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2008.06.29

生きるチカラ

芸術家にも自殺者は多い。
彼らは、この世の神秘な美しさや、自らの魂に潜む荘厳さすら発見したかもしれないのに自殺したのだ。
この仕組みは、分かりやすく言えば、次のようなものだ。
一般の人が、スポーツや映画の感動的なシーンを見て、涙ながらに「勇気をもらいました」と言って感激する。しかし、月曜の朝になり、これから毎日、学校や会社に行かなくてはならない現実に憂鬱になるようなものだ。
芸術家は、感激を感受する度合いが大きい分、日常の煩いとの落差が大きく、より鬱になりやすい可能性がある。「生活なんて召使にやらせておけばいい」と言った芸術家もいたが、芸術家には多いタイプかもしれない。

逆に言えば、日常を煩わしく感じる度合いの大きい人は、感動したり、ありきたりな勇気なんかをもらうと自殺しやすくなるかもしれない。幻想の夢の世界に行きたがるのだ。
アイドルの後追い自殺が非常に多いのもこのためと思う。
ごく普通に見える女子中学生が「私、○○(自殺したアイドル)みたいになる」と言って、簡単にビルから飛び降りるのである。彼女は、日常に愛想が尽きていたのだ。

日本において、安直に日常を楽しくする方法は1つである。
国家や大企業の定めた価値観に従うことだ。それに逆らうと、煩いごとは非常に大きくなる。
つまり、最も何も考えずに幸せな人生を送るつもりなら、受験エリートを目指すことになるだろう。

日本人の自殺が世界でぶっちぎりのトップを独走する理由は、国家や大企業が押し付ける価値観が非常に狭いことだ。よって、それに適合しない多くの者は自殺予備軍となる。
日本では、ごく一部の人間しか「立派」でない。さらに悪いことに、その「立派」は実は異常であるので、それに適合するのは無理がある。いったん強く適合していた者が、なんらかのきっかけで適合できなくなると絶望して自殺する。

自分独自の価値観に生き、世間に背を向けてたくましく生きているはずの者も、自分の価値観に疑問を抱くと、やはり死にたくなるのだ。

では、どうすればいいかというと、究極的には、人間本来誰しも有している力を見出すことであるのだが、いきなりそう言われても困ると思う。
まずは、価値判断や思慮分別を忘れることである。
数学者としてよりは童話作家で名高いルイス・キャロルは、11歳くらいの少女への手紙に、冗談めかしてはいたが「忘れることがこんなに気持ちいいこととは思いませんでした」と書いていたが、私には本音に思える。

価値判断を忘れ、自然な自分を取り戻すには、私よりもっと役に立つことを書いておられるブログがある。ここでも、よくコメントいただいている彫刻家の石彫人さんのブログ
開き直りのススメ
である。
我々は幼児の頃、何度転び、ぶつかっても、歩くことを諦めなかった。そのような力は、本当は消えることはない。それを取り戻せば、人生は豊かになると思う。石彫人さんのブログを見て、そんなことを感じたものである。

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コロンブスの卵再考

Egg_2
これは、何の仕掛けもなく、ただ、テーブルの上に生卵を立ててみたものである。
注意深くやると、割に簡単にできる。
昔、集中力の訓練のつもりでやったものだが、ちょっと心を鎮める時には良いかもしれない。
ミスター・マリックは、テーブルの上に5円硬貨を立て、それを倒さないように、その穴に爪楊枝を通すという訓練を紹介していたこともある。
いずれも、コツは、テーブルに肘をつけることである。
コロンブスの有名な「コロンブスの卵」の話は、ゆで卵を使い、先にトライした人はうまくいかなかったが、コロンブスは卵のお尻(頭?)をテーブルに叩きつけてへこませて立たせたというが、この通り、そんなことをせずとも、生卵でも立つのである。
パイオニアがいつも特別に賞賛されるのは、コロンブスの言うとおり、一番最初にやることが、とてつもなく難しいことが多いからである。だが、我々はそれを忘れがちだ。
「では、まずは私が」と行動した者が世界を進歩させてきたのである。
しかし、基礎の段階では、型にはまることも必要な場合が多い。単調で退屈な基礎を延々と繰り返した後に独創性を発揮するチャンスがある。そして、そのタイミングを計ることは、さして難しくはないはずだ。結局、成功する人というのは、単調さに耐える忍耐と、一歩を踏み出す勇気を併せ持ち、謙虚に天の理に従う者なのだと思う。

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2008.06.28

殺人をさせないという想い

殺人事件のニュースをよく見るようになったが、殺人について考えてみよう。
秋葉原の連続無差別殺人事件の現場に出くわし、もし、自分にその力あれば、それを阻止したいと思うのは当然と思う。では、なぜ殺人を止めるのか?
被害者になりそうな人を救うためか?
もちろん、それもある。
だが、加害者に殺人をさせないためという思いが忘れられている。

「スターウォーズ」の第1作は現在では「エピソード4」と呼ばれるが、1977年に公開され、1997年に「特別篇」としてリニューアルされている。
この中で、オビ=ワン・ケノービが、かつての弟子アナキン・スカイウォーカーであるダース・ベイダーと戦うシーンがある。
年老いて力が衰えたオビ=ワンと、サイボーグ化して身体強化されたダース・ベイダーでは、かつての師が不利である。だが、これまでと思ったオビ=ワンは剣を止め、攻撃も防御も解く。一刀両断にするベイダー。だが、手ごたえがなく、ベイダーはとまどう。
映画の中で、こんな解釈はなかったが、オビ=ワンは自ら命を絶ったのだ。ベイダーに1つの殺人をさせないために。私自身は、そんな見方をした。

殺人は、殺される方は無惨であるが、殺す方も悲惨なのだ。
戦国時代の戦いの最中。
もはやこれまでと判断した兵達が自害することがある。最後の最後まで交戦し、一人でも多く道連れにするという方法もあり、それも賞賛されるのかもしれないが、潔く果てるのには、敵の人間に無用な殺害をさせないためという配慮はないのであろうか?

殺される前に、自ら命を絶った聖者は確かにいた。相手に罪を重ねさせないために。
殺人だけではない。盗まれる前に、心から持ち物を全て進呈した者もいた。
ジャン・ヴァルジャンに銀の蜀台や食器を進呈したと主張したミリエル司教は、何もジャン・ヴァルジャンをかばったわけではない。本当に、彼に罪を犯させなかったのだ。

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2008.06.26

敬う心

品格ブームであるが、日本人に品格がなくなってきたことは、いろいろな人が、それぞれの知識や経験の中から様々に語り、その多くはなるほど同意できる。
だが、直接に感じるのは、他人に敬意を持つ心を失くしているのではないかということだ。
自分にとってメリットのない人間、恐くない人間なら平気で見下し、ぞんざいに扱い、極端には、死んでも構わないといった態度ができてしまう。
真に品格ある人間は、月のような人間だ。恋人を理解することではなく、誰にでも同じように接してあげることのできる人が最も気高いのだ。
お釈迦様は、たとえ表に現れていなくても、誰の内にもある仏性に敬意を表し、誰をも心から礼拝したと聞く。
ただ、志なき人間は他人に敬意を払えない。

あなたの志に、敬意を。我が身を器に、顕現を。ともにフレイムヘイズたるの使命を、斃(たお)れる日まで果たしましょう。
~高橋弥七郎「灼眼のシャナV」より。名前無き12歳程の「天道宮の少女」の言葉~

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2008.06.25

実存としての小説世界

「月は地獄だ」という、1950年のキャンベルのSF小説がある。
1970年代に月の裏側に15人の男達が乗り込むのだが、事故で宇宙船は破損、飛行不能となり、1ヶ月の滞在の予定で用意した装備で、救援が来るまで生き延びなければならないというものだ。
私はまず、桑田二郎(当時、桑田次郎)さんの漫画版で読み、その後、小説を読んだ。ただ、いずれも小学生だったので、詳細はあまり憶えていない。小説では、彼らの日誌に「今日の太陽電池の製作は○○個」「今日の太陽電池の製作は△△個しかできなかった」「本日の太陽電池の製作は□□個。新記録だ」など、太陽電池の製作に注力している様子が印象深かった。やはり日頃の業務は重要であるなあ・・・と。

