが、この本に書かれていた。

「神道 見えないものの力」でも書かれているが、古事記では、イザナミ(女神)と共に最初に地上に降りたイザナギ(男神)は、死んだイザナミに逢いに黄泉の国に行き、変わり果てたイザナミから逃れて生還した時、穢れを祓い、また、疲れを癒すために海に入っている。
この時、イザナギからは実に多くの神々が生まれる。海の中で、イザナギが左目を洗った時に生まれたのが、後に天界(タカマガハラ)の主となる、天照大神(アマテラスノオオカミ)という女神である。
このように、塩は、穢れを祓い、活力を回復させるために重要なものであることが書かれているなど、一見、荒唐無稽に思える古事記には、多くの知恵が込められているものらしい。

そこで、マグネシウム、カリウムを多く含んだ天然塩を買ってきた。舐めてみると、甘いのに驚いた。
身体、もしくは、心が疲れた時に、ちょっと摂取してみると良いかもしれない。イザナギノミコトのように、祓い清められ、回復するかもしれない。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (4) | TrackBack (0)

2009.01.12

ヘレン・ケラーの「楽天主義」

久し振りに、ヘレン・ケラーの「楽天主義」を読んだ。
この本が、ヘレンが学生時代に書いたものであるというのは大変な驚きである。その内容は、悟りを開いた聖者か、最高の哲学者のようである。
人間を超えたために発狂したとも言われるニーチェすら超えていると思う。それでいて、難解でない。

ヘレンは、目で見えるものは全て幻想であると言う。
感覚で触れるものは、リアルな世界ではなく、現実の不完全なコピーであると。
そして、観念のみが真理であると言う。
悟りでも開かないと、こんなことは断言できないだろうと思う。

ヘレンは、自分の精神の中に深く深く潜って真理を見たからこそ、こう言ったのだと思う。
これらは、科学的にも真理である。
そして、真理の前では、健常者も自分のような障害者も平等であると言った。
ヘレンは、外界の情報にあまり惑わされないことをメリットに変えた。
ラマナ・マハルシは、真理を見つけるためには、自己を探求し尽さないといけないと言ったが、ヘレンはそれをやったのだ。

それはともかく、楽天主義の話をしよう。
ヘレンは楽天主義の重要性を説いた。
楽天主義とは、未来を良いものであると信じることである。
楽天主義を掴み取った人は幸福な人間である。
だが、楽天主義になることは難しい。

今回は、楽天主義となるための1つのコツを教える。
例えば、会社で働いているとして、不況になっても解雇されないと信じることが楽天主義なのではない。
大学を受験して合格すると信じることも楽天主義ではない。
我々に外界の状況自体は支配できないし、する必要もない。
子供の学芸会の内容に、いちいち注文を付けていては楽しくないではないか?
確かに、我々の外部の状況は、我々の内面を鮮やかに現している。
とはいえ、望みの状況を実現するには、それなりの条件が必要だし、まあ、ままならぬものと思って間違いない。
そうではなく、いかなる状況になっても幸福であることが楽天主義であるのだ。
Zardの「突然」という歌に「僕は君の大事な人になれるのだろうか?」という歌詞がある。そんなことは分らないのだ。きっと確率は低い(笑)。
だが、坂井泉水さんは、この後に面白い詩を続けた。「この夢はどんな時も笑っているよ」どんな結果になっても幸福なのだ。
ヘレンは、その理由を「神の愛の中にいるから」と言った。
ヘレンは、それを狂信的に、あるいは、無理に信じたのではない。自己を深く探求する中で、その真理を知ったのだ。
例えば、斎藤一人さん(日本一の富豪のビジネスマン)は、「困ったことなんか起こるはずがない」と言った。
悟ってしまえば、当たり前のことなのだ。
また、春日大社の宮司である葉室頼昭さんの「御力(みりょく)」という本の中にこんなことが書いてあった。
「神様を最も侮辱するのは、取り越し苦労と持ち越し苦労です。神様が良くしてくれないはずがないじゃないですか」
偉大な経営者でもある、台湾出身の米国の作家チン・ニンチュウは、自分は神の羊であり、神様にしっかりと面倒を見てもらえばそれで良いのだと分った時、感激のあまり涙が止まらなかったと言う。
イエスも「明日のことを思い煩うな」と言ったではないか。心配しなくても、天の父は面倒をみてくれると保証した。
荘子は、全てをなりゆきにまかせ、無限の道(タオ)の中を逍遥(きままにぶらぶら歩くこと)しようと言った。
偉大な人たちと同じく、そういった境地に至れば、何の不安もなくなり、楽天主義になれる。
だが、たやすいことではない。
普通は、大変な苦労をしたり、勉強をしたりした末にも到達できないかもしれない。
しかし、食を慎みさえすれば、凡人たる我々にもそれは可能だ。
不要なものを求めなければ、後は全て面倒を見てもらえる。食を慎めば、不要なものを求めないコツを掴める。逆に言えば、食の慎みがなく、大食、美食する者はそうではない。ただ、食で決まるのである。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.01.11

長く使える美徳から学ぶ

私は、数年前から、家の中での着衣として作務衣(さむえ)を愛用している。
作務衣とは、僧侶の作業着として始まったが、現在では、普段着として愛用する人も多い。

今月(2009年1月)1日に30歳になったKinkiKidsの堂本光一さんも自宅で作務衣を着ているという話を聞いたことがある(彼は、休みはほとんど外出しないらしい)。
私は同じものを2着買ったが、1着だけで3年着ても、全く問題なかった。今年、やっと2着目を出した。もちろん、1着目もまだまだいくらでも着れる。
色は紺だ。自分では、とても似合うと思う。

