« January 2008 | Main | March 2008 »

2008.02.29

独房からの生還

一昨日の続きである。
学校でシカト(無視)のいじめに遭い、自殺ではないが、生命力が無くなって死んでしまった女の子の実話に基づいた話を取上げたが、これに医学的根拠があるらしいことも説明した。
人間とは、このように孤独に弱い。
軍隊で、独房というものがよく使われるのも、人間の弱さにつけ込んで支配するためである。現在、戦争捕虜であっても、人道的に扱わねば国際的な非難を受ける。よって、露骨な拷問などを控えることが多いが、独房監禁であれば拷問とは見なされない可能性があって都合が良いという事情もある。
しかし、状況によっては、独房行きは即ち死を意味するのである。

現在の我々でも孤独に陥る可能性はあるし、それこそいじめや悪意でシカトされる状況はよくあると言える。こんな時、気力が途切れてはまずい。そこで、軍隊での独房に耐えた例から、想像力により精神エネルギーを高めることについて考察する。

コリン・ウィルソンの「至高体験」という本がある。至高体験はアブラハム・マスローが提唱した心理学用語である。
ウィルソンが書いたある本に対して、マスローが感想の手紙を送ったのであるが、ウィルソンは手紙の内容がよく理解できなかったので放置していた。しかし、時間を置いて読み直すと、その重要性に気が付き、マスローに手紙を返した。ここから2人の交流が始まる。
マスローは世界一級の心理学者であったが、ウィルソンはそこそこ売れていたとはいえ、中卒の肉体労働者上がりの作家であった。しかし、やがてウィルソンは大学のマスローの教室で講義を行うようにもなった。

この「至高体験」の本の最初のあたりに、ロマン・ゲイリの「天国の根っこ」という小説の引用があるが、これが面白い。
戦争中、1つのフランス兵団が、ドイツ軍の捕虜になる。捕虜生活の中で、フランス兵達のモラルが低下していき、悲惨な状況となる。ここで、フランス兵の隊長は奇妙な命令を発する。
「ここに少女が1人いると想像せよ」である。
本には詳しくは書いていなかったが、この場合の少女とは、理想の女性像のようなもので、女神に匹敵するようなものであったと思う。
すると、フランス兵達の規律がみるみる回復し、ドイツ軍の者達を驚かせる。だが、ドイツ軍のある将校が、ひょんなことから、この「遊戯」の秘密を知る。そこで、試しに、もっと奇妙な命令をフランス兵達に出す。「少女を引き渡せ」である。少女はドイツ軍用の慰安施設に連行すると通達した。すると、なんとフランス兵はその命令を拒否する。想像上の少女を命を懸けて護ろうとしたのである。そして、フランス兵の隊長は独房行きとなる。彼が生きて戻ることはないはずであった。
しかし、彼は生還したのである。彼もまた、少女を作り出す遊戯を通じて、精神の力の秘密を知っていたからである。独房で彼は、平原を走る象の群を想像していたのだ。

根本的には、想像力が世界を作っているのである。人とは精神そのものであり、人間とは何かとは、究極的に言うなら、意識とその無限の内容物を照らす純粋な気付きであると、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジが言ったが、最新の脳機能科学においても、そのような考え方が多くなってきていると思う。
そのやり方を早計さと欲望から誤解してはならないが、好きなように世界を作れば良いのである。まあ、世間には意図的に間違った方法を教え込む困った教祖が多いのは困ったものであるが、人間は奇跡を起すことなど訳はない。

学校においては、想像力は速やかに破壊され、精神を満足に活用できなくなるので、意識的に学校を疑い、これが劣悪なものと理解したなら背を向ける覚悟も必要である。ただし、日本最高クラスの思想家の吉本隆明氏は、世間自体に不条理は溢れており、学校は世間を学ぶための反面教師として、適当にうまく付き合うことを薦めている。過度な被害を受けない限りはそれもありと私も思う。人間精神は偉大であるが、表出する自我は下らないものであるのだ。ただ、あくまで学校とは、せいぜいが適当に付き合うことだ。そして、ある程度賢くなれば、さっさと捨てれば良い。

小説や絵画といった芸術、あるいは、映画やアニメ、あるいは漫画であっても、想像力を磨くような鑑賞や楽しみ方をすべきであろう。
現在は、表面的な愉快さしかない、薄っぺらな作品も多いと同時に、優れた奥深い作品であっても、学校での教育の影響で、薄っぺらな理解しか出来ない者がひどく多くなってきているが、憂慮すべきことである。
だが、優れた作品に接しているうちに、心が磨かれて曇りを祓い、精神が復活するであろう。同時に、クリエイターの方々には、精神を覚醒させる素晴らしい作品をお願いしたいものである。単に上手い絵や面白いお話には、もう飽き飽きしなければならないのである。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.28

看板娘の考察

「看板娘」というのは、商品に自信がないか、もしくは、商品そのものにライバルとの際立った特徴が無い時に、若い女の子の性的魅力を利用して(当然男性の)客足を引き寄せ、さらに販売達成を狙うというものと思う。
看板娘に直接に販売させるという効率案もある。例えば、「花売り娘」がそうであろう。
さて、花売り娘と聞いて思い浮かぶ姿はどんなものであろう?
おそらく、軽やかな服装の西洋のお嬢さんではないかと思う。年齢は二十歳未満で、下は12歳くらいからといったところと思う。一番人目を引きやすい、つまり、女性が一生で一番美しい頃である。
ところで、あまり日本の着物を着た花売り娘は想像できないのではないだろうか?日本に花売り娘なんてものが現れたのは、せいぜいが明治時代でも西洋化されたような街だったのではないだろうか?
では、それ以前、日本では花は売れなかったのだろうか?
ところが逆で、庶民でも花をよく買い、花売り商売は結構盛んであったのだ。そして、可憐な花売り娘がいなくてもそうだったのである。
西洋では昔、花を買うのは富裕層であった。よって、定期購入を勝ち取るために、お金持ちのおじさんに、若くて可愛い花売り娘を向かわせるのが効率的だったのではないだろうか?
そういえば、昔のアニメの「ラ・セーヌの星」では、シモーヌという15歳の超美少女は花屋の看板娘で、配達も彼女が行っていたが、うなづける話である。それでこそ、注文が沢山来るというものである。
ある日、ド・フォルジュ公爵から、シモーヌの店に花の注文がある。注文は毎日出すという。公爵は初老の一見品の良い貴族であるが、さぞやスケベなおっさんではないかという懸念が湧く。
花を届けにいったシモーヌは、屋敷の中に招き入れられる(やはり!)。不審に思いながらも、やむなく応じるシモーヌ。そして、シモーヌの悲鳴と共に、シモーヌの下着姿が・・・。いえ、脱がせたのは侍女達で、フェンシングの練習着に着替えさせるためだったのであるが(笑)。彼女は、公爵に剣の手ほどきを受け、やがてラ・セーヌの星を名乗る女剣士にになるというものであった。

話が脱線したが(し過ぎだ)、日本人というのは、昔は、貧しくても花を買う習慣があり、それは西洋人を驚かせたようである。そして、花は花として愛でたのであり、別に髪に刺して男を誘惑しようなどという不純な目的でもなかった。
このように、特に生活に関係のないものでも、他には小鳥を育てるといったことも日本人は行っていた。
日本人は、貴族や金持ちでなくても、風流を愛する雅な性質があったのである。
伝統的に、日本の芸術は非常に微妙な味わいがあり、西洋の絢爛さや、中国の整然さとも全く違う。現在のアニメでも、いかにアメリカや韓国がアカデミックに対抗してきても、日本の作品の中にある、細部の微妙な味わいはやはり真似のできるものではないと思う。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.27

シカトは殺人である

私は、いじめの中でも暴力や恐喝、窃盗といったものに関しては、速やかに警察への通報が必要と確信している。これらは、学校の管轄ではなく警察の管轄である。いつまでも警察が出てこないので、加害者も自分が行っていることが犯罪であるという自覚がなく、いじめがエスカレートし、最悪、被害者が死を選択するのは馬鹿げたことである。
特に、教師による女生徒へのセクハラは即座の警察の出動が必要である。これに関しては、学校は冷静な状況把握は必要ではあるが、決して加害教師に味方してはならない。これも絶対に学校の管轄でなく、警察の管轄である。

さて、いじめの中でも、最も陰険かつ効果的と思われる「シカト」、即ち、「無視」という行為はどうであろう?実は、これが殺人行為であるということはあまり知られていない。
「わたしの妹」という、作者自身、いじめの被害者の経験を持つ著者が書いた絵本がある。
著者に手紙で送られてきた実話であるらしい。ある女性の妹が、小学4年生で転校した先の小学校で徹底したシカトを受ける。妹は学校に行けなくなる。やがて彼女は命の炎が消えてしまう。
衣食住に不備があるわけではなかった妹がなぜ死んだのだろう。
これに関しては、17世紀にドイツで行われた、非人道的実験が参考になる。やはり、衣食住などに関しては十分に与えられた赤ん坊に、言葉をかけたり、抱くといった、コミュニケーション行為を一切禁じたところ、赤ん坊は育つことなく死んだ。
人間は他との関係性なく生きてはいけないものであるらしい。
シカトという行為は、「死ね」と言っているのに等しいのである。
ある特定の人間に対しては、呼ばれても返事をしない、一切の手助けをしないといった行為は、特にいじめと言われなくても、学校や会社などで、いわゆる「気に食わぬ」相手に対して行う者はよくいる。これもまた、相手の死を期待していることを表明しているに等しい。

このシカトに関しては、警察による犯罪立証が難しい場合が多い。よって、ここでこそ学校が活躍しなければならないはずであるが、実際には学校はシカト側に加勢しているのだ。
なぜなら、学校は実社会以上に他人に依存するシステムを採っているからである。学校は、全ての子供が同じように考えるロボットを生産する場所であり、その目的のためには、べっとりとした関係性を確立しないと、取り残され、孤立し、恥ずかしく、不安に怯えるようにさせるしくみになっているのである。これではシカトされる側に即座に死ねと言っているに等しい。上記の絵本でも、学校は妹に対して何の助けにもならなかったばかりか、むしろ積極的に彼女の生命力を奪ったのである。

さて、現状を嘆くばかりではどうにもならない。
人間は、精神力により、これらの状況に打ち勝つこともできる。それには想像力を使うのである。だが、ぐずぐずしていると、学校に手際よく想像力を破壊されてしまう。アインシュタインも、「想像力を窒息させられないよう」奮闘したのである。
想像力の使い方。これが人間に与えられた力の源であり、芸術が宗教から受け継いだ役割でもある。
今後は、これについてよく考えようと思う。いわゆる、「続く」である。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2008.02.26

