新たな目で見る
私が12歳くらいの時、ある日本人の詩人の詩の中に「新たな目で見れば、見慣れたものも美しい」といったことが書かれていたのを印象深く憶えている。
早速、「新たな目」で家の中のものを見てみると、すっかり見慣れた(見飽きた)ものがなんとも興味深く見えることに興奮した。
考えてみれば、これは人類進化の鍵かもしれない。
コリン・ウィルソンは、心理学者マスローの言った「至高体験(P.E = Peek Experience)」であるところの、拡大意識あるいは超越意識の探求が生涯の研究テーマだと書いているが、私にとっては、この「新たな目」であり、やがては世間にも知られるであろう。
12歳の時は、単に「新たな目」というだけで、それをすぐに実践できた。さて、今は・・・。もちろん出来るようだ。
「新たな目」を使った後は、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)が起こったり、幸運の円滑現象がよく起こる。
「荘子」には、無限無窮の道(タオ)を感得する方法として、「視線を自然にせよ」と書かかれているが、「自然な視線」とは、先入観や偏見のない、純粋な心で対象を見ることを言うと思う。分りやすく言えば、色眼鏡でモノを見ないということだ。人間は、色付きの心でモノを見るものなのだ。
宮本武蔵も「五輪書」に、視線のあり方の重要さに触れている。前を見たまま、目玉を動かさず、周辺視野で横を見るのが良いらしい。「五輪書」は、1対1の戦いだけではなく、大勢の敵と戦う方法も大いに述べている。周辺視野で見るのは、視野を広く保ち、正面以外から襲ってくる敵に対応するということと共に、心を自在な状態にするにも役立つものと思う。
谷川流さんの小説「涼宮ハルヒの憂鬱」で、どうやら初めてオセロゲームを見るらしい長門有希の様子を、キョン(主人公の1人の高1男子)が、「初めて犬を見た子猫のような目」と表現していたが、これも何か参考になるように思う。
いつも使っている携帯電話でも、手にとって、しげしげと隅々まで見てみると良い。すると、今まで全く気付かなかったことを発見するかもしれない。感性のある人なら、面白くて1時間くらい見てても飽きないだろう。
つまるところは意識の問題なのである。
普段、我々が見たり、聞いたりしている時は、習慣による心の傾向に支配されており、純粋な意識が奥に下がってしまっている。
純粋な意識とは、敢えて言葉で言えば「気付き」である。そして、気付きこそが本来の自分でもある。本来の自分とは、宇宙を作り続けるものだ。その創造の根源に立ち返ることが楽しくないはずがない。夏休みの前日や、クリスマスの朝は、鬱事が晴れ、純粋な気付きが前面に出てくるので、見るものは全て美しく感じる。
コリン・ウィルソンは、よく「視線に力を込めて凝視せよ」と書いているが、私の「新たな目」とはやや異なる。ただ、力を込めて見ると、疲れてきた時に新たな目であるところの自然な視線に導かれる可能性は高い。確かに、「新たな目」や「自然な視線」と言うよりは、「力を込めて見よ」の方が分りやすい。
慣れた日常とは異なる、新鮮で深い視線を忘れないことだ。そうすれば、自分が幸運であることが分かり、ある意味、自分が神のごときものであることが理解できると思う。
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Comments
こんばんは☆
>自分が神のごときものであることが理解できる
理解できました。^^
よく、「神は自分の心の中にある(いる)」と表現されていますが、
私の感覚から言えば、”私の中に神が居る”というよりも、Kayさんの仰る通り
「自分が神のごときものである」の方がしっくりと来ますね…。^^
単純に言えば…”貴方も私も神の存在”だと気が付きました。
Posted by: りば^^ | 2008.05.25 11:46 PM
★りば^^さん
それはまた素晴らしい。
心の中には確実に神様はいませんね。心が消えたところに神様がいますから。
自分は神のごときものと言ってるのは誰かということになります。心がそう言ってる限りはあまり信用できないですが、言い換えれば、もっと大きな楽しみもあるということです。
Posted by: Kay | 2008.05.26 06:28 AM