和式の服というのは、サイズはかなり大雑把で良いという便利さ、気楽さがある。
作務衣も同様で、全体的にゆったりとしており、痩せている人と太っている人が同じものが着れる。
作務衣は、上下2対の和式の衣で、下側はズボンに似ているが、腰は、衣に通した紐で締めるので、ウエストサイズはほとんど関係がない。また、足首も紐で締めるので、脚の長さも関係なく着れる。
もともと、和服というのは長く着れるものであり、親から子、子から孫と受け継ぐものであった。良い和服となると、使えば使うほど、深みが出てくるものである。よって、流行を超え、時代を超えて着れるのが和服だ。
このあたりは、現代的な大量生産、大量消費と全く異なる。

長く使える。これは日本人にとって大切なことであると思う。
刃物でも、良いものは長く使える。
祖父から伝わる小刀を使っているというマタギ(日本式の狩猟者)の話を聞いたこともある。

資本主義的経済から言えば、同じものを大切に長く使うと、物が売れず、経済は発展しない。
しかし、大量消費が生み出す物的な豊かさが行き着く果ては見えたように思う。
もちろん、日々消費するものも多いし、それらの生産やリサイクルは効率的であった方が良い場合もあるだろう。
例えば、鉛筆である。ただ、筆記具でも、筆や万年筆であれば、やはり良いものは長く使えるのである。
ひょっとしたら、効率的に大量な生産が必要なものは、食料と燃料、あるいは染料(インク)といった、料の付くものくらいかもしれない。それと紙であるが、昔から、日本では紙の無駄遣いは戒められてきた。

自動車だって、日米の自動車メーカーはできるだけ早いサイクルで新車に乗り換えてもらえる戦略で儲けてきており、もともとが、10年、20年と乗れる車作りをしていない。それが間違いであることが、日米の自動車産業の衰退ではっきりしてくると思う。
ヨーロッパ、特にドイツ車は、長く乗れる車作りをしている。ポルシェなどは、モデルチェンジ前の車種が値上がりすることも珍しくはないが、これは日本では考えられない。そして、不況は不況かもしれないが、ポルシェやフォルクスワーゲンは案外に販売好調であるらしい。ただ、日本車的な車作りになってきていたベンツは打撃が大きいとも聞く。

経済の回復とは言っても、以前と同じに戻しては絶対にいけない。
金融が市場を支配するなんて馬鹿なことをさせてはいけない。
幸福に生きるために金融など必要ない。金融で利益を上げようと思うことが間違いであることをいい加減学ばなければならない。
真面目に物を作り、販売し、サービスすることに価値を認める世界にしなければ人類は終わりである。
正しい仕事でのビジネスチャンスはまだまだ沢山あるはずだ。本当に頭の良い人は、そのためのアイディアを出せるだろう。そこでは、個人が膨大な利益を得る可能性はあまりない。しかし、多くの人を安楽にすることで、真の満足が得られるに違いない。

Wakogatana
良い和式ナイフは、刃も鞘も、使えば使うほど深みが出るし、手に馴染む。錆びる材質の刃は研ぎ直しで復活する。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (3) | TrackBack (1)

2009.01.10

神社参拝記~求めない心に福来る~

本日は、神戸市の柳原蛭子(やなぎはらえびす)神社が十日えびす大祭という、この神社での最大・唯一のお祭りでした。
毎年、この日には必ず参拝する人が脚が少し調子が悪いこともあったのですが、私も神社には興味があり、一緒に行きました。
私は、神社に行くのは、姪っ子・甥っ子の七五三以来で、その前は自分の七五三でした。

えびすという神様の名前は日本人ならよく聞くと思います。主に恵比寿ビールで・・・^^;
えびす様は、漁業・海上安全、商売繁盛の神様で、昔から商人には大変に人気があったと思います。
ただ、古事記を読みましても、恵比寿、蛭子などの神様は登場しません。
あまりご存知の方はいないと思いますが、伝説では、次のような過去を持つ神様です。

日本では、天界を高天原(タカマガハラ、もしくは、タカマノハラ)と言うことはご存知かもしれません。高天原から最初にこの世に降臨した神様が、イザナギとイザナミの男と女の神様です。
2人の神様は、天の御柱をお互い反対に回り、出逢った処でお互い誘いあってエッチしようという約束で、御柱を回り、出逢ったとたん、女のイザナミが「あら、いい男」と言い、続いて、男のイザナギが「やあ、いい女だなあ」と言いました。
女が先に声をかけるのはどうかと思ったのですが、まあいいやということで、早速2人はエッチして子供が出来ます。しかし、出来た子供は、手足のない蛭子(ひるこ)でした。
やはり、ナンパは男がやるものであるようです。逆ナンなどとんでもありません。
そして、2人はその子供を葦の舟に乗せて流してしまいます。
この時、捨てられた蛭子(ひるこ)が後の蛭子(えびす)とされています。
よって、蛭子は船に乗っています。
なんとも凄いお話ですね^^;
恵比寿ビールは好きな人でも、これは知らなかったでしょう?(笑)

手塚治虫さんの漫画「どろろ」では、室町時代の武士で、天下取りの野望に燃える醍醐景光(だいごかげみつ)は、魔物と取引きします。自分の武運と引き換えに、生まれようとする自分の子供の身体の48のパーツを魔物に奉げたのでした。
生まれてきた子供は、手も足も、目も耳も鼻もありませんでした。
その子供も、船に乗せられて捨てられます。
その子供が百鬼丸(ひゃっきまる)で、自力で魔物から失われた身体のパーツを取り戻していきます。
その中で、百鬼丸は、どろろという男の子に出逢い、なりゆきで行動を共にするようになります。
百鬼丸の話は、古事記を参考にしているのかもしれません。
それと同時に、私は、百鬼丸は、私達自身のことだなあと思います。私達も、失われたものを取り戻すのです。


