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2008.09.30

落ちこぼれの度合いは大きいほど良い

私は、本当に真面目に思うのですが、ひきこもりというのは素晴らしい可能性があると思えてならないのであります。むしろ、社会的に成功しているような人より、ずっと大きな幸福も待っているに違いないと思えてなりません。

現代の日本で成功している人というのは、例えば東大を出て官僚になるような人とか、事業で大成功してお金持ちになった人とかだと思います。
しかし、私が何度も引用した「ローム太霊講和集」という本のおかげで賢者となったと思われるU氏の著書に、「これら成功者は競馬で言えば馬である。競馬の主催者にはなれない」と書かれていたが、私の考えるところも全く同じです。

学校や会社で徹底的に落ちこぼれていた方が良い。まともな世間付き合いなんて出来ない方が良いのです。
これが二十歳なら、世間からも「まだまだこれから」なんて言われます。でも、30歳、あるいは、40歳で働いてもおらず、さらに働いたこともないと人間扱いされないかもしれませんが、実はこんな人にこそ可能性があると本当に思っています。別に妙な慰めでもありません。
こんな人というのは、上に書いた競馬の馬になることを拒否しただけなんですよ。
もっと具体的に言うと、我々に強制された、現代の社会の仕組みの中での落ちこぼれに過ぎないわけです。実際に、そんな人が一瞬で、幸福で強力な人間になった例なんて、実際にはかなりあります。ただ、あまり知らされないか、極めて特異で異常な現象であることにされるのです。なぜなら、そんなことが普通にあり得ることが分かると都合の悪い連中がいるからなんです。

私など、ちょっとマズい状況になりかけていました。現代社会の構造の中で、そこそこうまくやっていたからです。でも、基本的には、学校でも会社でも異端者、困り者、アウトサイダーではあり続けました。
世間的に見て、惨めであればあるほど良い。無価値であればあるほど良い。駄目であればあるほど良いのです。

ビートルスの「Nowhere Man(ひとりぼっちのあいつ)」という歌は実に奇妙ですが、神秘的です。ジョン・レノンの曲です。ひとりぼっちで、おそらくはひきこもりのダメダメ男の話です。でも、レノンは「僕や君のような男さ」と言います。そして言います。「ひとりぼっちの男よ。心配いらない。リラックスしろ。そのままでいい。世界は意のままさ」
レノンは、なぜこんな不思議な歌を作ったのでしょう。
今の私にはよく分りますが、単にこれが真実だからです。私は、昔、この歌を1回聞き、なぜかそれだけで憶えていたのです。きっと魂が反応したのでしょう。

でも、いかにひきもりでも、現代社会に洗脳されてはいます。それが証拠に、自分は駄目だと思っているひきこもりが圧倒的に多い。
ではどう意識を変えていくかですが、なんとかなると思います。慌てなくていいですよ。世界は意のままですから(笑)。

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2008.09.29

女性の年齢と美の種明かし

女性が一番魅力的な年齢はどれ位であろう?
原始的な部族では、それは10代の前半と認識されることも多いと思うが、これは精神的に未発達というよりは、女性が精神性を発揮できない状況にあるのではないかと思う。
女性がある程度自由で自己主張できる時代や地域では、17~18歳という年齢の価値が高いように思われる。日本でもちょっと前までは(あるいは現在でも)、男性は本音を言えばその年頃の女の子が好きなものであることは想像に難くなかった。

しかし、性的魅力となると、やはり身体的にもさらに豊かになり、出産の安全性も高くなる20代で更に高まるはずである。生物的に言えば、女性は男性を惹き付けて子孫を作る大きな役割があるので、性的魅力も必要であり、それで言えば、やはり出産に有利な年齢の魅力が最も高いと考えるのは自然である。

ところで、人間と他の大多数の動物では奇妙に異なることがある。
それは、大多数の動物では、性的魅力をアピールするのは雄の方である。雄は、身体の大きさ、美しさ、強さを必死で雌に訴えるが、選ぶのは大抵雌の方である。
心理学者の岸田秀さんが、「もし動物界にグラビア雑誌があれば、登場するのは男ばかりであろう」と著書に書かれていたが、なるほどと思う。

そして、もう1つ面白いのは、一番最初にあげたように、人間の男性は必要以上に若い女性を好むことが多いことである。
精神性といったものは、おそらくないであろう動物の世界で、例えば、大人の雄猫が雌の子猫を追い回すというのは考え難い。
しかし、古代から、王侯貴族の男性が極めて若い娘を好んだことはよく知られ、日本では聖人君子の代表のような歴史上のスーパースター聖徳太子(廐戸皇子、上宮王子)ですら、十代前半の幼妻が好みで、多く側室としている。
普通の男性であっても、無限の権力を与えたら、その多くは十代の若い娘を所望することは想像に難くは無い。
渡辺昇一さんは、歴史上の様々な制度は、権力ある男が若い娘を求めることが常識であるので、そんな男から自分の娘を守るために作ったものも多いということを書いていたが、この見解自体の是非はともかく、人間の男性が若い娘好きというのは事実であろう。
上記の意見が書かれた渡辺昇一さんの昔の本「知的風景の女性」に面白いエピソードがある。ある大学でパーティーが行われたが、男女ペアでの参加が必要であった。しかし、ある男子大学生は適当なパートナーが見つからず、16歳の従妹で間に合わせた。ところが、彼女が入ると、女子大学生がほとんどおばさんに見え、惨めなほどであったという。
この16歳の女の子がたまたま大変な美少女であったというだけかもしれないが、そんなに納得できない話でもない。人気男性シンガーのコンサートで、女子中高生に混じってしまうと、女子大生が完全におばさんという話は現実味を伴ったギャグである。

ただ、男性が若い娘を好む場合ほどありふれてはいないが、男性が非常に年齢の高い女性を好ましく思い、強い魅力を感じる場合もある。では、このような男性は、非常に精神性が高いのかというと、そう思えることもないではないが、実際はあまり関係ないのではないかと思う。
極めて若い女性を好むのも精神性なら、逆に高い年齢の女性を好むのも精神性である。人間以外の動物には見られないことであるからだ。

では、このあたりで種明かしをしよう。
人間の男性がどんな女性を好むかは、年齢も身長も体形も髪型も目の大きさも、その他の様々な要素も含め、全て幻想が為せる技だ。幻想がそうさせているのであるから、論理的な理由なんて絶対に無いのである。
それが証拠に、同じ時代、同じ地域の男性の好みは極めて似通っている。現代の男性の好みは、テレビの男性向け女性タレントや女性アイドルを見れば分るが(女性向け女性タレントはまた別種類である)、いまや、日本全国で一般男性の女性の好みなんて似通っているのだ。
同じ時代、同じ地域の男性は似たような幻想を持つし、メディアや情報技術の発達した現代では、よりワイドなエリアで同じような幻想を持つ。それだけのことである。
もちろん、いわゆる「変わった好み」を持つ男女もいる。それは、彼ら彼女らが、このことに関しては一般大衆とはやや異なった幻想を持っているだけである。
吉本隆明氏の「共同幻想論」によると、人々の間の一般的な幻想は共同幻想と言い、家族や恋人間での幻想を対幻想、個人的な幻想を個人幻想と言う。個人幻想が共同幻想と著しく異なっていれば、変人、狂人とみなされたり、あるいはシャーマンや巫女の役割を得ることもある。

人間以外の動物は幻想を持たない。フロイトによると、人間は本能が壊れているので、その代替物として心を作ったが、心は自然に立脚したものではない幻想であると言う。
私は人間の本能が壊れているのではなく、高度な神経が本能に強い影響を与え、その発現のパターンを複雑にするのが幻想だと考えている。
それはともかく、異性の好みに限らず、人間の好みなど、単なる幻想なのである。
だが、それをうまく利用すればお金持ちになることもあるし、教祖様になれることもある。
大切なのは幻想を逃れることだ。
イスラム教のことは知らないが、キリスト教は幻想による不幸を免れる教えだと思うし、仏教や、その基となったヒンズー教は幻想を逃れる教えであると思う。
宗教だけで幻想を滅ぼすことは難しい。心理学や精神分析学ではほとんど不可能である。よって、宗教家や心理学者、精神分析学者、あるいは哲学者の結論はいつもこの点において敗北を宣言する。さらに、宗教を超えた役割を担ったはずの芸術でも、ほとんどの場合、全くの役立たずであった。しかし、神経科学はその可能性を持つに至ったと思う。
これらを統合したものにより、いまや我々は幻想を超える可能性を得たはずだと私は思う。

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2008.09.28

ひきこもりが社会でやっていくために必要なこと

さて、ひきこもりに対する最も良い支援とは何でしょう?
ところで、先に言っておきますが、これはひきこもりに限らず、誰でも当てはまる話です。ひきこもりでない人間など実際にはいない。対人恐怖を感じない人間など存在しないというのが私の持論です。

お金とするなら、国が支援するとして、1人あたり月10万円も無理でしょう。しかも、月10万円ではやっていけません。また、仮になんとか食べられても、かえって生きがいをなくし、無気力となるか、逆に精神に異常をきたし、犯罪を起しかねません。

では、カウンセリングでしょうか?
これもちょっとです。まず、ひきこもりは治りません。なぜなら、ひきこもりは単なる個性であり、治すとか治るといった性質のものではありません。ひきこもりが、明日は笑顔で全ての人とジョークを交えながら楽しく快活に話し、普通の人と仕事や生活をしているなんてことがあるはずがありません。

就職のサポートでしょか?間違いではありませんが、問題もあります。
ひきこもりが普通の会社に就職して楽しいことはありません。私の経験からも確かですが、まず必ず孤立します。そして、一部の人間からは目の敵にされ攻撃されます。その相手が上司や社長であれば大変ですし、男性の場合、女子社員が相手だと色々不都合があります。これは、ひきこもりによほどの実力がある場合でも解消されません。

最も良いのは、ひきこもりがひきこもりのままで、現在であれば少なくとも月に30万円くらいのお金を楽しく充実感を得ながら稼げるようにすることです。
稼いだことのない人にとっては、月30万円は多く感じますが、これは1人の人間がちょっと贅沢するにも足りません。家族を養うなら、50万円でも十分とはいえません。日本は、ただ住むだけでもお金のかかる国です。しかし、工夫次第では30万円でも楽しく暮らすことは無理ではありません。
とはいえ、ひきこもりでも何とか勤まりそうな夜警の仕事なら、月にせいぜい16~17万円です。
アフィリエイトで稼ごうなんてまさに夢物語です。月に数千円稼げたら極めて良い方でしょう。
ネット株取引はどうでしょうか?資金があり、ビジネス経験が豊富な上、毎日、経済紙を含め数種類の新聞のビジネス・経済欄を隅からすみまで読む人でないと無理です。
ドロップシッピングも、よほどのビジネスの経験と才能、そしてエネルギーのある人でないと儲かりません。そもそもこれは、一般参加者を設けさせる仕組みではありません。
情報商材は、まともには儲かるはずがなく、間違って儲けたら良心の痛みで人生を棒に振ることとなるでしょう。

本来、ひきこもりが向いているのは職人です。しかし、日本の優れた職人は、必ずしも弟子の教育がうまくなく、大方の場合、弟子には理不尽なまでの我慢が求められます。それを乗り越えることには大きな価値がありますが、大半の優れた職人に後継者がいない現状を見ても分かるとおり、それは現実的ではないのだと思います。

しかし、ひきこもり特有の他人を恐れる性質は、分をわきまえるという極めて優れた性質とも結びつき、これを活かせば実に素晴らしい戦力となります。また、ひきこもりは自己を反省する能力や深く考える能力を持つ場合が多く、知的にはむしろ標準を上回ると思います。
才能と時間があれば、芸術家や文筆業に向いているかもしれません。しかし、これらの分野で成功することは難しく、時間もかかり、成功するまでの経済的支援をどう得るかが現実的な大きな問題です。邱永漢も言ってましたが、ヒモになるとか、女に食べさせてもらうというのも立派な才能ですが、これはひきこもりには、難しいことです。
ただ、日本最高の思想家、吉本隆明さんが著書「ひきこもれ」にも書いていますが、文筆家を目指すなら、10年間書き続けることで必ずなれると言います。書けなくても書こうとすることが肝心なのだそうです。10年は長いように思うかもしれませんが、実際は一瞬です。だからこそ、今、行動を起こす必要があります。

