人生の崇高な目標
このブログで何度も話題にするが、私は今年の8月7日から、1日1食の菜食主義者となり、一切の間食もしないようにしている。
これを特に人に言う気もないのだが、会社勤めをしていると、昼食に誘われたり、宴会や飲み会、食事会を断る際に話さざるをえないこともある。
また、従来が大柄の巨漢であったのが、25kgも痩せると、どうしても外見の変化が激しく、特にあまり会わないような人には驚かれて、少し話すこともある。
私がかなりの少食・粗食になったことを知って、肯定的な反応をする人はまずいない。
表面的には、私の健康を心配する発言をする人も、その言葉には私の食の慎みに対する不快さや、攻撃的なものを感じさせることが多い。ましてや、厳しい食の節制に本当に敬意を表した人は、まあ、皆無だ。
しかし、食べる楽しみの多くを放棄した私を非難する人でも、心の奥では少食の素晴らしさを知っているのだ。だから攻撃的になるのだ。
それはそうである。もし、食べる楽しみを放棄することが、本当に愚かで悪いことだと思っているなら、それをやっているからといって、赤の他人の私を非難する必要がどこにあろうか?
誰しも、心の深いところでは、少食こそ人間向上と真の幸福への唯一の道であることを知っている。しかし、自分はそれをしたくない。そして、それを出来る人間が、自分を置いて、惨めな状態から抜け出すのが嫌なのだ。
誰しも、本当は、少食は素晴らしいことであると感じているのだ。
そうでないと言うならそれでも良い。
しかし、少食は、1つの条件があれば誰にでもできる。
その条件とは、人生に崇高な目標があることだ。逆に言えば、その目標のために少食ができないなら、その目標は崇高でない。
崇高な目標は自我からは出てこない。思考や計算で出てくるものではない。
新しい宇宙ロケットを作ったり、立派な会社を作って、多くの従業員の生活を豊かに支えたいという目標は悪いものではないかもしれない。しかし、それと引き換えに少食にできないのであれば、それは崇高な目標ではない。ましてや、オリンピックの金メダルなど、我欲以外のなにものでもない(我欲の中では下っ端の目標ではないかもしれないが)。
人生に崇高な目標を持たない者に少食の素晴らしさを説いても無駄である。
水野南北は、「相法修身録」にこう書いている。
「叶えたい目標があるなら、自分の食事の1/3とか半分を神に捧げよ。ただし、自分が全部食べて、別の食事を捧げるのではなく、あくまで自分が食べなかったものを捧げるのだ。特に神棚などに捧げる必要はなく、食べずに心の中で捧げれば良い。神は速やかに受け取る。そうすれば、小さな目標で1年。高名になるなどであれば10年で叶う」
もし、その目標のためにこれができないのであれば、元々が叶えるべき目標ではないのである。
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Comments
25kgも減るのは本当にすごい変化ですね。
俺はhikikomoriですが、メール交換する友達には、一日一食やらオナ禁やらしてると言ってます。
変な扱いされてもこれを聞いてもしかしたら相手もしてるれるかも。っていう淡い期待があって。
同じような人を増やせば、俺も小食もしやすくなるかもと。
仙人になれば?(笑)とかあるんですがね・・。
やっぱり攻撃的な言葉を言われると痛いですが。
Posted by: minami | 2008.12.28 05:23 PM
★minamiさん
仙人は、50年後とか、せめて30年後とかの目標でもいいかなと思うようになりました。
少食の人は、そう容易くは増えないかもしれません。
しかし、いかに反対する者が多くとも、自分の信じる道を行くのが真実の人生と思っています。
Posted by: Kay | 2008.12.28 09:07 PM
はじめまして!二ヶ月ほど前にKAYさんのブログを見つけて以来、ちょくちょく楽しんでみています。
誰しも、心の深いところでは、少食こそ人間向上と真の幸福への唯一の道であることを知っている。とありましたが、私は違いましたよ(苦笑)。たくさん食べるのが良いとおもってましたから。。。
Posted by: MU | 2008.12.29 12:34 AM
★MUさん
はじめまして。
>私は違いましたよ(苦笑)。たくさん食べるのが良いとおもってましたから。。。
動物的、本能的には、誰しもそうであろうと思いますし、もちろん、この私もそう思っています。
Posted by: Kay | 2008.12.29 01:23 PM