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2008.03.31

葵の紋所はこけおどしの幻想だ

歴史に興味のない人でも「葵の紋所」と言えば、徳川将軍家の家紋であるとご存知と思うし、それはどうも、「水戸黄門」のテレビ時代劇のイメージがあるのではないかと思う。
この不滅の人気時代劇の葵の御紋の扱いは極端なワン・パターンだ。
ドラマの終盤あたりで、水戸の御老公様の、「角さん!助さん!こらしめてやりなさい!」の号令と共に、いつもの調子のいいバックミュージックが始まり、角さん、助さんやそのお仲間達が、大勢の悪者達を相手にファイティングを開始する。その強いこと強いこと。「負けるんじゃないか」といった心配は800パーセント無用だ(笑)。お銀さんのミニスカのキックが出ると、もうほとんど敵をナメている。ジイさんの黄門様も、時々杖でバシっと決める。
そして、適度なところで、黄門様のいつもの声がかかる。
「もういいでしょう!」
それを合図に、角さん、助さんが偉そうな太い声で、「控えおろう!」を連呼する。
で、角さん、助さん、どっちの役かは存ぜぬが、どちらかが、「この紋所が目に入らぬか!」とすごみながら、懐から、葵の御紋が描かれた印籠を取り出し、悪者共に向かってはっしとかざす。ここで悪者共は目を丸くして驚く。角さんか助さんの朗々たる声が続く。
「ここにおわすお方をどなたと心得る!恐れ多くも前(さき)の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!」
前(さき)の副将軍とは、フォーマー・バイス・ショーグンである(なんで英語(笑))。
慌てふためく悪者達。もはや戦闘どころではない様子だ。
そして、角さん(か助さん)のトドメの言葉。
「御老公の御前である。頭が高い!控えおろう!!」
悪者達、一斉に「ははー」と土下座をする。
後は、すっかりビビった悪者達に御老公様が老人とは思えない記憶力で、つまることもなくその悪事の一切を口述する。悪者は、一度は、「お言葉ですが」と反抗し、黄門様もわざとらしく、「ほう、身に憶えがないと申すか?」と問うと、悪者もここぞとばかり、「はて、何のことかさっぱり」「何かのお間違いでは」「そこの者達(被害者)の戯言でございましょう」とふてぶてしさを見せる。そこで黄門様は「だまらっしゃい!」と一括し、証拠や証人を差し出す。ここでほとんどの悪者が、がっくりと崩れ落ちる。

長々と失礼した。私もかなりの黄門マニアだ(笑)。
もし、上記のシーンがそれなりに思い浮かぶようであれば、是非次のような展開を描いて欲しい。
葵の御紋の入った印籠をかざし、「頭が高い!控えおろう!」と、すっかりいい気になっている角さん(か助さん)に対し、ワルサーP99をぶっ放して、葵の印籠を吹っ飛ばす。
そして、黄門グループを叱る。
「権威を振りかざす者がいるから悪が生まれるのだ。権威を盲目に受け入れる者がいるから、人は差別をし、欲望を貪り、恐れ苦悩するのだ。悪の元凶よ、去れ!」

葵の紋所に「ははー」とひれ伏すことを愚と認識して欲しい。自然や生命の偉大さに比べ、たかが人の作った、それも単なる幻想である。幻想に力を与えることが人の不幸であるのだ。
本来のあなたは幻想を超えている。自分に劣るものにひれ伏す必要はない。このこと、くれぐれも忘れることなかれ。

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2008.03.30

パラレルワールド

パラレルワールドという言葉を御存知であろうか?
日本語では並行宇宙とか並行世界と言い、SFによく登場するものである。
この世界とは別に、多くの(あるいは無限の)世界が存在し、それらの世界はいくらか異なった世界であるといったものだ。
単に想像上のお話のようではあるが、20世紀に発達した物理学の1分野である量子論は、こんなお話を大真面目に受け取る理由を与えてしまい、実際、それを信じている物理学者だっている。
並行宇宙が沢山存在すると言うよりは、新しい並行宇宙が突然に創造されると言った方が良い。そして、どんな時にそれが生まれるかというと、観測行為が行われた時だ。最もよく引用される例はコイン投げであろう。コインを投げて、その表が出た場合、裏が出た世界がぴょこんと発生してしまうのである。

筒井康隆さんの「果てしなき多元宇宙」というSF小説で、こんな話がある。
暢子(のぶこ)という女子高校生は美少女である。しかし、まぶたが一重であることを残念がっていた。しかし、彼女が、自分のまぶたを観測した時、まぶたが二重である世界が生まれてしまう。
西暦3921年に行われた量子を制御する新しい装置の作動開始時に事故が起こり、時空を乱してしまい、暢子は(あるいは他の全ての人間もかもしれないが)異なる並行宇宙を移動してしまえるようになる。難しい数学が無くなればいいと思ったら、数学の授業は小学校の算数並という世界に移動する。ボーイフレンドの史郎は、頭が良く大人っぽい素晴らしい男子であったが、ケンカが弱いことを内心残念に思っていたら、移動した世界では、史郎は大勢の不良高校生をまとめてKOするほどのスーパーマンになっていた。

量子論の世界では多世界解釈と呼ばれているが、谷川流さんの人気小説「涼宮ハルヒの憂鬱」をこれに合わせてみても大変に面白いと思う。宇宙人や未来人や超能力者がウヨウヨしている世界は現実に生み出されてしまっているかも知れないわけである。

よく、若い人について、「無限の可能性を持っている」とか言うであろう。多世界解釈的には、それはまさに言葉通りの意味になる。別に若者でなくても、老人に関しても当てはまる可能性はあるが、活動範囲の大きな若者の方が観測事象が多いので、その分、創造される世界も多くなるとは言えるかもしれない。
そのような訳で、多くの観測ができる多くの経験を発生させ、より多くの並行世界を創造しようではないか(笑)。あなたが、可愛いあの子をゲットできなくても、別の並行宇宙では、別のあなたが、めでたくあの子と親密になっているさ。え?それでは面白くない?(笑)そんなことはない。この世界であなたが危機一髪をまぬかれても、別の世界ではそうではなかったのである。そう考えれば、あるがまま満足するしかないかもしれない。
だが、私の直観で言うと、我々がいる世界すら、一瞬一瞬に創造されている。そして、それ(世界)は全くの幻想だ。可能性としては、いかなる世界も自在に創造できるはずのものである。世界創造に関しては、ゲームのようなルールがある。そのルールを使いこなす達人になれば、世界は意のままである。

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2008.03.29

自己投影

小説を読むと、小説自体の内容より、著者のあとがきを覚えていることがよくある。
あとがきは、ほんのついでの話である。しかし、ここにこそ著者の純な人間性が表れる。
江戸時代の禅僧である道元の「正法眼蔵随聞記」などは、道元の弟子が書いた、道元のついでの話の集大成であるが、これが実に味わい深い。新約聖書の福音書もまた、イエスの4人の弟子がイエスの言動を書いたものであるが、ついでの話をもっと盛り込んで欲しかったところである。
私は子供の頃、平井和正さんの狼男(ウルフガイ)シリーズを読み、その小学生の時でさえ、やはりあとがきばかり記憶に残った。平井さんは1938年5月生まれなので、もうすぐ70歳である。彼が中学生の時は戦時中だったのだが、クラスメイトの女の子が学校に来なくなり、しばらくしたら、毒々しい化粧をして米兵の腕にぶら下がっていたというお話を書かれていた。それに対する平井さん自身の気持ちを何も書いておられなかったのが、かえってこちらにいろいろ考えさせるものである。ナイフの決闘もしたと言う。これに関しても、顛末が書かれていないので、ひたすら想像するのみであった。

さて、シリーズで450万部という非常識な売上を誇る、谷川流(たにがわながる)さんの「涼宮ハルヒ」シリーズの2冊目の「涼宮ハルヒの溜息」を読んだが、これもあとがきの印象が大きかった。
谷川さんは、夏だというのに、池で一羽悠然と泳ぐマガモの雄を見て、最初は春先に仲間においてけぼりを喰らったのではと心を痛めたらしい。しかし、そのマガモ君が夜中にウロウロしているのを見て、「なんだ、単に変なヤツだったのか」と思ったらしい。
一緒に北に行こうと誘う仲間に対し、「いや、俺はここに残る。理由は特にない」と主張して残ったヒネクレモノと思ったようだ。(このマガモのセリフ、私は大好きだ!!)
だが、結局のところ、人々がエサをくれるので居心地がよく、移動しないマガモも結構いることが分かったらしい(笑)。
私は、谷川さんはそのマガモに自己を投影したのだと勝手に思っている。彼は、仲間においてけぼりを喰らうようなことが多かったかもしれないし、集団行動に馴染めないヒネクレモノと自分を思っているのかもしれない。
そして、こう言っている私自身が、そのように谷川さんに自己投影したのであろう。
こう考えると、やはり世界は自己投影から成り立つ部分が非常に多いことになると思う。
世界は涼宮ハルヒを中心に回っているのだろうが、実はそれは誰にでも言えることなのである。

Ryoko
私は、「涼宮ハルヒ」シリーズの登場人物では、この朝倉涼子が一番好きだ。この作品のヒロインの一人である長門有希と同じく、対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース、つまり、身体を持たない宇宙人が作った有機アンドロイドである。この人に殺されたいものである。
写真は有限会社マックスファクトリーの製品「涼宮ハルヒの憂鬱 朝倉涼子 (1/8スケールPVC塗装済み完成品) 」である。私はAmazonで買った。欲しい方は恥ずかしがらずに早く買うように(笑)。