さて、神社参りの感想です。
神社の入口では、手水舎(てみずや)という、水を満たした石があり、ひしゃくが用意されているはずです。
ここでは、手に水をかけて清めます。
神社で一番大事なのは実はこれなのですが、これをやらない人が多いですね。寒くても、これをやらないと神社に来る意味はないと言ってよい程です。
そして、口をすすぐのですが、ひしゃくから直接口にふくむなど、常識的に考えても言語道断です。ひしゃくから自分の手に、そして、口にと水を運びます。

線香を炊く場所があり、その煙を浴びると福を受けられると思って、煙を手で自分に取り込んでいる人がいます。それ自体は別に良いのですが、いかにも欲深げに必死でやるのはやめた方が良いでしょう。
近くを通れば、自然に煙は来ます。もしそれが福であるというなら、来るなら受ければ良いだけだと私は思います。

お賽銭を投げた後、必死で鈴を鳴らし、真剣というよりはすがるように祈る人が沢山います。多くの人は、願いの成就を祈るようです。
しかし、これもやめた方が良い。
私の場合、心の中で、ただ、「ありがとうございます」だけです。
こうして健康に生きている。それだけで十分です。さらに、食べるもの、着るものなど、全てに何の不満もない。なら、「ありがとうございます」以外に何か言うことがあるでしょうか?

特別に巫女様に舞を受けておられる方がいました。
お金を出せばやってくれるなら、10万円程度ならやってもらおうかなとちょっと思いました。
しかし、やってもらっている人を見たら、何かやはり悲壮なのです。何か願望があるように見え、その成就を強く願っている雰囲気がいっぱいです。
私は、あまり良いこととは思いません。私は、もしやってもらったとしても、ただ、「ありがたいなあ」と満足して笑いたいと思っていました。

宮本武蔵は、吉岡道場という名門道場の剣士達との決闘という、無謀な戦いの前に、神社に出向き武運を祈ろうと思いましたが、ふと取りやめます。
「神仏は尊し。されど頼まず」
結果として、武蔵は勝ち、彼の名は天下に轟くことになります。たった1人で、名門吉岡一門を倒した無双の剣士として。

参拝者のあさましさとマナーの悪さが目立ち、他人のことを考えず、われ先の人ばかりです。これで福を求めているなら何をか言わんやです。まあ、そう感じるということは、私も同類なのでしょうなあ^^;
今回は、人の付き合いで来ましたが、今後は、ひっそりとした神社に1人で来ようと思います。神社自体は好きですのでね。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.01.09

「サムライジャパン」は恥ずかしい愛称である

野球の世界選手権大会であるWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で、原監督率いる日本チームの愛称は「サムライジャパン」に決まっているようだ。

しかし、どういうつもりで「サムライ」なんて言葉を使うのだろう。
西洋人が、日本人の男性に対し、「彼はまさにサムライだった」と言うことがあるが、その西洋人は、サムライという言葉をどんな意味で使っているのだろう?
昔、プロレスの力道山がアメリカで戦っていた時、タム・ライスという、元プロボクサーの強豪選手と戦って敗北したらしい。その後、ライスは、空手家の大山倍達と戦って破れる。さらにその後、ライスは日本で力道山と戦って敗れるのであるが、ライスは「俺は大山に負けてから、日本のサムライが恐くなった。大山はサムライだった」と言ったという話がある。
その時代のタム・ライスの持つサムライのイメージは、単に、理解しがたいが強い戦士といった程度のものと思う。
(尚、「大山倍達正伝」には、大山倍達とタム・ライスが戦った事実が本当にあったのかを疑問視しているという記述もある。ただ、大山倍達氏の著書「ケンカ空手世界に勝つ」では、大山氏自身が、タム・ライスとの対戦について詳細に記述している。大山氏は、ライスのパンチを喰らってよろめくも、目潰し攻撃の後、空手の秘術「三角蹴り」一発でライスをKOしたとある)

しかし、我々日本人のサムライ感はどんなものだろう。
サムライ、つまり、武士は、江戸時代以前の公務員で、主な役割は他国の侵略および自国の防衛である。
しかし、江戸時代の太平の世の中になり、その主要業務がなくなってしまった。それでも、税金で給料を貰って良い生活をしていたのであるから、全くの不当利益を平然と得ていたのである。税金である年貢を収める農民に対して、当時の法はともかく、道義的に赦されることではない。それも、農民に対してへりくだったり、サービスすらせず、逆に威張っていたのであるから、人間として最低である。
名著として知られる、新渡戸稲造の「武士道」では、このような状況で心苦しく思った武士が、せめて立派な人間でいようとするのが武士道であり、宗教を持たない日本人の精神支柱であるとか書いているが、そんな馬鹿な話はない。それは、単に怠け者の武士の逃げの言い訳であり、全く容認できるものではない。以前の私もだが、ちゃんと考えたら、この新渡戸稲造の「武士道」という書物を賞賛するのは、かなりアホなことではないだろうか?
また、仏教思想家のひろさちちやさんが著書に書かれているが、武士はテロリストよりはるかに劣るのである。
いまや世界中で、特に、アメリカ同時多発テロ以来、アメリカ人が最も嫌悪するテロリストよりも日本のサムライは劣るのである。
それはそうである。テロリストは洗脳されているとしても、まだ自分の信念で行動しているが、日本のサムライは自分では何も考えず、命じられれるまま殺人をする人殺し集団であるのだ。

