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2008.05.31

魂の切望の地

ノヴァークの交響詩33「Eternal longing(永遠の憧れ)」を聴いた。
これは、アンデルセンの「絵のない絵本」の33話のうち28番目のお話を基に作られたものだ。
「絵のない絵本」の28番目はこんなお話である。
越冬のため温暖な地域に向かう白鳥の群れの一羽が、疲労のためだんだん高度を下げ、やがて海に墜落する。暗い海で一晩中、ただ一羽漂っていた白鳥は、夜明けと共に孤独に飛び立つ。
白鳥といえば、アンデルセン童話では「みにくいあひるの子」が有名であるが、「人魚姫」と共に、アンデルセン自身の人生を描いたものだと考えられている。そして、「絵のない絵本」のこのお話もまたそうではないかと私は思う。いや、むしろ、最もピュアにアンデルセン自身を表していると思う。

私は、アンデルセン生誕200年であった2005年に、熱心にアンデルセン自伝を読んだ。その頃、新たに、アンデルセンの自伝である「わが生涯の物語」はいくつか翻訳が出たように思うが、私は昭和11年に出版され、昭和50年に改訂された大畑末吉氏の翻訳を読んだ。

アンデルセンが生まれたのは、デンマークのオーデンセという田舎町である。
ひきこもりであったアンデルセンは学校にも行かなくなり、10歳頃には誰もがする工場でのアルバイトもまるで勤まらなかった。当時は、12かそこらになれば、どこかの職人に弟子入りして技能を身に付け、職人として一生を送るというのが、庶民のほぼ唯一の人生だった。
アンデルセンの父親も靴職人であったが、ひどく貧しかった。父親は、その仕事が好きではなかった。父親は文学好きで、珍しい文学の本を持っていた。そして、ラテン語学校の生徒であるお金持ちの子供をうつろな目で見ていた。
アンデルセンも幼い頃から、父親の本を読んでもらって、文学に関心を持った。
父親は、自分の状況に耐えられず、軍隊に参加したりしたが、たがて精神に異常をきたし、病気で亡くなる。
アンデルセンは父親のような生き方は絶対にしたくなかった。そして、臆病な引っ込み思案であるに関わらず、14歳で単身、コペンハーゲンに出た。そして、あらゆる苦労をして、詩人、作家として大成した。
「絵のない絵本」で、あの白鳥が憧れ、ただ一羽で目指した切望の地。アンデルセンの胸にも、その「永遠の憧れ」があったに違いない。それは多分、彼の父親にもあったのだろうが、父親はそこを目指すことができなかった。

それは、夢とか目標といったものとは違うし、ましてや放縦に生きることでもないと思う。
我々の胸には、「永遠の憧れ」というものがあるのだ。魂の希求する切望の地である。それを目指さない人生は悲惨であると思う。

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2008.05.30

不思議な確率

宗教人類学者、植島啓司さんの「偶然のチカラ」という本に、面白いギャンブルの話があった。簡単な話であるが、みなさんもあっけに取られると思う(?)。
内容をちょっと変えるが、本質的に同じ話だ。

3枚のトランプがあるとする。そのうちの1枚はハートのエースで、それを引き当てれば100万円もらえるとしよう。
当たる確率は、言うまでもなく1/3だ。
で、あなたは裏向けられたカードの1枚を選ぶ。だが、まだ表を向けない。つまり、まだ当たっているかどうかは分らない。

で、誰かが、あなたに分らないように裏返されたカードの表を覗き、あなたが選んだカード以外でのハズレのカードをひっくり返す。
そこであなたは言われる。「もう一方のカードに変えても良い」
さあ、どうする!
2枚のうちのいずれかが100万円をもたらすハートのエースだ。
どうだ?興奮してきただろう?(笑)

確率は1/2・・・いや、本当か?
違うのだ。あなたが選択を変えない限り、確率は1/3のままだ。
しかし、選択を変えれば、確率は2/3になるのである。
んなアホな・・・

植島さんの本によると、ベイズの定理を使えば証明されるらしい。
ベイズの定理とは、何かが起こった後での確率(事後確率)を求めるもので、実用では、例えば、迷惑メールの振り分けなんかに使われているらしい。我が愛用のメーラーであるMozilla Thunderbirdはベイズの定理を採用したスパムメールフィルタが付いているらしいが、なかなかのものである。
ただ、ベイズの定理は分りにくいし、問題によっては適用が難しい。私には、果たしてこの問題がベイズの定理に向いているかどうかは分らない。
その分りにくいベイズの定理で説明できるからと言われてもあまり誰も納得しないだろう。
植島さんは、すっきりしたければ実験すると良いと書いていた。1万回くらいやれば見事に結果が出ると。
植島さんは頭は良くても、コンピュータは得意ではないのかもしれない。こんな実験、本当にやらなくても、私ならシミュレートするコンピュータプログラムを簡単に書ける。
そして、1万回もやらなくても、百回もやれば結果ははっきりする。選択を変えると、勝つ確率は確かに倍になる。
行動を起せば確率は倍になるのに、動かなければ確率は低いまま。
何だか、この世の法則のようだ。

人気小説・アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」で、私の大好きな(萌え萌えな)登場人物の朝倉涼子が言う。
※朝倉涼子。高校1年生。美人で性格も良いクラス委員の優等生。
「人間はさ、やらなくて後悔するより、やって後悔した方がいいって言うよね?」
「どうしたらいい方向に向かうことが出来るか分らない時、とりあえず何でもいいから変えてみようと思うんじゃない?」
朝倉涼子は全く正しかった(?)

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2008.05.29

4番目とは

4番目というのは良いものだろうか?
好きな男に「君は4番目に好きだ」と言われて嬉しい女性は少ないと思う。嘘でも「一番好きだ」と言われたいであろう。
「君の初めての男になれなくて悔しい」と言うことはあっても、「僕は何番目?え?4番目なの?」では、野球の4番バッターのような誇らしさはない(笑)。

妖怪漫画で有名な水木しげるさんは戦争時の従軍体験を漫画に描いているが、日本軍の定例行事になっているものに、上官が若年兵を夜中に呼び出し、殴ったりしていたぶるというものがあった。気合注入の意味か単なる気晴らしかは知らないが(多分後者だ)、実にありふれたことであったと思われる。
岡本太郎さんは、20代はフランス留学していたが、30歳で帰国すると、二等兵(最下級)として中国に派兵された。他の二等兵は18~19歳ばかりだった。そこでも、当然、上官達は、二等兵を夜中に一人ずつ呼び出して殴りまくった。
岡本太郎さんは、必ず4番目に行ったそうだ。4番目が、殴る方の調子が一番出てくるのである。上官達は、岡本太郎さんが、フランスでは各国の美女・美少女と次々同棲していたことは多分知らないだろうが、さぞ調子こいてこの世界的芸術家を殴っていたことであろう。

それはそうと、男も4番目の彼女くらいが、女の子の扱いが上手くなる頃である。一番最初の彼女というのは、女の子の方に忍耐が特に必要である。
また、「4番目に好き」くらいが、案外に最後に勝ち残る。1番好きな人なんて、かなりの幻想に惑わされてそう感じている場合が多いものなのだ。幻想を最終的に選んだとしたら悲惨なものである。
女性も、4番目の男くらいがいい具合になるものである。ただし、男は4番バッターのパワーが要求されるかもしれない(笑)。

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2008.05.28

優柔不断な男は大物である

昔から、人気漫画などで、イケメンでもなければ、特に人に秀でた部分があるわけでもない普通の男の子が、複数の美女や美少女にモテるという設定のものがよくあるように思う。
これは、男性読者の大半である、平凡な男の子に希望を持たせようという意図とも取れるが、そうとばかりは言えないことを鋭く洞察する(笑)。

高橋留美子さんのいまだ人気の高い漫画(アニメ化)「めぞん一刻」では、どちらかといえば冴えない男の子である五代君は、年上の美しい未亡人の響子に一目でメロメロになる。やがて響子も五代君に好意を持つようになるが、2人の仲はなかなか進展しない。そのうち、五代君にはこずえという可憐な女子大生のガールフレンドが出来るが、五代君はどちらか一方を選ぶことができない。さらに、一目で見惚れるほどの美少女高校生までもが参画してくるが、信じられないことに、五代君は、誰にも手も出さない(響子に手を出す度胸はないだろうし、こずえには出しかけたが、勢いを感じない)。
高橋弥七郎さんの人気小説(アニメ化)「灼眼のシャナ」では、ごく平凡な高校1年生である坂井悠二は、外見は11~12歳だが絶世の美少女と言って良いシャナと、クラスメイトで純情可憐にして、着やせするが巨乳という美味しいとこだらけの美少女、吉田一美の2人にあからさまな好意を示されるが、やはりどちらかを選べず、この2人の美少女をヤキモキさせ、挙句、彼女達は結託して悠二にいずれかに決めさせようとするほどである。シャナに手を出すと命の保証はないが、一美は食べておけばと思うのは私だけだろうか?(笑)
谷川流さんの人気小説(アニメ化)「涼宮ハルヒ」シリーズでは、やはり凡人である高校1年生男子のキョン(あだ名。本名は出ない)は、事実上、涼宮ハルヒ、朝比奈みくる、長門有希の3人の美少女に好意を寄せられるが、誰にもあやうい行動を取らない。特に朝比奈みくるには、「惚れちまいそう」とか「持って帰りたい」と思うほどメロメロである割には何もしない。朝比奈みくるの友人で、頼りになる先輩女子高生の鶴屋さんには、みくるに手を出してはいけないが、ハルヒはやっちゃいなさいと言われるが、そんなことをしそうもない。さらに、性格は変わっているが、中学時代のクラスメイトの超美少女や、妹の親友で、小学生ながら6年生になってビューティー度も超進化した早熟美少女まで参戦の気配だが、キョンがおかしな行動をすることはまずあるまい。

