忘我の力
ある宗教団体で使われている真言(呪文みたいなもの)が実に良い。
ここに書いても構わないのだとは思うが、ちょっと引っ掛かるのでやめておこう。
その真言を唱えると、その宗教の関連の霊が集まるらしい。私は、生きた人間であれ、霊であれ、来るもの拒まずであるが、相手が霊だと、どう挨拶していいか迷う。「こんにちは」で良いのであろうか(笑)。
さて、その真言の意味であるが、「真言であり、特に意味はないのだが、敢えて言えば、『無になりきれば不可能はなくなる(思いの儘になる)』というもの」らしい。
「無になりきれば不可能はなくなる」とは、この世の究極の真理である。
とはいえ、ただ「無になりきれば不可能はなくなる」と言われても困るであろう。そもそも、「無になる」とはどういうことか?どうすれば無になれるのかがさっぱり分からないはずだ。
それでも、少し勉強すれば、「無になる」の何を無にするのかというと、自我であることが分かる。
およそ人を幸福にしようといろいろ教えてくれている人は、それが本物であるなら、つまるところ、無になる方法、即ち、自我を消し去る方法を教えているのだ。それに成功すれば不可能はないのであるから。
宗教でいえば、一心に祈り、宗教的恍惚感に到達すれば、それは自我のない状態、つまり、忘我の状態であり、宗教的奇跡が起こったとしても不思議はない。しかし、なかなかそこまでいけないのが普通だ。
聖書には「心を鎮め、自分が神であると知れ」とあり、心が鎮まった状態が忘我であり、無になることであるから、そうなれば神と言って差し支えなく、万能であろう。しかし、心を完全に鎮めることなどそうそう出来ることではない。
私が何度かお会いしたことがある発明家の政木和三さんの主張は「欲望を捨てれば不可能はなくなる」であった。なるほど、無とは、あるいは、忘我とは、欲望を捨てた状態である。しかし、欲望を捨てるのがまた難しい。政木さんは、自分の発明したパラメモリという装置(アルファシータやバイオソニックも同じ)を使えば、脳波がシータ波になり、それが無の状態であると言った。しかし、欲望が残っていると、パラメモリを使っても脳波がシータ波にならないようだ。
忘我を実現するのに、芸術が有効であるというのは本当だ。
ロマン・ロランによれば、芸術の目的とは大洋感情であると言うが、これは世界と自分が一体となった忘我の状態である。フロイトによれば、これはリビドーを逃避的に使ったもので、母親との一体感の願望と言い、ロランの反発を買ったが、池田満寿夫さんがよく言っていた子宮回帰の願望ともいえ、案外、両者の主張は近いのかもしれない。
W.B.イェイツは、芸術の目的はエクスタシーであると言った。そもそもが、エクスタシーには忘我という意味があり、宗教的法悦のようなものである。
心理学者マスローの至高体験も、大洋感情や忘我的エクスタシーと同じと思う。
マスローと親交のあった英国の作家コリン・ウィルソンは、まさに、この至高体験を全ての人類に解放することを自分の一生の使命と考えていた。彼の成果はとても素晴らしいが、やはり、さほど多くの人がその恩恵に与っていない。
多くの本を読み、成功した人の話を聞くごとに、やはり幸福、幸運の秘訣が忘我であることの確信は深まる。ある成功した社長さんは「俺は若い頃は全勝でないと我慢できなかった。しかし、やがて負けてもいいと思うようになり、今は1勝14敗でいいと思っている」と言った。
負けることは明らかに忘我、無我に通じると思う。負けることで忘我を学び、そこに至るのである。
では、後はどうやれば、忘我即ち無になるかが分かれば、あなたもスーパーマンだ(いや、マジで)。
ダスキンのサイトを見ると、経営理念の中に「自分に対しては、損と得とあらば損な道をゆくこと」とある。まさに至言である。答はここにありであった。
インドの聖者なら、もっと別の方法もいろいろ示している。しかし、我々一般人にはなかなか実施ができない。しかし、これであれば日常で実施できる。例えば、電車に乗る時、どんどん割り込ませて自分が一番最後になり、座席を確保し損ねれば良い。大丈夫!マナーを守って乗車する限り、必ずそうなるであろう(笑)。
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