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2008.11.30

この世という地獄からの脱出

ジョン.W.キャンベルのSF小説に「月は地獄だ!(THE MOON IS HELL!)」という1950年の作品がある。
1969年のアポロ11号による人類初の月面到達よりずっと前に書かれたこの作品では、月面に降り立った探検隊が、事故で月に取り残された様子をリアルに描いている。
酸素、食料が尽き果てようとし、地球に自分達が生存していることを知らせる方法もない中で、いかに生き抜き、地球に生還するかの闘いが続く。この小説を、桑田次郎さん(現在は桑田二郎さん)が漫画にしたことがある。
確かに、十分な装備を持たない人間にとって月が地獄であることは間違いない。

しかし、2500年も前、インドの釈迦国のシッダールタ王子は、「この世は地獄」と悟る。その後王子は29歳で城を出、35歳で悟りを開いて仏陀となる。彼こそ、もちろん、仏教の開祖、お釈迦様である。
そう、この世は地獄なのだ。
「月は地獄だ!」の月探検隊は、地獄の月で幸福に暮らそうなんて思っていなかった。それが不可能だと分っているからだ。
もし彼らが、「楽しく、前向きな心を持てば、この月で幸せが掴めるさ」なんて考えたら、彼らを待つのは悲惨だけだ。
そして、それは我々も同じなのである。
この世は地獄だ。明るく、前向きで、たゆまぬ努力を重ねても、いきつく先は破滅だ。
ひきこもりでニートだろうが、成功者で億万長者であろうが、それは全く変わらない。
それに気付くのは、多くの場合、悲惨な状況の者か億万長者であることは興味深い。お釈迦様だって、小国とはいえ王子様で、しかも釈迦国の唯一の王子だった。父であった王はシッダールタ王子を溺愛し、贅沢三昧にさせたようだ。つまり、これ以上の不幸はない、または、これ以上の幸福はないという状態の時、この世が地獄だと気付きやすいのだろう。

仏教で、悟りを開くことを日本語で解脱というが、何とも素晴らしい言葉だ。
「月は地獄だ!」の月探検隊の唯一の目的が、月からの脱出であるように、我々も、この世という地獄から脱出しないといけないのだ。
解脱の解くとは、この世の束縛を解くことであり、それによって脱出が可能となるのである。つまり、自由な人間になることだ。
この世には、2つの面がある。
形のある世界と心の世界だ。現代的には、物理世界と情報世界とも言える。
形の世界では、我々も肉体という形を持つので、物理的には死なない限り、この世からの、つまり、地獄からの脱出は不可能だ。
しかし、心の世界では可能なのだ。
そして、我々には容易には理解し難いが、心の世界でこの世から脱出すれば、全てにおいてこの世の束縛から自由になるのである。
このあたりは、現在の高度な科学を寄せ集めればいくらか説明できるのかは知れないが、お釈迦様には分っていたことで、これを縁起として示していた。

では、どうやれば、心において、この世の束縛から解放されるかであるが、これについては、様々な経典に様々な表現にて書かれている。だが、つまるところ、結論として「心を鎮めよ」と書かれている。よって、心を鎮めれば良いことが了解されれば良い。聖書にすら、「心を鎮め、自分が神であると知れ」と書かれている。ただ、心とは鎮まらないものだ。
お釈迦様の教えが最もシンプルに書かれているのは「法句経」と思う。お釈迦様が折に触れ語った言葉を集めたものだ。その中には、「貪りの心を捨てよ」とか「誘惑に打ち勝て」とか書かれているが、それが難しいのだ。ただ、例えば貪りの心とはどのようなもので、それを放置すると、例えばどんな風になるといった、比喩を使った見事な警句として書かれており、心静かに反復読誦すればやがて分るのではないかと思う。

だが、もっと早く確実に分る方法がある。
それが少食だ。修業的には断食でも良いのかもしれないが、それは出家者の方法だ。
食を節することが即ち、「貪りの心を捨て」「誘惑に打ち勝つ」具体的な行為なのだ。
ひどく空腹な時に、3つの食べもの(例えば肉まんとか)があり、3つとも食べたいが1つは残すという行為が、貪らず、誘惑に勝つことである。これが心を調え、やがて心を鎮める術に至るのである。
我々は食を節することでこの世という地獄を脱出することができる。
「月は地獄だ!」の月探検隊員達がその後どうなったかは書かれていなかったが、地球から救助船が来て、彼らがめでたく地球に帰れるなら、その喜びは大きいはずだ。
我々は食を節することで、やはり地獄であるこの世から救われるのである。

Hokkukyou
私の愛読の法句教。訳者の序文はなんと昭和10年と記されている。

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2008.11.29

少食はマックスウェルの悪魔を招く

熱い紅茶をテーブルの上に置いておくと、やがて紅茶は冷める。
どのくらい冷めるかというと、外気の温度と同じになるまで。
ところが、我々は外気より高い体温をかなりしつこく維持する。

これが生命あるものと無いものの違いだろう。
ところが、紅茶がいつまでも冷めないという、思考上の遊びが可能である。これは「マックスウェルの悪魔」という、有名な物理学上の思考実験の1つで、想像上の「悪魔」と呼ばれる存在が、分子を観察することだけで作用を起こしてしまうというものだ。
実は、スーパーマンが飛ぶ仕組みなんてのも、マックスウェルの悪魔で説明できてしまう。
マックスウェルの悪魔がとり付いた紅茶は生命を持つと言えるのだろうか?

我々の生命は、マックスウェルの悪魔に拠るものとは思われていない。そもそも、マックスウェルの悪魔は想像上のものである。
ただ、どういうわけか、マックスウェルの悪魔への興味は人類から失われることはない。今も文献は増え続けている。
観察が作用を起こすという、もう一方の有名なものには量子力学があり、こちらはやはり我々の考える現実とそぐわなく思えながら、その存在を確立した。これと扱う大きさにおいて対極にある相対性理論は(量子力学は極小を、相対性理論は極大を扱う)当然、その地位を確立しているが、相対性理論と量子力学の統合はなかなかできない。
それらに比べ、マックスウェルの悪魔はあり得ないのに人気のあるおかしな存在である。

少食を続けると、まるでマックスウェルの悪魔によるものとしか思えないことがよく起こる。
摂取した以上のエネルギーを持ちえたりである。
重さやエネルギーであれば、まだ実証しやすいが、マックスウェルの悪魔の本来の本性は情報科学で、こちらは実証しにくいが、奇妙な情報現象を起こすこともある。
そして、情報と形ある世界は同じもの、あるいは、相互に変換可能なものだ。
形、エネルギー、情報を、我々の観念では神秘としか思えないやり方で動かせば、あり得ない世界も実現する。しかし、それは、馴染んでいる者には当たり前の世界だ。
少食には、それほどまでの神秘がある。それはただ実践することで体験できる。理論に関しては、上にもいろいろ書いたように不明なところだらけだ。
少食は、現在の常識的観念を超え、人間を超え、新しい人類に進化させ、新しい世界をもたらすだろう。
ならば、少食に取り組まずにいられようか?

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2008.11.28

いじめをやらせているのは学校である

いじめは学校制度のために必要なものなのである。
よって、現行の学校制度が続く限り絶対になくなることはない。
そのことを説明したいと思う。

いじめはなぜ起こるのであろうか?
別に学校の中だけでなく、人間社会全般に言えることであるが、集団と異なる価値観を持つ者を排除するために起こるのである。
簡単に言うと、同じ価値観を共有する集団が、異なる価値観を持つ異分子を寄ってたかって攻撃することがいじめである。

人間の価値観というものは、論理で決まるのではない。たとえそう思っているとしても、それは違う。宗教的とも言える嗜好で決まっているに過ぎない。最も適切な言い方をするなら幻想である。集団で共通して持つ幻想のことを、吉本隆明氏は「共同幻想」と定義しているが、この呼び名を借りる。

この共同幻想は、自然に人々の間で構築されるもので、特に有害でなく、人間が生きていく上で効率的なものもあるかもしれない。しかし、それが時代遅れになっても、容易に新しい状況に適応できないという特徴もある。時代遅れな共同幻想を頑なに守ろうという支配者が強く、共同幻想に変化が起こらない集団はやがて滅亡する。
また、支配者層が、自分達の都合の良い考え方を庶民に叩き込み続け、それが様々なものと複雑に絡み合いながら、場合によっては一見美しい強固な共同幻想となることも多い。
日本国民に関しても、国民が持つ価値観の大部分は支配者によって植え付けられた幻想と考えてほぼ間違いない。
健康問題とかを理由にさっさと辞任したどこかの首相がアピールした「美しい国」のキャッチフレーズも、自分に都合の良い幻想の国民共同化を意図していたが、主があそこまで無能では仕方がないと思う。

学校の中は特に強く、支配者によって作られた幻想に支配されている。
学校とは、もともと、兵隊や集団労働者を作るため、ものを考えない従順な人間を作ることを目的にその制度を作ってあるのだから当然のことである。
学校の共同幻想に深く染まっていない者が教師になることは出来ない仕組みであり、生徒は教育の名の下にその幻想を叩き込まれる。生徒の親も、既に同じ幻想を持っている場合も多いが、そうでない場合は、子供を人質に、その幻想を受け入れることを強要される。

だが稀に、学校の中で絶対的であり、教師、生徒、保護者に共通する幻想を持たない子供が紛れ込んでくることがある。そんな子供は例外なくいじめられる。共同幻想にあくまで取り込まれない場合は殺されることになろう。
そして、教師は絶対的に見て見ぬふりをする。当然である。いじめは、共同幻想に取り込むために必要なものであり、事実上、学校公認である。学校はこれを止めないなかりではなく、いじめを効果的に行えるよう最大の援助をしていると言える。その援助とは、学校における単独行動の禁止である。
学校では、1人が自律的に行動することは絶対に許可されない。皆が同じことをしないといけないのだ。どういうことかと言うと、集団と異なる価値観を持つ子供は、いじめから逃れる方法が全くないということだ。他の子供達に依存しないと学校生活は成り立たないのである。授業やその他の教育の名の下に行われる活動で、すぐに「グループを作れ」「2人組みになれ」という指示が頻繁に繰り返されるのはそのためだ。それに従わないと、教師から徹底した迫害と辱めを受ける。
共同幻想を持つ子供達は、タダでは特異な価値観を持つ子供をグループに入れたりしない。そこで力関係が発生する。特別な価値観を持つ子供は、極めて弱い立場に置かれるのだ。そうなるともう、いじめ放題と言って過言ではない。
あくまで共同幻想に抗うなら、殺されるか自殺するかしか残されていないのである。それが学校なのである。

死ぬくらいならひきこもれ。
「自殺するなら、引きこもれ 問題だらけの学校から身を守る法 (光文社新書) 」を参考に読むと良いが、いずれにせよ、肝心なことは学校から離れることだ。
「お金は宇宙から降ってくる(中経出版)」を読んでも分る通り、大昔であってすら、学校に行かなくても勉強はいくらでもできた。ましてや今の情報社会で、学校で教わる必要性は全くない。あると思わされているだけである。
私も学校の授業を聞いたことは1度もない。
さて、私がいじめられなかった理由であるが、いつもナイフをちらつかせていたのだ(笑)。ただ、今の共同幻想は過激で、異分子は殺しても良いとする傾向が強いので、下手すると簡単に殺されるのでお薦めはしない。

まずは命を守って欲しい。いじめで自殺したという話はもう聞きたくはない。
親も、子供が学校に行きたくないなら行かせてはならない。何か不都合が起こるとしても、死ぬよりマシである。いじめで子供に自殺された親はそう思っているはずだ。

私は時々思うのだ。
毎日、学校や会社に行かないといけない人生のどこに楽しさや意味があるのだろうと。
それなら、ますます食を減らし、やせ衰えて死ぬのも悪くないと。
仏教学者のひろさちやさんは、会社とは監獄であると言った、それは学校も同じだ。ただし、脱獄可能な監獄だ。
さっさと逃げ出すのも手かもしれない。

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2008.11.27

スポーツトレーニングと腰回し運動

スポーツ選手でもない我々が、運動をしようとする時に、スポーツ選手のトレーニングを真似てはいけない。
元一流スポーツ選手が指導するトレーニングは、何か良さそうな感じがするが、大抵はとても悪い。
プロスポーツ選手の身体は大抵はボロボロで、引退後は後遺症に悩みながらも、健康を装っている人が多い。
スポーツトレーニングは、健康のために行うのではなく、競技に勝つために行うのである。それらは一般に身体に非常に悪い。

スポーツトレーニングの筋力トレーニングでは、瞬発的に大きな力を出す筋力をつけるためには、3~5回程度反復可能な強い負荷を、筋持久力をつけるためには、10~15回程度繰り返すことのできる負荷を用いる。
こんな強い負荷がかかるトレーニングを素人がやれば、あっという間に身体を壊す。
いや、そもそも、例えば、腹筋運動で、15回も繰り返せば苦痛に悶えるような形のものは継続できない。なぜ継続できないかというと、お金などの見返りのない素人が、身体が壊れることを拒否して悲鳴を上げている訓練を続ける意味が無いのであり、別に根性がないわけではない。

スポーツトレーニングでは、非常に多い回数をこなせる筋力トレーニングは誤りであるとされる。
しかし、マイク・タイソンや千代の富士は、毎日数百回の腕立て伏せをやって成功した。プロレスの神様カール・ゴッチも「スクワット(膝の屈伸運動)1万回、プッシュアップ(腕立て伏せ)3千回で一人前」と言っていた。
ただし、ゴッチも晩年は膝が駄目になった。
私も、一頃、腕立て伏せやスクワットを根性でやっていたが、継続は苦しく、膝や肘を痛めた。腹筋運動では腰を痛めた。昔は、プロ野球の投手は肘を痛めるからと腕立て伏せをしなかったようだ。