これらのモテモテ平凡少年達は、優柔不断と感じると思う。
真のヒーローは、しっかり決断し、いったん決めたら迷わないものと考えられていると思うが、それでいえば、全くヒーロータイプでない。
では、彼らがしょーもない男の子達で、美女・美少女達の見る目が曇っているだけかというと、なかなかそうでもない。確かに平凡なのだが、これが実に素晴らしい男の子達なのだ。ではどこが素晴らしいのかというと、奇妙なことに、私は、その優柔不断さであると思うのである。

日本の歴史上最大のヒーローと言えば、色々意見はあるだろうが、実質で言えば、徳川家康をあげても、さほどの文句はあるまい。たぬき親父のイメージすらある知略家であるが、文武共に優れ、人間性も高い傑出した人物と思う。その家康が、実は優柔不断な男であったことは間違いがないようだ。なかなか物事を決断せず、家臣達の会議を眺めてはいるが、自分の意見を言うことはあまりないといったことが実際であったらしい。

そして、気付くことがある。世の大物で、決断力が凄く、なんでもバシバシすぐに決める人というのは、実は少数派であるのだ。むしろ、大物というのは、考えをコロコロ変えるので部下に嫌われることも多いと思う。いや、もっと言えば、彼らの考えが読めない。ひょっとしたら、大した確信など持っていないかもしれない。
ビル・ゲイツなど、重要な決断を電光石火かつ完璧に行うイメージがあるが、案外にそうでもない。一応やってみて、うまくいかないとあっさりやめるようなことも実はかなりやっているのである。

「荘子」に、「なりゆきにまかせ、判断するな」という言葉がよく出てくる。責任者になるなとも言われている。この深い意味を考えると偉大な知恵を得られる。
人間の知恵がいかに卑小なものか。ことに欲が絡んだ時の判断は必ず間違う。
このことをよく知っているのは、ギャンブラーや相場師であろう。自分のために自分で買った馬券は基本的に当たらない。儲けようとして株をやっても損をする。

以前、人気ドラマ「古畑任三郎」でこんなシーンがあった。
キムタク演じる爆弾犯が時限爆弾を仕掛ける。それを止めるには、赤か青のコードのいずれかを切らないといけないが、間違った方を切ると、即爆発する。
任三郎は爆弾犯に「どっちを切ればいい?」と聞く。爆弾犯は「赤」と言う。2人はしばらく見詰め合うが、任三郎は、部下に「青を切れ」と命じる。それが正解だった。
任三郎がなぜ、青が正解と分ったかは曖昧にされたと思う。
詳細は忘れたが、おそらく任三郎は、赤が正解と思ったのだ。それで反対の青を選んだのだ。
作者はタダモノではない。あるいは、結構なギャンブラーだ。
任三郎は、絶対に自分で選択してはならない。そこで爆弾犯に選ばせた。爆弾犯が「赤」と言った時点で「青」でも良かった。爆弾犯は間違った選択をするはずなのだ。間違いとは、爆発の方である。しかし、任三郎は確率を高めることにした。爆弾犯をみつめるうちに、自分も赤で爆発しないと思った。そこで躊躇無く青を選んだのだ。

ん?納得できない?
これがギャンブルの秘訣なのであるが(笑)。

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2008.05.27

いい女は憎まない

美容製品やサービスの宣伝に疑問を持つことが多い。
化粧品、シャンプー、エステなどのテレビCMには、女性人気タレントやモデルが登場するが、「オンナに知性は不要!」「オンナの価値は男の数」とでも言いたげなものがやけに目に付く。
まあ、それは置いておいて(笑)。

女性に限らないが、特に女性には、人を憎まないことをお薦めする。マジで心から。
憎むと言ったらややおどろおどろしいが、恨むとか、嫌悪するとか、気に入らないと思うとかも同様である。
なぜこんなことを言うかというと、人を憎む女性が醜くなる様は恐るべきものであるからだ。
私は女性によく恨まれる。誠実そうに見えて浮気性だし・・・いや、何でもない^^;;
で、かなり恨まれてるなと感じた頃、その彼女と顔がぱったり合った時、心底ぎょっとすることがよくある。もはや醜悪と言えるほどなのである。これではどんなモノ好きも寄ってはこまい。これでも、つい最近までは美人であったのだ。

もちろん、それなりの理由で人を憎んだり恨んだりすることもあると思う。しかし、大概はしょーもない理由で人を気に食わなく思うものだ。ジャイアント馬場さんは「もめごとってのはヤキモチから起こるんだ」と言っていたが、それはまだ大人の場合で、若い女性の場合は自惚れから人を憎むことが多いように思う。
そして、分らぬでもない理由で恨んでいる場合でも、醜くなるということはあまり変わらない。
父親を毛嫌いしている女の子も、若いからそれなりに魅力があるにせよ、本来の1/10であろう。身体だけ魅力がある場合には、ロクな男は寄ってこない。

人を嫌ったり恨んだりすると、容姿が確実に醜くなるだけではなく、自分が無力に思えてくるし、気持ちも後ろ向きになる。さらに進むと、自分は不幸で不運と思うようになり、抑鬱状態になりかねない。
なぜかというと、人は定期的に、人生に意味を見出し、世界が美しいものであることを知ってエネルギーの供給を受けないと、バッテリ切れのような状態になるからだ。
それは、ロマン・ロランが芸術の目的であると言う大洋感情であり、心理学者マスローの至高体験であり、夏目漱石の天賓である。イェイツが芸術の目的と言うエクスタシであり、岡本太郎の爆発だ。エリオットやドストエフスキーの作品にも度々現れる、人間が光に触れる瞬間である。
それに関して、20世紀最大の詩人イェイツもいくつかの詩で語っている。奇跡のような歓喜に満ちた平安。自由の感覚。壁にかかった絵は語りかけてくる。この上ない至福の状態である。ドストエフスキーは作中の人物に、この5分と引き換えに全人生を差し出しても良いと言わせている。
だが、マスローは、それは偶然に訪れるのを待つしかないと言った。
イェイツも、それを起す方法は分らないとしながらも、人を憎むのをやめた時に起こりやすいと言っていた。イェイツは言う。「我々に愛することはできない。愛は神の領域のものだからだ。だが、憎むのをやめることはできる。憎しみは人の領域のものだからだ」
憎むのをやめた時に大洋感情が起こりやすいということであるが、少なくとも、憎んでいる時は決して起こらない。

「マッチ売りの少女」や「フランダースの犬」が名作である理由は実は深いものがある。
アンデルセンは、マッチ売りの少女が、最後に美しいものを見たことを強く訴えていた。
ネロもまた、マッチ売りの少女と同様、微笑んで死んでいた。
2人とも、誰も恨まずに死んだのだ。だから、最後に見たものは美しかった。そして、死は2人を護った。
チン・ニンチュウの本に書いてあったが、著者の友人の男性がアメリカで、夜歩いていたらつけられているのを感じた。人気のない寂しい道で、彼は恐怖を感じた。彼らはギャングであったようだ。彼の殺害が目的であったことも間違いがない。彼は、「死は終わりではなく、新しい体験の始まりである」と思うと、恐怖が消えうせ落ち着いてきた。そしてギャング達と向き合った。彼が全く恐れていないことを見ると、ギャングのリーダーは彼と握手をして立ち去った。
ドストエフスキーは銃殺される3分前すら、敵を恨む暇はなかった。人生の残り3分を有意義に過ごさねばならない。彼は、最初の1分で過去を振り返り、次の1分で現在を思った。そして、最後の1分は未来に思いを馳せた。銃弾が発射される刹那、恩赦の伝令が届き、彼は助かった。
フランスのある絶世の美少女は、男に言い寄られるのが嫌で、修道女になり、そのまま清らな一生を送ろうとした。しかし、修道院への侵入者の男にレイプされ、悲観して自殺する。肉体を離れた彼女は天使達と修行するうち、地上での夫は誰かと尋ねられると、躊躇無く、あの男であると言った。作り話であるとしても良い話と思う。

いい女は恨まない、憎まない、嫌悪しない。別に誰彼好きになる必要はない。むしろ、特定の人だけを好きになるくらいなら、誰も好きにならない方が良いくらいである。
まあ、醜くなることが望みなら、人を憎むのは効果的な方法であることは確かである。

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2008.05.26

ツイてる考

斎藤一人さんという日本一のお金持ちである社長さんは本を沢山出している。
以前の本は何冊か読んだが、その中で「口に出して『ツイてる』と言うと、ツキが来る」と書いてあり、これは楽なことであるし、何と言っても日本一のお金持ちが言ってることだからと、おそらく多くの人がやってみたと思う。何でも、「ツイてる」を千回言えば、もうツイてツイて仕方がなくなると言う。
しかし、1万回言っても、10万回言っても、ダメなヤツは全然ダメであったはずだ。

斎藤一人さんには会ったことがないので、本当に立派な人なのかは知らないが(笑)、斎藤さんの言われた真意は次の通りと思う。
今現在、本当にツイてると思って「ツイてる」と言えば、確かにツクと思う。その効果は絶大かもしれない。いや、絶大だ。
しかし、今はツイてなくて不幸だが、「ツイてる」と言うと、これまでになかったツキが来ると期待して「ツイてる」と言うと、まあ、ツキは逃げかねないと言うか、絶対逃げる。

斎藤さんは、ここらのことは説明しているはずなのだ。
しかし、欲の皮が突っ張っていると、それが頭に残らないのだ。
斎藤さんは、何の魚だったか忘れたが、自分で海に取りにいかなくても食べられることがツイていることだと書いていたと思う。
明石屋さんまさんの「生きてるだけで丸儲け」ではないが、既に自分が最高に幸運であると気付くことが幸運の秘訣なのであろう。それを思い出すために、「ツイてる」と言うなら、これは実に良い幸運の秘訣と言えるであろう。

