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2008.10.28

正しい生贄の奉げ方

台湾出身の米国の作家・事業家のチン・ニンチュウが、「成功するには何かの犠牲を必要とする」と書いていたが、それは当然と思う。
この世自体がそんなもので、何かを得れば何かを失うし、何かが増えれば何かが減るのだろう。
スーパーモデルになりたいなら、甘い食べ物を犠牲にする必要がある。それだけでなく、これまでは楽しむために使っていた時間とお金の一切をつぎ込んで自分を磨かなければならない。そのことをちゃんと理解していれば、普通はそこまでの犠牲を払ってまでスーパーモデルになんかなろうとは思わないはずだ。

古代に、生贄を捧げて天災を逃れようとしたのも、そんな増減の法則を適用しようとしたのだと思う。美しい処女の犠牲が、自分達の平安をもたらすと考えたのだろう。だが、どうもこれは対価の設定が間違えているように思う。
C.G.ユングが好きだったお話に、あるレイン・メーカー(雨乞い師)の話がある。干ばつが続く村で、有名なレイン・メーカーを招くと、レイン・メーカーはテントに3日こもり、4日目に雨が降った。人々が感動し、レイン・メーカーに「何をしたのだ?」と聞くと、レイン・メーカーは「何もしない。ただ、この村には神との調和が欠けていた。私は神と調和しようとしたのだ」と言った。

いったい、レイン・メーカーはどうやって神と調和したのだろう。
「何もしない」と言ったからには、行為としては何もしていないことが分かる。
何もせずに神と調和する方法が分れば、我々にも奇跡は起せるのだ。
何かを成し遂げようとするなら、それを阻害するものを省けば良い。
神と調和するのに邪魔なものは、心の乱れである。心が純粋であれば、それは落ち着き乱れない。心を純粋に保つには欲望を捨てれば良い。
レイン・メーカーは一切の欲望を絶ったはずだ。
では、どうやってレイン・メーカーは欲望を絶ったのか?

通常、このような神的な行を行う場合の決まりは断食である。
レイン・メーカーは、人間最大の欲望である食を断ったのだと思う。
普段から少食・粗食で心を研ぎ澄ませていたレイン・メーカーは、わずか3日で神と調和したのだろう。

儀式に挑む者がたらふく食べていたら、生贄など捧げても奇跡は起こらない。
それならば、たらふく食べている連中をまとめて生贄にすれば良いかもしれない。
少食の美しい乙女を生贄にするなどもっての他である。それは認識が誤っている。

イエスは神は商取引はしないと言った。
だが、食を節制して願うことは商取引ではない。なぜなら、食は命を養うものであり、それを節制するということは命をいくらかでも捧げることであるからだ。

我々にできる最も優れた犠牲は食の節制であり、食を減らせば願いは叶う。
水野南北も、願いがあれば食事を抜き、それを神に献ずれば良いと言った。実際に食事を神棚などに供えなくても、心の中で献ずれば良いとしている。
ただし、あくまで自分が食べるはずの分を献上しなければ意味がない。先程のように、罪のない穢れ無き処女を奉げても何の意味もない。つまり、自分はしっかり食べて、それとは別の食事を献じても願いは叶わない。

古代の人々が、美少女を生贄に捧げても達せられなかった奇跡は、自らの少食・粗食によって叶うのである。
ゆめゆめ疑うことなかれ。

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