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2008.03.28

夢を支配する

「なぜ私はいつもこんな目に遭うのだろう?」と言う人がいるものだと思う。
「どうして、こんなタイプの男(女)とばかり付き合うことになるのだろう?」という人もよくいそうだ。
男であれば、好みの問題ではなく、自分の母親と同じタイプの女が近寄ってくることはよくあることだと聞いたことがある。支配型の母親に育てられると、特定の方法で支配しやすい人間になる可能性は大いにある。そして、自分の母親と同じような支配の仕方をする女を引き寄せてしまう訳である。尚、母親とはほぼ全て支配型であるので、女は自分に支配しやすい男を目ざとく見つける傾向があるかもしれない。また、男の方も、自分を支配する母親に反発を持っており、母親のようなタイプは嫌いだと思ってはいるが、やはり自分の母親タイプの女に見つけられてしまうのである。

いずれにせよ、面白くない状況を作り出しているのは、自分の心だと言えると思う。
だから、その心に従い、いつも同じような面白くない状況を作り出すのである。
それがいやなら、心をどうにかすれば良いのである。
心の傾向とは、夢の中にも現れるものである。
夢を自由に支配できるようになれば、現実もコントロールできるようになるだろう。だが、それは容易いことではない。心の傾向とは非常に頑固であるからだ。とはいえ、現実と比べれば、夢を思い通りにする方が簡単だと思う傾向は普通あると思う。よって、夢を利用するのである。
夢の中で、いつも乞食になってしまう人は(いまどき、現実で乞食を見れるかどうかは分らないが)、いくら「俺は乞食になる夢は見ない」とただ念じても無駄である。なんらかの方法で、心を変えなければならない。
心の変革に成功し、いつも豪邸に住む夢を見るようになったら、その気になれば豪邸に住めるようにもなるだろう。ただ、可能だからといって、必ずしも豪邸に住む必要もない。
実際は、心は変革するのではなく、曇りを払えば良い。そのためには、毎日、何かの行を淡々と行うことが良い方法であると思う。それは何でも良い。見返りを期待せず淡々と行う限りはね。
ところで、心は徐々に変わるものではない。ある時期に急激に変わる。そうなれば、あなたの人生、「変わるわよ」(笑)。

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2008.03.27

人々の顔を見る

電車等、人が多く集まる場所で、これらの人々の表情を観察すると愕然とする。
そこに表れているのは、傲慢、不満、虚栄である。。最も良いものでも不安である。そう、不安が最もマシなのだ。この表情は拒否のような雰囲気に表れることもあるが、ほとんどが若い女性である。
30代以上の男性の中には、意志の強さを思わせる表情の人もいるが、それも極めて少ない。威厳や穏やかさを示す顔は滅多に見ない。
また、子供や中高校生でも、上記に上げた流行の大人特有の表情を持つ者がかなり多い。
鏡を見るまでもなく、自分の表情は分かると思う。
穏やかな表情をしていることだ。そうすれば幸運の女神も振り向いてくれる。
穏やかな表情をするためには、欲しがらないことだ。不要なものを求めないことである。
つまり、ほとんどの人の表情が醜いのは、常に不相応なものを求め、欲しがっているからだ。
いつも、ただ在ることだ。在ること以外はまやかしである。在ることに落ち着けば心は鎮まる。ただ在ることが最も自然な状態だ。人間にとって、あるいは世界にとって、「自然な」という以上に良いことはないのである。

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2008.03.26

私の超能力養成書

論語の愛読者は多いと思う。また、「論語のすすめ」のような本もよく出ているのを見る。
論語は、孔子の教えを、孔子の死後に弟子が記述したもので、日本でいえば「正法眼蔵随聞記」のようなものと思う。「正法眼蔵随聞記」は道元のお話を弟子が記述したものであるが、道元自身が書いた「正法眼蔵」が難解過ぎて歯が立たないのと比べ、実に読みやすい。

中国には、論語の他にも素晴らしい古典があり、古代から優れた精神文化を持っていたはずなのに、現在の中国はすっかり物欲に取り付かれたのであろうか?いや、お隣さんのことは全く言えない。我々日本人もすっかり欲ボケた悲惨な国民となってしまった。

私は以前から「荘子」を愛読していたが、密かにこれを超能力養成書と見ていた。超能力と言うのは単に言葉上のことで、やはりシンクロニシティやセレンディピティを引き起こすような力をそう呼んだだけだ。
超能力は、癖付けされていないクリアな精神から発揮される。学校などで、おぞましくも厚く塗り固められた固定観念や偏見を打ち破れば、誰でも奇跡を起せる。「荘子」は、その作用では、今でも最高の書の1つだ。もっとも、自分が得する奇跡を起してやろうなんて思っているうちはダメである。
「荘子」には、ひどい醜男でありながらモテまくる男や、高齢になっても若いコに負けない容貌の婦人が登場するが、なぜモテるのか、なぜ若いのか、どうやればそうなるのかも書かれている。みんな、なんで「荘子」を読まないのか不思議だ。

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2008.03.24

人に願いを叶える力なんてない

牛丼の吉野家のテレビCMで松井秀喜さんが「強く願えば叶う」と言い、人気歌手の歌でよく「叶わない夢はない」と歌われたりする。
それは絶対に嘘である。
叶わない夢はあるし、叶ってはいけない夢がある。そして、ほとんどの夢は叶わない。夢も希望も無いようであるが、実はここにこそ夢や希望がある。
幼児は強く願うことがよくあるが、そんなものが叶っては大変であるし、本当の幼児でなくても、幼稚な精神の持ち主の願いが叶うなら恐怖である。独裁者は常に新しい望みを願っているが、そんなものが叶って欲しいだろうか?
反面、奇跡のように願いが叶うことも実はある。まるでそれが必然であるかのように、不思議な偶然が積み重なって、あり得ないような願いを叶えることもある。
種明かしをするなら、願いが叶うかどうかは、その人が願いを叶えることができる状態にあるかどうかで全て決まる。別に、優秀さや、人物の善悪の問題ではない。それらとは全く別の問題である。
さて、ここでまた奇妙なことを言おう。本当は願いは全て叶っているのだ。嫌な出来事、見たくない現実・・・それらは、叶った願いである。
道を歩いていたらヤクザに会った。そしたら、「またヤクザを作ってしまった」と思えばいい。クラスや職場に嫌なヤツがいる。それもあなたが望んだことだ。望んだかどうかはともかく、責任はあなたにある。ごく若い人の場合は、家族の影響も強いかもしれない。
だが、それが理解できれば、いくらかでも願う通りの状況を作ることもできる。
だから、我々は、自分の心や出来事をよく調べないといけない。それは心を静かにして行わねばならないし、偏見のない心で行う必要がある。大方の人が、世界を思うように作れない理由とは、偏見があるからだ。偏見を消すのは難しい。そのための教えを学ぶとしても、人は自分の偏見を強化する教えにしか興味を持たないのだ。よって、ますます状況は悪くなる。
本当に正しい教えとは、最初は奇妙に思えたり、理解しようがないと思えたりするし、全く面白くも楽しくも無い。たまたま正しい教えに巡り合い、時間をかけて偏見をぬぐうと、世界は意のままになっている。ただ、その時は、すでに何も望まなくなっているかもしれない。

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2008.03.23

支配者の裏をかくには

私は聖書研究者でもないし、クリスチャンですらなく、それどころか聖書を通読したこともないが、それでも、新約聖書には削除された部分が少なからずあり、また、誤訳というよりも意図的に改変された部分もかなりあると思う。
これに関して、私は一切の研究者などの意見を見たり聞いたりしたことはない。
まず、実際はイエスは奴隷制に関して何か言っているはずと思う。当時、奴隷は相当な数がいたはずだが、イエスがこれに関して全く批判していないのは不自然である。このことをもって、イエスが奴隷制を認めていたとか、当時は奴隷が存在することを全く自然なことと認識されていたのだとする説もあるらしいが、それはおかしい。
イエスが奴隷制を非難した部分を、支配者達が取り除いたとしても不思議はない。
また、イエスが「私は羊達に命を与えるために来た」という有名な言葉があるが、まさかこの通り信じてはいけない。もし言ったとしたら、「私は羊達に知恵を与えるために来た」のはずだ。しかし、支配者達は、羊、即ち、庶民に知恵など持ってもらっては困るので、こう書き換えたのであろう。
さて、現在でも、そして、わが国でも、このことは全く同じである。
我々国民は、国家にとっては奴隷である。そして、知恵を根こそぎ取り除かれている。知恵がないので、自分が奴隷であることすら分からないのである。
吉本隆明氏は、国家は幻想で成り立っていることに気付き愕然としたと言うが、それは操作された幻想である。
意にそまぬ仕事を馬鹿なほどやらないと、住むことも食べることも着ることもできないことを奴隷常態と言わず何と言おう。時々、「仕事を趣味にしよう」なんてことを言う者もいるが、庶民がそれに成功した例は限りなくゼロである。
スポーツやエンターテインメントや商売の世界のスターは所詮、奴隷頭というに過ぎない。あるいは競走馬である。走り続け、勝ち続けないと生きていけない悲惨な存在であることがお分かりと思う。
聖書は改変されているとはいえ、イエスの教えの片鱗は残っている。面白い・・・と言うほどでもないが、実に、アンチ・キリスト者こそ、イエスの正しい教えを語っているのだ。例えば、ニーチェやイェイツやワイルドである。
聖書だけを見て、イエスが嘘つきと言うのはB級の知性の持ち主だ。聖書が改変されているのは当たり前である。なら、どう改変されたかを知れば、支配者の裏をかくことも出来るかもしれない。

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2008.03.22

高級ワインは不味いですよ(笑)