ラルフ・ネーダー氏は興味深い

この度、米国大統領選に出馬を表明した(出馬では常連だが)弁護士・社会運動家のラルフ・ネーダー氏は面白い。
消費者運動家であり、大企業の支配に異議を唱える人物であるところには親しみを感じる。
彼は、こういった反商業主義を若い頃から実践している。おそらくは有名なエピソードだろうが、25歳で陸軍を除隊した後、一度だけ陸軍を訪れ、売店で12足の靴と4ダースの軍用ソックスを買い、40年近く使い続けたという。
現在の大量生産・大量消費に背を向け、ものを大切にする人物である。大統領の器かどうかは分らないが、善良な人物であり、その経歴からも、大企業を相手に回して戦える勇気と能力のある人物であることも分る。弁護士でもあるのだが、大企業の不正や横暴に対しての戦いでは大きな成果も収めているのだ。

私も、服、靴はもちろん、車、机、ナイフなどの道具でも、長持ちするものが好きだ。
日本の工業製品は、昔から使用期限が短い、即ち、すぐに壊れることが特徴だ。だが、ドイツの良い工業製品では、例えば歯車を使う機械製品では、磨耗すればさらにスムーズになるという素晴らしいものがあると聞く。それこそ、職人魂であると思う。
車でも、私は日本のT社の高級車で、友人はドイツのベンツであるが、見た目では、外見も内装もむしろ私の車の方が良い。しかし、ベンツは下回りのシャーシには厚い鉄板を使い、重いが長持ちするし、装備一般も耐久性がある。ポルシェなど、ドイツの名車はモデルチェンジ前に値上がりすると聞くが、日本では考えられないことである。
ナイフは一般に消耗品であるが、ある和式ナイフの販売店のサイトで、マタギ(猟を生業とする集団)の方が、祖父から受継いだ小刀を使っているというのを見たが、やはりしっかりとしたものを作っていたのだと思う。
また、現在の包丁という言葉は、もともとは「料理人の丁さん」という意味であるらしいが、「荘子」に登場する。この丁さんは大変な名人で、牛をさばく刀を普通の料理人では月に1回、名人でも年に1回換えるのに、丁は同じ刀を19年使っていて刃こぼれ1つないとされている。腕と共に、道具の良さというものがあるのであろう。

ものを大事に使えば、確かに商業的には大儲けの機会は減るが、資源や、それに精神にとっては良いことである。
現在の日本人の精神性の低下の大きな原因は、大量生産と大量消費を行うために、あらゆる産業が欲望産業化していることが原因と思えてならない。
そもそも、現在の義務教育そのものが、大量生産、大量消費の社会に向く無思考型人間を作り出しているのである。学校では好奇心を破壊され、何にも興味がないので退屈しやすく、次々にものが欲しくなるのである。また、自分でものを考えないので、流行に乗りやすく、宣伝や扇動に簡単に乗り、同じものが沢山売れるし、同じレジャーに大勢が集まり、まさに大企業向きの国民に仕立て上げられているのである。
だが、その結果、自己中心で欲しがるだけの、知的能力のない欲望人間が蔓延するようになったのである。

ネーダー氏は、社会運動家や政治家ではなく、ビジネスマンになって欲しかった。彼の価値観でビジネスに成功できれば、大量生産、大量消費ではない、新しいビジネスモデルを示すことができたかもしれない。
だが、このようなビジネスに取組む企業、経営者は既に現れてきている。私も、その方面に向かっていこうと思う。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.25

天国の覗き方

「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツの本に、妖精を見るためのアドヴァイスが書かれてあった。
絶食は妖精を見るのに有効であるかという問いに対して、「その通り。たらふく食ってるやつが妖精を見ることはない」と言われていた。
これについて、イェイツの自伝的小説である「まだらの鳥」に、主人公マイケルに投影したイェイツ自身の体験として書かれていることがある。
マイケル少年は、ほとんど食事を取らずに過ごすようになり、やがて、この世の美を超越するほどに美しい聖母に出会う。
これを確かに、幻覚と言うのであろう。他にも、海に浮かぶ精霊の少女が登場するが、その描写の美しさは圧倒的であった。これも幻覚かもしれない。しかし、至高の美であることもまた確かである。私自身、夢の中で夜空に輝く、この世のものとも思えない美しいマンダラを見たことがある。
最高の美は精神の中に存在する。至高の美が存在する精神を天国と呼んでも良いと思う。これを垣間見た者が芸術家になるのだと思う。

「天使も悪魔も、人の想いの中でしか存在できないのよ」
~アニメ「ぴたテン」天使の早紗の言葉~

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.24

人を超える

ディール・カーネギーは、人間の最も大きな欲求は「自己重要感」という、自分が優れた存在、価値ある人間でありたいというものであると言った。
ナポレオン・ヒルは性エネルギーが最も強力であるとする。これは一概に性的欲望(きれいな言い方だ(笑))に限定されないが、ある程度はそれである。
フロイトでは、人間は自己重要感については一生付きまとわれるとしたが、根源的エネルギーはやはり性エネルギーとなると思う。
このようにいろいろあるが、マスローが最も的確である。根本的欲求というのは、その人間の成長段階によって決まるのであえる。最も低次元の生理的欲求に始まり、安全欲求、社会的欲求、自我欲求、そして、最上位が自己実現欲求である。

だが、更に言うなら、社会情勢が大いに関係するのである。これを忘れると、上記の著名な方々の主張は意味がなくなる。
社会情勢により、共同幻想(吉本隆明氏の「共同幻想論」で詳しく説明されている)という、国家や地域の人々の間で共有される無意識的思想が大いに異なるからである。それに加え、家族や夫婦、恋人や親友などの間での共同幻想(対幻想)や個人幻想(これらも吉本隆明氏の思想・理論である)というものもある。

さて、今の日本であるが、偶然であるが、カーネギーの言う「自己重要感」の欲求が最も強い。日本一の富豪である斎藤一人さんはそれに気付き、大いに利用していることは、彼の最初の著書を読むと想像できる。
なぜ日本で自己重要感が最も強いかというと、豊かに育った者が大半であるからだ。マスローで言う、下位の欲求については、社会的欲求までは安易に満たされてしまうので、その上の自我欲求にいきなり行く。ただし、社会的欲求が満たされたとはいえ、それは例えば「同僚とちゃらちゃらやるのが上手い」という、小さくまとまったものであったり、「徒党を組んで弱い者をいじめて社会性を満足させる」といった歪んだものであり、自我を支えようとする土台が実に脆い。だからこそ、自我実現欲望も病的で破滅的な場合が多いのである。
逆に言うと、社会的欲求を強制的に壊されたいじめられたような人間の方が可能性があるのである。

さて、上記を踏まえ、強力な人間になり、運の良い人間になるコツをいきなり述べるなら、他人の承認を求めないことだ。これは、優越感と決別するということであり、ある意味、低い位置に甘んじるということでもある。
レストランで良い場所を与えられることも期待してはならない。優遇されることもないと思わないといけない。賞賛も羨望もなくて良いと思うことだ。
これは、土台のない社会的欲求の実現を叩き壊すことである。マスロー心理学を逆手に取ったものだ。
効果は保証付きである。
尚、芸術においても、社会情勢や、さらにその根源の共同幻想の影響が大きい。いや、芸術は共同幻想そのものなのである。岡本太郎が言った、芸術とは人生そのものであり、芸術が呪術であることは全く正しい。
さらに、芸術は人を超えるツールなのである。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.23

タイムマシン稼動す

たまには小難しい話はやめて(笑)、個人的日記といこう。
「灼眼のシャナII(セカンド)」DVDのII巻、Amazonより到着。
ジャケット画は、原作小説の挿絵画家のいとうのいぢさんの描き下ろしである。これが、超売れっ子イラストレーターの絵である。左が主人公のシャナ、右が、この時点で謎の少女、近衛史菜である。この近衛史菜の愛らしさは奇跡と言って良いであろう(笑)。

S2_2

さて、私はタイムマシンを所有している。
誰でも、平面上は気楽に動けるであろう。これはX-Y座標で表すことができる。上下にも多少は移動できると思うが、これがZ座標である。
ここにさらに、目には見えないT座標を加えて、その座標を移動する。このT座標が時間である。これがタイムマシンの原理だ(単純過ぎるぞ!)。
1968年に、このDVDと、これを再生するパソコンを持ち込んだ。当時の電源でも大丈夫と思うが、問題なかった。
尚、私は関西在住なので、コンセントは60Hzの交流であるが、行った先は関東なので50Hzからの変換コンバータを用意した。尚、この関東、関西の周波数の違いは明治時代からである。21世紀になってもそのままとは、なんとも感慨深い。国内で周波数が統一されていない国も珍しい。
※誤解のないように言うと、パソコン自体は周波数変換機は必要ない。一緒に持っていった電子レンジのための装備であった(笑)。
漫画家、アニメ制作関係者に、このDVDを披露した。
まず、絵の緻密さ、色使いの細やかさによるリアルさに驚かれた。人物はさほどではないが、風景や建築物、家具などの質感は驚愕ものであるらしい。
音楽の高度さにも驚いていた。声優さんの演技も随分変わったという感想を聞いた。
そして、映画や大人のドラマ並みのストーリーには、やや戸惑いを感じたようだ。
ところで、この作品には沢山の高校生が登場し、学校生活や家庭生活が描かれているが、21世紀になっても、ほとんど変化がないことが意外であるようだ。相変わらずのセーラー服と学生服。教室の雰囲気も、さして違った様子はない。
そして、恋愛に悩む少女達は、むしろ1960年代より純情ではないかという感想である。
ただ、髪の色が、黒、茶、青とあるのはさすが21世紀と言われたが、「いえ、それは単にアニメ上の表現でして・・・」と説明するのに苦労した(笑)。
DVDとパソコンにはさすがに驚いたらしい。そして、1960年代のアニメ作品もDVD化され、見られていることに、当時の制作者達は感動しておられた。
また行こう。
尚、上記はフィクションであります・・・ということにしておく(笑)。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.22

芸術家で食っていくのに必要なこと

よく、「芸術では食っていけない」という話を聞きます。実情も大方がそのようです。
しかし、これはおかしな話であることに気が付きます。
芸術家が食っていけないなら、例えば、私のようなコンピュータソフト開発者は食っていけるのでしょうか?別に、最初から食えるようになっているわけではありません。食えるようにやれば食えるし、食えないようにやれば食えません。
大変な技術のあるコンピュータソフト開発者でも、それで食えていない人はいます。
芸術家でも大金を稼ぐ人もいます。
ただ、コンピュータソフトでは食えるようにやっている人が芸術家より多いというだけの話です。
ところで、画家や彫刻家全てが芸術家というわけではないのですが、ここでは敢えて、全て芸術家とします。

芸術家で食えた代表はアンディ・ウォーホールと思います。彼は金が稼げるようにやりました。一方、食えなかった代表はヴァン・ゴッホです。岡本太郎さんは、時代がゴッホについていけなかったので食えなかったとよく著作に書かれています。それは1つの見方として正しいのだと思いますが、斎藤一人さんのような超一流の商売人では、見方が異なるようです。私も、ゴッホは絵が売れないようにやったので売れなかったのだと思います。
ウォーホールは、元々がお金持ちになることを目指していました。
ではゴッホはどうかというと、やはり絵が売れてお金になれば良いとは思っていたようです。その生活や制作のための費用は弟のテオに一切を負っていましたが、それはいつかは返したいと思っていたようですし、一頃は仲が良かったゴーギャンの絵が売れることに嫉妬というほどではないかもしれませんが、複雑な感情を抱いていたように思います。ゴーギャンと同じくらいの値段で自分の絵も売れるべきだと考えていたようなのです。

