感情の貧しさが自分を騙す
感情というものは、本当は我々が思うよりずっと神秘的で複雑であるのに、非常に限られた種類の感情しか感じることができない人が多いように思う。
例えば、親が嫌いという感情を持つ子供や青年も多いと思うが、本来は「嫌い」とは別の感情を感じているかもしれない。しかし、感情の種類が少ないので、それを嫌いに分類してしまっているように思う。確かに、現代人の特に若い人には、好きと嫌いの感情しか持っていない人が多いように思う。
ある程度若い間は、尊敬という感情を正しく掴んでいないので、これを恐怖に分類することが多い。それで、偉大な人物を恐く感じてしまう。これはある程度仕方がないのであるが、現代は尊敬という感情をなかなか持てなくなっているので、大人物は直感的に若い人に好かれるために、自分をいかにも気楽な人物に見せ、とりあえずは好きに分類してもらおうとすることがある。例えば、総理大臣候補の政治家が漫画を熱心に読んでいることをアピールしたりである。
萌えとか、それと関連の強いロリコンといったものは、アニメの美少女キャラや非常に幼い少女への性的欲望と捉えられるが、それも本来は別の感情である。だが、感情が豊かでないので、自分でもそのようなものに分類してしまうのだ。
そもそもが、ロリコンのルーツである、小説「ロリータ」に登場する中年の変態おじさんのハンバートも、本来は少女に対し、フロイトの言う性的リビドーとは違うものを感じていたのかもしれないのだ。その点、あらゆるリビドーを性に結びつけたフロイトより、これを多くの本能的エネルギーとしたユングの方が適切かもしれない。
日本人は、西洋人が騒音としか捉えない虫の声を風情と感じる情感を持っていたし、貧しい家ですら花を買うという、世界的に見ればやはり特殊な感性を持っていたが、現在ではそうでもないように思う。
感情が豊かであれば、昨今のように家族を衝動で殺すこともないし、つまらない理由で他人を憎むこともないだろう。日常茶飯になった感もある、男性教師が女生徒にちょっかいや果ては猥褻行為をしたりも、あまりに貧しい感情の成長具合の悲劇である。
クラシックを聞いたり、古典文学に通じている者は大丈夫かというと、純粋にそれらが好きならそうとも言えるが、虚栄でそれらが好きなフリをする者が一番危ないのである。
CLAMPさんの人気漫画・アニメ「カードキャプターさくら」で、小学4年生の凛々しい少年である李小狼(リー・シャオラン)は、高校2年生の男子である月城雪兎(つきしろゆきと)に会うと、顔が真っ赤になり動揺する。まるで恋愛感情である。小狼の同級生のさくらも雪兎が大好きなので(こちらは正しく恋愛感情)、小狼とさくらはまるで恋のライバルになる。雪兎は、どちらも分け隔てなく優しく接する。
雪兎のもう1つの人格であるユエは、小狼に言う。「お前が雪兎に会うと動揺するのは、私の月の力の影響だ。お前はまだその力を制御できないからおかしなことになるのだ」と言う。
自分の感情をあまり信用しない方が良い場合がある。
女の子は中学生の頃とか、一時的に同性の方が好きになることがよくある。それも感情が乏しいので、ある種の感情を恋愛のように感じてしまうのである。
感情を豊かにすれば、自分の気持ちが理解しやすくなり、無駄なことで悩むことも少なくなる。「自分の気持ちが分らない」などと言う時は、自分の精神修養について振り返ると良い。
エキセントリックな映画やドラマばかりでなく、真の情感に満ちた映画や文芸作品を読むと良い。あるいは芸術に接すると良い。それが生きる上で、どれほど役に立つか分るであろう。
The comments to this entry are closed.
Comments