ところで、もっと印象に残っていることがあった。
ある科学者が、月面ドームの外での作業中、事故が起こり、生命は取り留めたが、脚を失った(片脚か両脚かは憶えていない)。
だが、その科学者は言ったのだ。
「私はマラソン選手ではないから、別に問題はない。研究には支障はない。」
この積極思考には、子供ながら感心したものだ。

日本一のお金持ちの経営者、斎藤一人さんの教えに、「困ったことなんか絶対に起こらない」というものがある。
何か困ったと思うことが起こった時、それで本当に困るのかと考え、本当は少しも困らないことが分れば、現実の方が変わってしまうというものだ。
この科学者は、脚を失くすという、一般的には「困ったこと」が起こったに関わらず、「別に困らない」と考えたようだ。

このように、貴重な教えであれば、現実はもちろんだが、優れた文学作品に適用することも十分に可能と思う。フロイトも精神分析を文学作品によく適用していた。また、フロイトは民族や国家すら精神分析できると言った。ただ、これに関しては、吉本隆明氏の「共同幻想論」を適用する方がより適切と思う。
逆に言えば、斎藤一人さんの教えや、フロイト精神分析学や、共同幻想論をうまく取り入れた文学作品を書くのも良い方法かもしれない。もっとも、そのためには、これらを深く理解する必要があるだろうが、それには、この世の真理を見抜く鋭い洞察力を磨かねばならないだろう。
ドストエフスキーの作品は、小説とはいえ、世界に対する超人的洞察力ゆえに名作なのであるのは疑いが無い。

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2008.06.24

信念と幻想

願いを叶えるために必要なことについて、聖書でイエスはこう言ったらしい。
「山に、動いて海に入れと命じ、その通りになると信じて疑わないならそうなるだろう」
有名な言葉と思う。
これが嘘か本当かは確かめることができる可能性は少ない。なぜなら、そんなことをこれっぽっちも疑わず信じられる人はまずいないからだ。
まさにこれを信念と言うのだろう。
妄想と言うのかもしれないが、私はこんな見方をしている。
山が動いて海に入るはずがないというのは一般的な共有認識だ。対して、命じれば山が海に入るというのは特殊な個人認識となる。通常は、特に統制された国家では、個人認識は共有認識に組み込まれる。そして実際は、共有認識の大部分は共有幻想と言って良いほどあやふやなものだ。なら、個人の認識のほとんどは個人幻想である。共有幻想の中で独自の個人幻想を持つことは大変なことだ。
共有幻想に関わりあいにならずに、個人幻想を信じた気になるのは比較的たやすいかもしれない。精神病院では、自分はキリストの愛人であると宣言する患者もいるが、彼女は広い共有幻想に背を向けている。だが、世間の幻想を知った上で自分だけの幻想を持つには想像力も心の力も要する。
天才画家サルバドル・ダリは大いなる妄想家だったと言えると思う。「私は、朝、目覚める度に大きな歓喜に包まれる。私がダリであるという歓喜である」「世間の人がダリやベラ(ダリの妻)であることなく生きていられるということに対する疑問は、日に日に大きくなるばかりだ」
だが、これを信じてしまえるダリの精神力は大変なものだ。もっとも、ダリは、この力をあるグッズに頼っていた。1つの単なる木片である。それを失くしたと思った時のダリの様子は惨めであった。
共有幻想を知った上で、個人幻想を育ててみれば良いと思う。多少の良識はもってね(笑)。それこそが信念というもので、全てを可能にする力である。
※共有幻想という言葉を使ったが、吉本隆明氏の「共同幻想論」からその用語を借りた。

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2008.06.23

現状を否定する美神達

内海康満さんの本にこんなことが書いてあった。
「私は、橋の下の家に住んでいる人を羨ましく思ったことがある。あんなところでも寝れるとは、なんて幸せなんだ。私は快適なベッドや布団がないと眠れない」
で、当時、愚かにも傾倒していた(笑)船井幸雄さんの本にはこうあった。「不満をバネにがんばるというのは下手な生き方です。現状に満足すべきです」
まあ、船井さんが言ったからではなく、この言葉自体が良いと思ったから憶えているのであるが(この言葉自体は、いろんな偉い人が言っているが)、内海さんの言葉も無視できなった。

谷川流さんの「涼宮ハルヒ」シリーズは、単なる小説ではあるが、500万部も売れた(今後、更に伸びるはずだ)小説には何かあると思っても良いであろう。
涼宮ハルヒは、完全な現状否定タイプである。しかし、彼女は、小学6年生のある日までは、現状肯定タイプだった。
小学6年生の時、家族でプロ野球観戦に行き、5万人の大観衆を見て、自分のちっぽけさを思い知ったのだった。それまで幸せだった自分の人生は色褪せ、小学校卒業まで悩み続け、ついに決意する。「自分を変えよう」と。
彼女は、現状を否定した刹那、宇宙開闢の時から存在していたある存在(この小説では統合情報思念体)を超えたのだ。

「レイアース」というアニメ作品がある。CLAMPさん原作の「魔法騎士レイアース」が元になってはいるが、全くのオリジナルストーリーで再制作された2時間ほどの作品だ。
心優しく愛情に満ちているが、気が弱くおとなしい中学3年生の少女、鳳凰寺風(ほうおうじふう)が言う。
「確かに私(わたくし)は、人と争ったことも傷付けたこともありません。でも、この現実を、こんな運命を受け入れるわけにはまいりません!」
彼女は、異世界の魔法使い達との生死を賭けた戦いを決意する。
魔神ウィンダムは、それまでに彼女にこんな言葉を送っていた。
「このまま滅びを迎えるか?それとも運命に抗うか?全ては汝次第だ」

ニーチェは「運命愛」といって、いかなる運命も偶然も愛することの崇高さを説いた。イェイツもまた「アラブ人への3つの手紙」で、決して「神の思し召し」に従うという意味ではない激しいまでの現状の絶対肯定を説いた。
ニーチェ、イェイツの帰依者であった私が現状否定論タイプが好きなことは実に面白い(笑)。

ついでに言うと、ツンデレのハルヒの秘めたる想い人キョンは、完全現状肯定派だ。
「こんな状況になって初めて発見したよ。なんだかんだ言って、俺はこれまでの暮らしが結構気に入ってたんだ」
その「これまでの」世界を取り戻すため、キョンはハルヒにあんなことするのですが(笑)。

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2008.06.22

私が平常心を保てた訳

秋葉原連続無差別殺人の犯人は、犯行の動機として、将来への不安があったことは間違いないようだ。
「もう若くないので、雇ってくれるところも少なくなった」と思っていたというのは本当と思う。年配の人にとっては「25歳で!」と笑うかもしれないが、女の22と男の25は年を取ったと実感する頃であるかもしれない。

将来の不安は誰にでもあるかもしれない。
考えてみれば、私も大学生の頃は非常に将来に不安があった。中学2年生から、授業を一切聞かないなど、学校との関わりを極力避けながら高校までは出たが、アインシュタインの時代ではないし、独学と試験の一夜漬けで今の大学は卒業できない。しかし、大学の教員や学生と関わるのはまっぴらであった。
当然、ニート一直線となり、世間が分からないものだから将来に全く希望を見出せない。
秋葉原のあの犯人は、まだちゃんと働いていただけまともな部分もあったかもしれない。
つまり、私だって、何か事件を起していたとしても決して不思議ではない。
あるいは、宗教に勧誘されていたら、突っ走っていたかもしれない。
日本という国は、学校に洗脳されなかった者には生き難いところである。
だが、私は、偶然にジョセフ・マーフィーの成功法則の本の1つ「あなたも幸せになれる」を読んでいたおかげで平常心を保てた。この本には、誰でもいかなる願いも、努力無く確実に叶えることができると書かれている。それであれば、将来の不安などないわけである。
マーフィーの本に書かれていることは本当である。だが、あえて言えば、私は成功法則であれば別のものをお薦めする。この本はあまりに誤解をしやすく、おかげで願望の成就も遅れる傾向があると思う。
いかに全ての願いが叶うとはいっても、そのためには精神的力量、すなわち心の力のようなものが必要である。また、人間の我欲というのは厄介なもので、多くの場合、これが宇宙の力の発動を速やかに止めてしまう。
誰の役にも立たない願いはとりあえず放っておくことだ。例えばガールフレンドや車や宝石やブランドものの服などである。
また、いきなり年収1億など、アホな願いが叶うわけではない。そんな願いの成就には信念の力も必要だ。
まずは、親切な人々のいる職場と、ある程度の安定した収入を望んだ方が良い。