「引く手数多(あまた)のダイヤモンド」という言葉があります。
どうも特に日本では、能力さえあれば、お金を払う力のある者が「放っておかない」という奇妙な考えが蔓延しているように思えてなりません。いくら能力があっても、それだけでは「引く手」が来たりしません。
以前、歌手の中森明菜さんが所属事務所を解雇され、引退の危機であると報じられたことがあります。しかし、その後、明菜さんはちゃんと活躍しています。これを、「明菜さんなら、放っておかれないさ」と考えてはいけません。明菜さんでも、何もしなければとうに消えて忘れられていたはずです。別に今の芸能界、明菜さんがいなくてどうということはありません。昔のファンは多いでしょうが、彼女の17歳の時の輝きを愛でていたという場合には、今の彼女にも好意は感じるでしょうが、大枚をはたくわけではないでしょう。彼女は、新たな価値を提供しなければなりませんでしたし、それを売り込む必要もありました。しかし、明菜さんが解雇された後にやった涙ぐましい努力は全く見えないか、無視されてしまうのです。

本格的な画家には、商用イラストレーターと一緒にされては困ると考えている人も多いように思います。あのノーマン・ロックウェルでさえ、雑誌表紙などを描いていたことでアメリカの画壇から冷たくされていたと聞きます。どうもこのあたりの考え方が、食えない画家が多い原因の1つと思えます。
画家に限らず、音楽家でも、腕は凄いが食えない人がいれば、腕の方は同じようなレベルの者が沢山いるにも関わらず、一人だけ大儲けしているように見える人もいます。
誰とは言いませんが、別に美大を出たわけではなく、また、美大を出たような人から見れば、大したことない腕前でも人気イラストレーターとして売れまくっている人がいます。
この違いは何でしょうか?
昔、天才写真家アラーキーこと荒木経惟さんが言ったらしい言葉をよく憶えています。
「時代にひれ伏せ!黒子に徹せよ」
これはごく一部ですが、芸術家が金を稼ぐ鉄則と思います。
また、多分、自己啓発分野の事業家であるポール・マイヤーが言ったのだと思いますが、「人間の全ての活動はセールスである」と言う言葉も重要です。
(サッカーJ2のサガン鳥栖は、以前、鳥栖フューチャーズというチーム名でしたが、さらに以前はPJMフューチャーズでした。このPJMこそ、ポール・J・マイヤーのことでした)
億万長者のアンディ・ウォーホールは大変なビジネスマンでしたが、それは優秀なセールスマンであるということです。アラーキーもそうだと思います。セールスとは、いわゆる喋りが上手いだけでは成果は上がりません。顧客のニーズを正しく掴み、顧客にメリットを感じさせ、商品たる芸術品の価値を納得させなければなりません。昨今の絵画売買で見られるいかがわしいセールス手法は嘆かわしい限りですが、あんなものが長続きするわけもありません。
私はソフトウェア開発者であるといっても、半分はセールスだと思っています。だから、楽をして高給を取れるのです(笑)。
特に日本では、セールスマンというものを軽く見る傾向がありますが、これは残念なことです。もっとも、保険のCMのセールスマン像は、さらに歪んだセールスマンのイメージを与えているように思えてなりませんが・・・。
現役の世界的美術家である横尾忠則さんは、著書で、企業との打合せをいかに綿密に行うかを強調しておられたように思います。

腕はあっても、金を稼ぐ能力に欠けていては食っていけません。自分にその能力がなければマネージャを雇えば良いのですが、その場合はマネージャとうまくやっていく能力が必要です。あるいは、マネージャに、芸術家を使いこなせる技量があれば良いのです。
腕があるのに食えない人が食えるようになることは、経済にも良いと思います。いまや大量生産・大量消費の時代ではありません。真に価値あるものを提供し、それを正しく売れることは、実体のある骨太の経済を作る基本であるように思います。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.21

目標なんて持つな

以前、軽く100万円以上する成功プログラムを買ったことがある。気紛れにね(笑)。
そこには、全編を通じて、「目標設定」の重要さが懇々と説かれていた。
ブルース・リーも似たようなプログラムを買ったに違いない。不自然な目標設定を行っていたっけ。それで彼はおかしなことになってしまったのだ。
また、およそほとんどの成功法則の本にも、目標を持つことの重要さが書かれている。
さらに、セーラームーンでさえ「美しい夢をあきらめないで」と押し付けてくる。私は非常な違和感を持ったものだ。

目標なんてものを持つ限り、苦しむことは避けられない。
目標なんてものを捨てた時、気楽になり、心は広がり、望まなくても幸運に恵まれるようになる。
私にも、良いことしか起こらないようになった。
イエス・キリストだって言っている。「神はあなたが必要なものなど、とっくにご存知だ。それは必ず与えられる」とね。
不要なものを求めない限り、必要なものは与えられるのである。

本を読むと良い。偉大な人の本を。
ただし、それが松下幸之助だろうが、中村天風であろうが、彼らから学ぼうなんて考えてはいけない。それは愚かな読み方だ。
その本を書いたのは自分だと思って読むのだ。実際にその通りであるのだから。
偉人について書かれた本なら、自分のことが書かれていると思うのだ。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.20

芸術家はマゾである

子供の頃、本宮ひろしさんの「俺の空」という、時々ものすごくエッチな場面のある漫画を読んだことがあるが、その中で、主人公の安田一平の父親である超大物経営者が言った、「経営者に大切なのは勘だ」というセリフを見て、妙に感動したのを憶えている。
だが、経営者の勘が重要なのは、起業時と急成長時であり、その後は戦略や計画が大切になる。
米国のIT起業の盛衰を見るにそう思う。
成長し続けるIT起業の代表は、マイクロソフト、グーグルといったところだし、逆に、ダメになったのは、古いところも含めると、デジタルリサーチ、アシュトンテイト、ロータス、ノベルと思う。
ビル・ゲイツの何が偉大かと言うと、彼は確かにベンチャー起業家に相応しい恐るべき鋭い勘を持つと共に、大変な知的戦略家でもあるのである。そして、会社が急成長すると、彼自身は開発の現場から早々に身を引いた上、財務など、専門外のことは早くからスペシャリストに委託したのである。
一方、創業者がいつまでもベンチャー気分でいる会社は、いつまでも成長は続いていない。
スティーブ・ジョブズも実に素晴らしい。アップル社が急成長した後、超大物経営者であるペプシコーラ社長のジョン・スカリーを引き抜いてアップルの社長にしてしまった。ここらがただのベンチャー起業家との違いである。彼はそのすぐ後に、会長でありながらアップルを追われたのであるが、アップルが傾いた時に請われて復帰し、その類まれな直感と感性で再びアップルを成長させた。だが、もし彼が昔と同じであれば、そろそろ去り時かもしれない。

しかし、考えてみれば、芸術家なんて一生ベンチャー起業家みたいなものである。
研ぎ澄まされた感性と勘で、次々と新しいスタイルを作り、自分の壁を破っていかない限り成功はあり得ない。上手いだけの絵描きは芸術家ではないし、喝采を浴びることもない。
企業の場合は、創業の時ほどの勘が不要になっても、優秀な経営を行う限り、創業時の急成長ほどでなくても成長し、安定した繁栄を謳歌できる。しかし、芸術家にゆるやかな成長や安定はない。泳ぎ続けなければ死んでしまうマグロやサメのようなものである。
それでも芸術家になりたいなんてのは、一種のマゾではないかと私は本当に思う。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2008.02.19

サル的人間のディスプレー

ディスプレー(display)とは、コンピュータ画面や展示・陳列という意味とは別に、動物のある種の行動という意味もある。例えば、求愛行動や威嚇行為である。

この中で、サルのディスプレーに面白いものがある。
雄ザルが、大きな石を池の中に投げ込んで水しぶきを上げたり、長い木の枝を掴んで走って砂煙を立て、大木をキックして大きな音を立てる。
これは、その派手さや音の大きさで自分の強さを誇示する行為であり、ボスザルは、より大きな水しぶきを上げ、より大きな音で木を蹴らないといけない。さらに、ボスザルはしょっちゅうこれをやり、自分の強さを見せつけ続ける必要がある。
また、ボスザルの地位を狙う雄も、ボスに負けないようがんばらないといけない(笑)。
こういった行為が、サルの集団の中でよく見られるディスプレーである。

まあ、サルだと思えば可愛らしいと思えないこともないが(もちろん、彼らは真剣であるのだろうが)、似たようなレベルの人間は実に多いと思えてならない。
深夜に、改造した車やバイクで爆音を轟かせる暴走族は、サルのディスプレーと同じことをやっているのである。連中のオツムはサルと変わらないことは間違いない。
また、これほどでなくても、人前でやたら大きな音ではばかり無く咳をする者をよく見るように思うが、これもディスプレーの一種と思う。知的な人間は、人前では口を手で押さえ、控え目に咳をするものであろう。
電車の中で大股を広げて椅子に座ったり、これもよく見るが、肘を両方に突き出して座っている馬鹿もまたディスプレーをしているのである。こういう行為でしか、自分の立派さを表現できないのである。
最近は、オフィスでディスプレーする女子社員も結構多い。机の引き出しを勢い良く閉めて大きな音を立てたり、コピー機の用紙カセットなども実に乱暴に扱ってガチャガチャ騒音を立てている。厚い書類を調える時は、気でも狂っていると疑わざるを得ないほど机に叩き付け、沖縄米軍基地のジェット戦闘機の爆音に対抗しているかのようである。
今の日本は男女平等が原則であるが、仕事の出来る男性社員にディスプレーで対抗しているのであろう。サル知恵とはよく言ったものである。

弱い犬ほどよく吼えるというのは必ずしも正しくないだろう。強い犬も威嚇や誇示のディスプレーとしてよく吼える。だからといって、人間がその真似をしても、優秀さや立派さを証明できるわけではない。しかし、サルどころか犬並のレベルの人間も多いものである。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.18

森に捨てられて白雪姫は困ったか?

