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2008.12.31

日本は終わりかと思ってしまった年末

今日も朝から、というより、昨夜からピーナッツ1つ食べていない。当然、空腹であり、正直辛い。生来の少食の人が羨ましい。
運動して、大祓詞を唱えた。
母親を年末の買い物に連れて行った。母親は食い道楽なので、目の色を変えて、エビやカニや、その他多くの食品を買い漁っていた。私は自分には生クルミと金時豆を買った。
お正月だからといって、余分なものを食べる気はない。
ただ、来客はあるので、少しは食べないといけない。そのためのご馳走も買った。美味しそう過ぎる。私には、一番安い豆腐でも天国の食事なのだ。

この寒い中、自動車会社や電器会社を解雇され、ホームレス状態で震えている人も多いと聞く。体脂肪が無く、寒さがこたえる私には人ごとでない気持ちが強い。
そんなホームレスが1人でも死んだら、誰が責任を取るのだろう。
そこまででなくても、年末年始も、レストランやスーパーで働く人が多いし、宅配便を届けてくれるドライバーの方も多い。可哀想だ。彼らだって休みたいだろうに。
昨年、元旦に商品を届けてくれた宅急便のドライバーのおじさんを見て、なんとも複雑な想いに駆られたものだ。
だが、大臣や議員達は、立派な家で、暖かくしてご馳走を食べることだろう。
私も恵まれているが、せめて、ますます食を慎むつもりだ。

私の夢は、昔からただ1つ。心安らかに年越しをすることだ。
安楽であることは神や祖先に感謝するが、心安らかではいられない。
食を慎む私がそうであるということは、日本はやがて滅ぶということと思う。そう願うわけではないが、避けられぬことであるかもしれない。

ある会社の社長は、数百人の社員の前で「リストラなんかする気はサラサラない」と言った。その会社もベンチャーだが、その社長は、多くのベンチャー企業の社長が「成果を上げる社員にはいくらでも出すが、そうでない社員は去ってもらう」というのは、社長としては「逃げ」だと断言する。社長は、社員の生活を保障するのは当然だと言う。
だが、そんな会社がいくら利益を出しても、政府のアホな会社法で苦しめられているのだ。また、利益がある故に、たかろうとする大企業も多い。
やはり日本は終わりかなあ。

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2008.12.30

洗練の極意

あまり聞きませんが、池田満寿夫さんはとてつもない名言を残しています。
それは、「芸術と猥褻の違い」として、「洗練」と答えたことです。
さすが、エロチシズムの芸術家、池田満寿夫さんと思います。

芸術でも何でも、私のようなコンピュータシステム開発者でも、洗練を達成できれば必ず成功するのは自明のことと思います。
金が儲かるかどうかは知りませんけどね(笑)。私は、真の芸術家は金儲けとは無縁と思っています。

宗教の下僕として始まった芸術ですが、君である宗教も、臣である芸術も、極意は洗練です。
岡本太郎さんは、「人生即芸術」と言いました。なら、人生の極意もまた洗練です。

では、どうすれば洗練を得ることができるでしょうか?

江戸時代の神道家である度会延佳(わたらいのぶよし)は、著書「陽複記」に、慎みの一言こそが、神道で最も重要なことであると強調しています。
そして、彼はまた、著書「太神宮神道或問(だいじんぐうしんとうわくもん)」に、「ふだんの生活の中で神道でないものはない」としています。
人生即神道であり、慎みこそ神道の真髄と言っているわけです。
度会のこれらの言葉は誠に意味深く、まさに、慎みこそ人生の極意である洗練をもたらすものであることは間違いありません。
岡本太郎さんは、世間に対しては狂ってみせましたが、それは世間が狂っているからで、美や人生や人間や自然に対して、彼ほど慎みのある人はいませんでした。

ただ、何でもかにでもに慎みを持てと言われても困るところです。
しかし、ただ、食に慎みを持てば十分です。これは、水野南北の「相法修身録」を読めばよく分かります。
食を厳しく慎むなら、必要なあらゆることに慎みを持ちます。
犬や猿といった動物であるなら、食に優る喜びはありますまい。しかし、我々はただの動物ではありません。
犬、猿レベルの人間が多くなり、食を自ら厳しく節する人間を恨み嫌いますが、人間であれば、食べることを謹むことによって得られる大きなものが必ずあります。

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2008.12.29

死にたくなったら、食事を抜け

自殺の中でも、餓死による自殺だけは罪にならないと私は思う。

まず、餓死による自殺は、最も見苦しくない。
切腹など、少しも美しくはない。美化する人も多いが、醜悪以外のなにものでもないと断言する。
もし、死でもって尊厳を示すなら、餓死は切腹の百万倍も優れている。
切腹は崇高でもない。
だが、餓死なら崇高な姿を示せる可能性がある。

もし、死でもって誰かに何かを訴えたいなら、餓死が最も強烈に伝えることができる。
それが恨みであっても、餓死による自殺なら、飛び降り自殺の数百倍、恨みを伝えられる。
しかし、睡眠薬での楽な死など、何のアピールにもならない。

そして、餓死による自殺であれば、ほとんどの場合、死に至る前に、その自殺が馬鹿げていることが理解できる。
また、神仏の救いもあるだろう。

「マジック・ストーリー」という本に、こんな象徴的な話がある。
ある画家が、絵が売れず、仕事もなく、ゆるゆると餓死するか、自殺するかを選択しなければならない状況になった。
当然、ひどく空腹だった。
その時、「マジック・ストーリー」を読み、以後、何をやってもうまくいくようになった。
彼はこれを、「マジック・ストーリー」の力と言うし、それは確かであるが、あくまで空腹だったので威力を発揮したのだ。
たらふく喰ってるやつがそれを読んだからとて何の効果もない。
「マジック・ストーリー」の著者自体、このお話に書いた真理を悟ったのは、食べるものを買えない状況の中でのことだったのだ。

私のことで恐縮であるが、1つの実例をあげよう。
随分前の話だ。私もまた、餓死による自殺を選び、9日、食事をしなかった。そして、10日目に好きな女の子から電話がかかってきた。言うまでも無く、恋愛成就の断食ではないので、そんな意味で真似するな(笑)。
私は、彼女の願いを叶えるために日常に復帰したのだ。

死にたくなったら、食事を抜け。

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2008.12.28

人生の崇高な目標

このブログで何度も話題にするが、私は今年の8月7日から、1日1食の菜食主義者となり、一切の間食もしないようにしている。
これを特に人に言う気もないのだが、会社勤めをしていると、昼食に誘われたり、宴会や飲み会、食事会を断る際に話さざるをえないこともある。
また、従来が大柄の巨漢であったのが、25kgも痩せると、どうしても外見の変化が激しく、特にあまり会わないような人には驚かれて、少し話すこともある。

私がかなりの少食・粗食になったことを知って、肯定的な反応をする人はまずいない。
表面的には、私の健康を心配する発言をする人も、その言葉には私の食の慎みに対する不快さや、攻撃的なものを感じさせることが多い。ましてや、厳しい食の節制に本当に敬意を表した人は、まあ、皆無だ。

しかし、食べる楽しみの多くを放棄した私を非難する人でも、心の奥では少食の素晴らしさを知っているのだ。だから攻撃的になるのだ。
それはそうである。もし、食べる楽しみを放棄することが、本当に愚かで悪いことだと思っているなら、それをやっているからといって、赤の他人の私を非難する必要がどこにあろうか?

誰しも、心の深いところでは、少食こそ人間向上と真の幸福への唯一の道であることを知っている。しかし、自分はそれをしたくない。そして、それを出来る人間が、自分を置いて、惨めな状態から抜け出すのが嫌なのだ。

誰しも、本当は、少食は素晴らしいことであると感じているのだ。
そうでないと言うならそれでも良い。
しかし、少食は、1つの条件があれば誰にでもできる。
その条件とは、人生に崇高な目標があることだ。逆に言えば、その目標のために少食ができないなら、その目標は崇高でない。
崇高な目標は自我からは出てこない。思考や計算で出てくるものではない。
新しい宇宙ロケットを作ったり、立派な会社を作って、多くの従業員の生活を豊かに支えたいという目標は悪いものではないかもしれない。しかし、それと引き換えに少食にできないのであれば、それは崇高な目標ではない。ましてや、オリンピックの金メダルなど、我欲以外のなにものでもない(我欲の中では下っ端の目標ではないかもしれないが)。

人生に崇高な目標を持たない者に少食の素晴らしさを説いても無駄である。
水野南北は、「相法修身録」にこう書いている。
「叶えたい目標があるなら、自分の食事の1/3とか半分を神に捧げよ。ただし、自分が全部食べて、別の食事を捧げるのではなく、あくまで自分が食べなかったものを捧げるのだ。特に神棚などに捧げる必要はなく、食べずに心の中で捧げれば良い。神は速やかに受け取る。そうすれば、小さな目標で1年。高名になるなどであれば10年で叶う」
もし、その目標のためにこれができないのであれば、元々が叶えるべき目標ではないのである。

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2008.12.26

飯島愛さんの忘れられない言葉

飯島愛さんのことで憶えていることが1つある。
バラエティー番組のごく一時に「見せたくないけど、見せないと仕事をもらえない」と、決して楽しくなさそうに言ったことだ。
セクシータレントであった彼女に対し、「見せて当たり前」「恥ずかしいはずがない。むしろ喜んでいる」という思い込みが我々にあったはずだ。また、「プロなんだからやって当たり前」という意見もあろうと思う。
そして、昔の飯島愛さんにとっては、「他に出来る仕事がない」という思いがあったことも感じさせる。

映画の「ロッキー」の2作目だったかもしれないが、ロッキーが引退を決意し、就職活動をするが仕事が見付からず、職業相談所の職員に「あなたは有名なボクサーなんでしょう?試合すればいいじゃないですか。」と言われる場面がある。しかし、ロッキーはもう、ボクシングに燃えるものがなく、平穏に過ごしたかったのだ。

プロレスのジャイアント馬場さんが、インタビューで、「猪木さんが国会議員をやったり、いろいろな仕事に手を出している成功したプロレスラーもいる中で、プロレス一筋でやっている訳は?」と聞かれ、「本音を言えば、他に何も出来ないから」と答えていた。実際は、馬場さんは偉大なプロモーターだと誰しも認めているし、結構多才な人だったが、それもプロレスあってこそという気持ちと、彼らしい謙虚さがあるのだとは思う。
しかし、その馬場さんも、目標とか夢の話となると、「やめることが目標かなあ」とか「引退して、のんびり朝食を食べられる生活」、あるいは、「ちゃんと絵の勉強をして画家になりたい」といったものばかりで、あまりプロレスでの目標とか夢を語ることがなかったように思う。まあ、これも、何度も世界最高峰のNWA世界王者になり、いくつかのタイトルの記録的な防衛を達成するなど、やることをやり尽くしたからと考えることもできるが、スタート時点からして、好きで始めたプロレスでなかったことも確かであった。

人は誰も、本当に自分のやりたいことは出来ないものだ。
「好きなことを仕事にすれば良い」と言う人も多いが、無責任なのではと思うこともある。

しかし、飯島愛さんのあの発言は考えさせられた。女性なら恥じらいがあって当たり前だが、仕事のせいでそれを無視されていたところは確かに大きいと思う。

「荒野の7人」という有名な映画で、盗賊集団のボスが、「俺の立場も考えてみろ!子分達を食わさなきゃならねえんだ」と言う場面が非常に印象的だった。欲望の赴くまま好き放題に生きる彼にも、確かにそんなところはあるのだろう。
擁護する気もないが、食品偽造や、違法建築をやった会社の社長にも、社員の生活を支えないといけないという親心も全くなかったわけではあるまい(と思う)。

「ノワール」というアニメ作品で、ミロシェという名のチェコソロバキア人の傭兵(雇われ兵)の青年は、汚い仕事専門の外人部隊で活動し、勲章までもらったが、人殺しが楽しいはずもなく、再度、志願すべきかどうか悩んでいた。しかし、ヒロインの少女、霧香に言う。「志願することにしたよ。どうせ他に俺に出来る仕事はない。分ってたんだ」

生きることは辛いものだ。
さっきも書いたが、自分の好きなことを楽しくやって生活できる人なんて極めて少ないか、実際はいない。でなきゃ、成功した人が麻薬に手を出したり、法に触れるようなことをするはずがない。

