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2007.11.30

Amazonがおかしい

私はよくAmazonを利用するのであるが、Amazonのシステムにはちょっと困った問題もあるようだ。
参考になれば良いと思う。

以下のような商品を注文した場合におかしなことが起こる。
○在庫はないが注文を受け付けている
○予約注文

●在庫はないが注文を受け付けているものをオーダーした時の例
「通常6~7日で発送」とある商品を注文した。
10日くらい経っても発送にならなかったが、「アカウントサービス」で発送時期を確認すると、納期が2ヶ月になっていた。同時に、納品予定遅れを知らせるメールが届く。
しばらく放置していたが、何の気なく商品ページを確認したら、「在庫あり」となっていた。しかし、私のアカウントサービスでは、相変わらず「納期2ヶ月」であった。
※対策
このような場合は、いったんキャンセルして再度オーダーすると、在庫がある場合は大抵24時間以内に発送される。
在庫はないが注文を受け付けている商品の場合は、最近はこのケースがほとんどと思う。

●予約商品の注文をした時の例
商品を予約注文した。発売日が過ぎたので、アカウントサービスを確認したが、発送、および発送予定とならなかった。
商品ページでは「在庫あり」となっている。
放置したが、1週間経っても発送されなかった。
※対策
この場合も、いったんキャンセルして再オーダーすればすぐに発送される。予約の意味がないように思える。
予約注文の全てがこうではないが、最近の予約注文2件はいずれもそうで、今後は増えるかもしれない。予約注文の利用を控えようと思った。


これらの問題は、Amazonのシステムと業務のミスマッチと思える。
最近、急に多くなったとすれば、Amazonの業務形態に変化があったが、システムがその形態に合っていないのであろう。
あるいは、ちょっとしたシステムの変更を行ったところ、早い注文より、新しい注文が先に出てきてしまうようになったのかもしれない。
ただ、この問題を修正するのは容易ではない。
Amazonは、毎日凄い数の注文が途絶えることなく入るのであるから、システムを修正したとしても、修正されたシステムに切り替えるタイミングが大変に難しいのは間違いがない。切替時に、いくらかの時間、システムを停止させることが必要になる可能性があるが、それは難しいはずだ。
さらに、システムの切替が実施されたとして、そのシステムが正しく動作するか、また、その切替による影響がどのようなものであるかは、やってみないことには分らない部分もあり、やってみたら、大変な不都合が起こり、大トラブルに発展する可能性もある。
システムは実稼動させる前に試験稼動をするのであるが、Amazonの本番システムのような大規模な環境で試験ができるわけではなく、データ量や注文数が本番と比べごくわずかな実験システムで検証をするしかないが、データや処理量がそれほど大きく異なれば、やはり本番では不測の事態が起こっても不思議はない。
つまり、システムの切替なんて恐くてなかなかできないのである。
私なら絶対にやりたくない(笑)。
よって、当分同じような状態が続くのではないかと思う。
予約注文の場合は、ためらわずキャンセルを活用しよう。本来は、キャンセルはAmazonに迷惑をかけるという心苦しさもあるが、いつもまでも商品が手に入らないのでは仕方がないかもしれない。
Amazonさん、何かメッセージを・・・

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2007.11.29

損を選び、不安に飛び込め

生命の充実、生き甲斐の根本原因とは、意識が目覚めていることなのだ。意識が目覚めていなければ、どれほどのものを得ようと幸福感はない。
しかし、どんな状態を意識が目覚めているかとするのは意外に難しい。
ビジネスや戦争に邁進している状態は、意識が眠り込んだ状態である場合が多い。これらのビジネスや戦闘は悲惨な結果を生むことになる(戦闘は悲惨な結果しか生まないが、より悲惨ということである)。
では、意識が目覚めている状態と眠り込んでいる状態を区別するため、1つの話を取上げる。
やや昔のアメリカあたりの話である。ある一家が、盗賊に襲われ、皆殺しにされた。家族全員、両腕を縛られ、足をロープで吊るされて木の上から地面に頭から落として殺すという残酷な殺し方であった。だが、一人の男の子が奇跡的に生き延びた。彼は大きな勇気を持ち、復讐を目指した。しかし、彼はある時、より大きな勇気を持って盗賊達を赦したのだ。彼が復讐に取り付かれていた時が、意識が眠り込んだ状態であり、赦した時が意識が目覚めた時である。

