心の在処
人間(あるいは生物)と機械の違いは何であろう?
おそらく、心や意識といった自律的な精神活動があるかないかという意見が多いと思う。
そこで、人は、心(あるいは意識)を持つ存在に特に思いやりや敬意を持つことになる(最近は、これすらなくなってきたように思うが)。
だが、心や意識がない無生物にも、非常な情を感じることがあるのはよくご存知と思う。その最たるものが、絵や彫刻といった芸術品と思う。決して、その作品が高価であるからという理由ではなく、その作品を傷つけられると、まるで親しい人に対してそうされたかのように感じることもある。
もちろん、芸術品に限らず、大切に思っているものであれば同じである。
「それが知世の一番大事なものなんか?」
「はい」
「中味は何や?」
「消しゴムですわ」
「なんで消しゴムがそないに大事なんや?」
「(さくらちゃんに一番最初にいただいたものですから)」
~「カードキャプターさくら」より~
モノには心はない。しかし、なぜそんなに大切に思うのだろう。
手塚治虫さんの「鉄腕アトム」で、アトムのお父さんとお母さん(共にロボット)が、老朽化して役に立たなくなったということで、廃棄処理場に収容され、廃棄処分されるというお話があったらしい。そこをアトムが助けに来るのだが、この作品では、ロボットに心というものがあるように読者に感じさせていたように思う。
だが、CLAMPさんの「ちょびっツ」では、人型パソコン(アンドロイドと同じ)であるちぃを愛しく思う18歳の大学浪人生の秀樹は、ちぃの姉のフレイヤに尋ねる。
「ちぃに心はあるのか?」
だが、フレイヤは「いいえ」と即答する。ちぃはプログラム通りに動いているに過ぎないと。
だが、秀樹は断言する。「ちぃの心は俺の中にある」
心や意識は、身体や脳といったちっぽけなものに収まっているだけのものではないと考える思想もある。また、ちょっとした表現の違いと思うが、あらゆるものに心や意志があるとする思想もある。それは主に宗教や神秘思想に多いのであるが、高度なロボットの研究者である科学者の前田隆司博士によると、いまのところやり方は分からないが、機械にクオリア(簡単に言うと自意識のようなもの)を与えることはそんなに難しくないと考えるとし、自分がロボットであることがある日突然分かっても驚くこともないだろうし、ロボットと人が愛し合うことも別段おかしなことでないと言う。
七月鏡一さん原作の「8マンインフィニティ」では、テクノロジの進歩は、自然生物と人工生物の区別の意味をなくすと宣言される。
上記、「ちょびっツ」でも、秀樹は躊躇なくちぃを選び、それは誰からも(おそらく大多数の読者からも)祝福される。
インドの現代の聖者ニサルダガッタ・マハラジは、「心が世界を作る。だが、あなたは心も身体も越えたものだ」と繰り返し教えた。
ダ・ヴィンチが描いたという証拠があれば、ラクガキであれ大変な価値となる。だが、なぜ価値があるのだろう。投機的な意味だけではないはずだ。逆に、「モナ・リザ」でも、価値を認めない人間にとってはタダでもいらないものであるかもしれない。
世界に価値を付けるものは自分しかいない。いくら勲章や金メダルを得ても、自分が確かな価値を見出さねば全く満足に至らない。自分が価値あると思えば、銅メダルが金メダルを上回る。他人の付ける価値など問題ではない。
傍目にはどんなに幸福に見えようと、自分が不幸と感じていれば不幸だ。
ある人が、世界は思うがままだという聖者が、乞食のような格好をしているのを見て言う。
「あなたは自分の状況は変えようと思わないのですか?」
だが、聖者は笑って言った。
「どの状況のことを言っているのかね?」
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