まず、我々日本人が、いい加減、武士・サムライに対し、押し付けられた馬鹿げた価値観を脱し、まともな認識を持たねばならない。
そんなサムライの名をカッコいいからと喜んで日本代表チームに付ける日本は世界に恥を晒していることは、残念ながら確かと思う。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.01.08

アミュレットのチカラ

以前にも、アミュレット(お守り)について書いたことがあるが、人にとってアミュレット(あるいはタリズマンとも言う)というのは、良いものではないかと思う。いや、重要なものであるはずだ。

アミュレットは精神エネルギーの変換装置であると思う。精神エネルギーは見ることも触ることもできない。しかし、無いとは言えないはずだ。それを操作できるのは、ただ心だけである。では、心に影響を及ぼすアミュレットに効果があっても不思議ではない。

「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメで、碇ゲンドウ(主人公シンジの父親で、強大な軍事特務機関の司令官)が、妻だったユイの墓参りをする場面がある。ゲンドウはシンジに、「ユイがここにいると思ってはいない。ただ、心を向ける拠り所にしている」といったようなことを言っていた。
また、民間療法の分野で成功している人の本で読んだが、その人は、仕事場に神棚を置き、それに向かって拍手を打っていたが、「別に、そんな狭いところに神様がいるとは思っていないが、意識を向けるのに使っていただけ」と言い、ある時、それを壊してしまったらしい。

人間の心というのは指向性を持っている。何か注意を向ける対象がないと、心をうまく扱えないということはあると思う。
芸術というのも、いわばアミュレットのようなものだ。
ピカソ本人が言ったのかどうかは知らないが、池田満寿夫さんは、ピカソの有名な「アビニョンの娘たち」という絵は、魔よけのつもりで描いたのだと思うと本に書いていた。ピカソの芸術自体が呪術のようなものであると言う。また、岡本太郎さんは、芸術は間違いなく呪術的なものだと言っていた。
芸術というのは、それを見る者が精神を変革するものであることは間違いない。優れた芸術であれば、人々の精神に革命を起させるかもしれない。単に上手い絵や綺麗な絵は決して芸術ではない。

ちょっと可笑しいが、サルバドル・ダリは、1つの木片をアミュレットにしていた。ある時、それを失くしてしまい、どうしようもないほどダリは取り乱し、絶望した。そのくらいの価値を与えることができればアミュレットの効果も絶大であろう。ただし、失くさないように・・・(笑)。

私が小学2年生の時、友達が、1枚の黒い紙切れを見せ、「これを持っているとパワーが出るのだ」と言った。私は、非常に心を動かされた。同じ紙切れを譲ってもらったが、勇気が湧いてきた。これこそアミュレットの効果であう。
尚、その紙とは、その友達の父親が使っていた髭剃り用の替刃の梱包紙であった。しかし、それを知っても私は残念に思わなかった。大切なのは心の力であり、私は心の力の秘密を知ったのだ。
その後、私はアミュレットを自作したが、当然、効果は変わらなかった。作り方は色々だが、1例をあげると、尊い文字、例えば、光、命、愛、力などといった言葉を書いた紙を丁寧に別の紙で包んで護符のようにしたこともある。
他にも、綺麗な石を手に入れたら、自己流の儀式をした後でお守りにしたこともあった。
もっと大人になると、水晶やフルオライト(蛍石)などの美しい石を買ってアミュレットにした。

だが、アミュレットとは、ものであるとは限らない。
「マジック・ストーリー」という本の中の話で、誰もが人生の落伍者と見なしている売れない画家である男が、なぜか生き生きとした目で自信に満ちていていた。
その様子に驚いて尋ねると、「幸運のマスコットを見つけた」と言う。それは、「マジック・ストーリー」という、短い物語だった。それを読んだ途端、何もかも全てうまくいくようになったのだ。マジック・ストーリーの中に宿るその不思議な力こそがアミュレットであろう。
これもおかしなことではなく、クリスチャンであれば十字架や聖書は、ある意味アミュレットであるし、仏教徒の経典、ヒンズー教徒のバガバッド・ギーター、イスラム教徒のコーランも同様であろう。神道の場合は、定められた経典などはないが、古事記をはじめ、様々な貴重な書があるし、祝詞というものもある。

さて、アミュレットを持つ上で大切なことは、無闇に多くのアミュレットを持たないことだ。最も良いのは、1つだけにすることであると思う。ダリの木片のようにね(笑)。それと、自分で選ぶことだ。アミュレットを決めるのにルールはない。デザインが蛇でないといけないとか、色は金色でないといけないとかいった決まりは一切ない。気に入ればガムのオマケだって十分である。

ものではないアミュレットも良いものだ。
祝詞を憶えておくのも良い。頭の中にあれば、忘れない限り、名失くすこともない。忘れたら・・・再度憶えれば良い(笑)。
仏教やヒンズー教には真言(マントラ)という便利なものもある。般若心経の最後の部分の呪文も効果絶大である。
これさえあれば大丈夫というものがあると良い。すると大丈夫になる。
私のお気に入りの言葉は「求めない」「大丈夫、心配ない」である。
日本人である限り、日本人のDNAを発動させる神道の祝詞をお薦めしたいとは思う。しかし、基本的には好きなもので良いと思う。

そして、最大のアミュレットは少食である。
食を慎む限り、絶対に大丈夫である。少食を実践すれば、その信念を得ることもた易いであろう。そうなれば、全てうまくいくようになるだろう。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.01.07

ひきこもりには3つの生き方がある

昨日、マズローの「欲求段階説」を書き、ひきこもりの状況を考えたら、ちょっとした閃きがあった。
これで、ひきこもりの状況が説明でき、状況改善のヒントが得られるかもしれない。