よく「夢を忘れないで」とか言われることがある。とんでもない。夢なんて持っちゃいけない。
これは、ニヒリズムでも何でもない。
本当の夢なら良い。例えば、世界平和とか・・・(笑)。
しかし、単なる目標であるなら、持たない方が良いのだ。
なぜなら、あなたはほぼ百パーセントの確率で国家の経済的支配者や、これに結託する大企業などの資本主義社会に洗脳されているからだ。そこから生まれる目標なんて、自分や世の中を地獄にするのに加担するものしか出てこないからだ。

だから、神様仏様に全ておまかせすれば良いというのは、案外に科学的なのだ。
そこには、自我というものはない。そうであるなら、我々の内部にある神秘としか思えない力が働く。そうすれば、不幸になどなるはずがないのである。
この神秘の力は、実に我々の予想以上に神秘で強大であり、これも神や仏の力の一部であろうと思う。古代インド哲学ではアートマン(小宇宙)とかいうが、現象としてはそのように考えても良いが、実際には大宇宙とも等しいものであろう。
そうであるなら、我々を幸福にすることくらい、お茶の子済々である(笑)。
ただ、いかなる形で我々を幸福にするのかは分らない。「浜崎あゆみのような歌手が目標だ」なんて言ってるから駄目なんだ。それは、神仏におまかせしたことにはならない。
全て放棄である。自我の消滅である。
フロイトは、自我は自然に立脚しない幻想であると言った。それなら捨ててしまおう。

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2008.12.25

クリスマスはどちらかというと苦しかった

クリスマスイヴというのは、単にクリスマスの夜という意味である。本来は24日がクリスマスイヴなのではない。
後に、クリスマスの前夜祭という意味で、クリスマスの前日をイヴというようになった。
ただし、ユダヤ暦では、日没から1日が始まるので、やはりイヴは、今日的には25日に含まれていた。
だから24日をイヴとして祭ってはいけないというのではないが、このようなことも知っておいた方が良いと思う。
先日も書いた通り、イエス・キリストの誕生日は実際は不明で、12月25日は太陽神ミトラの生誕日とされる日であり、4世紀のローマで、イエスの誕生日をそれに合わせたのである。
また、イエスは紀元0年の生まれではなく、紀元前4年までに生まれていた。学者が計算を間違えたのであるが、今更どうしようもない。

来年のバラク・オバマ新大統領の就任式で、リンカーン大統領が就任式に使った聖書が使われるということで、その聖書の写真が公開されていた。なんとも趣きのある素晴らしい聖書だ。偉大な人物にも、聖書こそ最高の書物という人は少なくは無い。
何か1つ、優れた教えの書を保持するのは悪いことではないと思う。ただ、その内容を狭い自我で解釈してこだわれば狂信となる。奥深い教えであるほど、自分にはまだ理解できていないと謙虚に考えることが必要であろう。

私は別にクリスチャンではないが、16歳の時に(2月だと思う)新約聖書を購入し、4つの福音書は何度か読んだことがある。
私が最もよく憶えている箇所は以下のことだ。
イエスは、人が生きる上で、不安を持つ必要がないという意図でこんな話をする。
「あなた方は、子供が魚を欲しがっている時にヘビを与えたりはないだろう。悪い人間であるお前達でさえそうである。ましてや、天の父がお前達に良いものを与えないはずがあろうか?お前達は、天の父に髪の毛の1本1本まで数えられているのだ。必要なものは必ず与えられると思い、安心しなさい」
「空のスズメでさえ、神は養っておられる。お前達はスズメよりずっと優れたものではないのか?神がお前達の面倒をみないはずがあろうか」

この話を聞いても、特に日本人の多くは、「そうは言っても、最近、失業して生活に困っている人も多いではないか」と思うかもしれない。
しかし、イエスのこのお話は、世界中の古代哲学や宗教で一致を見るのである。
イエスのこの言葉に見事な補足を加えるとすれば、本質的にはヒンズー教の聖者であったニサルガダッタ・マハラジは「不要なものを求めなければ、必要はものは与えられるのだ」と言った。さらに、究極的には、「全てを諦めれば、全てが得られる」とマハラジは言っている。
同じヒンズー教の聖者として有名なラマナ・マハルシは「神はいかなる重みにも耐える。汽車に乗ってまで、自分の小さな荷物を頭に乗せて苦労する必要があろうか?荷物を降ろして安心しなさい」と言った。
また、ラマナ・マハルシは「神によらずに起こることはない。お前がいくら求めても、働く運命になければ仕事は見つからない」とも言っている。
仏教においても、絶対他力がその教えである。この他力とは仏の力であり、全て仏の力におまかせすれば良いというのである。
中国の道教においても、老子、荘子は無為自然を説く。万物と共に流れよ。なりゆきにまかせろと言っている。
荘子では、繰り返し、「無用に徹せよ。そうしてこそ、豊かに天命を全うできる」ことを奇想天外なたとえ話で説いている。
それを神と呼ぶか、道と呼ぶか、宇宙と呼ぶかは様々であるが、自分よりはるかに大きな力に全てをまかせきれば間違いがないという教えである。
有名な禅僧である一休さんの遺言は「大丈夫だ。心配するな。なんとかなる」であった。一休さんは、死の間際に、弟子達に「本当に困った時に見ろ」と遺言を残したが、そこに書かれてあったのが、この言葉であった。

最近、私は葉室頼昭さん(春日大社宮司)の本をよく読むが、その中の「御力(みりょく)」という本の中に、
「神様を最も侮辱するのは、取り越し苦労や持ち越し苦労だ」
と書かれている。
過ぎたことをくよくよしたり(持ち越し苦労)、先のことを心配する(取り越し苦労)のは神様を信用していないからだと言う。なぜ神様を信用できないかというと、自我の心が強いからである。自我を消し、全て神様におまかせすれば、神様が悪いようにするはずがないと言う。

これらの話は、いわゆる科学的な人、西洋的合理主義、自由競争主義、経済至上主義の方々にはとうてい受け入れられないことも多いに違いない。
しかし、それら唯物論の成れの果ては既に見えていると思う。

さて、神様、あるいは、仏様にまかせて最もうまくいく方法とは何であろうか?
それは、本当に神様、仏様におまかせすることである(笑)。
これは、自我、あるいは、欲があっては全く駄目なのである。
ある意味、簡単そうで一番難しいのだ。
先にも書いたが、「全てを諦めれば全てを得る」のである。難しいパラドックスだ。
修行や訓練ではないが、ある程度の練習は必要だ。
これについて、仏教学者のひろさちやさんの「狂いのすすめ」だったと思うが、ひろさんは、祖母に素晴らしいしつけをされていたことが書かれていた。正しいお祈りの仕方をひろさんは祖母から教わっていたのだ。
ひろさちやさんは、これを「請求書の祈りと領収書の祈り」という言葉で分りやすく説明してくれている。
請求書の祈りは駄目で、領収書の祈りが良いのである。
請求書の祈りとは、「大学受験に合格させて下さい」「あの子を恋人にできますように」である。
ひろさちやさんは、子供の頃、祖母に毎朝仏壇に向かってお祈りをさせられるのであるが、祖母は必ず「何をお祈りした?」と聞くのである。ある日、ひろさんが「今日の算数のテストでいい点を取らせてと頼んだ」と言ったら、怒られて、やり直しを命じられた。
一方、領収書の祈りとは、「ありがとうございます」の、ただこれだけである。
これこそ、全てを仏様におまかせし、たとえどんな結果であろうと感謝するというものである。
どんなお導きがあるかは分らないが、神様、仏様が良くしてくれないはずがないのである。
ゴッドファーザーですら、彼をゴッドファーザーと呼びさえすれば、どんな愚かな子分でも十分に面倒を見て、いい思いをさせてやったのである。ましてや、無限の力を持つ神様、仏様が良くしてくれないはずがないのである。

葉室頼昭さんが、穢れを祓う、即ち、自我を消す最も良い方法は、祝詞を唱えることであると言う。それも、最大の力を持つ「大祓詞(おおはらえのことば)」がベストであるようだ。決して意味を考えず、ただ唱えれば、この大和言葉が我々日本人のDNAに作用すると言う(葉室さんは医学博士で、日本最高の形成外科医でもある)。
私は、同じ効果(自我の消滅)が期待できる、世界平和の祈りも、般若心経の最後の呪文も大好きで、日頃から愛用しているが、大祓詞は特に日本人向きである。般若心経全文よりはるかに長いが、10分もあれば唱えられると思う。

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2008.12.24

サラリーマンの訳は「給料の男」?

すっかり一般的になったサラリーマンという言葉であるが、英語のようではあるが、おそらく英語圏でサラリーマンと言っても通用しない、つまり、意味が分らないのではないだろうか?
スーパーマンなら超人であろうし、ウルトラマン(ウルトラも「超」の意味)も理解してもらえるとは思う。
しかし、サラリーマンって何なのだ。「給料の男」。まるで映画のタイトルである。

サラリーマンとは、終身雇用制度という珍しい慣習のある日本の企業の社員を現すには適切かと思う。
何を目的に働くのかというのは無い。目的はただ給料だけである。給料さえもらえれば何でもやるのがサラリーマンである。
これって、端的に言えば奴隷のことである。ただ、一般に奴隷が無報酬で全く自由がないのに比べ、自由に使える給料が貰えて、勤務時間以外は原則自由であるところが人道的であるのだ。

多くの、一定以上の希望の会社では、学校を卒業したばかりの社員を採用するが、新入社員は、入社して辞令を貰うまでは、自分がどんな部署に配属されるのか全く分らないということも珍しいことではない。自分は商品企画をやりたいのに経理に配属されるというのも当たり前で、それでも大抵はちゃんと勤務するのである。
余程の貧困な状況ならともかく、経済的に豊かな国としては、諸外国から見れば、さぞや奇異と思う。
もっとも、これが絶対に良くないかといえば、必ずしもそうとは言えないかもしれない。
先の例で言えば、本人は商品企画をやりたいと思っていると言っても、新入社員ごときに商品企画の何たるかが分るはずがない。そこで、会社が適切と判断した部署に配属させることが、会社にとっても本人にとっても良いことであるかもしれない。
超大物の中にも、人生を自分で決めたことが全くなく、数奇な運命の中で生きてきて、結果的に今のようになったという話は少なくはない。
大物でなくて申し訳ないが、私はコンピュータソフト開発者である。しかし、最初からそんなものを目指していた訳ではなかった。早い話が、全くの成り行きでそうなっただけだ。

また、サラリーマンをしいても、いつかはコーヒーショップをやりたいとか、歌手や画家になりたいという人もいるだろうし、稀有ではあるが、それを成し遂げた人もいる。
私は思うのであるが、サラリーマンで画家になりたいとか思うなら、それはそれで良いと思うが、もし画家になるべき人間であれば、神様がそのようにしてくれると考えるというのもありかと思う。
自分の意思で無理に突き進んだというよりは、本当に偶然のきっかけで、結果としてそうなったという場合の方が案外多いのではないかと思う。自分の意思を前面に押し出す限り、人生とはままならぬものである。
ニーチェの「運命愛」という思想では、いかなる偶然も、神の意思であると共に自分の意思として受け入れるのである。ここらは非常に日本的とも思う。イェイツも全く同じ考え方をしていたと思うが、実際、イェイツは日本の能に大変に興味を持っており、彼の書いた戯曲には、まるで能のようなものもある。

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2008.12.23

真のアーチスト

クリスマスは、本当にイエス・キリストの誕生日ではなく、4世紀にローマで「そうしましょう」と決めただけのものだ。当時ローマで人気のあった太陽神ミトラの生誕日とされる12月25日にあわせただけのようだ。
そもそも、イエスは紀元前4年以前に生まれている。しかし、西暦を定める際に学者が計算違いをした。いまさらどうしようもないので、そのままにしているのだ。
尚、クリスマスができたのも西暦440年頃の話だ。