最近、私は妙な遊びにはまっている。
ん?エッチな遊びか?(笑)
そうではなく、斎藤一人さんの教えである「困ったことは起こらない」をシミュレーションする遊びである。
斎藤一人さんの基本的な教えは「困ったことは絶対に起こらない」である。これ自体は私も全く同意なのであるが、シミュレーションとしての空想により、より精神指向をそっちに持っていこうというものである。

●白雪姫は、意地悪なお妃様に森の奥に捨てられて困ったか?
私の知る範囲では、白雪姫は「恐い」「寂しい」とは言ったが、「困った」とは言ってない。そして、森に捨てられたおかげで7人の小人に出会って楽しく過ごした。つまり、全然困らなかったのである。
さらに、お妃の計略で毒入りリンゴを食べて死んだようになったが、おかげで素敵な王子様に出会えて幸せな結婚ということになった。
結論。白雪姫は何も困らなかった。

●人魚姫は王子様誘惑に失敗して困ったか?
人魚姫は、人魚と人間の少女という両方を生きるという貴重な体験ができた。また、妹扱いとはいえ、王子様に優しくしてもらった。
問題は、王子様が別の国のお姫様を愛してしまったことを、人魚姫が嘆き、事実上、困ったと思ったことである。
そして、人魚姫は王子様を剣で刺し殺せば人間に戻れたのであるが、それをせず、海に身を投げたが、その時彼女は、「王子様に愛されなくても、人魚に戻れなくても困らない」と思ったのである。そのおかげで、彼女は、さらに優れた存在である風の精になり、その後長くエキサイティングな体験ができたのである。その後は天使となったはずだ。実に全く困らなかったばかりか、永遠すら手に入れたのである。

●マッチ売りの少女は、マッチが売れなくて困ったか?
この物語は、一面的に考えてはいけない。
もし、大晦日の夜、いくらかマッチが売れたとしても、彼女は家で父親に殴られ、相変わらず毎日寒さに凍えながら働かされたはずである。そして、遅かれ早かれ、死んでしまったかもしれない。
確かに、極寒の夜に一人で凍死した彼女は可愛そうであるし、朝、少女が死んでいる姿を見た人々は、彼女をただ可愛そうな女の子だと見なした。
しかし、アンデルセン自体が、少女はただ可愛そうであったとは書いていないのである。
アンデルセンは、少女が美しいものを見たことを強調した。そして、誰もそれを知らないことに注意を促したのだ。
少女は実際に微笑んでいたのである。
デリケートな問題である。確かに、子供は成長して大人になり、好きなように生きる権利がある。だが、幼くして死んだ子が全て、不幸な人生であると断言することもまた出来まい。死が少女を護ったのかもしれないのである。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.17

鳥と少女の類似性

鳥と少女の最も似たところ、それは首だ。
鳥は首がとても柔らかくよく動く。寝る時なんか、首を真後ろに曲げて背中の毛に頭を突っ込んで寝るくらいだ。

20080217
この話題のために描きました(笑)。クリックすると大きな絵が出ます。

少女の首もとても柔らかい。少女の最も少女らしい仕草とは、こともなげに頭だけ回転させて後ろや天空を見やることだ。
鳥の首の骨は、みかけよりずっと長い。それだけよく動くわけだ。首の骨を構成する頚椎(けいつい)は人間では7つだが、首の短いインコですら11個。白鳥では実に25個もある。
なぜ鳥の首の頚椎が多く、よく動くかというと、1つには外敵を見つけやすいようにである。つまり、弱いので、敵は早く発見する必要があるのである。逆に言えば、首の長さ、柔らかさはか弱さを暗示させる。首が柔らかい少女がか弱く優雅に見えるのはそのためだ。きっと美少女の頚椎は10個以上あるはずだ(笑)。
だから、か弱い美少女は護ってあげないといけない。
もう1つのの理由は、鳥のクチバシは人間でいえば手の役割を兼ねていることだ。そして、鳥の羽の骨は人間でいえば腕の骨にそっくりである。つまり、少女の腕はツバサなのだ。
可愛い女の子の腕は優雅であるが力仕事には向かないのである。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.16

不倫は自然である

不倫の愛は背徳的に扱われるのであるが、どこの国でも、いつの時代も変わらぬ人気テーマである。
地域と時代によっては、不倫は死罪であるくらいだが、やめさせるにはそのくらい厳しい刑罰を科さないといけないくらい楽しいものなのである(笑)。
どこかの二枚目俳優が「不倫は文化だ」と言ったそうであるが、その通りであると同時に、文化といよりはむしろ自然な行動である。

斉藤一人さんという日本一の実業家は著書で、「夫や妻がいて、さらに恋愛を楽しめるなんて素晴らしいことではないか」と書かれていた。不幸なのは、夫も妻も恋人もいない人のはずなのに、両方いて何が不幸なのかというわけである。
もし、この考え方に反感や違和感を感じるなら、あなたは国家に思想統制、即ち、洗脳されているのかもしれない。
以下にこのことを説明する。

昔・・・と言っても、ごく近代までの日本では、不倫というか、夫や妻のいる人が、他の相手と色々あるのは普通のことであった。
そして、そういったことが普通である村は活気があり、平和で、人々の協調性が高く、お互いにおおらかで親切であった。
そういった状況であるから、時には誰の子か分らないような子供もいたが、別段気にせず、母親の家で分け隔てなく育てられていた。
そもそも、江戸時代の長屋では、食事時になると、どこの子か分からない子供が食卓にいることも不思議なことではなかった。そして、そこにいればちゃんと食べさせたのである。日本の庶民とは、元々はこのように心が広く大らかであったのだ。

不倫という否定的な言葉が似合わないのであるが、日本では少し昔は正式な妻や夫と別の相手との交際は、主に「夜這い」の形で行われた。夜這いは実に一般的なものであったし、別段、背徳的なものでも後ろめたいものでもなく、多少の気恥ずかしさは当然あるが(あるから楽しいのである)明るく健全なものであった。
男達は、独身の娘か人妻であるかに関わらず、毎夜、女性の元に通ったのである。
無論、このようなことをルールもなく行っていては、時にはケンカになったり、トラブルが発生することは当然かもしれないので、次第に夜這いにもルールができたのである。そのルールは村々によって異なるが、概ね、夜這いする資格(男)、される資格(女)についての取り決めであった。
つまり、男であれば、一人前と認められる男であることが夜這いに参加する条件である。必ずしも経済的に自立していることを問われるのではなく、例えば13歳とか15歳とかの年齢で、伝統的な大人の儀式を済ませていることとされた。このような村では、年少者と年長者が親しく交流しており、年少者は年長者に村の男としての心構えなどを叩き込まれ、村の中での役割を立派に果たしているはずであった。隣近所と挨拶もしない現代の都市と比べ、なんとも健康的ではないか。
女性であれば、生理がないうちはダメとか、15歳になっていないとダメとかの決まりはいろいろあったようであるが、これも、あくまで女性の身になっての決まりごとである。
尚、男女とも、初体験は、手馴れた年長者が相手をするのが普通であり、男の子の場合、美少年であればおばさん同士の取り合いもかなりあったようであるが、女の子の場合は、若い子の扱いが上手い上に、人品が立派な男性に親の方から頼むようなケースも多かったと言われる。

また、皆が楽しく夜這いできるための工夫もいろいろ行われた。
例えば、当番の者が道に立ち、これから夜這いに行く男に、「あそこの娘はもう別の男が行っているからだめだ。しかし、あそこの娘とあそこの女房は空いているから好きな方に行け」とアドバイスするなどである。
あるいは、最初から、誰平は誰子のところに行くとスケジュールを設定する場合もあった。このような場合は、多少は好みや相性も考慮されたと思うが、何事も食わず嫌いはいけないし、幅広い趣味を持つことが人生を豊かにする。あまりに自分の趣味にこだわる心の狭い者は、やがて相手にされなくなったかもしれない。
また、夜這いは村人同士に限るというルールの村もあれば、条件によっては他の村からでもOKとか、事前申請すればオールオープンとかいろいろあったようである。

ところが、ある時期から、この素晴らしい夜這いの風習が激減してくる。
政府が風紀向上の名目で夜這いを禁止し、厳しく取り締まったのである。また、道徳・倫理教育として、夜這いを悪いこと、恥ずかしいことという考えを国民に叩き込んでいったのだ。
だがその反面、政府は風俗を手厚く保護したのは間違いない。風俗は決して陰湿なイメージでなく、明るく、粋なものとされ、政府はなぜかこれを弾圧しなかったし、文学においても、概ねそのように扱う場合が多かったと思う。
なぜそのようなことになったかというと、風俗からの税収が重要な国家の資金源になるからである。夜這いで勝手にやられていては、国はさっぱり儲からないのだ。
風俗は粋であるべきだから、男は無理してでも高い金を払う。その反面、貧しい家の娘が売られ、不幸な女が多く出来たのである。今と違い、風俗の女性には必ずしも高い給料が出ず、店の方でも、いったん買い取った後は無給や、安い賃金で働かせた場合が多かったと思う。
また、国家にとっては戸籍の整理の意味でも夜這い禁止が役に立った。子供と親との関係をはっきりさせ、国民の管理を効率的にして支配し易くなったのである。
このように、夜這い禁止は、国家の都合によるものであり、国民は概ね不幸になったのである。

現在も、いい加減な基準の倫理規定で、映画や小説などを国家が管理しているが、やはり国家は風俗は手厚く保護しているのである。風俗の手入れを警察が行うのは、ポーズであるか、税金を納めない店の取り締まりである。風俗からの税収は実に素晴らしいものであるのだ。
風俗で18歳未満の「児童」が働いていないか取り締まるのも、道徳的な理由というよりは、道徳的批判により、風俗店が減っては困るからと思う。
また、国家が倫理の名目で、不倫や自由な性風俗が肯定的に扱われない様、映画や小説を取り締まるのも、風俗以外で男が遊ぶことを防止するためである。不倫が罪悪なものでないとなれば、男は風俗などにわざわざ大金を払って行かず、本当に好きな女性を相手にするはずである。
国家には税収が何より大切なのである。
淫行条例もまた、全く同じ理由である。成人男性が、18歳未満の女性と大人の付き合いをしてはいけないなど、なんとも馬鹿な話ではないだろうか?十代の若い女の子が、世間で鍛えられた逞しい男性と付き合うことは実に素晴らしいことであるはずだ。もちろん、十代と言っても、遅くとも14歳位になれば魅力爆発であるのだから、男と付き合えば「何もない」はずがない。この自然なことを強制的に禁止し罰するのが馬鹿なことだと思わなければならない。
土台、セーラー服の人気が高いのは、これを着た女の子との関係が禁止されているからである。マル禁の酒ほど美味いものはない。アメリカでも、禁酒法時代には、違法なバーの数はむしろ増えたのである。
女子中学生や女子高生が、世間で逞しく生きる男性と交際すれば、彼女達の将来に必ず素晴らしい影響があるし、男性の方も、初々しい少女との交際は活力を得るはずである。
女子校生が家の外で接触する唯一の大人の男性が、およそ大人とは言えない世間知らずで幼稚な男性教師であるというのも不幸なことである。日本の女子中高生があまりに幼く、自己中心的で知性に欠けるのは、立派な大人の男性と接触しないからである部分も大きいはずである。
さらに、いまやどこにでも大量にいるロリコン教師に支配・隷属の関係を利用されて性的被害を受けるのは日常茶飯事といってよいくらいであり、重ね重ね、日本の少女達は不幸である。

このように、興味深い話題を通して(笑)、国家の思想統制を見抜き、自分の頭で考える権利を取り戻すことは、充実した人生を送り、国を本当の意味で活性化させるためにも良いことであると信じる。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (4) | TrackBack (0)