確実なことは、ひきこもりは普通の人の真似をしては絶対に駄目だということです。仮に会社に勤めるなら、極めて特殊な立場になれる必要があります。つまり、普通の社員なら絶対的義務であることも無視できる立場でないと務まったりしません。でないと、総務や経理とコミュニケーションしないと駄目な各種手続きの段階でまいってしまうことでしょう。

さて、ではどうすれば良いかですが、まさか私が言う一言二言で全て簡単に解決するはずがないということをまず認識する必要があります。
ひきこもりがやっていく上で欠かせないのが、特殊能力です。特殊能力とは言っても、大学や大学院で長期間研究しないといけないとかいった類のものではありません。他人に出来ないことであれば良いのです。私は、このメリットを深く感じながらいままでやってきました。
話は長くなりますのでまたの機会に持ち越しますが、ひきこもりが社会でやっていく鍵は特殊能力であること間違いありません。ちなみに、私の場合で言えば、最初はカメラの知識でした。その後、コンピュータプログラミングとなり、結局はこれでやっていけるようになりました。現在は次を目指しています。

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2008.09.27

奇跡が起こる時

昔、「だぁ!だぁ!だぁ!」という川村美香さん原作のアニメの第1回を見て、これが男だなあと甚く感動したことがあります。
中学2年生の未夢(みゆ)は、両親が念願の仕事をするためにアメリカに行くことになり、女の子の1人暮らしも問題なので、母親の学生時代からの親友の嫁ぎ先である大きな御寺に居候することになります。
その母親の親友は既に亡くなっているのですが、その旦那であるお坊さんとは親しくしていたのでした。
14歳の未夢は、全く子供というわけでもなく、両親の夢も大切だと思うので、両親の言うとおりにしようとします。ところが、その御寺に不測の事態が発生します。御寺の主人である、未夢の母親の親友の旦那が急にインドに修行に行くことになったのです。このお坊さんには息子が1人いました。未夢と同じ年です。未夢は、まさか同い年の男の子と2人で暮らす訳にもいかず困りますが、他にどうしようもありません。その男の子は、ハンサムで勉強もスポーツも出来、性格も良く、女の子に人気があるのですが、そこは女の子に不慣れな中学2年生。それに未夢が可愛い女の子だということもあり、どうしてもぶっきらぼうな態度となり、ついついケンカになってしまいます。急に両親がいなくなった寂しさ、パニックな状況、居候先のただ1人の相手はいじわるで不親切(と思った)。未夢はやりきれずに、出て行こうとします。もう夜でした。
その時、その男の子は驚くべきことをします。「お前が出て行くことはない。俺が出て行く」と言って、本当に自分が出て行きます。自分の家ですし、出て行って何かあてがあるわけではないのですが、他に行くところがないのは未夢も同じ。なら、男である自分が出て行くのが絶対正しいという、彼にとっては当たり前のことをやっただけでした。
そんな時ですね。奇跡が起こるのは。このアニメ(あるいは漫画)でもそうだったようです。宇宙人の赤ん坊と、そのベビーシッター(大きなネコのような外見)が突然現れ、3人と1匹がこの御寺で同居することとなります。
アニメ(あるいは漫画)ではありますが、この世の決まりごとがうまく表現されています。信念を持って、ただ前に進めば、何事も自然にうまく流れていきます。もう絶対駄目だと思っても、開き直って、やれることをやれば、後で考えれば不思議にうまく行っています。
どんな状況でも、何かやれることはあります。それをやればいいんだなあと思います。
「だぁ!だぁ!だぁ!」より昔の、武内直子さんの有名な漫画・アニメ「美少女戦士セーラームーン」に、セーラームーンの恋人であるタキシード仮面という人物が出てきます。このタキシード仮面は凄まじい戦闘力を持つというわけではないのですが(かなりやりますが)、なかなか知恵があります。彼は、原作の漫画の中で「我々は、我々に出来ることをやろう」と言ってましたし、アニメでも大ピンチの時、「俺たちの信じることをやるんだ」と言います。さすが大ヒット作品です。
1996年のウルトラマンシリーズの人気作品「ウルトラマンティガ」で、ダイゴがティガであることを知ったレナにダイゴが言います。「僕は人間だから、自分に出来ることをやるだけだ」。今年、ダイゴ役のV6の長野博さん主演でまたウルトラマン映画が公開されましたが、やはり良い作品にはポリシーがあるのかもしれません。

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2008.09.26

夜明け前の暗さを恐れるべからず

私が少食生活を始めたのは、主には江戸時代の観相学者、水野南北の「相法極意修身録」を読んで非常に納得したからであるが、それは、これまでに読んだ数百冊以上の書籍や社会経験その他からも、絶対に正しいことであると思えたからでもある。しかし、何より、私が人生思うようにいかない原因の核心もそこにあるように思えたからだ(笑)。
それで、水野南北も断言した、食を厳しく節制することで、あらゆることがうまくいくことを何度も書いているが、ひょっとしたら、その意味を「食を節制したら、お金が自動的に入るようになる」「割の良い仕事が不意に見つかる」「勤務先での待遇が急にぐっと良くなる」「素敵な異性がアプローチしてくる」といった、昨今流行の幸運術の宣伝文句のようなことが起こると誤解されることもあるかもしれない。
そのような場合もないではないが、その全く逆になる場合も多いはずだ。すなわち、「会社などで不遇になり、左遷、退職に追い込まれる」「思わぬ出費が発生する」「恋人と別れる」「体調を崩す」などが起こることもある。
これは、より高い目標がある場合に起こりやすいと思う。
だが、心配無用である。それをいかに平然と乗り越えるかが大切で、そうすることで、その次は間違いなく大飛躍する。
これら、一見悪い事態を、神の試練と見ることもできるが、実際、少食にして精神が研ぎ澄まされると、「私を試練に導け」という強い想いも生まれてくる。
しかし、何が起こっても、あなたが困ることはない。
私が、斎藤一人さんの教えで最も好きなのは、「困ったことなんか起こるはずがない」である。何か起こって、それを困ったことと思わないようになれば、現実は一瞬で変わる。
この世に偶然はない(ある意味、全て偶然とも言えるが)。
だが、決して全ては神の思し召しとして受容するのではなく、神の振った無限の目を持つサイコロが示すものを自らの意思とすることで神に限りなく近付くのだ。

「だから予期せぬ出来事でさえ、私が望んでいたことなんだろう」
~Up Side Down(歌:井上昌己、詩:古賀勝哉)アニメ「怪盗セイント・テール」エンディング曲より~

「偶然は密かに仕組まれた、いっそ必然?目の前に今晒された不覚に歪む感情」
~Re-sublimity(詩、歌:KOTOKO)アニメ「神無月の巫女」オープニング曲より~

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2008.09.25

ひきこもりよ、馬鹿をやれ

ひきこもりとニートは違うが、働いていないならいつかは働かないといけないことは間違いない。
ところで、ひきこもりは非常に良い地点にいるとも言えるのだ。それは私の経験からも言える。
なんといっても、ひきこもりは、まともな、きれいなコースから外れている場合がほとんどだ。実はこれが良い。
つまり、まともな就職活動をして、入社試験を受け、面接では本当は思ってもいないことを平気で喋り、首尾よく入社できたら入社式が行われ、新入社員歓迎会までやってもらう。
そして、その会社の常識という幻想にどっぷり染まって過ごすのだ。
そんなつまらないことを経験せずにすむのだ。
そして、宇宙人ジョーンズではないが、「ろくでもないすばらしい」仕事を経験できる。それは、世間的には馬鹿げた、滅茶苦茶な、無茶な、妙な、変な仕事かもしれないが、素晴らしい思い出として、人生の宝になる。
ビートたけしさんも言っていたが、大学をやめて本当に馬鹿をやっていたが、そんな楽しいことを経験できたことの貴重さを強く感じているようだ。
私もひきこもった後、世間のことを何も知らず、誰も教えてくれずに働いたおかげで、本当に変わった経験ができた。
小学校から大学までには、何1つ楽しい思い出などないが、働き始めた頃のそんな馬鹿なことを懸命にやっていた時代がまさに青春だったと思う。それは、つまらない大人にルールを決められた勉強やスポーツをがんばったところで絶対に得られない類の経験でもある。
そんなことは、別にいくつになってもやれるとは思うが、やはり体力はあるが自負心がさしてない若い頃の方がやりやすい。
是非、馬鹿をやって、人生の宝である、本当に素晴らしい体験をして欲しい。

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2008.09.24

天使も惹き付けるお話

一目で惹き付ける印象的な人になれ・・・って、アンタはどうなのかと言われると、まあ、サッパリなのですが・・・^^;
しかし、気のせいであるのだろうが、妙齢の美女でも、可憐な乙女でも、目が合うとじっといつも見つめ返されるのだ。え?それは気のせいだって?だから、分かってるって(笑)。

新渡戸稲造の有名な「武士道」の中の話だ。ある武士が、たまたま見かけた町人の男に惹き付けられる。別に妙な趣味ではない(笑)、ただ、その武士は修行を積み、人を見る目のある者と思う。
その町人の男は、一見、何の変哲もない平凡な庶民である。しかし、目付きが違う。
武士は男に「お前は何者?」と尋ねる。
男は「お吸い物」と答えたのではなく(寒・・・)、ただの町人であると言う。しかし、もし自分が他の者と違って見えるのであれば、心当たりはあると言う。それは、自分は子供の頃から大変に臆病なので、それを治すため、夕暮れ時に毎日墓場に行くことにしていると言う。当時の墓場は現在の爽やかな霊園と違い、さぞ気味悪かったと思う。そこへの日参を毎日欠かさなかったのだ。しかも夕暮れ時にである。
新渡戸は、何かを感じ取ったのだろう。毎日必ず行う、一種の行のようなものが人に与える不可思議な力があるに違いない。新渡戸も何かしようと思った。熟慮の上、行水と決めた。偉大な人間は間違いなく意志が強い。新渡戸は、風邪で熱がある時も、必ずやると決めたからには行水を欠かさず、医者に怒られたという。

毎日欠かさず行う行。それは小さなことであるかもしれないが、偉大な人物に共通する習慣である。我々もやらない手はない。
昔、私は、ビートルズもやっていた(リンゴは一生やっていたらしい)TM(超越瞑想)という瞑想を毎日やっていたが、朝鮮国籍の社長さんに「1年365日、欠かさずやれたら大したものだよ」と言われたことがある。まあ、それは3年くらいでやめ、TMの創始者でビートルズも指導したマハリシ・マヘーシュ・ヨーギも今年亡くなった。
私は今は、意志の力をもって1日1食を実施しているが、これを続けようと思う。そして、富豪になったらラーメンとカツ丼を食べるんだ(笑)。

私の知る良い例では、「ローム大霊講話集」(霞ヶ関書房)を、著者の1人から「ボロボロになるまで読め」と言われ、10年以上かけて、本当にとじ糸まで取れてボロボロになった本をその著者のところに持って行き、弟子入りを願ったら、「その必要はない。友人になってくれ」と言われたというものがある。私の知る限り、同書は仙人になる法を正しく述べた唯一の書だ。最近、またAmazonで販売が行われている(絶版状態だったと思う)。

毎日の行を続ければ、可憐な乙女も惹き付けるさ(笑)。
尚、これはエステなどで作った見掛けの美しさではない。まあ、身体だけ目当ての安い男ならいくらでも惹き付けると思うが。

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2008.09.23

不幸を作り出すもの

以前にも書いたことだが、重要なことなので再度書こう。
コリン・ウィルソンの「超越意識の探求」(学習研究社)という本がある。非常に面白い本だが、人によっては小難しすぎるという方もいるだろう。
私は、この本で最も重要と思うのは、なんと「あとがき」だ。
シド・バンクスという大変な賢者のお話だ。
シドは、元々は、引っ込み思案で臆病なダメ男だったのが、一瞬の体験で別人に生まれ変わった男だ。
シドが「俺はなんて不幸なんだ」と言った時、友人が「君は不幸なんかじゃない。自分でそう思っているだけさ」と言った。たったこれだけのきっかけで彼は生まれ変わる。
ウィルソンは解説する。ほとんどの不幸は自分の否定的な思考で作り出しているだけだ。

もし自分が不幸だと思うなら、自分でそう思っているだけだと考えた方が良い。
もしそれが難しいなら、斎藤一人さんが言われた「困ったことなんか起こるはずがない」ことを信じて欲しい。こう言われて、いきなり信じられないなら、斎藤さんの著書「変な人の書いた成功法則」(総合法令出版)を読むと良い。だが、この本、安価な文庫本が廃版となり、高価なハードカバー版になってしまっているが、まあ、元は十分に取れる^^;

