芸術家を名乗るに値する者とは
横尾忠則さんは、芸術には狂気がなければならないと言ったと思う。
一方、池田満寿夫さんは、自分には狂気はないと言った。
しかし、これらを、言葉通りに受け取ってはならない。
彼らの言う狂気は、正常の基準が異なるのだ。
横尾忠則さんは、世間を正常の基準に置いて言っているのだが、池田満寿夫さんの正常の基準は全く異なった処にある。彼は、世間なんか知ったこっちゃないと思っていたと思えるのだ。
池田満寿夫さんは、東京芸大の受験に3度挑んでいるが、おそらく、3度とも、受かる要素など全く無かったと思う。なぜなら、試験の時のデッサンは消しまくって真っ黒になったものを提出したとか言っており、合格するための対策など、もともと考えていなかったのだろう。彼が東京芸大を目指したのは、親や自分の境遇への反発が大きかったのだと思う。彼が、芸大なんて世間の権威に迎合することは全く似合わないが、若い頃の彼にはそれが分らず、まだ芸大に、そこが芸術の拠り所であるという誤解(あるいは幻想)があったのかもしれない。
一方、横尾忠則さんも美大を目指し、真面目に準備も行ったのだが、自分の意思に反し、強制的に断念させられた。彼の場合も美大なんて行かない方が良かったような気もするが、彼にしてみればその残念さは残ったように思えるのだ。
さらに、横尾さんは商業デザイナー、イラストレーターとして出発し、ある意味、どっぷり世間に関わっていた。さらに、画家になってからもデザインの仕事は続けており、世間との関わりは強い。そんな彼が、正常の基準を世間に置き、そこからの自分の逸脱を狂気と感じても不思議はない。横尾忠則さんは、宇宙人や霊の存在を当然のように肯定して、いろいろエキセントリックな話も平気でするのだと思うが、それでも、彼がそのようなことを言う時には、どこか世間への遠慮やてらいを感じるのだ。
池田満寿夫さんは世間に染まることはなかったと思う。若い頃、街の似顔絵描きをやった時も、腕前で自分より優る芸大生の似顔絵描きからコソコソ逃げ、プロの似顔絵描きからは、「俺たちの評判をお前の下手な絵で落とすな」と言われた。さらに、怪しげな仕事にも手を出し、油彩は売れそうにないからと版画に転向した。絵のテーマはほとんど一貫してエロスだった。自分でも言っているが、画家にとってエロスに手を出すのは危険が大きい。ポルノ呼ばわりされて評判を落とし、それでも売れれば良いが、現代ではもっと扇情的でリアルなエロがいくらでも存在する。それでも、池田さんはエロスを追求し続けた。
池田満寿夫さんは、もともとが世間に背を向けていたのだ。世間など知っちゃいないのだろう。そんな彼が、わざわざ世間を正常な基準として、自分を狂気と見なしたりはしないだろう。
写真家の「天才アラーキー」こと荒木経惟さんは、写真家になるには黒子に徹しないといけない、世間に平伏さないといけないと言っていた。あれほど反社会的な人がである。写真家を職業として成り立たせるためにはもっともな見解である。しかも彼は、もともと大手企業のサラリーマンであり、世間常識とは何かを知っているのだ。彼は、世間人と脱世間人を器用に使い分ける天才かもしれない。世間の中にいる自分に生まれる苛立ちや狂気をネタに詩を生み出すという詩人もいたように思うが、アラーキーもそんなところがあるのだと思う。
大正時代の叙情画家である竹久夢二は、有名な画家になってからも、絵の基礎が出来ていないことに引け目があったのか、美術学校への入学を考えたらしい。しかし、高名な画家が竹久に、「君の絵は美術学校で学ぶと駄目になる」と言われ断念した。実は竹久夢二こそ、流行商業デザイナーでもあった。しかし、彼の本分はやはり芸術家であるのだ。
ゴッホも世間を無視した画家である。生活や芸術活動に必要な費用の一切を弟のテオの援助に頼り、自らはひたすら自由に創作した。絵は売れれば良いとは思っていたようであるが、売るための努力など決してしなかった。結果、在命中、絵は1枚も売れなかった(予約が1つあったらしいが)。彼も自分に狂気があるなんて思ってはいまい。彼の場合は、本当に精神病院に入れられたことがあるが、それでも彼は自分の正常さを疑ってはいなかっただろう。黒澤明監督の映画「夢」で、世界的映画監督であるマーティン・スコセッシが演じたゴッホが言ったように「自然は美しい。なぜ描かない」といったような自信と信念があったと思う。
ダリにいたっては、世間が狂っており、自分だけ(後には妻のベラも)正常だと考えていた。ゴッホは、ダリほど世間を積極的に馬鹿にはしなかったかもしれないが、同じようなものだったのではないかと思う。
天才芸術家の中には、壊れたように見える人も多いが、そんな芸術家の中にも、いや、中にこそ、芸術の真髄を感じるのである。
芸術家が世間に迎合して良いはずがないのだ。
芸術と世間は真逆、正反対なものであるのだ。
画家や彫刻家という職業はあっても、芸術家という職業があるはずがない。
牧師や僧侶が職業であっても、宗教家という職業があり得ないのと同じだ。
もともと、芸術は宗教の下僕としてスタートしたが、現在では、宗教が本来担うはずの使命がある。
それは、世間の中で奴隷になった人々を解放することである。
世間とは地獄である。世間が地獄でないなら、宗教は必要ないし、芸術も必要ない。
今の世間は狂っていると言われるが、世間は「いつも」狂っているのだ。
狂った世界で極上の狂いを見せるのが芸術家だ。我々が世間という地獄で自由になるには狂いを身に付けるしかないのだ。芸術はそこに誘うものだ。
狂気の代表格とも言える大芸術家、岡本太郎は、「今日の芸術は、きれいであってはならない。うまくあってはならない。心地よくあってはならない」と言ったが、あまりに当然と思う。地獄という世間を有難がっている奴隷、亡者に水をぶっ掛けるのが芸術家の役目なのだ。世間的に満足させるものが芸術であるはずがないじゃないか。
芸術家が権威に平伏し、世間に評価され、お金持ちになり、国家の価値観を宣伝するはずがない。そんなのは似非芸術家である。騙されてはならない。
世間の奴隷、国家の犬が芸術家を名乗るのは赦せないことである。
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