一般の人が運動する時にも、妙な観念があるようだ。いわゆる「効く」運動。つまり、ある程度きつい運動でないと良くないし、噴出す汗で自己満足する傾向がある。これらは外部から押し付けられた思い込みである。
医療関係からも、「毎日、一度は息を切らせ、汗を浮かべる運動を」などということが言われる。
人間にとって最も良い運動は歩くことである。しかし、運動だからと息せき切ってセカセカ歩く必要はない。逆に、最近の若者の流行よろしく、おそろしくノロノロ歩くのもいけない。普通にさっさと歩けば良い。そして、この普通の歩行が「効く」わけでも、息が切れるわけでも、そして、真夏の日中でもない限り汗が吹き出るわけでもないが、最も身体に良いのである。
朝、ゴミを出す時でさえ車を使う人をよく見るが、なるべく車を使わず、買い物も歩いて(あるいは自転車で)するようになれば、十分に運動していると言えるであろう。

最近、SHINOと名乗る女性が普及させている「腰回し運動」が人気がある。
なぜ人気があるかというと、この程度が一般の人にとって継続できるものだからである。身体もこれなら受け入れる。
立って腰をゆっくり回すだけ。1回30秒。創始者のSHINOさんは49歳にして、56センチの極細ウエストを見せびらかす。これで流行らない方がおかしい。
この腰回し運動であるが、良いものと思う。
中年男性で腹の出っ張った人が病気で食べられなくなり、ずっと点滴を受けているのを見る機会があったが、身体はみるみる痩せるのに、お腹はなかなか引っ込まない。どうしてかというと、手足というのはある程度動かすものであるが、腹の部分というのは動かさないものだからである。元々、腹の部分は動かないもので、空手、剣術、射撃を問わず、戦いでは腹を狙う。また、腹を狙われた時にそなえ、腹に防具を付けることが多いのである。
年を取ると腹が出るのはそのためで、若くても運動不足だと腹が出ることが多い。
その腹を僅かでも継続的に動かせば、当然いくらかは引き締まるものである。
では、腹筋運動ならもっと引き締まるかというと、逆に出る可能性が高い。なぜなら、大抵の腹筋運動は強い運動で、エネルギーを多く消費するので、確かに腹を引き締める効果はあるのだが、実際は、この運動でお腹が空き、多く食べて太るのである。また、腹筋運動は、部分的な運動になり勝ちで、全体としては痩せないものである。なるほど、前への出っ張りは減っても、横側に贅肉が移動するような場合も多い。
腰回し運動は、軽い運動なので、さしてお腹は空かず、弱いとはいえ、腹筋、背筋、側面の筋肉をバランスよく鍛える。そして継続可能なので、確実に引き締まる。
ただ、痩せたければ食べる量を減らすしかない。

加えて、腰回し運動には、腰骨の調整という効果がある。万病は腰骨の歪みから来ると言われることもあるが、ある程度正しいと思う。
ゆっくりと綺麗に回すことで腰骨の調整がなされると思う。
尚、その目的には、スワイソウという運動が良い。仙道の導引術にあると聞いたことがあるが、両腕を前後に振るだけの簡単な運動だ。足を肩幅に開き、力を抜いた両腕をやや鋭く後に振り、反動で自然に前に振る。これを毎日、合計5百から2千回行う。
他には、安藤一男さんの『「無意識」の魔力』(三笠書房)で読んだ運動で、立って両腕をまっすぐ上に挙げ(耳に付きそうなほど真っ直ぐに)、一瞬静止させてから瞬間に脱力して、手についた水を切るように振り下ろすことを繰り返す体操が良い。こちらは意外とハードで、最初は百回もできない。無理せず20回程度から始めると良い。どこかの偉いお坊さんの唯一の健康法であるらしい。
腰回しでも、スワイソウでも、最後の腕の振り下ろしでも、どれでも自分に合いそうなものを、あるいは、2つ3つ組み合わせても大したことはなく、継続できる。
健康に良い運動とは、こういったものである。
ただ、少食と組み合わせないと大きな効果は出ない。どんなに身体に良いことをしても、大食・飽食であれば、いずれは身体を悪くする。
ある程度厳しく食を節すれば、腰回し運動だけでも十分にナイスバディになれると思う。
私は、SHINOさんの本を読んではいないが、腰回し運動で運も良くなると言っているらしいが、これも有り得ることであると思う。なぜそう思うかというと、腰というか、仙骨を調整すれば運が良くなるという話をかなり知っているからである。
尚、少食にすれば、さらに運は良くなるだろう。逆に、大食・飽食では、何をやっても幸運は来ない。

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2008.11.26

親のアドバイスはなぜ役に立たなくなったか

親のアドバイスが有効なのは、子供がせいぜい中学生か高校生までだろうし、また、そうでないといけない。
信じがたい話であるが、就職の面接で、いい年をした大人(40歳以上もあるとか)が、「親と相談します」と言うことが、よくある話だと聞いたことがある。

先ごろ、保釈補償金を支払って釈放された小室哲哉さんが、母親の手紙を読んで涙を流し、大いに反省して、再起を誓ったといったニュースがあったが、これに関してはどうであろうか?
その母親の手紙というのは、「全てを明らかにして謝罪し、一からやり直せ」といった、言われてみれば「当たり前」のことが書かれていただけである。
このような、当たり前のこと、つまり、一般論については、それを母親が言ったということに意味がある。逆に言えば、母親以外の者が言っても、悪いことではないかもしれないが、小室さん本人にとっても、はた目から見ても「大きなお世話」であろう。
もし、母親でないなら、小室さんにとって恩師に当たる人や、大先輩といった人なら、まあ、悪くはないと思うが、他人や、関係者であってもさしたる人物でなければ、やはりそのようなことを言うのは不遜と言うものであろう。

つまり、ある時期を過ぎれば、親に出来る助言とは、一般論、言い方を買えれば、抽象論に過ぎない。もちろん、親が家業の上での上司であったり、芸事の師匠でもあれば別であるし、親が大変に知識や技術があって、具体的な細かい問題においても子供をはるかに上回る判断力があるという場合も例外にはなるが、これらは特殊なケースであろう。

ところが、近年の日本の親というのは、上にあげたような子供の就職問題といった、具体的なことに口出しをすることが多いと思う。
どの大学のどの学部に行けとか、その人とは結婚するな、この人と結婚しろとか。
また、子供の方も、それを聞くような、はっきり言っておかしな関係が増えてしまっているのだ。

なぜ、このような状況になったのか?
いろいろな理由はあるだろうが、親に大きな問題があると思う。
目の前の問題を、適切な一般論、抽象論で表現するというのは、若い人には難しい。
しかし、本来は、人間は年を重ね、経験を積みながらものをよく考えると、細かい知識や技術の点では衰えるかもしれないが、「知恵」と言うに相応しい抽象的な思考能力は発達するはずなのである。それができない年配者が多くなってきたということである。
抽象思考の得意なイエスや釈迦は、たとえ話が非常に上手かったことで知られている。
アンチ・キリストであるW.B.イェイツすら、イエスのこの能力は賞賛している。
キリスト級、釈迦級というのは無理として、本来の年配者に相応しい知恵があれば、知識や技術に優る若年者にも良いアドバイスが出来るのである。
優れた経営者が、自分より技術や知識に圧倒的に優る部下に優れた指示ができるのも抽象思考能力のためである。
野球の名選手が、なかなか名監督にならないのは、選手としての発想しかできないからである。選手とは違う経験をして、抽象思考能力を獲得すれば良い監督になれる可能性が出てくる。

子供と同じ視点で、役にも立たない口出しをする親。
レベルは子供と同じだが、知識や感覚では子供の方がまだマシであろう。
ある程度の年齢になれば、抽象思考ができるようにならなければならない。
そのためには、できるだけ煩悩を捨て、無私の思考をしないといけない。
どうすれば良いかであるが、やはり少食の習慣をつけることが最も良く、普通はこれ以外に方法はない。できるだけ若いうちから少食にしておくと、知恵の発達も早くなり、自分も他人も幸福にすると思う。

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2008.11.25

狩猟と肉食について

Houyoutou

私のナイフコレクションの中でも、トップクラスのお気に入りである「放鷹刀(ほうようとう)」だ。
鷹狩に帯同し、獲物の皮を剥ぐ目的の小刀である。
私はさすがに鷹狩はしないが、独特の形状のこのナイフは案外に万能である。
ハンドルも実に握りやすい。
これは、ジーサカイ(G.SAKAI)の製品である。昭和22年創業の老舗のナイフメーカーだ。ちなみに、Gは米国の有名なナイフメーカーであるガーバー社を指し、技術提携の関係にあるらしい。

さて、鷹狩は武士のスポーツとして有名で、徳川家康もこれを好んで行ったことが知られているが、本来はやはり食料調達のための狩猟である。現在はほぼ行われていない。
そもそも、現在、特に国内では狩猟全般がなくなってきており、食肉用の動物のほとんどは飼育されたものである。
これら飼育された動物が、食肉とするために屠殺(とさつ)されるのを見てベジタリアンになったという人がよくいる。ポール・マッカートニーもそうだったと思う。
ただ、聖書にも書かれている通り、イエス・キリストが、動物を屠って(殺して)食べるよう薦めており、全ての食べ物は清いと宣言された。釈迦もまた、肉食を禁じてはいないらしい。
これら食肉となった動物に感謝しながら食べれば良いと言う人もいる。
水野南北も、鳥や魚は、人に食べられることがその本分であるという思想を否定してはおらず、特に老人の場合は消化の良い肉食は少量であれば薦めてもいる。
そもそもが、時代や地域によっては、肉以外に食べるものがないという状況も少なくなかったと思う。

私は、自分は肉や魚は食べないし、出来れば肉食を避けることをお薦めするが、他人の肉食に口を挟む気はない。
だが、上にあげた「食肉となった動物に感謝しながら食べれば良い」ということに関しては、他に食べるものがなく、少食である場合のみ認める。飽食で、その肉を美食として楽しむというなら、私は良いこととは思わない。

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2008.11.24

エアガンを買って考えたこと

好奇心でエアガンというものを買ってみた。
私はナイフ好きであるから、銃も好きだというのは不思議ではないが、ナイフは本物だが、銃は本物が入手できるわけではないので、さして興味がなかった。
しかし、買ってみると、少し考えが変わった。

M1911a_2

これは、米国のコルトガバメントを精巧に模したエアガンで、東京マルイの製品である。
コルトガバメントは、子供の頃から好きな銃だった。実に1898年に開発。1911年に米軍に全面採用された。その時の名称がM1911。1926年に改良版のM1911A1となる。
1985年に、米軍での役割はベレッタM92Fに譲ったが、現在でも使用され続けているらしい。

さて、製品であるが、写真でご覧の通り、実によく出来ているが、実物もなかなかリアルだ。プラスチック製であるが、安っぽさはない。
これは、エアソフトガンという安価なモデルであるが、さらにリアルな製品もあるらしい。
公式競技用のエアピストルではないが、非公式な競技団体も存在するらしい。
では、このいわゆる「玩具」のエアピストルが、どの程度のものかというと、予想以上だった。
弾丸は、BB弾と呼ばれる、直系6mmの天然石膏と樹脂で出来た丸い玉で、重さは0.2gと0.25gがある。4mほど離れた位置に置いた段ボール箱を撃ってみたら軽く貫通したのには驚いた。凄い威力だ。プロ野球の投手が投げたってこうはいくまい。
エアピストルには、10歳以上用と18歳以上用があり、これは18歳以上用で、威力も大きいのだが、各操作感も重々しい。カバーのスライドはかなり重く、子供や女性では操作困難と思う。
セフティ(安全装置)も当然あり、これを外さないとカバーのスライド操作やトリガーを引くことはできない。また、セフティを外しても、きちんと握らないとトリガーが引けないという2重ロックになっている。

このようなエアガンが販売されることには何の異論もないが、やはりこれは大人の遊び道具だ。
所有者は、使わない時はちゃんとした場所にしまい、子供に触らせないよう注意すべきである。

「Xファイル」というアメリカのテレビドラマで、エアガンに関する印象深い場面があった。
ヒロインのスカリーが少女時代(小学校も前半と思う)、男の子達にまじってエアガンでヘビを撃っていた。スカリー達は歓声を上げながら、逃げ惑うヘビを容赦なく撃つ。やがてヘビは動かなくなった。それを見てスカリーは泣き出し、嗚咽はいつまでも止まらなかった。
スカリーはその後、医者になり、FBIに入るのだが、自らも臨死体験をし、更に広い死生観を持ったように思う。
私は、その後、ポール・グレアムの「ハッカーと画家」という本で、子供というものは、笑顔でクモの脚を引きちぎるものなんだと書かれていた部分を読み、全くその通りだと思った。知性のない無邪気さほど恐いものはない。だが、その知性を与える段階で、国家を操る支配者の洗脳が入り込む。人間とはなんとも厄介なものだ。
ポール・グレアムは、ソフトウェア開発者で、そのためのベンチャー企業を起業し、後にその企業を売却して膨大な利益を得た。ハーバードで計算機科学の博士号も取ったが、美術学校で絵も習ったという変わった男だ。よって、視野も広い。
彼がLisp言語の高度な専門家であることが面白い。最近、能力開発の分野で恐ろしい勢いで本を出している苫米地英人さんという脳機能科学者も計算機言語学の博士で、Lisp言語の超専門家だ。私はLisp言語はお遊び程度に触るが、今後は本格的にやってみようと思う。グレアムも、Lisp言語に関する素晴らしい本を2冊ほど書いてくれている。
ジョン・マッカーシーの発明した、Fortranに続く古い高級言語であるLisp言語には、人間の知性を開く鍵でもあるのかもしれない。

「Xファイル」の中で、ヘビは、スカリーの目を開かせるために命を奉げたが、それはドラマの中だけにしておきたい。
とはいえ、ハエやゴキブリを、僅かな哀れみの感情もなく、殺虫剤で殺すのが当たり前の風景で育った子供がどんな生命観を持つものか不明だ。
アルベルト・シュヴァイツァーは、部屋の中のハエを決して殺さずに捕獲して部屋の外に出し、医学実験のために蚊一匹殺す際にも苦渋の表情を浮かべたという。
私が政木和三さんの研究所を訪ねた時、研究所の中にゴキブリがいたが、政木さんはゴキブリを箱で器用に捕獲して部屋から出した。
私も、可能な限り、ハエやゴキブリを殺さないようにしているが、完全ではない。