「エル・カザド」というアニメのある回に、マフィアが登場した。マフィアのナンバー2の男は、大ボスの本当の子供ではなかった。浮浪児だった少年の頃、大ボスの車から盗みをしようとして大ボスの手下に捕らえられ、拳銃で頭を撃ちぬかれる寸前に大ボスに助けられ、大ボスの家に住むことまで許された。彼は、「可愛がられたことは一度もないが、毎日3食たべられれば天国だ」と言う。大ボスは病気になり、介護の甲斐もなく死ぬ。ところが、大ボスの着衣の胸ポケットに何か入っていると思って見て見ると、ガイコツのキーホルダーが入っていた。このナンバー2の男が子供の時、大ボスの誕生日にプレゼントしたものだった。「少しも嬉しそうでなかったので、すぐ捨てたものだと思っていた」のだが、大ボスは、生涯、肌身離さず持っていたのだった。
幸運の秘訣が理解できる良い話である。

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2008.05.25

まばたきと半眼の神秘

私は子供の頃、テレビのアニメを見ていて、人物がよくまばたきをするのに驚いたことがある。いかに感情移入しているとはいえ、絵でしかない人間がまばたきをするとは不思議だ。
現在のアニメを見ると、これが実に自然かつ頻繁にまばたきをするものがある。人気アニメの「涼宮ハルヒの憂鬱」を見るときは、私は意識的に人物がまばたきをするのに注意するほどである。
なるほど、まばたきによって、人物がより自然な雰囲気を持つような気もする。
まばたきは、普段、無意識に行っている。おそらく、目の乾燥を防ぐための自然作用であろう。ドライアイの傾向がある場合は、意識的にまばたきをすると良いとも言う。
まばたきは、意外に多く行われているかもしれない。写真を撮ると、たまたま目を閉じた顔や、半開きの状態で撮られる場合は珍しくもない。

中島敦の伝説的な傑作短編小説「名人伝」では、弓の修行の第一歩は「まばたきをせざること」とある。
まばたきをせず、何かを凝視すると、周辺視野がぼやけてきて、見ている対象以外が真っ白になったりしてなかなか面白い。まばたきをする時、脳の一部が休止するという説もあるが、それを長時間休止させないでおくと、何か変わった作用が起こるのかもしれない。

ムンクは、絵の中に自分のまつげを、画面を覆う陰影として示したと言う。そのためには、目を半眼にする必要があるように思う。
宮本武蔵も、戦闘時には半眼を使ったと言うし、仏像は圧倒的に半眼が多い。
半眼の場合は、まばたきが少なくなるように思うし、ものの見え方も変わって来る。これは、映像としての見え方が変わるだけではなく、我々の精神状態の変化により、見る対象の印象が異なるのである。
目は心の扉とか言うが、見ている者にとっても神秘の扉になりうる。
見るということにもっと注意を向けることの意義は実に大きいのである。半眼で見ることで、真の自分が宇宙を作る様子を垣間見てしまうことすらある。
尚、見るということだけが、神秘への参入の扉というわけでもない。もっと大きな鍵は、自己の存在の感覚である。こちらはまたいずれ。

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2008.05.24

情操について

絵描きに、「絵は科学か?職人芸か?芸術か?」と尋ねたら、そのどれにも十分な票が入るだろうし、複数の回答をする人も多いと思う。
絵が科学というのは聞き慣れないかもしれないが、ダ・ヴィンチの絵は数学的に計算され尽したものであるらしいし、名画の多くは、作者自身が気付いていたかどうかはともかく、分析することで一定の法則を見出せることも多いらしい。
ところで、案外に困るのは、「絵が芸術である」という回答だ。当たり前過ぎて、芸術というものが理解できない。
そこで、一般的には芸術であるとは思われていない分野を見てみると良い。
例えば、建築は明らかに物理学の原理に従っているが、建築家は、壊れない建物を建てようとだけしているわけではないし、建築家には芸術家が多い。
だが、建築にしたって、普通の人が見ても「美しい」「芸術的だ」と分かるものである。
そこで、私の専門とするコンピュータプログラミングは、もっと適格な洞察をもたらすことをお知らせしたい。
天才的なプログラマに、「プログラミングは科学か?職人技か?芸術か?」と尋ねることは実はよくあることだし、「明らかに芸術」と答える天才プログラマは少なくはない。
プログラミングは数学的原理に基づいているし、数学者であることはプログラミングを行う上での大きなアドバンテージになる。
そして、なぜプログラミングが芸術であるかを問えば、芸術という不可解なものも少しは分かるかもしれない。数学的原理に基づくプログラミングのどこが芸術であるかというと、おかしな話ではあるが、それが数学であるからだとも言える。
数学というと、知ったかぶった者が(人のことは言えないが)、「数学者が能力があるのは二十歳まで。それ以降は、その残像でやってるのだ」と言うのを聞いたことがあるかもしれない。確かに、数学にはインスピレーションの部分も多く、その点は若い人が有利かもしれない。だが、数学者の岡潔は、数学には情操的なものもあり、特に情操型であった自分は、年を取るほど能力が高くなり、良い研究ができたと言うし、実績的にもその通りであったと思う。数学が情操と関わるなど、面白い話のように思えるが、情操と情念は違う。情操とは、「最も複雑で、高次の感情。感情の中で、最も安定した形をとり、知的作用・価値を伴う。」であり、改めて見るとどこか納得できそうである。ただ、どこかつかみ所がないとも言える。
で、難しい話はさておき、一級のプログラマの立場から言うと、良いプログラムには、高度な精神部分での抗いがたい肯定の感覚を憶えるのである。逆に言うと、なぜか分からぬが不快な感覚を感じるプログラムは、じっくり分析すると、間違ったものであることが分かるのである。まこと、人間の感覚とは恐ろしいものである。
結局のところ、建築もプログラミングも絵画も、良いものは、純粋な意識からの肯定がある。純粋な意識とは分かり難いかもしれないが、心を静かにし、不動の状態になった時にそのものとなると思う。情念の荒波の中で芸術を生み出すという人もいるが、実際は、情念の限界を通り越した時に意識は純粋になる傾向がある。それは一種の精神の危機である。その危機に恐れず飛び込んだ芸術家が賞賛されるということだ。
芥川龍之介の「地獄変」で、自分の娘が焼け死ぬ様を見た天才画家の様子がそれだったように思う。
純粋な意識そのものと一体化することは難しいが、普段でもそこからのメッセージは送られてくるものである。絵画、建築、プログラミングの専門家であれば、それぞれの専門に関するメッセージは受信しやすい。心に欲望がないほど、そのメッセージは伝わりやすいと確信する。

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2008.05.23

新たな目で見る

私が12歳くらいの時、ある日本人の詩人の詩の中に「新たな目で見れば、見慣れたものも美しい」といったことが書かれていたのを印象深く憶えている。
早速、「新たな目」で家の中のものを見てみると、すっかり見慣れた(見飽きた)ものがなんとも興味深く見えることに興奮した。
考えてみれば、これは人類進化の鍵かもしれない。
コリン・ウィルソンは、心理学者マスローの言った「至高体験(P.E = Peek Experience)」であるところの、拡大意識あるいは超越意識の探求が生涯の研究テーマだと書いているが、私にとっては、この「新たな目」であり、やがては世間にも知られるであろう。

12歳の時は、単に「新たな目」というだけで、それをすぐに実践できた。さて、今は・・・。もちろん出来るようだ。
「新たな目」を使った後は、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)が起こったり、幸運の円滑現象がよく起こる。
「荘子」には、無限無窮の道(タオ)を感得する方法として、「視線を自然にせよ」と書かかれているが、「自然な視線」とは、先入観や偏見のない、純粋な心で対象を見ることを言うと思う。分りやすく言えば、色眼鏡でモノを見ないということだ。人間は、色付きの心でモノを見るものなのだ。
宮本武蔵も「五輪書」に、視線のあり方の重要さに触れている。前を見たまま、目玉を動かさず、周辺視野で横を見るのが良いらしい。「五輪書」は、1対1の戦いだけではなく、大勢の敵と戦う方法も大いに述べている。周辺視野で見るのは、視野を広く保ち、正面以外から襲ってくる敵に対応するということと共に、心を自在な状態にするにも役立つものと思う。
谷川流さんの小説「涼宮ハルヒの憂鬱」で、どうやら初めてオセロゲームを見るらしい長門有希の様子を、キョン(主人公の1人の高1男子)が、「初めて犬を見た子猫のような目」と表現していたが、これも何か参考になるように思う。

いつも使っている携帯電話でも、手にとって、しげしげと隅々まで見てみると良い。すると、今まで全く気付かなかったことを発見するかもしれない。感性のある人なら、面白くて1時間くらい見てても飽きないだろう。

つまるところは意識の問題なのである。
普段、我々が見たり、聞いたりしている時は、習慣による心の傾向に支配されており、純粋な意識が奥に下がってしまっている。
純粋な意識とは、敢えて言葉で言えば「気付き」である。そして、気付きこそが本来の自分でもある。本来の自分とは、宇宙を作り続けるものだ。その創造の根源に立ち返ることが楽しくないはずがない。夏休みの前日や、クリスマスの朝は、鬱事が晴れ、純粋な気付きが前面に出てくるので、見るものは全て美しく感じる。

コリン・ウィルソンは、よく「視線に力を込めて凝視せよ」と書いているが、私の「新たな目」とはやや異なる。ただ、力を込めて見ると、疲れてきた時に新たな目であるところの自然な視線に導かれる可能性は高い。確かに、「新たな目」や「自然な視線」と言うよりは、「力を込めて見よ」の方が分りやすい。
慣れた日常とは異なる、新鮮で深い視線を忘れないことだ。そうすれば、自分が幸運であることが分かり、ある意味、自分が神のごときものであることが理解できると思う。