まあ、それよりも、少食、粗食を実践しながら、「私は不幸なんかじゃない。自分でそう思っているだけだ」という意味をとことん考えた方が良いかもしれないと私は思う。

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2008.09.22

不食のジョナサン

リチャード・バックの「かもめのジョナサン」といえば、タイトルくらいは知っている人が多いと思う。1970年代に大ブームを引き起した世界的な小説で、現在でも根強い人気を持つ。著者は、「星の王子様」のサン・テグジュペリのように飛行気乗りでもある。
かもめといえば、これも人気のある鳥の1つと思われ、アニメで美少女の近くを優雅に飛ぶ様なシーンも多い。しかし、実際は肉食性の強い、かなり気の荒い鳥であるらしい。
また、カモメは、群れて生活し、雑食で何でも食べ、ゴミ漁りもやるが、人が撒くパンやお菓子に群がることでも親しみがあり、「かもめのジョナサン」でも、ここらの性質はうまく利用している。

「かもめのジョナサン」では、若いかもめであるジョナサンのいる群れは、漁船からばら撒かれるパン屑を争って奪い合うことのみを目的として生きていた。
だが、ジョナサンはそんな生活に疑問を持つ。かもめはもっと可能性に満ちた存在のはずだと。ジョナサンは一羽、曲芸飛行の練習に明け暮れた。だが、そんな彼は、両親から困った息子としてしか扱われない。「かもめらしく生きろ」「大人になれ」「食べることが一番大事なんだ」とたしなめられる。それでジョナサンも、1度は他のかもめの真似をして、ぎゃあぎゃあ叫びながら漁船の近くを飛び、パン屑をキャッチするが、馬鹿らしくなってそれを他のかもめに投げると、曲芸飛行に戻る。そして、ついにかもめの常識を超えた素晴らしい技を習得し、達成感と自信を得る。
しかし、ジョナサンが群れの仲間から理解されることはなく、群れを追放される。

最初のあたりのお話はこんなものであるが、面白いのは、かもめ達の人生唯一の目的が食べることとされていることだ。人間も同じである。なんだかんだ言っても、食べるために生きているのである。そもそも、生活することや働くことを「食っていく」と言うだろう。
スポーツでも、プロ野球の良い投手の投球を「メシが食える球」と言うくらいだ。

しかし、ジョナサンは食べなかった。やせ細った身体で曲芸飛行に挑み続けた。
そしてかもめを超えたのである。
我々も食べることをやめることで人間を超えることができる。
我々もまた、この小説のジョナサンのように、「食べることが一番大事だ」と信じ込まされてきたのだ。だが、それがおかしいと感付き始めている。
日本もアメリカ同様、物心付いたときから「食べろ!もっと食べろ」「美味しいものを求めろ」「美味しいものを食べることが人生最大の喜びだ」「食べない人生に何の意味がある」と洗脳され続け、食品業界や外食産業を潤わせてきた。結果、アメリカでは肥満が増えると共に、無気力に人生を送る者が多くなり、今度は精神科医やカウンセラーが儲かることとなった。日本もそのようになりつつある。

ヴァーノン・ハワードの本にこんな話がある。
カラスが鷲にトウモロコシを売りつけようとする。トウモロコシは素晴らしく、これがないと寂しくて哀しくてやっていけるはずがないと鷲に信じ込ませることに成功する。鷲達は競ってトウモロコシを求め、それを食べるためにだけ生き、飛ぶこともなくなった。
その中で、ある鷲は気付いた。何かおかしいと。その鷲は翼を広げてみた。十分に飛べると思った。そして空に舞い上がり、鷲として生きるようになった。

我々も同じだ。「美味しいものを食べないなんて、なんて馬鹿げた人生なんだ」「美味しいものを食べないのは損をするということだ」「人生は美味しいものを食べるためにある。他にどんな楽しみがあるってんだい?」と言われ続け、お腹が空いてもいないのに次々食べ、さらに、食べもしないものまで買うのだ。

以前、ワーキングプアの特集番組で、仕事に恵まれない派遣社員の女性が、食パンを買って冷蔵庫で保存しながら、少しずつ食べて食いつないでいる様子を見せていた。その食パンを食べる様子も見せていたが、マーガリンもジャムも付けずに食べる惨めさを表現したかったのだろう。彼女も確かにマズそうに食べていた。しかしおかしい。本当に空腹なら、食パンのような美味しいものを、もっと楽しそうに食べているはずだ。この女性もまた、贅沢で美味しいものを食べることこそ良いことだと思っているのであろう。

何年も前のことだが、中国から妻子ある45歳の男性が日本に来て、博士号を目指して勉強しているというドキュメンタリー番組があった。中国では、大学で学ぶのに年齢制限があるからだ。この男性は、レストランの床掃除などで生計を立てているが、当然貧しく、毎日、カップラーメンと安いパンばかり食べていた。ある時、それで体調が悪くなり、「大決心」をしてサンマの缶詰を買い、汁も残さず美味しそうに飲み干していた。
しかし、痩せていなかったなあ。体調が悪くなったのは、粗食のためであるかは疑問だ。
しかし、彼の12歳の娘さんが可愛かった。クリスマスに、彼は全財産の1万円を銀行から降ろし、外でこの娘と待ち合わせをする。しかし、彼はちょっと立ち寄った書店で学術書に夢中になり、寒い中、外で娘を1時間も待たせる。しかし、娘は文句1つ言わない。そして、2人は文房具屋に立ち寄り、父親は欲しいものを選ぶよう言うが、娘は、シャープペンシルの芯と消しゴム以外を手に取らない。これが彼女のクリスマスプレゼントというわけだ。
その後、2人は食事をするが、彼はラーメンを、娘は堅焼ソバを食べただけだった。
この娘さんは、可愛いだけでなく明るかった。「神様は夢に向かって努力する人を見捨てたりしないわ」と言う。
だが、彼は博士号の試験に落ちる。そして、不屈の根性で次の年に再度挑むがダメ。しかし、ラストチャンスの次の年に見事博士号を取得し、中国の大学の助教授の職を得て、一家は中国に帰る。

たらふく食べて感動的な勝利を得た者はいない。
逆に、食べないことで我々は勝利を得る。食べても得られた勝利は長続きせず、かえって不幸な結果を招く。
望みがあるなら、空腹に耐えてがんばって欲しい。
水野南北は、3食のうち、1食を食べずに心の中で神に献じながら願えば、小さな願いで1年、高名になるなら10年で必ず叶うと「相法極意修身録」に書いてあった。
それはおそらく本当であるが、何より、食べずに願えば、欲深な願いであれば忘れるだろうし、そうでなければ気力が充実し、生きることも楽しくなるだろうと思う。

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2008.09.21

私がラーメンとカツ丼を食べられる条件

粗食、少食が、長期に渡る幸福のための絶対条件であることを疑わないが、かといって、私は他人には、私のような1日1食で、その1食も食の細い乙女のお昼のお弁当より少ないといった極端なことをお薦めする気はない。
ではなぜ、私がこのような極端な少食にするかというと、ほどほどに節制するといったことができそうにないからだ。例えば、焼肉を食べに行って、ほどほどでやめるなんて芸当は私にはできない。絶対に食べ過ぎるはずだ。それだけ私の食に対する欲望は本来は非常に大きいのである。
また、95歳の現役医師として有名な日野原重明さんは、数多くある著書の中で「間食は果物にしろ」「油は多少必要だが砂糖はダメ」なんて書いているが、私はケーキやチョコレートは大好きであるが、果物は食後なら多少食べるが、いきなりリンゴやミカンを出されても食べる気にならない。つまり、日野原さんは医者として正当なことを言われているのだろうが、私には無理であり、それなら、最初から間食は一切せず、砂糖はもちろん、脂っこいものは全く食べないようにしているのである。

私がその教えに心酔する水野南北にしても、運命の全ては食の節制で決まると断言はしても決して極端な少食を薦めるのではなく、あくまで一般民衆として常識的な範囲での食の節制を薦めているのである。

その他から考え、私には普通の人間としての幸福は諦めた方が良いように思える。これは言うまでも無く、普通の人より上であるのではなく、逆に人間になれなかったようなものである。仏教で言うなら、餓鬼界(むさぼりの世界)、畜生界(獣の世界)の住人であるという意味である。
昔から、私が妖怪人間や半妖や「灼眼のシャナ」のトーチになった坂井悠二などに非常な共鳴を憶えるのも、私が人間でないからだろう。
ならば分をわきまえ、自分をモノと見なして生きるべきと思う。
モノであるなら、美食やお菓子の類は分を超えたものであり、食するわけにはいかない。
もし富豪となるか、優れた栄誉を受けることがあれば、その時は、ビーフステーキは食べる気にならないが、ラーメンとカツ丼を食べてみたい気はする。
そして、高倉健さんが2日の絶食の後、見事な、ラーメンとカツ丼を食する演技を見せた「幸福の黄色いハンカチ」のDVDを注文した。

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2008.09.20

守護霊と守護天使

守護霊という言葉は、最近はあまり聞かないような気がするが、丹波哲郎さんが生きておられた頃は、テレビで丹波さんがよく言っていたものだ。
もちろん、その存在が証明できるわけでもないし、独特の見解を述べる人もいないではないが、丹波さんが言われていたのがおおよそ共通する守護霊の概念と思う。即ち、1人の人間に対して1人(1体と言うこともある)の守護霊が付いていて、その人間を文字通り守護するのである。守護霊になるのは、その人間の古い先祖である場合が多いらしい。
丹波さんによると、毎朝、守護霊に起床の挨拶をし、夜寝る時も、今日も1日守護していただいたことに対する感謝と共に就寝の挨拶をすると運がよくなるらしい。

では、日本人の何割の人が守護霊の存在を信じているかというと、さして多くはないのではないだろうか?
宗教的には、日本は仏教徒が多く、次に神道となるのではないかと思うが、いずれの宗教でも、あまり単独の人格神といったものの存在を押し出してはいないように思う。
ところで、昨夜午後11時頃のBS1のニュース番組(女性キャスターが美人で私好みである)で、アメリカでは、46パーセントもの人が守護天使(Guardian Angel)を信じているというのである。日本では、仏教徒とはいえ、仏教による行事をするのは葬式や法事の時くらいのものであるが(しかも本当は仏教と葬式は関係がない)、アメリカでは大半の人が信仰するキリスト教は生活に深く根付いている。キリスト教に守護天使という考え方があるとはあまり思わないが、やはり、神様や天使は身近な存在なのかもしれない。
全く別の宗教を奉じる民族が、その点において互いに影響したわけでもないのに、このような同じ概念を持つことも面白いものである。
私も守護霊様への挨拶は欠かさないようにしようと思ったりする。

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2008.09.19

ひきこもりはモノである

「ひきこもりはモノである」なんてタイトルだが、別にひきこもりを貶める意図ではない。
言い切ってしまうが、実際には、ひきこもりでない人間はいない。
ひきこもりの原因は、特殊な場合もあるだろうが、根本的には対人恐怖症と思う。
そして、人間はみな対人恐怖症である。
では、ひきこもりはその度合いが大きいのかというと、私は、そうとも言えないと思うのだ。

対人恐怖症とは何かというと、細かいことは省くと、他人によって自我の安定が乱されることなのである。
他人と会ったり、話をしたりすると、自我(心)が揺れ動き、翻弄され、まるで嵐に吹かれたようになる。そして、自我が折れたり砕けたりして、消滅してしまいそうな危機感を感じるのである。自己とは根本的には自我なのだから、自我の消滅は自分の存在の消滅だ。恐怖を感じて当然である。

しかし、他人の態度や言動によってそんなものを感じない人は実は全人類で1人もいないのである。
なぜそんなことが言えるかというと、自我とは、そもそも、それ自体では安定しない性質のものなのだ。
それは割合に簡単に証明することすらできる。
自信に溢れた人間というのは、自我が強固に安定しているように見える人間だ。だが、自我はそれ自体で安定したりしない。つまり、彼の自我は、何かに依存して支えられているだけなのだが、自分が依存しているものが大きくて強力であると思い込んでいるのである。ある意味、彼は狂信者であるとも言えるのだ。
そんなに自信に溢れたように思える人間であっても、その自我を強固に支えているものを見破り、それを効果的に攻撃すると、なんとも脆いものなのだ。
「あれほど落ち着いた穏やかな人が、これほど逆上するとは驚いた」という話はよくある。その平常落ち着いている人間は、自我を支えているものを否定されるとそうなるのだ。