私が買ったエアガンも、人や動物を撃てばケガをさせることは十分にあり、目にでも当たれば失明することもあるだろう。鳥やハムスターなどの小さな動物では、生命を奪ったり、深刻な障害を与える恐れもある。
だからといって、販売禁止にするのはあまりに浅はかであろう。有益さや楽しさがあるものを無理に規制すれば、それはさらに歪んだ形で現れることは明白だ。我が国の司法にはそのようなことを理解する知性がないのは残念ではあるが、とにかく規制には反対すべきであろう。

さて、これらの問題に対する根本的な解決策であるが、枝葉の部分ではいくらでも思いつくだろう。
しかし、結局は人間の根本的な理性や知性の問題であることが分かると思う。それには、人間の理性や知性をよく理解しないといけない。
その問題につまづき、アーサー・ケストラーのような大天才ですら、悲観して自殺した。
いや、アインシュタインとフロイトも、書簡でこういった問題について議論したかもしれないが、彼らですら枝葉の考察しかできなかった。
問題は、人間の欲望の扱いである。
その解決には、少食しかない。
銃社会の代表である米国の次の大統領は少食だ。期待できるかもしれない。

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2008.11.23

少食における、何をどのように食べるかの問題

少食を薦める方の中には、少食とはいえ、何をどのように食べるべきかを細かく厳格に定める方が比較的多いように思う。
何時に食べる、あるいは、食事の間隔はどのくらい空けるとか、水はどのくらい飲めば良いか(あるいは、どのくらい飲むべきか)、さらには、いつ飲むか。何を食べて良いか、逆に何を食べてはいけないかと細かい注意をされる方も多いと思う。これらの注意は、長年の苦心の研究の成果であることも多く、軽んじるわけにはいかないと思うが、そこまで細かいことを言われてはちょっと面倒と思うことが多い。
大切なのは少食にすることなのに、面倒になって肝心の少食もやめてしまってはどうにもならないではないか。

私が、少食の素晴らしさを理解することになった、江戸時代の観相家の水野南北は、ごく簡単には食の内容に関する注意を述べることもあったが、さほど細かくはなかったように思う。シンプルに、少食、粗食を奨励し美食を避けよと言うことが多い。
水野南北自身、酒は1日1合(約180ml)だけ飲むが(彼は酒が大好きである)、米は餅も含め一切食べないことを参考程度のように述べたりはする。肉食も少しなら決して禁止しているわけではない。特に老人の場合は、肉は消化が良いので薦めることもあった。また、魚、鳥は、人に食べられてこそ、その本分を果たすのであるという思想も肯定的に紹介している。
その他、時には聞かれて細かいことも言ったが、基本的には、本人の判断に任されたのではないかと思う。

少食であるからこそ、栄養について注意深く考えることが大事という、至極真っ当な主張をされる方は多い。
逆に、そんなことに全くこだわるなという人も実際にいる。ただ、その両者が必ずしも否定し合っている訳ではないことは言っておきたい。
例えば、少食療法で著名な甲田光雄さん(医学博士)は、50年以上に渡る研究から解明した少食のやり方を細かく指導し、それによる難病の治療の実績もキリスト級と思うが、栄養学を無視する人の意見を否定しない場合もある。彼の指導を受けた人の中に、1日に青汁一杯だけで元気に働いている人がいることも進んで知らせている。

私は、少食でさえあれば、よほど悪いものを食べない限り、食べ方に関して特に細かいことを気にする必要はないと思っているが、その理由を述べる。
私自身は、1日1食で、食べるのは、米(白米が多いが玄米にすることもある)少量と、豆腐、漬物の場合がほとんどで、時には、豆、根菜類のおかずを少し食べる。しかし、肉、魚は一切食べない。果物は、今なら、林檎、梨、柿などの1つを半分ほど食べる。ミカンなら1つ食べる。バナナは少食を始めてから食べていないが、食べるとすれば、多分、半分ずつ食べると思う(さっちゃんみたいだ)。
私自身がこだわるとすれば、お菓子を絶対食べないことだ。チョコレートやケーキ、シュークリームは本当は大変に好きだが、一生食べないつもりだ。ただ、自然なナッツやドライレーズンなら私も多少(一度に一粒だけ)は食べる。

では、肉や魚は絶対いけないかというと、食べないに越したことはないとは思うが、他人が食べることに関しては口を挟む気はない。卵なら少しは良いと思う。
栄養バランスに関しては、私は全く配慮していないが、私は血色良く、体力もあって健康である。物凄く痩せているというわけでもない(180cm、67kgだ)。
また、なぜ栄養バランスに配慮しないかというと、民族によっては、極めて少品種の食物しか摂らないが、大変に健康で長寿な人たちがよくいるからだ。ある民族は、轢いたトウモロコシしか食べないが、いきなりクロスカントリー選手権に出て、各国の一流ランナーに負けずに活躍していたし、ある種の芋しか食べないが、やはり健康な民族もある。
上にも書いたが、日本でも、1日に、青汁1杯だけの食事で健康でハードに働いている人も確実に存在する。
「不食」という本を書いた山田鷹夫さんにいたっては、趣味などで食べることはあっても、期間無制限で全く食べなくて平気だそうである。また、彼は完全不食になる前に、何を食べても大丈夫だということを、自らの身で試したと言う。放置して腐ったマグロやカキを食べても何ともなかったし、仮に環境ホルモンや水銀に汚染された魚を食べても、本当に健康な身体であれば適切に処理され、不都合は起こらないと言う。
そこまで言えるかどうかは私には確信はないが、世の中には、それこそ、ほとんどの販売されている食品がいかに危険で恐ろしいものであるかを訴える人がいるが、そんな人の言うことを聞いていたら、何も食べられない。あきらかに人工的、化学的過ぎる食品はともかくとして、それなりに自然に作られた食品であれば問題ないと思う。

昔、「生命思考」という本で読んだが、カニは、その甲羅を形成する元素が存在しない場所で生育しても、立派な甲羅を作るし、草しか食べないはずの牛の乳には、草に含まれないカルシウムが多量にあり、それを人間が有難がって飲む。上記にあげた、トウモロコシとか芋しか食べない民族や、青汁しか摂取しない人のことも考えると、生物は、必要な栄養なら自分で生成する能力を有するのではないかと思う。
さらに、私自身が確認したわけではないのだが、何も食べずに生きているような人も少ないながら存在するらしい。
最後の食べない人(科学的には「独立系栄養生物」で、俗にブリザリアンと呼称されるらしい)は証拠不十分なので別とするが、これらの事実から考え、やはり、栄養を配慮する必要はさしてないと私は考える。

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2008.11.22

無関心力で勝つ

「馬鹿につける薬はない」という言葉を聞いたことがあるだろうか?
「馬鹿は死ななきゃ治らない」と同じ意味と思われ、「馬鹿ってのはどうにもならないもんだ」という諦めの心境を感じる言葉である。
つまり、どうしようもない馬鹿を前に、そう言って、自分を慰めるしかないといったものと思う。

吉本隆明氏の至高の思想書「共同幻想論」というものがあるが、はっきり言って非常に高度な思想であり、誰にでも理解できるものではない。
これに対し、これをほとんど理解もできない者が自分勝手な解釈をこじつけて馬鹿げた批判をするのを見て、著者の吉本氏も「馬鹿につける薬はない」としか書けなかったのだと思う。

ことに最近ではWeb2.0とかいって、その機能の1つに、誰でも情報を得るだけでなく、情報の提供側に回れるというものがある。それは非常に良い効果もあるのだが、馬鹿の発した馬鹿な情報が、賢い人の優れた情報と同列に扱われることを宿命とする。
確かに、Web2.0では、本当に優れた情報(意見、思想等)が全く知られることなく終わってしまうという危険もなくなるかもしれない。
しかし、自分の馬鹿さ加減を認識しない馬鹿による馬鹿な情報の洪水もあまり心地よいものではない。

Amazonでは、カスタマーレビューとかいって、誰でもその本(本以外の商品に対しても同様だが)の意見や評価を書き、それが本と共に掲載される機能がある。良い意見もなくはない。しかし、あまりに下らないものが非常に多い。著者としては楽しいものではないであろう。
言ってみれば、美味しそうな林檎を前に、その林檎が椅子として全く役に立たないという批判をしているような意見だらけなのである。
Amazonは、そのレビューがよほど著書や著者に対し侮辱的であったり、表現が倫理的・道徳的に逸脱していない限り、それをそのまま掲載する。また、そのレビューに対する評価(良いか悪いか)というものもまた誰にでも行え、あまりに馬鹿げたレビューにはマイナスポイントが多くなる。
ただ、その本の内容が高度な場合は、表現はそこそこまともな感じであるが、内容を全く理解していない的外れなレビューが多くなり、それを読んで誤解する人が出ないか心配になることもよくある。まあ、Amazonも「あくまで一般人のレビューなので、自分で判断するように」と注意は出しているが、ある種の馬鹿な考えは広まりやすいというものもあるのだ。

まあ、Amazonのレビュー程度では、本来どうでも良いのであるが、仕事などで、馬鹿が堂々と意見を言えることで迷惑をかけられることを何度も経験すると、どうしても過敏になる。その馬鹿が上司とか、社内で地位のある人である場合も少なくはなく、ほとほとに困ることもあるのが世の常であろう。
そんな時はどうするか?
気にしないことである。会社がどうなろうが知ったことではないではないか?
もちろん、偉い人の馬鹿な意見を「はい、そうですね」と肯定したら、後でいろいろな意味でえらい目に遭うことも多いだろう。「お前も賛成しただろう?」と批判されたり、能力を否定されてしまうこともある。それでも気にしてはいけない。たかが会社、たかが仕事である。会社のこと、仕事のこと、全てに無関心になれば良い。

さらに一歩進めるなら、全てに無関心になれば良い。
特定のものに関心があることが不幸の原因なのだ。
幸福の道は、全てを愛するか、全てに無関心かだ。
好みでない男性を「アウトオブ眼中」とか言いながら、好みのタイプの男性に執着する女性は間違いなく不幸だ。
全てを愛するのは私には無理らしい。ならば、全てに無関心であれば良い。
そうなれば、この世に敵なく、全ては思いのままとなるだろう。

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2008.11.21

ハルヒの地で滅びを感じた

人気小説・アニメの「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズは、著者の谷川流さんの出身地で、彼が青春時代を過ごした兵庫県西宮市が舞台である。
小説やアニメに、現実の地名や建物の名称等が出てくるわけではないが、ハルヒ達が集合場所によく使う「北口駅」とは「阪急西宮北口駅」であり、アニメでは、この阪急西宮北口駅の駅前の風景、特に駅前公園の様子がかなりそのまま登場する(本当に一目で分る)。
ところで、その駅前公園は、阪急西宮北口駅の北側である。
ところが、その反対側である、駅の南側に、阪急西宮ガーデンズが建設され、この程オープンした。
これは、以前あった阪急西宮スタジアム(旧阪神西宮球場)後に建設された、西日本最大のショッピングセンターである。
入ってみると、さすがに広い。あらゆる種類のショップはもちろん、エステ、ネイルサロン、文化施設もある。英語、バレエのレッスンもしている託児所まである。
5Fにはシネマ館があり、12の劇場にはゆったりとした椅子が設置され、予約が必要で料金もやや高いが、リクライニングシートのものまである。
阪急西宮スタジアム時代には、V6や浜崎あゆみさんもライブを行ったが、4Fには野外ガーデンもあり、イベントも行われるかもしれない。
いや、ハルヒにちなんで、CDや写真集も出しているハルヒ役の声優、平野綾さんや長門有希役の茅原実里さん、朝比奈みくる役の後藤邑子さんのライブをやれば、かなり異様な雰囲気で盛り上がると思う。ゲストに谷川流さんやいとうのいぢさんも来られるなら私も行・・・かないだろうな、やはり(笑)。
さて、阪急西宮ガーデンズをぐるっと見て回ったが、食べ物屋関係も非常に多く、どこのお店も内装がなかなか良く、その効果もあるのかもしれないが、料理も非常に美味しそうだ。まあ、私が一生食べないようなものばかりである。ますます人々の飽食・美食を促進し、不健康で充実感のない人生を作り出すことになるのだと思いながら通り過ぎた。
ここがショッピングセンターとして現代の最先端となると思うが、全ての人間に食欲を起させると共に、物欲を起させる仕組みに満ち溢れている。人々の欲望、必要もない餓鬼のような欲望を掻き立てる存在。経済がこういったものによって支えられ、それをサポートするだけでなく、強力に煽るのが金融なら、そんな経済や金融は潰れてしまえば良い。いや、やがて間違いなく全て潰れるだろう。もし国家がそれらに依存するものであるのなら、国家も間違いなく潰れる。

経済や金融が滅び、国家が滅ぶことが悲惨であろうか?
一面的には確かにその通りである。
しかし、之(これ)なるものが向こうからみれば其(それ)であるように、破壊と見えるものも別の面から見れば完成である。
破壊せずして再生はない。破壊するものはいつも陽気だ。

私は、この巨大なショッピングセンターを見て、はっきりと滅びを感じた。
再生のために破壊するもの。それはGay(陽気)なのだ。
ハルヒは、初めて野球場に行った小学6年生の時に、マイナスの感情は伴ったが啓示のようなものを受け、価値観が完全に変わり、その結果、世界は一変した。
そして、私もまた、世界をいったん終焉させようかとも思っている。もし、守るべきものが何も見つけられなければね。

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2008.11.20

鈍感力をはるかに超える鏡心力を得て超人になる

私は、小泉元首相の最大の功績は、渡辺淳一さんの著書「鈍感力」を100万部のベストセラーにしたことであると思う。
私は、テレビのニュースで、小泉さんが持ち出した「鈍感力」という本のタイトルを聞いただけで、中味を読まなくても非常に重要な本であると確信した。
読む必要が全くなかった。ごく最近、気紛れに読んでみたら、勿論、私の知らないこともいろいろ書かれていたが、結果として思ったとおりの本であった。「鈍感力」という言葉に、これ以外の内容はあり得ない。
鈍感力こそ、全ての人に有益な力であり、特にひきこもりの人には身に着けて欲しいと思う。
ひきこもりは、心も身体も敏感過ぎるのだ。
「鈍感」こそ、幸福の鍵である。

この本が有名になり、更に、この本を読みながら、「鈍感はやはり駄目だ」という人もいるが、それはそれで良い。他人の不幸など私の知ったことではない。私は他人の不幸に鈍感なのだ(笑)。