W.B.イェイツは、ドストエフスキーなどと同じように、意識の高度な覚醒状態というものがあることに気付いた。夏目漱石なども、そのようなことがあることを言ったようである。
ロマン・ロランが大洋感情と名付け、心理学者のマスローが至高体験と呼んだものも、同じか同種のものであるかもしれない。
イェイツは、それがどのような時に起こるかは明確には分からなかったが、「恨むのをやめた時に起こりやすい」と洞察した。まことに優れた洞察である。
「憎む」「断罪する」「欲しがる」「嫌う」「得をしたい」「見下す」「安心する」といったことが精神を眠らせる代表的なものであるのだ。
基本的には、この逆が精神を覚醒させるものであるが、「憎む」の反対の「愛する」には注意がいる。愛するという感情ほど誤解されやすいものはなく、「彼を愛する」という場合、実際には、それにまつわる幻想を愛しているだけである場合が圧倒的である。よって、「愛している」と言ったほとんどの場合、意識は眠り込んだままだ。
「欲しがる」の反対の「与えたがる」も、与えることで得られるものの幻想を愛する場合は逆に意識を眠らせる。
これらの中では、「得をしたい」の反対の「敢えて損をする」や、「安心する」の反対の、「敢えて不安な道を選ぶ」は目的に叶う。ダスキンの社訓が「得な道と損な道があれば、迷わず損な道を選ぶ」というのはなかなかのものであるが、その精神がどこまで生かされるかは不明だ。
欲望の放棄は、意識の覚醒に有効だ。実際には、意識が覚醒すると力や幸運を呼ぶものであり、多くの願いは諦めた時に叶うものである。だが、もちろん、それを前提にしての諦めるでは意味はない。

学校教育は悲惨なまでに意識を眠らせる。
また、大手企業のテレビCMやカタログ宣伝もそうである。
日本の学校教育は、アメリカで国家と大企業の結託で作られたものであるが、意識が眠った人間こそ、国家や大企業にとって都合が良いことは間違いがないのであるから当然のことである。
また、人気テレビ番組もそうである。意識が眠り込むことは悲惨なのであるが、おかしなことに人間は眠りたがるのである。このことを心得ていないと、人気番組は作れない。
芸術やスポーツで、「意識が目覚める素晴らしさ」とか言う時は、逆に意識を眠らせると言って間違いない。小説、映画も同様だ。ここで言う「意識が目覚める」とは、感動を指していると思う。感動こそ、意識を眠らせる代表格である。ちょっと意識が目覚めていれば、感動の裏側は嘘だらけであることが分かると思う。

憎むのをやめ、赦し、諦め、損を敢えて選び、不安の中に飛び込むことで意識を覚醒させるのは素晴らしいことである。それでこそ、真の幸福を掴むであろう。

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2007.11.28

心が傷付いた時

あなたは、人に軽く扱われたり、それと同じことなのだが、失礼な態度を取られるとプライドが傷付き、非常に不快に思うかもしれない。
そのような時は、心とはそのようなものだと了解し、ただ、そのあるがままに心を見ることだ。
それをいちいち、フロイト流に精神分析し、心が傷付く理由を探る必要はない。心とはそのようなものなのである。
そして、肝心なことは、心と同化しないことだ。心は放っておくのが最も正しい。
最初は難しくても、心はやがて剥がれ落ちる。そして、心を、正しく単なるツールとして使いこなせるようになるだろう。