とはいえ、私は、アヴェ・マリアという歌が好きで、特にグノーが好きだ。幼稚園の時にカトリック系の幼稚園に通っていたせいと思う。
それで、毎年、クリスマスが近付く度に思い出して、良いアヴェ・マリアのCDがないかと、かなりの数を購入した。
子供の時、ウイーン少年合唱団のシューベルトのアヴェ・マリアと、エーリッヒ・ベンダー少年少女合唱団のグノーのアヴェ・マリアを聴いて非常に感激したことがあるので、児童合唱団のものを中心に購入していた。
変声期前の少年のソプラノは素晴らしく、少女の声に優るとよく聞かされたが、実際はそういう訳でもないらしい。単に昔の教会が女性に歌わせるのを禁止していたので少年合唱団ができただけだ。真実とは分かってみれば他愛もないものだ。
私も、少年だけの合唱より、少女の声が混ざった方がまろやかだし、調和があると思う。
高級ソプラノ歌手のパワフルなアヴェ・マリアは、乙女の祈りのイメージとは程遠い。
結局、気に入ったアヴェ・マリアは見つからない。

ところが、最近よく、ネット上で初音ミクの歌うアヴェ・マリアが公開されているが、これがなかなか良い。
初音ミクとは、音声合成ニュージックソフトウェア、つまり、コンピュータソフトに歌わせるもので、音階と歌詞を入力すれば歌うのだが、細かい設定を行うことで微妙な調整が可能らしい。
初音ミクの沢山の歌等を聴くうち、自我のない声の良さというものを感じた。初音ミクの歌は、別にすごく上手いというのではなく、どちらかというと、下手なアイドル歌手に近いかもしれない。
そこらも萌えるのではあるが(笑)、初音ミクがかくも人気があるのは、もしかしたら自我を強く感じる歌手の歌声への抵抗があるのではないかと思う。

政木和三さんは、ある日突然ピアノが弾けるようになり、世界的ピアニストも絶賛する腕前で、自分で作曲しCDも出した。彼は科学一筋で来ていて、音楽に関わったことは一度もない。
政木さんは、自我がある時は良い演奏ができないと言う。「上手く弾こう」という意識があればあるほど不満足な出来なのだそうだ。
政木さんは、ゴルフも50歳を過ぎてから始めたが、関西シニア選手権で優勝したり、エージシュートを2回出してギネス認定され、370ヤードを飛ばした。そして、やはり「飛ばしてやろう」なんて自我があると駄目なんだそうである。
また、私は、ある日突然シンセサイザーの演奏が出来るようになり、全国演奏ツアーをしていた画家の方と逢ったことがある。彼には直接、版画を貰った。
彼に、「私もアーチストになりたい」と言ったら、「一瞬でなれますよ」と言われた。
岡本太郎さんも「あなたも、本日ただいまより芸術家になれる」と言った。
私はまだアートストになれない。自我を消しきれていないのだろう。

ひきこもりの皆様は(別にひきこもりでなくてもだが)、自我を消し、アーチストになってはどうかと思う。
ひきこもりは、自分を見つめる傾向が普通の人より強い。自己を問い続けることが、自我を消し去る唯一の道であると、ラマナ・マハリシも言っていたのだ。
そのために、ラマナ・マハリシは「私は誰か」と問い続けろと教え続けた。

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2008.12.22

日本の昔話に学ぶ幸福の知恵

花咲かじいさんや、舌切りすずめのお話は日本人なら誰でも知っていると思う。
これらは実に大切な教えであるのだが、その心はすっかり失われてしまったかもしれない。

花咲かじいさんの童謡では「正直じいさん掘ったれば」という歌詞であるが、正直じいさんというよりは、無欲じいさんと言った方が良いと思う。
そして、隣のじいさんは、いじわるじいさんと言うよりは、強欲じいさんと言った方が良い。

花咲かじいさんは、白い子犬を拾ったのも、可愛がって育てたのも、当然、何かの見返りを期待したのではなく、ただ拾い、ただ可愛がったのだ。
対して、隣のじいさんが、その犬を奪ったのは宝の在り処を知りたいという欲望のためだけであった。

欲を持たず、ただやることが幸福への道であることを、日本人は本来、子供の頃から教わっていた。

舌切りすずめにおいては、やはり無欲なおじいさんは、単に無欲で慎み深いという性質の故に小さな箱を選んだ。
一方、強欲じいさんは、欲望の故に大きな箱を選んだ。
現代的合理主義で言えば、どちらでも良いというなら、おじいさんは箱の中身を確かめるべきとなるのだろうが、我が国では慎み深さを持って最上の美徳とする。おじいさんは、可愛いすずめから何かもらえるというだけで満足であり、中身はどうでも良かったのである。

欲を捨てよ。ものごとは執着なくやれよ。それは、ただやるということだぞよ。
昇る太陽は迷わない。意図なく昇るからだ。
沈む月も迷わない。意図なく沈むからだ。
星は美しい。意図なく輝くからだ。
自然から学べよ。
これを忘れなければ、我々は不幸になることは決してないのだ。

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2008.12.21

奇跡とその前兆

私は、朝食も昼食もとらないので、会社での昼休みも、特に行くところもなく、自分のデスクにいる。
しかし、ある日、ちょっと銀行に行き、ついでに百貨店の中の書店に寄ってみた。すごい人ごみだったが、驚いたことに、他の人が全員止まっているように見えた。
世界の中で私だけが動いている。
サイボーグ009の加速装置の世界だ(笑)。
あるいは、H.G.ウェルズの「新加速剤」の世界である(サイボーグ009の加速装置は、この新加速剤をヒントにしたと思われる)。
私は、他の人をすいすいと追い抜き、楽々と書店に到着した。これも少食・粗食の力に違いなかった。
改めて、少食・粗食の力を思い知った。少食・粗食は、バイオ加速装置を作るのだ(笑)。
しかし、この現象は、奇跡の前兆だったのかもしれない。以下に述べる。

いくつか欲しかった本が頭の中にあったのだが、ことごとに見つからなかった(後で全てAmazonに注文して既に入手した)。
そこで何を思ったわけでもないが、詩のコーナーに身体が動いた。
すると驚いた。北星堂書店出版の「W.B.イェイツ全詩集」が置いてあった。
10年ほども前から欲しいと思い、しかし、入手できずに手に入れることを諦めていたものだ。

Yeats

もともとはイェイツの名前は知らなかったが、不思議な出来事で彼を知ることになった。
10年ほど前、私はテーブルの上に何の意図もなく、3冊の本を重ねて置いていた。
「至高体験」(コリン・ウィルソン)、「神秘の薔薇」(W.B.イェイツ)、「美少女戦士セーラームーン14巻」(武内直子)である。
イェイツの「神秘の薔薇」は、単に装丁が気に入って買っただけだった。
しかし、偶然にも、「至高体験」と「美少女戦士セーラームーン」の両方にW.B.イェイツの名前が出ており、しかも、非常に重要に扱われていた。
ウィルソンが引用したという「イェイツ全詩集」は、翻訳では、北星堂書店から出ていることを知った。当時、まだAmazonはなく、クロネコヤマトのブックサービスに、同じ北星堂のイェイツの「ヴィジョン」と共に、この「W.B.イェイツ全詩集」を注文したが、「ヴィジョン」は届いたが、全詩集は入手不可という返事だった。私はいくつかの大きな書店にも探しにいったが、見当たらなかった。Amazonが出来てから検索したが、常に入手不可だった。それですっかり諦めていた。
イェイツの詩集は何冊も買ったが、いずれも満足できなかった。そもそも読めない漢字がやたら使われていた(笑)。
そして、ついに、北星堂書店の「W.B.イェイツ全詩集」を手に入れた。これまでの、どのイェイツ詩集よりずっと良かった。とても読みやすく、しかも全詩集だ。こんな素晴らしい本を、もっと出版しないのは残念なことである。

尚、他に気に入ったイェイツ詩集がなかったと書いたが、最近一つあった。「イエーツ訳詩集 最後のロマン主義者」(加島祥造 港の人刊)である。先日も紹介した通り、加島さんは、老子、荘子の素晴らしい本を書いているが、本来は英文学者であり、自ら詩人である。これも素晴らしい詩集であった。また、画家でもある加島さんは、イェイツの「あなたが年をとって」と一体になった絵を描いておられた。これがまた素晴らしい。実は、イェイツもまた画家を目指して美術学校で学んだこともあった。彼の父親は肖像画家であった。
最近、良い本にばかり逢う。これも少食・粗食の奇跡であろう。

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2008.12.20

あなたとは違う

福田前首相(すぐに「元首相」となるだろう)の「あなたとは違うんです」という言葉が有名になったらしいが、確かに面白い言葉だ。

人は誰も、それぞれユニークな存在で、「世界で一つだけの花」であるのだが、同時に、皆同じでもある。
これが本当に理解できた時、人間は賢くなったと言え、世界が平和になる可能性がある。
それは、何千年も後のことかもしれないし、すぐにも起こることかもしれない。

私の場合、最近では、誰を見ても、自分と同じと思うようになった。
世間を騒がす大犯罪者を見てもそうだ。「ああ、私と同じだ」と本当に思う。
世界中で素晴らしいと賞賛される人に対しても、彼らの陰が見えて、やはり「私と同じか」と寂しく思うこともある。
ただ、栄光に包まれた人はあまり私の興味を引かないのだ。
むしろ、世間に蔑まれ、叩きのめされる人こそ、大きなものを背負っているのだ。
彼らを見て、誰もが自分と同じと思った時、この世から犯罪は消えると思う。

「あいつと俺は違う」と蔑みの意味で言うなら、そう言う者こそ、この世を汚しているのだ。
「あなたとは違うんです」と言っても、心の奥では「あなたと同じだ」と分かっているのである。
分かっているから、ことさらに「あなたとは違う」と言わざるを得ない。これが真実である。

Nv
和の部屋に ボジョレヌーボー いとおかし^^;
天才エリック・パルドンの今年のボジョレー・ヴィラージュ・ヌーヴォーです。

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2008.12.19

「巣ごもり」と「ひきこもり」

「巣ごもり消費」という言葉をご存知だろうか?
海外やレジャー施設、高級レストランやブランド品店などに行くことを控え、家で慎ましく過ごすといった意味らしい。

特に、クリスマスからの年末年始では、従来は家を出てお金を使う人が多くなっていたのが、景気の冷え込みでその動きが鈍くなっており、家で家族や親しい人と、あまりお金を使わず地味に過ごす傾向が強いようだ。
当然、クリスマスの売上を狙っている、ホテル、レストランなどは慌てているだろう。景気の良い時であれば、人気のレストランやホテルは早くから予約しないとすぐに一杯になっていたのが、今年は、いまだ予約状況に余裕があるところも多いらしい。

逆に、ネット通販の楽天やAmazonは記録的な売上となっており、これらの商品を搬送する宅配会社も大きな恩恵を受けているらしい。
そこそこのプレゼントを買い、家で質素に楽しもうという傾向の現われと言われる。

これを景気の後退であると、否定的に見ることも多いだろうが、私は非常に良いことと思う。
世の中が正常な方向に向かい始めただけのことである。

土台、クリスマスイブを恋人同士でロマンチックに・・・なんていうのは、ホテル、飲食産業、販売業などの商業戦略であり、それに乗せられた日本の若者は、海外から相当馬鹿にされているのだ。
イエス・キリストの誕生日が12月25日なんてのも事実ではないが(イエスの誕生日は実際は不明で、クリスマスは後で勝手に決められた誕生日である)、イエスも自分の誕生日とされる日に、カップル達がこぞって美食を貪り、その後、ホテルでエッチに燃えていると知れば、アホらしくてやってられないだろう(笑)。
イエスの立場なら、クリスマスこそ質素に、食欲や性欲から離れて過ごして欲しいと思うはずである。それに意図的に反逆するならまだ見るべきところがあるかもしれないが、イエスの物語の雰囲気を快楽のエサにして平気な日本人は、やはり救いようがない馬鹿である。

巣ごもり大いに結構である。
日本人が少しはまともな行動をするようになったのであり、それが不景気によるものなら、不景気こそ幸いである。
不景気で悪くなったのではなく、これまでが異常であっただけである。
キリスト教的に言えば、これで我々が悔い改めねば、次は本当に悲惨なことになると思う。
多くの派遣労働者等を解雇している会社は、高給取りの社員の給与からカットし、雇用の継続に回して欲しいものだ。弱い者から全てを取上げ、強い者はなるべく現状維持を計るということを、天は赦さないだろう。