では、鈍感力に関する究極のお話を紹介する。
これは、鈍感になり切れない人の役にも立つものだ。

お釈迦様に弟子が尋ねた。
「悟りを開いた人間と、普通の人では、精神作用がどのように違うのでしょうか?」
これは我々も興味あるところである。
悟りを開いた人間の心とは、いかなるものであろうか?
お釈迦様は答えた。
「感受作用において、特に違いはない。ただ、それに執着しないのだ」
少し分りにくいかもしれないので補足する。
現代インドの聖者ラマナ・マハリシはこのように語ったことがある。
「聖人の心は、ある意味、子供に似ている。子供は遊んでいる時は遊びに夢中になるが、終れば忘れてしまう」
つまり、こんなものと思う。
綺麗な花を見て、「綺麗だな」と思うのは、悟りを開いた聖者も凡人も全く同じだ。しかし、しばらく楽しめば、そのまますっと通り過ぎる聖人と違い、我々凡人はそれを摘んで持ち帰るという余計なことをする。
聖人だって、ポカっと殴られたり、嫌がらせをされるとむかっとすることもあろう。しかし、聖人はそれをすぐに忘れるのに比べ、凡人はいつまでも根に持ち、仕返しをしたり、そうでなくてもいつまでも嫌な気分を引きずる。

渡辺淳一さんの「鈍感力」には、嫌がらせをされてもあまり気にしない、感受性の鈍い人の特性を鈍感力としていたように思うが、お釈迦様やマハリシの場合、感受性自体は常人と同じでも、執着しないことが幸せであるとしている。
ヨガ指導者の藤本憲幸さんの古い本で読んだ覚えがあるが、ある自信を失くしてひきこもっていた20歳の青年が、しばらくすると、別人のように堂々として、藤本さんに「やあ」と挨拶し、ヨガの超人として知られる藤本さんに「きみの能力なんて、僕に比べればちっぽけだ」と宣言する。
その20歳の聖者は「精神はただ流すもの」と言っていた。
なるほど、流れずに淀むから執着するのだ。嫌なことも楽しいことも、流してしまえば執着しない。「水に流す」とはよく言ったもので、それでこそ、心の純一性を保てる。そういえば、小泉元首相の名前は純一郎であったな(笑)。

では、以上の要点を見事に表現した至高の言葉を紹介しよう。
「荘子」の内編の中の「応帝王篇」に出てくる、「鏡」という短い文章である(漢文である)。
(「荘子」には、内編、外編、雑編とあり、内編が荘子自らの書であり、他は弟子などが後から付け加えたものとするのが一般的だ)

至人之用心若鏡。不将不迎、応而不蔵。故能勝物而不傷

こんな意味だ。
至人(最高の人。聖者や悟りを開いたような人だろう)の心は鏡のようなものだとある。
終ったことを悔やまず、先の心配をしない。
つまり、来たものだけをそのまま映すが、去ってしまえば何の痕跡も留めない。
だからこそ、無限の力を発揮でき、傷付くこともないのだ。

書き下せば次のようになろうか?

至人の心は鏡のようなものだ。
来るものは、ただあるがままに見るが、過ぎ去れば何の痕跡も留めない。
だから、過去を悔やまないし、未来を思い煩うこともない。
それでこそ自在に働いて全てに打ち勝ち、傷付くことは決してないのだ。

お釈迦様やラマナ・マハリシの言葉も、この通りのことと思う。

執着しないことは難しいので、渡辺淳一さんの言う「鈍感力」である、鈍い身体と心を持てば、結果的に同じなので幸せである。幸いなるは鈍感な人である(これは同意する人も多いだろう)。
鈍感な人がひきこもることは、まあ無い。

ところで、最後に1つだけ書いておく。
渡辺淳一さんの「鈍感力」の百倍優れているのが、ひろさちやさんの「無関心力」である。
「無関心力」とは、世間の常識や価値観を全く評価せず、それに無関心になることだ。
身体や精神の敏感な人にも役に立つ。なぜなら、鈍感にはなれなくても、無関心にはなれるからだ。
『ひろさちやの「無関心」のすすめ』(青春出版社)を読むべし。
実は、上記のお釈迦様のお話も、ひろさちやさんの古い本で読んだものである。
ひろさちやさんは、あのお釈迦様の教えの実践方法をついに発見したのである。
これを読み、修得すれば、荘子の鏡の教えを身に付けることができるだろう。

だが、さらに言うと、もっと確実に鏡の心を手に入れる方法がある。
言うまでもなく、少食である。
食という人間最大の執着を抑えれば、我々は何ものにも執着しなくなる。
鈍感力以上の鏡心力という至高の力を得ることとなる。その威力の凄さは、ほとんどの人が知らない。

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2008.11.19

誰に責任があるのかを正しく認識せよ

プロ野球で、FA宣言した横浜ベイスターズの三浦大輔選手のチーム残留を願い、ファンが著名活動をしているらしい。

そんなニュースを見ていたら、私は思わず仰天してしまった。
その著名を、なんと三浦選手自身に渡すというのだ。

おかしな話ではないか?
渡すのは、三浦選手にではなく、横浜ベイスターズ球団にするべきではないか?
三浦選手は、そんなもの貰っても、嬉しいかどうかはともかくとして困ってしまうだろう?

ベイスターズが、三浦選手に良い条件(年棒や契約年数)を提示すれば三浦選手は残留するのであり、プロとしてFA宣言した以上、三浦選手は良い条件を提示してくれたところに行くのが当然であり、それが良い条件を出してくれたチームへの誠意でもあろう。

ファンは、著名を持って、ベイスターズに、三浦選手を欲しがっている他の球団以上の条件を出すよう嘆願するしかないのである。
もし三浦選手が阪神に行ったら、ベイスターズファンの要望に応えなかった三浦選手が悪いのであろうか?そんな馬鹿な!良い条件を出さなかったベイスターズの責任である。

どうも日本には、おかしな論理が堂々とまかり通るのであるが、なぜであろう?
1つの考えとして、国家の戦争責任の誤魔化しのために、真の責任者の責任をはぐらかす思想が国民に定着したのではないだろうか。
なぜか、戦争の回想をする時、「我々はあのような過ちを繰り返しません」と言う。我々とは、ごく一般民衆である。そんな馬鹿なことがあるか。戦争は政治家がやったことであり、国民が戦争を望むはずがない。国民には何の責任もないのである。
ところが、戦後、政治家は誰も責任を取らなかった。それどころか、政治家のまま残っているやつがいくらでもいる。
ドイツでは、ナチスを国内で裁いた。しかし、日本は戦争をやった政治家を裁いていない。
戦犯なんてのは、外国から裁かれた者だ。国内で裁かないので、何か戦争の責任が国民にあるように思わせられているのだ。
産地偽装問題でも、社長は従業員がやったとか言い逃れをするが、そのような事件の責任は社長にあるのはあまりに当然だ。マスコミも、そんな社長の言い分をいちいち取上げる必要はないのだ。

日本人は、真の責任者は誰かという感覚にあまりに疎い。
こんな政治センス、ビジネスセンス、あるいは基本的ロジックに欠ける政治家は、どんな場合でも外国に対し、妙に主張が弱く及び腰で、中国、韓国、そして、北朝鮮の言いなりになるのも仕方ないように思う。ましてやアメリカにモノが言えるはずがない。

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2008.11.18

次期米国大統領は超少食

次期米国大統領バラク・オバマは超少食であるらしい。
私は知らなかったのだが、敬愛すべき芸術家の石彫人さんが教えてくれた。

ちょっと、石彫人さんのサイトとブログを紹介しておく。
私のブログなんか見るよりずっと良いので、こっちを見た方が良い・・・いや、ちょっとまちたまえ!まずは私のブログを見てからだ(汗)。
石彫人さんの公式サイト"Sculptor Ryota Koshika"はこちら
作品制作ブログ。完成した出口王仁三郎像が素晴らしい
開き直りのススメ(ブログ)

ニューズウィーク日本版11/19号の45ページからの記述にある。
オバマは夕食に毎日、サーモン、ライス、ブロッコリーという同じメニューばかり食べていた。
インディアナ州の食堂では、フライドポテトを食べたが、ハンバーガーは持ち帰った。記事にも、オバマがこのハンバーガーを自分で食べたのではないだろうと推測する書き方がされていた。記者にとっては、オバマがほとんど拒食症並に見えていたらしい。
だから、ウエイターがトッピングたっぷりのパンケーキ(日本ではホットケーキの呼び名が一般的)をオバマに薦めたが、オバマが「私は古いタイプだから」と断りバターミルク味のパンケーキを注文したのを見て、記者達は「オバマがあれ(ウエイターが薦めた方だろう)を一口でも食べたら、俺たちは携帯電話を食べてやる」と言ったそうだ。
オバマがスポーツマンタイプのスリムな体形であることはご存知と思うが、彼はバスケットボールが好きで、大変に上手いらしく、このニューズウィークの記者もオバマのプレイを、「大変に機敏」と書いていた。

日本でも肥満が増えてきたが、アメリカはレベルが違う。
メタボ判定基準の腹囲でも、男性では、日本が85cmに対し、米国では102cm(ただし、女性では、日本90cmで、米国は88cm)。
ヘルシーな和食が米国でも人気であるらしいが、平均的にはまだまだアメリカ人の身体はデカく感じる。
そのアメリカで、少食でスリムな大統領が誕生することは大変に良いことと思う。
私の考えでは、日本もアメリカも、経済やましてや金融よりも、一人一人が食を節制し、人間としての慎ましさを備えるようになった方が良いと思う。間違って経済や金融が盛り返し、結果、さらに資源を浪費し、飽食を繰り返すと世界は確実に破滅の道に向かうはずだ。

食に慎ましい金持ちの有名人としては、なんといっても世界最高の富豪ビル・ゲイツがいる。
若い頃から、事務のオバさんに言われないと食事をせず(会社にほとんど住んでいて、本当に食べなかったようだ)、屈指の富豪となってからも、独身時代は持ち帰りピザを夕食にしていた。
世界一の富豪になってからも、大衆食堂で食事し、飛行機はエコノミーに乗る。
彼はベジタリアンではないが、食に慎ましいことが彼に幸運をももたらしているように思う。
おそらく彼以上の少食であった小室哲哉さんが、食と同様にその他の面でも慎ましければ、もっと大きくなっていたに違いない。復帰して、そうなってくれることを願う。
ゲイツと同い年で、彼のライバルともよく言われるスティーブ・ジョブズはベジタリアンだ。いろいろな奇行でも知られるジョブズだが、復帰したアップル社ではほぼ無報酬で働き、ディズニーの役員でもありながら役員報酬を辞退するなど慎ましい部分もある。
美食・飽食の富豪は、若い間は良くても、ある程度の年齢になると健康面はもちろん、家庭や、果ては取り得の経済面でも破綻することが多いと思う。
徳川家康が生涯、庶民並の食事に甘んじたように、成功しても食を節制すれば、栄光は長く、おそらくは死ぬまで続くだろう。
また、我々平凡な人間も、食を節制することで成功し、幸福な人生を送ることができる。
江戸時代の観相家、水野南北がそのことを知り、自ら実践して大長者となり、当時異例の75歳まで健康で幸せに生きただけでなく、このことを人々に知らせようとしたが、彼の教えが現代に広まっているとは全く言えない。尚、彼は観相的には、短命、貧窮の相であり、実際、食を節することを憶えるまでは破滅の人生に向かっていたようである。

ちなみに、私はオバマと違い、サーモンもあらゆるホットケーキも生涯食べないと思う。それで彼との能力の差を少しでも埋められればと思う。

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2008.11.17

ひきこもりが駄目な人間のはずがない

昔であれば、ひきこもりの人の意思を知る機会はなかなか無かったが、現在では、ブログやSNSその他があって、いくらかは分るようになってきた。
ひきこもりの人の考えを知る中で、最も残念に思うのが、彼ら(彼女ら)の多くが、自分を駄目な人間であると思っていることだ。これは、極めて重要な大問題である。
いったい、ひきこもりの何が駄目だというのだろう?
お金を稼いでいないからか?
なぜお金を稼がないと悪いのであろう?
自分がお金を稼がないと誰かに迷惑をかけるからだろうか?
それを言うなら、お金を沢山稼いでいる人の方がはるかに多くの人に迷惑をかけているのではないだろうか?
働いて社会に貢献していないからだろうか?
しかし、むしろ、働いて社会を害している人の方が多いのではないだろうか?

以前にも書いたが、コリン・ウィルソンの新しい本「超越意識の探求―自己実現のための意識獲得法」(学習研究社)で、あるひきこもりの男性が「俺はなんて駄目なやつなんだ」と言った時、彼の友人に「きみはちっとも駄目じゃない。自分でそう思っているだけさ」と言われたことが啓示となり、彼はたちまち(数日かかったが)偉大な賢者となった。
だが、コリン・ウィルソンは肝心なことを書いてくれなかったので、重要な点が分らず、具体的にどうすれば良いか分らないように思う。
そこで私が補足してみようと思う。

ひきこもりが、なぜ自分が駄目だと思っているのかをもっと真剣に追求しないといけないのである。
コリン・ウィルソンの本のこの男性と、我が国のひきこもりはほぼ同じことを考えているのだ。それが分れば、我々も賢者となり、堂々と生きることも可能になる。

さて、では、ひきこもりに限らず、なぜ我々は自分を駄目な人間だと思ってしまうのだろう?
逆に言えば、どうすれば、我々は自分を駄目ではない、価値ある人間と思えるのであろう?
一流大学に入れば?
オリンピックで金メダルを取れば?
医者や弁護士になれば?
ビジネスで成功すれば?
企業の中で有能と認められ、出世すれば?
売れる作家や画家になれば?
エステで磨き上げ、ナイスバディやイケメンになれば?