マーフィー法則は、どうしても私には完全には馴染まず、願いが実現しないというよりは、実現しにくい願いを持つことが多かった。
一般的な日本人にはもっと良いと思われるものは以下のものだと思う。

□マジック・ストーリー(著者不明 ソフトバンククリエイティブ)1050円
□マスターの教え(ジョン・マクドナルド著 飛鳥新社)1050円
□富を「引き寄せる」科学的法則 (ウォレス・D・ワトルズ著 角川文庫)460円

最後のものを特にお薦めする。
尚、どれを読むにしても。次の本は併読をお薦めする。

変な人が書いた成功法則 (斎藤一人著 講談社プラスアルファ文庫)

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2008.06.21

哀れ日本

秋葉原での、連続無差別殺傷事件が、ナイフの販売に大きな影響を与えている。
事件からしばらくして、ヤフーは、ショッピングおよびオークションでのダガーナイフの取り扱いを一切禁止した。
鳥取県では、18歳未満へのダガーナイフの販売を禁止するという(もっとも、多くのナイフ販売店では未成年者へのナイフ販売を自主規制している)。
ダガーナイフとは、秋葉原の事件で凶器として使われた両刃の短剣で、突き刺す能力が高く、この事件のように、訓練したわけでもない素人でも人を殺すことが可能である。

そして、当初は、販売規制のターゲットはタガーナイフが対象で、Amazonはじめ、多くのネット販売会社では、その他のナイフに関しては従来通り販売していた。Amazonでは、つい最近まで、タガーナイフも扱っていた。しかし、本日あたりでは、Amazonでは、一部を除き、ほとんどのナイフの販売を事実上中止してしまったようだ。

ナイフマニアの私も、ダガーナイフは1本も持っていない。だが、明らかにファイティング用途のナイフはいくらか持っている。なぜ持っているかというと、ファイティングナイフには独特の美しさがあるからであるが、他のナイフファンの方同様、鑑賞のために持っている。

秋葉原の事件では、何が悪いのかはいろいろあるのであろうが、ただ、ナイフが悪いというわけでは決してない。
ダガーナイフの規制自体は悪いとは思わない。ダガーナイフは純粋に武器である。
しかし、ナイフは、旧石器時代からの人類の友であり、人類に知恵と力と重要な美意識も与えてきたと思う。
むしろ過剰な規制が心配である。完全にそうとは言わないが、数十年前に学校でのナイフ所持を禁じてから、ナイフにはマイナス面での関心が持たれることとなり、結果として、ナイフによる犯罪は増えたと思う。
アメリカでは昔、禁酒法で酒の製造販売を禁じると、闇バーが一気に増え、ギャングの資金源になった。
明治政府が民衆の性風習(夜這い等)を取り締まると、風俗店が激増し(政府も手厚く保護した)、不幸な女性は増え、裏社会の資金源となった。
現在でも、淫行条例により援助交際は確実に増えると共に、規制ギリギリの女子中高生(小学生も多い)をモデルにした猥褻なメディア製品は凄まじい数となってしまった。
禁断の果実ほどウマいものはない。
規制は大抵の場合、逆効果であることを理解できない頭の悪い役人の多い国である。今後も困難は多いであろう。哀れ日本。

私が所有する、アルマーの「ワイルドウエストボウイ」。これもファイティング用である。
Wwb03

Wwb04

販売店の説明では、グリーンベレーに所属していた経験のあるナイフデザイナーのアル・マーがFBIの友人の依頼を受けて制作したもので、ハンドル中央の金属パネルには、FBIの隊員番号が刻まれたという。
このナイフの販売を続けているショップもあるが、私が購入したところでは販売を中止した。
小型で素敵なナイフであるのに残念である。
尚、このナイフとハンドル部分が共通のダガーナイフ「ワイルドウエストブーツ」の販売はさすがに行われていないようだ。

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2008.06.20

神秘な記憶

少し前、原田知世さんが「時をかける少女」を歌うのをテレビで見た、彼女もすっかり大人になった。
この歌は、彼女が15歳の時の同タイトルの映画の主題歌で、映画でも彼女の歌が使われていた。1983年のことで、監督は大林宣彦さんだ。原田さんは、主役の芳山和子を演じた。
未来人ケン・ソゴルは、過去の人間に未来の世界の記憶を残すわけにいかず、和子の記憶を消し去ってから未来に帰った。
映画では、後日談として、化学研究者になった和子の前にケンが姿を見せるが、和子は首を傾げ、不審そうな表情をしたが、そのままケンの前を通り過ぎた。
原作では、和子は、深町家(ケンは、この家に住む老夫婦の孫になりすましていた)からただようラベンダーの香りに、何か不思議な感情を抱く。そして、「いつか素晴らしい人物に会える。その人は私を知っている。いつ会えるかは知らないが、きっと会えるのだ」と思う。

では、映画版では和子はケンをすっかり忘れたかと言うと、そうではない。彼女が化学研究者の道を選んだのは、ケンの仕事がそれだったからだ。
いずれにしても、小説でも映画でも、心の奥深くで、和子はケンを覚えているのだ。

昭和40年の、この筒井康隆さんの小説の生命力は大したものだ。何度もドラマ、映画になり、2007年にはアニメ映画になった。
この作品の価値は何だろう。
私は、上に書いたように、表面的な意識では忘れてたようでも、人は大切なことを忘れないことを教えるからであると思う。

CLAMPさんの漫画「ツバサ・クロニクル」のアニメ版で「ふたつのキオク」というお話があった。サクラ姫は、過去の記憶を失くしており、好きだった小狼(シャオラン)のことも憶えていない。小狼が、サクラのために懸命になると、サクラは「どうしてそんなに私のためにしてくれるの?知らない人なのに・・・」と言って、小狼を悲しませたこともあった。
だが、この「ふたつのキオク」という話で、モコナ(白饅頭と言われることもある奇妙な生き物)は、「サクラは心の記憶は失くしたけど、身体の記憶は失くしてない」と言う。
それは、確かに、サクラの小狼に対する様子を見れば分かることである。

かつて「格闘王」と呼ばれた、格闘技界の重鎮、前田日明(まえだあきら)さんの自伝「パワー・オブ・ドリーム」に面白い話がある。
前田さんが、マーシャル・アーツ(アメリカのプロ空手)の王者であり、世界の格闘技界にその名を轟かせるドン・ナカヤ・ニールセンと戦った時、前田さんはニールセンのパンチを顔面に受けた後のことを全く憶えていないという。勝利し、空手の師匠を愛車ポルシェに乗せて運転している時、不意に我に帰り、「あれ、俺、何してるんだ」と言い出す。試合のことも全く記憶になく、自分の試合をワクワクしながらビデオで見たという。
ただ、ラグビーなどの激しいスポーツをやってた者なら、こういった経験を持つ者は割にいる。

神のような存在や天使と逢った時の記憶も普段の記憶と違う。
それは、もしかしたら1/100秒とか、もっと短い時間に起こることかもしれない。よって、表の意識ではほとんど憶えていない。しかし、「いま、素晴らしいことがあった」という不思議な確信がある。そして、その時のメッセージは、意識の奥深くに刻まれている。

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2008.06.19

職場の有意義な私的利用?