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2008.05.22

見違えた人の秘密

良い意味で、同じ人間にはとても見えないほど見違えた人を見たことがあるだろうか?
決して整形美人のことを言っているのではない(笑)。
以前は、いつもうな垂れ、自身なげで、何かを主張することもなければ、自主的に何かをするわけでもない。あるいは、いつも世間を恨んででもいるかのように拗ねた顔をしていた人が、叡智に満ち、自信に溢れ、落ち着いて穏やかだが、強力でエネルギーに満ちているといった具合だ。
いわゆる劇的な変化であり、その人を知る者を驚かせているような人物である。
世の中には、稀にそういう人がいる。
そして、そういう人に起こったことが、自分にも起こればいいし、さらに、その変化を起す方法が分れば実に良い訳である。
結論から言って、その鍵は集中であることは間違いない。それ以外の理由で、人に劇的な変化が起こったことはない。
座禅だとか、禅の公案などというものも集中を起させる技術である。
時々、「集中と緊張は違う。集中はリラックスしたものだ」とか言う者がいる。ある意味正しいのであるが、リラックスすれば弛緩するだけで集中などとてもできない。むしろ、緊張から入る方が良い。緊張を通り越せば、集中となり、そこからリラックスに導かれることもあろうが、最初からリラックスしてはどうにもならない。

難しい話はさておき(笑)。
喫茶店などで昼食を食べている人の中には、新聞や雑誌、あるいは漫画を読みながら食べている者がいる。それも、ちょっと食べては箸を置き、雑誌を見て、また箸を取って食べるという者がいる。はっきり言って、こんな人間は何をやってもダメである。食べる時には食べること、読む時には読むことに集中できないようでは、大きな集中とは程遠い。
食べものが運ばれてくるまで集中して読み、食べ始めたら集中して食べ、食べ終わったらまた読めば良い。まあ、コーヒーを飲みながら本を読むくらいは良いであろう。
ある宗教の日常での修行で、道を歩いている時は心の中で「歩いている歩いている」と意識し、食べる時は「食べている食べている」など、今やっていることに集中することに留意するものがあるらしい。これはなかなか効果がある。
道を歩いていたら、ビラを配っている男女がいたが、配りながら二人でお喋りしている。こんな連中も一生ダメである。それこそ、心の中で「配っている配っている」と念じながらやると良い。

集中は劇的な変化をもたらすこともあるが、弛緩は人からエネルギーを奪い、無気力から果ては欝にしてしまう。
ドストエフスキーは銃殺される寸前(おそらく数分前)に恩赦となったが、銃殺直前という異常状態の緊張が超集中をもたらし、彼を永遠に変えてしまった。
昔、戸塚ヨットスクールとかで、泳げない人間をヨットで沖に連れ出すとかいう荒療法を行い、確かにその異常な緊張と集中で効果もあったが、あまりに無思慮、無配慮の馬鹿げたものだった。これでは、ロシアンルーレットで集中しろと言うようなものだ。

ある程度の精神の疲弊が起こるまで、緊張ある集中を行うことだ。
テレビゲームなんて、集中があるのはごく最初だけで、後は限りない精神の弛緩と倦怠がある。絶対にやらないことをお薦めする。あれは、アメリカか北朝鮮か知らないが、日本国民を無能力化するための大規模な作戦に違いない(半分マジだったりする^^;)。

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2008.05.21

永遠の憧れ

「永遠のあこがれ」と聞いてピンとくる方はクラシックファンと思う。
1905年、チェコの作曲家ノヴァークの創作した交響詩だ。
ノヴァークは、一般にはあまり馴染みのない作曲家かもしれない。作曲家としてよりも、音楽教師の仕事に情熱を注いだとも言われる。

私もまた、ごく最近までノヴァークを知らず、「永遠のあこがれ」も知らなかった。
だが、数年前、漫画家の立川恵さんのサイトの掲示板に、立川さん作の人気漫画「怪盗セイント・テール」に登場する、深森聖良(みもりせいら)という名の14歳のシスター見習いの聡明な美少女を私の「永遠のあこがれ」と書いたことがある。すると、小学生の女の子だと思うが、それが良い言葉であると書いてくれた。
「永遠のあこがれ」・・・確かに良い言葉である。そして、私は自分でこの言葉を作ったのだ。

交響詩「永遠のあこがれ(Eternal Longing)」は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの「絵のない絵本」の28夜のお話を基にしたものだ。
越冬のため温暖な地域に向かう白鳥の群れの一羽が、疲労のためだんだん高度を下げ、やがて海に墜落する。暗い海で一晩中、ただ一羽漂っていた白鳥は、夜明けと共に孤独に飛び立つ。ただそれだけのお話にアンデルセンが込めたものをノヴァークが感得し、美しい(そして悲壮)な交響詩にしたのである。
私は、このお話に孤独の美しさを強く感じたが、英国の作家コリン・ウィルソンも、この曲にはノヴァークの孤独感が込められていると言う。
夜明けにただ一羽孤独に飛び立つ白鳥。そのイメージの美しさは鮮烈と思う。

ところが、この作品33「永遠のあこがれ」はAmazonなどを見ても、在庫切ればかりである。あまり有名でないということもあるが、寂しいものである。
輸入版や中古品なら入手は可能のようである。私も早速注文した。

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2008.05.20

働かないならブログを書こう

ふと思い出して、Amazonで本多信一さんの本を検索したら、すごい数なので驚いた。
私が昔、本多さんの「会社をやめてどう生きるか」を読んだ時は、それが本多さんの初めての本かそれに近かったと思う。実は、私は本多さんの本ではそれしか読んでおらず、その後のことも全く知らなかったのだが、この本を憶えていたのであるから、よほど気に入っていたのだと思う。

本多さんは、脱サラして起業したのだが、正直、起業などというカッコいいものではない。
小さい部屋を1つ借り、なんでも相談屋みたいな看板を出したのだと思う(10年以上前に読んだきりで、かなり曖昧かもしれない)。
常識的に考えても、そんなんで客が来るはずがない。
収入はゼロだ。しかも、本多さんには奥さんがいて、奥さんは妊娠していた頃だという。先行き不安などというものではない。奥さんには、「少しは客が来た」などと言っていたらしいが、とにかく誰も来なかった。
そこで本多さんは営業・・・などはしなかった。1980年くらいのことで、今のようにインターネット広告を手軽にやれる時代でもない(やっても効果はないが)。
本多さんは、原稿用紙を買い込み、とにかく何か書き始めた。暇なので書く時間はたっぷりある。ノルマを決め毎日欠かさず書いた(1日400字詰原稿用紙1枚だったと思うが)。金にはならないが、相談業が仕事ではなく、モノ書きが仕事になったわけだ。
本多さんの言うには、無理にでも書いていると、いやでも文章力が付いてきたという。
そして、相談業と共にライターで成功したわけである。
本多さんは、常識さえあれば、誰でも独立できると書かれていた。

本多さんは内向的な性格であるようだ。ひきこもりとまでは言えないかもしれないが、それに近いのではないかと思う。
日本を代表する思想家である吉本隆明さんも、作家になりたければ、毎日書け、書けなくても書こうとしろと言っておられる。それを10年続けられれば、必ずモノになると言う。そして、吉本さんは、はっきり自分をひきこもりと言う。

現代の我々は、吉本さんや本多さんと比べると良い時代にいると思う。
彼らは毎日書いたが、書いたものを読んでくれる人はほとんどなかった。ブログなんてものがなかったからだ。いや、せめて10数年前のパソコン通信があれば、電子掲示板等に書いておけば誰か読んでくれた(難癖も付けられるが)。
ひきこもりで、働かないのなら、せめてブログでも書いたらどうだろう?ただし、書くからには、必ず毎日書くことだ。吉本さんの言うように、書けなくても書こうとすることである。10年続けば、吉本さんの言うところでは、必ずモノになるそうだ。
さて、私もブログ始めて3年弱。ほぼ毎日書き始めて1年。後9年で作家である(笑)。

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2008.05.19

オタクを見下すのは洗脳されている証拠

以前、俳優の柳葉敏郎さんがデビュー前にオーディションを受けた時のエピソードを書いたことがある。これはテレビで見たものであるが、オーディション終了1時間後に、応募者に電話をかけ、家にいたら採用と決めていたものだ。柳葉さんは家にいて、見事オーディションに受かった。
その直後、たまたま購入した「成功の瞬間」(講談社)という本に、このお話が出ていた。なかなかすごい偶然の一致である(シンクロニシティーとか云う)。もっとも、この本には、主催者が応募者の運を確認する目的であったようなことが書かれていたが、テレビの方では、誰かが、「一緒に遊びに行く友達もなく、いつも家にいるようなやつが成功するんだ」と言っていたのが印象的だ。私もそう思う。
「友達がいなくて」と自虐的に言うギャグは昔から廃れない。そして、「友達が少ない」と言っている本人はいつも輝きのあるやつである。
仲良しが多くて、いつもどこかに遊びに行っているような人が真の大物になることはない。
ネットが普及し出した頃、日曜の昼間に掲示板や会議室に書き込む者を指して「彼女もいない寂しいやつ」とか揶揄する者がよくいたが、実はそんな寂しいやつが有望である。
そもそも、遊びに行くことが多い者は、生涯、低レベルに留まる。それは分かってしまえば当然のことなのだ。
その理由は、1つには、レジャー産業というものは、人々を休日ごとに遊びにいかせようとし、休日に家族や彼女を遊びに連れて行くことが良いことであると必死で洗脳しようとしている。そんな洗脳を拒否するのは賢い証拠である。
そして、レジャー産業や、スポーツ、お笑いなど、外側からの刺激を求める人間は知性や感性を失っていくのだ。軽薄な刺激を拒否すれば、なるほど退屈することも多い。しかし、退屈であれば、人間は自分の力で何かを探求し、精神を充実させようとするものなのだ。
外側からの楽しみばかり求めてさ迷う者が、単調さに耐える必要のある本物の能力を養成することはない。
友達がいない?大いに結構!
趣味がない?軽薄な趣味は絶対に無い方が良い。大物には無趣味が多いし、趣味があっても、成功してから始めた場合が多い。また、その趣味というのも、実にささやかであることが多いのだ。
アホな男は、ガールフレンドを退屈させまいと必死になる。あれこれ楽しみを与えないとムクれるような女とは分かれてしまえ!今は少々可愛くても、すぐに色褪せること請け合いである。
友達がなく、流行の遊びをせず、何かを深く探求する者をオタクとかいって軽蔑する風潮というのは、実は仕組まれたことなのだ。実はオタクこそ、真の価値、真の生き甲斐に達する可能性がある。

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2008.05.18

なぜ殺さないのか?

