軽い少女の幻想美
女性のダイエット願望は、行くところまで行けば、なかなか凄いものであるらしい。
職業モデルのように、必要に迫られてのこともあるが、一般女性でも、健康を害するまでになったり、拒食症になる場合も少なくない。
ただ、プロのモデルの世界でも、必ずしも超スリムなモデルを良いとしないような変化も起きているらしい。
ところで、なぜスリムな女性が良いのであろう。それも、「細ければ細いほど」というような風潮は根強いように思う。これも、一種の幻想なのであろうか?
特に女性の美といったものは、必ずしも普遍的なものとは限らず、地域、時代でかなり認識が異なるものであることはご存知と思う。
笑い話だが、日本の女子大生2人が、未開部族の村に迷い込み、拉致されて神への生贄にされるというものがあった。その際、部族の者達は「生贄は美人だけだ。醜い女だと神の怒りを買う」と言う。女子大生の一人は素晴らしい美人だが、もう一人は気の毒なくらいブスであった。これまで全く男性に相手にされなかった方の女子大生は「こんな顔に生んでくれた親に初めて感謝したい」と思った。しかし、彼らが迷わずに選んだのは、こちらの女子大生であった。
同様に、少数派かもしれないが、体重の重い女性が人気のある地域が現在でもあるはずである。
とはいえ、多くの文明国では、やはりスリムな女性が好まれるようだ。
天使は、翼があるとはいえ、軽いから飛べるのであり、月夜に屋根や木の枝の間を飛び移る妖精の少女こそ、理想の女性像であるかもしれない。だから、それに少しでも近い存在でありたいのだろうか?
小説「涼宮ハルヒの憂鬱」で、主人公の高校1年生の男子は、ふらりと倒れそうになる朝比奈さん(高校2年の美少女。ただし、実際の年齢は不詳)を慌てて支え、その軽さに驚く。
これである!女の子は、何かのはずみで好きな男にもたれかかった時、その軽さで感動させたいものであろう。
それこそ、高い処から愛する男の胸にダイブし、自分の軽さに加え、男の逞しさもあって、彼は余裕で自分を抱きとめる・・・という、いささか少女漫画というか、ハーレクインロマンス的願望は大きいと思う。
さらに同小説には、ある理由で倒れた長門有希(高校1年生女子)について、「長門の体重を感じさせない身体を支えたままで」という表現もあり、間違いなく、読者(特に男性読者)に対する長門有希の好感度を上げている。
アニメ「カードキャプターさくら」の最初のオープニング部分が凄い。1枚のサクラの花弁がくるくると風に舞いながら水に落ちて浮かぶ。そこに少女の脚が着地し、花弁を踏むと宙に舞い上がる。究極の身軽さである。メインの視聴者である小学生の女の子達はため息をつき、自分もああなりたいと思ったはずだ(ただしおやつはやめられない)。
アニメ「怪盗セイント・テール」では、セイント・テールこと、14歳の羽丘芽美は、水面にすっと立ってみせる(マジックなんでしょうが)。水面に立つのは、イエス様によれば、信じて疑わねば出来るらしいが、体重制限もあるに違いない(笑)。
尚、軽いと思わせる秘訣は、抱っこさせる前に、別のコ(できれば自分より重い。少なくとも大差ない)を抱っこさせることだ。二人目は恐ろしく軽く感じるのである。一度力を使うと、筋肉の状態も変わるからだ。
ある程度のダイエットは健康にも良いと思うが、いかなる意味でもあまり身体にこだわらない方が良い。
人は身体や心が実体ではない。だが、なまじ美的な身体があると、自分を強く身体と同一視してしまう。
「荘子」にこんな話がある。死んだ母豚にしばらくは子豚が寄り添っていたが、やがて子豚は去っていく。子豚は、母豚の形を愛するわけではない。
ましてや人間は、身体という形だけを愛するはずがない。身体ではないその実体の美しさを知ると、身体を忘れる。「荘子」のその話は、モテまくる部類の醜男の魅力の秘密を孔子が説明したものである。
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