苫米地英人さんの新しい本である「洗脳支配」を読んでいると、洗脳されないで済む心構えとして、「情報を信じないこと」とあったのが目に留まった。
ワインを例に書かれていたが、そのワインがいかに高価で素晴らしいものであるかといった、確証しようもないことを信じるなというものである。それなら、例え1本100万円のワインであろうが、飲んでみて不味ければ、自分にとって何の価値もないことになる。そして、私であれば、どんな高級ワインも価値がないことは確実である(笑)。
そのワインが極上品であることが分らないことが何であろうか?それが人間としての欠陥であるとは全く言えないし、500円のワインが50万円のワインより良いと思ったとて、恥ずかしいことは絶対にない。
洗脳されない心構えとはそのようなものであると思う。
苫米地さんは、主に経済の話を主体に書かれておられたが、まずは教育の問題を考えることも重要であろう。
押し付けの情報を無闇に信じなければ、学校は無価値であるばかりか有害であることはすぐに分るはずと思う。
もっとも、学校が害悪に満ちたものであるとはいえ、世間もまた不条理で愚かなものであるのだから、その下っ端レベルである教育者が支配する学校と適当に付き合うことで、馬鹿げた世間に出るための訓練を行えという説もあるし、これには私も反対ではない。しかし、あくまで付き合いは「適当」に行うべきであり、深刻な被害を受けるほどに付き合うべきでなく、ましてや、学校が悪と認識でずに付き合うようなことも愚かである。

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2008.03.21

終焉のヴィジョン

こんなに早く日本の終わりが来るとは、正直、予想外でした。
私には、これが日本国の支配者によるものか、あるいは、外国の陰謀かすら分からず仕舞です。
でも、もう終わりです。
国民から知性を奪い、ひたすら欲望を植え付け、その上で止めを刺しに来たというわけです。私には何もできませんでした。敵の方が上手です。
日本が終わりといっても、国がなくなるわけではありません。ただ、良くてロシアのような恐怖国家になるでしょう。国民の暮らしも酷くなります。今日300円だったコーヒーが明日、いや、その日のうちに3000円になるといったことが普通になるかもしれません。
そして、我々が国家に逆らうことは一切できなくなります。いかなる理不尽な命令にも従わねばなりません。
そして、それなら、一度国家を叩き潰し崩壊させるかもしれません。その時は陽気に破壊します。破滅させ、再生させる者はいつもそうでしたから。

・・・あ、私いま、何か言いましたか?(笑)

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2008.03.20

見えない友

「意味のある偶然の一致」であるシンクロニシティや、「偶然に予定外の何かを発見する能力」であるセレンディピティは、私にとって子供の頃からのお友達である。
例えば、子供の頃、電器店で始めてMDコンポを見たら、子供だから好奇心が湧く。そんな時、近所のきれいなお姉さんが、「遊びにいらっしゃい」と私を誘う(私は可愛い子供だった(笑))。で、行ってみると、彼女の部屋にMDコンポがあり、じっくり説明を聞くことができるというわけだ。
学校の授業で地震波について聞き(私が授業を聞くことはほぼ無かったが)、もっと詳しく聞きたいと思ったら、何かのニュース番組で地震の話題があり、どっかの大学の地震の専門家という教授が、まさに知りたいことを説明してくれることもよくある。
まさに世界は私を中心に回っている(笑)。
専門教育を受けたわけでもなく、営業職をやっていた私がなぜ一級のシステム開発者になったかというと、これも幸運な偶然の連続である。一応仕事でやるようになると、なぜかいつもその時点で自分にできることより、ほんの少し高度な仕事が来る。それを繰り返せば、自然に苦労なく実力も高度になる。丁度、最高のコーチに指導されたようなものである。私のコーチは神であった。

少し前、「I AM THAT」という人類史上最重要な書の中で、「あなたが確信できるただ1つのことは、あなたが存在するということだけだ」と書かれているのに強い関心を持った。
その後、ネットサーフィンしてたら、衝撃的な言葉を見た。
坂井悠二・・・存在なき者
坂井悠二は、 高橋弥七郎氏の小説「灼眼のシャナ」の主人公の一人である。
我々にとって、唯一の真理である「存在」を持たないとはいかなることか。早速、小説を読むと、「存在の力」「存在のエネルギー」という新鮮な言葉を見た。この作品は、私に存在に関する思索を自然に行わせた。早い話が、「灼眼のシャナ」は、 高橋弥七郎氏が私のために書いたようなものである(笑)。
「I AM THAT」には、「あなたは世界という夢を見ているだけだ」と書いてある。
「灼眼のシャナ」とは、小説のイラスト画家がいとうのいぢさんというつながりの「涼宮ハルヒの憂鬱」という、谷川流さんの小説がある。谷川さんが、たまたま私の友人の大学の先輩であるという理由で読み始めた。世界はハルヒが見ている夢かもしれないというものである。その他にも、多くの示唆を得る。まあ、娯楽小説ではあるのであるが、この作品も、作品中に登場する、銀河を統括する情報統合思念体が、谷川流氏を通して、私のために書かせたものであろう。

私のあらゆることは、神と言っても良いが、霊妙な存在が面倒を見てくれているのであろう。ラマナ・マハルシが言った。「電車に乗ってまで、自分の小さな荷物を頭に乗せて苦労する必要はない。荷物を降ろして安心しなさい」と。

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2008.03.19

マスロー博士実証済の精神爆発誘発法

毎日が面白くないのは、予想できることばかりしか起こらないからだ。つまり、意外性のある出来事に逢わないということである。
そりゃ、何事もない平穏な日々を送ることに慣れ、そうでないことを恐れている者が多いのであるから、当然と言えば当然だ。
しかし、それではイライラは積もり、鬱に近いというか、本当に鬱になりかねない。
ここで1つ、神秘体験でも味わうのが良いはずである(笑)。
神秘体験と言えるかどうかは分からないが、ロマン・ロランの言った大洋感情と呼ばれるものや、おそらくはそれと同じか、極めて近いものである至高体験なら、実は誰でも起せるのだ。それにより、純粋な精神に目覚め、超能力を開発し(笑)、この世の出来事を自由にコントロールできるように・・・なるかどうかは保証はせぬが、人間としての力を高め、人生が楽しくなることは間違いない。
別に難しいことではない。至高体験の発見者である、偉大なる心理学者アブラハム・マスローが、大学の自分の教室の学生達で実験済みである。それは、みんなで集まり、自分が幸運だと感じた出来事を話すだけであった。それだけで、皆が至高体験に導かれたのだ。
私も当然やってみたさ。成果は・・・全然だった(笑)。だって、殺されかけて命拾いしたとか、強烈な話ばかり出てくるのだ。私の知り合いって一体・・・^^;
別に集まる必要はない。自分が幸運だと感じた出来事を思い出せば良い。意識的にね。
私には幸運なことなんて何も無かったと思っていても、実は結構あるものだ。
「サウンド・オブ・ミュージック」という有名なミュージカル映画に「Something good」という歌がある。惨めな過去、辛い青春時代の中にだって、良いことが何かあったに違いないという歌だ。あの映画はひどいものだったが、歌は素晴らしいミュージカルであったと思う。
やってみると良い。5日後にはあなたも超能力者である(マジか?)。

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2008.03.18

本当にサンタクロースなんて信じていたか?

みなさんは、サンタクロースの存在をいつまで信じていただろうか?
谷川流さんの人気小説「涼宮ハルヒの憂鬱」では、この物語の語り手である、キョンというあだ名の高校1年生の男子は、「確信を持って言えるが、最初から信じてなどいなかった」とあり、幼稚園の時にだって全く信じていなかったらしい。
しかし、主流かどうかは分らないが、小学2年生くらいまでなら信じている子も結構いるように思う。

私の場合は、幼稚園の年長組のある時までは信じていたと思う。
ところが、幼稚園のスクールバスを待っている時、一緒にいた男児が「サンタクロースは本当はいないんだよ。プレゼントをくれるのはパパなのさ」と、「この世の真実」を語ってくれたが、その時の感動は今でも忘れない。
とにかく、私は、サンタは本当はいないという、その男の子の言葉を信じたのであり、決して、「そんなはずはない。君は大嘘付きだ」という反応はしなかったのだ。

上の「涼宮ハルヒの憂鬱」の、キョンがサンタを信じなかった理由は詳しく書かれていなかったが、幼稚園のクリスマスイベントで、サントのコスプレをした園長さんを、他の子供も本物とは思っていなかったようだったとの記述がある。つまり、キョンだけが特別ではないのだ。そして、おそらく、著者も同じだったのではないかと思う。

ところで、私は、あの男の子から聞くまで、サンタを信じていたようではあったが、やはり、元々が疑っていたはずである。だからこそ、「本当はそんなのいない」という男の子の言葉にそれほど感動したのだ。
なぜ私が、サンタの存在を信じているようで実は疑っていたのかは見当がつく。つまり、「信じさせられていたサンタの幻想があまりにうそ臭かった」のだと思う。
あのわざとらしい柔和な笑顔はどうだ?張り付いたような笑顔は違和感を禁じえない。まるで、ディズニーのミッキーマウスの笑顔のような下手な作り物である(私は、ミッキーには元々、恐怖感を感じていた)。
そしてサンタクロースは、あらゆる子供に差別無く愛情を持つらしいのである。全ての子供というからには私も入っているのだろう。だからこそ、毎年プレゼントをくれるのであろう。しかし、それは不自然である。縁もゆかり(「ゆかり」も漢字で縁と書く)もないジイさんに愛情を持たれるとは、何か気色悪い感じすらする。愛情というものには、何らかの繋がり、絆が必要なもののはずだというのは、幼児の頃の私にだって分っていたのだと思う。そうは意っても、私は別に「博愛」というものを否定するわけではない。ただ、博愛といった至高の愛は、プレゼントを渡したり、笑顔を振りまいたり、マスコミを通して発表するものではないはずだ。
イエスは、病気を治したり、パンを出したりはしたらしいが(ワイルドやイェイツに言わせると、これらの奇跡もも余計なことだったらしいが)、子供に最新流行のおもちゃや、量産を誇るメーカーのお菓子を与えたりはしなかった。それは必要なことではないからだ。そんな余裕があれば、別のところで使えよと言いたい。そして、貧しい家の子供のところにはサンタは来ないか、来ても、そのプレゼントは、お金持ちの家の子供のプレゼントに比べ、随分質素であるらしい。貧乏な家の子供に、20万円のロボットのおもちゃを奮発するサンタはいないのである。
なら、サンタのあの笑顔が薄気味悪い営業スマイルに見えるのは仕方のないことと思う。
最近、217万ドル(当時約2億4千万円)で落札されたという、ノーマン・ロックウェルのサンタクロースの絵がある。サンタのおじいさんが、アメリカ合衆国の地図を見ながら、おそらくは子供の名簿を見ている絵だ。地図に巡回ルートを記入していっているようにも見える。しかし、それは、浜辺の砂を目で見て数えるようなもので全く不合理だ。子供にだって、なんとなくおかしいことは分る。