いずれもそうだと思えるような気がする。これらの1つもないから、自分は駄目だと思うのかもしれない。
だから、我々は努力して、これらのものの1つ、出来れば複数を成し遂げる必要があるのだろうか?
しかし、よく考えると分かるはずなのだ。
これらのものに価値があると思い込まされているだけではないのかと。
断言するが、上記のものに絶対的な価値なんて一切ない。
なぜこれらに価値があると感じるかというと、そう感じるよう教育(あるいは洗脳)されたからというだけの理由なのだ。
それが心底納得できたら、もはや自分が駄目な人間だと思うことはなくなる。
だが、我々が叩き込まれた教育や洗脳の強力さが半端でないことも確かなのである。
そう簡単に、一流大学や金メダルに価値がないなんて納得できないかもしれない。

では、どうすれば良いのだろうか?
それは、上記を含め、世間で価値あるとされること一切に無関心になることだ。
ひきこもりであれば、学校に行くことや、働くことが良いことなのに、それができない自分は駄目だと感じているかもしれない。では、学校に行くことや働くことが良いことだという価値観に無関心になるのだ。
私などは企業に所属しているが、会社や仕事など知ったことではないと思っている。無論、そんなことを露骨に言ったりはしない。あからさまな反抗はむしろ関心や愛着の裏返しである。ただ、距離を置き、笑いながら見ているのである。
仕事はなりゆきだけ眺めている。仕事に限らず、何事もなりゆきを静かに見ているのが一番良い。そうすれば、案外、熱意を持ってやるよりもうまくいくものだ。私自身、非常に優秀な社員で通っている。クール過ぎて敵は多いが(笑)。
ただ、熱意を込めてやらないとたちまちクビになるような仕事もある。そのような仕事に就いている場合、熱意を入れてやるのが面白ければやれば良いが、そうでないなら辞めれば良い。病気になるよりマシだし、会社にも自分にもお互いにその方が良いのである。私にも経験がある。営業職だった頃だ。相手にとって必要もないものを売りまくるのが優秀な営業社員だ。相手にニーズがなければ、無理矢理にそれを作って売るのだ。テレビCMで見る保険の宣伝なんて全部嘘八百であることは、元々セールスマンだった私には見え見えだ。会社に洗脳されれば、熱血営業マンになれるかもしれないし、それは必ずしも不幸なことではないかもしれない。私も会社の洗脳が効いていた頃は、セールスコンテストで優勝した。しかし、うまく醒めることができると、自分の販売は、誰も幸せにしないことが分った。そうなると、もはや仕事を続けるエネルギーはなくなる。やがてSFドラマの影響でITテクノロジに興味を持ち、コンピュータソフト開発者になったが、自分には営業職より幾分マシだった。

価値は自分で決めれば良い。
ただし、ほとんどの人間には、ちゃんとした価値付けはできない。学校で叩き込まれた教育や、マスコミを通してなされた洗脳の恐ろしさを甘くみてはならない。
そんな中で、勝手に価値判断をしてもいけない。ロクでもないものに価値を置き、馬鹿な人間になる。例えばカッコばかりに価値を置くようになる。せっかく高校をドロップアウトし、ひきこもりにもならなかったのに、ファッションやロックにばかり興味を持つ若者を見るのもまた悲しいものである。
難しいのだ(笑)。
イエスは真理を語ったかもしれないが、キリスト教という宗教が真理を教えてくれるかどうかは別問題だ。そもそも、聖書そのものにも、権力者による改ざんがあるかもしれない。
荘子やニーチェにはかなりの真理が書かれてあるが、理解するのには苦しい経験と時間が必要だ。読んでたちまち真理に到達できるなんてものがあるはずがない。

そこで必殺技になるのが少食である。
おそらく、世間に打ち勝つ唯一にして最強最後の武器が少食だ。
世間で必要と宣伝される食事の量の多くとも半分以下、世間で美味しいから食べろと宣伝される美食やお菓子の一切を食べない。これを貫けば、ウィルソンの本にあった男性のように、我々も賢者となれるのである。

特殊な心理操作の技術を使って、心の持ち方を変えることも可能かもしれない。しかし、ご存知かもしれないが、その方面は偽物が多く、どれが正しいかはあなたには判断できない。私には判断できると思うが、あなたに納得させることができない。
また、インドの聖者の教えに従い、真の自分に目覚めることも興味深いが、成功した人なんて万に1人もいるか?
害のない、そしておそらくは効果も高いものとしては、有名な宗教団体、白光真宏会の「世界平和の祈り」があるので、参考にしても良いと思う(私は信者ではないが)。これは、断食療法で著名な甲田光雄さんも価値を認めていたと思う。彼はこの祈りを自己流に改変していたが、根本的には同じと思うので、オリジナルのままで良いと思う。

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2008.11.16

真の芸術家は陽気に狂う

午後4時頃に帰宅した母親が、つき立ての餅で作った実に美味しそうな安倍川餅(きな粉とこしあんの2種類)を持って来た。それは私の大好物である上、昨夜の夕食(少量の粗食)から何も食べていない空腹の身には激しい食欲をそそらされる。ここらは、全く平凡な野獣だ。
しかし、1日1食と間食一切禁止の誓いを立てた私は、当然、全く手を付けない。
私は、「パイレーツ・オブ・カリビアン」の呪われた海賊のようなものだ。彼らは、舌も胃もないので、食べたくても食べられずに苦しんでいる。だが、私は完璧で健康な若い身体を持っているが、自らの意志で食べない。
これは、世間的には気狂いと見られるかもしれない。
今回は、それがテーマだ。
まずは、私が愛するナイフの写真からだ。
Buck_110fh
私がなぜナイフが好きかというと、1つには、子供の頃に持つことを禁止されたからだ。
特に、このBUCK社のフォールディングハンター110のように、刃渡り95mmもある立派なナイフを持ったりしたら、気違いだと言われたと思う。
だから良いのである。ナイフは自由の象徴だ。
(別の理由としては、人類の最も古くからの長い知恵が込められているからだ。何といっても、ナイフは火に次ぐ古い道具であり、美しさと機能の両立を教えてくれる人類最古の友なのだ。)

イタリア映画「愛のほほえみ」で、オルガという名の愛らしい10歳くらいの少女が、タバコを手に、ルーカ少年に「火を持ってない?」と言う。
驚くルーカに、オルガは「あたし、やっちゃいけないってことは何でもやりたいの」と言う。
オルガは自由を求めていたのだ。
オルガも、世間から見ると、気がヘンと思われるかもしれない。
だが、自由とは、世間で狂うことなのだ。だって、世間の別名は「狂った場所」なのだ。狂った場所で狂わずして自由はない。

世間に迎合しながら芸術家を名乗る輩はペテン師だろう。
芸術家の仕事とは、世間の中で狂ってみせることに他ならない。
当たり前である。芸術家の使命は、人々に自由を教えることなのだから。
岡本太郎を見ればよく分かるだろう。「世間に言いたいことがないやつが芸術家であるはずがない」と彼は言った。
池田満寿夫は、「私には狂気はない」と言ったが、世間的にはあきらかに狂気を持っていた。彼には、世間的な狂気の世界が普通だったのだろう。
ひきこもりの作家ベケットこそ、本物の芸術家だ。彼は、のこのこノーベル賞の授賞式に出かけていきはしなかった。そこまでやりはしなくても、本物の芸術家はノーベル賞なんてものにさしたる価値は認めないだろう。

イエスは「私は世間に勝ったのだ」と言った。彼には、世間の賞賛も豊かさも興味のないものだったのだ。
ニサルダガッタ・マハラジは、常に「私は世間的には死んでいる」と言った。
よって、彼らは最高の教師と言われるのだ。

世間に反逆することが自由であり、芸術の真髄だ。
だが、反逆すると言っても、普段は別に露骨に攻撃する必要はない。ガンジーが示したように、無抵抗こそ最大の攻撃だ。迎合せず、無関心であれば良い。笑って見ていれば良いのである。あるいは、呆れて、または、哀れんで見ることもあるかもしれないがね。
無差別殺人なんてものをやらかす輩は、狂えなかった者達だ。彼らは世間に関心を持ち過ぎたのだ。それで世間に恨みを持ち、世間の中で劣等感に悩み、心を抑圧し続けた。その結果があのザマだ。
世界を破壊するのはGay(陽気)な者であるとイェイツは言った。
芸術家は、そして自由人は陽気に狂うのだ。

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2008.11.15

今を大切に

ジェームズ・キャメロン監督の歴史的作品になるであろう映画「タイタニック」で、ジャックが、「今日」の大切さを金持ち連中に語り、喝采を得るシーンがある。
「始まったばかりの今日という1日。それは未知なる1日だ。運命がどんなカードを配ろうと、それも1日なのだ。その今日を大切に生きるべきだ」

我々は、今にしか生きることができない。昨日や明日を生きることはできないのだ。なら、今日が大事であることは明らかだ。

アンデルセン童話に「もみの木」というのがある。
私は、子供の時、一度読んだきりだったが、ぞっとするほどの感慨があったことを憶えている。
このお話は、昔の翻訳も含め、著作権が切れており、青空文庫で無料で読める。
アンデルセンの書いた、見事な賢者の書と思う。

青空文庫 もみの木

ジャックが言ったことと反し、今を大切にしなかった、今を楽しまなかったもみの木の話だ。
もみの子はいつも幸せだったのだ。しかし、未来にあると思うもっと楽しいことにばかりに思いを向けた。そして、いつも今はつまらなく、自分は不幸だと思い続けたのだ。
私が子供の時に読んだ時のように、このお話を読めば、その深い意味は分らなくても、実に大切なことが語られていることを感じると思う。

ここで1つ、非常に重要な人生の真理を書いておく。
いきなり聞くと矛盾しているように感じるかもしれないが、本当のことである。
未来で幸せになるためには、今幸せでないといけないのだ。
過去が不幸だったという人は、現在幸せではない。今幸せな人は、苦しかった過去すら楽しく語るのだ。
自殺を真剣に考えるほどいじめられた相手に対し、岡本太郎は「いやあ、君には随分いじめられたな」と仲良く酒を飲んでいた。
では、幸せとはどういうことであろう。時間とは流れるものであり、今も絶えず過ぎ去って行く。ということは、今が幸せであるとは、今を幸せに過ごすということである。過ぎ去った時間は過去に向かう。今が幸せなら、過去も幸せになる。未来が幸せなら、現在が幸せでないはずがない。
今という時の流れを幸せに感じることが幸せなのだ。
(より深くは、時も幸せも幻想である。しかし、我々はいきなり超人にはなれないので、ここらの問題は今は置いておく)
そして、今を幸せに過ごせば、未来も確実に幸せになる。
幸せは未来に訪れるものでも、将来に勝ち取るものでもない。今この瞬間に幸せでないなら幸せとは縁がない。
歴史的名曲である「ヘイ・ジュード」に、「悲しい歌だって気分次第で楽しくなるさ」とあるように、全ては気持ち次第、いや、自分次第だ。世界を創るのは我々の心なのだ。
そして、我々を不幸にしているのは、世間に押し付けられた価値観だ。それと比較し、自分はダメだと思うと不幸になのだ。世間はいつも狂っているものだと諦めろ。すると真実が見えてくる。

今を大切に。それが自分を、そして宇宙を大切にすることである。

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2008.11.14

1日少食のすすめ

少食を実施するための「1日少食」という考え方をご紹介する。

よく「1日断食」ということを聞くのだが、「1日少食」は、それとは根本的な考え方が異なる。
「1日断食」では、その日1日断食すれば、翌日以降は天下ご免で食べて良いことになる。
しかし、「1日少食」とは、その日1日を少食にしましょうとはいうものの、翌日もまた、「今日も少食にしよう」と誓うのである。

ちょっと分りにくいかもしれない。
それなら、「ずっと少食にしよう」と誓えば良いではないかと言われる方もいよう。
そうではないのである。
昨日や明日のことなど、どうでも良いのである。今日、少食にすることだけが重要なのだ。
昨日は、少食の誓いを破り、食べ過ぎてしまった。おやつもつい食べてしまったとしても、そんなことはどうでも良いのだ。今日、少食を実施すれば良いのである。つまり、「過ぎたことなど、思いわずらうな」である。
明日もまた、食欲に負けてしまうかもしれない。いや、そもそも、明日、生きているかどうかも分らない。そんな明日のことなど考えても仕方がない。明日になった時点で、「さあ、今日は少食にしよう」と思えば良いのだ。

人間は、どうも過去や未来に囚われ、それが不幸の大きな原因になっている。
過去の反省をしても、大概、意気消沈するだけで良いことは何もない。今日、励めば良いのだ。
まだ来ない未来について、あれこれ心配しても時間のムダ、エネルギーのムダである。
イエス様も、「明日のことは明日にまかせておけばよい」「明日を思い煩うな」と言っているではないか。
そして、仏教にも「1日賢者」という教えがあり、今日、しっかり励めと言っているのである。

少食にすれば、良いことだらけである。
身体はスリムになって軽く美しくなる。食費もかからない。病気も治るし体調は良くなる。
着れる服も多くなる。少々大きな服を着るのはむしろお洒落だが、キツキツの服を着るのはみっともないし、服が傷む。
少食を続けていれば、ある日、鏡に映った自分の顔や姿にうっとりする日も来るだろう。それは予告もなくやってくる。
運も良くなる。望まなくても幸運に恵まれる。それはごく当然のことなのだ。
そのために必要なのは、あくまで、「今日、少食にしよう」である。失敗した昨日を悔やんだり、「明日は出来るだろうか?」などと考えると、少食が続かない可能性は高い。
また、「次の健康診断でメタボ判定を免れるため」といった目標を持った場合、それはうまくいったとしても、健康診断が終わったら、反動で以前より沢山食べ、より肥満になり病気になって死んでしまう人も多いと思う。あのメタボ検診とやらは、全く百害あって一利なしである。

人間には、今しかないのである。昨日や明日は幻想である。言ってしまえば、反省も希望も必要ない。反省する暇があれば、励むか楽しめば良い。希望を持つと、同時に不安も起こるものなのだ。
このあたりは、また独立に書く必要もあろう。で、明日書く(笑)。

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2008.11.13

ひきこもりのままで良いという教え

ひきこもりの方、および、そのご家族にお薦めしたい本に、

ひろさちやの「無関心」のすすめ(ひろさちや著 青春出版社)

という本がある。
特にひきこもりをテーマとした本でもないのだが、著者のひろさちやさんは、ひきこもりに関する相談をよく受けるらしく、本書でもページを割いて、そのことを取上げている。
ひろさちやさんについて説明しておくと、1936年生まれの仏教学者であるが、出家の方ではなく、在家の方だ。東大の印度哲学と同大学院を出て、気象大学校の教授を務め、現在は大正大学の客員教授であるらしい。著作は400冊以上で、仏教を僧侶ではない一般人の立場で分りやすく教えてくれることから、非常に人気がある。

