母性の幻想
ヘミングウェイの「兵士の帰還」という小説がある。
大学生だったクレブスは入隊し、戦地に赴く。そして、帰還してからは全てに無関心になり、毎日、玉突きと読書をして過ごすようになる。
母親が言う。
「神様は、誰もが働くことをお望みだ。神様の王国に怠け者はいらない」
「僕は神様の王国になんか住んでいない」
「人間はみなそこにいるんだよ」
クレブスは、当惑と腹立たしさを感じる。
母親が、
「お前はかあさんを愛してくれていないのかい?」
と言うと、クレブスは、
「うん」
と返事をした。
母親は泣き出し、クレブスは、いまのは本気でなかったのだと弁明する。
母親は、
「私はお前の母親だ。お前が赤ん坊だったとき、よく抱っこしてやった」
と言う。クレブスは吐き気を感じる。
母親はさらに、祈るため一緒にひざまずこうと言う。クレブスは言われた通りにしたが、いくらせがまれても祈ることはしなかった。
ヘミングウェイが解説していたわけではないが、クレブスは、戦争でこの世の真実を見たのだ。しかし、それを誰も聞きたがらない。人々は、真実ではなく、自分の持っている幻想の中で生きようとする。彼の母親がその典型なのだ。
クレブスは母親が嫌いなわけではない。
カミュの「異邦人」という小説にも、似たようなところがある。
主人公の青年ムルソーの母親が死ぬが、葬式の翌日、彼はプールに泳ぎに行き、そこで女の子と仲良くなり、部屋に連れて来てエッチをする。
ムルソーは、正当防衛とはいえ、アラブ人を射殺する。だが、正当防衛を証明する目撃者がいなかった。
ムルソーは、被告として裁判をされる身になる。
裁判では、母親の葬儀の翌日の彼のナンパとエッチが問題になる。裁判官に、母親を愛していたかと聞かれ、
「母親は好きでした。大した問題ではありませんが」
と答えた。
裁判官はそれを聞き、ムルソーに悔悛を要求するが、ムルソーは当惑する。
検察官は、
「彼は母親の葬儀の翌日にプールに行き、若い女と肉体関係を結び、喜劇映画を見に行った。私の言いたいのはこれだけです」
と言い、それが決定打となり、ムルソーは死刑となった。
死刑を待つ日々、牧師がやってきて、ムルソーに悔悛を迫った。ムルソーは、その馬鹿さ加減に我慢ができなくなる。
死を前にして、ついにムルソーは完全に悟る。ずっと幸福であったし、今も幸福であると。
ヘミングウェイのクレブスも、カミュのムルソーも、真理を垣間見た。そして、人はもともと幸福であるのに、それを覆い隠すものは、真理に背を向け、風習や伝統に生き、作り物の権威に従うことであることを悟っていたに違いない。
親は、自分の持つ幻想を子供が持つことを望むのである。そして、それは多くの場合、成功するものと思う。吉本隆明氏の「共同幻想論」の中でも、この家族の中での幻想は対幻想として述べられている。さらに、小市民的な親は、もっと大きな地域での幻想である共同幻想に取り込まれている。さらに、人には個人幻想があるが、共同幻想や対幻想に逆らって、それらと異なる個人幻想を持っても、それもまた幻想である。
だが、この個人幻想をも破って真理を見る人もいる。そのきっかけが戦争や、自分の死であることもある。
しかし、普通に生活していても、それは可能であると私は思う。
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