「フランダースの犬」考
ご存知の方も多いと思うが、日本人を号泣の渦に巻き込んだ「フランダースの犬」は、海外では全く評価されず、単に「負け犬の死」と見られるようでもある。
この小説は、英国人作家のウィーダが書いたが、舞台はベルギーである。ベルギー人もまた、「我々は、このような不幸な少年を見捨てる国民ではない」と反発しているらしい。
日本人がなぜ「フランダースの犬」をかように評価し感動するのかは、海外では謎であるが、そこには日本人の崇高な滅びの美学があると分析する向きもあるようである。
外国の方に馬鹿げた分析をされても仕方がないので、空海の知恵を持つと言われる私が(誰も言ってないが)分析しよう。
確かに、物語には不審な点や矛盾が見られる。
画家の天分を持ち、自らも画家になることを希望するネロは15歳である。赤ん坊の時、ネロを引き取ったおじいさんは、その時ですら80歳であったのだから、物語では90歳をとおに超え、実際、終盤では寝たきり状態から死を迎える。
ネロとおじいさんの生活は、牛乳を荷車で町に運ぶことで得られるささやかな手間賃で賄っており、当然、2人は貧しかった。
しかし、老人の仕事としては致し方ないとして、15にもなるネロは、なぜもっとマシな仕事をしなかったのだろう?当時では、子供も10歳にもなれば働いてそれなりの賃金を稼ぐのが普通であったはずだ。
アロアの父親コゼットは、ネロが気に入らなかったが、これは当然のことである。
物語の中で13歳になるとびきりの美少女で、一人娘であるアロアが2つも年上の男と仲良くしているのだから、コゼットの懸念も全く無理からぬことである。
余談であるが、そもそも、ネロはアロアに手を出していなかったのか?(笑)
「ロミオとジュリエット」のロミオを演じた英国の名優に、こんなインタビューがされたことがある。「ロミオはジュリエットに手を出していたのでしょうか?」彼の答えは「ロミオのことは存ぜぬが・・・私ならそうするであろう」。
かつての米国の人気テレビドラマ「大草原の小さな家」で、インガルス家の長女である金髪の美少女メアリー(12歳位と思う)に、やはり15歳の男の子が熱を上げたことがあり、父親のチャールズは当然、不快感をあらわにするが、母親のキャロラインはいたって呑気であった。チャールズはそんな妻に苛立ち、「男の15歳ってどんな年頃か分っているのか?」と詰め寄るが、妻は、「さあ、分らないワ。経験ないし」と軽く流す。
ここらへんは、確かに母親の方が落ち着いている場合が多い(こういったことは、そう簡単に男の子の思惑通りにならないことを知っているので)が、父親とは哀れなものである。
しかし、そう考えると、むしろコゼットのネロの扱いは紳士的であったと思う。
ネロがアロアの絵を描いたことがあった。それを知ったコゼットは一喝するつもりが、絵がみごとだったので思いとどまったばかりか、決して安くない額でその絵を購入することを申し出る。だが、ネロはお金の受け取りを辞退し、無料で提供した。
ネロは、自分のためだけでなく、おじいさんのためにもお金を受け取るべきだったかもしれない。しかし、愛するアロアの絵をお金に換えることに抵抗を感じることも認めよう。だが、それなら、ネロは、「そのかわり、仕事を紹介していただけませんでしょうか」とコゼットに頼むべきであった。ネロの年なら、その位は考えるべきであるし、コゼットとて、この状況では多少の手間をネロのために割いたとして不思議はない。
むしろ、コゼットがネロに対して反感を持っていたのは、このような頼みごとをしないネロの気位の高さではないかと思うくらいである。
心の奥では、コゼットもネロが好きだったに違いない。確かにネロが死んだ後ではあったが、コゼットは「ネロは私の息子になるはずだった」と、ネロとアロアがお似合いであることを認めていたのだ。
ネロは志は高かったと思うし、最後まで誰も恨まずに死んだという高貴な魂の持ち主と言えるとも思う(別にアロアに手を出していても構わないが^^;)。
しかし、時代と場所を問わず、画家で身を立てるのは難しい。ましてや、いかに素質があったとしても、貧しく、何も持たない身であれば尚更である。ネロは何十年かかるか分らない画家としての確固とした立場を獲得するまでの生活手段を考えるべきであった。
20年以上前に、トップアイドルでありながら18歳で自殺した岡田有希子さんという歌手がいたが、彼女は元々が画家志望で、実際、かなりの作品を描いていた。しかし、画家で身を立てることが難しいことを認識した彼女は芸能界を目指したと聞く。これに比べれば、なんとネロの頼りないことか。
考えてみれば、「フランダースの犬」が日本で人気があるのは、単に日本人の同情心の強さのせいかもしれない。つまり「かわいそう!」と言うわけだ。
そして、世間的駆け引きを一切しないネロに「潔さ」を感じたのかもしれない。どうも日本人は、商取引を汚いものと考える傾向があり、お金で解決することを「手を汚す」と表現するくらいである。邱永漢氏は、著書で「地元で商売をするな」と書いていたことがあった。その理由は、「商売とはある程度破廉恥なものであり、とても地元ではできない」などとしていた。なるほどと思う。
だが、日本人の同情心も今では歪んでいる。現在、「フランダースの犬」を見て泣く日本人の多くは、ネロを哀れむ自分に酔っているのである。
ネロと同じではないが、寒さの中で一人死んでいった(ネロにはパトラッシュがいたが)お話には、アンデルセンの「マッチ売りの少女」がある。
だが、ネロもマッチ売りの少女も、微笑を浮かべて死んでいた。
アンデルセンは、マッチ売りの少女が最後に見た美しいものを誰も知らないことを、なぜか必死に強調していたと思う。
ネロもマッチ売りの少女も、最後は死が守ってくれたのだ。もし、このことによって作品を評価しているなら、日本人の特別な哲学がこれらの作品に輝きを与えていると言えるのであるが。
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Comments
素晴らしい分析でしたよ!
その通りだと思います
ワカイコスキーさん(笑
でも海外で評価されなかった事には、驚きました
今夜のセミナーにWで・・・
Posted by: ヒデピョ~ン。。 | 2008.01.12 01:31 AM
真面目に書いているようで、かなり妄想が入りました。ワカイコスキー・チョイワルビッチですから(笑)。
ではまた、ジュクジョスキー・エロエロビッチ殿!
Posted by: Kay | 2008.01.12 11:15 PM