人間は、動物的な下位の欲求が満足させられることで、より高度な欲求に目覚めるのである。
その高度な欲求が、即、仕事や社会活動、あるいは、収入に結びつくかどうかは分らないが、変化をもたらすことは確かと思う。

まず、最も低位の欲求は、食欲と性欲と言って良いだろう。
ひきこもりの大部分は、親に食べさせてもらっているので、食欲は満たされているだろう。
性欲に関して言うなら、コリン・ウィルソンが言った通り、「マスターベーションこそ、人類だけが獲得した高度な能力」であり、相手がいなくても満たすことが可能だ。マズローは、それは猿でもやると反論したが、オス猿は、近くにメス猿がないとマスターベーションできないのである。
宮沢賢治ですら、大変なエロ本の収集家であることが分っているらしく、それによって性欲を満足させ、より高度な欲求段階に進んだのではないか?
よって、人間であれば、性欲に関しても誰でも満足させることが可能である。

次の欲求の段階は、安全、そして、グループへの帰属欲求と進む。
安全に関しても、ひきこもりの大半は問題ない状況と言えると思う。
グループへの帰属欲求に関しては、ひきこもりの大半は、親と同居であろうから、多少は満たされていると思う。しかし、満足でない場合が多いと思う。
では、このあたりがひきこもりの問題となるはずだ。
昔と違い、インターネットがある現在では、SNS等に参加することで、ある程度のグループへの帰属欲求が満たされる。また、ネット上では、ひきこもりのためのコミュニティサイトもいろいろあり、仲間には事欠かないかもしれない。
しかし、ネット上の関係というのが、どのくらいリアルに感じるかは人それぞれと思うが、やはり身近に接するのとはかなり異なるだろう。また、余程の文章での表現力がないと、中身のある有益なコミュニケーションはできないが、ほとんどの人にはそれは無理であろう。
結論からいって、ネットで、グループへの帰属欲求は満足できない。

尚、これはマズローも言っていないと思うが、グループへの帰属欲求をすっ飛ばして、自我の欲求段階に進むと、芸術家になる可能性もある。
芸術というのは、人間の普遍的な根本的、本質的魂に響くものであると同時に、独創的なものであるという矛盾したところのあるものだ。
下手にグループに帰属しない方が独創性を伸ばすには良い。
ただし、限界を突き抜けて進めないと、単なる変な人だ。適度に変であってはならず、ウルトラ級に変でないといけないのだ。天才と狂気は紙一重とはこのことだ。
芸術家とは、集団に帰属しないどころか、集団に決して馴染めない者であるが、あくまで、集団を超える者なのだ。イェイツのように、ニーチェのように、エリオットのように「集団に真理はない」と断言できる者でないと芸術家ではない。
そして、芸術家はグループに帰属しないまま、病的な自我の満足を求めてのたうつ惨めな存在でもある。それを鮮明に見せてくれたのは、最後の天才と言われたサルバドル・ダリであったと思う。
彼は大天才であったが、彼の人生は悲劇であり喜劇だった。
イェイツは、人生が悲劇であると悟った時にはじめて生きることを始めると言ったが、それは芸術家としての彼の人生だ。

ここで、ひきこもりの人生には3つの運命が用意されていることが分る。
早目にこの中の1つを選んで進むことが大事だ。
■1つ目は、グループへの帰属欲求が満たされないまま、その先に行けずに一生を惨めに終えることだ。何もせずにいたら、全員がそうなる。30代どころか、40代、50代でも就業経験が無いなんてのは、この1つ目の人である。
■2つ目は、運良く、優しい人達にグループに招かれ、グループへの帰属欲求が満たされて、当たり前の人間として進歩していくことだ。
■3つ目は、芸術家になることだ。ただし、悲劇的人生に終るリスクが大きい。

人類は、2つ目のことができるように進化しないといけないだろう。
だが、現在の日本では、ワン・パターンの人間を「製造」することで、誰もがグループに帰属できるようにする制度があるだけだ。もちろん、善意でワン・パターンの人間を製造しようとしているのではなく、資本主義経済の必要性から、国家と大企業が教育制度やマスコミを利用して国民を、ワン・パターンの人間に洗脳しているのだ。
2つ目の道であっても、その先は、こういった国家に思想統制されたワン・パターンの思考タイプの世界であるから、個性的なひきこもりはかなりの不満は感じるが、とりあえず自分で食ってはいける。
実は、私が現在いるのが、この2つ目の道である。私はいつも、心優しい人たちに招かれ、グループに入れてもらい、社会的にはいつも豊かである。しかし、そこが自分の居場所でないことは感じており、精神的にはかなり虚しいものである。
しかし、やはり運が良いことは確かであろう。親に食べさせてもらうどころか、自分の稼ぎで親に贅沢をさせている。
望むなら、ひきこもりでも私のようにはなれるかもしれない。私は働いているが、れっきとしたひきこもりであり、もし精神科や神経内科に行けば、立派な病名の3つや4つは軽くゲットできるだろう。

何のことはないのである。ひきこもりでも、社会でやっていくには、どうすれば、人間全部とは言わないが、社会の中にいる一部の人間にでも好かれるかということだ。もちろん、チンピラや無能力者に好かれてもどうしようもないことは認識せざるをえない。ある程度は、社会的に力のある人間に好かれないと意味がない。そのためには、性格の悪いやつ、自己中心的なやつと思われたら駄目だろう。
あるいは、大多数の人間からは敬遠されるが、大人物には好かれるという人もいる。ゴッドファーザーに好かれるようなもので、この場合は経済的にはかなり保証される。この場合は、かなり苦労をして得た人生経験とか、何かに打ち込んで得た能力とかが必要だ。世の中、甘くない(笑)。しかし、肝心なのは、偉大な人間に対してへりくだる謙虚さである。
ただ、この2つ目の道を行けるのは、ある程度若い人である。力のある人に可愛がってもらえるのも、30代も半ばまでである。しかも、ある程度若くして、先に述べた経験や能力が必要である。力のある人は、単に面白いとか可愛いとか、性格が良いだけの人間は相手にしない。

