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2008.11.20

鈍感力をはるかに超える鏡心力を得て超人になる

私は、小泉元首相の最大の功績は、渡辺淳一さんの著書「鈍感力」を100万部のベストセラーにしたことであると思う。
私は、テレビのニュースで、小泉さんが持ち出した「鈍感力」という本のタイトルを聞いただけで、中味を読まなくても非常に重要な本であると確信した。
読む必要が全くなかった。ごく最近、気紛れに読んでみたら、勿論、私の知らないこともいろいろ書かれていたが、結果として思ったとおりの本であった。「鈍感力」という言葉に、これ以外の内容はあり得ない。
鈍感力こそ、全ての人に有益な力であり、特にひきこもりの人には身に着けて欲しいと思う。
ひきこもりは、心も身体も敏感過ぎるのだ。
「鈍感」こそ、幸福の鍵である。

この本が有名になり、更に、この本を読みながら、「鈍感はやはり駄目だ」という人もいるが、それはそれで良い。他人の不幸など私の知ったことではない。私は他人の不幸に鈍感なのだ(笑)。

では、鈍感力に関する究極のお話を紹介する。
これは、鈍感になり切れない人の役にも立つものだ。

お釈迦様に弟子が尋ねた。
「悟りを開いた人間と、普通の人では、精神作用がどのように違うのでしょうか?」
これは我々も興味あるところである。
悟りを開いた人間の心とは、いかなるものであろうか?
お釈迦様は答えた。
「感受作用において、特に違いはない。ただ、それに執着しないのだ」
少し分りにくいかもしれないので補足する。
現代インドの聖者ラマナ・マハリシはこのように語ったことがある。
「聖人の心は、ある意味、子供に似ている。子供は遊んでいる時は遊びに夢中になるが、終れば忘れてしまう」
つまり、こんなものと思う。
綺麗な花を見て、「綺麗だな」と思うのは、悟りを開いた聖者も凡人も全く同じだ。しかし、しばらく楽しめば、そのまますっと通り過ぎる聖人と違い、我々凡人はそれを摘んで持ち帰るという余計なことをする。
聖人だって、ポカっと殴られたり、嫌がらせをされるとむかっとすることもあろう。しかし、聖人はそれをすぐに忘れるのに比べ、凡人はいつまでも根に持ち、仕返しをしたり、そうでなくてもいつまでも嫌な気分を引きずる。

渡辺淳一さんの「鈍感力」には、嫌がらせをされてもあまり気にしない、感受性の鈍い人の特性を鈍感力としていたように思うが、お釈迦様やマハリシの場合、感受性自体は常人と同じでも、執着しないことが幸せであるとしている。
ヨガ指導者の藤本憲幸さんの古い本で読んだ覚えがあるが、ある自信を失くしてひきこもっていた20歳の青年が、しばらくすると、別人のように堂々として、藤本さんに「やあ」と挨拶し、ヨガの超人として知られる藤本さんに「きみの能力なんて、僕に比べればちっぽけだ」と宣言する。
その20歳の聖者は「精神はただ流すもの」と言っていた。
なるほど、流れずに淀むから執着するのだ。嫌なことも楽しいことも、流してしまえば執着しない。「水に流す」とはよく言ったもので、それでこそ、心の純一性を保てる。そういえば、小泉元首相の名前は純一郎であったな(笑)。

では、以上の要点を見事に表現した至高の言葉を紹介しよう。
「荘子」の内編の中の「応帝王篇」に出てくる、「鏡」という短い文章である(漢文である)。
(「荘子」には、内編、外編、雑編とあり、内編が荘子自らの書であり、他は弟子などが後から付け加えたものとするのが一般的だ)

至人之用心若鏡。不将不迎、応而不蔵。故能勝物而不傷

こんな意味だ。
至人(最高の人。聖者や悟りを開いたような人だろう)の心は鏡のようなものだとある。
終ったことを悔やまず、先の心配をしない。
つまり、来たものだけをそのまま映すが、去ってしまえば何の痕跡も留めない。
だからこそ、無限の力を発揮でき、傷付くこともないのだ。

書き下せば次のようになろうか?

至人の心は鏡のようなものだ。
来るものは、ただあるがままに見るが、過ぎ去れば何の痕跡も留めない。
だから、過去を悔やまないし、未来を思い煩うこともない。
それでこそ自在に働いて全てに打ち勝ち、傷付くことは決してないのだ。

お釈迦様やラマナ・マハリシの言葉も、この通りのことと思う。

執着しないことは難しいので、渡辺淳一さんの言う「鈍感力」である、鈍い身体と心を持てば、結果的に同じなので幸せである。幸いなるは鈍感な人である(これは同意する人も多いだろう)。
鈍感な人がひきこもることは、まあ無い。

ところで、最後に1つだけ書いておく。
渡辺淳一さんの「鈍感力」の百倍優れているのが、ひろさちやさんの「無関心力」である。
「無関心力」とは、世間の常識や価値観を全く評価せず、それに無関心になることだ。
身体や精神の敏感な人にも役に立つ。なぜなら、鈍感にはなれなくても、無関心にはなれるからだ。
『ひろさちやの「無関心」のすすめ』(青春出版社)を読むべし。
実は、上記のお釈迦様のお話も、ひろさちやさんの古い本で読んだものである。
ひろさちやさんは、あのお釈迦様の教えの実践方法をついに発見したのである。
これを読み、修得すれば、荘子の鏡の教えを身に付けることができるだろう。

だが、さらに言うと、もっと確実に鏡の心を手に入れる方法がある。
言うまでもなく、少食である。
食という人間最大の執着を抑えれば、我々は何ものにも執着しなくなる。
鈍感力以上の鏡心力という至高の力を得ることとなる。その威力の凄さは、ほとんどの人が知らない。

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Comments

おせわになります。
連日、相変わらずの素晴らしい内容ですね。

「精神はただ流すもの」
いいですね~。私もいつもこうありたいものです。

先日、優勝した石川遼君がこうコメントしてました。
「気持ちに起伏があったら、いいスコアなんて
出せるわけない。一打一打に怒ったり、悔しがったり、
そういうものは最後の最後まで必要ないものだと
思う。」

私は、人生にも通じる考え方だなと思いました。
心は静かに淡々と。
もう遼君はkayさんの域に達していますよね。

Posted by: でるお | 2008.11.21 at 12:21 AM

★でるおさん
いつもありがとうございます。
石川遼君は、若いのに本当に立派ですね。
あの年なら、普通はもっと馬鹿なことをいっぱい言いそうなものなのに、立派過ぎますね。
「妹や弟には、こんな厳しい世界に入って欲しくない」と言うだけの経験もしてますしね。
無我、無心の強さを感じますね。

Posted by: Kay | 2008.11.21 at 10:16 PM

ほんと彼は立派すぎますね。
見習いたいものです。

遼君はファンにサインをしてあげて
「ありがとうございます。」
と先にお礼を言うそうですよ。

礼儀正しいスポーツマンは見ていて、
本当に気持ちいいですね。

Posted by: でるお | 2008.11.22 at 04:21 AM

★でるおさん
本当に立派過ぎて殴ってやりたいですね(笑)。
まあ、無理してる部分も多いかもしれません。
若いのに苦労して・・・(泣)。
私はキム・ヨナの方が好きですが(何)。

Posted by: Kay | 2008.11.22 at 09:09 AM

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