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2008.03.01

生ける死人

「生ける死人」といったら、あまり肯定的なイメージは持たないであろう。
普通は、例えば、悲劇的な体験のため、すっかり気力を失った状態といったところであろうか?
少し前に映画化された「どろろ」の原作漫画で、百鬼丸はどろろに、恋人が殺された時のことを話し、「その時、俺の心も死んだ」と言う。そして、私には漫画史の中でも最も印象的なシーンなのだが、百鬼丸はどろろに胸を触らせ、「どうだ?冷たいだろ?」と尋ね、どろろは「うん」と肯定する。描いたのが医者である手塚治虫だけに感慨深い。
歴史的な漫画・アニメである「8マン」の主人公8マンは、殺された私立探偵、東八郎の記憶を移植したスーパーロボットなのだが、その最終話で、8マンは自らを「所詮、生きる死人」と言った(「8マン」は1964年に連載終了したが、最終話「魔人コズマ」は、事情で1990年に描かれた)。
現在人気の、「ツンデレ」「萌え」アニメとして有名な「灼眼のシャナ」は、主人公の一人である坂井悠二が死んだところからストーリーが始まり、悠二はもう一人の主人公の美少女シャナに「お前は人じゃない。モノよ」と宣言される。確かに、最初はシャナにとって、その悠二は元の本人の残りカスに過ぎなかったが、やがて彼女にとって悠二は大きな存在になる。
つまり、面白いことに、「生ける死人」はヒーローでもある。
そして、彼らを凌ぐスーパースターであるイエス・キリストは、「神殿を壊せ。私は3日で建て直す」と言った。この「神殿」とは、イエスの身体である。イエスは磔にされて死んでから3日目に蘇ったのである。言ってみればゾンビなのだ。
死して半世紀が過ぎても、いまだ年間数十万人の巡礼者の絶えないインドの聖者であるラマナ・マハルシは、キリスト教の真義をこう言った。「十字架は肉体である。イエスは自我である。自我が肉体に磔にされて滅び、永遠なるキリストが復活した」
ニサルダガッタ・マハラジは、「死を恐れないのか?」と聞かれ、「私は既に死んでいる」と答えた。
我々も、真に生きる秘儀とは死ぬことだ。それは肉体を故意に滅ぼすことではなく、世間に対する死であり、イエスのように自我を滅ぼすことである。

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