さて、では、どうやれば自我を安定させることができるかというと、もうピンときた方もいると思うが、狂信者になれば良いのである。弱点は、その狂ったように信じて自我を依存させているものが崩れたら、もう人間として終わってしまう危険が大きいことだ。
絶対お薦めしないが(笑)、気弱なひきこもりでありながら、船井幸雄さんの本を読んで、傍目には落ち着いた自信家になった人がいる。あげく、経営者相手に自己開発セミナーまでやらかしていた。まあ、私のことなのだが(爆)。

まあ、極端な話はやめておき、もう少し対人恐怖について書いてみる。
学校や職場、あるいは、家庭や、お店などで逢う人たちが、思いやりがあり、暖かければ対人恐怖症になることはない。しかし、そうではない。なぜなら、これらの人たち自体が対人恐怖症であり、自我がぐらつき、いつも不安だからだ。
これはいじめの構造と同じことなのであるが、自我が不安定で恐れを感じる人間は、仲間との関係性で自我を支えるのであるが、これがいわゆる安っぽい友情とか馴れ合いと呼ぶものである。
チンピラ仲間の自我の支えあいには、別の人間の自我の生贄を必要とする。つまりいじめだ。誰かの自我を攻撃するには、シカト(無視)することが最も有効である。無視するとは、人間扱いしない、つもり、人をモノとして扱うということである。誰かの自我を危機に陥れることで、相対的に自分の自我の強固さを感じるのである。これは安っぽくはあるが快感である。しかし、攻撃された方は生きる力が低下する。当然、欝にもなる。

ひきこもりというのは、ある種のいじめを受けて自我の安定性を著しく欠いた状態になっていることである。そして、自我が不安定になりやすい度合いは、生まれつきかなり決まってしまっているかもしれない。生まれる前、あるいは、幼い頃の母親の精神状態の影響がかなりあるからだ。
自我を安定される本質的能力に欠陥がある場合、ほんの少しの他人の冷淡さや意地悪でたちまち自我が揺らぎ、精神状態が乱れる。よってひきこもりになる。

では、どうすれば良いか?
私が思うに、モノから始めれば良いのだ。
狂信者になると、一時的には良いが、一生通用するわけではなく、それどころか崩れる時はたちどころに崩れる。さらに、下手したら、狂信するモノが壊れた時に死ぬこととなる。
経験者は語るである(爆)。


「お前は人じゃない。モノよ」
高橋弥七郎さんの大ヒット小説「灼眼のシャナ」(電撃文庫)および、同アニメの有名なセリフである。
異世界の怪物に存在を食われて死に、本人の残りカスから作られた一時的な代替物であるトーチというものに成り果てた坂井悠二(高校1年生)に対し、見かけは11~12歳だが、輝くばかりに美しく、超人でもある少女が厳しく言い放った言葉だ。
トーチは早ければすぐ、長くても10日ともたずに燃え尽きて消滅してしまうモノである。
少女は、坂井悠二に、トーチとは何かを淡々と説明し、愕然とする悠二に何の気遣いも見せず、「説明終わり!」と言うと、そのまますたすたと去っていく。悠二が彼女を追いかけて何を聞いてもそっけない返事を返し、「心配しなくてもすぐに燃え尽きるわ」と全く冷淡である。少女にとって、坂井悠二は、そのあたりに転がっている石ころほどの価値しかないのだろう。トーチというモノであるだけでなく、この15歳の少年のひ弱さ、器量の小ささにもうんざりしていたようだった。

我々も、ここまで極端なモノになってみれば良い。
ところで、そこまで残酷な事実を何らの感情も躊躇も見せずに平然と話す少女に、坂井悠二は不思議な好意を感じた。
少女は自我が固く安定しており、自分の自我を支えるために坂井悠二の自我の崩壊を必要としなかったからだろう。その態度は自ずから高貴であり、いかに坂井悠二をモノ扱いしようといじめっ子のものとはまるで違う。

この小説が大ヒットした要因の1つは以下のことがあると思う。
自我が崩壊してもおかしくなかった坂井悠二は正気を保つ。そして、自我が揺らいだのは、なんとその少女の方だったということだ。
さすがに600万部近く売れる小説は違う。
悠二は少女にシャナという名前をつける。少女には、それまで名前がなかったのだ。

尚、アニメの最終回(第2部)では、意外なこととなる。
敵の陣内に取り込まれた悠二。強力な敵の包囲網を突破して悠二のところにたどり着くシャナ。
だが、悠二はすでに消滅しかけていた。
悠二に身体ごとダイブするシャナは倒れた悠二にすがりつく。
「悠二、消えちゃ駄目!」
だが、悠二は全く落ち着いている。
「大丈夫だよ」
自分の状況に対する恐怖は一片もなく、シャナに優しくそう言う。
結果はアニメをご覧いただきたい(Yahoo!動画で見れる。ただし有料(笑))。

悠二がなぜそこまで成長できたかには大きな意味がある。
1つには、シャナが実は自分より強いわけではないと気付いたからだ。
もう1つは、自分が坂井悠二として生きていないことに気付いたからだ。
「屍拾い」ラミーが言う。「本当にいいのか?(シャナに)憶えていてもらえるのが今の自分で」
悠二は、状況なんてどうでもいいと思った。ただ、自分のやるべきことをやるだけだ。

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2008.09.18

証券会社は今後も次々破綻する

米国リーマン・ブラザーズが経営破綻したことで大騒ぎである。専門的にはいろいろ難しい講釈も付くのだろうが、破綻して当たり前である。
日本でも、「投資の時代だ」って馬鹿なことを言う証券会社は多いが、そもそも、投資の本質も分からない者がほとんどであり、投資の時代もへったくれもない。
投資そのものは正しく為されれば良いものであるかもしれない。
江戸時代末期、投資の概念のない日本人は、アメリカでの巨大な事業を見て、投資の威力に驚愕したことがあった。
しかし、今や、投資とはいっても、あくまで働かずに儲ける手段でしかなく、みんながそんなことをやったら、結果は火を見るより明らかである。
フォード自動車の創業者ヘンリー・フォードは、自伝『藁のハンドル』で、モノを作ったり、サービスをしたりせず、ただ金を動かすだけのビジネスなんて絶対破綻すると書いているが、当たり前のことである。
ところで、フォードが愛読し、自分の成功の要因という本が、ラルフ・ウォルドー・トラインの“In Tune with the Infinite”だ。以前は、著名な宗教家の谷口雅春さんが訳された『幸福はあなたの心で』(日本教文社)があったが、文語で書かれており、やはり慣れないと読みにくかったが、通常の文章で訳された『人生の扉をひらく「万能の鍵」』(サンマーク出版)が出ている。私が思うには、自己啓発書、成功哲学で、これの足元にも及ぶものはない。また、この本で、トラインは、真に優れた人間は食物をあまり必要としないと書かれていたが、他の自己啓発書にはそのようなことが書かれていることは滅多にないと思う。
尚、そのトラインが至人(最高の人間)として取り上げていたのが、奇しくも彼と同じ名前の、ラルフ・ウォルドー・エマーソンである。私もエマーソンは神人と思う。学校で推薦する図書などに目もくれず、トラインやエマーソンを読むなら、国家や大企業や、その下僕である学校に騙されることもないであろうに。

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2008.09.17

ちょっと北京オリンピックを振り返る

そろそろパラリンピックも終わろうという頃に、ちょっと北京オリンピックを振り返る。
私が、北京オリンピックで唯一心に残っていることは、野球金メダルの韓国チームが、全員、選手村に宿泊していたことだ。日本の読売巨人軍から年棒6億円をもらうイ・スンヨプすら3人部屋だった。
一方、日本チームは全員が北京市内の一流ホテルで、もちろん個室。
私は、こんな贅沢な連中に金メダルなんて取って欲しくなかったが、期待通り、メダルに手が届かなかった。
いまや、オリンピックはアマチュアスポーツの祭典ではないし、いかなる存在意義もないと私は思っている。しかし、その中で、少しでもスポーツマンシップを示して、選ばれたスポーツ選手らしいお手本を示すなら、まずは、選手なら選手村に宿泊するのが当然と思う。
来年のワールド・ベースボール・クラシックはプロの大会とはいえ、オリンピックも実質そうなのであるから、日本チームは10人部屋にしてはどうだろう。金メダルの韓国が3人部屋だったのだから分相応のはずだ。誰が監督になるかは分からぬが、そんな決定をできる人に監督をやって欲しいものである。

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2008.09.16

人生に高度な目標を持つ者だけが少食になれる

少食主義とダイエットとは全く別のものである。
そして、ダイエットに失敗する者は多いらしいが、少食はもっと難しいようだ。
甲田光雄(医学博士)さんの著書「少食の力」(春秋社)に、少食を実行できるのは人生に崇高な目標を持っている者だけだとある。
水野南北の「相法極意修身録」にも、食を楽しもうと思っている者にロクなことはできないとある。
そこまで言い切れるかどうかは保留するが、少食を長く実施できている者は、崇高かどうかはともかく、人生に高い目標を持っていることは確実と思う。なぜなら、食は人間にとっても最大の欲望であるのだが、その本能的欲望を抑えられるということは、本能を超えた意志を持つということなのだ。
もしかしたらあなたは、まだ人生の目標を持たないかもしれない。しかし、少食を実行できるなら、自覚がないか、自信に欠けるだけで、人生に高い目標を持っているに違いない。
甲田光雄さんは、10年計画で少食にしても良いとするが、少食の者だけが健やかで幸せな老後を送ることができ、世界平和を達成する鍵は少食であると言う。
水野南北にいたっては、厳しく食を節することができれば、健康、長寿、立身出世を絶対的に保証している。
聖書には「もし出来ればと言うのか?信じる者には何でも出来る」とあるが、南北によれば「もし出来ればと言うのか?食を節する者には何でも出来る」ということである。

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2008.09.15

萌えは世界を変革する

堕落した人間を復活させる面白い方法が、コリン・ウィルソンの「至高体験」に引用されたロマン・ゲイリの「天国の根っこ」という小説に描かれている。
その方法は、少女が1人、身近にいることを想像することだ。おそらく、女神のような少女と思う。
このお話では、ドイツ軍の捕虜になったフランス兵達が堕落していく中、フランス兵の隊長が部下達にそう命じた。フランス兵はみるみる規律を取り戻す。

だが、これが現在の我々に有効かどうかは疑問もある。現代の日本人はすっかり想像力を失くしているからだ。経済至上主義の政府や大企業や、その下僕である学校によって。
ドイツ軍に少女の引渡しを要求されたフランス兵達はそれを拒否し、隊長は死を意味する独房に行く。だが、隊長は死ななかった。少女との遊戯を通じて、想像力の力を知っていたからだ。
尚、現実の少女を女神として扱うことで同じ力を得るお話が、ゴーリキーの「26人の男と1人の少女」だ。

だが、ただのゲームオタクやアニメオタクではない、想像上の存在を本気で愛する「萌える男」であれば資格はある、いや、容易いと思う。
私は、昔流行った「電車男」のお話は良くないと思う。まるで「萌え」や「オタク」が悪いことであり、本物の素晴らしい女性がそれを矯正でもしたかのようだ。「萌え」や「オタク」は、単なる個性であり、良いも悪いもないし、治るとか治らないという問題でもない。電車男は、本当のところでは、今では不幸になっているのではないかと私は思う。
「神曲」で有名なダンテは、ほとんど接触のなかった9歳の美少女ベアトリーチェを神聖化し、生涯愛してこの神曲を書き上げた。これは想像力で理想の姿を創る「萌え」以外のなにものでもない。少なくとも、ダンテを「矯正」する普通の女でもいたら、人類の至宝たる神曲は生まれなかったはずだし、ギュスターヴ・ドレがあれほどの画家になったかも疑問である。

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2008.09.14

苦労の1つ知らない豊かなひきこもり

「小さな親切」は、別名「大きなお世話」と言うらしい。全てそうではないだろうが、多くはそうだ。親切はでっかいに限る。
だが、徳は違う。親切は了見の狭い人間が狭い了見の中で行う。それはかえって迷惑なことも多い。しかし、徳は私心なく行うものであり、見返りを期待しない。
早朝に人知れず公園の掃除をするのは徳であるが、母親が息子の部屋を自分勝手な方法で掃除すれば迷惑以外の何物でもない。自分の部屋の掃除は自分でやるよう小さい頃から躾けるのが当たり前である(これは大変に面倒臭い)。