まずは2つ目の道を選択して、社会的に自立し、一生をかけて芸術、あるいは、普通の人にできない特別な道を目指すというのが、ひきこもりの楽な生き方ではないかと思う。
尚、力ある人に好かれる性質を獲得する良い方法はやはり少食である。慎みのある人間が、大人物に好かれないはずがない。どうせなら、あなた1人くらいただ飯を食わせるだけの度量のある人物に好かれようではないか。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (5) | TrackBack (0)

2009.01.06

出来損ないの脳も食の慎みで治まる

春日大社の宮司である葉室頼昭さんの「神道 "徳"に目覚める」という本に、人間の脳は、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類の全ての脳を持っているということが書かれている。葉室さんは医学博士でもあり、形成外科で世界トップクラスの医師だった。
これらの生物の脳を、人間らしい理性を司る新皮質が覆っているのである。
同じことを、ハンガリー生まれの英国の科学ジャーナリストであるアーサー・ケストラーの「ホロン革命」という本で読んだことがある。ケストラーは、アインシュタインをして「神様よりも何でも知っている人」と言わせる天才であった。
しかし、ケストラーは、人間の脳は出来損ないで、新皮質が動物の脳をコントロールできないと、悲観して自殺してしまった。
なるほど、食欲、性欲、あるいは、攻撃・破壊欲にとりつかれると、理性でそれを抑えるのは容易ではなく、ほとんど不可能であるかもしれない。

この脳の話は、有名なマズローの「欲求段階説」とも符合し、合わせて考えると面白い。
欲求段階説とは、人間は、低レベルな動物的・本能的欲求を満足させることで、より高度な欲求を持つというものだ。
例えば、まずは食欲、性欲を満足させることで、次に安全の欲求を持ち、それから、集団への帰属欲求、さらに、自我の満足欲求(賞賛欲求)と進み、最終的には、理想の人間になりたいという自己実現欲求を持つ。
食欲、性欲は魚類・爬虫類にもあるし、安全・集団帰属欲求は野生動物も持つ。このあたりの欲求しか持たないなら人間とはいい難く、自我の欲求を持つことで、初めて最低限の人間になる。それは、仕事や学問で優れた業績を上げるためにがんばるといったことが出来るということだ。

ただ、問題として、ケストラーが言うのは、人間的な欲求であっても、下等動物脳の影響を強く受けるということだ。
例えば、自我欲求は、良い方向に現われれば良さそうなものであるが、ちっぽけなプライドが傷付けられただけで異常な怒りを持ち破壊的になるというのは、自我は新皮質にあるとしても、下等動物の脳の影響を受けるからである。強力な軍隊を動かせる人間は、高度な理性を持つべきであるが、実際は、そんな人間が低レベルな見栄や怒りで破壊行動を起すことは珍しくはない。それは、核ミサイルのスイッチを押す権限を持つ人間でも例外とは言えないのである。そもそも、広島や長崎に原爆を落とす決定をした者の判断は、決して理性の導き出せるようなものではないはずだ。つまり、獣の破壊本能に支配された人間が米国のトップであったのである。

しかも、近年の、特に日本では、人々は食欲や性欲を異常に増大させ、それを満足させることばかり考えるあまり、下等動物脳に支配された異様な自我を増長させた人間だらけになったと言えば納得できるかもしれない。
動物の本能はシンプルであり、余計な望みは持たず、お腹が満たされれば猛獣といえども他の動物を襲わないし、さらに、天敵に殺され食われることもまた快感であるのだが、人間は全く違う。
フロイトは、人間は本能が壊れているので自我を作ったが、それは自然に立脚しない幻想のようなものと言った。しかし、それはあまりにも新皮質の性質を無視した考え方であろう。新皮質が下等動物脳を支配下に置けば、フロイトと決別したマズローの言う自己実現に至るし、そうでないと人は幸福になれないのだ。
このことに薄々気付いていた人もあり、ナポレオン・ヒルは性欲のコントロールを提唱し、ディール・カーネギーは正しい努力で自我欲求を目指すことを説いた。しかし、彼らの考えは誰も幸福にしなかったと言える。彼らの考え方は、あまりに即物的、唯物論的であったと思う。
確かに、偉大な人物というのは、性欲を支配し、努力して自我欲求を出来るだけ健全に満足させたかもしれないが、成功者達には、彼ら独自の方法があったのだ。
人間は意思の力だけでは性欲のコントロールなんて出来ないし、自我欲求というのは、あくまで賞賛を求めるものであり、さして理性的なものではない。
だが、食を慎むことだけは特別な意味を持つ。
水野南北が、人間の運命はただ食の慎みによってのみ決まると言ったのは実に確かなことである。
食を慎めば、全てを慎むことになる。現代の日本人の異常性欲は、全て栄養の取り過ぎから起きている。そして、飢餓への恐怖と性の欲望と新皮質の想像力が結びついて攻撃的になり、自己中心的になっているのである。
ただ食を慎むことによって、自然に自己実現への素地が整うのである。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.01.05

大祓詞(おおはらえのことば)について

Ooharae

神道の祝詞の中でも代表的なものとされる、大祓詞(おおはらえのことば)です。
私が自分でワープロで打ったもので、これを見て毎日唱えています。
これは、3ページの中の1枚目です。なぜひらがななのかは後述します。
この祝詞についての学術的なことは、ご興味があれば、文献やWikipediaなどにあたっていただくとして、分かりやすい説明をします。
尚、私の知識、理解は、春日大社の宮司である、葉室頼昭さんの本を何冊か読んだ中でのものです。