2008.02.15

電車で化粧する女の真実

電車の中で平気で化粧をする女性については、かなり以前から様々な意見が聞かれ、一般的には「羞恥心の欠如」「人目を気にしない感受性の欠如」などと批判されてきた。
しかし、問題は全く別のものであることが私には分る。
羞恥心の欠如ということであれば、別に何の問題もない。個人的にも羞恥心のない女は好きではないが、そんな女がいて何の不都合があろう。私の知ったことではない。
人目を気にしないことも同様である。人目を気にせず、新聞を大きく広げてバサバサ音を立てられるのはやや不快であるが、化粧くらい、勝手にやってくれれば良い。
あまり害のない女を批判することもなかろう。
しかし、問題は別のところにあるのだ。
電車の中で化粧をする女でも、好きな男の前では決して化粧をしたりはしないのである。なぜなら「恥ずかしい」から(笑)。
つまり、彼女にとって、電車の中にいる人間はゴミに等しいつまらない人間なのである。
よく、「相手によって露骨に態度変わるね」って女性がいるだろう?電車の中で化粧できる女というのは、そういう女なのだ。
人間を自分の価値観や都合でランク分けし、ランクごとに扱いを変える女なのである。もちろん、人間誰しも、程度の差こそあれ同じかもしれないが、その傾向が極端であるのだ。
そして、このような女には決して素晴らしい男性は付かないし、幸せな結婚をすることもないのである。
なぜなら、本当に良い男とは、「自分にだけ優しく愛想の良い女」を決して好きにならない。誰にでも親切な女性が好きなものなのである。よほど困った時を除き、自分が何か優しいことをされて女性を好きになるということは男にはあまりない。女性が、見知らぬ子供に優しくしていたり、お年寄りをいたわったり、動物を可愛がる姿にぐっとくるのである。もちろん、誰かに見られていることなど気にせず、ごく自然にそれをしている姿である。
「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドのW.B.イェイツは「人間の尊厳」という詩で、ある素晴らしい女性をこう讃えた。「彼女の優しさは月のようである。月は全てを等しく照らす。本当の優しさとは恋人を理解することではなく、誰にでも同じように接してあげることなのだ」
男性も、自分にだけ優しい恋人には気を付けたがいい。今は彼女にとってあなたがAランクでも、そんな女は、明日にはあなたのランクを下げるだろう。また、Aランクの男が他に何人もいても不思議は無い。
シェイクスピアの「リア王」の教訓を思い出せ。いい年をして、愚かしくもリア王は、月のような末娘の本当の優しさが分らなかったのだ。

電車の中で化粧をする女がいても、あなたに何の不都合もない。しかし、上に書いたような理解がないと、リア王の二の舞になるかもしれない。
そして、そんな女を軽蔑するのではなく、憐れみを感じてあげる必要があることが分る。彼女は決して幸せになれないのである。

余談。
石ノ森章太郎さんの歴史的人気漫画「サイボーグ009」に出てくる、紅一点のサイボーグ戦士である003こと、フランソワーズが私は大好きだし、今でも人気がある。
彼女は、009ことジョーに愛情を持ってはいるが、メンバー全てを全く平等に扱っている。彼女は真に優しいのだ。まあ、ジョーがどんな女性にも優しいので、時には嫉妬するようではあるが(笑。つまり、ジョーも本当に優しいのだ(?))。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (6) | TrackBack (0)

2008.02.14

太郎君が死んだ日

お昼休みになり、中学2年の鈴木太郎君は、お弁当を食べようと取り出した。だが、弁当箱を開けると、中にお弁当はなく、代わりにゴミが詰められていた。
太郎君が周りを見回すと、数人の男子生徒が薄ら笑いを浮かべながら見ていた。
太郎君はすっくと立ち上がり、教室から出ようとした。
彼を薄ら笑いを浮かべて見ていた男子達はやや慌てた様子で、彼に言った。
「おい!鈴木、どこに行くんだよ?」
「職員室さ」
「何しにいくんだ?」
「電話を借りるんだよ」
「電話?」
その男子達はいぶかしげに尋ねる。
「どこに電話すんだよ?」
「警察さ」
さすがに、彼らは慌てた。
「警察に電話してどうするんだよ?」
「後でね。僕も早く終わらせたいんだ」
鈴木君はさっさと出て行き、彼らも見守るしかなかった。

職員室に入った鈴木君は、一礼した。近くの教師達が彼を見る。彼は、特にどの教師に向かってというわけではなく言った。
「電話をお借りしたいのですが」
近くにいた男性教師が、
「電話?お家にかけるのかね?」
「いえ、違います。警察にかけます」
「え!?」
周りの教師達は、慌てるのと困惑の顔で色めき立つ。
「警察!いったいどうしてだ」
教師の口調ははっきり厳しい。
「僕のお弁当箱の中身が捨てられ、代わりにゴミが詰められていました。人のものを勝手に取ることや捨てることは犯罪ですよね?」
「そ、それはそうだが、なんで警察に電話するんだ!?」
「犯罪は警察に通報するのは当たり前です」
「ま、待ちなさい!勝手なことをしてはいかんよ」
「どうしてです?ごく当たり前のことですが・・・」
顔を見合わせる教師達。女性の教師が言う。
「警察だってこんなことでいちいち呼ばれたら迷惑だわ」
「ではどうすれば良いのですか?」
「まず、担任の先生に相談すべきでしょ?」
「先生にどうにかできるのですか?」
「貴様!何、生意気なことを言っている。担任は誰だね?」
「小山先生です」

その場に呼ばれた小山先生は憤慨し、
「鈴木、お前は馬鹿か!なぜ先生に言わない」
「分りました。では、今から教室に全員を集め、解決を計って下さい」
「う・・・。ああ、分った!教室に行こう」

教室で、先生より先に太郎君が話し始めた。
「今日、僕のお弁当箱の中身が捨てられ、代わりにゴミを入れられていました。これは犯罪ですので、僕は警察に訴えようとしましたが、先生方に止められました。確かに、犯罪だからといってあらゆることを警察に訴えるのが正しいのではなく、話し合いで解決するならそれで良いのだと思います。そこで、先生の助けを借り、早急に解決をしたく思います。犯人は今すぐ名乗り出て下さい。そして謝って下さい。また、今後、二度とこのようなことをしないと誓って下さい。僕が誠意ある謝罪と思った場合は、今回のことは水に流します。」
教室の中は静まってしまった。小山先生も一瞬黙ったが、
「やった者は後で言いにくるように」
とだけ言った。
だが、太郎君は納得しなかった。
「それはだめです。今すぐ名乗ってくれないと。」
小山先生は明らかに苛立った口調で、
「いい加減にしなさい!みんなの前で晒し者にする気なのか?」
「・・・・・」
「分ったかね?私の方からちゃんと注意しておく。いいね?」
「はい、分りました」

その夜、太郎君は帰宅しなかった。深夜になっても帰ってこないので、母親は小山先生の自宅に電話した。そして、警察に捜索願いが出された。
翌朝。学校の体育館の中で、運動用マットに丸め込まれて死んでいる太郎君が発見された。その顔は苦痛に歪んでいた。マットの中で胸部などを強く圧迫された窒息死であった。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.13

至高の美の在処

今後さらにコンピュータグラフィックが進歩していったら、これが究極の美を生み出すかというと、そうであるという理解と共に、それはあり得ないという妙な確信がある。
コンピュータグラフィックの背後には、美をも究明する数々の理論がある。人が心地よく感じる性質や、大自然が隠し持つ特性も、フラクタル理論や複雑系理論等により解明され、さらに再現することも可能になってきた。一頃流行った1/fの自然なリズムによる色感や音感、あるいは体感も自然を数理的に解明したものを表現したのである。また、ダ・ヴィンチは、デタラメに見える濁流の渦を見て、ここに何か法則があるのではないかと直感したが、実際そうであることは近年になって解明された。
これらの多くは、コンピュータの発達により解明されてきた。その解明のために、手動で実験すると何年も場合によっては何十年もかかるものであっても、コンピュータでなら、現実的な時間で驚くべきパターンを浮かび上がらせることができるのである。

だが、人間の感じる美とはもっと複雑で神秘的なものであると思われる。
人気アニメ「カードキャプターさくら」の主題歌の一つ「扉をあけて」にこんな詩がある。
「なんでもない小石でさえ、不思議だよね宝石に変わる。一緒にね、見てるだけで」
こんなものは、コンピュータで解析できない。心理学や精神分析学、あるいは哲学で(これらも、海外の先進的研究ではコンピュータが活躍する。計量心理学とか、数理哲学とかである)は、それなりの説明もするだろうが、心理学が美の感動を与えたりはしない。
また、ガイナックスのアニメ「まほろまてぃっく」では、作られて間もないアンドロイドのまほろは、夕陽を見てその美しさに大喜びをする。だが、まほろが所属する組織の総司令官である美里は「生まれてきて良かっただろう?だがな、まほろ。この世にはもっと美しいものがあるぞ」と言う。まほろには、その意味が分らなかったが、その後、それが何か理解する。それは、「好きな人と一緒に見る夕陽」だった。
美とは、精神の作り出すものである。それを認識する精神がなければ美もまた存在しない。
インドの詩聖タゴールは、アインシュタインの主張に反し、「人が月を月と認識しないなら、月は存在しない」と言った。存在全てに関して言うならかなり難しいのであるが、美という問題に関して言えば、確かにそうであると納得できると思う。
私は、ある夜、夢の中で夜空に浮かぶ輝くマントラ図を見たが、あれほど美しいものは見たことがなかったし、これからも見ることはないかもしれないと思う。これもまた、精神の中に至高の美が存在する証と思う。
では、私が認識する、この世での最高の美とは・・・それは、清純可憐な少女が、頬を真っ赤に染めて恥らう姿である・・・嗚呼!スケベ!!(をい)
折角の名文が、最後の2行でぶち壊しとなった感もある(笑)。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.12

沖縄の米兵による女子中学生暴行事件について

お気付きの方も多いと思うが、沖縄での米兵による女子中学生暴行事件は、1つのレイプ事件ではなく、政治問題に利用されていることをはっきり認識する必要がある。
容疑者が米兵であろうが日本人であろうが、女子中学生がレイプされたという、その重大さに違いはないはずであるし、そのような事件なら国内でも沢山起こっているのに、なぜ今回はこれほど大騒ぎになるのであるかはよく考えないといけない。
もっとも、その問題は非常に根深いものであり、複雑でもあるので、そっとやちょっとで手に負えるものではない。
そこで、やや視点の異なる話をする。
容疑者の米兵は、別に日本人あるいは現地の女子学生に対して、何か凄い権限を有していたわけではない。ただ、米兵の中に理性に欠ける人間がおり、38にもなって猥褻目的で女子中学生をドライブに誘うという馬鹿を本当にやったということである。容疑が確定すれば、当然、厳しく処罰すると共に、女子学生達にも、見知らぬ男の誘いに乗らないよう指導しなければならない。馬鹿な男はどこにでも「絶対に」いるものである。
しかし、それでいえば、いまや「日常茶飯事」であり、厳しくてもせいぜいが免職で済んでしまう小中学校の男の教師による女生徒への猥褻事件(当然レイプもある)の方が千倍も悪い。本来であれば、その1件1件を、今回の沖縄の事件のように問題にしなければならないはずである。私は、別に冗談でなく、そんな犯人の教師は、両手首切断位の刑が妥当と思う。先の米兵と違い、それだけの権限があるからである。また、本当にそれくらいの刑を科さないと、変態自己中心教師の態度は改まらないはずである(変態自体が悪いのではなく、女の子の人格を無視した行為が悪いという点に注意されたい)。また、馬鹿な教師はどこにでも「絶対に」「いくらでも」いるのである。もちろん、冤罪で手首を切られたなんていう悲劇も起こるかもしれないが、それでも現状よりはマシではないかと思う。もちろん、もっと知的な解決法を期待するし、それはあるはずだが、現在の国家や教育関係者にそれをしようという意思がないのであるから、それを実施されたいと言うだけである。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (1)