面白いことに、ひきこもりというのは、元々が巣ごもりをしているわけであり、実に正常な人間であることが分る。
もちろん、外交的な人間には外交的な人間の美点と欠点があり、ひきこもりにはひきこもりの美点と欠点がある。しかし、従来は、外交型人間の美点ばかりがもてはやされ、ひきこもりの欠点ばかりが問題視された。このバランスの悪さが現代社会の大きな問題でもある。

私は、高校生の時、改めて「マッチ売りの少女」を読んでから、クリスマスには一切の遊びをやめ、ディケンズの「クリスマス・キャロル」を読んで過ごすことに決めていた。
寒い部屋で1人、この文庫本を読んでいた時の想い出は美しいものだ。
そして今、少食という、至高の秘術まで手に入れた。私には、あらゆる幸運が待ちうけ、不幸になることは決してあるまい。よって、今後は世界平和のために生きることになるだろう。

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2008.12.18

給料は半分で良い

アメリカの自動車大手、いわゆる「ビッグ3」だけでなく、我が国の自動車メーカー各社も、大幅な業績予想の下方修正、数十パーセント単位での減産など、自動車産業においては衝撃的なニュースばかりが聞こえてくる。
不況なのは自動車産業だけではないのだが、自動車産業が社会への影響が大きいので、特に注目されるのだと思う。

ところで、なぜ自動車産業が不況なのであろうか?
早い話が、新車が売れないからだろう。
ところで、新車が供給されないからといって我々が困るだろうか?
もし困るとすれば、車が必要な状況で、現在所有している車が壊れてしまったような場合だけだろう。
そして、その分に供給される新車くらいはあると思うし、中古車だって沢山ある。
新車が買えないからって誰も困らない。
つまり、これまで、新車が売れすぎたと考えることもできる。
まだ十分に乗れる車があるのに、新車に乗り換えることは日本でもアメリカでも珍しいことではないし、お金さえあればいくらでも新しい車が欲しい人も多いだろう。また、一人で何台も所有している人だっている。
これらは、早い話が無駄なことであったし、資源の浪費にもなっていたはずだ。
では、現状は、ある面から見ると良いことになる。
いったい、これまで販売されてきた新車の何パーセントが本当に必要だったのだろう。
多く見ても半分以下であると思う。
仮に半分の50パーセントとする。

と言う事は、これまで自動車会社の役員や社員が手にしていた報酬は、実は半分が正当であるということになる。
では、最低ラインは設けるとして、自動車会社の役員、社員の給料を全て半分にすれば良い。それであれば、従業員の解雇も必要なくなるはずだ。
大半の社員が、半分の給料でやっていけるはずだ。
父親の月給が50万円の4人家族(父母と子供2人)がいるとする。半分にすると25万円だ。
自動車会社や電器メーカーの派遣労働者の中には、家族4人で十数万円の給料でやっていた人だっている。
完全に半分と言わないまでも、50万円の内、10万円を返納すれば、どれだけ多くの人が救われるだろうか?
給料が少なくなった分、少食にして食費を抑えれば健康になり、運勢も良くなり、かえって幸せになるはずである。
私は、給料は半分で良いと思っている。
皆がそう思うようになれば、世界は平和なものになっていくと思う。
まずは、従業員の解雇が多い自動車産業や電器メーカーで実施されれば嬉しい。

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2008.12.17

心もジャイアントだった馬場さん

風邪でうなされているので、ちょっと変わったプロレスの話をする(笑)。
とてもいい話だ。

日本テレビが「プロレスリング・ノア中継」を打ち切るという話がある。
私は、今はプロレス中継は見ないのだが、これは大事件と思った。

ノアは故ジャイアント馬場さんが社長を勤めていた全日本プロレスから、馬場さんの死後、離脱した三沢選手らが作った団体で、全日本プロレスを中継していた日本テレビは継続してノアの試合を中継していた。
実は、日本テレビは力道山の時代からプロレス中継をしていたのだ。

馬場さんは日本プロレスという団体に所属していた時、アントニオ猪木さんら他のスター選手が他局の中継で試合をした時も、力道山の時代から世話になっている日本テレビへの義理から、他の局へは決して出なかった。
やがて日本プロレスが崩壊した時は、アメリカで大スターであった馬場さんはアメリカに行くのが一番幸せだったはずだ。そもそも、力道山が死んだ時、日本に帰ろうとした馬場さんに、1963年という時代にアメリカのプロモーター達は馬場さんをアメリカに引き止めるために9千万円の年棒を提示したという話もある。馬場さんはどこに行ってもVIP待遇であった。しかし、馬場さんは日本プロレスに復帰した。今でいえば、球団が危機になった時に、イチローや松井が日本球界に復帰するようなものだろうか。
アメリカに行けば自由にいくらでも稼げた馬場さんであるが、日本テレビから新団体の設立を要請された。また、そうしなければ他の選手達が路頭に迷う。苦労ばかり多い新団体の経営者になるメリットなど何もないに決まっている。しかし、馬場さんは、やはり日本テレビへの恩義と、仲間のレスラーのために、全日本プロレスを設立した。
新団体設立はやはり厳しいものであったが、意外に好調に進んだところもあった。
「世界選手権争奪戦」という、全日本プロレス旗揚げのための命運を賭けた大イベントで、アメリカのトップクラスの人気レスラー達がこぞって日本に来たのだ。駆け出しプロモーターの馬場が、大したギャラが払えるわけでもないのに、新世界チャンピオン認定に相応しいスーパースター達を日本に集めたのである。「ニューヨークの帝王」と呼ばれる現役のWWWF世界王者ブルーノ・サンマルチノが、馬場さんの親友とはいえ、ニューヨークを留守にしてかなりの期間日本に来るというのは大変なことであった。
馬場さんは、彼らを撃破し、PWF世界ヘビー級王者に認定され、以降も世界の超一流ばかり相手に防衛回数の記録を作ることになる。
なぜこのようなことが出来たのかというと、本当のところは分らないが、馬場さんの人柄という話もある。
馬場さんが初めてアメリカ遠征した時、それこそ飛行機の切符1枚渡されただけの武者修行であり、22歳の馬場さんはたった1人、初めてのアメリカで右も左も分らないという不安の中にいた。そんな時、馬場さんの世話を焼いてくれたアメリカ人レスラーへの恩義を馬場さんは決して忘れなかった。馬場さんはやがて大スターになったが、それでも控え室では常に小さくなり、世話になったレスラー達を立てていたのだ。いかにアメリカ人でも、それを悪く思うはずがない。日本で馬場がピンチと知るや、こぞって来日したのである。
さらに馬場さんは、この時の恩も忘れない。馬場さんはその後も彼らを何度も日本に呼んだが、彼らの仲間のアメリカ人レスラーも含め、決して日本でレスラーの格を落とすことがないよう配慮した。また、ギャラは馬場さんが直接、ねぎらいの言葉と共に渡した。
馬場さんが亡くなった時、プロレス史上最高のレスラーと言われる「地上最強の鉄人」ルー・テーズは、朝日新聞の取材に「プロモーターとしても偉大で、約束したギャラは必ず払ってくれる誠実な人だった」と答えている。
時が流れ、アメリカで世話になったレスラー達も年を取り、力も衰えた。しかし、馬場さんは彼らを定期的に日本に呼び、高いギャラを払い続けた。馬場さんの告別式には、彼らが勢揃いした。

プロレス団体の経営は厳しいものであった。プロレスブームの中でも、全日本プロレスは苦しい赤字経営が続いた。
(馬場さんに続いて独立したアントニオ猪木さんの新日本プロレスの赤字は桁違いで、膨大な借金を作った。しかし、新日本プロレスの社長を引き継いだ坂口征二さんが見事完済した)
馬場さんは、その中でも、選手へのギャラの支払いの遅延は一度も起さなかったのが唯一の自慢と言う。

馬場さんの告別式で、親友ブルーノ・サンマルチノは言った。
「君は身体だけじゃなく、心もジャイアントだった」
馬場さんに学ぶことは多いと思う。

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2008.12.16

少食で風邪をひくとどうなるか

不覚にも、風邪をひいてしまいました。
以前はひどく風邪をひきやすかったのですが、少食をはじめてから全くひかなくなったので、すっかり安心してしまっていました。
寒い部屋で薄着で通し、夜がひどく寒くなっても、薄い布団1枚で寝てましたら、最後についにやられました。
急激に痩せたこともあり、体脂肪が無いせいか、寒さがとてもこたえることは気付いていたのですけどね^^;
風邪薬は飲まず、とりあえず、ワインとか梅酒のお湯割りとか飲んでいました。喉の痛みをまぎらすのに黒糖とか舐めてみました。アルコールや甘いものは4ヶ月振りなので、ひょっとしたら少しは太ったかと思って体重とウエストサイズを測ると、なんとガクンと減ってました。風邪の微熱、恐るべしです。
そういえば、鏡で見ると、かなり痩せていました。痩せすぎないようチェックするつもりで、体重計や巻尺を用意したつもりが意図せぬことです。
ウエストなんて、男性芸能人のサバ読み公称値を本当に実現してしまっています(笑)。

以前に風邪をひいた時と違い、さして苦しくないのですが、やはり悪寒がありますね。
1日1食なので、食べ物は相変わらず無茶苦茶美味しいですが、食べる量を増やす気はありません。
まあ、たかが風邪、そのうち治るでしょう。あまり痩せたくないですが。

吉行淳之介さんの「童謡」という小説にあったように、熱が出るということは、身体の肉を燃焼させているわけです。まずは脂肪で、次が筋肉となるのだと思います。
経験がありますが、真冬に行水などをすると、その時は寒くても、後で身体がポカポカしてくるのですが、これは、身体が急激に冷えることで生命の危機を感じ、肉を燃焼させて身体を温めるのだと思います。
すると、ダイエットの良い方法とは、風邪をひくか、寒い日の行水ということになると思います。まあ、いずれも、身体に良いとは思いませんので、やるとしても自己責任でお願いいたします。

まあ、風邪の間だけ、特例として、多少のアルコール、黒糖、それに玄米粉やはったい粉(大麦)をお湯で溶かして摂取することとしようと思います。

Sol
本筋とは関係ありませんが、私のナイフコレクションの紹介です。スイス、ビクトリノックス社のソルジャーです。1891年にスイス陸軍公式ナイフとなり、以来、120年近く、基本的に形を変えていません。
ナイフ、栓抜き、缶切、ワイヤーストリッパー、2種類のマイナスドライバー、穴空けの機能を持ち、イノックス鋼のミラー仕上げのナイフはよく切れ、しかも頑丈です。

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2008.12.15

無限のエネルギーは身近にある

アントニオ猪木さんだったと思いますが「元気があれば何でもできる」といったキャッチフレーズを使っていたと思います。
当たり前ですね(笑)。

しかし、昨今流行の「元気をもらいました」なんて言葉を聞くとゾっとします。
どうやれば元気をもらえるか知ってますか?
いじめをすることなんです。
元気をもらおうなんて人は、無意識的にかもしれませんが、いじめをやる人なんです。そして、無意識にやる行動がその人の本質です。意識してやらないといけないなら、本質とは違いますからね。
感動的な話で元気をもらえることは、そう多くはありません。しかも、感動的な話なんて、ほとんどがハッタリか作り物です。そこで、普段は手近な弱い人をいじめて元気を得ているのです。
ただ、そんな人というのは、エネルギーが乏しくて苦しいから、そんなことをしなくちゃいけないわけです。
子供をいじめる親や、逆に、親や家族に暴力を振るう若者なんてのも同じで、いじめる方はエネルギーが枯渇しており、その補充に必死なわけです。
学校や職場のいじめもそう。相手を苦しめることで、まやかしのエネルギーを得るのです。
ひきこもりというのは、知性や感性は正常なのですが、親や教師等にエネルギーを奪われすぎているのです。

エネルギーは外からもらうものではありません。自分の内に無限にあるエネルギーを使うべきなのです。
岡本太郎は、あなたも絵を描くことで、このエネルギーを汲み出せと言ったのです。
本来は、自分の内なるエネルギーを汲み出す方法は宗教にあったはずです。しかし、宗教の権威者が、自分にエネルギーを取り入れるために信者を利用するだけになりましたから、今の宗教はすっかり駄目になってしまいました。