さて、ひろさちやさんが、ひきこもりの相談を受けた時の答えは「もう少しひきこもっていなさい」らしい。
まあ、つまるところ、「ひきこもりのままでいいんだ」ということだ。
いや、ひきこもりだけではない。例えは悪いが、病人なら病人、犯罪者なら犯罪者のままでいいんだというお考えである。
もちろん、これらは仏教的な思想から来ている。
ひきこもりの親としては、仏様から、ひきこもりの子供を預かったのであるから、ちゃんと預かっていなさいということである。そして、仏様がそうしたのにはちゃんと訳があるのだから、心配することも文句を言うこともないということだ。
(子供を「授かる」ではなく、「預かる」であることに注意。預かっているだけであるから、あくまで仏様の子供であり、自分の子供ではない)
また、自分がひきこもりであるのは、仏様にその役割を与えられたのであるから、ちゃんとひきこもりをやっていれば良いと言う。
人生はおしばいに過ぎない。シナリオは仏様が作ったのであるから、役者たる我々が、自分の役について文句を言ったり、勝手に役を変えようとしたりは筋違いと言うのである。
そして、死んで仏様の浄土に戻った時、良い役柄(例えば立派に働いて世間的に幸福だった人等)だった人には、仏様は単に「ごくろうさん」程度のねぎらいだが、極悪人を演じさせられた人には丁重なねぎらいがあるらしい。この世には、善人や成功者と同様、悪人やおちこぼれも必要なのだ。みんなが社長になったら、掃除のおばさんがいなくて困るだろう。
でも、ひきこもりの子供が40歳(あるいはそれ以上)を超え、親も先が長くないとなると心配にもなる。ひろさちやさんは、「自分が死んだ後のことなんか気にしてはいけない。心配しなくても、仏様がひきこもりをやらせているのだから、面倒を見てくれる人なんかすぐに見つかる」と言う。

こう書くと、単なる気休めの本と受け取られかねないが、そうではないと思う。
この本全体を通し、社会の弱者たる我々が、実際的な力を得ることのできる本になっている。
また、ひきこもりだけでなく、深い悩みを持つ人や、生きていく気力を失くしそうな(あるいはなくなった)人にも力を与えるはずだ。
詳しくは本を読んでいただくしかないが、我々が自分を弱めているのは、自分の思い込みなのである。その自分の思い込みが、いかに意味のないものであるかを仏教的に解き明かし、我々をそれから解放しようというものである。

僧侶でもないのに、仏教の思想を語る人に、脳機能学者の苫米地英人さんがいる。
苫米地さんは、人が能力を最大にし、成功したいなら無限に成功する方法を教えるため、最近はすごいペースで本を書き、講演し、教材を作っている。一方、ひろさちやさんは、「成功者なんて軽蔑すればいいのですよ」「能力なんか知ったことではありません」といった立場と思う。ひろさちやさんは、能力開発も成功も、興味もなければノウハウも知らないと言うだろう。
ところが、この2人の本を何冊も読んだが、面白いことによく似ているのだ。特に似ている部分は、「世間に逆らえ」である。諸悪の根源が、世間の価値観、世間の常識であることでお2人は一致しており、これから逃れる、打ち破る方法を異なったアプローチで教えているように思う。

私のように、小難しいことが苦手なら、ひろさちやさんの本を一度読むことをお薦めする。

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2008.11.12

人気スポーツ選手の引退について

高橋尚子さんの引退を聞いた時は、ひとごとながらほっとした。
彼女の身体はもうボロボロのはずである。おそらく、将来は後遺症に苦しめられることになるだろう。それは、競技生活を続ければ続けるほど深刻になるはずだ。本当は、アテネオリンピックで落選した時にやめれば良かったと思うし、シドニーの、あの一番輝いていた時にやめても良かったと思う。
最近、人気バドミントン選手や、女子レスリングのオリンピックメダリスト達が、一度表明した引退を撤回したニュースをよく見るが、何とも残念だ。気持ちよくやめさせてあげればいいのに、彼女達を使って利益を上げようとする者達がそれを赦さないのだろう。
昨夜も、テレビで人気バドミントンペアの2人の会見を見たが、明らかに彼女達は自分の意思で道を選んでいない。彼女達の発言も報道も、おそらくほとんど嘘だろう。「コンビを解消するのは寂しい」と言いながらの引きつった笑い。それを聞くもう一方はいずれも恐い顔。早く離れたいという雰囲気しか感じられない。相手の発言に対し、一度も頷かない2人。もう憎みあっているとしか感じられない。
引退したい方には、「お疲れ様。よくやったね」で良いではないか?この世には、他にやりがいのあることがゴマンとある。若いうちにそちらに行かせてやればいいのにと思う。

フィギュアスケートの村主章枝さんも、バンクーバー五輪を目指すなど夢のようなことを言わず、競技を引退した方が良い。
現行ルールでは、彼女が今後勝ち残る可能性なんてない。不可能に挑むことも素晴らしいことではあるのだろうが、もっと他に持つべき目標だってあるはずだ。浅田真央さんやキム・ヨナのスケートより村主さんのスケートが好きな人も多いと思う。その雰囲気はプロで十分に見せられると思う。
だが、フィギュアスケートのプロでは、オリンピックの成績でギャラがはっきり違うという。馬鹿げた話である。ロシアのスルツカヤも、ソルトレイクでまさかの逆転負けで銀となり、どうしても必要な金メダルを目指して執念でトリノオリンピックを目指す姿は決して感動的ではなく、ひたすら心が痛かったと思うが如何であろう?

水泳の北島康介や、ハンマー投げの室伏広治も、もう十分以上にやった。早く次の道に進んで欲しい。彼らの引退を利益のために引きとめようとする勢力はあるだろうが、我々がそんな連中にそそのかされずに、彼らの自由を認めれば良い。
スポーツでの栄光など、人生の初期のちょっとしたことに過ぎないのだ。それを多くの人が、物凄く尊いもののように思っているのは、それで金儲けをしようという勢力に価値観を押し付けれているに過ぎないのだ。
アメリカでは、アマチュアスポーツ(と言えるかどうかは疑問だが)のスターが若くしてあっさり引退することがよくある。彼らは別の道に転進し、成功するかどうかはともかく、充実した人生を送っていると思う。彼らだって、引退の時には、いろいろ妨害や摩擦があったと思うが、自分の意思を貫いたのだろう。しかし、それでこそ人間らしい生き方をしていると言えるはずである。

G_sknight
本日もナイフコレクションの紹介です。ガーバー・シルバーナイトです。
デザインはグリーン・ベレー(米国特殊部隊)出身のアル・マーとされています。非常に美しく、また、長い歴史を誇るポケットナイフの名品です。ブレードをオープンする時のスムーズさと、ロックされる時の小気味良い「カチッ」という音に品質の高さを感じます。現在は残念ながら生産されていないと思われます。

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2008.11.11

本日は健康診断を受けてきました

本日は健康診断でした。
私は、医療なんて全く信じていないのでどうでも良いのですが、今は会社法がいろいろややこしく、すっぽかすと会社に迷惑がかかるようでとりあえず受診しています。
好きな時に、会社の指定する病院で受診すれば良いという方法です。
最近の病院は、警備の方も含め、非常に愛想がいいですね。受付の女性も可愛い方が多いですし、行くのが嫌ではありませんけんどね。

私は、腹囲の測定は40歳以上のみだと勝手に思い込んでいましたが、単にこれが今年から新たに検査項目に加わったというだけで、必須検査項目ではありませんが、医者が省略して良いという判断をしない限り、全員測定するようです。ちょうど、昨年までの検尿と同じです。尚、検尿は今年から必須となったようです。
私は、腹囲なんてものを測ったことがなかったのですが、一般にいうウエストサイズと違い、お臍の位置でお腹回りを測るようです。ウエストサイズよりいくらか大きくなるようです。
私は、自分のウエストサイズもよく知りませんが、洋服屋でウエストサイズを聞かれたら、「70ちょい」と答えていて、それで間違いないようですが、腹囲を測ってもらったら75センチでした。やはりウエストサイズより少し大きいかもしれません。

ある統計によると、30代、40代男性では、約半数が、腹囲がメタボ検診でアウトとされる85センチを超えるらしいです。平均で83.9センチとか。
腹囲だけで決まるのではありませんが、メタボ検診の対象となる40代男性では、4人に1人がメタボにされるらしく、我が国のこの厚生労働省の基準には批判も多いようです(腹囲だけなら、40歳以上なら7割くらいがメタボになるかもしれません)。
だけどね、厚生労働省の基準なんて何とも思いませんが、不健康な人の割合ならもっともっと多いと思いますよ。
メタボの人に医療がどんな指導をするのかは知りませんが、効果があるとは思えません。
健康になりたいなら、間食と朝食をやめ、少食・粗食にすればいいだけのことです。それなのに、3食しっかり食べろとか、栄養バランスを取れとか、肉食も必要とか言うのでしょう?おまけに、最近は病院でも、製薬会社と組んで高価なサプリメントを薦めています。
私は病院に近寄るつもりは毛頭ありませんが、まあ、検診以外で関わることはないでしょう。

ところで私、採血するにも、血管がほとんど見えないのです。無駄な脂肪は全くないのですが、肌の表面が全く滑らか均質で、看護師さん泣かせです。私は「遠慮なく、ブスブス刺しまくって下さい。なんなら手の甲でもいいですよ」と言ってあげます。
今回も、一度だけ刺し直しをされましたが、それでも1回だけでしたので、かなり上手な方と言えます。5~6回刺されても仕方ないと思ってます。あ、痛みに鈍感ではなく、むしろ普通の人より敏感かもしれません、くすぐりには極端に弱いですしね(笑)。

Wengernr
内容とは関係ないですが、ナイフコレクションの紹介です。
スイスのウェンガー社のニューレンジャーです。大変にシンプルなナイフですが、ライナーロックを採用した安全なナイフで、ハンドルの上面のウェンガー社のマークを押すことでブレードのロックが外れます。
ブレード長は90mmと大きく、切れ味良く錆びないイノックス鋼です。

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2008.11.10

アメリカ国民の問題

さて、再び、次期アメリカ合衆国大統領バラク・オバマにちなみ、アメリカの人種差別問題である。

アメリカの有名な画家ノーマン・ロックウェル(1894~1978)についてはよくご存知の方も多いだろう。
画風は写実であるが、スーパーリアルと言われるその作品は本物以上の臨場感、迫力があると言って良いと思う。
このロックウェルの1964年の作品に「アメリカ国民の問題」(the problem we all live with)がある。
Wikipediaによる画像はこちら
奴隷解放宣言100周年の翌年に描かれたものである。

4人の男性の大人の中央に、小さな黒人の少女が学用品を抱えて歩いている。
一瞬、大人達と少女のポーズがほとんど同じというユーモラスさを感じる。
いったい何が起きているのか、すぐには分らないかもしれない。
少女達の向こうは壁で、少女の後ろの壁に空間が空いている。
その空いた壁をよく見ると、少女の頭よりやや高い位置を中心に、何か赤いものが広がっている。
壁の下の地面を見ると、潰れたトマトが落ちている。
つまり、少女にトマトが投げつけられ、それが壁に激突したのである。
少女は前に歩いているので、トマトは少女の頭上のすぐ近くで炸裂したのかもしれない。
少なくとも、少女からさほど遠くないところで壁に当たったのは間違いないと思う。
しかし、少女は、背筋を伸ばし、怖気づくこともなく凛とした様子で歩いていく。

誰がトマトを投げつけたのかは分らないが、黒人が教育を受けることを認めないような人種差別主義者であることは想像が付く。
だが、この小さな少女は負けないのである。
この絵が描かれた時、バラク・オバマは3つかそこらだったはずだ。
このような志ある黒人のおかげで、オバマが大統領になることができたのであると思う。

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2008.11.09

人生を豊かにするアナログ主義のお話

Marino
愛用の懐中時計“capitano MARINO”。日中は太陽、夜は月の顔が現れる。

携帯小説という言葉をかなり以前から聞くが、私はそれを読んだことは1度もない。
携帯電話で文字入力をすることで製作する小説であると思うが、実際、どんなものだろうと考えてみたことがある。
携帯電話の文字入力デバイスとしての性能は、もちろん、パソコンに比べれば相当劣る。
しかし、かなり以前から、携帯電話でメールをすることは一般化しており、その操作に慣れている者が多いので、文字入力にも十分に使えると思われているかもしれない。
だがしかし、一般的に携帯メールで送信する文章というのは比較的単純であろうし、ほとんど決まりきった言葉しか使わない場合も少なくないと思われる。
また、単に文字を入力していくだけなら、それなりに使えるとは思うが、文章を見直して編集するという作業は、いかに携帯電話の画面が昔よりは大きくなったとはいえ、たかが知れていると思う。
それに、全く何もない状態から文章を作る場合、良い品質の文章を作るには、かなりの才能があるか、訓練を重ねる必要があると思われる。

確かに、昔の作家は皆、紙にペンで文章を書いたのであるから、今のパソコンのように自由に編集できるわけではない。しかし、昔の作家の原稿を見れば、ほぼ恒例になっているように、行の隙間に文章を書き加えたり、線を引いただけで削除を表したり、原稿用紙の空いた部分に文章を書いて、削除した部分に矢印を引っ張ることで、文章の差し替えを示したり、手書きゆえの自在さがある。このあたりは、実にパソコン以上と言えるかもしれない。

考えるより実践である。
私も携帯電話でどのくらい文章が作れるか試してみた。
以前から、良い考えが頭に浮かんだ時には、それを書き留めておくことは良いことであると思っていたので、もし携帯電話がその役割をうまく果たしてくれれば有り難いことだと期待しながらである。
全く駄目ということはないと思った。
私は携帯電話のメールは多用はしないが、時々は使うし、手先は器用で、左手一本での入力も平気だし、多分、入力速度はかなり速い。しかし、多くの携帯メール利用者がしているような、パターン通りの文章を書くなどという行為は嫌悪するほど嫌いである。そんなことをするくらいなら死んだ方がマシである。
やはり、結局は実用に耐えないと分った。
文章を書くのに場所や時間は選ばない。夜中に目が覚めて、良いアイディアが思いつけば、すぐに書き込む必要がある。しかし、そもそも、携帯電話のカバーを空け、エディタを起動するのにイライラする。そして、いかに高速入力をしても、思考速度に比べれば実に遅い。これらの理由で思いついたことがすぐに書けず、ましてや書かずに忘れてしまったりもして、かなりのストレスになることが分った。

