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2008.06.03

一人は誰でも寂しいか?

人はみんな違っていて、それぞれが特別であると言われる。それはある意味正しいが、普遍的な部分だってある。
ところが、往々にして集団社会とは、異なっていて構わない部分を同じにしようとしたり、同じであるはずのところを違っているはずだとするものなのである。
漫画家の大島弓子さんの作品で、自身が子供の時、家族みんなが大の甘党であるが、自分だけが辛いものが好きなことの不幸をギャグタッチで描いたものがある。彼女もまた甘いものが好きなはずだということを家族の誰もが疑わず、好きでもない甘いものを食べさせられ続けられたというものだが、これは笑い話では済まないことである。

共同幻想といって、同じ時代、同じ地域の人々の精神的傾向というものは似る場合が多い。しかし、なぜか周囲の者と同じ共同幻想を持たない者がおり、そのような人は変わり者とされたり、ひどい場合は狂人扱いされることもある。逆に、特別な人間として巫女やシャーマンになる場合もある。詳しくは「共同幻想論」(吉本隆明著)が面白い。

しかし、人間には、絶対的とは言わないが、ほぼ普遍的にあてはまる性質というものもある。極端なものは、人としての権利を奪われ虐げられるのは嫌だということだ。だが、なぜかこういったことが誰にでもあてはまるということが認知されていないと思えることはよくある。人を虐げることを意図的に楽しんでいた者も多いが、黒人や低いカーストの生まれの者が、自分と同じ感情を持つと思わずに、それらの人々を理不尽に扱った人々もいると思う。あるいは、本当は分っているのだが、怠惰や優越感で心が曇らされて他人の気持ちに鈍感になる場合も多いだろう。

では、人は皆、一人でいることを寂しいと思うだろうか?
よく、一人でも平気であるという風を装う者がいるし、彼らの演技が上手いからなのか、そういう人もいると思い込んでいる人も少なくはないと思う。

高屋奈月さんの大ヒット漫画「フルーツバスケット」で、大晦日の晩、居候の本田透(ほんだとおる。高校1年女子)を一人家に置いて、男三人が自分達の本家に帰るというお話があった。彼らは、母親を亡くした最初の大晦日であった透を一人で残すのは気がひけたが、本家のしきたりが厳しく、年末に帰らないとひどい目に遭うことは間違いなかった。
透もそのあたりは察し、「私は大丈夫ですから」と笑っていた。
しかし、透の同級生でもある2人は途中で引き返す。「一人が平気なヤツなんているはずがない!」

「涼宮ハルヒの退屈」では、ある事件が解決した後、キョン(主人公。高校1年生男子)が、無表情に読書する長門有希(高校1年生女子)を見て思う。「俺たちを巻き込んだのは、お前の希望だったんじゃないのか?殺風景な部屋で何年も一人で過ごす宇宙人製アンドロイド・・・長門よ、やっぱりお前にもあるのだろうか?一人でいるのは寂しいと思うことが」
およそ感情などありそうもない宇宙人製ヒューマノイドインターフェースの少女にまでそう洞察するキョンは、物語では凡人であるが、実は偉大である。

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