やはり、キョン君の感覚は正しいようだ。子供は案外鋭いものである。その純粋な鋭さを大切にしたいものであるが、学校ですっかりその刃を潰されてしまうのである。そうでない子供が、ハルヒのような神様になるのである。

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2008.03.17

宇宙人新考察

私は、少し前は、宇宙のどこかに宇宙人がいると思っていたし、そう考えるのが科学的と思っていた(ただし、宇宙人が地球に来ている可能性は自信を持ってゼロと断言できた)。
全宇宙の広さと、それに内包される銀河の数などから推測される恒星の数と、それを回る惑星の数や、さらには惑星を回る衛星の数。それはそれは膨大であり、それらの惑星や衛星の中に、生命が発生する条件を満たす星が1つも無いと考えることは、むしろ非科学的であるという誰かの言葉を信じたに違いなかった。子供の頃の話である。
だが、最近では、やはり、宇宙広しと言えども、生命の発生した星は極めて少なく、更に、地球人類に匹敵するほどの知性を持ちえた生命体となると、必ずしも有るとは言えないかもしれないと思うようになった。
宇宙の広さが、我々の感覚を著しく超えた常識外れなものであることは、以前、私自身が書いたことがある。全宇宙からすれば、ほんの僅かな距離でしかない、隣の太陽系との航行すらほぼ不可能であることを数値で示してみた。
しかし、それでも、高度知性体が発生する可能性もまた、とんでもなく小さなものと考えた方が良いかもしれない。
こんなことを考えてみよう。サルに数千枚の紙とインクを渡し、デタラメにそのインクを紙に擦り付けさせることができるとしよう。その結果、その紙に付いたインクの配置が、エンサイクロペディア(大百科事典)に偶然になってしまうという可能性はゼロではないかもしれない。この話を聞いて、気が遠くなりかけた方は、なかなかオツムがよろしいし、想像力がある。これは、私がIQ300以上の美少女を気絶させる手である(笑)。
あり得ない確率とはこのようなもので、知的生命体が発生する可能性もそのようなものではないかと思うわけである。
もっとも、昨日書いた、有機生命体とはいえない、知的な情報生命体なら確実に存在するのではないかと思う。なぜなら、それが私であるからだ(笑)。

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2008.03.16

芸術は、このような意図で誕生した

ITといえば、いまでは誰もが知っている言葉だが、これを皆さんが知ったのは21世紀になってからではないかと思う。しかし、私はそれより10年前、ある国際コンサルタントから教わっていた。彼の名は、超有名というわけではないが、Googleで検索するとすぐに出てくる。
ITとは、Information Technology(情報技術)である。
情報の技術・・・実はぞわっとするほど恐ろしい言葉だ。
情報とは、生命そのものなのだ。
コンピュータがその処理を2進法で行っていることはご存知かもしれない。2進法とは、0か1だけであらゆる処理を行う手法だ。実際は、2通りを表せれば、0か1でも、オンかオフでも、明と暗でも何でも良い。これを、電気、電子、音、光でも、なんらかの取り決めで、2通りの状態を規定しておけば情報処理を行える。実は、人間の脳だって、2進法で情報を処理しているのである。
我々が感覚で感じ取れる世界よりはるかに小さなミクロの世界でも、2進法は扱える。例えば、エネルギーのあるレベルを境界に0か1かを決めるとか、素粒子の性質や位置をそれに指定するとか、あるいは、もっと別の方法でやるとかである。そして、それは実際に行われている。人間が関与しないところでね。
我々のコンピュータでは、0か1かの区分は明解だが、ミクロの世界ではそうではない。曖昧な0とか曖昧な1とか、可能性としての0とか、可能性としての1とかを扱う。人類も、量子コンピュータとして、そのような試みを行ってはいるが、まだ完成していない。量子コンピュータの性能は従来のコンピュータの比ではない。
その、我々の想像を絶した処理能力の情報処理は、はるかな昔から存在していた。それは生命と呼んで良い。ただ、我々のような肉体を持ってはいない。いや、我々の実体もまた、そのような情報生命体なのだ。情報生命体である我々の本体は、肉体レベルの情報処理の制約を受け、その本来の能力の極めて僅かしか発揮していない。だが、身体を超え、我々本来の情報生命体に目覚めるなら、もはや我々に知りえないことはないし、宇宙の秘密を掴んだ我々に不可能はない。
ただ、無限の情報生命体が身体を持ったことにも正当な理由がある。その理由に関しては、我々の脳のレベルを超えるので説明しにくいが、遊びのためとか、楽しむためというのも、さほどひどい言い方ではない。
しかし、いずれにせよ、我々は自分の力で、身体や時間、あるいは、脳に制御された心を超える必要がある。そのためのKeyを、情報生命体の意図でいくつか地上に誕生させた。そのうちの1つが芸術である。これをいくらかでも理解した芸術家は、偉大な芸術家となるであろう。

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2008.03.15

世界は意のままだ

映画や小説やアニメというものは、いかに奇想天外なお話でも、ある程度の真実味が無いと人を惹きつけることはできない。
「ターミネーター」であれば、それが未来に起こるそのままのお話としての信憑性を感じさせることが重要であったし、「スターウォーズ」のフォースも、それが実際にあることのように思わせる何やかやがミソだった。
しかし、「この世の真実」というものに関しては、本来は日本人の誰かが一番上手く表現できそうなものなのだ(もちろん、大多数の人には無理だが)。
キリスト教圏では、そのキリスト教という、とんでもなく偏狭な偏見に染まっているし、ヴェーダーンタ哲学や老荘といった素晴らしい思想のあるインドや中国でも、庶民はあまりにも視野に欠けるのである。
で、その日本であるが、権威筋では全くダメだ。どうも、権威と知恵は相反するものであるようだ。
なら、さっぱり権威のない処を探せば良い。アニメ(というか、その原作)だ(笑)。
この世の真実がモロに描かれたものでは、「新世紀エヴァンゲリオン」の最終話あたりと、「涼宮ハルヒの憂鬱」の最初あたりだ。これらは、作者が、どっかからお話を探してきたのか、天啓でも得て閃いたかはともかく、真実と言って差し支えないことは断言する。もちろん、言葉で表現したものの解釈とは多様を極め、その意味では、真実と正反対の解釈は成り立つとも言える。エヴァの方で、監督さんが内容についてノーコメントを貫いたのはそのためだし、ハルヒの方はギャグで通る。
しかし、これらを、何と言っていいか、「腹に収める」といったことができれば世界は意のままである。ビートルズの「Nowhere man」の詩にあるように、the world is at your commandである。
宇宙はなぜか、かくも人間の生存に都合が良く出来ている。量子定数の1つでもわずかな違いがあれば、人間は存在できなかった・・・は「涼宮ハルヒの憂鬱」で古泉一樹という超能力少年が言ったことだが、私は昔、このような話をMRTクリニックの内海康満さんという一種の賢者の本で読んだことがある。宇宙はやはり人間のために存在しているというわけだ。まあ、これ自体は量子論で語れるかもしれないが、内海さんは天才なんだろう。で、彼の人間離れした知恵の秘密を知ろうとしたら、ある本の存在が分かったが、題名までは分からない。しかし、もし私のブログを読んでこられた方なら、私もまた超能力者だということをご存知かもしれない。数日後、たまたま逢った人に、その本のことを言うと、すぐに持ってきてくれた。なるほど、大変な本だった。内海さんは、おそらく十数年も事実上の医療行為をして問題を起したこともないのだから、確かに常人ではないようだ。
私のブログを読み続けると、あなたも超能力者に・・・なれるかもしれない(笑)。

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2008.03.14

ジョー・ジラード

ジョー・ジラードのサイトを見つけた。
懐かしい名だ。
向上心あるビジネスマンには馴染みの名であるかもしれないが、私も昔、彼の本を読んだことがある。
彼は、1928年に貧しいデトロイトの下町で、イタリア移民の家に生まれた。
肉体労働を転々としたが、年を取るたびに貧しくなり、妻子もある35歳の時、妻に「食べるものを買うお金を頂戴」と言われた。家にはお金が全くなかったのだ。
ジョーは、車のセールスマン募集に応募し、採用されたが、そこは完全コミッション制だった。つまり、売らないと1セントも貰えない。
店にやってきた客の相手を無理に換わってもらって売り込みにはいった。ジョーはその客を買わずに返すことはできなかった。この客に売って、妻や子供達の食べ物を買わないといけないのだ。そして、本人にも、どういう経過であったか記憶がないらしいが、この最初のセールスに成功する。
その約3年後から12年間連続、世界一のセールスマンとしてギネス認定される。
車のセールスマン時代、15年間で13,001台を売った。

本のタイトルは憶えていないのだが、1つ、印象に残った言葉があり、それは、あまり有名な言葉でないと思う。
それは、「誰でも優秀なセールスマンとしてスタートする」であった。
これは、言ってみれば「初心忘れるべからず」に近いものと思うが、とても切実な言葉だ。
もちろん、セールスであろうと、いかなる職業であろうと、実際は、経験を積み、実践の裏付けある知識を持ってこそ実力がつく。だが、何かを始めた時の、純粋で謙虚な気持ちに優る大事なものはない。それを持ち続けてこそ世界一にもなれようというものである。言うまでもないが、初心が大事といっても、いつまでも新米気分、若手気分というのとは全く違う。
そして、初心を保つには自制が必要である。また、慢心しないことだ。分ってはいるが難しいことかもしれない。
「パントマイムの神様」マルセル・マルソーも「初心者である部分を大事にしたい」と言っていたが、同じような想いではなかったかと思う。

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2008.03.13

芸術に賞など必要があるか?