Moleskine
肌身離さないモレスキンのノートとパーカーのボールペン“ジョッター”

それで、何のことはない。ノートとペンを持ち歩くことにした。
アイディアをいきなり成型する必要はない。貴重なアイディアを忘れないうちに素早く書くことが何より大事なのだ。また、あらゆる書き方が出来るので、思った通りのイメージで書けストレスがない。
どうせなら、良いノートとペンを使えば気分も出る。
ノートは、ピカソやゴッホも愛用したと言われるモレスキンを購入。A5版でハードカバーのこのノートは、さすがに長い歴史を持つだけあり、実に使いやすい。
ボールペンは1954年から発売されているパーカージェッターだ。小さいが実に書き易い。
IT技術者でありながら、ノートPCやPDAに何らの関心もなくなった。アナログ万歳だ(笑)。
いや、こんないいものがあるのに使っていなかったなんて、実にもったいないことをしていた。
見た感じも実にカッコ良く、持ち歩くのが楽しい。今後は、肌身離さずとしたい。人生、これで楽しくなると思う。

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2008.11.08

不良星人としての挑戦

私などは、食べたい欲求とかなり戦いながら少食を実践しているが、世の中には苦労もなく少食ができる生まれつき食の細い人もいる。
生まれつき食の細い人は、恵まれた人間である。私は、こんな人たちを、高校生の頃からなぜか「優良星人」と呼んでいた。不適当な感はあるのであるが、以下でもこの用語を使う。これに対する用語は「不良星人」である。つまり、私は不良星人である。

生まれつきの美人、生まれつき頭の良い人、生まれつきの才能に恵まれた人といったものは確かにいる。
ニュートンは「私の才能は神から預かったもの」と言ったが、預けてもらえたのはやはり幸運であろう(時には不幸も起こるが)。
では、才能に恵まれることは幸福なことであろうか?
あるいは、いかなる才能が最も幸運なのであろうか?
水野南北は、紆余曲折の求道の中、50日間の断食と水行で、「食が全てである」という啓示を得た。
そして、彼がその道を極めた観相も確かに素晴らしかったが、百発百中ではなかった。しかし、食による運命鑑定では万に1つも外れず、運命向上に関しても同様であった。
これが真実であるとするならば、最も恵まれた才能は少食ということになるが、私はそうであると確信する。

世の中には、「わが子はあまり食べない」と心配し、何とか沢山食べるようにしようと努力し、念願かなって子供が沢山食べるようになると喜ぶ親がいるそうである。確かに、子供に何らかの有害な精神的抑圧があって必要なだけの食事ができなくなっているなら問題があるのかもしれないが、単に食べる量が少ないのであるというだけなら非常に良いことと思う。その子は人々に慕われ、特別な才能を発揮し、幸福になれる可能性があると思う。
それを無理に食べさせるなどもっての外である。

生まれつき食の細い、幸運な著名人として、最近、世間を騒がしている小室哲哉さんがいる。
確かに、良くないことで騒がれるようになったが、それも過去の優れた功績のせいであると思えば、一概に哀れむということもない。
小室さんの全盛期に見たテレビ番組で、小室さんが自ら少食であることを明かし、「せめて喫茶店で、一人前のピラフを食べられるようになりたい」といったことを言っていたのを思い出す。
一人前のピラフを食べきれないなど良いことではないかと思うが、そのようなことを言うとは、小室さんも世間的価値観に毒されている部分もあるのかもしれない。
小室さんは少食ではあるが、いや、超少食であるからこそ、並の人間とは比較にならないエネルギーでもって、長時間のハードな仕事をこなし、天才的才能と意思の強さまで兼ね備えていることから大成功を収めることができた。

通常、食を節制することができれば、全てにおいて慎みを持つものである。
しかし、小室さんはそうではなかった。
彼が派手で豪華な生活をするのは、単なる見栄っ張りなのか、あるいは、我々が知らない原因があるのかは知らないが、あまりに慎みに欠けており、当然ならが転落した。
ここらは、もしかしたら生まれつき食の細い人が陥りやすい不幸であるのかもしれない。
食べたくないから食べないという人は、食を節制しているという感覚がないので、慎みを持ちにくいものであるのだろうか。

私は、小室さんの音楽はあまり真面目に聴いたことがないのだが、多分好きである。
ただ、大衆の支持するものには、本筋から離れた歪みや逸脱があるので、わざと近寄らないようにしていた。特に有名な曲の中には、明らかに嫌悪感を感じるものもあった。しかし、やはり素晴らしい歌が多い。
Yahoo!動画でアニメの「シティーハンター」をよく見たが、そこでTM Network時代の小室さんの曲も聴けるが、これらも実に素晴らしい。当時とか、今の時代の雰囲気といったようなこととは全く関係なく、非常に個性的で独特であると思う。

水野南北も、食を節しさえすれば十分とは言うも、住居や衣服などを飾り立てる人間は衰運に向かうと言っていたようだ。小室さんの場合、普通は最も難しい食の節制が簡単なので、そちらの方で逸脱が起こるのかもしれない。
小室さんには立ち直って欲しいと思う。やり直しの効かない人間なんていないと思うし、彼の場合は、いずれにしても少食でしかも天才だ。事業になどに手を出さず、音楽家に専念すれば良いと思う。
70億ほどの債務が原因で転落していったが、香港でのビジネスで協業したマードックにとっては、そんな額ははした金。所詮、ビジネスマンとしては器が違う。お金ではない価値のあるものを求めて欲しいものである。

ついでに言うが、小室さんと離婚した女性への慰謝料が7億円ほどにしていたと聞く。大物芸能人の離婚話ではよくある話であるが、7億も取ろうとすることが私には信じられない。例え、小室さんが払うと言ったところで、いくら取ってもせいぜいが1億までにしておくものである。
しかも、子供の養育費も毎月200万円としているとも聞く。これでは、何の苦労もなくなってしまうではないか。
その程度は当たり前と言う方も多いとは思うが、それは一部の価値観であり、正しいことではない。
そんな慰謝料を取った女性は、その後の人生はロクなことにならないはずだ。
いっそのこと、慰謝料などいらないと断れば良い。そうしたら、我々は、その女性の高潔さに心打たれるだろう。それはつまり、それが最も良いことであると、我々は心の奥で知っているからだ。
離婚については、いずれか一方が全面的に悪いということはない。
それでも、出来るだけのことをするのが男の誠意という面も確かにあるので、男の方が高い額を申し出ること自体は良いことである。しかし、女性の方は男を思いやり、男にとって余裕のある金額で手を打つべきである。そうすれば、その女性の人生も良いものになるはずだ。

小室さんは、羨むべき優良星人である。
あまり数は多くはないが、巷にも優良星人は存在し、不良星人の私は、明らかな生まれの違いにひがんでいたこともあった。不良星人が努力している頭の上を軽々と飛び越える優良星人達。
生まれながら尊い宝を持つ生まれながら天使に近い人達。
NHK大河ドラマ「北条時宗」で、時宗と違い、正室の子でない兄の北条時輔が言った言葉
「持たざるものがどこまでやれるか」
に強く共感したものだ。時輔は持たざる身で、持てる者に挑むのだ。
不良成人である我々も、意思の力で食を節することで、優良星人に挑戦することもできる。

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2008.11.07

1日1食の少食生活が4ヶ月経過

本日で、1日1食生活は4ヶ月となりました。
今年の7月27日に朝食と間食をやめ、8月7日から1日1食にしました。

朝食、昼食は全く食べずに、夜だけ食べます。
夜も、完全な菜食で、健康で大柄な若い男性の食事としては非常に少量と思われるかもしれません。
米は、小さなおにぎり1個分。おかずは、小さな豆腐と漬物、それに他の野菜が1品あるかないか。
甘いものは好きなのですが、唯一食べて良いものとしているのは金時豆で、これの1パックを1週間に分けて食べます。1回分は5~6粒といったところで、1パックを食べ終わる頃は消費期限すら切れています。
大抵、食後に果物を食べますが、最近旬の柿や梨であれば、半分までです。
間食は一切しません。ただ、夜にお茶(緑茶、ブラックコーヒー等)を飲む際、アーモンド1粒とか、クルミのかけら少量、あるいは、ドライレーズン1粒を食べることはあります。小動物みたいで可愛いですね(笑)。
また、アルコールはスコッチ、ジン、バーボン、コニャック、テネシーウイスキー、カナディアンウイスキーを・・・香りだけ味わいます(笑)。
我が家はお菓子の届け物が多く、高級クッキー、ロールケーキ、高級和菓子、ようかん、饅頭・・・甘いもの大好きな私にはたまりませんが、一切手を付けません。しかし、なぜこんなに来る^^;

水分もあまりとりません。朝にお茶、午後3時頃にコーヒーを飲みます。以前はペットボトルに水道水を入れて飲んでましたが、最近は持ってても飲まなくなりました。

体調は非常に良く、身体はよく動かします。
駅まで2kmありますが、重めの鞄を持ち、非常に速足で歩きます(下手に走っている人なら抜き去ります)。帰りも疲れはなく、身体が軽いです。
平日は、朝と夜に、それぞれ腹筋運動300回。食べ過ぎたと思ったら、さらに300回追加。休日は1000回以上です。
鉄アレイは2kg、4.5kg、8kgと用意しており、使い方も高校時代から研究していて、多様なトレーニングをします。

ダイエットに興味はないのですが、元々が大食で、意図的に逞しい身体にしていたこともあり、この4ヶ月で25kg落ちました。
180cmで94kgだったのが69kgになりました。数字以上に痩せて見えます。
106cmだった胸囲が96cmになったことはやや寂しいですね。しかし、無駄肉もあったのでしょう。

食事を抜くと脂肪が付くということも聞きますが、それは食べる量が多かったり、肉食等、脂肪の多いものを食べる場合と思います。
私はいまだ週1kgずつ減っています。もちろん、脂肪なんか付きません。
また、いわゆる健康の専門家を名乗る人にも、1日1食は薦めながら、夜は何を食べても良いと言う方もいますが、賛成できません。例え1日1食であっても大食したり、肉などの美食をしては意味がありません。ただ、老人であれば、少量であれば消化の良い肉食は悪くないかもしれません。

お腹が空かないかと言われると、当然空腹です。
食べたくはないかと聞かれると、ものすごく食べたいです。
しかし、空腹に耐えることが何より素晴らしいことだと思っています。
空腹に意思の力で耐えていると、自分を信頼するようになります。
また、普通の人が、食物の消化、吸収、排泄に使うエネルギーを脳に回していますので、思考力も上がるのだと思いますが、それよりも、これまで知らなかったような能力が出てくるように思います。ちょっと説明し難いのですが、情報制御能力とかいうもので、この場合の情報とは、現実世界の抽象度を超えたもので、この世を支配する縁起にまで及ぶものかもしれません。だから、このような能力を発展させると、世界を自在に動かせる可能性もあります。いや、おそらくこの世は意のままになると思います。そして、世界が自分の財産であることが分かってきます。

さて、いつまでこのような少食生活を続けるつもりかと言いますと、一生です。
大好きだったカレーライスやスパゲッティ、オムライス、焼肉、ステーキ、ハンバーグなどは一生食べないつもりです。
また、超大好きだった、チョコレート、ケーキ、プリン、シュークリーム、アイスクリームなども生涯食べません。
こう決めると、自分が死んだような気がします。いえ、世間に対しては、私は死にきるつもりです。
ただ、世界平和に大きく貢献した暁には、ラーメンとアンパンを食べたいという希望がいまだあります。未練がましいなあ・・・^^;

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2008.11.06

オバマ大統領を予感させた黒人の英雄達

バラク・オバマの大統領選挙戦勝利に、アメリカ、ひいては世界はついにここまで進歩したと感慨を深くする方も多いと思う。数十年前であれば、黒人のアメリカ大統領など想像することも不可能であったはずである。

だが、その伏線のように思えた出来事をあげるなら、1997年に、メジャー・リーグ・ベースボールが、ジャッキー・ロビンソンの背番号42を全球団共通の永久欠番としたことがある。
ロビンソンは黒人初のメジャー・リーガーである。ちなみに、ロビンソンをスカウトしたのは、イチロー以前にシーズン最多安打記録を持っていたジョージ・シスラーだ。
ロビンソンは確かに第一級のプレーヤーであったが、その背番号が全球団で共通の欠番となるほどの評価を受けたのには、当然にして、メジャー・リーガーとしてかなりの活躍をしただけでなく、人種差別と戦いながら、人格の高さによるアメリカ、ひいては全世界の進歩に貢献したからであろう。
ロビンソンがドジャースに入団した時、チームメイトすら彼と同じテーブルで食事をしたり、一緒にシャワーを使うのを嫌がったし、一緒にプレイすることを拒否してチームを去った者すらいた。また、地元のファンすらロビンソンに生卵を投げつけ、彼の家の窓ガラスを割るということすら起きた。
しかし、いかなる時もロビンソンは紳士的な態度を持ち続け、報復どころか文句ひとつ言わなかったという。
キング牧師の有名な言葉「私には夢がある。我々が肌の色ではなく、人格で判断される国に住みたい」は、僅かではあるが実現していった。チームメイトもファンも彼を慕いはじめ、評価し、遂には、彼の死後ではあったが、彼の偉大さが完全に認められ、彼の背番号42は全球団で共通の永久欠番とすることで、それを形にしたのだ。
日本でプレーするアメリカ人選手が背番号42を付けることが非常に多いのもうなづけるであろう。アメリカでは付けることができないのだ。
※ただし、ニューヨーク・ヤンキースのマリアノ・リベラだけは現在も背番号42を付ける。1997年に背番号42を全球団共通永久欠番に決定した際も、その時点でこの背番号を付けている選手から剥奪することはしなかったからだ。