老子や荘子では、この無限のエネルギーを秘めた道(タオ)のことを説き、人はタオと一体化することで無限のエネルギーを得られることを、老子は冷徹に、荘子は面白おかしく教えてくれています。
でも、多くの、老子や荘子の翻訳のあの教科書みたいな書き方では駄目ですね。
と、思いましたら、良い老子がありました。
ちくま文庫の「タオ-老子」です。英文学者の加島祥造さんの訳です。加島さんは、老子は理解できないものと諦めていたそうです。私もそうでした。しかし、加島さんは英訳の老子を読んで、老子の良さが分かったそうです。詩人、画家でもある加島さんが、老子をとても分かりやすく意訳してくれています。

Tao

また、加島さんは荘子についても、親しみやすく分かりやすい意訳にした「荘子 ヒア・ナウ」(PARCO出版)を書いています。
これらを読み、無限のタオから尽きることのないエネルギーを汲み出していただきたいと思います。
そして、すぐに無限のパワーと繋がる方法は、なんといっても少食です。おそらく、老子や荘子を読んでも、食の慎みがなければ、なかなかタオに繋がれないかもしれません。
無限のタオにアクセスするようになれば、不可能なんてあるはずがありません。

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2008.12.14

だからみんな不幸なのだ

居酒屋などでよくある風景。
「生(ビール)おかわり!」
「は~い!」
「焼酎おかわり!」
「は~い!」
私はおかわりなんて不要だ。
ビールなんて中ジョッキ1杯で十分以上だ。
梅酒お湯割などを注文することもあるが、1杯で十分だ。
それ以上は全く不要だ。
別に我慢でもなんでもなく、それ以上飲むと不味くなる。楽しくなくなる。
身体にも悪いし、不幸になる。
だからみんな不幸なのだ。金融不況など、何の関係もない。

以前、腰回しダイエットで有名なSHINOさんがテレビ出演し、芸能人達に腰回し運動を指導していた時。
久本雅美さんが、「これ、けっこう効きますね」と言った。
SHINOさんは困った顔で、それでも「そうですね」と答えた。
久本さんは、「効く」を、きつい(厳しい)とか、シンドイという意味で言ったことは間違いない。
それでいうなら、効くはずがない。こんな軽い運動。
久本さんの頭には、ダイエットになるような運動なら、きつくて当たり前という固定観念がこびりついているのである。
久本さんだけでなく、他の芸能人達にも「この程度で痩せるはずが」という雰囲気が一杯で、カールスモーキー石井さんはおちゃらけて派手に腰を振る始末。
彼らだけでなく、大半の人がそうであろう。
だからみんな不幸なのだ。

では、なぜ皆、そんなおかしなことをするのかと言うと、一言で言えば、余計なことを考え過ぎるのだ。余計なこととは、根本的には欲から出る考えである。
そのせいで、「ただやる」ということが出来なくなっているのが現代人の不幸なのだ。
酒を飲むなら、ただ飲めば(飲ませれば)良いのに、「もっと飲まないと楽しくないのでは」「もっと飲ませないと立派な人間に見られないのではないか」と考える。腰回し運動なら、ただ腰を回せばいいのに、「こんな楽なものがダイエットのはずがない」「何か面白いことをして注目を集めねば」などと下らないことを考えてしまうのである。

人は、余計なことを考えず、自分にできることをただやれば、何事もうまくいくはずなのだ。
ところで、武士が、殿様に誰それを殺せと命ぜられて、それを実行するのは、むしろ余計なことを考えるせいである。本当に殺すべきなら、余計なことを考えずに殺すが、殺すべきでないなら、殺さずにやるべきことをただやるだろう。

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2008.12.13

意図無き行為

私の最も好きなお話です。

誰かが、ラマナ・マハリシに、「意図無き行為」について尋ねました。
マハリシは丘に向かい、質問者達もついていきました。
マハリシは、とげだらけの棒を拾い、座ると、とげを切り、ザラザラした葉で表面を磨いて滑らかにしていきました。作業には6時間もかかりましたが、素晴らしい出来栄えに全員が驚きました。
マハリシ達が歩いていくと、羊飼いの少年に出会いました。少年は自分の杖をなくして途方にくれていました。マハリシはあっという間に少年にさっき作った棒を手渡し、通り過ぎました。

昔、テレビで竹村健一さんが、ゲーテの言葉を紹介していたのを憶えています。
ゲーテは、何か嫌なことがあった時、地球の我慢強さに思いを馳せると言います。何があっても、黙って回り続ける地球の我慢強さです。
しかし、地球は我慢強いとか、そんな問題ではありません。
地球は、ただ回っているのです。無心にただ回る。私は、そういったところこそ見習いたいと思います。

荘子は、事物と共に流れよと言います。そこには、何らの意図も願望もありません。

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2008.12.12

ひきこもりと芸術家のためのお金儲け術

お金儲けが下手な人種として、特に思い浮かぶのはひきこもりと芸術家だ。
まず芸術家から言うと、芸術家はお金儲けとは基本的に無縁だ。お金儲けが上手いなら、それは芸術家ではなく、単なる「上手い絵描き」「上手い工芸家」であるか、特殊な芸術家というわけであろう。
芸術家にとって理想的な環境は、ゴッホが経済面の一切を弟のテオの援助に頼っていたように、不動のパトロンがいることであると思う。池田満寿夫さんも、著書にそのように書いていたが、私には、何とはなく、池田さんの経験的な切実さを感じたものである。
ゴッホの絵そのものは、ゴッホの生存中、1枚も売れなかった(予約なら1枚あったらしい)が、彼は年間百数十枚の油彩画を精力的に描き、しかもことごとく傑作であった。
ピカソはお金持ちだったが、これも作品の一切を購入してくれるパトロンがいたおかげである。

芸術家に収入があるとすれば、商業的なデザインやイラストなどの仕事を有能にこなせる場合だけであろう。その代表はアンディー・ウォーホールと思うが、彼は商品パッケージのイラストやデザインで富豪になった。
ノーマン・ロックウェルとなると、イラストの方が本業で、芸術家ではないとまで言われたこともあった。確かに、彼のイラストは上手過ぎた。しかし、やはり彼は優れた芸術家であり、言ってみれば「上手さの際立つ芸術家」と思う。

ひきこもりがお金儲けが上手いはずもないが、それは芸術家と似た性質によるところもあるのではないかと思う。
ノーベル賞作家でもある、劇作家、小説家、詩人のサミュエル・ベケットは、芸術家にしてひきこもりであった。いわゆる、1日中、ベッドから出ずに過ごせるタイプだ。彼が書いた劇「ゴドーを待ちながら」がヒットしたのは奇跡としか思えず、当然、酷評も多い。しかし、いまだ世界中で公演されている。ともかく、彼がこれをヒットを狙って書いたわけでないことだけは間違いあるまい。そして、時代が少しズレていれば、本当に全く注目を集めなかったと思う。そういった小説作品は少なくは無く、「アンクル・トムの小屋」なんかも、あの時代でなければ、さほど読まれることはなかったであろうという話もある。ハリー・ポッターでさえ、出版されることになったのは、本当にたまたまの偶然で、著者が原稿を持ち込んだ数多くの出版社が全て(最終的には出版した出版社さえ)、「価値なし」として突っ返しているのだ。

ひきこもりと芸術家にお金儲けが出来ないのは、ある共通の性質があるからだ。
それは、いずれも、世間から逃げることが仕事のようなものであるからだ。
だから、世間の中と外を自由に行き来できたアンディー・ウォーホールは、何とも器用な人間だった。ピカソやダリは世間から外れたままでたまたま経済的に恵まれたのだ。

お金儲けというのは、世間との関わりの中でしか出来るものではない。
ひきこもりは世間との関わりを嫌うし、芸術家は、世間から脱却しないと芸術にならない。
アインシュタインは、科学者というより芸術家に近いかもしれない。彼はアメリカのプリンストン高等研究所で高給で働く研究者であったが、彼自身はお金に全く無頓着だった。収入の大半を誰とでも分かち合い、プリンストン高等研究所にスカウトされた際も、報酬の希望を聞かれ、あまりに安かったので、交渉人は年棒を聞いたのにアインシュタインが月給を答えたのだと思ったくらいだった。
アインシュタインもまた世間を超えていた。洗濯石鹸でヒゲを剃り、靴下を履かず、礼服を買うのも嫌がった。それ以前に、学生時代、学校を徹底的に嫌い、服従を拒んだ。頼まれれば中学生の数学の宿題も手伝った。


長々と書いたが、ひきこもりと芸術家のためのお金儲けは、ここからが本題だ。
どうしても、上記のようなことの理解がないと、方法論だけでは決してうまくいかないのだ。

別に私は莫大なお金を稼いだことはないが、そんなものは不要なのだ。それでも、欲しいもので買えないものは何もなかったし、今もない。むしろ、無駄遣いが多かったことを反省し、グルメになったことを後悔している。
不要な額のお金を欲しがる限り、まず99パーセントはうまくいくまい。
まあ、私の場合、それでも、ほとんど仕事をしないせいで、国税局の取調べにあったことはあるのだが(笑)。
「どんなお仕事を?」
「さあ」
「あなたにだって担当業務はあるでしょうが?」
「別に・・・」
「会社なんですから」
「人生いろいろ、会社もいろいろってことで・・・」

最初に言っておくが、まず、お金儲けのための仕事を、あまり高尚なもののように考えないで欲しいのだ。
これは、成功哲学の本には書いていないが、成功哲学のように莫大な収入を目指すのでもない限り、憶えておいて欲しいものだ。
成功哲学の本を読んでも、目のくらむような収入どころか、とんだ安月給か収入なしの人が大半であろうが・・・・(笑)。
仕事なんて、せずに済むならしない方が良いくらいに思えば丁度良いと思う。
邱永漢さん(金儲けの神様と言われる)は、「商売は地元でやるな」と本に書いていた。これを見ても、金儲けというのは、あまりきれいなものでないことが分るだろう。どうしても、地元では知られたくない破廉恥なところがあるのだと彼も言っているが、その通りだ。
そして、地元を離れてもそんなことがやれないなら、商売では成功しない。
世界的作家で、ナポレオン・ヒルとも関わりが深いと思われるオグ・マンディーノの成功哲学である「地上最強の商人」では、その教えの最初が「私は世間を見て笑う」であり、「自分を見て笑う」である。
世間と、商売に励む自分、いずれも笑うほどでないとお金儲けなんてできないのだ。
お金儲けの仕事が高尚でないなら、世間も勿論、高尚ではない。
芸術家になるとか、悟りを開くなら、これらを無視して高く飛ぶしかない。
しかし、お金が欲しいなら、世間と自分を笑いながら世間に留まる必要がある。そして、笑わないとやっていられない。

人間一人一人を見れば、案外に素晴らしいものだ。
しかし、集団になり、世間になると狂わずにはいられない。それが人間である。
イェイツは「集団の中に真理は無い」と言ったが、その通りだ。
その世間を笑い、お金を得る自分を笑わないといけない。
商売をやって苦しく思ったり、サラリーマンをやっていて嫌になるのは、それが分かっていないからだ。
これだけ分れば、嫌な思いをすることもなく、世間から十分な収入を得るであろう。

ここで終ると、大抵の人からひんしゅくを買うかもしれない。
具体的にどうやれば良いかさっぱり分らないということと思う。
具体的にとなると、その方法はあまりに多い。
だが、それがさっぱり見えない人が大半なはずだ。
なぜ見えないかというと、見えないようにさせられているのだから、当たり前なのだ。
国民全員に限定的な職業に就いてもらわないと困る人が多いので、その限定的な職種以外が、仕事に見えないよう、我々は教育されてきたのだ。
そして、いわゆる世の中のスターというのは、ある意味では世間を超えているのだが、彼らこそ世間にどっぷり浸かっているのだ。世間に平伏していると言って良い。もし、彼らが本当に世間を超えたら、あっという間に潰されるだろう。
だから、幸福になりたければ、スターになんかならないことだ。

これまで、学校やマスコミから受けてきた洗脳をはがせば、この世の真の姿が見えてくる。
そうすれば、たとえお金のことであっても、道は無限であることが分ると思う。
では、どうやって世間の洗脳を剥がすか?
私のブログを読むことだ(笑)。
まあ、それも重要だが、やはり少食である。食を厳しく慎めば、原理はともかく、確実にうまくいく。
芸術家、ひきこもりよ、食事を抜け・・・結局ここかいなんて思わないで欲しい。
本当のことであることは、あなたもいずれ分ると思う。