昔から、職場の電話の私的利用がよくあったと思うが、今はなんといっても、職場のインターネットの私的利用が問題になっている。現在では、電話と違い、料金が発生することはないが、長時間に及ぶこともあり、業務効率を大幅に損なうこともよくある。それも、国民の税金で運営される省庁やその他の公的団体、学校内では校長までが勤務中にネット通販をやってたとかいうニュースをよく見るが、まあ、多少なら大騒ぎするほどではないが、毎日数時間とかいうものもあるようだ。

では、職場での私的活動、職場の設備の私的利用をする者のみんながロクデナシかというと、かなり面白い例もある。
まずはあのアルバート・アインシュタインだ。彼は、大学卒業直後、研究室の仕事を得られず、特許庁で事務職員として勤務している。その時期、彼はブラウン運動に関する論文を発表して注目されたが、その研究は、職場で行っていた。職場の自分のデスクの大引き出しを引っ張り出して論文を書いていたのである。無論、上司が来る気配を感じたら、引き出しをしまい、仕事をしていたフリをするためである。
また、これは記憶が確かでないかもしれないが、日本人が作った世界的に評価の高いコンピュータプログラミング言語Rubyを開発したまつもとひろゆき氏も、職場のパソコンでこれの開発をしていた時期があったような話を見た覚えがある。
もっと凄いのは、天才写真家アラーキーこと荒木経惟氏だ。荒木氏は、電通の社員時代、撮影した写真を職場のコピー機でコピーし、写真集にして各所に送付していた。そのコピー数は半端ではなかった。数千枚、いや、数千部だったかもしれない。荒木氏はこれを「職場のコピー機を有意義に私的利用した」と表明していたと思う(笑)。ところで、荒木氏は、コピーという単純で長時間のシンドイ作業を自分でやったりはしなかった。職場の女子社員に命じてやらせていた。しかも、荒木氏の写真だ。猥褻なものにきまっている。ちょっとここでは申し上げられない女性のある部分の拡大写真が多かったと聞く^^;
まあ、彼らは後に、世界に大きな恩返しもしていることから、神様も目をつぶってくれるのではないかと思う。荒木氏に関しては知らないが・・・^^;

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2008.06.18

成功法則について

「成功法則」に関する本は大変に多い。
昔からあるものでは、トライン、アディントン、ブリストル、マーフィー、ヒルがあるが、その他にも実に沢山ある。最近の流行は「引き寄せの法則」か?
ただ、こう言っても構わないと思うが、これらの本を読み、本当に成果を得た者はほとんど皆無と断言できる。よく売れている本では、数十万部とか、二百万部突破とか言われるので、有名なものだけでも全部合わせると大変な数で、一人で数冊読んでいるとしても、大変な数の人がこれらの本を読んでいることになる。しかし、その数に比べれば、高額納税者の数は極めて僅かで、割合で言えば限りなくゼロである。簡単な理屈である。
では、これらの本がデタラメかというと、そういう訳ではないと思う。

まず、成功法則の本は、子供や学生、また、働いてはいても、気楽で責任をあまり感じていない人には無用のものだ。子供の願望が全部叶っては大変だ。これに関しては、ヒンドゥー教の聖者がよく、人は学童期(学生)、苦行期(社会人)を通して、精神を鍛え磨く必要があり、それなくして精神の爆発はないといったことを言っているがその通りと思う。
ある程度までは、成功法則とは関わり無く、最低限の修行をする必要がある。
成功法則というものが役に立つのは、主婦などを別にすれば、現在で言えば少なくとも年収500万円を超えたあたりではないかと思う。ただ、いくら努力しても年収300万を超えないといった場合は、むしろ良いかもしれない。
無論、子供や学生でも、大きな問題を抱えている場合には、強い精神力を発揮する可能性もあり、成果をあげるかもしれないが、法外なお金を手に入れるようなことはまずあるまい。

私は、これは日本人には合わないと思ったのは、ジョセフ・マーフィーだ。「努力はいらない」「潜在意識は判断力を持たず、あなたの意志に従う」は、ある意味そうかもしれないが、むしろ致命的な誤解を招く。マーフィーは、善意で考えれば、アメリカの全く教養のない無知な人間にでも興味を持てるようにと、あのような表現をしたのかもしれない。
ナポレオン・ヒルは、おそらく原文が難解なのではと思う。翻訳を見ても、ほとんどが何度読んでも意味が掴めない部分が少なからずある。
だからといって、これらがダメというわけではないが、多少考慮いただいても良いと思う。

いずれにせよ、成功法則の本は1冊にすべきと思う。これはというものを選びたい。
そして、選んだら、普通は100回は読む必要があると思う。10回や20回なら、時間の無駄だから読まない方がむしろいい。
もし働いていないなら、ゲームなんかしてないで、退屈さに耐えて繰り返し読むことをお薦めする。私がニートから脱出したのはこの方法である。私の場合、ジョセフ・マーフィーで、いろいろ問題はあったが、それでもその程度の役には立った。
では、大富豪になったら、どれが良いかお教えしよう(笑)。

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2008.06.17

ジョージ・ルーカスが映画を駄目にした

1ヶ月前の大昔に書いて放っておいた記事です。
映画「南から来た用心棒」で、帽子を弾丸で穴だらけにされたアリゾナ・コルト(主人公の流れ者のガンマン)が言います。「新品だったんだぞ。5~6年前に買ったばかりだ」

映画は、1977年の「スターウォーズ」から駄目になった。
ジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグが、映画を芸術の位置から蹴落とした。
これに加担した映画監督としては当然キャメロンがあげられる。

「スターウォーズ」以降の多くの映画、特に近年の娯楽映画は面白過ぎる。
見せ場は次々に訪れ、エキサイティングでエキセントリック。観客は完全に思考停止して、本能的なイメージ力だけで楽しめる。

日本のお笑いにも同じことが言える。
面白すぎる。テンポの良さ、分かりやすさが凄い。観客を見ると、若い女性が、全く何も考えず、間抜けな顔で大笑いしている。これは恐怖である。
こういったお笑いのスタイルは、若い芸人が先導しているが、ベテランもこれに追従せざるを得なくなった。

面白い本を探している友人がいたら、サミュエル・ベケットを薦めてみると良い。おそらく、友人を1人失うだろうが、そんな友人、いない方が良い^^;
登場人物は、イケメンでも美少女でもヒーローでも賢者でもない。痴れ者の愚者ばかり。彼らが何の意味もない会話を続ける。実は何か意味があるのかと言うと、やはりない(笑)。いつ、ストーリーに盛り上がりがくるのかと期待して読み続けるが、それはついに最後までない。
あまりの退屈さに、読者の想像力がひっそりと活動を開始するのだ。意味もないものに、勝手に意味を付けていくかもしれない。そうすれば、文章に味も出てくるであろう。
本来、芸術とは、作者と鑑賞者の共同作業であるのだ。

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2008.06.16

知られざる恐るべき事実

ボクシングの世界タイトルマッチの勝利者が実は試合中、風邪で40度近い熱があったとか、ロサンゼルスオリンピック女子体操で優勝したメアリー・ルー・レットンが実は足首の捻挫で競技2日前まで歩けない状態だったといった驚異的な裏話の中には、数十年も後に明かされるようなものも少なくはない。

そして、こんなお話もあまり知られていないが面白いと思う。
21世紀になったばかりの頃、2組の中学生の娘とその母親に、映画の「美少女戦士セーラームーンR」(1993.12)を母娘で一緒に見に行ったという話を聞いたことがある。中学生の娘さんがまだ小学校低学年の頃だ。
片方の母娘は、ラストのクライマックスシーンでは、共に手を取り合い、目をうるうるさせながら見ていたそうだが、もう一方は、母親はずっと寝てたという(笑)。
だが、多くの場合、日本中でお母さんと小さい娘さんが、ドキドキしながらそのクライマックスシーンを見ていたと思う。

