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2008.09.04

爆発の考察と芸術の真の目的

岡本太郎は「芸術は爆発」だと言ったが、その爆発とは破壊的なものではなく、「宇宙に向かって生命がぱーっと広がること」であるという。
いきなり言われても何のことか分からない。
そもそも、「生命」が「広がる」という状態、動作の意味が曖昧と言うより意味不明であるし、「宇宙に向かって」も、一体具体的にどこに向かうのか解らない。
「太郎、出て来い!」と言いたい気持ちも解る(笑)。

だが、おそらくは、私は理解できた。僭越ながら私が解説する。

岡本太郎は、パリ大学に留学し、哲学や民俗学を専攻したことと関係あるのかもしれないが、彼の祭りに対する考え方にヒントがある。
岡本太郎は、祭りを生命エネルギー補完行事と考えていたはずだ。
日常とは退屈な繰り返しである。エキサイティングな毎日を送るということは、死と隣りあわせであってこそ成立するものであり、人間が集団を形成し、未来への計画を持てるよう安全に過ごすためには、日常はかなりパターン通りとなるしかない。
同じことを繰り返す日常が退屈で、生命エネルギーを減退させるものである事実は、大昔からの人類の問題であった。それは小さな問題ではない。何か楽しみでも見つけないと、日常に飽き飽きし、無気力になったり病気を引き起こし、精神に歪みを生じさせ、自殺に至ることすらある。
祭りは、疲弊した人々にエネルギーを与え、次の祭りまで生き抜く力を与えているのだと岡本太郎は言った。この場合の祭りとは、激しく、荒々しく、場合によっては暴力的なものでなくてはならない。若い男であれば、生命の危険さえ冒して荒々しい祭りに勇敢に参加し、老人、女性、子供はこれを見て興奮する。特に若い女性の熱狂は祭りの高揚に欠かせないので、男はなるべく全裸が良く、それが無理なら、着衣は少なければ少ないほど良い。もちろん、女が脱いだって良い。いや、脱ぐべきだ。実際、昔の祭りでは、非常に猥褻なものも少なくなかったはずだ。

だが、文明が進むと、こういった激しい祭りが少なくなってくるし、色々な理由から元々祭りがなかったり、それに参加できないグループや個人も少なくなかったに違いない。いや、相対的に言うと、むしろ祭りに参加できる人の方が少ないはずだ。そうなると、エネルギー補充の有効な手段を持たない人々はやはり生きる気力を失くしてしまうのだ。
異論はあろうが、宗教というものは、その問題を克服するために生まれた。
人が意識を広げ、神という不可知ではあるが強大な存在と一体化することで新しいエネルギーを得ることが宗教の目的である。
だが、宗教は形骸化しやすかった。それが権威と結びつくことが多く、そうなると教えには、権力者に都合の良いように制限がかけられ、宗教本来の役割を果たせなくなる。
だが、ここで偶然なのかもしれないが、宗教に変わる役割を果たすものが現れた。それが芸術である。もともと、宗教には、その儀式などの精神的効果を高めるために美術が多用され、宗教美術という分野もあるくらいである。
コリン・ウィルソンは「芸術は宗教の下僕としてスタートした」と言ったが、まさに言いえて妙である。
芸術は美術にとどまらず、内的に発達し続けた。よって、表面しか見えない者には美術と芸術の区別が付かない。

ルーマニアの宗教学者エリアーデは「宗教はエクスタシーの技術だ」と言ったが、このエクスタシーが、エネルギー拡充の際の現象を言うのであれば、芸術こそがエクスタシーの技術である。そして、20世紀最大の詩人W.B.イェイツは「芸術はエクスタシーである」と断言している。
さて、エクスタシー(ecstasy)とは、忘我、法悦の状態であり、法悦とは神との合一である。しかし、一般的には性的絶頂感を思うかべることが多いと思うが、それは間違いではない。しびれるような快感こそ、我々に自己を消失させるもので、自己の消失とは死を意味することでもあり、死ぬことを逝くと言うことから、性的絶頂感や、あるいは、感情が高まりすぎて我を忘れることを俗に「イク」と言うのである。
そして、聖女の法悦の表情も、セックスで絶頂に達した普通の女の表情も同じである。17世紀のベルニーニの彫刻「聖テレサの法悦」で、まさに法悦に達したテレサの表情は実に色っぽいと言ったら怒られるかもしれないが、そう感じるのが自然なはずだ。