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2008.12.11

最強の呪文達

人生を楽に生きる上で、呪文は心強い友だ。
いくつかとっておきのを挙げるが、これらの言葉は、どれも根本的には同じ意味だ。

「困ったことなんか起こるはずがない」斎藤一人
「ぜったい、だいじょうぶだよ」さくら(CLAMP"カードキャプターさくら"より)
「求めない」加島祥造
「Let it be(あるがままに)」ポール・マッカートニー("Let it be"より)
「leave it all(放っておけ)」ジョン・レノン("Nowhereman"より)
「大丈夫だ、心配するな、なんとかなる」一休禅師
「不要なものを求めなければ必要なものは与えられる」ニサルダガッタ・マハラジ
「欲望を捨てれば不可能はない」政木和三
「なりゆきにまかせろ」荘子
「必要なものは願わずとも与えられる」(イエス・キリスト)
「サイコロが我らの神だ」W.B.イェイツ(“戯曲カルヴァリー”より)

言ってみれば、どれも他力本願であることが分ります。
だが、無欲であることも求められます。
そして、ちょっと分りにくいのですが、何かを信じることです。信じるものとは、神仏になるのかもしれません。
重要なのは、現在、どんな状況であろうと、幸福に過ごす必要があります。それで未来は確実に幸福となります。
これらの条件は、食を厳しく慎むことで、わけなく達成できます。

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2008.12.10

労働せずにお金を稼ぐ

ひきこもりの問題というのは、それだけではないのかもしれないが、経済面、つまり、お金の問題だと思う。
衣食住をまかなうお金さえあれば、家で静かに好きなことをして過ごせば良いのだと思う。

ひきこもりの人は、要は、世間と関わるのが嫌なのだろう?
私の場合はそうである。
そして、世間と関わるのが嫌だというのは、決して欠点でも異常でも何でもない。極めて正常なことだと思う。
なぜなら、世間の代表とも思える、会社、学校は根本的に異常で狂気の世界である。そこに関わればそれなりの意義があるのかもしれないが、できれば関わらない方が良い。それを、学校や会社に行けないことが悪いことのように思い込まされ、がんばったり、努力したり、成長したりすることで、そこに行けるようになるのだという馬鹿げたことが平然と言われている。

お金さえあれば、ひきこもりだって平穏に暮らせるのだ。それだけでなく、ひきこもり本来の持ち味である感性と知性を開花させ、創造的に生き、世界に貢献することだってできる。

少なくとも現代の日本においては、学校、そして特に会社と関わらずにお金を得ることは不可能な仕組みになっていると思われる。
いや、本当のことを言うと、お金を儲ける方法について、極めて狭い範囲しか見えないように我々の意識がコントロールされているのである。前しか見えないマスクをかけられた競馬の馬のようなものだ。
実際は、会社に関わったり、あるいは、その他のあまり有利でないお金儲けの方法とは別の、お金を得る方法は沢山、ほとんど無限にあるのだ。しかし、そうは言っても、子供の頃から、学校やマスコミに教育されてきた我々にはそれは全く見えないのである。
精神にはめ込まれた枷を外せば、いろんなことがぱーっと見えてくる。「なんだ!簡単じゃないか」と驚く。そんなものだ。
確かに、ホリエモンは現代日本のビジネス常識の枠外にある、とてつもなく効率の良いお金儲けを見つけ、喜んでそれをやったのだが、我が国ではあんなやり方は認められない。別にそれが正しくないからと言うのではない。あんなこと、海外では普通だ。単に、国家やこれと共謀する、ホリエモンと同種の欲望集団が利益を失う可能性があるから認められないだけだ。悪いが、ホリエモンが裁判に勝つことはないだろう。さっさとお金を海外のシークレットな銀行に移した方が良い。スイスなら普通にやってくれるのだが。

お金儲けに成功した人の中にはよく言われる。
「お金を儲けるなんて実に簡単なことだ。ちゃんと使うのはなかなか難しいけどね」
土台、お金儲けに成功した人で、世間を崇拝してきたやつなんていない。もちろん、心身をすり減らして、あまり割に合わない官僚みたいなことをやっている人は別だ。
ITの世界でも、世界一の大富豪ビル・ゲイツはハーバード大学中退。ゲイツと一緒にマイクロソフトを設立したポール・アレンもニューヨーク州立大学中退。ゲイツのライバルのスティーブ・ジョブズはリード大学中退。ジョブズのかつてのパートナーで天才技術者のスティーブ・ウォズニアックはコロラド州立大学中退。ゲイツのもう一人のライバルとも言われる、オラクル社CEOのラリー・エリスンはシカゴ大学中退だ。
日本マイクロソフトの元会長で名高い古川亮氏(慶応大学教授)は和光大学中退。アスキーの創業者で有名な西和彦氏は早稲田大学中退(後に工学院大学大学院で博士号取得)である。

まず、何をすべきかというと、学校や会社に行けないからって、自分を駄目な人間、劣る人間だと絶対に思わないことだ。学校や会社に平気で行ける人間より優秀だと思え。
医者でもらった病名なんか忘れてしまえ。そもそも医者になんか行くなと言いたい。しかし、判断は任せる。そんなことで私に責任を求めているようではそもそもだめだ。
世間や社会の価値観には完全に背を向けよ。東大に入る人間が優秀だなんて夢々信じるな。
高校野球なんかに感動するな。24時間テレビを笑え。オリンピックなど嫌悪するようでないと駄目だ。
学校やマスコミを通じて価値を押し付けてくるものは全部否定するくらいの心意気が必要だ。

それと同時に、食を厳しく慎むことが必要だ。これだけは必要なのだ。
食を慎んだ時の自分を感じることで、社会に植えつけられた盲点がかなり外れる。
内臓がエネルギーを必要としなくなり、エネルギーが回された脳に、これまで使ったことのなかった力が解放される。
そして、世の中の常識を引っくり返す書物、例えば、老子や荘子を読め。老子は難しいかもしれないが、荘子は面白いだろう。
これを続けると、後一歩だ。
働かなくても、また、怪しげなことをしなくてもお金を稼げるようになる。
だが、根本は、自分だけの平和でなく、世界の平和を念願して欲しい。その世界の中に自分も含まれる。自分の平和を願うのではなく、自分も込みで世界の平和を願うのだ。

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2008.12.09

ひきこもり、宇宙へ

宇宙人がやってきて、地球見学をさせるとしたら何処を、そして何を見せるだろうか?
NASA(アメリカ航空宇宙局)やペンンタゴン(アメリカ国防総省)や、大型放射光装置施設。
あるいは、豪壮で華麗な歴史的建造物や有名な美術館。
各国の宮殿、皇居。
ディズニーランドのような、巨大な娯楽施設。
いや、現在であれば、グーグルやマイクロソフトが建造に必死になっている、クラウドコンピューティングのための広大なデータセンターも外せない(笑)。

超科学力を持った宇宙人ということなのだが、昔の「宇宙戦争」という映画で、キリスト教の牧師が、「我々より進歩しているなら、より神に近いはずだ」と思いながら火星人の円盤に近付き、熱線砲で消されてしまったが、まあ、そんなことはあるまい。多分(笑)。
その宇宙人がとてつもなく進歩しているなら、上にあげたものは、見るにしても適当に見るだけだろう。
進化して頭も良くなっているのなら、「真実は低いところにある」ことくらいは知っているはずだ。
だから、彼らはスラム街や、飢餓・貧困の地域、戦争・紛争中の地域を見て地球人を理解するだろう。
日本の社会を見るなら、貧困層やひきこもりをよく観察するだろう。
では、地球は、とんでもなく低い評価を与えられるだろうか?
1つ希望があるとすれば、我が国の落ちこぼれ、ひきこもりを見て、そこに宇宙真理に照らしての正常さがあることを知ると思う。
宇宙人は、社会の落伍者やひきこもりを宇宙に連れて行き、交流し、その後、地球に戻し、援助をすることとなるだろう。
実を言うと、もう始まっているんだけどね(笑)。

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2008.12.08

落ちこぼれ、ひきこもりこそ「大いなるもの」である

イタリアの経済学者・社会学者パレートが唱えたパレートの法則を一般的に簡略化したものと思うが、80:20の法則というものがある。
これは、およそ世の中にあるもので、重要なのは全体の2割程度であるといったことで、例えば、「売上の8割は、全顧客の2割が購入する」とか、「全商品の2割が8割の売上を占める」とかいうものだ。
ところで、我々は働き蜂とか働き蟻というと、全部が極めて勤勉に働くと思っており、俗に「働き蟻のごとく働く」なんて言う事もよくある。
しかし、実際には、よく働く働き蟻というのは全体の2割で、残りはかなりサボっているものらしい。さらに、2割の働き蟻はほとんど働かないものであるという。さらに、働かない2割の働き蟻を集団から取り除くと、残りの働き蟻の中の2割が働かなくなるという話もある。

ものごとを深く実践したり、考えたりする人は、そういったことを実感として強く感じるものかもしれないと思う。
以前、ある社長さんからこんな話を聞いた。全社員の中の2割は全然駄目で役立たずだという。しかし、この2割の首を切れば、残りの社員の中から2割が、全然駄目な社員に落ちてくる。そこで、駄目な2割は置いておいた方が良い。ただし、この2割には仕事をさせないようにしないといけない。仕事をさせなければ、1人(年間)1千万円で済む。しかし、こんな連中に仕事をやらせたら、下手したら1人で1億の損失を出す可能性があると言う。
世間では、リストラ(本来は再構築という意味だが、ここでは世間的に解雇という意味で使う)ブームであるが、駄目な社員の首を切れば、社員の質はどんどん落ちてくるものかもしれない。
かつて、松下幸之助が松下電器の社長だった頃に大不況があり、幹部達は幸之助にリストラを提言したが、幸之助は「仕事がなければ掃除をさせておけ」と言って応じなかった。一般的にはこれをもって、社員は恩義に報いるため死に物狂いでがんばって会社が発展したと言われるし、それももちろんあるとは思うが、案外、幸之助は80:20の法則を直感的に感じていたのかもしれない。松下幸之助の勘の良さは有名である。

さて、私は2割の人間である。もちろん、どうしようもなく怠け者で駄目と分類される2割である(笑)。
しかし、「老子」を読むと、この2割の偉大さも感じられるのである。
落ちこぼれ、ひきこもりの割合はいかほどのものか知らないが、世間では間違いなく下の者と見られているだろう。しかし、老子では、偉大な者は、デクノボウ扱いされて平気であるとある。最も強いものは水であるが、それはいつも下に控える。
私は真にもって言うのであるが、本当は落ちこぼれやひきこもりこそ偉大なのだ。いずれ分る時もあると思う。

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2008.12.07

実際的雇用・景気対策

今朝もテレビを付けると、世間の不況を取り上げている。
自動車会社や大手の製造会社での、派遣従業員や期間従業員の契約打ち切りに関するものが多い。

1つには、これらの問題は大変なことであるとしても、マスコミの姿勢そのものにも問題がある。いや、大問題だ。
まるで日本全国が絶望的であると言っており、これを見た人々がまたそれを何も考えずに信じてしまう。
車で買い物に行けば、道路は車で満ち溢れ、それらの車の大半が新しい車で、新車も少なくない。
通勤で電車に乗れば、みんな流行の良い服を着ているし、靴はピカピカ。穴の開いた靴を履いている人なんていない。
日本のマスコミというのは、一方的な見方を大きく取り上げたり、小さなことを無茶に拡大したり、重箱のスミを突っつくしか能がないのである。
早い話が、日本にマスコミなど無いと知る必要がある。
そもそも、不況が深刻だと言ったところで、ロクな対策案を示すことはない。

不況も確かであるので、では、どう対策するかであるが、自動車会社の利益が半分になったというなら、それはつまり、今が正常だと言うことだ。
これまでが異常だったのだ。
アメリカの金融破綻の影響だと言ったところで、その中味の何もない金融バブルに自動車産業もどっぷり乗っかっていたはずだ。