そのクライマックス・シーンとは・・・
地球に接近した彗星に潜む敵と戦うため、5人のセーラー戦士は彗星に乗り込み、苦難の激闘の末、敵に打ち勝つが、もはや地球に戻る力は彼女達には残されていなかった。
彼女達を乗せた彗星は崩壊していき、隕石となって地球に落下していく。
絶対絶命の中、セーラームーンは、自分の生命である秘石「幻の銀水晶」のパワーを解放し(それはセーラームーンの死を意味する)、みんなを護るべく、隕石をシールドし、仲間のセーラー戦士達や、セーラームーンの恋人のタキシード仮面もセーラームーンに力を集める。それぞれのセーラー戦士達は、孤独な頃、セーラームーンこと月野うさぎに初めて逢った時のことを回想する。彼女達は、寄り添うセーラームーンとタキシード仮面の後ろに手をつないで2人に力を注いでいた。

問題は、その時に流れていた歌だ。
セーラー戦士達の声優自ら歌う、勇敢な雰囲気の歌は実は恐ろしい歌であった。
作詞した冬杜花代子さんは、「セーラームーンR」のRの意味を知らなかった。一般には「ロマンス」と理解されているが、実ははっきりと決まってはいないと思う。そこで、冬杜さんは、「リベンジ」を当てはめ、歌の題も「ムーンリベンジ」とした。「月の復讐」である。歌の主題は「宿命の愛は、追いかけても、逃げても、死んですら終わらない。なぜならそれが月の復讐だからだ」である。
セーラームーンでは、輪廻転生は公然たる事実となる。生まれ代わり、死に代わっても、運命の2人は巡りあい、永遠に愛の悲劇を繰り返す。
「愛は夢のままではつづかない。むさぼれば美しい屍。それでも、望むのなら追いかけてきて」
「透けて見えてる別離(わかれ)で燃えながら、次回(つぎ)のめぐりあいもまた、あなたがいいと」
およそ、子供向けアニメの歌の詩ではない^^;

隕石は地球に無事帰還するが、幻の銀水晶は木っ端微塵となり、セーラームーンは死ぬ。
だが、宇宙生命体フィオレの命の水により、セーラームーンは生き返る。セーラームーンが目覚める時、おごそかに始まった歌声は確かにこう言った。「イッツ、ムーンリベンジ」と。
セーラームーンが生き返ったのは、月がより深い復讐を果たすためであるのではないのか?
実際、彼女達の前には、その後千年にも渡る苦難があるのだ。

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2008.06.15

平安を恐れる男たち

DVDで、「南から来た用心棒」という映画を見た。
1966年公開のマカロニウエスタンで、主演は27歳くらいの若き日のジュリアーノ・ジェンマだ。
映画界には、どの国にもとびきりのカッコいい男優は過去から多くいたが、個人的にはこのジェンマほど格好良い男はいないと思う。顔は超美形とはいえないかもしれないが当然ハサンムでイキでとても味がある。若い頃からこれほどの哀愁も貫禄もある俳優は少ない。最近の「イケメン」という表現を使いたくない俳優だ。
非常にスタイルが良い上に、運動神経が素晴らしく、動きがしなやかで格好良い。仰向けに寝転んだ状態から脚の反動で後頭部を支点に跳ね、すっと立ち上がる動作は有名で、私も高校時代にマスターしたものだ(笑)。

さて、この「南から来た用心棒」というタイトルは、日本独自のもので意味はない。
原題は「アリゾナ・コルト」で、ジェンマ演じる流れ者の凄腕ガンマンが名乗る名前だ。
広大な砂漠のあるアリゾナと、リボルバー(回転式拳銃)の代名詞であるコルト(銃器メーカー名でもある)を名前にするところが実に大胆で格好良い。
アリゾナ・コルトは流れ者のガン・マンで賞金稼ぎ。銃の腕は凄いが、イカサマポーカーの腕も凄いヤクザな男でもある。
だが、なりゆきもあり、ある町で強大なならず者集団と戦い、町を守って英雄扱いされ、町の美しい娘ジェーンとも相思相愛となるが、彼は一人で町を出て行く。視聴者は、「なぜ?」と思うと同時に「これがアリゾナ・コルトだ」と納得するに違いない。

小椋桂さんの歌に「また旅支度」というのがあり、歌詞の中に、「今この街もいいことばかり。なぜまた旅支度」「苦しみだけが待つ道のりを。なぜまた旅支度」というフレーズがあるが、ちょっと思い出す。

アリゾナ・コルトのような男は安住を恐れるのだ。常に不安定な状態に自分を置いておきたい。愛しい女もそれを止めることは出来ない。
旅は強制的に不安定な状況を作り出す。生きている実感を得るためには不安定さこそ必要だ。
「人間は安定を求めた時、生きることをやめるのですね」
かなり幼い頃に見た漫画の美女の言葉で、タイトルも憶えていないが、このセリフはよく憶えている。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンも、作家として成功した後はずっと旅を続けた。なぜそこまで旅をするのか?彼の自伝を一度読んだだけでは理解できなかった。だが、旅で見たものの描写の面白さは間違いなかった。
W.B.イェイツは、旅こそしなかったが、年を取っても、決して平安を求めず、むしろ狂気を求め続けた。不良老人で在り続けた。抒情詩を書く詩人が押並べて若い中で、彼はいつまでも鮮やかな抒情詩を書いた。そして病床にある死の10日前にすら優れた詩を残した。
ピカソは「芸術家の青春は60歳だ」と言ったが、80過ぎてもとんでもない不良老人であった。

どうも人間は、いわゆる自分らしく、熱く生きるためには安定や安住、平安は避けねばならぬものらしい。

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2008.06.14

幽霊の歌は警句

フロイトが言ったように、自我や心自体が全て幻想かどうかはともかく、我々は幻想を抱きやすく、逸脱を起こし、洗脳に染まりやすいものであることは確かである。
特に、集団というものは間違いなく幻想を伴い、我々個々は集団との関係で、ほぼその幻想に取り込まれるものである。
幻想に染まったまま幸せな一生を送るということがあるかどうかは知らないが、様々な理由から私は遠慮しておきたい(笑)。
幻想とは、大概において心地良いものだ。では、心地良いものを警戒すれば良い。
感動するもの、心惹かれるもの、憧れるもの、安心するもの・・・全て嘘であるかもしれない。いや、嘘としよう。
W.B.イェイツの詩に“What then?”というのがある。日本語では「それがどうした?」と訳されるようだ。
この世の良きもの、価値のあるもの、幸せや望みについて、プラトンの幽霊が大声で歌うのである。“What then?”と。
「だったら何だ?」私は、この言葉を1日何百回でも使おうと思う。
高貴な霊の言葉は聖書に書かれているかもしれない。だったらどうした?闇に響き渡る幽霊の声にこそ私は惹かれる。一説によれば、幽霊は天使が姿を変えたものであるらしい。
天使も悪魔も実際は何もしない。ただ、見守るだけの天使と異なり、悪魔は背中を押すこともある。それは幸福に向かってそうするのであるが、人間の迷いのせいで悲劇に向かうこともある。それで幽霊が警句を発するのである。

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2008.06.12

繰り返す度に気付く

読書家には、大雑把に言って、乱読派と熟読派がいるらしい。
私は、本来、熟読派である。
気に入れば、同じ本を何度でも読む。
また、同じ映画、アニメも、しつこく何度も見る。

小学生の時は、「ピノキオ」「みつばちマーヤの冒険」「怪傑ゾロ」をとにかく何度も読んだ。
マーヤからは、人の良いところだけ見ることを、ゾロからは女の子の口説き方を教わった(笑)。ピノキオからは、欲にかられると馬鹿になることを学んだ。また、やせ我慢の良さも。

数年前、ニサルダガッタ・マハラジ「アイアムザット」を読み、一生、この本だけを読もうと思った。だが、4回目を読んでいる時、他の本にも興味が出てきて、いったん中止とした(笑)。

映画では、淀川長治さんは、アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」を4百数十回見て、その度に必ず涙を流したらしい。
私は、ある頃、ノーマン・ジュイソン監督の「ジーザス・クライスト・スパースター」(1973)を、録画ビデオで70日間連続して、毎日欠かさず見たことがある。飽きることは全くなかった。
アニメでは「灼眼のシャナ」全話のDVDを繰り返し連続7回、「涼宮ハルヒの憂鬱」は20回以上見ているはずだ。
実に多くの気付きや学びがあった。

