情操について
絵描きに、「絵は科学か?職人芸か?芸術か?」と尋ねたら、そのどれにも十分な票が入るだろうし、複数の回答をする人も多いと思う。
絵が科学というのは聞き慣れないかもしれないが、ダ・ヴィンチの絵は数学的に計算され尽したものであるらしいし、名画の多くは、作者自身が気付いていたかどうかはともかく、分析することで一定の法則を見出せることも多いらしい。
ところで、案外に困るのは、「絵が芸術である」という回答だ。当たり前過ぎて、芸術というものが理解できない。
そこで、一般的には芸術であるとは思われていない分野を見てみると良い。
例えば、建築は明らかに物理学の原理に従っているが、建築家は、壊れない建物を建てようとだけしているわけではないし、建築家には芸術家が多い。
だが、建築にしたって、普通の人が見ても「美しい」「芸術的だ」と分かるものである。
そこで、私の専門とするコンピュータプログラミングは、もっと適格な洞察をもたらすことをお知らせしたい。
天才的なプログラマに、「プログラミングは科学か?職人技か?芸術か?」と尋ねることは実はよくあることだし、「明らかに芸術」と答える天才プログラマは少なくはない。
プログラミングは数学的原理に基づいているし、数学者であることはプログラミングを行う上での大きなアドバンテージになる。
そして、なぜプログラミングが芸術であるかを問えば、芸術という不可解なものも少しは分かるかもしれない。数学的原理に基づくプログラミングのどこが芸術であるかというと、おかしな話ではあるが、それが数学であるからだとも言える。
数学というと、知ったかぶった者が(人のことは言えないが)、「数学者が能力があるのは二十歳まで。それ以降は、その残像でやってるのだ」と言うのを聞いたことがあるかもしれない。確かに、数学にはインスピレーションの部分も多く、その点は若い人が有利かもしれない。だが、数学者の岡潔は、数学には情操的なものもあり、特に情操型であった自分は、年を取るほど能力が高くなり、良い研究ができたと言うし、実績的にもその通りであったと思う。数学が情操と関わるなど、面白い話のように思えるが、情操と情念は違う。情操とは、「最も複雑で、高次の感情。感情の中で、最も安定した形をとり、知的作用・価値を伴う。」であり、改めて見るとどこか納得できそうである。ただ、どこかつかみ所がないとも言える。
で、難しい話はさておき、一級のプログラマの立場から言うと、良いプログラムには、高度な精神部分での抗いがたい肯定の感覚を憶えるのである。逆に言うと、なぜか分からぬが不快な感覚を感じるプログラムは、じっくり分析すると、間違ったものであることが分かるのである。まこと、人間の感覚とは恐ろしいものである。
結局のところ、建築もプログラミングも絵画も、良いものは、純粋な意識からの肯定がある。純粋な意識とは分かり難いかもしれないが、心を静かにし、不動の状態になった時にそのものとなると思う。情念の荒波の中で芸術を生み出すという人もいるが、実際は、情念の限界を通り越した時に意識は純粋になる傾向がある。それは一種の精神の危機である。その危機に恐れず飛び込んだ芸術家が賞賛されるということだ。
芥川龍之介の「地獄変」で、自分の娘が焼け死ぬ様を見た天才画家の様子がそれだったように思う。
純粋な意識そのものと一体化することは難しいが、普段でもそこからのメッセージは送られてくるものである。絵画、建築、プログラミングの専門家であれば、それぞれの専門に関するメッセージは受信しやすい。心に欲望がないほど、そのメッセージは伝わりやすいと確信する。
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