では、どう解決するか?
私ならこう言う。
私の給料は半分でいいから、もう1人雇って欲しい。
テレビで不況問題を偉そうに語る高収入の方は、4~5人で給料を分かてば良い。
それ以外に解決方法なんて実際にはないのだ。
では、私に関して言えば、2人分の仕事はないと言われるとする。なら、働きたい方が働けば良い。インドのどこかの官邸では、定員の2倍を雇い、仕事をしたい人は早くに行って仕事場を確保するらしい。こう言うと、早く行って仕事を取らないとクビになるから必死だというイメージを日本人はすぐに持つ。そんなことは起こらないし、後から仕事場に行って仕事が無かったり、あるいは最初から行かない人にも給料が同じだけ出るし、クビにもならない。働きたい人が働けば良いのだ。人間には怠け者もいれば、働き者もいるのだ。そもそも、仕事が楽しいと感じる者が働けば良いのだ。仕事は楽しんでやるものなのだ。

私は1日1食の菜食で、間食、飲酒を全くしないこともあり、1月の食費は1万円にもならない。ここ数年は、私服は1着も買っていない。
本、DVD、CDは毎月かなり買っているし、ナイフ等の趣味にはさらに相当つぎ込んでいるが、全部やめても良い。もう十分持っている。
本も、今後、一生繰り返し読める良いものが集まった。

大抵の人の食費は半分にできるはずだ。
そうすれば、健康になり美しくなって、お金もあまり必要でなくなる。
医療費だって節約になる。
心も穏やかとなり、平和が近付く。
こういったことを、すぐに完璧にやるのは難しいかもしれないが、こういった方向に向かうしか人類に未来はないと思う。

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2008.12.06

現代の我々に最も必要にして実際的な聖典

Souhou

私の最大の聖典「相法修身録」の現代語訳「食は命」(成星出版)だ。1813年に観相家の水野南北が著した「相法修身録」を編集し、現代語にしたものである。

人間にとって最大の弱みは食欲だ。
性欲や睡眠欲なんてたかが知れてる。これらには限度がある。いくら寝たいからって、1日20時間も眠れない。
食だけは、必要量をはるかに超えて欲しがる。そして、食べれば食べるほど、どんどん強まるのが食欲だ。美味しいものを食べれば食べるほど、もっと美味しいものを食べたくなる。こんな奇妙な性質を持つ欲望は食欲だけだ。
「千と千尋の神隠し」で、千尋の両親が際限なく食べ続け、ついに豚になる場面を知っているだろうか?あれが現代の日本人やアメリカ人の、我々の姿なのだ。
だが、最大の弱みであるなら、そこには必ずプラスに転じる鍵がある。
食を慎みさえすれば、最大の徳を積むこととなるのだ。
幸運の秘訣は陰徳である。人に知られることなく良いことをすれば、天に徳を積むこととなり、幸運となる。
そして、食を慎むことは最大の陰徳なのである。食を慎みさえすれば、望まなくても幸運に恵まれ、健康で美しく、そして賢くなる。
面白いことに、食を慎むことは、人に知られても、その苦しさゆえに陰徳となる。他の慈善であれば褒められるが、少食であれば、現在であればむしろ憎まれるしね(笑)。

「相法修身録」には、食を慎むべきことが、いや、食を慎むべきことのみが繰り返し書かれている。食が全てであるのだから当然なのだ。
残念なことに、我々を幸福にし、世界を救う極めて稀有なこの本は入手が困難かもしれない。中古本ならAmazonなどで買えると思う。
世間が好まない本であり、国家やこれと結託する欲望集団が忌み嫌う本だ。だからこそ読む価値がある真に優れた本なのだ。

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2008.12.05

芸術家を名乗るに値する者とは

横尾忠則さんは、芸術には狂気がなければならないと言ったと思う。
一方、池田満寿夫さんは、自分には狂気はないと言った。
しかし、これらを、言葉通りに受け取ってはならない。
彼らの言う狂気は、正常の基準が異なるのだ。
横尾忠則さんは、世間を正常の基準に置いて言っているのだが、池田満寿夫さんの正常の基準は全く異なった処にある。彼は、世間なんか知ったこっちゃないと思っていたと思えるのだ。

池田満寿夫さんは、東京芸大の受験に3度挑んでいるが、おそらく、3度とも、受かる要素など全く無かったと思う。なぜなら、試験の時のデッサンは消しまくって真っ黒になったものを提出したとか言っており、合格するための対策など、もともと考えていなかったのだろう。彼が東京芸大を目指したのは、親や自分の境遇への反発が大きかったのだと思う。彼が、芸大なんて世間の権威に迎合することは全く似合わないが、若い頃の彼にはそれが分らず、まだ芸大に、そこが芸術の拠り所であるという誤解(あるいは幻想)があったのかもしれない。
一方、横尾忠則さんも美大を目指し、真面目に準備も行ったのだが、自分の意思に反し、強制的に断念させられた。彼の場合も美大なんて行かない方が良かったような気もするが、彼にしてみればその残念さは残ったように思えるのだ。
さらに、横尾さんは商業デザイナー、イラストレーターとして出発し、ある意味、どっぷり世間に関わっていた。さらに、画家になってからもデザインの仕事は続けており、世間との関わりは強い。そんな彼が、正常の基準を世間に置き、そこからの自分の逸脱を狂気と感じても不思議はない。横尾忠則さんは、宇宙人や霊の存在を当然のように肯定して、いろいろエキセントリックな話も平気でするのだと思うが、それでも、彼がそのようなことを言う時には、どこか世間への遠慮やてらいを感じるのだ。

池田満寿夫さんは世間に染まることはなかったと思う。若い頃、街の似顔絵描きをやった時も、腕前で自分より優る芸大生の似顔絵描きからコソコソ逃げ、プロの似顔絵描きからは、「俺たちの評判をお前の下手な絵で落とすな」と言われた。さらに、怪しげな仕事にも手を出し、油彩は売れそうにないからと版画に転向した。絵のテーマはほとんど一貫してエロスだった。自分でも言っているが、画家にとってエロスに手を出すのは危険が大きい。ポルノ呼ばわりされて評判を落とし、それでも売れれば良いが、現代ではもっと扇情的でリアルなエロがいくらでも存在する。それでも、池田さんはエロスを追求し続けた。
池田満寿夫さんは、もともとが世間に背を向けていたのだ。世間など知っちゃいないのだろう。そんな彼が、わざわざ世間を正常な基準として、自分を狂気と見なしたりはしないだろう。
写真家の「天才アラーキー」こと荒木経惟さんは、写真家になるには黒子に徹しないといけない、世間に平伏さないといけないと言っていた。あれほど反社会的な人がである。写真家を職業として成り立たせるためにはもっともな見解である。しかも彼は、もともと大手企業のサラリーマンであり、世間常識とは何かを知っているのだ。彼は、世間人と脱世間人を器用に使い分ける天才かもしれない。世間の中にいる自分に生まれる苛立ちや狂気をネタに詩を生み出すという詩人もいたように思うが、アラーキーもそんなところがあるのだと思う。
大正時代の叙情画家である竹久夢二は、有名な画家になってからも、絵の基礎が出来ていないことに引け目があったのか、美術学校への入学を考えたらしい。しかし、高名な画家が竹久に、「君の絵は美術学校で学ぶと駄目になる」と言われ断念した。実は竹久夢二こそ、流行商業デザイナーでもあった。しかし、彼の本分はやはり芸術家であるのだ。

ゴッホも世間を無視した画家である。生活や芸術活動に必要な費用の一切を弟のテオの援助に頼り、自らはひたすら自由に創作した。絵は売れれば良いとは思っていたようであるが、売るための努力など決してしなかった。結果、在命中、絵は1枚も売れなかった(予約が1つあったらしいが)。彼も自分に狂気があるなんて思ってはいまい。彼の場合は、本当に精神病院に入れられたことがあるが、それでも彼は自分の正常さを疑ってはいなかっただろう。黒澤明監督の映画「夢」で、世界的映画監督であるマーティン・スコセッシが演じたゴッホが言ったように「自然は美しい。なぜ描かない」といったような自信と信念があったと思う。
ダリにいたっては、世間が狂っており、自分だけ(後には妻のベラも)正常だと考えていた。ゴッホは、ダリほど世間を積極的に馬鹿にはしなかったかもしれないが、同じようなものだったのではないかと思う。

天才芸術家の中には、壊れたように見える人も多いが、そんな芸術家の中にも、いや、中にこそ、芸術の真髄を感じるのである。
芸術家が世間に迎合して良いはずがないのだ。
芸術と世間は真逆、正反対なものであるのだ。
画家や彫刻家という職業はあっても、芸術家という職業があるはずがない。
牧師や僧侶が職業であっても、宗教家という職業があり得ないのと同じだ。
もともと、芸術は宗教の下僕としてスタートしたが、現在では、宗教が本来担うはずの使命がある。
それは、世間の中で奴隷になった人々を解放することである。
世間とは地獄である。世間が地獄でないなら、宗教は必要ないし、芸術も必要ない。
今の世間は狂っていると言われるが、世間は「いつも」狂っているのだ。
狂った世界で極上の狂いを見せるのが芸術家だ。我々が世間という地獄で自由になるには狂いを身に付けるしかないのだ。芸術はそこに誘うものだ。
狂気の代表格とも言える大芸術家、岡本太郎は、「今日の芸術は、きれいであってはならない。うまくあってはならない。心地よくあってはならない」と言ったが、あまりに当然と思う。地獄という世間を有難がっている奴隷、亡者に水をぶっ掛けるのが芸術家の役目なのだ。世間的に満足させるものが芸術であるはずがないじゃないか。
芸術家が権威に平伏し、世間に評価され、お金持ちになり、国家の価値観を宣伝するはずがない。そんなのは似非芸術家である。騙されてはならない。
世間の奴隷、国家の犬が芸術家を名乗るのは赦せないことである。

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2008.12.04

求めなければ絶対に大丈夫

台湾生まれのアメリカ人作家チン・ニンチュウは、不幸な少女時代を過ごしたこともあり、偉大な努力をして事業家として大成功した。
しかし、彼女はある夜、啓示的な夢を見る。自分は羊で、羊飼いに世話をされていた。そして目が覚め、悟った。自分は何もする必要はない。ただ、神様にしっかり面倒を見てもらえば良いのだと。

これが、仏教、キリスト教を問わない宗教の根本的な教えであると思う。
インドの偉大な聖者、ニサルダガッタ・マハラジはこう言った。「不要なものを求めなければ、必要なものは与えられるのだ」と。
これは、「必要なものを求めよ」と言っているのではないことに気を付けないといけない。
不要なものを求めなければ、必要なものは求めずとも得られるのだ。
つまり、「何も求めるな」と言っているのである。
イエスも「神はあなた方の必要なものくらいとっくにご存知だ。そんなものは求めずとも与えられる」と言ったではないか。
しかし、イエスは「求めよ、さらば与えられん」と言ったではないかと言われるかもしれない。
これは、唯一価値のあるものを求めよと言ったのだ。
では、唯一価値あるものとは何か?
イエスは「探せ」と言ったではないか?
どこを探すのかと言うのか?
心に決まっている。世界は心の中にあるのだ。
イエスは、ノックしろと言っている。自分の心の扉をノックし続ければ、それは開かれるのだ。

いずれにしろ、必要なものは望まずとも与えられるので心配する必要はない。
巨万の富があなたに必要かどうかは分らない。しかし、必要なら与えられる。必要もないのに求めないことだ。
逆に言えば、求めてどうなるものでもない。神様にまかせるしかないではないか?
得られればそれが神の意思であると共に、自らの意思であり、得られなくても同様だ。

道教の荘子は、更に徹底し、無用、無為を教えた。
無用、無為に徹すれば、一切の危ういことはなく、無敵である。
これを無用の用、無為の為と言う。

CLAMPの漫画・アニメの「カードキャプターさくら」では、さくらの最強の呪文は「ぜったい、だいじょうぶだよ」であった。
我々もそれを知り、安心して心を動揺させないことだ。
斉藤一人さんは、「困ったことなんかおこるはずがない」と言った。困ったと思う出来事が起こっても、それが困ったことではないと分かれば、現実の方がぱっと変わるのだ。
ニサルダガッタ・マハラジが言ったとおり、「不要なものを求めなければ、必要なものは与えられる」と知るべしである。
全てをまとめて、一言でこの世で最も貴重な呪文を教えるなら「求めるな」となる。