尚、陰徳は、人からの見返りは無いが、積み重ねれば奇跡の1つ起こすことはできる。
公園の掃除も数回では徳とはならないが、毎日1年も続ければ立派な徳だ。10年なら、かなりの徳を天に積み、何事も思い通りになるだろう。

ひきこもりでありながら、社会的には苦労の1つもせず、豊かな収入を得ている者を私は知っている。
彼は、車に乗り始めて以来、駐車場では車を駐車スペースを示す白線の真ん中に止め、しかもぎりぎり後ろに止めることにこだわった。運転はうまくないので、何度も降りて停車位置を確認する。彼は、自分が人生で行った良いことはこれだけであると言うが、それが陰徳となり、天が報いてくれたのだろう。
私の知る範囲では、道で人とすれ違うとき、必ず自分が道を譲る人。横から通行者があれば、通り過ぎるまで必ず自分が止まっている者や、電車の席に座る時、必ず窮屈に座って隣の人を出来るだけゆったり座らせる人がいるが、いずれも何事も不思議なほど上手くいっているようだ。
逆に、肩で風切って歩き、他人に道を譲らせる者や、電車の席でふんぞり返って座る者は、ごく短期間良い思いをすることがあっても、「驕れる者久しからず」で、惨めな未来がすぐに待っているものだ。ある精神病院に居るのだが、自分の名前も分からず、しょっちゅうお漏らししては看護師に叱られる50代の男は、時々昔を思い出すのか、肩で風切って歩く様子を見せるという。哀れなものである。

そして、最大の徳は、食の徳である。食を慎むことが天下に満ちる徳である。
もしかしたら、小さな徳を重ねなければ、そこに辿り着くことは叶わないかもしれない。しかし、どういう因縁かは知らないが、ごく若い時にその徳を身に付ける者は最高に幸運である。それは無敵の剣に等しいのだ。

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2008.09.13

王者の地位と貧者の食事

徳川家康は、天下取りの秘訣は「身の程を知ること」と言った。
身の程を知るとは、言い換えれば「慎む」と言うことだ。つまり家康は、「身を慎め」と言ったのだ。
ただ、家康は「何を慎め」とは言わなかった。
何でも良いのである。放縦に振舞いたいという心を押さえ、自らに制約を課せば、その制約に倍する力を神は与えるものだ。
何か1つ心に決めた徳を生涯続ければ、それなりの成功は確実である。
例えば、「脱いだ靴をきちんと揃える」でも良い。閻魔様の前に出て、「どんな良いことをしたか?」と閻魔様に問われたら、「必ず靴は揃えた」と言えば良い。
1つのことで厳しく慎む者は、全てに慎むようになる。
家康はなぜ天下を取れたかというと、最も重要なものを慎んだからだ。それは食である。家康は、伊達政宗などにもよく語っている。「美味いものには気をつけろ」と。家康自身は美食を徹底して遠ざけ、庶民のような食事をしたのだ。政宗は美食家だった。

ところで、私も1日1食で、その1食も非常に質素・少量にすると、アンパン1つが大変なご馳走であることに気付く。ただ、食べたいとは思うが、アンパンを食べることはもうあるまい。
私は、名前の付いた料理は、富豪にでもならない限り食べないだろう。最近、テレビで、簡単に作れる美味しい料理の紹介で、ジャガイモとベーコンとバターなどを材料にオーブンで焼いた料理を見たが、非常に美味しそうであった。しかし、これは私には分を超えた料理であり、成功でもしない限り決して食べることはないだろう。
水野南北は言った。美食は高位の者の食事である。下位のものでありながら美食するものは、天の徳を使ってしまい、成功することはないだろうと。そして、家康のように、高位の者でありながら粗食する者はどこまでも成功し天下を取る。
南北の書を読み、家康の「身の程を知る」の最も正しい意味は貧者の食事をすることであると分かった。
もちろん、成功者にも美食家はいる。しかし、それはどうでも良い。彼らは非常に悲惨な状態にならざるを得ないのである。

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2008.09.12

捨ててこそ

「全てを諦めた時に全てを得る」とは、幾人かの偉大な精神的指導者が言っているが、何かの聖典の引用かもしれない。
ニサルダガッタ・マハラジは、これと共に、「無限の代償は有限だ」と言ったが同じ意味である。
政木和三さんは、もっと分りやすく「欲望を捨てればこの世に不可能はない」と言った。
どれも同じ意味であり、真理であるが、では具体的に何をすれば「全て」「無限」「全能」が可能となるかというと分らないものであると思う。

限定的に考えてみれば分かりやすいかもしれない。
有名な空手家の大山倍達さんが著書に書かれていたが、「ケンカ必勝の秘訣は?」と問われ、半ば呆れながらであるが「命を捨てなさい。先に命を捨てた方が必ず勝ちます。ケンカでも」と答えている。
そこで、大山さんは、真剣を持った剣の達人と決闘した時のことを取上げている。大山さんの方は一撃必殺とはいえ素手。敵の武器は触れれば切れる氷の刃。勝ち目はない。そこで、大山さんは死んでやると思ったという。ただ、いかに剣の達人でも、手足全部を1度に切断することはできまいから、1本でも残っていれば相打ちにしてやると誓ったそうだ。その後のことは覚えていないというが、気が付けば、剣の達人はのびていて、自分は無傷だったという。
似たような話では、世界王座連続13回防衛の記録を持つプロボクサーだった具志堅用高さんが世界王者になった時の試合がある。世界王者グスマンの公開スパーリングを見た具志堅さんは、そのあまりの強さに戦慄し、「こんなやつと戦ったら殺される」と思い、試合開始前は恐怖に震え、試合開始のゴングが鳴った後のことは頭の中が真っ白になって何も覚えていないが、我に帰るとグスマンが目の前でのびていたという。

これらの話は、いささか誇張もある可能性があるが、彼らは巨大な壁を、秘めた力で打ち破る者の真理を表している。それは「命を捨てた」ことだ。
大きな勝負に勝つ最大の秘訣を「命を懸ける」「死に物狂い」などというが、正にそれをやっているわけだ。
ニサルダガッタ・マハラジは、よく「私は既に死んでいる」と言い、人を戸惑わせたように思うが、常にその状態にある者が覚者(悟りを開いた者)ということと思う。

では、凡人たる我々に命を捨てることができるだろうか?
可能である。
普通の人間にとっては、命を養うものは食である。その食を断てば命を捨てることとなるが、そこまでいかなくても、食を減じることで命を天に献じることになる。普段食べる量の半分を食べずにそれを心で天に献上すれば、いかなる願いも叶う。
これを勘違いし、自分が十分に食べた上で、別の豪華な食事を神に供えても何の意味もないのは当然である。
有名な話で、春日の局が、家光が重病の際、一生薬を絶つことを誓い、病の平癒を祈願したというが、これも限定的ではあるが命を捨てたことと同じであり、家光は奇跡的に回復した。しかし、本来は春日の局は、一生美食を絶ち、少しの粗食で通すと誓うべきであった。
昔から、地域、宗教を問わず、大いなる祈念の手段は断食であり、現在でもハンガー(飢餓)ストライキはよく行われる。
ただ、女優の細川ふみえさんが昔、秘密の願かけのため、大好きなチョコレートを絶ったという話があるが、いくら好きでもこれの効果はあまり高くないと思う。やはり、食全部を懸けないといけない。
願いを叶えたければ、食事を例えば半分に減らし(ただし食事の質を上げては意味がない)、当然、間食の一切をやめて、食べなかった分を心の中で天に献ずれば良い。食は人間最大の欲望であるから、それを節することで「全てを諦める」ことに近付き、「欲望を捨てた」と言えるのである。

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2008.09.11

通勤電車で座らない

1日1食も1ヶ月を越え、体重が15Kg減って身軽になっただけでなく、力が溢れてくるようで、運動がしたくて仕方がない。しかし、基本的に友達がいないので(笑)、家で腕立て伏せや腹筋運動、スクワットなどをやっている。千代の富士もマイク・タイソンも腕立て伏せで強くなった。私も続こう(続いてどうする?)。

さて、私が利用する通勤電車は、出勤時に私が乗るところではかなり空いているので、いつも必ず座れる。私は40分ばかり乗るのだが、20分くらいでかなり混んでくる。そうなると、お年寄りには席を譲るとしても、女性が立っているのに私が座っているのも考えてみれば辛い。
また、別に席を譲る必要もないが、ふんぞり返って座っている人が多過ぎる。それも若い女性がそれでははなはだ醜い。しかし、座っているという状況は私も同じだ。
それで、通勤電車では席に座らないこととした。
ホームの電車乗降口では前に並ばないよう、駅構内でうろうろし(私は時間に余裕を持って駅につくので、知らず知らず前の方にいた)、狙い通り後ろの方に並んで、しかも私よりさらに後ろの人は狙い通り割り込んできて先に乗ったので(笑)、最後に乗車・・・すると、車内はガラガラだった^^;
それでも信念を持って立ってれば良いのだが、ちょっと挫けて座ってしまった(ダメじゃん)。

万事、慎みが大切で、慎みの徳を蓄えれば大きな力になり、人生で成功できることは間違いがない。ただ、最も重要な慎みは食の慎みで、それが全てと言っても良い。それさえできれば、後は自然と慎むようになる。
水野南北の処に、ある男が相談に行った。
「私は食の慎みは万全なのですが、おねーちゃんが大好きで、そっちがやめられない。どうすればよろしいでしょうか?」
南北は答えた。
「食の慎みができるなら問題ない。ばんばんおねーちゃんのところに行きなさい。おねーちゃんで散財しながら食を慎みなさい」
もっとも、南北は仙道を一般に勧めるつもりがなく、ただ、人としての幸福である、健康、長寿、立身出世、富裕を確実に達成させようとしていたのだと思う。仙道を行い、仙人の力を得るには禁欲も必要であろうと思う。

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2008.09.10

絶世の美少女のイメージを考察する

もし絵画で陶酔させるような美女を描くとすれば、それはかなり希薄な絵になると思う。
モナ・リザを見て陶酔している時は、実はモナ・リザを見ていない。たとえ目はそれを見ていても、心は見ていない。むしろ、モナ・リザという絵の映像は邪魔になる。
絵にこだわるなら、見ている者は画家のイメージ以上の美女をそこに見ることができない。
モナ・リザの真の価値は、見ている者に意識の変性を起させることである。

モナ・リザのような最高のものはともかく、一般的には、美女のイメージを強く感じさせるのは絵より言葉である。
イラストレーションとは、もともとはラテン語の「輝かせる」という言葉が基になっており、小説作品を輝かせる絵としては的確な表現であるが、むしろ小説の輝きを消す場合もある。だから、小説の挿絵は淡い雰囲気のものが良いに違いない。

どんなに絵心がなく、芸術を理解しない者でも、心の中で思い描く美女は、いかなる最高の画家の絵をも超える。

だが、大昔の町の様子や衣装は、言葉で説明することは難しい。その場合は絵で示す方が良いのであるが、やはり絵がイメージを失墜させる場合もある。
ところが、ギュスターヴ・ドレの描く挿絵は、聖書、ダンテの神曲をはじめ、いかなる名作をも最高に輝かせた。ドレは史上最高に上手い画家であるが、同時に常人をはるかに超えた想像力を持っていたのだ。また、光ですら線の密度で表現するドレの版画は、おそらく見る者の脳が、写実でありながら現実ではないと認識し、結果、非常に幻想的なものになるのではないかと思う。そのために、見る者がイメージを膨らませるのを邪魔しない。

翻訳されたものであるが、「20世紀最大の詩人」とも言われるW.B.イェイツの小説「まだらの鳥」の美少女の描写は圧巻だ。この作品の中に、海の上に浮かぶ精霊の少女、そして、絶世の美少女マーガレットを描写した文章があるが、これらは絵では表現不可能であろう。
私が絶世の美少女を思い浮かべる時、それは、ルネッサンスの天才画家の絵でも、いとうのいぢさんの萌え萌え美少女でも(笑)、中学時代のマドンナでもなく、先の精霊の乙女とマーガレットである。