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2007.11.27

ブレイクスルー

何かで進歩・上達のために努力している時、毎日順調に進歩するということはあまりない。
ほとんど、あるいは全く向上しないという期間が続いてもたゆまず努力した後、まるで花が一夜で開くように急激に進歩するものである。
これは一人の個人に限らず、人類全体でもそのようであると感じる。
数学上、革命的な理論を考案したヤノーシュ・ボヤイに、同じ研究で一生を棒に振ったような父ウォルフガングがこう言った。
(研究は、2千年以上誰にもできなかったユークリッドの平行線の公理の証明。ヤノーシュは逆に公理を否定する理論を作った)
「早く発表するのだ。偉大な発明・発見とは、春につぼみが一斉に開花するごとく、あちこちで同時に起こるのだから」
数学で言うなら、微積分法はニュートンの発明とされるが、ライプニッツもほぼ同時で、今日使われている微積分記号もライプニッツのものが基になっている。
また、ニュートンといえば、なんといっても万有引力の法則(重力の逆二乗則)が有名であるが、これもフックの法則で知られるフックが先に発見していたらしい。ニュートンはライプニッツやフックと争い、結局は勝っているが、必ずしも正当かどうかは疑問かもしれない。
相対性原理の発見者がアインシュタインだというのは正しいようであるが、後一歩まで来ていた学者というのはやはりいたようだ。
電話機の発明者としてベルは歴史に名を残したが、これもほぼ同時期に電話機を発明した者が他にいたようである。
芸術でいえば、キュービズムはピカソの代名詞のようであるが、ブラックもほぼ同時に完成させていた。

科学上の発明・発見も、ある時不意にアイディアが閃いて完成に漕ぎつける場合が多いようである。
ケクレや湯川秀樹は、夢をヒントにベンゼン環や中間子理論を発見したのであるが、言うまでもなくタナボタというわけではない。
湯川秀樹は、科学上の発明発見は「天の羽衣が来て撫でる」がごとく稀な出来事であると言い、いかに努力したとて成果に必ずしも結びつかないとしたが、天の羽衣が撫でるのも普段の努力あってのことであるのは間違いがない。
このことは、今日では「セレンディピティ」という言葉で表現することがある。セレンディピティの意味はいろいろに言われるが、最も簡単には「偶然に幸運を呼ぶ力」とでもいって良いと思う。しかし、偶然を呼ぶにも努力が必要である。その努力の成果はなかなか出ないし、場合によっては最後まで出ないかもしれない。しかし、それはゼロではない。まるで雪のように積もっているのである・・・というのは、コゲどんぼさんの漫画「ぴたテン」で、私の大好きな紫亜ちゃんの言葉である(笑)。

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2007.11.26

信じられないことだけ信じる

昨年、ヒルマン監督の「信ジラレナ~イ」が流行ったが、偉大な人物と凡人との差は、信じられないことの扱いにある。
「信じることができる」とは「想像できる」ということだ。
凡人は、想像できないことを疑うのだ。
だが、面白いことに、賢者というものは、想像できることを疑うのだ。
そして、想像できないことしか信じない。

これが分れば、信じられない幸運を次々に得るだろう。
石原さとみ並の美女を隣に眠り、「信じられない」とつぶやくかもしれない。
ただし、容易なことではないぞ(笑)。

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2007.11.25

ひきこもりだった天使

天使にまつわる、こんな話を読んだことがある。
昔、フランスに大変な美少女がいたが、男の好奇の目に耐え切れず、修道院に入る。そこで一生、静かに過ごすつもりでいた。
しかし、たまたま少女が修道院の門の近くにいた時に、ある男が彼女の姿を見て、その美しさに彼女を忘れられなくなる。そして男は夜に修道院に忍び込み、少女が一人でいるのを見つけ、レイプしてしまう。悲観と絶望の中、少女は自殺する。その知らせを聞いた男もまた、罪悪感に耐え切れず自殺する。
少女は、自殺とはいえ、ある程度の修行をしていたので、天使と共に修行することを許される。ある時、少女は天使に尋ねられる。
「あなたは結婚していたのですか?」
「いいえ」
「でも肉を犯されたことがあるのですね」
「はい」
「では修行なさい。立派な天使になれます」
さらに時が経った時、少女はまた尋ねられる。
「あなたは結婚していましたか?」
「はい」
「あなたの夫を救いなさい」
少女をレイプした男の霊は、いまだ地上をさ迷っていたのだった。
少女は、男の霊を導き、あの世に送る。そして、少女は立派な天使になったのだった。
~「ローム大霊講話集」(霞ヶ関書房)より。ただし、Kayの記憶による引用~