毎年、小説の世界では、芥川賞や直木賞が発表されるが、ああいったものが、まさか本当に良いものだと思ってはいないだろうか?
最近は、若くてキュートな女性の受賞が目立つ(目立たせる)ようになったが、彼女達の作品が本当に優れていると信じさせられていないだろうか?
これに関しては、私でなくても、いろんな意見がある。最も妥当なのが文壇の話題作りというものである。著名な純文学系作家の絶賛の声も聞くが、言うまでもなく、彼らも文壇と運命を共にしているのであるから、絶賛でなければ黙るしかない。せめて、説得力ある「絶賛」であれば良いのだが、そんな絶賛を聞いたことはない。いずれも個人的主観の絶賛であり、著名作家の言うことだからといって、特に信じる必要はないはずである。
批評家、評論家となると正直に「面白いが、中味のない作品」とか言ったり、大人っぽく「まあ、芥川賞、直木賞と言っても、所詮新人賞みたいなものですから、彼女達の今後に期待したいですね」としたりする。

私は、別に、芥川賞、直木賞の、特に若い女性作家の作品が悪いと言うつもりはない。そもそも読んでいない。ただ、良いか悪いかは自分で決めろと言っているだけである。芥川賞や直木賞といったところで、1つの偏見というに過ぎないことだけは絶対に間違いがない。芸術作品に普遍的価値など無く、価値は鑑賞者との関係で決まるのである。これは重要なことである。
だから、芥川賞も直木賞も、ある1つの団体が、何らかの基準でチャンピオンに定めた作品とだけ考えれば良いはずだ。
二十歳前後の人間が、それほど深く人間や世界を洞察した作品を書く可能性は全くない。よって、現在の芥川賞や直木賞の基準には、深い洞察を含む作品である必要はないということである。
そういえば、ツァラトゥストラも、イエス・キリストについて「イエスは高貴な魂の持ち主であったが、せめて私の年(40歳)になれば、もっとモノが分かったろうに」と言ってたものである(笑)。イエスが処刑された年齢は諸説あるが、30歳から34歳の間と言われている。これでも、当時の平均寿命に近かったかもしれない。

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2008.03.12

玉ねぎの皮をむくと何が残るか?

最近気付いたのであるが、どうも人間というのは孤独が嫌いなものらしい(笑)。
ただ、その嫌い方には2通りあり、「孤独に不安を感じる」という場合と、「孤独に恐怖を感じる」というものがある。
現在は、孤独に恐怖を感じる人が非常に多い。それで、メールやネットに依存したり、他の人と同じ流行や遊びを追うことに必死になる。

ゲーテが「人々の中にいても孤独なことがある」と言っていたが、当然だ。単に同じ言語を話す人々と一緒にいれば孤独が無くなるわけではない。同じ幻想を持つ人々の中にいる時に孤独を感じずに済むのである。
つまり、孤独が嫌なら、他の人々と同じ幻想を持てば良い。
だが、その幻想が、欲望で作られている場合は、表面的には孤独でなくても、心に不安が広がり、放っておくと恐怖になる。今の我々がその状態なのだ。

イェイツは、真に心を鍛えるには孤独に耐えるしかないと言った。心を鍛えるとは、心を不動にするということである。惑わない心、移ろわない心を持つことである。
人々と同じ幻想に甘んじることなく、孤独に徹し、心を鍛えて欲しい。
そして、家族の中での幻想から、さらには、個人で持っている幻想も捨て去るのが良い。
そんなことをすれば、玉ねぎやラッキョウの皮をむくようなもので何も残らないと言った心理学者もいたが、なるほど、何も残らない。だがそれは、あなたが皮しか知らないからだ。丁度、美少女とは、彼女が着ている服だと思っている者が、せっかくそれを1枚1枚脱がせて、最後に輝かしい裸体が残ったというのに、それを認識せず何もないと言うようなものだ。嗚呼、勿体無い(笑)。

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2008.03.11

楽しい夢を

この世は夢のようなものである・・・らしい(笑)。
夢を夢とみなしたら、素晴らしいことが起こる。
しかし、夢を夢とみなすとはどういうことであろうか?どうも、みんなこういったことが分らないのだ。
夢だからって放埓(ほうらつ。自由気ままという意味)に振舞うと、かなり嫌な気分を味わうことになる。夢は自分の心が作っているのだから、放埓な心はそれに見合った夢を作る。
私は、夢をちゃんと夢としてみなしている時は、望むこともなく幸運に見舞われるし、好きな子には意図せず出会い、あんなことやあんなこと・・・は、あくまで意図せず起こる(笑)。
全ては、起こすのではなく、起こる。そんな自主性のないことではダメだと言われても困る(笑)。ただし、あくまで、あなたがいるからものごとが起こるということは憶えておいた方が良い。逆に言うと、あなたがいないと何も起こらないのだ。
何が起こるか分らないから、夢や世界は面白い。
さて、では、夢を夢として見なすとはどういうことだろうか?
夢の中の、ある部分が好きで、ある部分が嫌いということが問題なのである。全てを愛するか、全てを愛さずにいれば良い。そして、不平を言ってはならない。これが、夢を夢とみなすことである。
では、楽しい夢を。

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2008.03.10

Googleがない頃

今はGoogleやWikipediaで何でも便利に調べられるようになった。ツンデレでも電波系でもボーイズラブでも腐女子でも、何でも分かる(笑)。
だが、惜しくも、私が子供の頃は、そんなものがなかった。
しかし、どこかで何か興味深い言葉や概念を聞いた時は、家に帰ってテレビやラジオを付けると、すぐにその解説が始まることがよくあった。だから、世界なんて自分が作っていると気が付くのだが、今の子供はなかなか気の毒かもしれない。
好きなあの子に2人で会いたい時は、学校帰りに、いつもと違う道をふらふら歩くと、向こうからあの子がやってくる。
大人になってからも同じで、車を運転していて、ちょっと詰まった時、横から大胆に割り込んで来た車があった。もちろん、憧れのあの子だ。きっかけはこれでOKだ(笑)。
別に念じるとかそんなのではない。いや、念じたり、想像してはダメだ。欲望が起こると心が動き回り、絶対に何も起こらない。ただ、一瞬、本当に一瞬。1/100秒だけ思い浮かべる。それ以上はやってはいけない。その後は、その一瞬のイメージすら憶えていてはいけない。ずっと欲しいもののことを考えている人は、それが手に入らないか、ひどく苦労するはずだ。
時には予想を裏切られることもあるが、その方が面白いかもしれない。
実際、予期せぬことでさえあれば、何事も起こることが最善であるのだ。神は老獪であるのだから。

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2008.03.09

内なる芸術家

音楽を聴いている時、その音楽を自分で作曲したとみなして聴くと、それを創作した時のことを思い出す。絵画であれば、やはり、それを自分が描いたと理解すると、それを描いた時のことを思い出す。小説や詩も同様だ。
小説を読むということは、それをもう一度自分が書くことであるとサルトルが言ったらしいし、エマーソンはその原理を説明しさえしたらしいことは、私がそれに気付いてから後から知った。
本物の芸術であれば、それを創造した時、比喩的に言うと、自らの魂が神の魂と溶け合っていたはずであるので、芸術を通して神を知ることもできる。
芸術家が絵を描くとき、芸術家は何もしていない。ただ、絵が出来上がるのを見ているだけだ。絵は芸術家のマインドが描いている。マインドが磨かれていれば、それはこの世の実相をきれいに反映するので、その絵はこの世を描いたものではなくなる。
マインドが完全に静まっていなければ、作品にも人間的な個性が現れるが、それはそれで面白い場合もあるのだ。言ってみれば、それは見る人が経験できなかった人生である。岡本太郎は、これをもって芸術は呪術だと言ったのだ。人間のマインドとはいえ、貴重なメッセージもあるのである。そのメッセージを自分のメッセージとした時に、鑑賞者はその作品を好きになる。あるいは、表面的には嫌悪すらしても、心の深くで気に入るのである。岡本太郎の言う、「いやったらしさ」とはそれである。
鑑賞者のマインドが制作者のマインドと共鳴した時、鑑賞者のマインドに神の魂が入り込んでくる。それは、死の体験と感じることもあれば、宇宙に向かって生命が広がるように感じることもある。前者は、特にエロチシズムを描いた作品に多く、後者は、岡本太郎の言う爆発のことだ。
もっと端的にいれば、真の芸術家は我々の内にいる。日々、世界という作品を作り出している。ただ、マインドが曇っている限りは、それは魔術師とは呼べても芸術家とは呼べない。それでも、マインドが静まった一瞬、天国を作り出すことをご存知と思う。

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2008.03.08

世界を消し去る

映画やドラマで、役者が演技に感情移入するという話を聞いたことがあると思う。しかし、それは疑問だ。
実際の撮影現場は、多くのスタッフ、照明、機材が溢れ、さらに1コマ1コマに分断して撮影するのであり、とてもではないが、役者にとっての臨場感はないと思う。
また、バレエ、オペラといった、西洋の舞台芸能は、元々が王侯貴族のために作られ、それら高貴な見物人に最大の面白さを提供するための緻密な計算の上に立っている。とてもではないが、演じ手が感動している暇はないと思う。
だが、私は能を見に行った時、それらとは異なる感覚を持った。台詞を言う者が、本当に泣いていたのである。「いかにお家のためとはいえ・・・」と、声はしっかりしているものの、その声も身体も震え、迫真の演技というにはあまりにリアルであった。
日本の舞台芸能は、独特の動きやメロディーの中で、演じ手が最高に気持ちを乗せ、それが観客に伝わり、役者と観客が一体化して共鳴するようなところがあると思う。