みなさんに良いことを教えましょう。

たとえば、「なぜ結婚しないのですか?」と問われることが世の中ではよくあります。
これにはどう答えれば良いでしょう?それは、
「理由は特にない」
です。

「1億円あげる」と言われたら、不都合な条件を出されない限り、ほとんどの人が受け取るかもしれません。
しかし、「いらない」と言う人は、その理由を「理由は特にない」以外に言う必要はありません。私だって受け取りませんから。理由は特にありません(笑)。

修学旅行や社員旅行に行かない場合でも、行かない理由については「特に理由はない」としてキャンセルしたって構いません。学校や会社の規則って言ったって、修学旅行や社員旅行を強制する規則がまともなものであるはずはありませんから。

では、殺人の動機も「理由は特にない」で良いでしょうか?
良いです。
殺人者は法に則って裁かれますし、たとえバレないまでも、その後、まともに生きることはできません。でも、殺した理由は聞かなくて良い。だって、本当の理由なんて分かるはずないじゃないですか?新聞やテレビのニュースで、犯罪者の動機が書かれていることがありますが、まさかあんなもの信じてはいないでしょうね?

逆に、その理由をよく考え、世間に対してかはともかく、自分には表明する必要のあるものもあります。

「なぜ結婚するのか?」
「なぜ、気前良くやると言われた1億円を受け取るのか?」
「なぜ社員旅行や修学旅行に行くのか?」
「なぜ殺さないのか?」

これで我々はかなり賢くなるのですよ。
世間の常識は全くの逆さまであることが分かればと思います。

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2008.05.17

引きこもりがなぜノーベル賞に輝いたか?

画家やミュージシャンが、LSDなどの覚醒剤を利用して意識の拡大を体験し、そこからサイケデリックな絵画や音楽を制作して、時には成功を収めるような話を聞いたこともあると思う。あのビートルズにも、そんなことは確かにあったようだ。
アップル社創業者で、現在CEOのスティーブ・ジョブズも昔はLSDをよく使っていたようで、当時は人にも薦めていたことは間違いない。
さらに、宗教家のラム・ダスも著書の中で、意識の覚醒のためのLSDの効能を取り上げていた。

しかし、私は、ほとんどの人にとって、仮に後遺症の少ないものであっても、覚醒剤の使用はロクな結果をもたらさないものであることを断ずる。
ビートルズのメンバーや、スティーブ・ジョブズのような、活動的で目標意識の高い人たちはまだいいかもしれない。
しかし、たとえ意識の覚醒や悟りであれ、それが受動的にもたらされた場合の結果は悲惨である。
芸術におけるロマン主義では、芸術家達は覚醒剤ではないが、意識の覚醒を体験していた。その結果、彼らは新しい芸術を生み出し、この世界の本質が美しいものであることも分かった。しかし、彼らは現実に耐え難くなり、この世に見切りをつけた。つまり自殺したのだ。

瞑想で意識覚醒を起させることも、私は絶対にお薦めしない。
瞑想のテクニックを使うと、日常とは異なる純粋にして巨大な意識に到達することも可能ではないかと思う。確かに、大きな仕事をする実業家や、プロスポーツ選手ならそれも良いかもしれない。しかし、普通の人がそれをやると、やはり現実に耐えられないのだ。
丁度、夏休みの前日は気分が高揚して楽しいのと引き換えに、夏休みの終日が悲惨なほど憂鬱なのと同じだ。本来であれば、学校生活が楽しくてこそ夏休みは有益であるのだ。
夜のひと時、天使に逢い、実に楽しく過ごしたとしても、朝になれば嫌な学校や会社に行かないといけない。それなら天使には逢わない方が良い。天使があまり人に逢わないのはそのためである。
それならどうすれば良いかというと、絵か文章を書くこともお薦めする。
悲惨な絵や文章でも良い。
朝起きてから、その必要を見出せないという理由でベッドから出ることもなかった無気力で引きこもりの作家でもノーベル賞を取ったのである。(もっとも、彼は授賞式への出席は固く断り、大ヒットの自分の戯曲の劇にも行かなかった。さすが引きこもりである。)
見るだけ、読むだけではそうはいかない。自分で描き、書くことである。

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2008.05.16

人生を変えるきっかけ

自分の価値を疑ったことがあるだろうか?
これを突き詰めると、「自分には、果たして生きる意味なんてあるのだろうか?」という疑問に行き着く。
こう考える人間は、非常に優れた特質を持つ。なぜなら、それは、この世には何か隠れた大きな意味があることを感ずいており、自分がそこから遠く離れているように感じているからである。
もっとも、首尾よく、その「意味」を見つけても、退屈な日常に戻ると鬱になるというのが、ロマン主義の芸術家であるらしい。彼らは、世界を詳細に調べ、何かを見つけることもあったが、それは受動的に得られたものであるため、日常の鬱事もまた受動的に受け入れて絶望するのだ。

当代随一の人気小説「涼宮ハルヒの憂鬱」の涼宮ハルヒもそんな人間だった。彼女は、小学6年生の時、自分が取るに足らないちっぽけな人間であることを思い知る。自分は特別な人間だと思っていたが、そんなことは全くないことに気付き、愕然とする。
彼女は、決して不幸なわけではなかった。学校も家庭も、とても面白いと思っていた、さらに彼女は、とびきりの美少女であるというアドバンテージもあった。しかし、それらは全て色褪せた。彼女の場合は、自分で自分を変えようとした。「待っているだけの女じゃない」ことを世界に訴えたのだ。しかし、高校生になっても何も変わらない。いや、彼女は変わらなかったと思っていた。しかし、彼女は、ちっぽけな人間どころではなくなっていたのだった。

「宇宙戦争」のH.G.ウェルズの未訳の作品「ポリー氏の物語」で、ウェルズの分身であるポリーは「人生が気に入らなければ、変えてしまえばいい」と言った。
諦めない人間に不可能はない。
そうえば、「キューティーハニーF(フラッシュ)」のハニーの決めセリフは「あなたの人生、変わるわよ」だった(笑)。
つまらない人間でいることが嫌になれば、人生を変えてしまえば良い。ハルヒのようにね。

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2008.05.15

男を英雄に変える神秘的少女

女は男を英雄にするという話を聞いたことがあるかもしれないが、その可能性は十分にあるだろう。
最も代表的なものが、1隊長に過ぎなかった51歳のシーザーが、15歳の絶世の美少女クレオパトラと出会い王となったものだ。
これは、男にも女にも条件があると思う。クレオパトラがどのような少女であったかは想像の域を出ないが、51歳のシーザー(しかも、当時の平均寿命は30歳程度と思われる)にとって、15歳の美少女はさぞや眩しかったと思う。クレオパトラに、やや優れた特質(少しの聡明さ、少しの物腰や話し方の優雅さ)があれば、シーザーに十分な力を与えたであろうと思う。
また、シーザーの方にも潜在的な英雄の特質はあったのだろう。クレオパトラをモノ扱いする男であれば、あれほどの力を得ることはなかったと思う。

ところで、逆の話も面白い。逆といっても、別に、いい男を得て女が英雄になる話ではない。女は英雄たることが最終目標になるようにはできていない。
英雄的な女性が、平凡な男によって、女性らしさを身に付けるというものだ。
高橋弥七郎さんの小説「灼眼のシャナ」がそれを非常に面白く描いている。
シャナは、外見は11~12歳の極めて美しい少女だが、人間をはるかに超えた超人であり、その力を崇高なる使命のために使い、自らの死も厭わずに戦うといった存在で、たとえ一国の元首であれ、彼女にとっては何らの意味を与えることはない。そのシャナが、坂井悠二という、ごく平凡な高校1年生の少年と出逢う。シャナは最初、悠二の凡人らしい弱さ、間抜けさに軽蔑するほどの関心すら示さなかった。しかし、彼女はその平凡な少年から受ける影響に戸惑うことになる。シャナの変化を、彼女の育ての親であるヴィルヘルミナは堕落と捉え、執拗に悠二殺害を試みる。しかし、シャナは悠二を愛していることをはっきりと認識するに到り、その事実に愕然としたヴィルヘルミナもまた成長という変化を見せ、それを受け入れる。もっとも、悠二もまたすさまじく成長し、成長し過ぎたことも問題になるのであるが。

神話において、少女神が多く登場することについて、ユングのような心理学者もいろいろな考察を加えているが、美少女とは確かに神秘なものである。
ただ、現在の日本においては、生まれつきの外見はそこそこであっても、神秘性を持つに到る美少女は極めて稀となった。人々が欲望にまみれ、その影響で彼女達も幼い頃から欲望に染まるからである。神秘的美少女とは、欲しがらないものであり、損得に影響されないものである。いや、ある意味、損を好むのである。

