捨ててこそ
「全てを諦めた時に全てを得る」とは、幾人かの偉大な精神的指導者が言っているが、何かの聖典の引用かもしれない。
ニサルダガッタ・マハラジは、これと共に、「無限の代償は有限だ」と言ったが同じ意味である。
政木和三さんは、もっと分りやすく「欲望を捨てればこの世に不可能はない」と言った。
どれも同じ意味であり、真理であるが、では具体的に何をすれば「全て」「無限」「全能」が可能となるかというと分らないものであると思う。
限定的に考えてみれば分かりやすいかもしれない。
有名な空手家の大山倍達さんが著書に書かれていたが、「ケンカ必勝の秘訣は?」と問われ、半ば呆れながらであるが「命を捨てなさい。先に命を捨てた方が必ず勝ちます。ケンカでも」と答えている。
そこで、大山さんは、真剣を持った剣の達人と決闘した時のことを取上げている。大山さんの方は一撃必殺とはいえ素手。敵の武器は触れれば切れる氷の刃。勝ち目はない。そこで、大山さんは死んでやると思ったという。ただ、いかに剣の達人でも、手足全部を1度に切断することはできまいから、1本でも残っていれば相打ちにしてやると誓ったそうだ。その後のことは覚えていないというが、気が付けば、剣の達人はのびていて、自分は無傷だったという。
似たような話では、世界王座連続13回防衛の記録を持つプロボクサーだった具志堅用高さんが世界王者になった時の試合がある。世界王者グスマンの公開スパーリングを見た具志堅さんは、そのあまりの強さに戦慄し、「こんなやつと戦ったら殺される」と思い、試合開始前は恐怖に震え、試合開始のゴングが鳴った後のことは頭の中が真っ白になって何も覚えていないが、我に帰るとグスマンが目の前でのびていたという。
これらの話は、いささか誇張もある可能性があるが、彼らは巨大な壁を、秘めた力で打ち破る者の真理を表している。それは「命を捨てた」ことだ。
大きな勝負に勝つ最大の秘訣を「命を懸ける」「死に物狂い」などというが、正にそれをやっているわけだ。
ニサルダガッタ・マハラジは、よく「私は既に死んでいる」と言い、人を戸惑わせたように思うが、常にその状態にある者が覚者(悟りを開いた者)ということと思う。
では、凡人たる我々に命を捨てることができるだろうか?
可能である。
普通の人間にとっては、命を養うものは食である。その食を断てば命を捨てることとなるが、そこまでいかなくても、食を減じることで命を天に献じることになる。普段食べる量の半分を食べずにそれを心で天に献上すれば、いかなる願いも叶う。
これを勘違いし、自分が十分に食べた上で、別の豪華な食事を神に供えても何の意味もないのは当然である。
有名な話で、春日の局が、家光が重病の際、一生薬を絶つことを誓い、病の平癒を祈願したというが、これも限定的ではあるが命を捨てたことと同じであり、家光は奇跡的に回復した。しかし、本来は春日の局は、一生美食を絶ち、少しの粗食で通すと誓うべきであった。
昔から、地域、宗教を問わず、大いなる祈念の手段は断食であり、現在でもハンガー(飢餓)ストライキはよく行われる。
ただ、女優の細川ふみえさんが昔、秘密の願かけのため、大好きなチョコレートを絶ったという話があるが、いくら好きでもこれの効果はあまり高くないと思う。やはり、食全部を懸けないといけない。
願いを叶えたければ、食事を例えば半分に減らし(ただし食事の質を上げては意味がない)、当然、間食の一切をやめて、食べなかった分を心の中で天に献ずれば良い。食は人間最大の欲望であるから、それを節することで「全てを諦める」ことに近付き、「欲望を捨てた」と言えるのである。
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Comments
仏教にも喜捨という言葉がありますよね。
その言葉を知ったときは(一体何を捨てればいいの?)って思いました。
ダイエットの願望も、捨てたときに、ダイエットはかなうようで・・・わたしは成長して初めて、50キロを切りました。ヤッター!っていうより、ほほう・・・という感慨にふける。
でも、シンクロニシティが強くなってきたのか、試練なのか、ちょっとでも心が揺らぐと、待ってましたというように外出の必要が出て、さらに他人と食事する流れになってしまうみたいです。私自身がそっちに持って行ってるよな〜と、自覚してるんですが!以前は、ちょっと食事くらいして帰りたいわと思っても、なかなかタイミングが合わなかったのに・・・
Posted by: mikemike | 2008.09.13 09:56 AM
★mikemikeさん
神様は、本当に絶妙なタイミングで試練を与えてきますね(笑)。
ただ、それは認められている証拠かもしれません。
アインシュタインは「神は老獪だ。だが悪意はないんだ」と言いましたし、斎藤一人さんは「困ったことなんか絶対起こらない」と言いました。両方好きな言葉です。
私は、ごく若い頃、貧弱な身体付きだったので、プロレスラーのような身体になりたかったですね。180センチなら、100~105キロが目標でした。しかし、56キロしかなかったのです。
Posted by: Kay | 2008.09.13 11:40 PM
Kayさんも、絶妙なタイミングで人をほめることができますよね!見習いたいと思います。まとまった食事をとってみて、少食生活前後の体の変化などを実感することもあるなとは思っていました。同じ自販機のお茶を飲むにしても、旨味の感じ方が違ったり・・・。すごくゆっくり食べるようになっていたりとか。以前は一袋食べていたお菓子が半量以下で十分に感じたり。チョコレートはスーパービターが大好きで、よく買っていたのが、今は全く食指が動きません・・・
神は制約の倍の力を与えて下さるとおっしゃっていましたが、たしかに、2、3の執着が目に見えて落ち着いてきたのを感じます。
56キロといえば、去年の私の体重ですよ〜。筋肉は脂肪よりも質量があるらしいですよね!わたしも華奢さよりグラマー系(胸は無くてもよろし)がすきなのですが、効率を考えると今くらいが一番心地よいとおもっています。
Posted by: mikemike | 2008.09.14 12:18 AM
★mikemikeさん
少食にすると、いざ食べるとき、何でも本当に美味しいですね。かといって食べ過ぎるわけではなく、私もゆっくり味わって食べるようになりました。
私は、チョコレートは大好きでしたので、今もちょっと食べたいですね^^;
それとポテチも・・・^^;;
私も、見かけより重いと言われました。毎日牛乳を大量に飲んでウェイトトレーニングに励み、91キロまでいったことがありましたが、いたって軽快に動けました。プロレスラーになるには細すぎましたからね(笑)。
Posted by: Kay | 2008.09.14 08:30 PM