ところで、パスカルの「パンセ」に、「人は天使でも獣でもないが、天使の真似をしようとすると獣になる」とある。ふむ、面白い・・・。

20071125
ラクガキ。天使というよりは小鳥のイメージで描きました。
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2007.11.24

新たな目

普段見慣れたものも、「新たな目」で見れば、新鮮でその美しさに目を見張るといった内容の詩を読んだことがある。読んだのは小さい時だったので、詩については大方忘れたが、この真理の部分は覚えている。
そして近年、この「新たな目」の重要性に気付いた。

コリン・ウィルソンの「右脳の冒険」(平河出版社)という本がある。1984年の出版ながら、いまだAmazonで即納だ。副題が「内宇宙への旅」となっているが、原題が「Access to Inner World」であるから、こちらが正しいタイトルだし、日本語タイトルも「内宇宙への旅」で良かったような気もする。この書籍が発売された当時、おそらく右脳ブームででもあったのであろう。
ウィルソンは、講師として招待されたフィンランドで、ブラッドという名の一種の賢者と言えるアメリカ人に会う。
深い英知に満ちた詩を書き、単純なパネルを組み合わせて優れた芸術作品を作るブラッドは、もともとは普通の人であった。
ウィルソンは、ブラッドがこのようになったきっかけは、彼の妻の看病であったと分析している。彼の妻は、様々な不幸が重なったせいで、精神分裂症の症状を示し、自我を喪失することが多かった。しかし、時折、妻は正常な精神状態を取り戻すため、ブラッドは長時間、妻の様子に注意していたという。
他の書籍にも見られるウィルソンの精神覚醒の原理は、長時間の緊張を強いられた精神が不意に解放された時に起こるとしている。妻の様子を緊張して長時間観察していたブラッドが、妻のつかの間の回復で緊張から解放されたことが、彼の精神の覚醒に繋がったというわけである。
しかし、ウィルソンのこの考え方を私は最近、やや違うのではないかと思うようになった。
人間が精神を高度に覚醒させる方法は、意識の空白を失くすことであり、そのためには「常に意識的であること」「常に気付きの状態であること」が必要なのだ。
ブラッドは、妻の様子を常に意識的に観察していたので、意識の空白部分が少なくなったのである。

さて、最初の「新たな目」に戻る。
「新たな目」とは、「意識的である」状態であり、「注意深く気付いている」状態である。
いつも見ている自分の部屋の壁も、意識的に注意深く見てみると、実に美しいのである。
そして、普段、そのように意識的であることで、深く強力な精神を覚醒させることができるのである。