2008.02.11

やってみなければ分からない

子供の頃、欲しくて仕方がないものがあったのではないだろうか?
それが売っているお店で、それを前にいつまでもフリーズしていた経験があるかもしれない。
そしてそれは、大人になれば、あるいは、おこづかいで買えるものだったかもしれないが、大人ですら滅多に買えない高価なものであったかもしれない。
私の場合、きれいなボールペンや万年筆であった。文房具屋で、それを並べているガラスケースに毎日張り付いていたものだ(笑)。ただ、これは小学校も高学年になると、おこづかいで買えるようになり、やがて熱は冷めた。願いとは、叶ってしまうと情熱が冷めるものであることが分かった。
次は、望遠鏡や双眼鏡であった。当時から覗き趣味が・・・いや、今でも無い!(笑)
これはやや高価であり、なかなか手が出なかった。また、もっと高い天体望遠鏡に強い憧れを持つようになった。
ところが、望遠鏡に興味を持つことから、妙な展開で私は賢くなった(笑)。
安価なオペラグラスは小学3年生で手に入れた。毎日長時間、これでいろいろなものを見たが、さしたる倍率ではなかった。映画やドラマで見るような、肉眼ではとても認識できない遠くのものを鮮やかに映し出すようなことは不可能だった。それでも面白くて、毎日使っていたが、やはり飽きがきた。
東京タワーの高い処などはもちろんだが、観光地や、あるいは、ちょっと階数の多いデパートの屋上に、コインを入れれば見ることが出来る、なかなか高倍率の望遠鏡や双眼鏡がある。私にはあれのイメージが悪い。何と言っても、時間が短い。その欠点のせいで、実際は大したものが見えるわけではないという事実を忘れ、思う存分使える自分の高倍率望遠鏡が欲しいと思った。
ところが、小学4年生で、従兄がかなりの天体望遠鏡を譲ってくれた。私は歓喜し、当然ながら毎日天体観測に励んだ。今思えば、子供とは凄いもので、天体望遠鏡の困難さも当たり前に受け止めることができた。どういうことかと言うと、高倍率の天体望遠鏡が捉えることのできる空間は非常に狭いという、普通にはなかなか気が付かない現実がある。つまり、ターゲットの補足は至難の業なのだ。天体望遠鏡がほんの僅かでも動けば、これが補足しているポイントから大きく外れてしまう。例えば、金星を観測中に、望遠鏡に軟式テニスボールが軽くぶつかっても、金星は見えなくなり、再度補足するのは、子供にとっては難しい。
だから、アニメなどで、子供が無造作に天体望遠鏡の一部を掴んで覗き込む場面を見ると、今でも衝撃を受けるのである。
肉眼では、ほんの小さな1点に見えるものが、天体望遠鏡で補足できる面積なのだ。
ほとんどは子供向きだが、映画やアニメで、UFOや隕石を天体望遠鏡で偶然補足し、動いているそれを見続けるといったものもよく見たが、あまりに馬鹿げている。ほとんど止まっていると感じる金星や土星だって、いや、月だって、見ている間に視界から消える。天体望遠鏡の視界はそれほど狭い。月はともかく、いったん視界から外れた星を再び捉えるには、微妙な操作が必要だ。それが、目でも動いていると分かるようなものであれば、継続的な補足は絶対不可能であるし、それが偶然に視界に入る可能性も極めて低いのである。

ただ、このことは、天体望遠鏡だけでなく、少し倍率の高い望遠鏡でも認識できる。
多くの方が、初めて良い望遠鏡や双眼鏡(例のコイン式のも含め)を覗いた時、以外にがっかりしたのではないだろうか?その理由は、さしたる倍率でないということと共に、その視界の狭さと、目標の補足の難しさによってと思う。ただ、多くの人は、自分が何にがっかりしているのかが分からないと思う。
だが、天体望遠鏡で鍛えていた私には、その理由が分析できた。
何より、ものごと、実際にやってみないと、本当のところは分からないこと、またものごとは、見えない部分があることを嫌というほど実感したのである。
英国あたりでは、これを「プリンの美味い不味いは、食べてみないと分からない」と言うらしい。
私も大好きなのだが、萌えアニメキャラ(笑)に、本物の女の子より先にハマった男の子は問題がある。その後、現実の女の子と付き合うと、ニーチェではないが「人間的な!あまりに人間的な!!」と恐れおののくであろう。まあ、それも面白いかもしれないが、現実の女の子に興味が無くなる可能性も決して低くはない(笑)。
もっとも、ダンテだってそうだったかもしれない。ベアトリーチェという、実際にはロクに知ることもなかった9歳の美少女を生涯愛したのだが、それは現実の女性に愛想が尽きたからかもしれない。だが彼は、ベアトリーチェへの想いを「神曲」という人類の至宝たる一大抒情詩に昇華させた。萌え属性の方々は、是非芸術家を目指されたい(笑)。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (6) | TrackBack (0)

2008.02.10

斎藤一人さん

斎藤一人さんという人をご存知でしょうか?
毎年、高額納税者の上位におり、いわゆる「自分で稼いだ」額では常に日本一と言って良い方かと思います。
書店に行くと、斎藤さんの本が沢山あります。私も、斎藤さんの最初から2冊か3冊位までは熱心に読みました。そして、今はどうか分かりませんが、ある時期から本がおかしくなってきました。
「『ツイてる』と口に出して言えばツキが来る」
「『ツイてる』と千回言えば、ツく人間になる」
とか、金運カードとかを作り出した頃からです。
本人には何か狙いがあるのかもしれませんが、あまり良いこととは思いません。
人間というのは、誰でも幸福になりたいし、そのために成功したいと思っています。そして、自分の人間性や、その人間性が根本原因なのですが、他人との人間関係を変えずに成功したいという幻想を追うものなのです。占いや、潜在意識による成功法則が根強い人気があったり、どう見ても胡散臭い占いオバさんや自称霊能力者が立派に見える(見たがる)のもそのためです。
しかし、実際は、人間性や人間関係を変えずに成功することはありません。
人間性を上げたり、人間関係を良くするとは、早い話が、譲り合いではなく、一方的に譲ることです。それも、特定の人にそうするなら、むしろ、人類全員にそうしない方が絶対に良いのです。
一方的に譲るとは、例えば、道を歩いている時、向こうから人が来て、しかも同じコースを取っていたなら、お互いがそのまま進むには、「両方が道を譲る」「こちらが道を譲る」「相手が道を譲る」の3通りしかありません。お互いが道を譲り合うのは気持ち良いものかもしれません。
昔であれば、道を譲らないのは若者の特徴でしたが、今は老人と言えるような人でも決して自分は譲らない人が多くなってきました。私は通勤時、近くの中学校の教師とよくすれ違いますが、彼らは決して道を譲りません。また、少々避けたくらいでは、無意識的かもしれませんが、むしろこっち側に寄って来て、こちらは更に大きく譲らないといけません。中年過ぎの教師ももちろんそうです。
エマーソンの本などを読むと理解できるのですが、こんな時は絶対に譲った方が身のためです。譲った方が支配力を得ます。譲らせた方は力を失くし、貧相になっていきます。それはあまりにあからさまです。
相手が子供の時は、歩く速度を落とし、譲りやすいようにしてあげます。相手に力をあげるためです。そのためには、こちらは少々力を失くしても良いのです。

話が斎藤さんから少し離れましたが、譲れない人間が「ツイてる」なんて何千万回言ってもツくことはありません。それを知らずに、「ツイてる」って必死で念仏している滑稽な人も多いかもしれません。
斎藤一人さんの本なら、一番最初の「変な人が書いた成功法則」(講談社+α文庫)だけで十分です。この本の帯には「斎藤一人が最初に全てを書いた本!!」と書いてあります。全て書いたのですから、2冊目は要りません。いえ、実は、この本ですら、最初の方だけ読めば十分です。後の方に行くと、もはや喋りすぎです。それだけ、最初に素晴らしいことが書いてあるとも言えるのですが。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (4) | TrackBack (0)

2008.02.09

勇気と英知の言葉

パイオニア(先駆者)達は、感動的な言葉を残すことが多いし、そうあるべきであろう。
もっとも、その言葉が正確に伝わることも少ない。特に昔であれば。

1961年4月、ボストーク1号で人類初の宇宙飛行を行った旧ソ連のユーリィ・ガガーリン大尉(飛行中に、彼は少佐に昇進)の有名な言葉「地球は青かった」は、何の変哲もない「そのまま」の表現ではあるが、とにかく誰も見たことのないものを確かに、そして、恐らくは感動と共に見たのであり、歴史的な言葉に値する。
もっとも、これはガガーリンの正確な言葉ではなく、実際はもっと詩的で高尚な言葉であった。それはWikipediaによると、「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」であるらしい。私なら、圧倒的にこちらの表現が好みなのだが。
ガガーリンは、それから約7年後、操縦していたミグ戦闘機が墜落して死亡する。

同じく、旧ソ連の人類初の女性宇宙飛行士、ワレンチナ・テレシコワの、「私はカモメ」も有名だ。日本でも、小学校の教科書にも採用されたこともあり、よく知られているが、よく考えれば妙な言葉である。「カモメ」とは、単にテレシコワの個人識別用のコールサインであった。
実はこの言葉は、通信機器のトラブルで地上との交信ができなくなったテレシコワが、パニックを起して「こちらはカモメ、応答願います」と不特定の通信チャネルで喚きまくったものを、多くの世界中のアマチュア無線で受信され、何か分からないが、素晴らしいメッセージだと誤解されただけのものであるらしい。
尚、テレシコワは現在も健在である。

宇宙開発で旧ソ連に遅れを取った米国は、ガガーリンの有人宇宙飛行成功の翌月である1961年5月、ケネディ大統領が、60年代中に人類を月に送る(そして、安全に帰還させる)計画を発表する。
そして、期限切れ間際の1969年7月、月の「静かの海」に降り立ったニール・アームストロングの
"That's one small step for man, one giant leap for mankind."
「人間には小さな一歩だが、人類にとっての大きな飛躍」
という、どうも訳の分からない(笑)言葉は、彼の実際の通信記録として世界中に知られた。これは、アメリカの見事な演出と思う。
アームストロングも、現在も健在である。
尚、アームストロングが月面から離陸するちょうどその頃、ソ連の無人月面探査機ルナ15号は月面に墜落している。