英雄になりたい男は、神秘的美少女と仲良くなり、彼女を崇拝するべしである。

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2008.05.14

忘れる喜び

ルイス・キャロルといえば、「不思議の国のアリス」などの童話で有名であるが、実は優秀な数学者であった。しかし、彼は芸術家として成功したかったようだ。作家か画家を志すが、画家の才能がないことが分かり、その代わりに写真に熱心に取り組んだ。作家としての才能は傑出しており、こちらでは成功した。
ルイス・キャロルはまた、生涯に渡り、少女の友達が沢山いたことで有名だ。彼がロリコンであったかどうかは不明であるが、美少女萌えであったことは間違いあるまい。
キャロルは、生涯に少女に宛てて2万もの手紙を書いた。対して、男の子に対する手紙は、見つかっているものではたった1通である。彼は特に腕白小僧が嫌いであった。
キャロルの少女への手紙の中で、印象深いものがあった。ものを忘れる楽しさを書いたものだ。
彼は、もちろん冗談だが、「ものを忘れるレッスンに通うようになった」と書き始める。
素晴らしい先生なので、自分の名前や仕事を順調に忘れていった。先生は心配して、「でも、月謝を払うことは忘れないように」と言うが、それもあっさり忘れてしまった。
ものを忘れるということは、なんとも楽しいものだよと書いてあった。
これを受け取った少女の反応は分からないが、きっと少しは大人の賢い女の子、つまり、ジョークの分かる子に宛てて書いたのだろうとは思うが、何かを忘れたいという彼の本音もあったことは想像できる。

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2008.05.13

火星人はなぜ地球征服を失敗したか

H.G.ウェルズの「宇宙戦争」では、地球征服を狙っていた、地球人類よりはるかに高度なテクノロジを持つ火星人が、地球のウイルスに感染して死に絶えた。
これは、火星人の不注意と言うものだろう。惑星の侵略はもっと慎重に行わねばならない。
何事も詰めを誤ってはならぬという教訓を得たと思う(笑)。
さて、1967年の「火星人地球大襲撃」というSF映画がある。ロンドンの地下に眠っていた火星人が復活し、巨大なエネルギー体となって地球人を滅ぼそうとするものである。この時、ある男が、クレーンを使って、火星人のエネルギーを地上にアースするという作戦を思いつく。もう1人の男が叫ぶ。「簡単過ぎる!」だが、発案者は言う。「連中には、簡単過ぎて分からないんだ」
印象的な話である。簡単過ぎて分からないという経験があおりだろうか?私にはよくある。
専門のITに関しては、ごく素人はもちろん、多少のITマニアであっても、彼らにITテクノロジを伝えることは私には難しいし、彼らの話がさっぱり分からないことがある。簡単過ぎて分からないのだ。
ところで、昔、ほんの少しだけ、事務処理プログラムの標準言語と言われるCOBOL(コボル)を勉強したことがある。疑問ではあるが、コンピュータ教育として、一般の管理職にまでCOBOL教育をした企業もあったらしいが(今はさすがにやらないと思う)、30代、40代の一般事務系の管理職でもちゃんとマスターできるものであるらしい。それを聞いて、私は嫌な感じがしたが、予想通りであった。簡単過ぎてさっぱり分からなかった。
いまや私は、人間のやるあらゆることが簡単過ぎて分からなくなってきた・・・などと一度言ってみたいものである(笑)。

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2008.05.12

至高体験

至高体験といったものを味わいたいと思う人もいるかもしれない。
ロマン・ロランが大洋感情と呼んだものと同じだと思うが、日本語で一般的に至高体験と呼ばれるものは、英語でpeek experienceで、むしろ絶頂体験と訳す方が正しいという者もいる。
絶頂体験と言うからには激しいものであることが予想されるが、その体験を言葉で言うと、この世の美しさに圧倒されたとか、世界と一体になったようなとか、自分があまりに幸福であることに呆然としたとか語られる。また、もっと神秘的に語るものとなると、神と一体になったとか、自分自身が神になったとか、宇宙が善意に満ちているとか、全て善しと感じたとかになる。
至高体験を研究・提唱した著名な心理学者アブラハム・マスローは、最初、至高体験は特別な人にしか訪れないものであるとした。その後、マスローは、至高体験が誰にでも起こりうることと認めはしたが、それを意図的に起すことは不可能と考えた。しかし、マスローと親交のあった英国の作家コリン・ウィルソンは、それを意図的に起すことは可能とし、その方法を最近の本に書いたりしている。
さて、私に言わせれば、至高体験を意図的に起すことは全く可能である。
ただ、至高体験を、何か、麻薬でも飲んだような状態とか、とにかくハイでいきまくった状態と勘違いされてもいけないと思う。そんなに特別なものではないのだ。ありふれていると言って良い。普通の人は、至高体験を得ても、それを忘れてしまうくらいである。
確かにそれは意識の爆発であるのだ。それはまさに、岡本太郎の爆発である。しかし、それはビンビンに痺れた状態ではない。
私で言えば、静かに「私は誰か?」とものの数分問えば、至高体験に達する。すぐには無理でも、毎日それを行えば、やがてそうなると思う。そのメカニズムはそのうち説明するかもしれない。
いずれにせよ、それほど大した状態ではないので、妙な期待はしない方が良い。
尚、至高体験や大洋感情を描いた絵は、例えばゴッホの「星天の夜」である。世界の深く強烈な意味が心の奥深くを貫いた感覚を見事に描いている。
ただ、私にもちょっと強烈な至高体験があった。天使のような少女の警句を聞いた時である。いや、あれは天使だったかもしれない。彼女の警句は、直接心を貫いてきた。そして、それを思い出すだけで至高体験に達するのである。

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2008.05.11

母性の幻想

ヘミングウェイの「兵士の帰還」という小説がある。
大学生だったクレブスは入隊し、戦地に赴く。そして、帰還してからは全てに無関心になり、毎日、玉突きと読書をして過ごすようになる。
母親が言う。
「神様は、誰もが働くことをお望みだ。神様の王国に怠け者はいらない」
「僕は神様の王国になんか住んでいない」
「人間はみなそこにいるんだよ」
クレブスは、当惑と腹立たしさを感じる。
母親が、
「お前はかあさんを愛してくれていないのかい?」
と言うと、クレブスは、
「うん」
と返事をした。
母親は泣き出し、クレブスは、いまのは本気でなかったのだと弁明する。
母親は、
「私はお前の母親だ。お前が赤ん坊だったとき、よく抱っこしてやった」
と言う。クレブスは吐き気を感じる。
母親はさらに、祈るため一緒にひざまずこうと言う。クレブスは言われた通りにしたが、いくらせがまれても祈ることはしなかった。

ヘミングウェイが解説していたわけではないが、クレブスは、戦争でこの世の真実を見たのだ。しかし、それを誰も聞きたがらない。人々は、真実ではなく、自分の持っている幻想の中で生きようとする。彼の母親がその典型なのだ。
クレブスは母親が嫌いなわけではない。

カミュの「異邦人」という小説にも、似たようなところがある。
主人公の青年ムルソーの母親が死ぬが、葬式の翌日、彼はプールに泳ぎに行き、そこで女の子と仲良くなり、部屋に連れて来てエッチをする。
ムルソーは、正当防衛とはいえ、アラブ人を射殺する。だが、正当防衛を証明する目撃者がいなかった。
ムルソーは、被告として裁判をされる身になる。
裁判では、母親の葬儀の翌日の彼のナンパとエッチが問題になる。裁判官に、母親を愛していたかと聞かれ、
「母親は好きでした。大した問題ではありませんが」
と答えた。
裁判官はそれを聞き、ムルソーに悔悛を要求するが、ムルソーは当惑する。
検察官は、
「彼は母親の葬儀の翌日にプールに行き、若い女と肉体関係を結び、喜劇映画を見に行った。私の言いたいのはこれだけです」
と言い、それが決定打となり、ムルソーは死刑となった。
死刑を待つ日々、牧師がやってきて、ムルソーに悔悛を迫った。ムルソーは、その馬鹿さ加減に我慢ができなくなる。
死を前にして、ついにムルソーは完全に悟る。ずっと幸福であったし、今も幸福であると。

ヘミングウェイのクレブスも、カミュのムルソーも、真理を垣間見た。そして、人はもともと幸福であるのに、それを覆い隠すものは、真理に背を向け、風習や伝統に生き、作り物の権威に従うことであることを悟っていたに違いない。

親は、自分の持つ幻想を子供が持つことを望むのである。そして、それは多くの場合、成功するものと思う。吉本隆明氏の「共同幻想論」の中でも、この家族の中での幻想は対幻想として述べられている。さらに、小市民的な親は、もっと大きな地域での幻想である共同幻想に取り込まれている。さらに、人には個人幻想があるが、共同幻想や対幻想に逆らって、それらと異なる個人幻想を持っても、それもまた幻想である。
だが、この個人幻想をも破って真理を見る人もいる。そのきっかけが戦争や、自分の死であることもある。
しかし、普通に生活していても、それは可能であると私は思う。

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2008.05.10

超然

私は「超然」という言葉が何より好きだ。
超然とは、動揺しないことだ。そして、無闇に出来事に反応しないことである。
うまくいかない人間は、出来事に軽々しく、また、過激に反応するものである。

超然とは無関心をも意味する。
ただ、一般的な無関心とはやや異なる。普通、無関心と言われる人間は、自分にしか興味がないのだ。自分の身体、自分の心にばかり注意が向き、周りや、あるいは、心の奥に意識が行かないのである。だから、彼らは、自分の身体や心に関係する周りの出来事には過激に反応するのである。
超然とは、宇宙のような限りなく慈悲深い無関心である。

超然とは、世界を夢と見なすことだ。
ニサルガダッタ・マハラジは言った。「世界を夢と見なしたなら、すべきことは全てなし終えたのだ」と。

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2008.05.09

シーシュポスへの誘い

シーシュポスとは何かご存知であろうか?
私もつい最近まで知らなかった。
ギリシア神話に登場する人物(男)である。かなり不幸な男である。
シーシュポスは、「シーシュポスの岩」としてよく知られる。シーシュポスは、ある罪で、ゼウス神の罰を受ける。その罰とは、巨大な岩を山頂ま押し上げるのだが、あと少しで山頂というところで、岩は底まで転がり落ち、シーシュポスはこれを永遠に繰り返すのである。ここから、「シーシュポスの岩」とは徒労を意味することになる。