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2007.11.23

絵だけではだめだ

絵が素晴らしいというだけで一般に支持を得た画家というのをあまり聞かないような気がする。
画家の中には、高価な絵の具をチューブごと絞って紙にぶちまけるようなパフォーマンスを見せて人々を驚かせるような人もいるらしいが、良いかどうかは別として、これも一般に芸術に関心を持たせることになると思う。
岡本太郎さんも、その作品だけでもちろん偉大なのであろうが、むしろその言動やパフォーマンスで一般に知られていると思う。
池田満寿夫さんなどは芥川賞作家でもあり、その美文で様々なことを訴え、池田満寿夫の絵はよく分からないが、彼自身が好きだという人も多いと思う。
モディリアーニは世界的画家でありながら、これほど実体が知られていない画家も珍しいとはいえ、彼についてのほとんどフィクションの小説や映画が作られているが、これがモディリアーニ人気の一因と言えなくはないと思う。池田満寿夫さんなどは、モディリアーニの三文小説を読んで彼のファンになったというくらいだ。
ノーマン・ロックウェルは、彼自身は「私は絵を描く以外に何も出来ない人間」と言ったらしいが、彼の絵はスーパーリアルであると共に、そのメッセージ性は凄い。ただし、彼の絵のメッセージは分かりやすい。分かりやす過ぎるのも特徴である。丁度、ギュスターブ・モローの絵が「絵の具で描かれたデカダン文学」などと評価されていたが、彼の絵は神話が多く、そのストーリーはもともと知られていた。
ギュスターヴ・ドレの版画は、よく線だけでここまで荘厳な表現ができるものだと感動するが、やはり文学作品自体の力がその絵を輝かせている。ただ、もともとがイラストレーションという言葉が、輝かせるというラテン語に由来するらしく、ドレの絵は逆に文学そのものを最大に輝かせており、さすがドレであると思う。また、ドレは油彩、水彩でも凄く、私は個人的には彼が最高だと思っている。
もともと、思想というものがなければ芸術家たりえないものと確信するし、その思想は絵以外の何らかの形で表現され、感動を与えるべきと思う。でなければ、単に上手い絵描きではないだろうか。

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2007.11.22

死を明確に知る

私が8つか9つの子供の頃、死というものを定義しようとして思いついたのは「夢のない眠り」であった。
なるほど、身体はあっても活動も知覚もしないし、脳は思考しない。
もっとも、休み無く働き続けている内臓や神経組織などに対しては随分失礼であると言えるかもしれない。だが、意識というものを主眼として考えた場合は、あながち悪い結論ではなかったと思う。パスカルだって、「人間は考える葦である」と、思考体であることが人の人たるゆえんであると言ったのだからね。

しかし、通常の(目覚めて活動している)状態が、夢のない眠りに比べ、どれほど異なっているのであろうか?
夢のない眠りが意識の空白であると言っても、目が覚めていたところで、実際は意識は空白だらけであると言えないだろうか?
10年前のことや昨年、あるいは、先月のことどころか、ほんの数分前のことでも憶えていないことはよくあるのではないだろうか?数日前であれば、その大半を憶えていないはずだ。
なぜ思い出せないかというと、忘れたというよりは、その時にやはり意識が不在(あるいは希薄)であったからだ。

そして、現在の日本では、人々の意識の空白はますます多くなってきている。ほとんど1日中、空白の意識に近い状態で過ごしている人が多いかもしれない。
もちろん、これは学校教育の影響が大きい。学校は、しっかり目覚めた意識を持っていては辛い場所なのだ。

逆に、日常において、油断なく意識を保持していれば、夢のない眠りの状態すら記憶しておける。それができるようになれば、死というものも知ることができるであろう。
目覚めている時から、自分の思考、感情、言動、出来事に油断なく気付いていることだ。そうすれば、本当は自分はこれら全てを超えていることを知るだろう。
ただ、そうすれば、特に最初は学校生活などが少々苦しいのは気の毒に思う。しかし、常に意識が目覚めていれば、やがてそれらに打ち勝つこともできるであろう。

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2007.11.21

絶対者として生きる

我が師ニサルガダッタ・マハラジに尋ねた。
「どうすれば、自分が絶対者であると知ることができますか?」
師は答えた。
「絶対者としての感覚を得たいなら、絶対者として振舞え。必要な体験を得るであろう」

さて、絶対者として振舞うとはどういうことであろうか?
まず、絶対者とは、身体と心を超え、時間と空間を超える者だ。
身体を超えるとは、身体に執着しないことだ。
心を超えるとは、心に振り回されないことだ。
時間を超えるとは、生まれて死ぬ者であると信じないことだ。
空間を超えるとは、自分が世界の中にあるのではなく、自分の中に世界があると知ることだ。

