内なる芸術家
音楽を聴いている時、その音楽を自分で作曲したとみなして聴くと、それを創作した時のことを思い出す。絵画であれば、やはり、それを自分が描いたと理解すると、それを描いた時のことを思い出す。小説や詩も同様だ。
小説を読むということは、それをもう一度自分が書くことであるとサルトルが言ったらしいし、エマーソンはその原理を説明しさえしたらしいことは、私がそれに気付いてから後から知った。
本物の芸術であれば、それを創造した時、比喩的に言うと、自らの魂が神の魂と溶け合っていたはずであるので、芸術を通して神を知ることもできる。
芸術家が絵を描くとき、芸術家は何もしていない。ただ、絵が出来上がるのを見ているだけだ。絵は芸術家のマインドが描いている。マインドが磨かれていれば、それはこの世の実相をきれいに反映するので、その絵はこの世を描いたものではなくなる。
マインドが完全に静まっていなければ、作品にも人間的な個性が現れるが、それはそれで面白い場合もあるのだ。言ってみれば、それは見る人が経験できなかった人生である。岡本太郎は、これをもって芸術は呪術だと言ったのだ。人間のマインドとはいえ、貴重なメッセージもあるのである。そのメッセージを自分のメッセージとした時に、鑑賞者はその作品を好きになる。あるいは、表面的には嫌悪すらしても、心の深くで気に入るのである。岡本太郎の言う、「いやったらしさ」とはそれである。
鑑賞者のマインドが制作者のマインドと共鳴した時、鑑賞者のマインドに神の魂が入り込んでくる。それは、死の体験と感じることもあれば、宇宙に向かって生命が広がるように感じることもある。前者は、特にエロチシズムを描いた作品に多く、後者は、岡本太郎の言う爆発のことだ。
もっと端的にいれば、真の芸術家は我々の内にいる。日々、世界という作品を作り出している。ただ、マインドが曇っている限りは、それは魔術師とは呼べても芸術家とは呼べない。それでも、マインドが静まった一瞬、天国を作り出すことをご存知と思う。
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