シーシュポスの名は、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」で、主人公のキョンが自分を例えて「坂を転がり落ちるシーシュポスのように」とか言ったのだが、私は、シーシュポスを魚の一種くらいに思った。
先日、私は、大昔に買った、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」なる文庫本を読み始めた。昔はさっぱり理解できなかったのだが、今では非常に面白く読める。私も進歩したらしい。で、この「アウトサイダー」に引用されていた、カミュの「異邦人」という有名な小説の主人公の男性であるムルソーのあまりのラブリーさに萌えてしまった。是非、一読をお薦めする。
ムルソーは、ある女性に求婚されると、即時にOKする。女性が「私を愛しているの?」と尋ねると、彼は「そんな質問は無意味だ。あるいは、無意味に近いが、おそらく愛してはいない」と答える。
早速、私は「異邦人」を買いに書店に行った。新潮文庫だとは分かっていたので、すぐに見つかった。ところが、その隣にあった本が、同じくカミュの「シーシュポスの神話」であった。
これは、いったい、誰の描いたストーリーなのだ?(笑)
長門有希(「涼宮ハルヒの憂鬱」に登場する、無口、無表情な女子高生)の仕業だと信じたい。なぜなら、私は「アウトサイダー」に長門有希が描かれたブックカバーをかけていたのだ。

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2008.05.08

エス

出逢いは偶然などと言う。
古い歌だが、中森明菜さんの「あなたのポートレート」という歌で、「あの日にボートがぶつかって、帽子を落としていなければ、他人のままでこんなときめきもない。恋は信じられない偶然」という詩がある。ロマンチックな出逢いである。
ところが、これが偶然ではないという見方もあり、CLAMPさんの漫画「ツバサ・クロニクル」のアニメの第1話のタイトルが「必然のデアイ」であった。CLAMPさんの作品ではよく、「この世に偶然はない。全ては必然である」と言われる。
エマソンは「あらゆる事実の必然的な理由を自分自身の中に見るべきである」と言った。
ニーチェは「偶然を自分の意思であるとして愛する」という運命愛を語ったし、イェイツは「宇宙大自然の偶然を自らの意思とすることで神に近付く」と言ったのは、ニーチェに近いものと思う。
実は、偶然と言い、必然と言い、その正体は謎なのである。
その中で面白いのは、ドイツ人医師で「心身医学の父」と呼ばれるゲオルク・グロデックのエスである。エスはドイツ語で、ラテン語のイドもよく知られているが、英語では単にit(それ)である。フロイト精神分析学の重要な用語であるが、その説明は実にいい加減に感じるもので、聞いてもさっぱり分からない。で、私もいい加減に言うなら、エスとは無意識に潜む生命エネルギーである。エネルギーという物理量が無意識という精神の中にあると言うのであるから、いい加減なことこの上ない(笑)。
フロイトのエスは、実はグロデックのエスを借用したものであるが、両者はかなり異なっている。
グロデックによると、転んで脚を折ったとしたら、それはエスの仕業である。エスなしに何も起こらないのである。よって、先程の中森明菜さんの歌で、ボートがぶつかって帽子を落としたのもエスの働きである。
病気になるのもエスによるものであれば、治すのもエスである。
女性は、好きな男性の前では手が冷たくなる。それは、エスが、「手を暖めて欲しい」という女性の願いに応えたものである。
とにかく、グロデックのエスは面白い。

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2008.05.07

美しき偶像

長門有希ブックカバーを買った(正式名称は「涼宮ハルヒの憂鬱 SOS団ブックカバー」)。
明日からこれに、コリン・ウィルソンの有名な「アウトサイダー」を入れて読む予定である。

Yuki

ところで、宗教の熱心な信者には、目の前にイエスやマリアがいたら自分はどう行動するかとか、お釈迦様に良く思われるにはどうしたら良いかとか考えるものであるらしい。
それで言えば、私は、どうすれば長門有希に良く思われるかを考えている。それなら、萌えももはや宗教であるが、宗教的霊験もあらたかである(笑)。
長門有希は、小説・アニメの「涼宮ハルヒ」シリーズの登場人物で、普段は1年生の女子高生であるが、その実、(ネタバレにつき白文字)対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース・・・早い話が宇宙人製の有機アンドロイドである。無口で無表情。いつも熱心に読書をしている。雰囲気的には、伝説のヒロインと言われる、「新世紀エヴァンゲリオン」の綾波レイ(14)と通じるものがあると思う。
主人公のキョン(高1男子)は、その正体を知っても、全く自然に普通に接していたところが新しい。人種差別など、過去の愚かな無知の闇である。

今回は(今回も?)妙なお話になった。すみません(笑)。

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アウトサイダーとして生きる

親戚関係でも、ニートが増えてきました。
私はちゃんとお勤めしている身ですが、考えてみれば、これはかなり奇跡的なことです。
絶対に、じっと家にこもっているタイプで、まあ、働くことなんてあるとは思っていなかったですね(笑)。学生の頃から、学校の授業を聞いたことはないし、友達の1人もいませんでしたし^^;
お上やなんかが、下手なニート対策やるより、私をひっつかまえて解剖した方が、良い案が出ると思いますね(笑)。
私がなぜ世間でやっていられるかというと、非常識パワーのおかげかなと思うことがあります。
昔、竹村健一さんが、「日本の常識は世界の非常識」なんて言ってたのを知ってますが、世界では非常識にしかならない日本の常識なら無視すべしと思ったのですね。
ユダヤ思想なんてものを売り物にしている本などでは、ことごとく日本の常識を馬鹿にしています。例えば、馬鹿ほど本を出しているマービン・トケイヤーのものです。
ただ、ちょっと真面目に考えると、確かに人と私では、あらゆる行動や考え方が異なりますので、周りの言うことをまともに聞くと、おそらく落ち込むことになると思いますが、ユダヤ思考を世間常識に優先させれば何でもありません。いっそのこと「タルムード」でも読もうかな・・・いえ、そこまで徹する気もありません。ユダヤ思考も、所詮1つのものの考え方ですので。ただ、日本の世間常識よりははるかに見るべきところがあるかもしれません。
他にも、魔法研究なんかもやりましたが、これも世間の常識外。魔法といっても、本格的なものです。「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツも、かなりやってたらしいです。
後、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」を読むと良いですよ。ちょっと難しいかもしれませんが、社会秩序の中にあることを拒否する人間のお話です。でも、彼らは敗北主義者ではありません。より本物の生、より大きなエネルギーの充足を求める超人四戸指向の人たちと言えるかもしれません。

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2008.05.06

画家とコンピュータプログラマ

画家とコンピュータプログラマがよく似ていると言ったのは、ポール・グレアムだ。
ポールは、ITベンチャーで成功し、その後、会社を売却して膨大な利益を上げた。現在は、講演、コンサルタント、著作で活躍している。ポールはハーバードで、コンピュータサイエンスの博士号も取得している。ところが、彼は美術学校で絵画を学んでもいる。

画家とコンピュータプログラマが似ている点として、いろいろ気付く。
まず、修行時代から言えば、目標の持ちにくさだ。
スポーツであれば、試合に勝つという目標があるし、その試合の勝ちっぷりや負けっぷりから、自分の実力や欠点といったものを知ることもできる。
私は、絵のことは分からぬが、おそらく、画家を目指すような人でも、自分が何を描けば良いのか悩むことがあると思う。先生がいて、あれを描け、これを描けと指示されるのでなければ、描きたいものが見当たらないといったものである。
コンピュータプログラマ的にこれにアドバイスするなら、選り好みせず、何でも描いてみるしかない。なぜかというと、おそらく、描きたいものが見当たらないという人は、ワクワクするようなものを描きたいと思っているのだろうが、そんなもの無くて良いのである。
ワクワクするような被写体といえば、男性なら美女のヌード、女性ならイケメンのヌードであろうが、それはモデルとして好きなのではなく、それそのものが好きなだけであるし、そんなものばかり描いていたら、遠からず描くのが嫌になるはずだ。
石膏デッサンが良いのかどうかは分からないが(池田満寿夫さんは弊害が多いと言っていたが)、身近なものをデッサンしてみるしかない。
それが退屈であると言うなら、退屈こそが良いのである。
ところで、コンピュータプログラムなんて実に退屈なものである。ハッカーやプログラムオタクだって、決して嬉々としてプログラミングしているわけではない。単調で退屈な作業を黙々とやっているのだ。私は、プロでもないのに、優れたプログラムを書く人は大したものだと思う。面白くもない、退屈な作業をやり続ける忍耐があるからだ。
本を読むということも退屈な行為に分類されると思うが、プログラミングとは、それどころではない。
世界的に普及しているプログラミング言語Rubyを開発したまつもとひろゆき氏は、Rubyはコンピュータプログラミングが楽しくできることを目標にしたと言うが、その楽しさは、決して映画を見たり、ゲームをする楽しさと同義ではない。それらと比べれば、やはりどう言っても退屈である。
身近な目標が見えないことを、単調さに耐え、淡々と行うことが力になる。もちろん、絵を描くことも、コンピュータプログラムも単調なばかりではないが、大部分が単調なものと思う。再度言うが、絵のことは分からぬが、常に興奮して描いているような画家はいないはずだ。

絵を習う、書を習うなど、いろいろあると思うが、教室ではあまり生徒を退屈させるわけにはいかず、先生達はいろいろ大変と思う。
ちなみに、コンピュータプログラミングを学校で学ぼうなんて人はあまり素質はないと思う。学校に行くというのは、1人では理解しにくいところを教えてもらえるという便利さと共に、退屈せずに済むという期待もあると思う。しかし、何事も、退屈さに耐えねば上達しないはずだ。
ところで、昨今の一流の学習塾は、授業が面白い。生徒を退屈させないよう、徹底した配慮がある。退屈だと頭が働かないということもある。しかし、それで受験に成功した生徒が、人としての知恵を得られるかどうかは疑問だ。よって、学習塾だけに集中せず、絵を描いたり、書を書いたりすると良いと思う。