さて、極めて日常的でありながら最高にリアルな舞台、それは何かご存知か?
それは現実そのものである。人生、あるいは世界はショーである、これは、直接的な意味であり、比喩でも何でもない。
現実世界は、マインドが作り出した幻影である。ほとんどの人間は、一生を自我による認識の中で過ごすので、それをはっきり認識することはないが、時に、直観や、世界という幻影の裂け目をたまたま発見して、それに気付く場合がある。お薦めはしないが、決死の瞬間によく悟るものだ。
まこと、人生は夢のようなものだと、最高の詩人達は語っているが、彼らの透徹した感受性はこの世が幻であることを見抜いている。
私は、小学3年生の時であるが、不意にそれに気付いたことがある。人生は、ひょっとしたら、単なる劇のようなもので、自分は役者であると。役に感情移入するあまり、そのことを忘れているが、劇が終われば、その劇が悲惨なものであっても、悪夢から覚めた時のように笑ってほっとするに違いないと。
何のことはない。世界が幻だという有名な詩すら、自分の作り出した幻なのだ。
夢が幻であることはご存知と思う。では、夢と現実の違いは何なのか?夢は短く、現実は長い。それ以外に何らの違いはないのである。
夢も現実も心が作り出すものである以上、心の奥深くに入り込めば世界は消えるし、世界を作り出す驚くべき心の力も理解できよう。そして、世界というショーを楽しむことになるのだ。
心の奥に入り込む道。それを見つけることである。それは、心を静かにさせ、あらゆる欲望を起させないものであり、望めば見つかるものである。世界を作っているのはあなたなのだから。

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2008.03.07

ビル・ゲイツ

13年連続世界一の富豪の座にあったマイクロソフト会長ビル・ゲイツ氏が3位に「転落」したという。もっとも、新1位のウォーレン・バフェット氏が総資産が6兆4000億円に対し、ゲイツ氏が6兆円ということで、この違いに何の意味があるのか庶民には全く不明である(笑)。
ゲイツ氏も、この1年で資産を2000億円以上増やしている。ただ、最近話題のマイクロソフトが米国ヤフーを買収しようとしていることで、多額の費用がかかることと、その買収も膠着状態にあることもあってマイクロソフトの株価がやや下がっており、資産の多くがマイクロソフトの株式であるゲイツ氏の資産もやや目減りしていることも原因と思われる。

ゲイツ氏は高校1年生の時、「25歳までにミリオネア(100万ドル長者)になる」と宣言したらしい。実際には、25歳よりずっと早くに、それよりはるかに大きな資産を手にした。
ただ、ゲイツ氏は決して物欲が大きい方ではない。むしろ、全くないのではと思うくらいだ。100万ドルは、単に成功の象徴として上げたのだと思う。
ゲイツ氏は、大富豪になってからも、それまでと変わらず8時半から12時まで働き、食事は大衆食堂かマックのハンバーガー、あるいは持ち帰りピザで済ませることが多かった。
36歳で全米一の金持ちになった時も、車は日本のレクサスを自分で運転していた。もっと若い時はポルシェであったが、それは単に、仕事のために空港に早く到着したいといった理由からであり、スピード違反で散々交通違反切符を切られてポルシェはやめている。
世界一の富豪になったばかりの頃、来日し、ニュース・ステーションに時間限定で出演したが、当時の司会者であった久米宏氏が、ゲイツ氏の靴に注目し、「ちょっと見せてもらっていいですか?」と尋ねると、ゲイツ氏は笑って承諾したが、久米氏は「これ、高い靴じゃないですよ」と驚いていた。実際、ゲイツ氏は高い服や靴に全く興味はない。
では、女好きかというと、若い頃は(今でも?)ハンサムで大富豪なのだから、当然、彼に興味を持つ女性は多かったが、浮いた話1つなかった。そもそも、年中フルタイムで働いてばかりで、デートしている暇などない。ハイスクール時代、ゲイツ氏と話したことのある女子学生は、「彼は女の子の扱いに慣れてないみたい」と言っていたらしい。いつまでも独身のゲイツ氏に周りがいろいろ言った時は、「35歳には年貢を納めるよ」と言ったらしいが、実際には彼は38歳で、自分の会社の有能な女性社員と結婚した。実は交際自体は長かったらしい。
こんな話もある。マイクロソフト社がまだ小さかった頃、事務社員を募集した。45歳の女性が応募し、面接に行ったのだが、退職予定の女性が若いブロンド美女だったので、彼女は来る場所を間違えたと思った。しかし、面談するなりゲイツ氏は「いつから来れますか?」とだけ聞いた。彼女は実はコンピュータは全く無知であったが、ゲイツ氏はいかなる質問にも丁寧に根気強く答えた。初出勤の日、床で寝ていたゲイツを見て、彼女は殺されたと勘違いしてパニックになった。しかし、それはゲイツ氏にとってごく普通のことだった。

20代の頃は、ゲイツ氏は激情家として有名だった。
日本のコンピュータメーカーの部長が米国マイクロソフトを訪問した際、部長は客の立場であったが、「マイクロソフトではゲイツ氏に怒鳴られてばかりだった」と言っていた。
1980年代まではゲイツの電話、それ以降は電子メールに、社員はいつもビクビクしていたという。ただ、ゲイツ氏は「私はただ、Let's think harder(もっとよく考えよう)と言ってるだけだ」と言っていた。
ゲイツ氏の目的は一貫して、「僕のおばあさんでも使えるコンピュータを作りたいんだ」であった。もっとも、マイクロソフトのOSが企業で使われ、さらにインターネットに対応しなければならなくなってからは、それだけではなくなったが、それでも、コンピュータを手軽で万能な道具としたいということは変わっていないと思う。

ゲイツ氏は個性的な人間であるが、成功者に見られる性質を典型的に備えているように思えてならない。
不要なものを求めず、自分に出来ることをただやっただけであるように思う。
金持ちになっても、名誉欲もないので幸福なままであるようだ。後世に名を残したいなら、スタンフォード氏のように大学を作り「ゲイツ大学」と名付ければ良い。しかし、彼にその気はないはずだ。
尚、彼の愛読書は「ライ麦畑でつかまえて」であった(今は知らない)。

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2008.03.06

トキメキの席替え

席替えと聞くと、いまだトキメくものがある方が多いかもしれない。
言うまでもなく、意中のあの子の隣の席をゲットして、愛を育むきっかけを作るか、もしくは、授業中もじっくり眺めることのできる後ろの席も悪くない・・・とかである。
そこで、かなりの高確率で良い席(クラスのマドンナの隣等)になる者がいたりするのに反し、何度席替えをやってもがっかりする者もいたりする中で、幸運の概念を理解したりするのである。
私の場合は面白い経験がある。席替えをする度に、意中の子が、それまでの私の席になるのである。ある時期から、その学年の最後までずっとそうで、最後の席替えの際には、「あの子は今度もここだろう」と思ったら、まさにその通りになった。何かディスティニー(運命)を感じたりもした(笑)。
偶然のはずの出来事の中で、このような不思議なことを感じたことのある方は案外に多いと思う。
とはいえ、単なる偶然という見方もあろう(笑)。
しかし、私にはそのようなことは実に多い。
私の通った小学校には割に広い図書館があり、沢山の本があるので、目的の本を見つけるにはそれなりの方法が必要なはずであった。しかし、私は何も考えずにフラフラするだけで、いつも目的の本に行き着いた。おかげで、本がジャンルごとに区画分けされて置かれていることにずっと気付かずにいたくらいだ。当然、係りのお姉さんの世話になったこともない。例えば、テレビで見たアメリカのTVドラマ「大草原の小さな家」の本があったらいいなと思って図書館に行き、ただ周りの人をすり抜けるように歩いていたら、行き止まりの書棚に突き当たり、目の前を見たらあったとかである(その時見つけた本は「大草原の小さな家」ではなく「大草原の小さな街」であり、同著者のもので、実はあのTVドラマの原作本は、題名の違う何冊かの本から成り立っていることを知ることができた)。
これもまた偶然かも知れんなあ(笑)。
では極めつけであるが、小学4年生で本格的な天体望遠鏡を手に入れた(従兄に譲ってもらった)私は、土星を見たいと思った。土星がどの方角にあるかなど、さっぱり知らない。しかし、適当に狙いを定めて望遠鏡で捉えると、ちゃんと環っかが付いていた。これは失敗した記憶が無いし、小学校の夏休みの自由研究でも、毎日土星の観測記録を書いていた(「本日は衛星4個発見」とかである)。
実を言うと、こんなの序の口で、不思議体験には事欠かない。最後に1つだけ珍しい例を書くと、中学生の時、あるTVドラマの1つのシーンを思い出し、そのシーンをビデオに収めたいと思った。きっとエッチなシーンなのであろう(笑)。で、そのドラマが何というドラマなのかすら知らないのに、闇雲に、「そろそろ出るんじゃないかな」と思ってビデオ装置のリモコンを握るのである。はっきり言ってアホである(笑)。ところが、これも当然のごとく、そのシーンが始まり、私は録画に成功する。同じことが、憶えているだけで2回ある。

