偶然を支配するチカラ
時代劇の終盤で、調子の良い音楽が始まり、正義のヒーローがチャンバラを開始する場面になると視聴者はリラックスする。ほとんど微笑を浮かべるほどに。
当たり前の思考で言えば、最終決戦であるのだから緊張するはずである。しかし、そうではない。なぜなら、正義のヒーローの楽勝が約束だからだ。1度、正義のヒーローが不意に切られて負けるようなものを作っても面白いと思うが、おそらく視聴者の支持は得られないであろう。
では、ドラマの最後でなぜ正義のヒーローは確実に勝つのだろう?強いからと言っても、相手も強い場合があるはずだ。鍛え上げた人間同士なんて大差ないし、勝負は時の運とも言うくらいあてにならないものだ。しかも、味方の人数が敵を圧倒していればともかく、大抵の場合はその反対で、正義の味方側が圧倒的に少ない場合が普通と思う。
これはどう考えても非論理的だ。
もちろん、ドラマでは状況は製作者が決定するから勝つというのが当たり前だ。八百長の試合のようなものである(時節的に良くないかも)。
ところで、我々だって、自分の想像の中では、敵がいかに強く、大勢でも確実に勝てる。そりゃ、いったんはピンチにならないと面白くないだろうが(笑)。
想像上の戦いも八百長であるようだが、少し違う見方もできる。そしてそれは実際の戦いにも使えるものがあるかもしれない。
私は、バーチャルゲームが好きではない(ゲーム全般嫌いなのだが)。バーチャル戦闘ゲームもあるが、いくら豊富でもパターンは決まっており、そのパターンもゲーム製作者が考えたものだからだ。慣れてくれば意外性も何もない。
だが、空想上のバトルは無限のパターンがある。自分で考える限りね。
では、空想上のバトルで、なぜ自分が勝てるのか?
それは、状況を自分で作り上げるからだ。
そして面白いことに、空想上の戦いは負けることもある。敵と想定するものに対し、勝てない理由が自分にある場合だ。例えば、愛しくて仕方がない相手である。あるいは、負けたくなった場合だ。
私は「8マンインフィニティ」(七月鏡一原作、鷹氏隆之作画)という漫画で、「もう一人の8マン」ケン・ヴァレリーが「戦いを決する最大の要因は、速さでも火力でもなく、状況を生み出す強い意志だ」と言うのに感動したことがある。
そして、実際その通りだ。
状況操作能力こそ、あらゆるものごとの勝利の鍵だ。
状況を作り出すとはまた難しい話だ。それは、偶然を作り出すというようなものだ。
しかし、多くの天才的な芸術家、思想家、哲学者、あるいは理論物理学者が取組んだ巨大なテーマがこれだった。
ニーチェやイェイツは、結果として我々はそれ(偶然を作る)を行っていると考えていたと思う。
仏教には縁起という考えがあり、事象に働きかける要因が何かあると考えられていた。
南方熊楠は、宇宙の縁起の法則を南方マンダラで表現しようとし、まるでぐちゃぐちゃにしか見えない奇妙な模様を示した。
頭の軽い間抜けな連中が、「イメージすれば現実がその通りになる」とか言うが、実際にうまくいくかどうかはそれこそ偶然だ。早い話が、そんなことが本当かどうかは誰にも分らない。
しかし、長年、激しいギャンブルをやってきた者なら、なんとなくそんなものがあるのではと疑っている者も少なくないと思う。ドストエフスキーの「賭博者」など、奇妙なリアリティが感じられる作品である。いや、この作品には、偶然を操るヒントがはっきりとある。ギャンブルの素人の老婆が、頑なに0に賭け続け、最初は負け続けるが、遂には大勝してしまうのだ。しかし、再度のギャンブルでは老婆は全く勝てなかった。
いわゆるビギナーズラックであるが、そういうこともあるかもしれない(認知科学的には、素人が勝った場合、印象が強すぎて、実際より勝つ確率が高く感じるというだけのこととされるが)。
しかし、宗教人類学者の植島啓司さんの本(どれだったか忘れた。「偶然のチカラ」か「賭ける魂」かだったと思う)に恐るべきヒントがあった。ある1発勝負の達人ギャンブラーの話である。何でも無敗だそうだ。
そのギャンブラーが勝負をする条件は2つ。1つは、勝負者にとって負ければ破滅的な大金を賭けること。もう1つは、相手にコールさせることである。
私は1年ほど考え続け、「そりゃ勝つさ」という結論に達した。だが、そこには、論理で割り切れないものが介在する。それは自我と縁起の関係だ。
自我とは、「私は在る」という感覚だ。存在はbeeingであるが、existenceとも言う。これはecstasy(エクスタシ)とも似ているが、植島氏の本にも語源は同じとある。そして、エクスタシといえば、性的絶頂感とか、あるいは、宗教的な法悦を思い浮かべるが、両者は同じである・・・なんて言えば怒られるかもしれないが、ベルニーニの「聖テレサの法悦」という彫刻の、聖女テレサの表情は実に色っぽい。
そして、エクスタシには「忘我」という意味がある。
古代インド哲学の考え方でも、自我の消滅により真の存在が現われるのである。ラマナ・マハルシは、「私」が去ることで真の存在(真の自己)が輝くと言う。
結論を言えば、忘我、つまり、自我である私が去った時、縁起に働きかけることが可能となる。そして、自我を消すには、性的絶頂間のようなエクスタシの状態を利用することも有効かもしれないし、実際、宗教の中にはそんな方法を使うものも少なくはない。しかし、そのためには、非常に細かなルールの取り決めがないと問題が起こり、むしろ、宗教的な法悦をもたらす祈りや、ヨーガのクンダリーニヨーガや、気功の大周天といったテクニックの方が良いかもしれない。
だが、いずれの方法も、欲望がある限り自我が去らず、大抵はうまくいかない。
ケン・ヴァレリーは「状況を生み出す強い意志の持ち主が戦いに勝つ」と言ったが、その者に勝ちたいという欲望はない。即ち「無」である。無になりきれば不可能はない。
実は、これさえ押さえておけば、その方法は自分でわけなく見つけ出せる。人生とは、そのような役割のあるものである。
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