さて、次は、アメリカのアーレス宇宙船により火星に到達した人間が、どのような言葉を発するのか、実に楽しみである。

「そこに最初に立つ者が口にする言葉は長く歴史に刻まれることでしょう・・・
それはロボットではなく、人間の勇気と知性からこぼれる感動の言葉であるべきではありませんか?大統領閣下」
~「8マンインフィニティ」(講談社)第5巻。谷博士のケネディ大統領への言葉~

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.08

宇宙旅行の夢

ライブドア前社長の平松庚三氏が、来年、宇宙飛行を行うことが確実らしい。
費用は約2100万円。数年前、ロシアの宇宙船で民間人として初の宇宙飛行をした南アフリカの富豪は約2000万ドル(20数億円)であったのに比べ、実にリーズナブル(?)になったものである。尚、将来は、数百万円まで値下がりする可能性もあるらしい。そうなれば、是非、私も参加したいものである。体力などはおそらく問題はないと思うので、訓練は大丈夫である。
これは当分は難しいとは思うが、出来れば月に行きたいものである。地球とは異なる天体の上に立つというのは、実にエキサイティングな体験であるはずだ。
とはいえ、宇宙空間に出るだけでも価値がある。音速の数倍の速さで飛行し、青い地球を見下ろすことは、精神の覚醒を起させるに違いない。
2000万円なら、今の時代、何とでもなる。早速申し込もうとか考えている今日この頃である(笑)。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2008.02.07

マハリシ・マヘーシュ・ヨーギ死す

昨日(6日)、「インドの聖者」マハリシ・マヘーシュ・ヨーギが亡くなったらしい。
「マハリシ」というのは、インドでは聖者に対する一般的な尊称で、他にも沢山いる。また、「ヨーギ」は、ヨガ行者のことと思うので、彼の名でユニークな部分はマヘーシュだけのように思う。
以下、「マハリシ」は「マハリシ・マヘーシュ・ヨーギ」を指す。
マハリシについて、ニュースでは「ビートルズの瞑想指導家」と紹介されていたが、これは、たまたまビートルズの4人に瞑想を指導したということであり、マハリシの組織は現在はオランダに国際本部を置き、世界百カ国以上に、学校、大学、大学院、研究所、病院、健康センター等を有する巨大なものである。
日本では、マハリシ総合研究所が拠点であるが、これは株式会社である。国内に20以上のセンターやオフィスがある。

マハリシが指導する瞑想の中心的なものはTM(超越瞑想)として知られており、世界中で500万人以上にこれを伝授したと言う。日本でも、マハリシ総合研究所の各センターで指導を受けられる。費用は約28万円である(子供は若干安い)。尚、十数年前なら10万円程度であり、更に昔であれば数万円であったはずである。
TMの説明会に行くと、著名人がこれを実践していることを教えられる。元プロレスラーの前田日明氏や、アントニオ猪木氏もTM実践者と聞く(現在も実践しているかは不明であるが)。
船井総研の船井幸雄氏の著書によると、マハリシが日本でTMを普及させるにあたり、船井総研にマーケティングを依頼したらしく、船井幸雄氏もTM(およびその上級プログラム)を実践し、さらに、彼が多くの経営者に薦めたようでもある。今なら、船井絡みと聞いたら私は絶対にやらないのであるが(笑)。

現在ではすっかり廃れた感もあるが、パソコン用表計算ソフト「ロータス1-2-3」の開発で有名だったロータス社のかつての社長はTM教師でもあったらしい。
上にも書いた通り、ビートルズの4人もTMの指導を受けたが、彼らはマハリシを見限ったと以前テレビで見た。記憶では、マハリシが信者の女性にセクハラを行い、ジョンらはマハリシを「俗物」と切って捨てていた。ただ、一方、90年代に、リンゴが、マハリシに教わったTMは現在でも行っていると言ったとも言われる。

TMは実践者500万人と、かなり成功しており、マハリシの信者も多い反面、カルトと非難されることも少なくは無い。マハリシの主張を「似非(えせ)科学」と批判する科学者もおり、その著作は書店で入手できる。
TMの宣伝では、ハーバード大で肯定的な実験結果が出ているとするものもあり、研究者名や実験結果資料を明らかにしていることで、これを信用する人もいるかもしれないが、ハーバードにだって変な研究者の1名や2名(10名や20名?)は絶対にいる。あまりこういった宣伝は信じない方が良い。
また、「TMの1%効果」とか言って、ある地区でのTM実践者が1%を超えると、事故や犯罪が減るとか主張し、その統計資料とやらを出すのであるが、それらはどうみても納得できるようなシロモノではないと私は思う。こういった主張自体がいかにもカルト宗教と感じるのであるがどうであろう。

いろいろ書いたが、実は私自身、TM伝授を受け、少なくとも1年間は指導通り、真面目に実践していたのだ。
TMを実践すれば、健康になり、精神性は向上し、能力アップし、願望が叶い、仕事も交友関係も良くなり出世する(笑)ことを期待させる宣伝がなされていると思う。TM教師の書いたある本では、大会社の社長になるとかスターになることすら可能とほのめかしていた。
結果として、TMのおかげで何か良くなったということは全くないと私は思う。もちろん、経験や勉強により自然に進歩したものは当然あるし、努力に応じた成功もいくらかはあるが、TMとは関係がないと思う。

ただ、TMそのものには決定的な害はない。心の中でマントラと呼ばれる短く意味のない言葉を繰り返すだけであるのだから、悪いことが起こるものではない。ただ、TMについて、TM教師に質問しても、曖昧な返事が来るだけであり、時には明らかにお馬鹿な返答も聞いた。
要するに、中味など何もないのだと思う。そのようなものを根拠なく信じることは、やはり良いことではない。

ところで、マハリシ総合研究所ホームページを見ると、いまだ、マハリシ他界のお知らせがない。主観で言うなら、ロクでもない組織と思う。
とはいえ、TMが良いものであれば、私のこの記事に関係なく、実践する運命にある者は実践すると思う。
私はもうTMは全く行っていない。これからやろうと思う人は、一方的な宣伝や情報のみを取り入れず、よく考えて判断して欲しいと思う。
確かに、船井と聞くと、全部デタラメと思う私に偏りがないとは言わない(笑)。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (4) | TrackBack (0)

2008.02.06

戦いを決するもの

大相撲初場所の千秋楽、白鵬VS朝青龍を見て、思い出した言葉がある。
「戦いは、速さではない。また、火力でもない・・・」
朝青龍は、完全には相撲勘は戻っていなかったと思うし、スタミナも普段通りではなかったと思う。しかし、やはり白鵬が勝つ状況にあったかもしれない(結果論とも言う^^;)。

上記の言葉の続きはこうだ。
「勝利するのは、自ら状況を生み出す者。より強い意思を持つ者だ」
この言葉は、漫画「8マンインフィニティ」第5巻で、ケン・ヴァレリーが言った言葉だ。
(ケン・ヴァレリーは、8マンを作った谷博士の息子であるケン・谷の記憶を移植したマシナリー(スーパーアンドロイド)である。ケンは昔、ゴール博士によってスーパーロボットのボディにその脳を移植したサイボーグになったが、8マンと決闘して死んだ。)

似た言葉として、名前は忘れたが、PCサーバのネットワークOSであるNetWare(ネットウェア)で覇権を握っていた頃の米国ノベル社の社長のこんな言葉を私は憶えている。
「流れに取り残されれば死ぬ。流れにのれば生き延びる。流れを作り出せば勝てる」
ノベルはその後、流れに取り残された感もあるのだが・・・。

人間は自分で奇跡を起せるわけではない。しかし、奇跡を生み出す状況は作れるのだ。そうすれば。結果として、思うがままに楽々と奇跡を起せる。そのためには、ただ落ち着けば良い。不動の心を持ち、無為自然で無欲であれば良い。この状況を昔から、中国では「道(タオ)と一体になる」と言い、西洋では主に「神の摂理に従う」といった言い方をした。
尤も、落ち着くことこそ難しい。人の心はさ迷い落ち着かないのが本性だからだ。その原因は欲望と恐怖である。よって、この2つを制すれば無敵であるのだ。
瞑想なども、本来は、心を静寂にし、神の摂理に従うためにある。ところが、お馬鹿な成成功宗教の教祖は、「瞑想の中で望むものをイメージせよ」という、およそ自殺的なことを教える。せっかくの心を鎮めるための瞑想で欲望を喚起すれば、たちまちにして心は揺れ動き神の摂理から遠ざかるのである。結果として、望みは全く叶わないか、叶うことでより不幸になるのである。
落ち着くためには、衝動的に反応しないことを学ばねばならない。小泉純一郎が流行らせた「鈍感力」も単にこのことを言っている。物事に無闇に反応する者は決して勝てない。なぜなら、危険な状況で、当てずっぽうに鉄砲を撃つようなものだからだ。危険な時ほど落ち着いてよく狙わないといけない。いや、危険な時ほどよく当たるものなのだ。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2008.02.05

デッサンの狂いこそが芸術である

よく「デッサンが狂っている」というが、それが即ち下手な絵の代表のようにされていると思われる。
画家を目指すような人は、デッサンが狂わないよう練習をし、またテクニックを習得するのだと思う。
ところで、「デッサンが狂う」とはどういう意味だろう?写実でないという意味と思うが、デッサンの狂い方には、その人の特徴があるように思う。そして、その特徴を消し、デッサンが狂わない絵を描くよう矯正することを残念に思うこともある。
絵の種類にもよるのであるが、デッサンなんて狂っていて良いと思う。いや、デッサンの狂い方の中に精神性が表現され、それこそが芸術ではないかと思うこともある。
有名な画家の中にも、正統な絵の訓練を受けていない人もよくいる。例えば、竹久夢二がそうで、彼は画家として有名になってから美術学校で学ぼうとしたが、ある著名な画家が、「美術学校で学ぶと君の絵は駄目になる」と言って止めたそうである。竹久夢二の絵は、言ってみればデッサンは狂っていると思う。しかし、あの味、叙情性は独特であり、彼の自然の性質そのものを表現しているように思う。本当に、彼は美術学校に行かなくて良かったと思う。
ピカソはエリート美術学校でも超優等生であり、その気になればスーパーリアルな絵が描けるのであるが、「毎年、下手に描くようになることで救われている」と言っていたらしい。確かに、特に晩年のエロチカ347、さらに156シリーズでは、そのほとんどがデッサンどころではない、子供のラクガキで、「ピカソ老いたり」の評もあるが、「これらこそ至高の芸術」と言う者も多い。池田満寿夫もそうで、著書で347や156を熱く語っており、自らも収集に励んでいたらしい。
ピカソは下手に描けるようになることで、ピカソそのものを自然に表現できたのではないかと思う。