この前の土日に、Yahoo!動画で「涼宮ハルヒの憂鬱」というアニメ全14話を見たのであるが(暇・・・^^;)、ヒロインのハルヒがまさに私と同じことをやっていた。半分の7話くらいは無料で見れるはずである。主人公のキョンというあだ名の男子は、高校入学時、ハルヒの前の席になる。ハルヒが美少女なので、ちょっと声をかけてみたりもしたが、全く相手にされず、印象も悪かったので、席替えとなった時、彼女の側から離れられることをむしろ喜んだ。しかし、新しい席はまたも彼女の前の席だった。この作品のファンなら、それがハルヒの望んだことであることは分ると思う。ハルヒが強引に決めた野球大会への出場で、キョンがアミダくじで偶然4番になったことは、超能力者の古泉一樹が、「それがハルヒが望んだことだから」と明かした。
ハルヒには自覚はないが、彼女は世界を創造する神のような存在である。
それなら私もまた・・・(笑)。
いや、実は誰しも世界を創造しているのである。これについて、大事な例を話そう。
あるところに、万能の力を持つ聖者がいた。しかし、彼はボロをまとい、髪も身体も汚れていて、道に座っていた。これを見た者が聖者に言った。
「あなたは偉大な聖者です。人々に現状を変えよと教えています。ではなぜ、あなたは現状を変えないのですか?」
聖者は答えた。
「どの現状かね?」

衝撃を感じましたか?(笑)
このお話を憶えていることで、いつか世界を作り変える日もくるかもしれない。
ハルヒにも教えたいものである(笑)。

サービスで、もう少し貴重なことを教えよう(笑)。
どうやれば好きな人の近くの席になれるかである。
ハルヒが席替えで再びキョンの後ろの席になったのは、本当はハルヒの選択ではない。やはり偶然なのだ。ただ、ハルヒは偶然を生じさせたのだ。この違いは実は大きい。
あなたも、好きな人の隣の席に意図的になることはできない。だが、その偶然を引き寄せることならできるかもしれない。
私も小学4年生の時、席替えで好きな子の隣の席を見事ゲットしたことがある。この時は最初からそうなる確信があった。席替えの際、私は窓の外をぼうっと見ていた。その時、太陽に雲がかかって少し暗くなったが、雲は通過してまた明るくなった。私は、その出来事が私の意志であることを確信した。そして、私はその子の隣の席を引き当てた。私の意志として。これは、私が選択したことではない。私はチャンスを崇拝しただけなのだ。もし私が、その子の遠くの席を引き当てたとしても、それが私の意志なのだ。

分りましたか?
ん?分らない?(笑)
言葉による表現は難しい。
人間は、偶然というか、奇跡を起すことはできないのだが、奇跡を起す状況なら作れるのだ。そして、それは容易い。それは、例えて言えば、神の意思と一致しさえすれば良い。欲望が一番神の意思と遠い。だから、それを捨てれば神と一致する。
政木和三さんは、欲望を捨てれば、この世に不可能はないと言った。当然なのだ。
イェイツは、人を恨むことをやめた時に不思議なことが起こると言った。その通りだ。神は恨まない。
では、神は楽しむかというと、神自体に楽しみはない。もともと万能なのであるから楽しみようがない。だが、人を通して楽しむことはできる。だが、その楽しみは純粋なものである。純粋な楽しみとは、創造し、限界を超えることだ。ハルヒを見ていればよく分ると思う(笑)。

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2008.03.05

偉大さの種

偉大な仕事をした人物は、子供の頃やかなり若い時に、芸術的な大洋感情とか至高体験と共にインスピレーションを持つことが多いのではないかと思う。

「密林の聖者」アルベルト・シュヴァイツァーは、20歳の時には前途洋々な未来が約束されていたが、あまりの才知のため、将来の選択に悩んでいた。だが、それは、自分のことばかり考えているからであることに気付き、彼はこう決心する。それは30歳までは自分のために好きなことをするが、30歳になったら、世界のための奉仕の道に入ろうというものであった。そして、シュヴァイツァーは、学者、音楽家として成功し名声を得たが、若き日の誓いを忘れてはいなかった。しかし、だからといって、何をすれば良いのかは分からないまま30歳になろうとしていた。しかし、ある日、アフリカで医療サービスを受けることなく難病で死んでいく人々に関する記事を読んだ時、自分の進むべき道を知る。自分が医者になってアフリカの人々の治療にあたるという苦難を引き受けることにしたのだ。
シュヴァイツァーは30歳にして医大に入学し、38歳で医学博士となると、大量の治療機器と薬品と共にアフリカに赴き活動を開始する。第一次世界大戦時には、彼がいたガボンがフランス領であるため、ドイツ国籍であった彼は捕虜になり、ヨーロッパに帰還させられるが、自由になると、資金を集め、再びアフリカに戻り、90歳で亡くなるまで治療に励んだ。
シュヴァイツァーは、いかなる生命にも畏敬の念を持ち、医療実験のため、蚊一匹殺す時にも悲痛な表情を見せ、部屋の中にハエが飛んでいても決して殺さず、無傷で捕えて部屋の外に出すための工夫をしていた。

アーマンド・ハマーは、「セブン・シスターズ」と呼ばれる7大石油会社に次ぐ、8番目のメジャーと言われたオクシデンタル石油のCEOであり、その他、数々の世界的ビジネスを手がけた伝説的ビジネスマンである。彼は、オクシデンタル石油の経営にあたり、セブン・シスターズのスカートをまくるチャンスを狙い続け、それを実現した(本人の言葉)。
ハマーの父親は、炭鉱労働者であった23歳の時に医学校に入って医者になり、決して裕福ではなかったが、献身的で人々に慕われる医者として一生を送った。
ハマーもまた、コロンビア大学の医学部に入り、医者の道を目指したが、凄いことに医学生をやりながらビジネスにも励み、卒業の時には既に富を得ていた。そして、経済破綻をきたしたソ連の国民の惨状を知り、医療機器と薬品を満載した船でソ連に入り、医療活動を行おうとした。23歳のハマーは「青春は終わった」と宣言する。しかし、ソ連に入ったハマーは、当時のソ連最高権力者レーニンに会う。レーニンは若いハマーに助けを求める。「医者ならソビエトにもいるのだ。経済を立て直して欲しい」
社会主義国家の経済は悲惨だった。その原因は国民の活気の無さである。鉛筆を作る工場では、労働者は品質の悪い鉛筆をノロノロと作っていた。これが競争を排除した計画社会の姿であり、それで経済が成り立つはずがなかった。ハマーは貿易ビジネスに邁進し、自らも巨大な利益を得ると共に、ソ連経済の活性化に尽くした。
ハマーは、金儲けそのものにはあまり興味がないと言ったことがある。むしろ、儲け口があると他人に譲る場合が多かったとも言う。彼が語るビジネスの真髄とは、1つのビジネスを必ず次のチャンスに結びつけることであった。
彼はレーニン以降もソ連の最高権力者と交流すると共に、米国においてもニクソンからレーガンまでの大統領と親交を結び、冷戦時の東西の交流に尽くした。ただ、あくまでビジネスマンであり、ケネディ大統領から電話を受けながら、彼に伝えるべきメッセージのメモが見つからずに待たせてしまった時はかなり動揺したと言う。(結局、メモは見つからず、ハマーは記憶に頼ってメッセージを伝えた)
ハマーは人生の指針を7歳で立てたという。それは、「自分より優れた人々のために少しでも役に立つ」ことであったらしい。この「自分より優れた人」とは、自分以外の全ての人という意味と思う。

ところで、芸術家というのは、才能が宿命になっている場合が多くないだろうか?
音楽家であれば、幼い時にピアノを始めれば、何年も先にレッスンを始めている兄や姉をたちまち追い抜いたり、家の壁にいっぱいのラクガキをしたら、怒られずに、その見事な出来栄えを褒められたりとかである。
絵のレッスンを受けたこともない7歳の子供が、ダ・ヴィンチもかくやというほどの馬の絵を描いたりとか、どうも芸術には才能が必要なものであるらしい。
ところで、不意に芸術の神様が降りてきて、一瞬の天才になった人も確かにいる。
フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の作曲者など、誰も知らないと思う。この世界的名曲は、平凡な日曜音楽家が一晩の天啓を受けて作曲したものであるらしい。
最も有名なクリスマスキャロルと思われる「清しこの夜(Silent Night)」も、平凡な音楽教師が即興で作り上げた曲だ。
だが、このような天啓・・・神の魂に触れたような一瞬は、芸術家の間では広く知られていると思う。およそ世界的文豪で、このことに気付かなかった者はないくらいだし、彼らの多くは、作品の中でもこのことを書いている。夏目漱石は天賓と呼んだし、ロマン・ロランは大洋感情と名付けた。まあ、フロイトはリビドーの幼児的退行とか言っているが、彼の芸術観の歪みは有名なので気にする必要はないし、彼の後に研究を進めたマスローは、おそらくは大洋感情と同じと思われる至高体験に最大の価値を認めている。至高体験の起し方はマスローと親交の深かったコリン・ウィルソンの著作に多く書かれている。世界的芸術家を目指す方は参考になるに違いない。

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2008.03.04

神は老獪である

我々は、国家の支援を受けた大企業に、「欲しがれ、もっと欲しがれ」とそそのかされ、すっかり欲ボケになってしまった。これには、学校教育も全面的に活用されているのである(学校教育は、大企業の利益のために米国国家が考案したものの輸入である)。
また、女性には、よりセクシーでなければならない、セクシーでない女は価値がないと思い込ませることも十分に達成されてしまった。セクシーになれば、我がまま放題、我慢知らずで生きられ、男をランキング付けする権利ができる。ランキング上位の男にのみセックスを与えて大きな報酬を得、下位の男は自尊心と実益を得るための道具であるというわけだ。

欲しがる心を捨てれば強くなり、不安はなくなる。男なら、男をランキング付けするような女にさっぱり興味がなくなる。さらにおかしなことに、モテモテになるが、本当に好かれてしまうから大変だとも言える。
落ち着きを取り戻し、望まなくても幸運に恵まれるようになる。
逆に、国家や大企業に洗脳されたままでは、常に不安で落ち着かず、退屈で欲しがり続けるだけである。