賢者と言って良いと思うある人は、おそらく「ローム大霊講話集」と思うが、ある霊能の大家の人に、これをボロボロになるまで読めと言われ、12年かけて、閉じ糸が取れて本当にボロボロになるまで読み、その本を持って弟子入りを願ったら、その大物霊能力者は涙を流して喜び、弟子になる必要はない。友人になってくれと言ったらしい。
意志の強さと誠意。何かを成し遂げるために必要なものだろう。

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2008.06.11

多機能の恐怖

子供の時、万能戦闘機みたいなものを考えたことがある。
空を飛び、海に潜り、地中にすら入り込む。あらゆる武器や、その他、考えられる限りの機能を付けた。そして満足していた。
だが、モノが分かってくると、多機能はほとんどの場合、醜いことが分かってくる。また、機能が多いと、それだけ故障も増えるということだ。
良い道具とは、必要な機能のみを美しく磨きぬいて搭載したものが良い。ドイツの優れた工業製品のように、磨耗すればするほど良い動きをするような配慮と工夫があれば更に良い。
ソフトウェア製品を見ても、余計な機能を持ったものが多い。これにはユーザー側にも問題がある。「こんなことができないか?あんなこともできないか?」と無用なリクエストを出す。メーカーも、ものの分からない連中に決定権がある場合があり、結局、使いもしない機能のせいで遅く、不具合も多く、醜いソフトウェアとなるのである。
これらは、この世の普遍的な法則でもある。何を付けるかではなく、何を省くかを考えることだ。何が必要かではなく、何が不要かを見極めることだ。
人生においても、不要なものを求めなければ、必要なものは得られるのだ。

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2008.06.10

神秘な偶然の一致

帰宅すると、宗教人類学者の植島啓司さんの著書、「天使のささやき」が届いていた。最近、植島さんの本を2冊読んだが面白いので、もう1冊と思って適当にAmazonに注文した。Amazonには本の画像はなかった。
届いたものを見ると、表紙にベルニーニの彫刻「聖テレサの法悦」の写真があったのに驚いた。今月1日の私のブログ記事「存在とエクスタシー」に、この彫刻のことを書いていたからだ。

こんなことはよくある。
面白い例を紹介しよう。
10数年前、こたつテーブルの上に3冊の本を重ねて置いていた。
「神秘の薔薇」(W.B.イェイツ)
「至高体験」(コリン・ウィルソン)
「美少女戦士セーラームーン 14巻」(武内直子)
である。
私は当時、イェイツを知らなかったが、タイトルと装丁が気に入って買っただけだった。

まず、セーラームーンを開けると、まだ幼い女の子が、神秘的な詩を暗誦していた。
さらに彼女は、バスルームにその詩が載った本を持ち込み、恍惚とした表情で読んでいたが、幼女だったのが、胸のふくらみかけた12歳くらいの少女の姿に変わる。
彼女(土萠ほたる=セーラーサターン)が暗唱していた詩が、イェイツの「再来(再臨)」であると後で分かった。
「至高体験」の序文には、「また、マクミラン社に対しては『W.B.イェイツ全詩集』からの引用を許されたことに感謝し・・・」とある。
たまたまイェイツの本の下に重ねた2冊の本で、イェイツが実に重要な扱いを受けていたのである。
尚、土萠ほたるの「再来」の朗読(声は皆口裕子さん)はCDで入手した。

「涼宮ハルヒの憂鬱」で初めてシーシュポスなる名前を見たが、私はそれが誰か知らなかった。その時、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」を読んでいて、引用されていたカミュの「異邦人」を気に入り、早速買いに言ったら、書店では「異邦人」の隣に、やはりカミュの「シーシュポスの神話」が置いてあり、一緒に買った。さっき、植島啓司さんの「賭ける魂」を読んでいたら、「おのれに課せられた運命と戦うシジフォス(シーシュポス)のように・・・」と書かれてあった。

小学生の時は、土星を見ようと、あてずっぽうに天体望遠鏡を向ければ必ず当たりで、不思議とも思わなかった。
いや、もっと凄い話はいくらでもある。
私はいったい何者か?(笑)

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2008.06.09

正体不明のすゝめ

正体不明の人間になりたい方も多いだろう。良いことだ。
「この人は○○だ」で紹介が終わってしまう人間ではつまらないだろう。
正体不明の人間は神秘的でモテるし、恐ろしげで一目置かれる。そして、不思議なことに事象をコントロールすることも可能だ。
では、正体不明の人間とはどのようなものか?
非常に多面的で、しかもその1つ1つが深い者だ。つまり、多くの特技を持ち、多分野に渡る深い知識がある。趣味が多い場合もあるが、その1つ1つがかなり極まっている。
では、どうやればそのような人間になれるかというと、あらゆることに命がけで取り組み、食べなくても平気だが、本を読まないと死んでしまうと言い切れる者だ。
どうだ?自分には無理だと悟ったかな?(笑)
だが、究極の秘訣を教えておく。それは、自分で自分の正体が分からないが、それに耐えられる者だ。これができれば、上記の条件は全て取り下げることもできるが、こちらの方がよっぽど難しい。

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2008.06.08

忘我の力

ある宗教団体で使われている真言(呪文みたいなもの)が実に良い。
ここに書いても構わないのだとは思うが、ちょっと引っ掛かるのでやめておこう。
その真言を唱えると、その宗教の関連の霊が集まるらしい。私は、生きた人間であれ、霊であれ、来るもの拒まずであるが、相手が霊だと、どう挨拶していいか迷う。「こんにちは」で良いのであろうか(笑)。

さて、その真言の意味であるが、「真言であり、特に意味はないのだが、敢えて言えば、『無になりきれば不可能はなくなる(思いの儘になる)』というもの」らしい。
「無になりきれば不可能はなくなる」とは、この世の究極の真理である。
とはいえ、ただ「無になりきれば不可能はなくなる」と言われても困るであろう。そもそも、「無になる」とはどういうことか?どうすれば無になれるのかがさっぱり分からないはずだ。
それでも、少し勉強すれば、「無になる」の何を無にするのかというと、自我であることが分かる。
およそ人を幸福にしようといろいろ教えてくれている人は、それが本物であるなら、つまるところ、無になる方法、即ち、自我を消し去る方法を教えているのだ。それに成功すれば不可能はないのであるから。
宗教でいえば、一心に祈り、宗教的恍惚感に到達すれば、それは自我のない状態、つまり、忘我の状態であり、宗教的奇跡が起こったとしても不思議はない。しかし、なかなかそこまでいけないのが普通だ。
聖書には「心を鎮め、自分が神であると知れ」とあり、心が鎮まった状態が忘我であり、無になることであるから、そうなれば神と言って差し支えなく、万能であろう。しかし、心を完全に鎮めることなどそうそう出来ることではない。

私が何度かお会いしたことがある発明家の政木和三さんの主張は「欲望を捨てれば不可能はなくなる」であった。なるほど、無とは、あるいは、忘我とは、欲望を捨てた状態である。しかし、欲望を捨てるのがまた難しい。政木さんは、自分の発明したパラメモリという装置(アルファシータやバイオソニックも同じ)を使えば、脳波がシータ波になり、それが無の状態であると言った。しかし、欲望が残っていると、パラメモリを使っても脳波がシータ波にならないようだ。

忘我を実現するのに、芸術が有効であるというのは本当だ。
ロマン・ロランによれば、芸術の目的とは大洋感情であると言うが、これは世界と自分が一体となった忘我の状態である。フロイトによれば、これはリビドーを逃避的に使ったもので、母親との一体感の願望と言い、ロランの反発を買ったが、池田満寿夫さんがよく言っていた子宮回帰の願望ともいえ、案外、両者の主張は近いのかもしれない。
W.B.イェイツは、芸術の目的はエクスタシーであると言った。そもそもが、エクスタシーには忘我という意味があり、宗教的法悦のようなものである。
心理学者マスローの至高体験も、大洋感情や忘我的エクスタシーと同じと思う。
マスローと親交のあった英国の作家コリン・ウィルソンは、まさに、この至高体験を全ての人類に解放することを自分の一生の使命と考えていた。彼の成果はとても素晴らしいが、やはり、さほど多くの人がその恩恵に与っていない。