仏教のお経は、中国語の漢字で書かれたものを日本語式に音読するものですが、神道の祝詞は、古い大和言葉そのものです。後に漢字が当てはめられて書にされ、その漢字の文章の解説などもよく見ますが、文そのものに意味はなく、あくまで言葉が大事であるとのことです。
葉室宮司も、そのためにかなで書いたものをずっと読み続けておられたそうです。

この大祓詞を基に、昔、古事記が書かれましたが、言葉で語られたものを漢字を使って書いた古事記もピュアなものではないようです。古事記を漫画にした石ノ森章太郎さんは、古事記を漫画のようなものと書いていたことがありますが、文章通りに読むと、確かにその通りです。しかし、その奥には、やはり深い真理が秘められているようです。
そして、古事記以前に、世界創造を純粋に語った大祓詞は、まさに神が語った言葉そのものであり、その功徳は真に偉大で、人の罪や穢(けが)れを祓(はら)うとされます。
ただし、罪とか穢れとか言いましても、我々が考える罪や穢れではなく、罪とはやはり漢字の罪とは違う「つつみ」という言葉から来ており、我々の内にある神の性質を包んで隠すもので、穢れは「神の気を枯らす」ものという意味だそうです。これらの罪や穢れを祓うというのは、それを捨てるとか、消すという意味ではなく、別の清らかなものに変化させることで、神の性質をそのまま顕し、神の気を活かせるようになることであるといいます。

大祓詞を唱える時は、文章の意味を考えず、この純粋な大和言葉を無心に唱えることで、罪や穢れの原因である自我を消し去る(やはり、鎮めるとか、清めるという意味と思ます)ことで、心を神に通じさせるものと思われます。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.01.04

珍しく弱気になる

31日、1日、2日は、親族との付き合いとはいえ、1日2食になり、しかも豪華な料理を食べておりました。
肉はさすがに食べなかったですが、魚介類は食べました。
もともと私は、食べることが嫌いではなく、それどころか食い意地が張っている方ですので、至福であったのは確かです。
しかし、そのせいで心が曇ったのか、珍しく弱気になっておりました。
弱気とは、不安が入り込むことですが、実に人間最大の敵は不安です。
なぜ不安になるかと言いますと、やはり神を信頼していないということであり、それは感謝の気持ちを忘れているということです。
ところで、感謝といいますと、闇雲に「ありがとうございます」と言ったり、掲示板やブログに書いている人がいますが(笑)、本当に感謝しているのか疑問です。
よく、お恵みを期待して感謝する人がいますが、それは絶対駄目でしょうねえ。それって、下心と言うのではないですか?(笑)神様に下心は通用しません。

感謝というのは、現在、どんな状況であろうと幸福に思うことです。
私的な願いがあるなら幸福には遠いかもしれません。
キリスト教では、「今の恵みを思え」ということを強調しますが、仏教でも、神道でも、道教でも、ヒンズー教でもそれは同じと思います。
「求めない」という気持ちを忘れ、我欲が出てくると不幸になるのでしょうね。

住む家があること。家に食べるものがあること。暖房すらあること。収入もあること。
これら全てが、私には身に余る幸福であり、それに感謝していれば、不安の入り込む余地はありません。
生きていることだけに感謝するようになれば、大きなお恵みもあるかもしれませんけどね(笑)。
私なんて、仕事も努力も一切嫌いですが(笑)、それでも食べていけてるのは不思議なことであり、間違いなく神様やご先祖様のおかげに違いないです。
せめて、食を慎むことで徳を積みたい・・・お!だんだん、普段の感覚が戻ってまいりました(笑)。
明石屋さんまさんのように、「生きてるだけで丸儲け」の心境にはいたりませんが、食べられるだけで良いという気持ちを忘れないよう・・・ここに書いておきます(笑)。
昨日から、1日1食に戻りました。今後も慎みを忘れないようにします。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.01.03

神道の心とは

日本人は、お正月には神社にお参りに出かけるし、七五三のお参り、地鎮祭、その他、神道のお祭りは普通に行うが、自分が神道を信仰しているとは思っていない。
(初詣にお寺に行くのは、神道と仏教の融合が昔から行われてきたためと思う)
日本人にとって、神道とは空気のようなものと言われるが、まさにその通りであると思う。
オーストリア帝国(現在のクロアチア)の思想家ルドルフ・シュタイナーは、「良い教師は空気のような存在である」と言ったが、神道が宗教であるかどうかはともかく、良い宗教とは、やはり空気のようなものであるまいかと思う。

人気アニメのプリキュアシリーズの最初の作品である、「ふたりはプリキュア」の主題歌の中に、「闇夜に浮かんだ虹の架け橋 ここに降りて奇跡」という歌詞があるが、古事記でイザナギとイザナミがタカマガハラからこの世に来る時に使ったのも天(あめ)の浮橋であった。ここらにも、神道の自然な影響を感じるのだ。
また、現在のプリキュアシリーズのルーツとも思える、歴史的漫画・アニメ「美少女戦士セーラームーン」では、3つのタリスマン(お守りの意)として、鏡、剣、珠があったが、言うまでも無く、これは神道における3種の神器である。