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2008.05.05

優れた嘘は世界を進歩させる

著名な映画監督の伊丹十三氏(故人。1997年に自殺)は、大変な読書家であったようだ。
寝室では必ず読んだそうだが、1つの本を読み終わらないうちに、次に読む本や、その次に読む本を持ち込むほどであったらしい。
なぜそれほどまでに読むのか?
彼の読書は「力の読書」であった。良い本を読むことで自分を強くしようとしたのだと思う。逆に言えば、常に自分を強くしないと不安であったのだと思う。
その伊丹氏が、心理学者の岸田秀氏の本に出会い、かなり傾倒したようだ、岸田氏の代表作とも言える「ものぐさ精神分析」のあとがきを書いていたが、岸田氏の本を読み、頭にかぶせられていた覆いを取られたように精神的な壁が消えたと言う。しかし、それは錯覚であった。
岸田氏の思想は「唯幻論」である。全ては幻想であるとしている。これは神秘的な意味ではなく、人間精神の認識作用のことを指している。もっと的確に言えば、フロイト理論である。フロイトは、人間の本能は壊れているので、その補償として心なるものを作った。しかし、心は自然に立脚しない作り物であり、幻想であるとした。
もはや古い考え方である。
現在は神経科学が発達し、やがてこれが、心理学をその1分野に収めてしまうであろうことも十分に予想できる。心理学が曖昧で、そもそも科学でないことは岸田氏も認めている。

伊丹氏にとって気の毒なのは、岸田氏の本を読み、精神の障壁を除かれたようなことを言っているが、そもそもが、岸田氏自身、自分の唯幻論にそんな力があるとは思ってもいないと思う。岸田氏は、所詮、人間は幻想の中で生きるしかないと言っているのであり、その幻想を破る方法なんてものは一切書いていないし、可能とも思っていないと思う。
人間の幻想を破る知恵を持つのは私である。伊丹氏は、私のところに来るべきであった・・・というのは冗談である(笑)。

唯幻論は面白いし、非常に勉強になる。しかし、目的を誤ってはならない。あれは優秀な思索であり、興味深い仮定であり、真実も含んでいるとは思うが、能力開発に使えるものではない。精神疾患の治癒に役立つこともあるかもしれないが(岸田氏自身は優れた治癒効果を得たという)、それにはフロイト精神分析学をはじめ、かなりの勉強をし、その上で幸運に恵まれる必要がある。そもそも、フロイト自身、精神分析医でありながら、治療に成功したことはほぼないのである。

ネット上ではあるが、私は岸田氏に、「百年バレない嘘は世界を進歩させる」と書いたら、岸田氏は「唯幻論が百年バレない嘘であることを僕が一番望んでいる」と返事をしてくれた。百年バレない嘘をつけたら、世界に貢献したと言えるのである。

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2008.05.04

ナイフを眺める

使いもしないナイフを眺めて喜んでいたら、間抜けなやつとか、危ないやつとか思われるかもしれない(笑)。
しかし、大型ナイフを使うキャンプなんて、年に何度もできない。私も、普段はナイフを眺めて喜んでいる。
だが、ナイフには人類の知恵と歴史がある。石器時代に、折れた棒の鋭い部分が武器になることに気付いた時から、人類はナイフを使ってきた。それから数千年の間、実践と思索の中で改良が加えられ、現在の形になったのである。
よく出来たナイフ1つをじっと眺めていると人類そのものを感じるほどである。
少なくとも、テレビゲームをしたり、お笑い番組を見たり、刺激的なだけで思慮のない映像を見るのとは比較にならないほど有益であると思う。

Makiri

私が所有する、佐治武士氏作の「漁師マキリ」。西洋ナイフのようなステンレス鋼ではなく、刃の鋼材は白紙という炭素鋼で、手入れしないと錆びる。しかし、切れ味は抜群である。ハンドルは藤を巻いて滑らないようにしてあるが、これがなかなか風情を出している。

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2008.05.03

ワクワク、ドキドキ絶対厳禁!

若者は、そして、特に子供は「ワクワク、ドキドキしないといけない」という馬鹿げたことが一般化してしまっている。本当に馬鹿な、いや、愚かな話である。
子供なんて、退屈させておけば良いのである。

レジャーランド、テレビゲーム、鉄道や旅行会社のテレビコマーシャルなどが、子供にワクワク、ドキドキを与えるのが、まるで大人の愛情、大人の義務であるかのように騙して、サービスや商品を売り込む。その満足気な子供達の、なんとも醜悪な様子が見えないか?
そう、子供達のワクワクドキドキなんて、せいぜいが、ディズニーランドやゲームや豪華列車の旅行なのである。そんなもの、一切無用である。いや、与えてはならない。でないと、子供達はエキサイティングな刺激に慣れ、次々と刺激を求めるようになる。それも、自分の力で得るものならまだマシであるが、単に外部から与えられたものであり、しかも、そのための金さえ親のものである。
外部からの強い刺激で楽しんでいては感性も想像力も知性も育たない。しかも、自分で支払うわけでもないのに与えられるのであるから、依存症や自己中心性が強くなる。
これでは、全力で子供をダメにしていると言って差し支えない。

船井幸雄さんが、ビックリ体験をしないといけないなんてアホなことを本に書いている。
それで、面白いものを求めて飛び回るそうだ。
外からの強い刺激がないと楽しめない、感性や想像力が枯れ果てた悲しい老人の姿がここにある。

ダリル・アンカというアメリカ人は、宇宙人バシャールとチャネリングで意思を通わせると言っているが、バシャールは、ワクワクすることをやると幸福になると言っているそうで、信者の間ではワクワクというのが合言葉になっているようであるらしい。
で、ワクワクを求めてみんなすっかり落ちぶれ果てているようだ。当然である。
表面的に面白いワクワクするようなことを求めていては、何の力も付かないし、感性も想像力も伸びず、逆に退化してしまうのである。

逆に、ワクワクもドキドキも無縁なこと。例えば、1冊の名著を10年以上かけてボロボロになるまで読むという退屈なことをやった者が知恵と力を得て正々堂々で成功している。
ひたすら木彫りの仏像を作った円空の作品は最高の芸術である。

改めて言うが、子供なんて退屈させておけば良い。面白いものを次々与えることは、子供達をダメにする。その中で、1つのサッカーボール、刺激的でない本を与えれば、工夫して面白さを見出すであろう。そうしてこそ、想像力や知性が育つのである。
あ、そうそう。大人も同様である。

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2008.05.02

GWへの新しい備え方

GWに備えて、面白そうな本やDVDを購入しようと思ったがやめた。
我々は、常に外部からの刺激にたよる生活から脱却する必要がある。

バーン・ザ・フロア・カンパニーというダンス興行グループがある。大勢のダンサーによる舞台ダンスの公演を行うのであるが、ダンサーは全て若いイケメンと美女。そのダンスは非常にセクシーでエキセントリックである。つまり、嫌でも刺激的で面白いものであり、世界的に成功している。こんなダンスを見たら、他のダンスはいかに優れたものでも退屈で見れなくなる。いや、バーン・ザ・フロア・カンパニー自体、どんどん派手にしていかないとすぐに飽きられる。観衆はさらなる刺激を求め、感覚は麻痺していく。
そうではなく、ダンスを見るなら、見る目を養えば、派手でなくても真の面白さが分るようになり、それは飽きるどころか、同じものを見ても楽しみはどんどん深くなる。そんな見方をしたいものだ。
ディズニーランドも、USJも、毎年、どんどん高度な手法を取り入れ、より面白い娯楽を提供する。子供も大人も大喜びだ。しかし、それはあくまで外部から与えられる刺激に過ぎない。自分の感性を磨き、想像力を高めれば、1冊の本で、これらをはるかに上回る楽しさ嬉しさを得られるだけでなく、外部からの刺激はすぐに飽きて色褪せるのと違い、経験を重ね、思考を深めるごとにその喜びも大きくなり、さらにその能力は、人生のあらゆる場面で使えるのである。

すでに所有している本や映像作品を、かつてそれを読んだり見たりした時の自分と異なる自分として、新たな目で見ることで、より大きな感動を味わおうと思う。そして、それはできて当たり前のことである。
私には、ディズニーランドやUSJは用無しである(ただ、社会見学の意味で訪れるのは悪いことではないし、その時は楽しめば良いと思う)。

本やDVDも、今は欲しいものを際限なく買えるし、確かにそうしてきたが、それもやめよう。縁があって入手したものだけで十分である。
日本では、割合に最近までのことであったが、どこの国でも、昔は本を多く所有できる家は多くなく、同じ本を何度も読んだものと思う。しかし、彼らの想像力や感性は我々以下であろうか?むしろ逆と思う。
アンデルセンの家も貧しかったが、それでも、文学好きの父親のおかげで、聖書は当然として、何冊かの物語の本はあったらしいが、それだけであった。それでも彼は、人類最高の想像力を得たのである。
また、家にただ1冊あった聖書を繰り返し読むことで偉大な知恵を得て大きな仕事をしたという者も少なくはない。
なにごとも、そこからどれだけ学ぶかは、その人次第である。聖書を読んで何も学ばなかったり、むしろおかしな影響を受けることも考えられるが、3百回も読めば、少なくはない良い部分を発見し、それを身につけるのではと思う。
ある本を、10年以上かけて、本当にボロボロになるまで読み、そこから得た知恵を生かして成功した人を知っている。
幸い、私は、間違いなく優れた書といえる本や、名作のDVDを数多く持っているので、材料には事欠かない。その中の特に選りすぐりから徹底して学び、考え、知恵を得ようと思う。
良いGWを送る準備は十分である。

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