多くの本を読み、成功した人の話を聞くごとに、やはり幸福、幸運の秘訣が忘我であることの確信は深まる。ある成功した社長さんは「俺は若い頃は全勝でないと我慢できなかった。しかし、やがて負けてもいいと思うようになり、今は1勝14敗でいいと思っている」と言った。
負けることは明らかに忘我、無我に通じると思う。負けることで忘我を学び、そこに至るのである。

では、後はどうやれば、忘我即ち無になるかが分かれば、あなたもスーパーマンだ(いや、マジで)。
ダスキンのサイトを見ると、経営理念の中に「自分に対しては、損と得とあらば損な道をゆくこと」とある。まさに至言である。答はここにありであった。
インドの聖者なら、もっと別の方法もいろいろ示している。しかし、我々一般人にはなかなか実施ができない。しかし、これであれば日常で実施できる。例えば、電車に乗る時、どんどん割り込ませて自分が一番最後になり、座席を確保し損ねれば良い。大丈夫!マナーを守って乗車する限り、必ずそうなるであろう(笑)。

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2008.06.07

変態

「変態」と言うと、どうも変態性欲の代名詞と思われているのではないかという位、この意味ばかり定着しているようだ(笑)。
しかし、変態とは、生物学的にも、物理・化学的にも実に神秘的、もしくは、精妙で驚異的なものである。
幼虫がさなぎになり、成虫に変化するのも変態であるが、あれほどの短時間での変身は大きな動物にはないものであり、実に驚くべきものと思う。大きな動物の例ではモスラがあるが(笑)、やはりその変態は映画でも神秘的に描かれていたのは、やはり変態には言い知れぬ感動があるからと思う。
女の子がある時期に急にきれいになることを「さなぎから羽化したように」などと言うし、なるほどそのような印象には正当性があるように思う。
ところで、別に少女が美しくなる場合に限らず、人もまた急激に変化することがある。しかし、それは主に内面である。究極の例を挙げれば、ブッダガヤ(菩提樹)の下で悟りを開いた釈迦がそうであると思う。彼は、深い瞑想に入り、僅かな時間で全くの別人に生まれ変わった。だが、瞑想すればブッダ(覚者。解脱者)になれるというものではない。昆虫で言えば、幼虫時代の活動が重要になる。
人間の進歩というのは、いつでもブレイクスルーだ。スポーツでも、芸術でも、少しずつ上達する部分も確かにあるが、大きな進歩は突然にやってくる。何かを熱心にやっていると、ある日突然、「あれ、俺って何でも出来るぞ」と感じることがある。ただ、人間の進歩はsky is the limit(天井知らず)だ。謙虚であればどこまでもいける(時間の果てまでもね)。
昆虫の変態を見ていると、人間の、果ては宇宙の真理も感じることができる。
変態中のKayより・・・って、どっちの変態か、それは謎だ(笑)。

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2008.06.04

軽い少女の幻想美

女性のダイエット願望は、行くところまで行けば、なかなか凄いものであるらしい。
職業モデルのように、必要に迫られてのこともあるが、一般女性でも、健康を害するまでになったり、拒食症になる場合も少なくない。
ただ、プロのモデルの世界でも、必ずしも超スリムなモデルを良いとしないような変化も起きているらしい。

ところで、なぜスリムな女性が良いのであろう。それも、「細ければ細いほど」というような風潮は根強いように思う。これも、一種の幻想なのであろうか?
特に女性の美といったものは、必ずしも普遍的なものとは限らず、地域、時代でかなり認識が異なるものであることはご存知と思う。

笑い話だが、日本の女子大生2人が、未開部族の村に迷い込み、拉致されて神への生贄にされるというものがあった。その際、部族の者達は「生贄は美人だけだ。醜い女だと神の怒りを買う」と言う。女子大生の一人は素晴らしい美人だが、もう一人は気の毒なくらいブスであった。これまで全く男性に相手にされなかった方の女子大生は「こんな顔に生んでくれた親に初めて感謝したい」と思った。しかし、彼らが迷わずに選んだのは、こちらの女子大生であった。
同様に、少数派かもしれないが、体重の重い女性が人気のある地域が現在でもあるはずである。

とはいえ、多くの文明国では、やはりスリムな女性が好まれるようだ。
天使は、翼があるとはいえ、軽いから飛べるのであり、月夜に屋根や木の枝の間を飛び移る妖精の少女こそ、理想の女性像であるかもしれない。だから、それに少しでも近い存在でありたいのだろうか?

小説「涼宮ハルヒの憂鬱」で、主人公の高校1年生の男子は、ふらりと倒れそうになる朝比奈さん(高校2年の美少女。ただし、実際の年齢は不詳)を慌てて支え、その軽さに驚く。
これである!女の子は、何かのはずみで好きな男にもたれかかった時、その軽さで感動させたいものであろう。
それこそ、高い処から愛する男の胸にダイブし、自分の軽さに加え、男の逞しさもあって、彼は余裕で自分を抱きとめる・・・という、いささか少女漫画というか、ハーレクインロマンス的願望は大きいと思う。
さらに同小説には、ある理由で倒れた長門有希(高校1年生女子)について、「長門の体重を感じさせない身体を支えたままで」という表現もあり、間違いなく、読者(特に男性読者)に対する長門有希の好感度を上げている。

アニメ「カードキャプターさくら」の最初のオープニング部分が凄い。1枚のサクラの花弁がくるくると風に舞いながら水に落ちて浮かぶ。そこに少女の脚が着地し、花弁を踏むと宙に舞い上がる。究極の身軽さである。メインの視聴者である小学生の女の子達はため息をつき、自分もああなりたいと思ったはずだ(ただしおやつはやめられない)。
アニメ「怪盗セイント・テール」では、セイント・テールこと、14歳の羽丘芽美は、水面にすっと立ってみせる(マジックなんでしょうが)。水面に立つのは、イエス様によれば、信じて疑わねば出来るらしいが、体重制限もあるに違いない(笑)。

尚、軽いと思わせる秘訣は、抱っこさせる前に、別のコ(できれば自分より重い。少なくとも大差ない)を抱っこさせることだ。二人目は恐ろしく軽く感じるのである。一度力を使うと、筋肉の状態も変わるからだ。

ある程度のダイエットは健康にも良いと思うが、いかなる意味でもあまり身体にこだわらない方が良い。
人は身体や心が実体ではない。だが、なまじ美的な身体があると、自分を強く身体と同一視してしまう。
「荘子」にこんな話がある。死んだ母豚にしばらくは子豚が寄り添っていたが、やがて子豚は去っていく。子豚は、母豚の形を愛するわけではない。
ましてや人間は、身体という形だけを愛するはずがない。身体ではないその実体の美しさを知ると、身体を忘れる。「荘子」のその話は、モテまくる部類の醜男の魅力の秘密を孔子が説明したものである。

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2008.06.03

一人は誰でも寂しいか?