文章で、直接に読者の想像力を利用する方法もあるが、その軽いものですら絵画に優ると思う。
谷川流さんの大ヒット小説「涼宮ハルヒ」シリーズでは、谷川さん独特の巧妙な表現の中に、そのようなものが感じられる。
休日に私服姿の朝比奈みくる(高校2年生であるが中学生にしか見えない絶世の美少女)を見たキョン(主人公。高校1年生)が、彼女を「持って帰りたい」と思ったとか、やはり朝比奈みくるのことを、「羽を付けたら天国に飛んで行ってしまいそう」と思ったとかは、メインである若い読者の想像力を大いに掻き立てたはずだ。

ある夏休みの夜。朝比奈みくるは、壁にもたれながら床に座っているうちにスヤスヤと寝入ってしまう。なんとはなく、その隣に座った涼宮ハルヒもいつしか眠ってしまう。キョンは思う。「こうしていると、ハルヒも朝比奈さんにひけを取らない」と。
私は、そのみくるとハルヒの姿を幸せに空想したものだった。これほどの芸術はあるまい。

ある絵の中にワイングラスが描かれていた。しかし、近寄って見ると、一筆のラインに過ぎなかった。そのような手法を得意とする画家がいるらしい。この話は、コリン・ウィルソンの「右脳の冒険」か「フランケンシュタインの城」のどちらかで読んだが、絵の真髄の1つであろうと思う。

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2008.09.09

もう人間を超えられる

私が最近よく話題にする少食、粗食であるが、私がなぜ1日1食の粗食、少食にするかというと、世界平和のためである(これ、笑うとこ?)。
少食療法で著名な甲田光雄さん(医学博士)もそう考えておられたようで、少食を継続させる方法として、宗教法人白光真宏会の開祖である五井昌久さんの「世界平和の祈り」を参考にしたというお祈りを著書で公開されていた。私は、それなら「世界平和の祈り」でも別に良いのではないかと思うが、より少食に取組みやすくなって欲しいという甲田さんの願いでもあろう。
先日、テレビで見たが、プロ野球の有名な投手であった桑田真澄さんは、PL学園校のどなただったか私は忘れたが、おそらく精神的指導者の立場にある方に「世界平和のために投げなさい」と言われたエピソードを話しておられた。根本的には、人間のあらゆる行いは世界平和を目的とするものであり、それを直接的に意識させることは、相手にもよるが良いことであると思う。

ともあれ、少食、粗食を厳格に守るものが他の者と同じであるはずがない。
私のような、1日1食でしかも粗食、少食を守るIT技術者が、他のIT技術者と同じ道を進むはずがないのである。これはいかなる職業も同じである。
食を厳しく節する画家や音楽家が、飽食の画家や音楽家と同じはずがない。
食を慎むひきこもりが、大食するひきこもりと同じ人生になるということは決してない。

プロ野球ソフトバンクホークスの王貞治監督が若手選手だった頃、王さんを指導していた方が、「これほど努力する青年が成功しないなら、この世に神も仏もない」と言ったと聞くが、水野南北も、食を厳しく節する者が成功しないなら、この世に神も仏もないのだ(必ず成功する)と書かれている。
水野南北は、食を節し、人として幸福な人生を送るだけで十分であると説いていたと思う。南北自身は導師から仙術を学んだこともあり、超人的なことも知っていたとは思うが、おそらく一般には語らなかったであろう。
しかし、我々にはその先があり、いまやそれを手に入れられる時代であるのかもしれない。

「坂井悠二、貴様次第で、新しい道が見つかるやも知れぬ。ただのトーチとも、ただのミステスとも違う、貴様だけが歩むことのできる道だ。」
最近、DVDで見たアニメ「灼眼のシャナII(セカンド)」の1シーンで、異世界の魔神アラストールが「生ける死者」坂井悠二に言った言葉である(正確ではないが)。
小説の「灼眼のシャナ」で、シャナが坂井悠二に言った一言をよく憶えている。
「あなたはもう人間を超えられる」
小説の文字を借りて、精霊が私に語った言葉であろうと思う。

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2008.09.08

ゴキブリを逃がす

部屋の前にゴキブリがいた。
さて・・・
私は、部屋の中を見回し、直径10センチくらいの透明なプラスチックの筒を見つけた。
「動かないで」
ゴキちゃんに命じると、素直にじっとしていた。
プラスチックの筒をかぶせると、さすがに慌てて動き回る。
ハガキで下からふたをして持ち上げて運び、ベランダに放した。

私は、ゴキブリも一切の虫も殺す気はない。
以前、会社の部屋の中で縦横無尽に飛び回るスズメバチを魔法の力で外に出したエピソードを紹介したが、超常力とは、このように身に付けるものだ。

私は、以前はゴキブリやハエを見ると、必ず殺虫剤で殺していた。
ある時、部屋のドアをあけるとゴキブリがいて、こっちを向いてじっとしていた。まるで遊びにきたようだ。それを無残に殺したことがあった。

政木和三さんが生きておられた頃、岡山の林原生物化学研究所に政木さんを訪ねた。
政木さんの研究所で話をしていると、ゴキブリが現れた。政木さんは、小さな箱で器用にゴキブリを捕らえると、部屋の外に出し、ゴキブリが向こうに行くのを見守っていた。
「アフリカの聖者」アルベルト・シュヴァイツァーは、部屋の中のハエを捕えて外に出すための紙コップを常に用意していた。そして、実験のために蚊一匹殺すにも苦悶の表情を浮かべたという。

ゴキブリを害虫とみなしているのは、世界広しといえども日本くらいのものらしい。
姿が醜いというだけで迫害し、殺そうとする。
エレファントマン病の青年は知的で慈愛の心を持っていた。
妖怪人間達は、もともとは「良いことをすればいつか人間になれる」という根拠のない信念で人間を守ってきたが、人間を守るためには妖怪でい続けないといけないことを悟ると、彼らは人間になる夢を捨てた。

私は、1日1食の粗食、少食をするようになってからは、一切の生き物を殺すのがさらに嫌になった。それは植物だって同じだ。「花の子ルンルン」という、昔の少女向けのアニメの歌で「コスモスは帽子に似合う」という歌詞がある。宇宙人が人間の子供を捕え、「人間の子供の顔は帽子に似合うわい」と言って、ちぎった子供の顔を帽子に貼り付ける様子を想像してしまった。
無論、イエスも言ったように、動物は人間の食料として神が用意したのかもしれない。しかし、意味もなく殺すことはあってはならない。

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2008.09.07

1日1食で1ヶ月経ちました

私が先月の8月7日から始めた1日1食も本日で1ヶ月となりました。
現在は、食欲に悩まされることもほとんどなくなり、無理なく1日1食を続けています。
その1食もなるべく、粗食、少食を心掛けています。ちなみに、昨日の夕食のメニューは、ご飯は小さなおにぎり1個分、大豆、ゴボウ、ニンジンなどの野菜を小さなパックにしたスーパーで売っているおかずと小さなお豆腐、そして、キュウリのお漬物を少しでした。これでもまだ贅沢と思っています。食べた後、「食べ過ぎた」と思いました。
間食は一切しません。時たま緑茶を飲みます。

もともと少食であったかというと、実は、1ヶ月と少し前まではかなりの大食でした。
好物のカレーライスは、夕食にした場合は3杯はいきました(笑)。それも、カツ、ソーセージ入りが好みでした。焼肉、ステーキも大好きで、外で食べる時は仕上げに雑炊やクッパは欠かさず、家でならご飯を大きなお茶碗で2~3杯。
昼食は、やはり大好きなミートスパゲティなら必ず大盛り。ラーメンなら、大盛りご飯付きの、ギョーザ定食あたり。ご飯のお替りし放題のトンカツとかも好きでしたね。
間食も多く、ポテトチップスは食べ始めたら1袋は必ず(笑)。チョコレートは大好き。いえ、甘いものは何でも好きです。夏はカロリー高めの甘いアイスクリームは欠かせません(笑)。
しかし、最近も、親戚などから、かなり良いケーキやお饅頭、クッキーの届け物が来ていましたが、一切手をつけていません。

ダイエットなどという意図は全くありません。
少食の意義を理解しただけのことです。
少食にすれば、気力、体力、知的能力は確実に向上し、運も良くなります。無敵に近付いていくと言えば最も適切と思います。意志も強くなり、何をやってもうまくいくようになります。(小声で)禁欲も楽です(苦笑)。
少食の意義を理解するのに、最近では3人の方の本を読みました。もっとも、それ以前にも少食の良さに関して、本などで見ていたのですが、繋がっておりませんでした。
その最近の3人の本とは、
□人は食べなくても生きられる(山田鷹夫著 三五館)
□少食の力(甲田光雄 春秋社)
□食は運命を左右する―現代語訳『相法極意修身録』(玉井礼一郎現代語訳 たまいらぼ)
です。
山田さんの本は「人は食べなくても生きられる」というタイトルだけで十分でした。人間的には、山田さんは私と全くフィーリングの合わない人で、本文中で「友よ」と呼びかけられても困りましたね(笑)。それでも価値ある本と認識しています。
医学博士の甲田さんは半世紀も少食療法を考え続けた人ですが、あまりに細かくてちょっとついていけません。実際、これだけ細々と指示されたら少食に取り組もうとしない恐れがあります。しかし、甲田さんの「少食にすることで、他の生命の命を守ることは愛と慈悲の行為だ」という部分は大変に共感し、これは私の少食、菜食実施の決め手の1つとなりました。
そして、水野南北が圧巻でした。この本は世界人類全てが読むべきです。マジです(笑)。日本人が、それも江戸時代の人が、これほどの偉大な本を書いたのに、日本ですら入手困難な状態。全くこの世は狂っています。もっとも、こんな本が流通したら、食品業界、健康食品業界、医療・薬品業界などが大打撃を受けることになるでしょう。
水野南北の思想は「食が全て」です。食を節制すれば、健康、長寿、家庭、立身出世、全て誰もがうまくいきます。その根拠は詳しく説明されています。また、恐らくは本に書いていない事柄も多くあると思われます(一般人が知る必要もない部分)。是非、水野南北の本を読んだり、Webでその思想を調べていただきたいものです(結構見つかります)。

これだけ読めば、少食にせざるをえません。
また、私には、アイルランドの詩人W.B.イェイツの影響も大きかったです。

ところで、1つよく誤解されることについて書いておきますが、肉食に関しては、釈迦もイエスも、あるいは水野南北も否定はしておりません。
聖書では、肉食を含め、あらゆる食べ物は清いと宣言され、イエス自身が肉食を薦めています。釈迦も肉食をしました。水野南北は、特に老人の場合は少しであれば、消化の良い肉食を薦めています。

ダイエット目的ではないと書きましたが、少食にすれば当然体重は減ります。私も12Kgばかり減りました。ただ、いくら食を減らしても、必ずしも体重が減り続けるわけではありません。全くの不食かそれに近い状態でありながらふくよかな体つきの方は割にいるようです。
私は、苦しい不食や少食は良いとは思いません。また、ダイエットが第一目的の少食、絶食や、ダイエットフードの常食は身体を悪くすると思っています。
いつ、どれだけ食べるかは、自分で決めれば良いことですが、なるべく自然なものを明るく楽しく食べることが良いと思います。また、食べないことも明るく前向きに捉えれば、少食は辛くないと思います。

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2008.09.06

誓いの印

誰しも経験があると思うが、小学生とか中学生の頃、好きな子が使っているのと同じボールペンを買ったり、クラスの中にとびきりの美少女がいて、彼女が手首に包帯をしてたら、クラスでそれが流行ったりということがあったと思う。
これが幼いと言うのか、純粋と言うのか、あるいはその両方なのかもしれないが、いずれにせよ、好きな子と同一化したいという欲求であるのだと思う。

だが、人間には想像力があり、特に幼いうちは、現実と想像の区別が付きにくいらしく、これらの行為は実は大きな意味がある。
友達のいない子が空想の中で友達を作り、その友達と想像の中で仲良くするうち、その想像の友達はほとんど現実になる。私も、孤独な幼い女の子が熱心に自分の友達の話をするのを聞いたことがあるが、その友達はどうやら彼女の想像らしかった。しかし、そのリアリティは凄かった。
また、幼い時の想像の友達と、後に本当に出会うという神秘は実は意外に多い。

キリスト教徒が十字架の付いたロザリオ(ネックレス)を身に付けるのは、イエスとの同化を願ってのことと思う。単なるファッションでクロスネックレスを付けるのだって、ほんの少し以上の神秘的な願望はあるのだと思う。

