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2008.06.01

存在とエクスタシー

あるインドの聖者は、「師は私に、あなたは至高の実在だと言った。私は師の言葉を憶えていたので、特に何の努力もしなかったが、真我を実現した(真の自分を見出した。仏教で言う悟りを開くとか解脱のこと)」と言った。
彼は、存在の感覚を見守れと言う。
この聖者の関連の書籍を見ても、存在の感覚についてこれ以上の説明はない。正直言って、これでは何も分からないはずだ。

しかし、エクスタシー(ecstasy)と存在(existence)の語源が同じであることに気付いた時、そのヒントを得た。
アイルランドの詩人W.B.イェイツ(ノーベル賞受賞。20世紀最大の詩人と言われる)は、芸術の目的はエクスタシーであると言った。
エクスタシーとは、忘我、法悦の状態である。
性的絶頂感をエクスタシーと言うことも多いが、これは自然なことと思う。その時、人は自己を忘れる。
イタリアの彫刻家、建築家、画家のジャン・ロレンツォ・ベルニーニの彫刻作品に「聖テレサの法悦」がある。この彫刻の若く美しい聖女テレサがキュービットの矢に刺されて浮かべる激しい表情はエクスタシーに満ちている。崇高な彫刻とはいえ、テレサの表情が非常に色っぽく感じるのは確かではないかと思う。

エクスタシーとは忘我である。つまり、自我を忘れて、あるいは消し去ってしまっている状態である。
フランスの思想家ジョルジュ・バタイユは、自らの最も良心的な作品とする「エロスの涙」において、「本書の意味は、第一歩において、《小さな死》と究極的な死との同一性へと意識を開くことである。快楽から、熱狂から、際限のない恐怖へ」と言う(ちくま学芸文庫「エロスの涙」より)。
小さな死とは、たとえば性的エクスタシーや宗教的恍惚感であろう。それは死と同義である。俗なものであるが、女性は性的エクスタシーを感じた際「死ぬ」と言うし、男性は「果てる」と言う。最近ではさらに軽く「イク」と言うだろう。その「小さな死」「忘我の状態」を死と捉え、我々は理性の児戯を超えることもできるのである。
そこに存在という、我々が知りえる唯一の究極の何かがある。
確かに、宗教の中には性的エクスタシーを活用して真の自己の実現に至るものもあるらしいが、そのようなものを求めると怪しげな団体につかまる可能性の方が高い(笑)。
それよりも、イェイツのいう芸術的エクスタシ(岡本太郎の爆発も同じと思う)の探求をする方が良さそうである。

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