人はみんな違っていて、それぞれが特別であると言われる。それはある意味正しいが、普遍的な部分だってある。
ところが、往々にして集団社会とは、異なっていて構わない部分を同じにしようとしたり、同じであるはずのところを違っているはずだとするものなのである。
漫画家の大島弓子さんの作品で、自身が子供の時、家族みんなが大の甘党であるが、自分だけが辛いものが好きなことの不幸をギャグタッチで描いたものがある。彼女もまた甘いものが好きなはずだということを家族の誰もが疑わず、好きでもない甘いものを食べさせられ続けられたというものだが、これは笑い話では済まないことである。

共同幻想といって、同じ時代、同じ地域の人々の精神的傾向というものは似る場合が多い。しかし、なぜか周囲の者と同じ共同幻想を持たない者がおり、そのような人は変わり者とされたり、ひどい場合は狂人扱いされることもある。逆に、特別な人間として巫女やシャーマンになる場合もある。詳しくは「共同幻想論」(吉本隆明著)が面白い。

しかし、人間には、絶対的とは言わないが、ほぼ普遍的にあてはまる性質というものもある。極端なものは、人としての権利を奪われ虐げられるのは嫌だということだ。だが、なぜかこういったことが誰にでもあてはまるということが認知されていないと思えることはよくある。人を虐げることを意図的に楽しんでいた者も多いが、黒人や低いカーストの生まれの者が、自分と同じ感情を持つと思わずに、それらの人々を理不尽に扱った人々もいると思う。あるいは、本当は分っているのだが、怠惰や優越感で心が曇らされて他人の気持ちに鈍感になる場合も多いだろう。

では、人は皆、一人でいることを寂しいと思うだろうか?
よく、一人でも平気であるという風を装う者がいるし、彼らの演技が上手いからなのか、そういう人もいると思い込んでいる人も少なくはないと思う。

高屋奈月さんの大ヒット漫画「フルーツバスケット」で、大晦日の晩、居候の本田透(ほんだとおる。高校1年女子)を一人家に置いて、男三人が自分達の本家に帰るというお話があった。彼らは、母親を亡くした最初の大晦日であった透を一人で残すのは気がひけたが、本家のしきたりが厳しく、年末に帰らないとひどい目に遭うことは間違いなかった。
透もそのあたりは察し、「私は大丈夫ですから」と笑っていた。
しかし、透の同級生でもある2人は途中で引き返す。「一人が平気なヤツなんているはずがない!」

「涼宮ハルヒの退屈」では、ある事件が解決した後、キョン(主人公。高校1年生男子)が、無表情に読書する長門有希(高校1年生女子)を見て思う。「俺たちを巻き込んだのは、お前の希望だったんじゃないのか?殺風景な部屋で何年も一人で過ごす宇宙人製アンドロイド・・・長門よ、やっぱりお前にもあるのだろうか?一人でいるのは寂しいと思うことが」
およそ感情などありそうもない宇宙人製ヒューマノイドインターフェースの少女にまでそう洞察するキョンは、物語では凡人であるが、実は偉大である。

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2008.06.02

感情の貧しさが自分を騙す

感情というものは、本当は我々が思うよりずっと神秘的で複雑であるのに、非常に限られた種類の感情しか感じることができない人が多いように思う。
例えば、親が嫌いという感情を持つ子供や青年も多いと思うが、本来は「嫌い」とは別の感情を感じているかもしれない。しかし、感情の種類が少ないので、それを嫌いに分類してしまっているように思う。確かに、現代人の特に若い人には、好きと嫌いの感情しか持っていない人が多いように思う。
ある程度若い間は、尊敬という感情を正しく掴んでいないので、これを恐怖に分類することが多い。それで、偉大な人物を恐く感じてしまう。これはある程度仕方がないのであるが、現代は尊敬という感情をなかなか持てなくなっているので、大人物は直感的に若い人に好かれるために、自分をいかにも気楽な人物に見せ、とりあえずは好きに分類してもらおうとすることがある。例えば、総理大臣候補の政治家が漫画を熱心に読んでいることをアピールしたりである。
萌えとか、それと関連の強いロリコンといったものは、アニメの美少女キャラや非常に幼い少女への性的欲望と捉えられるが、それも本来は別の感情である。だが、感情が豊かでないので、自分でもそのようなものに分類してしまうのだ。
そもそもが、ロリコンのルーツである、小説「ロリータ」に登場する中年の変態おじさんのハンバートも、本来は少女に対し、フロイトの言う性的リビドーとは違うものを感じていたのかもしれないのだ。その点、あらゆるリビドーを性に結びつけたフロイトより、これを多くの本能的エネルギーとしたユングの方が適切かもしれない。
日本人は、西洋人が騒音としか捉えない虫の声を風情と感じる情感を持っていたし、貧しい家ですら花を買うという、世界的に見ればやはり特殊な感性を持っていたが、現在ではそうでもないように思う。
感情が豊かであれば、昨今のように家族を衝動で殺すこともないし、つまらない理由で他人を憎むこともないだろう。日常茶飯になった感もある、男性教師が女生徒にちょっかいや果ては猥褻行為をしたりも、あまりに貧しい感情の成長具合の悲劇である。
クラシックを聞いたり、古典文学に通じている者は大丈夫かというと、純粋にそれらが好きならそうとも言えるが、虚栄でそれらが好きなフリをする者が一番危ないのである。

CLAMPさんの人気漫画・アニメ「カードキャプターさくら」で、小学4年生の凛々しい少年である李小狼(リー・シャオラン)は、高校2年生の男子である月城雪兎(つきしろゆきと)に会うと、顔が真っ赤になり動揺する。まるで恋愛感情である。小狼の同級生のさくらも雪兎が大好きなので(こちらは正しく恋愛感情)、小狼とさくらはまるで恋のライバルになる。雪兎は、どちらも分け隔てなく優しく接する。
雪兎のもう1つの人格であるユエは、小狼に言う。「お前が雪兎に会うと動揺するのは、私の月の力の影響だ。お前はまだその力を制御できないからおかしなことになるのだ」と言う。

自分の感情をあまり信用しない方が良い場合がある。
女の子は中学生の頃とか、一時的に同性の方が好きになることがよくある。それも感情が乏しいので、ある種の感情を恋愛のように感じてしまうのである。
感情を豊かにすれば、自分の気持ちが理解しやすくなり、無駄なことで悩むことも少なくなる。「自分の気持ちが分らない」などと言う時は、自分の精神修養について振り返ると良い。
エキセントリックな映画やドラマばかりでなく、真の情感に満ちた映画や文芸作品を読むと良い。あるいは芸術に接すると良い。それが生きる上で、どれほど役に立つか分るであろう。


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2008.06.01

存在とエクスタシー

あるインドの聖者は、「師は私に、あなたは至高の実在だと言った。私は師の言葉を憶えていたので、特に何の努力もしなかったが、真我を実現した(真の自分を見出した。仏教で言う悟りを開くとか解脱のこと)」と言った。
彼は、存在の感覚を見守れと言う。
この聖者の関連の書籍を見ても、存在の感覚についてこれ以上の説明はない。正直言って、これでは何も分からないはずだ。

しかし、エクスタシー(ecstasy)と存在(existence)の語源が同じであることに気付いた時、そのヒントを得た。
アイルランドの詩人W.B.イェイツ(ノーベル賞受賞。20世紀最大の詩人と言われる)は、芸術の目的はエクスタシーであると言った。
エクスタシーとは、忘我、法悦の状態である。
性的絶頂感をエクスタシーと言うことも多いが、これは自然なことと思う。その時、人は自己を忘れる。
イタリアの彫刻家、建築家、画家のジャン・ロレンツォ・ベルニーニの彫刻作品に「聖テレサの法悦」がある。この彫刻の若く美しい聖女テレサがキュービットの矢に刺されて浮かべる激しい表情はエクスタシーに満ちている。崇高な彫刻とはいえ、テレサの表情が非常に色っぽく感じるのは確かではないかと思う。

エクスタシーとは忘我である。つまり、自我を忘れて、あるいは消し去ってしまっている状態である。
フランスの思想家ジョルジュ・バタイユは、自らの最も良心的な作品とする「エロスの涙」において、「本書の意味は、第一歩において、《小さな死》と究極的な死との同一性へと意識を開くことである。快楽から、熱狂から、際限のない恐怖へ」と言う(ちくま学芸文庫「エロスの涙」より)。
小さな死とは、たとえば性的エクスタシーや宗教的恍惚感であろう。それは死と同義である。俗なものであるが、女性は性的エクスタシーを感じた際「死ぬ」と言うし、男性は「果てる」と言う。最近ではさらに軽く「イク」と言うだろう。その「小さな死」「忘我の状態」を死と捉え、我々は理性の児戯を超えることもできるのである。
そこに存在という、我々が知りえる唯一の究極の何かがある。
確かに、宗教の中には性的エクスタシーを活用して真の自己の実現に至るものもあるらしいが、そのようなものを求めると怪しげな団体につかまる可能性の方が高い(笑)。
それよりも、イェイツのいう芸術的エクスタシ(岡本太郎の爆発も同じと思う)の探求をする方が良さそうである。

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