こうなると、岡本太郎の「爆発」は「エクスタシー」と同じと言って良い。しかし、言葉とは役立たずである。「爆発」と言い、「エクスタシー」と言っても、その深い意味を知らなくては岡本太郎の真意は解らないのである。

「爆発」とは広がるものである。岡本太郎が芸術の真髄を爆発と言ったのは、この広がるということが重要だからだ。
なぜ広がるのだろうか?
それには、「どこまで広がれば良いのか?」を問えば良い。
それは、一言で言えば「広く」だ。広ければ広いほど良い。空間的にも、時間的にも。
時間に関して言えば、未来に広がるばかりでない。過去にも広がるのだ。
岡本太郎は、「芸術は無限に広がることだ」と言っても良かったが、やはり爆発が良い。
ロマン・ロランが芸術の目的を「大洋感情」と言ったのも、広いということを例えて大洋と言ったのだと思う。岡本太郎は、爆発という言葉で拡大する動きのイメージにより躍動感を与えたが、ロマン・ロランのセンスもさすがノーベル賞作家である。
大洋ほど広がれば、小さな個我はない。すなわち忘我である。そして万物と合一していることを感じさせる。
個我が消失すれば、我々は世界と一体化する。死者は世界となる。死者は幸福だ。
ではなぜ、我々は世界と一体化せずに苦しんでいるのか?個我があるからだ。
古代インド哲学を体現した聖者は、我々の実体は個我ではないと言う。真の我々は、肉体も心(個我)も時間も空間も超えたものである。それは至高の存在である。
宗教や、芸術は、一瞬でも我々にそれを感じさせるものでなくてはならない。祭りやセックスに及ばないものでは全く意味はない。これらでは個我と完全に決別することはできないのだ。特に近代においてはそうである。

フロイトは大洋感情を、世界との一体感であることは認めていたが、リビドー(性エネルギー)の退行的な作用、即ち、母親との再一体化の願望と断じ、深い価値を認めなかった。実を言うと、フロイトは、恋人達の無上の一体感ですら、その本質はやはり幼児期の母親との合一を求める気持ちへの回帰としていたようである。真面目で優秀だがお堅い人はなかなか難しいものである。
だが、フロイトのエスについての考え方がうまく適用できる。
自我が消失しはじめると、意識の中の自我が占めていた部分にエスが流入するのである。エスとは大雑把に言えば生命エネルギーである。祭りで人々が生命エネルギーを拡充する原理はこれである。自我は分別や比較に必要なものであるので、これが消失すれば、世界と自分の区別が付きにくくなる。幼児は自我が少ないので、世界と自分の区別が付いておらず、この世の神であり王様である。幼稚な人間が尊大である理由は、幼児の段階に留まっているからである。

芸術家を名乗るのであれば、人々に世界との合一、個我の消失と真の自己の偉大さを感じさせなければならない。

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Comments

芸術はよくわからないけど、広がるとか聞くと放射思考を思い出します。
マインドマップがイメージに。
中心から、どんどん連想やアイデアが放射状に広がって…紙は大きければ大きいほどよいようです。
脳内を書き出したのがマインドマップだそうなので、シナプスの激しい結合かなぁ~?
このときは拡散(のちに収束で取捨選択)ですので、潜在意識(右脳とか、どの言葉が正しいかはわかりませんが)が活性化されてるかと。
神様=集合無意識とすると…一体になってる??

Posted by: hideto | 2008.09.04 at 10:24 PM

★hidetoさん
集合無意識は仮説ですからねえ。一般の心理学者はこれがあまり好きでないと思いますが、私は、まあいいんじゃないかと思っています^^;
イコール神かどうかは存じませんが。
理論よりも、爆発や大洋感情を直接体験することに意義がありそうです。

Posted by: Kay | 2008.09.05 at 09:53 PM

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