アインシュタインは幸福な人だった。
いつも同じ服を着て、ある時からは靴下を履くこともやめてしまった。
式典用に燕尾服が必要と妻に言われた時は大反発したが、1着だけ買った時は大喜びした。
車を買うこともなかったばかりか、バスにも乗らず、長距離を歩いて職場である研究所に通った。車を持っている人が、自分の車への乗車を勧めてもいつも辞退した。
面識もない女子中学生がいきなり数学の宿題の手助けを頼むと大喜びで教えた(別に彼はロリコンではない)。彼女の母親は、彼があのアインシュタインと知り卒倒しかけたが、アインシュタイン自身は、なぜ母親が驚いたか不思議だった。
難しいことが一切苦手なアインシュタインは(笑)、エレベーターの操作も妻にやらせたが、別に恥とは思っていなかった。
お金にも関心がなかった。
アインシュタインのために年棒2万ドル(当時としては大変な額)を用意していたプリンストン高級研究所だが、念のため、アインシュタインに希望を聞くと、「千ドル」と言われ担当者は驚いたが、アインシュタインはもっと驚き、「いえ、5百でもいいんです」と言った。
高給を得ても、アインシュタインは誰とでもそれを分かち合った。妻に怒られると、「あいつは金が必要だったんだ。伊達や酔狂で物乞いなんてしないさ」と平気だった。
もともと、彼は自分のためにはほとんどお金が必要なかったのだ。
アインシュタインは離婚したが、ノーベル賞の賞金は全て離婚した前の妻に贈った。
若い時こそ、多少の苦労はあったが、アインシュタインは幸福な一生を送った。
だが、彼に問題が何も起こらなかったわけではない。ナチスが彼の首に高額の懸賞金をかけたという噂を聞いた時でも、彼は信じることを主張し、怯まなかった。
彼は「神は老獪(ろうかい)である。だが悪意はない」と言った。こう信じている者は、誰もが幸福に生きるはずである。

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2008.03.03

世界を変える力

H.G.ウェルズの小説「The History of Mr. Polly」で、ミスター・ポリーは「自分の人生が気に入らなかったら、それを変えてしまえばいい」と言った。
このMr.Pollyはウェルズ自身の分身である。
英国の著名な作家コリン・ウィルソンは、自伝などでよくこの言葉を引用している。かなり気に入っているようだ。
インドの聖者ニサルダガッタ・マハラジも、滅多には言わないが「好きなように世界を作れば良い」と言ったし、その力が人にあることは認めていた。

ただし、それができるのは、精神の深奥にアクセスし、その感覚を無意識的にでも憶えている者だけだ。
ウィルソンも、10代の頃、まさに青酸カリを飲もうとした時に、その言葉を実感したのだ。真似はお勧めしない。ウィルソンは、それまでに十分な準備ができていたのだ。

精神の深奥にアクセスするとは、自分について、深く深く考えることだ。10代くらいの若い頃か、あるいは、非常な真剣さを持って自分について考える経験をした者は世界を支配する力に触れている可能性がある。
最近、初めて見たのだが、人気アニメの「涼宮ハルヒの憂鬱」で、ハルヒという高校1年生の美少女は、小学6年生の時、自分について深刻に考えた経験があることを明かしていたが、そのために、彼女は世界を作り変える力を持つのである。
アーマンド・ハマーという歴史的な経営者がいた。旧ソ連の歴代の最高権力者および米国の歴代大統領と交流したこの石油会社のCEOは、7歳の時、自分がどうありたいのかを全身全霊で考えたのである。

まあ、それが良いことかどうかは知らない。だが、その機会に恵まれるためには、自由な想像力が必要だ。学校に馴染む限りは、その機会は逸するであろう。
それと、やはり、なんらかの偶然が必要なのかもしれない。死にかけるとか、何か悲惨な目に遭うとか、自分自身がそうでなくても、そんなものを見るとかである。

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2008.03.02

生命力と子供の頃の憧れ

Ue

これが何かご存知であろうか?
昨年、生誕40周年を迎えたウルトラセブンが変身する時に使う「ウルトラ・アイ」である。
これは、2007年作品「ULTRASEVEN X」で使われたものの、忠実なレプリカである。

ところで、2006年に、初代仮面ライダーの精巧な変身ベルトが3万円もの価格で発売されている。
今や仮面ライダーといえば、小さなお子様はもちろんだが、その母親もメインターゲットで、ライダー役は彼女達好みのイケメン若手俳優と決まっており、彼らの写真数は販売好調であるらしい。
だが、35年以上も昔の初期の仮面ライダーは、純粋に男の子向きのアクションもので、当時この番組に夢中になっていた、いまや中年のお父さん方には、いまだ熱い思いがあるらしく、3万円もする初代仮面ライダーの変身ベルトの発売は、これらお父さんのためであった。お父さん達は、妻や子に内緒でローンを組んでこれをゲットし、秘密の隠し場所にしまってあるのをこっそり取り出しては眺めてニンマリするものらしい。可愛いものである(笑)。

それでいえば、ウルトラセブン派のお父さん方は、上のウルトラ・アイは如何であろうと思い紹介した。
「ULTRASEVEN X」のDVD Vol.1の初回限定生産品の「プレミアムエディション」に付いている。
仮面ライダーの変身ベルトが税込み31,500円(Amazonで27,980円)に比較すれば実にお安い(?)8,190円(Amazonで6,368円)である。※価格は本日現在。
あくまで2007年版であるが、初代のものよりデザインが洗練されており、色も深みのあるワイン・レッドである。
また、このDVDは、CGを駆使したかなりの映像作品で、なかなか面白い。メインの登場人物達に知的さが無いのは残念であるが、イケメン美男美女が多く、お父さん・お母さん方も楽しめるかもしれない。

さて、実はここからが本題だ(笑)。
このように、子供の頃に夢中になった記憶に、何らかの手段を使って情動的にアクセスすることは、生命エネルギーを復活させ、精神を活性化することに有意であることは、ある程度賛成いただけると思う。
これは、生命の根源に触れ合う精神によって作られるべき芸術にとっても非常に重要であり、世界的美術家の横尾忠則さんは、著書の中で、10代の頃などに夢中になったことは非常に重要なものであることをよく書いておられるようだ。横尾さんの場合は、ターザンや、中学生の時に読んだ冒険小説であったらしい。
我が敬愛する最高の思想家である吉本隆明さんの娘である作家のよしもとばななさんは、横尾さんとの対談本の中で、自分にとってはそれは「河童の三平」という、子供の時に見た特撮ドラマであったと述べている。

また、アニメや小説のようなものでなくても、昔解散した人気ロックバンドが臨時再結成などしたら、すっかり中年になった昔のファンが終結して盛り上がるのも、やはり生命力の枯渇したこれら中年の方が、エネルギー復活の衝動に駆られるからであると予想される。

子供の頃、あるいは、若い頃に夢中になったものは大事にしたいものである。
プロレスの桜庭和志さんは「タイガーマスク」で、K-1の角田信朗さんは「空手バカ一代」と思う。両方の原作の梶原一騎さんが、かなり問題のある人とは知られていない時代であったと思うが、原作者がどうであれ問題ない。多くの格闘選手に素晴らしいモチベーションとエネルギーを与えた。
私は・・・多分「みつばちマーヤの冒険」と思う(笑)。今でも、ナイフを持つと喜びが爛々と湧き上がるのは(危ないヤツ)、マーヤが剣を持っていると描写されていたからだ。ナイフ1本でエネルギーを引き出せるのであるからお手軽なものである(笑)。

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2008.03.01

生ける死人

「生ける死人」といったら、あまり肯定的なイメージは持たないであろう。
普通は、例えば、悲劇的な体験のため、すっかり気力を失った状態といったところであろうか?
少し前に映画化された「どろろ」の原作漫画で、百鬼丸はどろろに、恋人が殺された時のことを話し、「その時、俺の心も死んだ」と言う。そして、私には漫画史の中でも最も印象的なシーンなのだが、百鬼丸はどろろに胸を触らせ、「どうだ?冷たいだろ?」と尋ね、どろろは「うん」と肯定する。描いたのが医者である手塚治虫だけに感慨深い。
歴史的な漫画・アニメである「8マン」の主人公8マンは、殺された私立探偵、東八郎の記憶を移植したスーパーロボットなのだが、その最終話で、8マンは自らを「所詮、生きる死人」と言った(「8マン」は1964年に連載終了したが、最終話「魔人コズマ」は、事情で1990年に描かれた)。
現在人気の、「ツンデレ」「萌え」アニメとして有名な「灼眼のシャナ」は、主人公の一人である坂井悠二が死んだところからストーリーが始まり、悠二はもう一人の主人公の美少女シャナに「お前は人じゃない。モノよ」と宣言される。確かに、最初はシャナにとって、その悠二は元の本人の残りカスに過ぎなかったが、やがて彼女にとって悠二は大きな存在になる。
つまり、面白いことに、「生ける死人」はヒーローでもある。
そして、彼らを凌ぐスーパースターであるイエス・キリストは、「神殿を壊せ。私は3日で建て直す」と言った。この「神殿」とは、イエスの身体である。イエスは磔にされて死んでから3日目に蘇ったのである。言ってみればゾンビなのだ。
死して半世紀が過ぎても、いまだ年間数十万人の巡礼者の絶えないインドの聖者であるラマナ・マハルシは、キリスト教の真義をこう言った。「十字架は肉体である。イエスは自我である。自我が肉体に磔にされて滅び、永遠なるキリストが復活した」
ニサルダガッタ・マハラジは、「死を恐れないのか?」と聞かれ、「私は既に死んでいる」と答えた。
我々も、真に生きる秘儀とは死ぬことだ。それは肉体を故意に滅ぼすことではなく、世間に対する死であり、イエスのように自我を滅ぼすことである。

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