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2008.02.27

シカトは殺人である

私は、いじめの中でも暴力や恐喝、窃盗といったものに関しては、速やかに警察への通報が必要と確信している。これらは、学校の管轄ではなく警察の管轄である。いつまでも警察が出てこないので、加害者も自分が行っていることが犯罪であるという自覚がなく、いじめがエスカレートし、最悪、被害者が死を選択するのは馬鹿げたことである。
特に、教師による女生徒へのセクハラは即座の警察の出動が必要である。これに関しては、学校は冷静な状況把握は必要ではあるが、決して加害教師に味方してはならない。これも絶対に学校の管轄でなく、警察の管轄である。

さて、いじめの中でも、最も陰険かつ効果的と思われる「シカト」、即ち、「無視」という行為はどうであろう?実は、これが殺人行為であるということはあまり知られていない。
「わたしの妹」という、作者自身、いじめの被害者の経験を持つ著者が書いた絵本がある。
著者に手紙で送られてきた実話であるらしい。ある女性の妹が、小学4年生で転校した先の小学校で徹底したシカトを受ける。妹は学校に行けなくなる。やがて彼女は命の炎が消えてしまう。
衣食住に不備があるわけではなかった妹がなぜ死んだのだろう。
これに関しては、17世紀にドイツで行われた、非人道的実験が参考になる。やはり、衣食住などに関しては十分に与えられた赤ん坊に、言葉をかけたり、抱くといった、コミュニケーション行為を一切禁じたところ、赤ん坊は育つことなく死んだ。
人間は他との関係性なく生きてはいけないものであるらしい。
シカトという行為は、「死ね」と言っているのに等しいのである。
ある特定の人間に対しては、呼ばれても返事をしない、一切の手助けをしないといった行為は、特にいじめと言われなくても、学校や会社などで、いわゆる「気に食わぬ」相手に対して行う者はよくいる。これもまた、相手の死を期待していることを表明しているに等しい。

このシカトに関しては、警察による犯罪立証が難しい場合が多い。よって、ここでこそ学校が活躍しなければならないはずであるが、実際には学校はシカト側に加勢しているのだ。
なぜなら、学校は実社会以上に他人に依存するシステムを採っているからである。学校は、全ての子供が同じように考えるロボットを生産する場所であり、その目的のためには、べっとりとした関係性を確立しないと、取り残され、孤立し、恥ずかしく、不安に怯えるようにさせるしくみになっているのである。これではシカトされる側に即座に死ねと言っているに等しい。上記の絵本でも、学校は妹に対して何の助けにもならなかったばかりか、むしろ積極的に彼女の生命力を奪ったのである。

さて、現状を嘆くばかりではどうにもならない。
人間は、精神力により、これらの状況に打ち勝つこともできる。それには想像力を使うのである。だが、ぐずぐずしていると、学校に手際よく想像力を破壊されてしまう。アインシュタインも、「想像力を窒息させられないよう」奮闘したのである。
想像力の使い方。これが人間に与えられた力の源であり、芸術が宗教から受け継いだ役割でもある。
今後は、これについてよく考えようと思う。いわゆる、「続く」である。

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