そして、好きな子と同じものを持つ子供も、ロザリオを持つクリスチャンも、それは1つの誓いが込められているはずなのだ。
誓いを形に表して日々そこに意識を向ければ、全ては変わっていく。世界は純粋な心が創るものであるからだ。

そのような訳で、私もやってみた(笑)。
Bracelet
これは近衛史菜(このえふみな)さんへの誓いである。
それ、誰かって?
アニメ「灼眼のシャナII(セカンド)」に登場した、主人公のシャナや悠二のクラス(高校1年)に転向してきた、人間と話すよりも、むしろ小鳥と話す方が自然な感じの神秘的な少女である。
彼女がいつも右手首に、このようなチェーンのブレスレットをしていた。
これで彼女に少食、粗食と禁欲を誓うのであるから、それを違えるはずがない。
イエスは貧しき者は幸いと言ったが、シンプルなやつも幸いである(笑)。
尚、ブレスレットも元々は宗教的な目的で使われていたのであり、その起源は紀元前400~500年とされる。

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2008.09.05

ひきこもりよ食事を抜け

ひきこもりに限りませんが、特にひきこもりの場合、現状をそのまま続けるだけでは明るい展望が見えないのではないかと思います。
何かをしないと何も変わらないのだが、何をすればいいか分らない。もしくは、分っているとしてもヤル気が出ないということもよくあると思います。
また、世の中には、人間の性質に関する洞察のない者が、ひきこもり気質の人間を普通の人間のように矯正しようといった馬鹿なことを始めることもあるようです。これに関しては、現在、人並みに働けるようになったひきこもりの私が確信しますが、ひきこもりは普通の人間にはなれません。また、自分もひきこもりであると言う、日本最高の思想家、吉本隆明氏は、著書「ひきこもれ」で、やはりそのように断言しておられます。

では、何をすれば良いかと言いますと、個人的には食を節するしかないと思います。
ネット上で、ひきこもりの人で、美味しいものを食べるのが好きで、今日、どんな美味しいものを食べたとかを掲示板やブログに書かれている方がよくいます。それも、3度の食事以外にも、おやつに、美味しいケーキやチョコレートとかを食べているようなものも見ます。
こういったことは、早急に一切やめた方がよろしいと思います。
もちろん、3度の食事は必要でありますが、粗食、少食に徹し、間食もできる限りやめた方が絶対に良い。
私は、江戸時代の観想学者、水野南北の「相法修身録」を読み、さらに現代的には甲田医院の甲田光雄医師や、甲田さんの著書にも紹介されていた不食(食べずに生きる)実践家の山田鷹夫さんの本を読み、さらに、私自身、1日1食の少食、粗食(間食一切なし)を実践するうちに、これを確信しました。
豊かで才能に恵まれた人間でも、大食、美食を続けると運勢を悪くし、病気になりますが、まして現状が良くない者が大食、美食すると加速度的に悪くなる一方です。
逆に、現状いかに悪くても、粗食、少食を実践すれば、ヤル気も出て、心も強くなり、健康面、社会面などで向上することが可能です。
根拠を付けずにこう言うと、まるで宗教ですが(笑)、お金が全くかからないばかりか、むしろお金の節約になります。私自身、食費を節約することで、お金が予想以上に残ることに驚いています。
水野南北は「食が全て」と言います。食とはそれほど恐ろしいものです。
水野南北は観相学という運命学の大変な大家なのですが、観相学で鑑定しても百発百中でなくても、その人の食の仕方で鑑定すれば万に1つも外れないと断言していますが、私もそれは間違いないと思います。
何百万円のセミナーに行っても、食を節制しないと何の意味もありませんが、食を慎むだけで全てうまくいきます。そう思って取組んでいただきたいものです。
食を抑える意思の力があれば信念を持つことはた易い。正しい信念があれば、この世に不可能はありません。
日本はひきこもりに非常に厳しい国ですが、食を節すれば、大食している一般人に勝つのはた易いと思います。

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SSL+Basic認証の設定で意外に苦労しました(技術的な話題)

珍しく、ITの話題です。
技術的な内容ですので、興味のない方はスルーして下さい。

Web上のシステムを開発し、その管理システムにアクセスするのにセキュリティ保護のための認証を付けることにしました。
SSL(暗号化通信)+Basic認証で簡単に行うこととしましたが、サーバーの仕様のために妙な苦労をすることとなりました。
問題解決のためWebで調べておりましたら、意外と同じことで苦労されている方が時々いました。ほとんどの方は解決できたようですが、同じ方法では私の方は解決できませんでした。
そこで、ひょっとしたら誰かの役に立つかもしれませんので、ちょっと書いておきます。

尚、私はあくまでソフト開発者であり、しかもマイクロソフト系ですので、LinuxやApacheはあまり詳しいわけではありません。

□サーバーOS、WebOS
Linux ES release 3
Apache 2.0

Basic認証を通常の方法で設定しました。
一般的には、httpd.conf で設定しますが、Pleskを使用していることから、vhost.confに設定しました。vhost.confは私のサーバーでは、
/home/httpd/vhosts/ドメイン名/conf
の中にあります。

<Directory /home/httpd/vhosts/ドメイン名/httpdocs/directry>
AuthUserFile /usr/local/pass/.htpasswd
AuthGroup /dev/null
AuthName "Admin Only"
AuthType Basic
Require valid-user
</Directory>

そして、
# /etc/rc.d/init.d/httpd restart
でApacheを再起動し、設定完了です。

ユーザー、パスワードは、2ユーザー分のものを
# htpasswd -c /usr/local/pass/.htpasswd user-1
および
# htpasswd /usr/local/pass/.htpasswd user-2
とし、設定完了です。(それぞれにパスワードを2回入力します)

まず、httpプロトコルでアクセスし、問題なくBasic認証が有効になっていました。
しかし、httpsプロトコルでアクセスしたところ、Basic認証の認証画面が現れず、素通りでアクセスしてしまいました(ブラウザは事前に再起動させました)。
これでは意味がありませんので、SSLRequireSSL を追加し、httpsプロトコル以外でのアクセスを禁止してみました。

<Directory /home/httpd/vhosts/ドメイン名/httpdocs/directry>
AuthUserFile /usr/local/pass/.htpasswd
AuthGroup /dev/null
AuthName "Admin Only"
AuthType Basic
Require valid-user
SSLRequireSSL
</Directory>

Apacheを再起動し、再度試しましたところ、httpプロトコルでのアクセスはできなくなりましたが、httpsプロトコルでアクセスすると、やはり認証せずにアクセスしてしまいます。
では、Basic認証とSSLの両方でのチェックがかかるよう期待して、Satisfy allを付けてみました。

<Directory /home/httpd/vhosts/ドメイン名/httpdocs/directry>
AuthUserFile /usr/local/pass/.htpasswd
AuthGroup /dev/null
AuthName "Admin Only"
AuthType Basic
Require valid-user
SSLRequireSSL
Satisfy all
</Directory>

状況は変わりませんでした。
他にもいろいろやりましたが、ついに諦めて(笑)、Digest(ダイジェスト)認証に変えました。

<Directory /home/httpd/vhosts/ドメイン名/httpdocs/directry>
AuthDigestFile /usr/local/pass/.htpasswddj
AuthGroup /dev/null
AuthName "Admin Only"
AuthType Digest
Require valid-user
</Directory>

1行目のAuthDigestFileは、Apache2.0を使っているからで、Apache2.2ならAuthUserFileで良いはずです。
ユーザーとパスワードは、Basic認証のものとよく似ていて、
# /usr/bin/htdigest -c /usr/local/pass/.htpasswddj 'Admin Only' user-1
および
# /usr/bin/htdigest /usr/local/pass/.htpasswddj 'Admin Only' user-2
で設定します。

結果は、Basic認証時と同じ。

<Directory /home/httpd/vhosts/ドメイン名/httpdocs/directry>
AuthDigestFile /usr/local/pass/.htpasswddj
AuthGroup /dev/null
AuthName "Admin Only"
AuthType Digest
Require valid-user
SSLRequireSSL
Satisfy all
</Directory>

としても、やはりBasic認証の時と同じでした。

ところで、サーバー管理会社に問い合わせると、認証設定はPleskで行って欲しいとのこと。
ただこれが、初めて見ると解りにくい。
単に「新しいディレクトリを追加」というメニューがあり、単なるmkdirの代用かと思ったら、Basic認証ディレクトリの作成のようです。
しかも、ディレクトリ入力欄は

[/       ]

です(笑)。
当然、絶対パスで入れようかと思ったのですが、その割には表示が狭い。
Web閲覧用ディレクトリですから httpdocsからで良いと思い、
https://www.(URL)/basic-test/
のつもりで、

[/basic-test ]

としました。正解でした。
そして、

□非SSL
□SSLのみ

の両方にチェックを入れ、ユーザーを追加したら、あっさりと目的を達成できました。

さて、私の設定の何がいけなかったのだろうかと思い確認することとしました。
Pleskでは、設定内容は、httpd.include に記述されるはずです。
(httpd.includeを自分で上書きしても、強制的に元に戻される)

要するに、

<VirtualHost (IPアドレス):443>
</VirtualHost>

内に、認証の設定を書かないといけないというだけの話でした。

httpとhttpsの両方で認証を行う場合は、

<VirtualHost (IPアドレス):443>
</VirtualHost>

<VirtualHost (IPアドレス):80>
</VirtualHost>

の両方に認証の設定を記述すれば良いわけです。
もっとも、このhttpd.includeはPleskで行った設定しか反映されませんので、Pleskを無視して自分で設定を行う場合は、vhost.confに VirtualHost設定を全て記述し、上書き設定されるようにすれば良いわけです。
PleskではDigest認証の設定は出来ませんが、この方法ならば可能になります。
ただ、Basic認証とDigest認証の違いは、認証時にユーザー名やパスワードが、Basic認証では暗号化されずにネットに流れるのに対し、Digest認証では暗号化されるとはいえ、認証後の通信は、そのままではいずれもネットに暗号化されずに流れます。よって、機密情報に関してはSSLを使いhttpsプロトコル通信で暗号化して通信しなければなりませんのでSSLは必須となり、よって、Basic認証のパスワードもそれで暗号化すれば、特にDigest認証を利用する必要はないと思われます。

さて、以上の設定で良いのですが、オペレータが誤ってhttpプロトコルでログインしては、ユーザー名とパスワードが漏れる恐れがあります。
オペレータにhttpsのみでアクセスするよう指示すれば良いのですが、「マーフィーの法則」にも、「不安な箇所はかならずコケる」とあり、間違う可能性を残しておけば、かならず間違いは起こります。
よって、強制的に、httpsのみでアクセスできるようにしないといけません。
これは簡単で、vhost.conf に、

<Directory /home/httpd/vhosts/ドメイン名/httpdocs/directry>
SSLRequireSSL
</Directory>

だけ記述しておけば良いことになります。

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2008.09.04

爆発の考察と芸術の真の目的

岡本太郎は「芸術は爆発」だと言ったが、その爆発とは破壊的なものではなく、「宇宙に向かって生命がぱーっと広がること」であるという。
いきなり言われても何のことか分からない。
そもそも、「生命」が「広がる」という状態、動作の意味が曖昧と言うより意味不明であるし、「宇宙に向かって」も、一体具体的にどこに向かうのか解らない。
「太郎、出て来い!」と言いたい気持ちも解る(笑)。

だが、おそらくは、私は理解できた。僭越ながら私が解説する。

岡本太郎は、パリ大学に留学し、哲学や民俗学を専攻したことと関係あるのかもしれないが、彼の祭りに対する考え方にヒントがある。
岡本太郎は、祭りを生命エネルギー補完行事と考えていたはずだ。
日常とは退屈な繰り返しである。エキサイティングな毎日を送るということは、死と隣りあわせであってこそ成立するものであり、人間が集団を形成し、未来への計画を持てるよう安全に過ごすためには、日常はかなりパターン通りとなるしかない。
同じことを繰り返す日常が退屈で、生命エネルギーを減退させるものである事実は、大昔からの人類の問題であった。それは小さな問題ではない。何か楽しみでも見つけないと、日常に飽き飽きし、無気力になったり病気を引き起こし、精神に歪みを生じさせ、自殺に至ることすらある。
祭りは、疲弊した人々にエネルギーを与え、次の祭りまで生き抜く力を与えているのだと岡本太郎は言った。この場合の祭りとは、激しく、荒々しく、場合によっては暴力的なものでなくてはならない。若い男であれば、生命の危険さえ冒して荒々しい祭りに勇敢に参加し、老人、女性、子供はこれを見て興奮する。特に若い女性の熱狂は祭りの高揚に欠かせないので、男はなるべく全裸が良く、それが無理なら、着衣は少なければ少ないほど良い。もちろん、女が脱いだって良い。いや、脱ぐべきだ。実際、昔の祭りでは、非常に猥褻なものも少なくなかったはずだ。

