美という幻想
現在では非常に高価である、ゴッホ、ルノワール、セザンヌ、モネなどの印象派の画家の絵は、彼らが在命の頃はほとんど評価されず、そのため、「優れた芸術は作者が死んでから評価される」という思い込みが一般にもあるように思う。
では、なぜ彼らの絵が、彼らが制作していた当時、認められなかったかと言うと、当時の美術界や一般の持つ「良い絵」の基準に合ってなかったからと思う。
岡本太郎さんも「今日の芸術」で、美を含むものごとの価値は非常に曖昧であり、時代や地域で極端に変わると書いていたが、一方で、現在の情報メディアの発達した世界では、その偏りが少なくなりつつあるという見解を示していた。
だが、私に言わせれば、偏りが大きかろうが小さかろうが、美や価値なんて曖昧だ。これらに実体はなく、言ってみれば幻想だ。幻想の範囲が広かろうが狭かろうが、幻想は幻想である。
かつて大変に評価されたものでも、現在では全く記憶にも記録にも残っていないというものは実に沢山あるはずだ。そして、現在、絶対的価値を持つ絵画や彫刻、あるいは音楽や文学が、将来、全く注目されなくなる可能性も無いとは言えない。
紀元前130年頃に制作されたと考えられているミロのヴィーナスの価値が今も認められていると言っても、たかだか2200年程度しか経過していない。数千万年が経過し、仮に人類は滅んでいて、別の知的生命体が地球上で発達していたり、宇宙人が地球を訪れてこれらを見ても、果たして価値を認めるかどうかは疑問であろう。
美というものを認識するためには幻想を作り出す能力が必要である。人間以外の動物には幻想を作り出す能力はなく、よって、美を認識することはない。フロイトは、人間は本能が壊れているので、その補完として自我を作ったが、それは自然に立脚しない幻想であると言った。その論が本当かどうかはともかく、人間は幻想に生きるものであると思う。これに関しては、フロイトよりも、吉本隆明氏の「共同幻想論」が優れていると思う。
人類とは別の知的生命体が出現しても、もし彼らの神経組織が幻想を必要としないものであれば、やはり芸術は理解されないかもしれない。
もっとも、幻想を完全に振り払ったと言われる、インドなどに時々存在した解脱した聖者は、幻想をショーとして楽しむことはあると言う。興味深い話だ。ショーであるからには、少しも重要でなく、自分がそれに影響されることはないが、幻想は驚くべき力であり、なかなか楽しいものであるもののようだ。
ならば、我々も、幻想と自己が不要に密着した状態を脱し(これを悟りというのかもしれないが)、この世をあるがままにショーとして楽しめるようになることもあるのかもしれない。まあ、私も、時々はそうなのである(笑)。
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