一方で、「私は神道を信仰している」と表に出して言うと、あまり良い印象がないかもしれない。これは明治政府が思想統制のために神道を利用したところが大きいが、もともとが、神道は形式で現すことができず、ことに権威と結びつくと崩れる性質があるもののように思う。丁度、言葉で愛と言うと、それが愛でないようなものではないかと思う。
私もまた、神道の心そのものは大切にするが、宗教としての神道を信仰するわけではない。
敢えて言葉で言えば、神道の心とは慎みである。
外国から、日本人は宗教を持たないおかしな国と言われることがある。しかし、そうではない。日本人は、空気のような、真に純粋な宗教を持っているのである。
それは、海外の大きな宗教のように、形式化、権威化しやすいものではなく、精妙で美しいものである。その心はただ慎みなのである。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (7) | TrackBack (0)

2009.01.02

正しいお祈りの仕方を指南する

新年には、各地の大きな神社(お寺の場合もあるが)には、多くの人がお参りする。
それは良いことであると思う。
お賽銭を投げ、神様に熱心に手を合わせる。
これも素晴らしいことだ。
しかし、テレビのインタビューで、「何をお祈りしましたか?」と尋ねると、「受験に合格できますように」とか「就職がうまくいきますように」といった答えが返ってくることが多いし、良くても「家族が健康でいられればそれで良いです」と、一見慎み深い顔で言うお父さんがいる。
これらは良くない。

以前にも書いたが、仏教思想家のひろさちやさんが著書に書かれていたが、彼は子供の時、祖母に毎朝、仏壇に向かってお祈りをさせられたが、そのお祈りの内容をいちいち祖母に尋ねられた。
それで、「算数のテストがうまくいくようにお願いした」とか言うと、やり直しを命じられた。
神仏へのお祈りは「ありがとうございます」以外は駄目なのだそうだ。
素晴らしいお婆様だ。
ひろさちやさんは、何かをお願いするお祈りを「請求書のお祈り」と呼び、ありがとうございますと感謝するお祈りを「領収書のお祈り」と呼ぶ。そして、正しいお祈りとは、領収書のお祈り、即ち、「我、既に受けたり。これに感謝する」であると言う。
神道でも、春日大社の宮司である葉室頼昭さんが、著書に全く同じことをよく書いておられる。
神様にお願いし、それを叶えてくれた時に感謝するという態度は絶対に間違いであるという。当然のことと思う。
これはキリスト教でも共通しており、イエスは「天の父は、お前達に必要なものなどとっくにご存知だ。願わずとも与えられる」と言った。
よく誤解される、イエスの「求めよ、さらば与えられん」は、訳が悪かった。これは、神そのものを求めよという意味で、神の導きを受け入れるという意味と思う。決して、ものや希望の状況を求めよという意味ではない。
ヒンズー教の聖者、ニサルダガッタ・マハラジも「不要なものを求めなければ、必要なものは与えられる」と言った。
タオイスト(老荘思想家)である、詩人・アメリカ文学者の加島祥造は、これを一言で「求めない」と言い、詩集「求めない」には、「求めない」で始まる百の詩を書いた。
巷で言われる、引き寄せの法則や、潜在意識の法則(欲しいものを潜在意識の力で得る)といったものは、まあ、ロクなことにはならないと思うし、実践者の全てがそれを証明していると思うがいかがであろうか?

先に書いた、神社でのお参りで、「何を祈ったか?」のインタビューに、もし正しい答えをするなら、「今、仕事と収入があることを神様に感謝しました」「住む家があることを神様に感謝しました」あたりが、なんとか及第点と思う。さらに進むと、「生きていること」、そして、神様が居るという美徳そのもの、あるいは、無条件の感謝となると思う。
私の場合、安楽な暮らしと、身に余る収入に恐れ多くも謹んで感謝するしかない。さすれば、せめて食を慎み、これを徳としたい。他に奉るものは特にはないのだ。
尚、求めず感謝すれば、大きな恵みもあるかもしれない。しかし、それを期待すると、欲深い人間はどうしても心の裏で請求書の祈りを起こすものであり、キリスト教で言う「持つ者にはさらに与えられ、持たぬ者からはさらに奪われる」こととなる。
4千億円を惜しいと思わず、これを意図的に得なかった政木和三さんは「食べられればそれでいい」と思っていたので、毎年、1億円を納税することとなった。あ・・・いや、そんな話は忘れて欲しい(笑)。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (4) | TrackBack (0)

2009.01.01

新年にあたり、食の女神の啓示を顕す

私は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が伊勢神宮にお参りした時、彼に天叢雲(あめのむらくも)の剣(つるぎ)を授けた倭姫命(やまとのひめのみこと)が言った言葉を座右の銘としたいと思う。
それは、「よく謹んで怠ることのないように」である。この一言で人生は十分である。
ただし、この慎むということは、食の慎みであるとする。でないと、我々凡人は、言葉はあっても実のあることは何もできない。食の慎みと定めてこそ、実際に人生への適用が可能である。

水野南北がやはり伊勢神宮の五十鈴川で、21日の断食と水ごりの荒行を行っていた時、「食が全て」という啓示を得た。
五十鈴川(いすずがわ)は、歴代天皇の作を始め、多くの和歌にも歌われる清流である。
水野南北が、仙人にその秘法まで伝授され、揺ぎ無き力を得た観相での運命鑑定ですら、百発百中でないことに迷い決行した行であったが、以後、食で鑑定するようになってからは万に1つも外れなかったという。
江戸時代の伊勢外宮の神官であった度会延佳(わたらいのぶよし)は、著書「陽複記」に、慎みの一言こそが、神道で最も重要なことであると強調しているが、水野南北が啓示を受けたのも、やはり伊勢神宮の豊受大神の祀られている外宮であったのである。
豊受大神は食の女神である。南北もそれは知っていたかもしれない。荒行の中、南北の澄み切った心が神と通じ、食の慎みこそが全てに優るものであると知らしめたものと思う。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (7) | TrackBack (0)

« December 2008 | Main | February 2009 »