だが、文明が進むと、こういった激しい祭りが少なくなってくるし、色々な理由から元々祭りがなかったり、それに参加できないグループや個人も少なくなかったに違いない。いや、相対的に言うと、むしろ祭りに参加できる人の方が少ないはずだ。そうなると、エネルギー補充の有効な手段を持たない人々はやはり生きる気力を失くしてしまうのだ。
異論はあろうが、宗教というものは、その問題を克服するために生まれた。
人が意識を広げ、神という不可知ではあるが強大な存在と一体化することで新しいエネルギーを得ることが宗教の目的である。
だが、宗教は形骸化しやすかった。それが権威と結びつくことが多く、そうなると教えには、権力者に都合の良いように制限がかけられ、宗教本来の役割を果たせなくなる。
だが、ここで偶然なのかもしれないが、宗教に変わる役割を果たすものが現れた。それが芸術である。もともと、宗教には、その儀式などの精神的効果を高めるために美術が多用され、宗教美術という分野もあるくらいである。
コリン・ウィルソンは「芸術は宗教の下僕としてスタートした」と言ったが、まさに言いえて妙である。
芸術は美術にとどまらず、内的に発達し続けた。よって、表面しか見えない者には美術と芸術の区別が付かない。

ルーマニアの宗教学者エリアーデは「宗教はエクスタシーの技術だ」と言ったが、このエクスタシーが、エネルギー拡充の際の現象を言うのであれば、芸術こそがエクスタシーの技術である。そして、20世紀最大の詩人W.B.イェイツは「芸術はエクスタシーである」と断言している。
さて、エクスタシー(ecstasy)とは、忘我、法悦の状態であり、法悦とは神との合一である。しかし、一般的には性的絶頂感を思うかべることが多いと思うが、それは間違いではない。しびれるような快感こそ、我々に自己を消失させるもので、自己の消失とは死を意味することでもあり、死ぬことを逝くと言うことから、性的絶頂感や、あるいは、感情が高まりすぎて我を忘れることを俗に「イク」と言うのである。
そして、聖女の法悦の表情も、セックスで絶頂に達した普通の女の表情も同じである。17世紀のベルニーニの彫刻「聖テレサの法悦」で、まさに法悦に達したテレサの表情は実に色っぽいと言ったら怒られるかもしれないが、そう感じるのが自然なはずだ。

こうなると、岡本太郎の「爆発」は「エクスタシー」と同じと言って良い。しかし、言葉とは役立たずである。「爆発」と言い、「エクスタシー」と言っても、その深い意味を知らなくては岡本太郎の真意は解らないのである。

「爆発」とは広がるものである。岡本太郎が芸術の真髄を爆発と言ったのは、この広がるということが重要だからだ。
なぜ広がるのだろうか?
それには、「どこまで広がれば良いのか?」を問えば良い。
それは、一言で言えば「広く」だ。広ければ広いほど良い。空間的にも、時間的にも。
時間に関して言えば、未来に広がるばかりでない。過去にも広がるのだ。
岡本太郎は、「芸術は無限に広がることだ」と言っても良かったが、やはり爆発が良い。
ロマン・ロランが芸術の目的を「大洋感情」と言ったのも、広いということを例えて大洋と言ったのだと思う。岡本太郎は、爆発という言葉で拡大する動きのイメージにより躍動感を与えたが、ロマン・ロランのセンスもさすがノーベル賞作家である。
大洋ほど広がれば、小さな個我はない。すなわち忘我である。そして万物と合一していることを感じさせる。
個我が消失すれば、我々は世界と一体化する。死者は世界となる。死者は幸福だ。
ではなぜ、我々は世界と一体化せずに苦しんでいるのか?個我があるからだ。
古代インド哲学を体現した聖者は、我々の実体は個我ではないと言う。真の我々は、肉体も心(個我)も時間も空間も超えたものである。それは至高の存在である。
宗教や、芸術は、一瞬でも我々にそれを感じさせるものでなくてはならない。祭りやセックスに及ばないものでは全く意味はない。これらでは個我と完全に決別することはできないのだ。特に近代においてはそうである。

フロイトは大洋感情を、世界との一体感であることは認めていたが、リビドー(性エネルギー)の退行的な作用、即ち、母親との再一体化の願望と断じ、深い価値を認めなかった。実を言うと、フロイトは、恋人達の無上の一体感ですら、その本質はやはり幼児期の母親との合一を求める気持ちへの回帰としていたようである。真面目で優秀だがお堅い人はなかなか難しいものである。
だが、フロイトのエスについての考え方がうまく適用できる。
自我が消失しはじめると、意識の中の自我が占めていた部分にエスが流入するのである。エスとは大雑把に言えば生命エネルギーである。祭りで人々が生命エネルギーを拡充する原理はこれである。自我は分別や比較に必要なものであるので、これが消失すれば、世界と自分の区別が付きにくくなる。幼児は自我が少ないので、世界と自分の区別が付いておらず、この世の神であり王様である。幼稚な人間が尊大である理由は、幼児の段階に留まっているからである。

芸術家を名乗るのであれば、人々に世界との合一、個我の消失と真の自己の偉大さを感じさせなければならない。

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2008.09.03

美の秘訣はただ少食にあり

私は、少食をあまり美容と結び付けたくないのであるが、その美容効果もまた、単なるダイエットに役立つばかりではない。
穏やかな心で少食を実施すると、男も女も間違いなく美しくなる。
若い女性であれば、華やかさが増すし、大人の女性の場合は優美さを備える。それは太陽と月に喩えられる。

同じ痩せている場合でも、単に若い時の身体の代謝能力の高さや運動で痩せている場合と、少食のために痩せている場合では、なぜか美しさが異なる。
私は以前、不思議に思っていたことがあった。それは、かなり前から、女子高生はもとより、女子小中学生をモデルにした写真雑誌が多くあり、その多くが露骨に少女達を性欲の対象としている。しかし、美しい子もいるかもしれないと思って見て見ると、これが驚いたことに、全く魅力がないのである。外見そのものは綺麗な子を選んでいるはずなので、まあ美人でスマートではあるが、その魅力の無さは驚くほどである。
この謎は、水野南北の書を読んで理解できた。食を抑えて痩せている場合は、肉体は痩せていても、精神が太っているといった表現がなされていた。食べないことで、動物や植物の生命を守り、また、食べ物という命の糧を天下に循環させる徳があるからである。これは意識的に行う必要はなく、少食にしてさえいれば積むことのできる徳である。
しかし、普段、満腹していると、肉体は痩せているが、精神も痩せているのである。

では、少食ではなくても、他人に親切であるとか、家の手伝いをよくする子は、やはり徳があり、精神が太っていて魅力があるのではないかというと、それはその通りである。しかし、最も高い徳を積めるのは少食である。
もちろん、極端に食を抑える必要はないし、少食療法で有名な甲田光雄さん(医学博士)も、特に子供の内は、お腹いっぱい食べて良いとしている。しかし、そうではあっても、敢えて抑え気味に食べたり、美食を慎み、また、菜食を多くし、間食をなるべくしないなら、生まれつきの姿は劣っていても魅力があり、生まれながらの美人の場合は天使のようになるはずである。そして、少食になれば、性質も自ずから美しくなるのである。

男の場合も、少食で美しくなる。
若い頃はかなりいい男であっても、中年を過ぎると極端に色褪せる男は多い。
しかし、年をとっても全く衰えないばかりか、ますますカッコよくなり、また深みが出て魅力を増す男もいる。
だが、女性の場合と同様、顔かたちそのものは良いのに魅力がない場合もある。
これらの差は、やはり精神の太り具合で決まると思う。
男の場合は、女性との比較において、活動範囲が大きくなる場合が多く、仕事などで大きな徳を積むこともあり、かなりの大食漢でも魅力がある場合もないではないが、やはり最も大きな要因は少食であり、特に中年以降はそうであると思う。そして、いくら人気がありお金持ちであっても、大食漢の晩年は惨めなものとなりやすい。

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2008.09.02

天下を取れる6文字

ソクラテスは「汝自身を知れ」と言ったが、諸説ありながらも、これはやはり「身の程をわきまえろ」という意味と思う。
ソクラテスなど知りもしないと思うが、徳川家康が請われて語った天下取りの秘訣がまさに「身の程を知れ」であった。
このソクラテスの言葉は「度を越すな」という意味で通用し、まさに家康が好んだ孔子の言葉「過ぎたるはなお及ばざるが如し」に通じるものである。
万巻の書を読まずとも、この偉大な2人にして1つの言葉を憶えておくだけで天下が取れるのだからお得である(笑)。

江戸時代の観相学者、水野南北の書を読むと、まさに家康を思い出す。
南北の教えは、その誉れ高い観相学(顔や身体の相で鑑定する運命学)すら付け足しで、ただ、「食を節せよ」である。
南北はこんなことを書いていた。
白米や美味しい食事は貴人や高位の者の食事である。下位の者でありながら、そのようなものを求めるのは身の程知らずである。自分に相応しいものを食することが徳である。それでこそ、立身出世も必ず叶うのである。
そして、家康は下位の者の食事をした。白米でなく麦飯を食べ、おかずは1汁と2菜か3菜であった。また、今でも人気のある八代将軍吉宗は、やはり粗食で1日2食であった。
水野南北自身、人生を最低の位置から始め、相貌極めて悪く、若くして死す運命であったが、食を節することを知り、7つの蔵を建てる大長者となり、長寿を幸せに送った。

これだけ憶えておけば大成功間違いなしである。ゆめゆめ疑うことなかれ。

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2008.09.01

最も手強い敵

人々が羨む成功を収めた人達が、必ずしも幸福でなかったということは多いと思う。成功者の不幸の代表的なものは健康面と家庭と思う。
だが、興味本位以外でクローズアップされることはあまりない、プライバシーに関わるもっと別の理由もある。もちろん、本当の事実かどうかは確認しようがないのであるが、個人を特定しないなら信憑性がある。

あの素晴らしい作品を書いたSF作家のH.G.ウェルズもまた成功してから幸福ではなかった。
SFというジャンルを外しても偉大な作家であり、また、科学者でやっていけるほどの能力もあり、実際に科学書を著していて、彼が科学者と認識されていることもあるようだ。
彼は、成功してから女狂いの本性を出したが、これは珍しいことではない。
成功し、富と名誉を得るとモテるということもあるが、成功者はまた、人間に対する洞察力があり、基本的に魅力的な性質である場合も多い。
ウェルズは、もともと女好きであったのだろうが、若い頃は小心者で女性に積極的でなかった。その分、中年を過ぎていくらでも寄ってくるようになるともう止まらない。また、今のようにセクハラが問題になる時代ではなく、それなりの配慮を忘れないなら、メイドに手を出すこともさしたることでなかったと思うし、実際、出していた。
晩年、ウェルズはあきらかに心的に疲弊し、前向きで積極的な人間でなくなっていた。
特に、若い頃にモテなかった場合は悲惨と思う。このあたりのことは、映画「嘆きの天使」などでよく描かれる。

成功者の不幸の根本原因がこのようなものである場合は実に多いと思う。結果、家庭も荒れるし、子供もおかしくなるのだと思う。
根本的には結婚制度というものがなければ良いのであるが、女好きという、本来であれば素晴らしい性質(笑)の誤った使い方も問題だった。
ウェルズはまた、晩年、でっぷりと太っていた。食の節制こそ、あらゆる節制の基本である。日本の水野南北を読み、食を慎めば晩年も発展し、人類を代表する思想家になったかもしれない。

ここからは怪しげな話であるが(笑)、女色に関するとっておきの話をもう1つあげる。術の力を身に付ける修行の最終段階は実に厳しい。術の力を与えるのは、神か精霊といった存在で、神秘力を持って修行者を試す。
そして、最終試験では、男の場合、その者の完全に好みのタイプの女が、これまた完全に好みのシチュエイションで迫ってくるというものもあり、まあ、99.9999パーセントは失格の結果となる(当然だ)。
超人を目指す方は心して欲しい。

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