もちろん、例えば、女性の胸を通常より強調して描くようなピークシフト画法も絵画表現である。これを極端にしたものが、漫画の大きな目や、少女漫画でよく見られる、点だけの鼻や極端に小さな口なのだが、これらはあくまで美的に見せるための手法であり、実際、不思議なことに実に美しく感じることが多い。
漫画といえば、ある時期は、ほぼ全ての漫画家が手塚治虫の絵柄を真似ていたらしい。その手塚治虫の絵もまた、特に人物画はあきらかにデッサンが狂っているというか、デフォルメされている。ある時期から、それぞれの漫画家が独自の画法を取り入れ、桑田次郎は正式にデッサンの訓練をしたようで、実にバランスの良い人体を描くようになり、彼の絵を好むファンが増えたようだ。(桑田次郎は、この絵柄のために「8マン」の作者に選ばれたようだ)
では、デッサンの狂った手塚治虫の絵が悪いかといえば、そうも思えない。
手塚治虫といえば、子供向けの作品も当然多いのであるが、青年向けはもちろんであるが、特に幼児向けでもなければ、女性のヌードは大変に多いし、性描写に関してもかなりのものがあった。ただ、永井豪が描くと問題になっても、手塚治虫だとそれほど叩かれなかったのは、手塚治虫が医者であるというよりも、彼の絵のデッサンの狂い具合が幸いしたと思えてならない。永井豪の絵も、女性らしさは特に強調されたピークシフトであり、彼自身は「僕の絵柄が一番手塚先生に近い」と主張しているが、永井豪の絵にはまだどこかリアリティがあるように思う。
しかし、では、手塚治虫の女性ヌードがエロチックでないかというと、全くそうではなく、むしろデッサンのしっかりとした絵より余程色っぽいかもしれない。特に、日本人の好みには合っていたと言えるのではないかと思う。また、さりげなく描かれた少女の愛らしさは驚くべきものと感じることがある。
手塚治虫は、実際にはかなり複雑な人間性なのではと思う。彼のデフォルメされた絵には、絵の表面やストーリーに現れない、特別な(あるいは歪んだ)嗜好や情念を感じるのである。
ただ、手塚治虫は、画家のように1枚の絵の中に自己の世界を深く表現することはやらなかったと思う。あくまで漫画家であった。コマの展開の中で動きやリズムを表現することが大切であった。そして、速く描けなければならない。彼は晩年、「アイディアはバーゲンするほどあるのに、腕がついていかなくなった」と嘆いていたが、それは1枚に全精力を傾ける画家ではなく、速く沢山描く漫画家の宿命と思う。

私のような絵の素人は、絵の先生に習ったり、まともなテキストを読んだりせず、デッサンの狂いを楽しんではどうかと思う。それは実に面白く有意義だ。
別にわざとデッサンの狂った絵を描くつもりはない。また、描いた直後はそれなりにバランスが取れていると思うのだが、1ヶ月も後に見ると、その歪みに驚くのである。それは、必ずしも悪い意味ではないかもしれないが、その時の精神の歪みや特徴を現している。
子供の絵で精神分析をするような方もいるらしいが、やはり絵のデフォルメ具合を見る場合も多いと思う。そして、その歪みを無理に矯正することが良いこととはとても思えない。
子供に絵の勉強をさせる時は、よくよく注意しないといけないと思う。
自分の絵の歪みは、自分の精神を反映している。それはすなわち、自己を知るのに役に立つ。それは別に精神分析学的でなくても、あるいは美術的でなくても構わない。何か感じるところがあればそれで良いのである。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.04

儲かる人、モテる人

政木和三さんが生きておられた時、「欲を捨てれば思いのままだ」と何度も言われたものでしたが、まさにその通りと思うようになりました。
ただし、「欲を捨てたように装って」もダメです。誤魔化しは効きません。
実際、株でも、欲の深い人は儲かりません。「損をしてもいい」とか「損をすることもあって当たり前」と思っている人が儲けます。
男性で、欲望ギラギラの人は女性にモテません。最近は、欲望ギラギラの女性が多くなってきたように思いますが、このような女性は金目当てでもなければ男性から相手にされません。
政木さんは言われていました。
「私はね、お金なんて全然欲しくないのです。でも、うちの社長はもっと無欲でしてね。私の発明の特許料を全部私の口座に入れてしまう。だから、私は毎年1億納税してるんです。でも、社長の年収は70億以上ですよ」
「私は女性にモテたいなんて全然思っていません。でも、私に身を任せる女性は常時百人以上いると思ってますからそうなってしまうのですが」
これらの言葉から悟って、気楽に落ち着けば、きっと上手くいくでしょう。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.03

「~たん」は愛情の印?

アイドルの中川翔子さんはファンを中心に「しょこたん」と呼称されている。
翔子をしょこと略するのはともかく、「たん」は「ちゃん」の幼児語である。幼児には「ちゃん」は発音しにくく、「たん」と発音する場合が多いので、大人もこれにあわせて「舞たん」とか呼ぶのであるが、最近はアニメの萌えキャラなどでよく使用される。
「たん」が幼児語であることから、相手に対し「たん」付けで呼ぶことで、相手を可愛いと思っていることを表明したり、呼ばれた方としては、「甘えていい」という許可と取れることから、好意を持った者同士では良いコミュニケーションとなる場合もある。
昔、「けろっこデメタン」というアニメがあり、デメタンそのものが名前なのであるが、これは特に幼児に親近感や愛着を持たせる狙いであったと思われる。尚。このアニメでは、ヒロインの名前がラナタンであった。
また、今でも人気の高い宮崎駿監督のテレビアニメ「未来少年コナン」では、中年の船長ダイスが、ヒロインのラナ(12歳位)をしばしば「ラナたん」と呼んでいたのは、ダイスのラナに対する愛情を感じさせた。
現在の人気アニメ「灼眼のシャナ」では、「灼眼のシャナたん」や敵であるが人気ロリキャラである「頂の座(くら)」ヘカテーを主役にした「頂のヘカテーたん」というパロディーアニメを製作しているが、オタク層が、好きなアニメキャラ等を「たん」付けで呼ぶのは一般的と思われる。
ただ、現実的には、恋人同士でもない限り、幼児でもない相手をたん付けで呼ぶことは避けるべきであろう。特に女性にとって、好意を持っている相手以外(多くの場合は好意を持っている相手ですら)からたん付けで呼ばれることは、ちゃん付けよりはるかに深刻な暴力とされても仕方がないと思える。
ただ、女性の方も、たん付けで呼ばれても構わない相手がいたとしても、それをするのはあくまで2人きりの時に限定すべきであろう。権利を主張する女性にも、こういったことも認識する必要があるのである。言うまでもなく、恋人である男性の方も注意すべきであろう。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.02

ザ・社長

009_3
「サイボーグ009 モノクロDVD BOX」を思わず購入(笑)。
5枚のDVDに全26話が入っている。
既に2001年版「サイボーグ009」DVDは全巻購入済みである(笑)。

この写真は、Disc.1とDisc.2を収めたパッケージであるが、知らない人なら「この赤ん坊、あんた達の子かね?」と思いかねない(笑)。しかも、この2人、中学生くらいにしか見えない。設定では、009(向かって右側。本名は島村ジョー)は18歳、003(左側。本名はフランソワーズ・アルヌール)は16歳である。
まあ、この2人、実際に子作りをすることにはなる(笑)。

この作品は1967年のもので、現在の進歩した製作技術で作られたアニメとは、特に映像的には比べようもないし、さらに当時は製作費用が非常に安かったと聞く。しかし、その中で素晴らしい創意工夫が為されてあり、今見ても十分に面白い。

この第12話「天かける巨人」で、モリス社長率いるモリス航空が、技師長ルネの設計・製作した超大型ジェット機ターレスを開発したが、テスト飛行で失敗してしまう。
しかし、彼らは2号機を製作する。その試験飛行の際、モリス社長は言う。
「成功したらルネの手柄!失敗したら私の責任だ」
私は感激のあまり涙を流した(マジか)。
これこそ、社長、上司である。脚本を書いたのは、有名な脚本家の辻真先氏だ。
ただ、ルネは「ヨーロッパの神話からヒントを得てターレスと名付けた」と言ったが、それなら「アーレス」ではないかと思う。ターレスは有名な哲学者で、「ターレスの定理」で知られる数学者でもある。最近、アメリカでは火星ロケットにアーレスと名付けているが、アーレスは戦いの神であり、火星のことでもある。マルス、マーズとも言う。

それはともかく、社長とは何かを教えてもらったような気持ちである。
あまりに作為的、つまり、わざとらしいものはいけないが、このような良いものの考え方はアニメにもあって良いと思う。
以前見た、アメリカのアニメでは、やはり社長が「社長は、いざという時に活躍するから高収入を得ているのだ」と言っていた。これも良い。
私が知っている社長は、「会社から給料を貰っているのは皆と同じだが、何かあった時の責任は私が取るのだ」と言う。そして、特にITベンチャーなどの社長が主張する実力主義には釘を刺し、「あいつらのは逃げだ。社長は社員の生活を保障して当然」と言う。
社長になる器というのは、そう誰にでもあるものではなさそうだ。
ちなみに、夜のお店の呼び込みでは、誰にでも「社長さん!寄って行きませんか!」と言う場合が多い(笑)。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2008.02.01

夜9時に寝る生活に憧れる

2004年に亡くなられた元東大教授、同名誉教授で、科学雑誌「Newton」の初代編集長の竹内均さんという理学博士の方がいた。
第一級の地球物理学者であるが、科学啓蒙家としても力を尽くした。高校生用の物理学の学習書は非常に評判が良かった。東大を定年退職してからは「Newton」誌を創刊し、一般の人に科学を分かりやすく教えた。
ところで、私は以前、竹内さんの本を読んで印象的だったのは、その徹底した生真面目さだ。朝6時に起き、毎日同じ早い時間に大学に入り、決まった時間に昼食を取り、決まった時間に帰る。それをずっと続けた。学生デモが研究室を占拠に来た時、既に竹内さんは出勤しており、学生達に「来るのが遅い。どうせやるなら真面目にやれ」と説教したらしい。
真面目は実は良いものだと思った。
ところで、竹内さん、就寝時刻は午後9時と決まっていた。当然、夜の付き合いは一切しない。

話は変わるが、1967年に始まったアニメ「サイボーグ009」で、夜9時30分の場面があるのだが、ヒーローの009ことジョーは既にベッドで眠っていた。特に疲れていたのではなく、その時間はもう眠っているのが習慣のようだった。
当時は、子供は夜の8時か、遅くとも9時に寝るものであり、ジョーは率先してそのお手本になっていたのだと思う(ジョー自身は18歳らしい)。これでは一緒に住んでいる16歳のフランス人の美少女フランソワーズ(003)に手を出しているヒマもないだろうが、当時の健全なアニメでは、そんな気配自体が全くない。(フランソワと住んでいると言っても2人きりではなく、ギルモア博士や006、007も一緒に大きな研究所を兼ねる邸宅に住んでいた)。

実は、私は夜9時に就寝できる生活に憧れている。
今は、帰宅そのものが9時を過ぎ、特に最近は10時を過ぎる。いくらがんばっても0時に寝るのがせいぜいである。優雅なお金持ちになり、夜の9時から心静かに眠りたいものである。

↓よろしければいずれか(できれば両方)クリック願います。人気投票です。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

« January 2008 | Main | March 2008 »