プロレス界にも、「プロレス界のジャッキー・ロビンソン」と呼ばれた選手がいる。「黒い魔神」ボボ・ブラジルである。
彼はアメリカ人で、人種差別のない(と彼が思っていた)国ブラジルに憧れてこのリングネームをつけたという説もある。彼もまた、元野球選手で、黒人リーグでプレイしていた。
2メートル近い長身で、見事にビルドアップされながらも引き締まった素晴らしい肉体を誇り、テクニック、スピード、スタミナを兼ね備えた実力派であった。
プロレスの世界王者というものは、実は民間団体が認定するもので、早い話が、あなたもプロレス団体を立ち上げ、世界王者を認定すればそれが世界王座となる。このあたりは、プロボクシングのように各国の権威あるボクシング協議会が集まって運営される団体で認定される世界王者に比べいまひとつ頼りなく感じはするが、プロレスでも、認定団体が力を持てば自ずと権威も出てくる。そして、プロレス団体が力を持つとは、ファンに認められるということで、その意味、他のスポーツの国際的な権威ある競技団体で賄賂や不正の横行があってもすぐには浄化されないことよりは良い点もあるかもしれない。
ボボ・ブラジルは、1966年、ロサンゼルスの権威ある団体であるWWAの世界ヘビー級王座を獲得し、42歳で黒人初の世界王者となった。
その後も、1968年には、世界で最も権威あるNWAが認定するインターナショナルヘビー級王座をジャイアント馬場から奪取した。この王座は、史上最高のプロレスラーと言われるルー・テーズを讃え、NWAが初代王者に認定し、力道山がこれを奪取。後に空位となった王座の争奪戦が行われ、優勝したジャイアント馬場を王者に認定した。馬場は防衛記録を重ね、さらに、現役のNWA世界王者の挑戦を受けて防衛を果たすことさえ成功し、王座の権威を作ったと言われる。選手が王座の権威を作ることもプロレスの良いところと思う。
あまり語られないかもしれないが、ブラジルは黒人選手の地位向上に貢献したと思われる。彼は70歳を過ぎても現役を続けた。
ニューヨークのWWWFで活躍した彼は、1994年にWWF(WWWFは後にWWFと名称を変えた。更に後にWWEとなる)殿堂入りをした。
プロレス界にはジーン・ビッグ・ダディ・リプスコンプという、黒人レスラー史上最強と言われた選手がいたが、人種差別により事実上殺された(KKKが関わったとされる)。ブラジルにもその危険はあったのではないかと思う。

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2008.11.05

宋文洲さんの「心の支え」

夕刊フジBLOGに、ソフトブレーン会長の宋文洲さんの会社員哲学が連載されているが、非常に面白い。無料で読める。
現在は、30回 幸せは「家族」から生まれるが最新と思う。
宋さんは、「家族さえ居れば何とかやっていける」を心の支えに、これまで失敗や挫折を乗り越えてきたらしい。
そして、家族をかまわない、あるいは、かまえないのは、「人生経験が足りないから」とか、「大したことをやっていないから」ということになるらしい。
単にこの部分だけ取上げると反感もあるかもしれないが、宋さんの文章をちゃんと読むと、特に反発は感じなかった。

ソフトブレーンは2005年に東証第1部上場。
2000年に、ライブドアと同時にマザーズ上々した際、競走馬を買ったホリエモンに対し、「私は会社が赤字のうちに馬を買うようなことはしない」と言って、「ポケットマネーをどう使おうが勝手だ」とホリエモンに怒られたことがあったと思う。
宋さんは中国人である。ソフトブレーンを創業し、育てていったが、東証1部上場と同時に「いつまでも同じ人がトップではいけない」と、会長に退いた。まだ42歳だった。
私は2度ほど宋さんに会ったことがある。最初は、マザーズ上場前だったと思う。当時から、ソフトブレーンには、博士・修士の学位を持つ社員が多かった。宋さん自身、北海道大学で博士号を取得している。海外の優れたIT企業には、博士号や修士号を持つ社員が多く、それは必要なことであると宋さんは主張しておられた。
だが、私が、宋さんを「宋先生」と呼ぶと、宋さんは慌てて「そんな呼び方はしないで下さい」と言われた。終始、謙虚な態度の方だった。

「家族さえ居れば何とかやっていける」というのも悪いと思わない。
外国人が日本で起業するのは大変なことである。私も、友人の中国人が日本で起業したので、少しはその苦労が分る。
さぞいろいろ苦しいことがあったと思うが、その中で家族が居ることが支えになったと言うのであるから、真実味がある。
まあ、私には妻も子も妾も旦那もいないが(笑)。
ただ、宋さんの場合、いかに謙虚な人とはいえ、大成功者だ。かえって我々凡人にすんなり当てはめることはできないかもしれない。
では、ひきこもり気質でも何とか社会生活を営んでいる私の言うことの方が役に立つこともあるかもしれない。
それなら言うが(笑)、「食を節制していれば何とかやっていける」のである。
面白いことに、宋さんも食べることについては、「何かあっても、(家族が)ともに生きるという絆さえあれば最低レベル並でも不幸ではない」と書かれていた。
良い言葉である。あえて言えば、「最低レベル並でも不幸ではない」のではなく、「最低レベル並こそ幸福」なのである。
偶然に、特に若い時に最低レベル並の食事になった人は幸運である。
徳川家康も、最高の食事ができる身分になっても、質素な食事に甘んじた。
徳川吉宗は、粗食な上、当時の武士の風習に倣わず、1日2食だった(武士は3食で、庶民は2食が普通だった)。
水野南北は、食を節しさえすれば、運命は好転し、健康・長寿が必ず約束されると言った。
我々には、運命や、縁起は計り知ることは難しい。いくらかそれを解き明かす賢い人もいるのだけれど、なかなか思い通りにはいかず、苦しい思いもする。しかし、少食・粗食を実践しさえすれば幸福が約束されるというのであれば、その程度を実践してみるのも悪いことではないと思うのであるが如何であろう?
私はそれが正しいことを証明しよう。

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2008.11.04

給食を強制的に完食させる理由は?

小学生時代には給食があったが、特に最初の頃は食べ切るのにかなり苦労したものだ。
別に家で良いものばかり食べていたわけでも、家で食べ過ぎていたわけでもない。給食が不味いと思っていたわけでもないし、アレルギーによる拒否感があったわけでもないが、とにかく食べる気にならなかった。
特にパンは量が多過ぎてなかなか食べ切れなかった。

早い話が、給食に出されるだけの量を身体は必要としていなかったのだ。
食べたくないなら、例え理由が何であれ、食べる必要はないと思う。
それを、「食べ物を大切に」という高説を振りかざして、食べられないことに罪悪感を持たせるようなことは非常に良くない。

大食いのどこに美点があるというのであろうか?
子供のうちは少々大食いでも構わないとは思うが、少食であるに越したことはない。
大食いの子供と少食の子供を見比べると、少食の子供の方が清らかで美しい場合が多いかもしれない。
大食いでも良いが、大食いの子供にこそ、食べ物の大切さを教えるべきであり、少食の子供にそれを反省のために教えるなどもっての他である。

また、子供とはいえ、ある程度の年頃になれば、何らかの信条や信念から、食べるのをやめたいと思うこともあると思う。
例えば、アフリカなどで多くの餓死者がいて、その中には自分と同じかもっと幼い子供がいることを知り、せめて僅かでも苦しみを共有するために、給食の1回でも食べずにおこうとするなら、実に素晴らしいことである。しかし、学校ではまずそんなことを許さない。子供の健康を気遣っているということもあろうが、ほとんどは、国家および国家と持ちつ持たれつの関係にある食品業界の作った価値観の押し付けである。
私には、「マッチ売りの少女」のお話を読むか聞くかしたら、食事を抜こうと思う子供に何か欠陥があるとはとても思えないのである。

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2008.11.03

スーパーで修行する方法

私は、週末に母親と車でスーパーに買い物に行くのだが、いつも気になるのは、こちらは気楽に買い物なのに、タクシーやトラックに乗って仕事をしている人が沢山いることだ。
彼らだって、土日くらい休みたいだろうに、朝から晩、さらには深夜まで働く人もいる。
みんなが土日に休めるようになれば良いと思うが、休日に出かけるのにタクシーが必要な場合もあるし、荷物だって運ばないといけない。皆が彼らの労働に頼っているのである。
しかし、それでも申し訳ない気分だ。

スーパーでは、主に食料品を調達するのだが、食欲をそそる美味しそうなものでいっぱいだ。
いや、本当に実に美味しそうである。種類も多く、彩色豊か。思わず余計に買ってしまうのも仕方がない。
私など、1日1食で、その1食も、僅かな米と、豆腐や漬物や大豆といったところの少食・粗食で、大変に空腹な上、もともと大食で、身体の大きな若い超健康な男だ。恐ろしいほどにそそられる。そして、お金は十分にある。
しかし、涼しい顔で通り過ぎ、もちろん一切買わない。
辛いかと言うと、それでも、極寒の夜、薄着と裸足で、寒さと空腹と疲労に苦しみながら、暖かい暖炉とご馳走の並ぶ家々の様子をその窓の外から見ていたマッチ売りの少女に比べれば(この物語にはモデルがいるのだ)楽なものである。

買ったのは、一番安い豆腐とキュウリの漬物と大豆のおかず。そして唯一、甘いものとして食べて良いとしている金時豆(笑)。1パックを1週間に分けて食べる。最後の方では賞味期限は切れている(笑)。
母親の方は、好物の天麩羅をはじめ、大量の食品やおやつをカゴに無造作に投げ込んでいるが、今更改めさせるのも無理なので放っておく。もちろん、支払いは私だ(笑)。

今回もまた、軽い修行であった(苦笑)。

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2008.11.02

Way(道)

本日、届いた本です。
Way

Rubyというのは、コンピュータプログラミング言語です。
プログラマは、プログラミング言語でプログラムを作り、コンピュータに思い通りの処理を行わせます。
プログラミング言語は、全部でゆうに3桁を超える種類があります。
コンピュータプログラミング言語で、日本人が作ったものはほとんどありませんが、このRubyは、日本人のまつもとひろゆき氏が作ったもので、現在、世界的に注目されています。

さて、この本のタイトルが「The Ruby Way」であることに注目して下さい。
Wayとは道ですね。
この「道」というのは、どの国でも深い意味が込められています。
中国では道教という、老子や荘子の教えから発生した哲学がありますし、日本でも、武士道とか柔道など、この道という言葉には哲学的な意味があることは間違いありません。

この本は、翻訳書です。つまり、西洋人が書きました。
そして、「Ruby way」とは、合気道や空手道といった哲学と同様、Ruby道といった感覚で書かれたものであると思います。まつもとひろゆき氏も、翻訳書のまえがきにそう書いています。

もともと、コンピュータプログラマが、どのプログラミング言語を使うかについては、自分以外の選択に従うしかない場合もありますが、本来は自分の存在を賭けるような大問題で、当然、強いこだわりが出る場合があります。それも有能なプログラマほどです。
例えば、Lisp言語に強い愛着を見せるプログラマは特にそうだと言えます。
本書も、Ruby言語の哲学に深く共感する著者により書かれたものです。

まつもとひろゆき氏は、Rubyは、プログラマがプログラミングを楽しめるために作ったものであり、人々の生活を向上させることが目的であると言います。
あらゆる哲学の目的は、人類の幸福のためのものであるべきと私は思っていますが、Rubyの哲学もまさにそれであるわけです。

Rubyを使うのにお金は要りません。
Webプログラミングで最も普及しているPerlや、PHP、Pythonもそれは同じです。
それは、あらゆるプログラミング言語についての最近の傾向でもあります。
(マイクロソフトやサン・マイクロシステムズですら、全てではありませんが、多くのプログラミング言語を無料で公開しています)
もし、コンピュータプログラミングに興味があれば、誰でもすぐに取り組め、努力次第で相応のお金を稼ぐことも、自己実現することも難しいことではありません。

私も、ビル・ゲイツが昔パソコン用Basicを作ったことから始め、パソコンをこれほどに普及させてくれなければ社会で生きてはいなかったでしょう。
(よって、いまだBasicに愛着はありますし、実際に仕事で使います)
パソコン黎明期の英雄達には感謝するところ大であります。
そして、今はもっと条件の良い時代です。ニートの方も、嫌でなければプログラミングに取り組んでみてはいかがでしょう。
その際には、Rubyはお薦めです。私も、これからはRubyと思っています。

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2008.11.01

リン(白い家の少女)からのメッセージ

以前に買っておいた、「白い家の少女」のDVDを見た。
ジョディ・フォスターが14歳の時、1976年の主演作だ。
ラストシーンは彼女の表情をカメラは一度も外さずに延々と撮り続けた。
それを見て、彼女が現在、ハリウッドの大女優になったことが納得できた。

原作本も手に入れた(下写真の左側)。実はプレミアものである。
Littlegirl

この作品を見たことは、私にとっては、冗談のようなシンクロニシティの連続だった。

物語は、美少女リンの14歳の誕生日から始まる。
それはまさに、昨日、10月31日、ハロウィンの日だった。
そして、この私の誕生日もまた昨日であったのだ!

昨日、岡本太郎について書いたことを、リンもまた言った。
彼女は学校に行っていない。
「価値観を押し付けられるだけよ」
岡本太郎も、学校や教師の価値観の押し付けに徹底して抵抗し、授業中は指が痛くなるくらい、耳をふさぎ続けたのだ。
芸術家(詩人)であるリンの父親は言った。
「大人は個性的なお前を理解しない」
「必要なら大人と戦え」

DVDのパッケージには「ジョディが冷血な少女を演じる」と書いていたが、それは違う。
リンは暖かく繊細な少女だ。
もしリンが冷血なら、いや、僅かでもそれに近ければ、ラストシーンで彼女は笑っていたはずだ。
しかし、彼女の顔は悲しそうだったのだ。ジョディはそれを見事に演じた。
これは実に原作小説以上だった。

リンは、父親を愛し、尊敬し、信頼していたが、最後にその教えに疑問を感じたはずだ。
戦うだけではだめなのだ。
これは私へのリンからの無言のEpigram(エピグラム。警句)だった。
それはParagramme(パラグラム。フランス語)に私を誘い、Tangram(タングラム。中国のパズル)に挑ませるに違いない。
良いお誕生日プレゼントだった。

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