だが、人間は欲が深く、どうしても不要なものを求めてしまう。
特に、他人が良いものを得ればそれを羨み、同じか、それ以上のものをどうしても欲しいと思う。
それをそそのかすことで金を儲け、欲望を満たそうとする輩も多い。
仏教では「知足(足るを知る)」と言って、そのような誘惑を逃れることで幸せになると教えるが、それができない。
しかし、不要なものを求めれば、必要なものまで得られなくなる恐れがある。
イエスも言った。「持っている者には更に与えられ、持っていない者は、持っているものまで取上げられる」と。
あえて余計なことを言えば、不要なものを求めなければ、いくらでも与えられるのである。いや、余計であった。こんなことを教えると、不要なものまで得ようと、不要なものを求めないフリをするのが人間だ。しかし、神を誤魔化せるはずがない。

では、不要なものを求めない、清い心を得る簡単な方法を教えよう。
それは、食を慎むことだ。
食事の量を腹八分目と厳しく定め、美食を遠ざける。それだけで良い。
ただし、常にそうすることだ。
数日断食しても、それが過ぎればこれまでの飽食に戻るなら、かえって悪いのである。
また、日頃少食で粗食であるのに、時に大食・美食すれば、大いに災いである。
結果として、少食・粗食であれば、健康で財にも恵まれ、家族も幸福となる。
これは、健康や財運という餌を先に示しても問題ない。少食・粗食でさえあればそれは必ず得られる。
だが、「求めない」という崇高な心を持たないと、少食・粗食は難しいかもしれない。

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2008.12.03

リエンジニアリング~破滅と再生~

「リストラ」という言葉を、大半の日本人が企業における「解雇」の意味と思っていると思う。
しかし、本当の意味は「再構築」を示す、リストラクチャリングの短縮形だ。
よって、本来は、企業の組織を再構築するというものであるのだが、多くの場合、経営危機にある企業が存続のために組織を再構築するには、従業員の削減によるものしか現実策がないため、リストラが解雇と同じ意味で使われるようになったのだと思う。
ただ、最近の米国での大手金融関連企業やビッグ3と言われる巨大自動車メーカーの経営破綻に見られるように、超大規模企業ですら、いかに従業員の削減を行っても、自力での再生が不可能なものが続出し、それがあらゆる企業に連鎖・波及してこようとしている。
こういった企業は、もう役割を終えているのである。もはや滅ぶしかない、時代遅れの恐竜である。
公的資金の注入も、一時の混乱の収拾には必要かもしれないが、それらの企業では、本来の意味でのリストラクチャリング(再構築)は絶対に不可能ということを理解しないといけない。つまり、あくまで、遠くない将来に、これらの企業を潰すということが前提であるべきなのである。

さて、では、これら役割を終えた企業、ビジネス形態、金融を滅ぼした後、我々はどうすれば良いのであろうか?

リストラクチャリングに比べ、あまり普及したと言えない言葉に「リエンジニアリング」というものがある。
リエンジニアリングとは、再設計という意味だ。
リストラクチャリング(再生)がもはや不可能なので、リエンジニアリング(再設計)しましょうというのが結論なのだ。
もっと分りやすく言うと、リストラクチャリングとは、悪い部分を見つけて改めるといったことである。つまり企業の欠陥箇所の改善である。これに対して、リエンジニアリングとは、いったん潰して作り直すというものだ。部分的な修繕による再生はもう無理なので、一から作り直すのである。根本的改革と言えば分りやすいと思う。
実をいうと、企業においても、リストラクチャリングよりリエンジニアリングが必要だということは、1990年にアメリカのマイケル・ハマー(元マサチューセッツ工科大学教授)が言い出したのであるが、リエンジニアリングという根本的改革にまで至った企業はほとんどなかったと思う。
リエンジニアリングという根本的改革を実施すると、現在、利権を得ている連中がそれを失う可能性が高いからである。そうやって改革を遅らせた結果が現状である。だから、もう救いようがないのである。

ところで、人間1人も企業と同じようなところがあるのである。
生きがいのない人生、楽しくない日常を送っている人の中には、「どこか変える」程度では、どうにもならないと感じている場合もあるかもしれない。人生が破綻し、いったい何をすれば良くなるのか、皆目検討もつかないという状況といった場合だ。
そんな時は「全部変える」のだ。そのためにはいったん全部潰すのだ。

昔から、「破壊」と「再生」という全く逆の言葉が組み合わせて使われることがよくある。
W.B.イェイツは、再生のためには破壊が必要と言い、破壊する者は陽気だと言った。
荘子は、一方から見れば破壊でも、他方から見れば完成であると言った。
人気漫画・アニメ「美少女戦士セーラームーン」では、「滅びの戦士」セーラーサターンが、「沈黙の鎌」サイレンス・グレイブを振り下ろし、いよいよこの世を終焉させようとする際、「デス、リボーン、レボリューション」と唱える。「死、再生、改変」だ。全部滅ぼして作り直すのである。はるか昔、この世が救いようもなく乱れた時にも、セーラーサターンはこうやって世界を終らせ、この世を全く新しく再生させたのである。ただ、今回は、セーラームーンが世界の破滅を阻止し、セーラーサターンはそれを感謝し自らが邪悪な敵と共に滅んだ。
涼宮ハルヒも、世界を滅ぼし、新しく作り直すつもりが、キョンにより阻止された。
いすれも、この世にまだ、守るべきものがあったからだ。

しかし、現在の経済や金融、あるいはこの国に守るべきものがあるだろうか?
全くないだろう。

さて、世界のことなどどうでも良い(笑)。
問題は自分である。世界など1つの仮想現実と思えば良い。
ましてや、知らず知らずのうちに、現行の世界を唯一のものと考え、まずはこれを守ることが自分達を守るものであると考える愚を犯してはならない。
第二次世界大戦でまぎれもなく日本は滅びたが、それは良いことであったはずだ。
現行の日本は滅んだ方が良いのかもしれない。

自分を再生させ、その上で世界に守るべきものがもし見つかれば救えば良い。
では、自分を破壊し、作り直すにはどうすれば良いのだろう。
少食しかない。
少食・粗食に徹し、救いようのない欲望を抑えている間に、精神と身体が自然に作り直されるのである。
そうすれば新しい自分になり、世界を好きなように作り直すこともできるであろう。

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2008.12.02

「求めよ、さらば与えられん」の本当の意味

新約聖書の有名なイエスの言葉「求めよ、そうすれば与えられるであろう」はとんでもなく誤解されています。
そもそもが、「誰に」「何を」求めれば、「何が」与えられるのか、肝心なところが全て省略されています。
いくらでも勝手な解釈が可能です。これは、日本語の聖書も英語の聖書もほとんど同じです。
なぜ、こんな曖昧な表現になったのか不思議ですが、英語や日本語に訳する時に誤訳した可能性もあります。
最もひどい解釈は「神様に求めれば、欲しいものを与えて下さる」というものです。何とも馬鹿な解釈ですが、ひょっとしたら、最も一般的な解釈かもしれません。また、多くの成功哲学がこの解釈を基にしていたりもします。

この言葉の本当の意味は、「神を求めよ。そうすれば信仰が与えられる」といったものです。
イエスは、「天の父は、あなた方に必要なものはとっくにご存知だ。それらは願わずとも与えられる」と言っているのです。だから、物質的なものを求める必要はないのです。それを求めよとイエスが言うはずがありません。

では、「神を求めよ」とはどういうことでしょうか?
これは、一般の理解とは全く逆で、「何も求めるな」という意味です。
何も求めないことが、神を求めることになるのです。
神を求めるとは、そういうことなんです。
そうすれば、信仰、即ち、何かを信じることができるのです。

ただ、我々普通の人間に、何も求めるなと言われても戸惑ってしまうかもしれません。
お金、地位、名誉、愛、恋人、友情、成功、さらに命・・・これら一切を拒否しなければなりません。
そして、それが出来れば、信仰が得られますが、信仰とはいかほどのものでしょうか?
信仰とは、信じる心です。
イエスは「信じる者には何でもできる」と言っています。すなわち、信仰があれば不可能はないわけです。

ここで、昔から聖者達がよく引用する言葉にたどり着いたことになります。
「全てを諦めれば、全てを得る」
「無限の代償は有限全て」
「無になりきれば不可能は無い(思いのままだ)」
「欲望を捨てれば、この世に不可能はない」

しかし、表向きで「全てを諦めた」と思っても、「どうせ後で全て得られるのだから」という下心があっては、当然意味はありません。

ではどうすればいいかと言うと、最も諦めたくないものを諦めるというアプローチは如何でしょう?
そして、それは命です。
命を捨ててかかれば奇跡が起こるというのは、多くの人が実証してくれています。
しかし、別に生贄になれとか、切腹しろと言っているのではありません。
他人にしろ、自分にしろ、「殺すな」というのは、最も重要なことで、モーセの律法にあるくらいですから。
命を諦めればいいのです。言い換えれば、命を捧げれば良いのです。
そして、命を捧げるなら、その他の一切を捧げたことになるのです。

命の元は食です。この食を節すれば、命を捧げることになるのです。
しかし、食を節するのは辛いものです。だから命は捧げにくく、結果として信仰は得にくいのです。
我々は過度な断食、絶食をする必要はありません。また、一定期間の断食などわけのないことです。私も10日連続の断食をしたことがあります。そうではなく、生涯に渡って少食をすることの方がはるかに尊いのです。
そうすれば、信じる心、即ち、信仰、信念が与えられます。

水野南北は、観相(身体や顔の相で運命を鑑定する術)を極めましたが、それは完全ではなく、人の運命を完全に知ることができませんでした。それで、困っている人全員を正しく導いてあげることができなかったのです。
そこで、50日に渡る水行と断食の荒行に挑みました。
その時、「食が全てだ」という天啓を得ました。
まさに、南北が命を捨てて求めた時に、答えが得られ、しかもそれを堅く信じたのでした。
しかもそれは、神を求める誰にでもできる正しい方法として南北に与えたのでした。
南北の運命鑑定、そして、アドバイスは万に1つも外れなくなりました。
当然、我々も、食を厳しく節することで信じる心を獲得し、何でもできるのです。

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2008.12.01

少食が健康診断結果に完全反映

健康診断の結果が通知され、オールAの完全な健康体であるということでした。
受診した検査項目は13あり、それぞれAからHまでの8段階で、全て最上というわけです。
しかし、昨年まではF(要精密検査)が3つもあり、特に肝臓は、毎年「肝機能異常」とされていました。
私は、医療は全く信用していませんし、毎年のことでもあり、特に気にもせず、体調も別に悪くなかったので放っておきましたが、社長直々に「休んでいいから病院に行ってくれ」と言われる始末でした。もちろん、行きませんでしたが(笑)。

まあ、医療に関しては、治療は全く受ける気はありませんが、検査と統計はそれなりに信憑性もあるでしょう。
それで、今年、急にオールAになったのは、やはり少食の成果以外に考えられません。
肝臓の病気で苦しい思いをした知り合いもあり、彼らにしてみれば奇跡以外のなにものでもありません。
ついでに言いますと、毎年悩まされていた秋花粉も、周りの人が苦しむ中で、ほとんど気付かずに過ごしました。これも少食で治ってしまったようです。

私が実践している、1日1食で、その1食も少量のライス、豆腐、漬物と少しの野菜類。肉、魚は一切食べず、間食も一切なしという食生活は、聞いた人のほぼ全員が批判しますが、彼らの大好きな医療から完全健康のお墨付きが出たのですから皮肉なものです。

医療では、運動も薦めます。それも、息をはずませろ、汗をかけなど無理を言います。
私は、毎日駅までの2kmは早足で歩きますが、真夏ですら息も弾まなければ汗もかきません。
運動は、スワイソウなど、楽で心地よいものをやるだけです。最近、腰回し運動に凝ってますが(笑)。

実は、私は何年も毎日、腕立て伏せ、スクワット、腹筋運動、ダンベル運動、その他の運動を熱心にやり、栄養満点の食事、健康食品、サプリメント、EM-X、養命酒(笑)。さらに、胡麻、黒酢、その他、身体に良いものを摂取していましたが、全く健康診断には反映されていませんでした。

健康診断の結果はともかく、身体が強く、疲れなくなったのははっきり分かっています。まるで、知らない間にサイボーグに改造されたようです(笑)。

健康になりたければ、少食しかありません。
健康食品もサプリも、スポーツトレーニングも(スポーツ選手になるなら必要でしょうが)健康には全く意味はありません。
ただ食を慎むことで、美しく強いボディを手に入れることができます。

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