至高の美の在処
今後さらにコンピュータグラフィックが進歩していったら、これが究極の美を生み出すかというと、そうであるという理解と共に、それはあり得ないという妙な確信がある。
コンピュータグラフィックの背後には、美をも究明する数々の理論がある。人が心地よく感じる性質や、大自然が隠し持つ特性も、フラクタル理論や複雑系理論等により解明され、さらに再現することも可能になってきた。一頃流行った1/fの自然なリズムによる色感や音感、あるいは体感も自然を数理的に解明したものを表現したのである。また、ダ・ヴィンチは、デタラメに見える濁流の渦を見て、ここに何か法則があるのではないかと直感したが、実際そうであることは近年になって解明された。
これらの多くは、コンピュータの発達により解明されてきた。その解明のために、手動で実験すると何年も場合によっては何十年もかかるものであっても、コンピュータでなら、現実的な時間で驚くべきパターンを浮かび上がらせることができるのである。
だが、人間の感じる美とはもっと複雑で神秘的なものであると思われる。
人気アニメ「カードキャプターさくら」の主題歌の一つ「扉をあけて」にこんな詩がある。
「なんでもない小石でさえ、不思議だよね宝石に変わる。一緒にね、見てるだけで」
こんなものは、コンピュータで解析できない。心理学や精神分析学、あるいは哲学で(これらも、海外の先進的研究ではコンピュータが活躍する。計量心理学とか、数理哲学とかである)は、それなりの説明もするだろうが、心理学が美の感動を与えたりはしない。
また、ガイナックスのアニメ「まほろまてぃっく」では、作られて間もないアンドロイドのまほろは、夕陽を見てその美しさに大喜びをする。だが、まほろが所属する組織の総司令官である美里は「生まれてきて良かっただろう?だがな、まほろ。この世にはもっと美しいものがあるぞ」と言う。まほろには、その意味が分らなかったが、その後、それが何か理解する。それは、「好きな人と一緒に見る夕陽」だった。
美とは、精神の作り出すものである。それを認識する精神がなければ美もまた存在しない。
インドの詩聖タゴールは、アインシュタインの主張に反し、「人が月を月と認識しないなら、月は存在しない」と言った。存在全てに関して言うならかなり難しいのであるが、美という問題に関して言えば、確かにそうであると納得できると思う。
私は、ある夜、夢の中で夜空に浮かぶ輝くマントラ図を見たが、あれほど美しいものは見たことがなかったし、これからも見ることはないかもしれないと思う。これもまた、精神の中に至高の美が存在する証と思う。
では、私が認識する、この世での最高の美とは・・・それは、清純可憐な少女が、頬を真っ赤に染めて恥らう姿である・・・嗚呼!スケベ!!(をい)
折角の名文が、最後の2行でぶち壊しとなった感もある(笑)。
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Comments
まさにその通りです
最後の2行でダメになりました(笑い
でも切れのある分析力もある知識を感じる内容
お見事です^^
今夜のセミナーにWで・・・
Posted by: ヒデピョ~ン。。 | 2008.02.14 12:02 AM
そうですか?やっぱりダメになりましたか?(笑)
切れはなくてもコクはあります。梅酒にこってます(笑)
Posted by: Kay | 2008.02.14 09:53 PM