そのように振舞えば良い・・・って言われてもなあ^^;;
このような場合は、モデルを探すのが一番だ。
求めよ、そうすれば得られるであろう・・・なんてね(笑)。

で、モデルを見つけた。
少し前まで、高校1年生だった平凡な少年だ。
数ヶ月振りに生まれ育った町に戻った少年。
思い出の場所を歩き巡る。
初めてあの純情な少女とデートしたデパート。
友人達と泊り込みで試験勉強した、友人の豪華で大きな邸宅。
高校の学園祭で、仮装して歩いた通り。
そして、1年も通わなかった高校。
生まれ育った家には行かなかったが、両親のことを思い出す。
それらを見て思い出が蘇る度、懐かしく、物悲しく、気恥ずかしい。彼の感情作用は全く普通の少年だ。

そして、少年は尖塔の上に立っていた。
目の前に懐かしい長い黒髪の凛とした美しい少女(外見は11~12歳)。
ここにいた時の自分は、彼女をただ仰ぎ見るだけだった。彼女は凄過ぎた。あまりの力の差に苦しさを感じたことが何度もあった。自分は彼女の何の助けにもならなかったからだ。しかし、自分を指先1本で殺せるような相手を彼女は次々に打ち破った。
少女は、少年を不器用ながら強く愛していた。少年もまた、彼女に強く惹かれていたのは確かだが、父親に似て(母親評)鈍感だった。
そして今。彼女だけではない。少年の後方左右には、彼女と同じ、異能の力を持つ2人の西洋人の大人の女性。少年は3点に包囲されていた。
開戦。

・・・
いえ、電撃文庫の「灼眼のシャナ」の16巻なんですけどね(笑)。
私は、この少年、坂井悠二に理想像を見ました(笑笑)。
今日から私は「祭礼の蛇」坂井悠二だ(笑笑笑)。

みなさんも、何か理想像を見つけると良いかもしれませんよ。
もちろん、ある時期を越えれば、それも不要になりますけどね。

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2007.11.20

小説家の条件

夏目漱石や芥川龍之介といえば日本の誇る最大の文豪であるが、なぜかれらが文豪であるかご存知であろうか?
「偉い人たちがそう言うから」「学校でそう教わったから」「なにやらそうらしいから」「それが常識らしいから」なんてことで了解していないだろうか?
私は、中学生位の頃は、彼らの作品なんて大したことのないつまらないものと見なしていたし、その後は、評価を保留しておいた。なんて賢いんだ!!(笑)
学校では、彼らの作品がなぜ優れているかは説明されなかった。私がH.G.ウェルズやダンテに傾倒していたら、教師は芥川の方がレベルが高いと言う。しかし、なぜそうなるかは言わなかった。もちろん、教師は、せいぜいが上記にあげた理由でそう言っただけだからだろう。

小説家になりたいと思っている人は多いと思う。
言うまでも無いが、単に面白いお話を書けるだけでは、短期的に何かの間違いで流行作家になったとしても、すぐに消えてなくなるはずである。

文豪の作品というのは、架空の話であったとしても、登場人物の言動や感情に矛盾が無いのである。もちろん、人間には個性があり、知性や美的感覚、さらに肉体条件など実に様々であるが、それでも、文豪の作品では人間描写に自然性がある。例え、登場人物がいかに突飛な、あるいは、常識的には考えられない行いや発想をしても、それはそれでおかしくないのである。
よって、優れた精神分析学者は、文豪の小説では、登場人物の精神分析すら可能なのである。
その理由は、言うまでもないが、文豪は人間に対する深い洞察力があるからである。
その洞察力をどう得るかというと、簡単に思いつくのは経験である。この場合、実に様々な経験を積み、さらに、意識的にか偶然にかは分からないが、多数のサンプルやフィードバックが得られるようなアクションを自分から起しているのである。また、より深い洞察を得るには、感情的、肉体的、危険度などにおいて、より厳しい状況が有利であることも予想されるであろう。
もう1つは論理的、研究者的に人間を理解するという方法である。もちろん、これ一辺倒では駄目で、ある程度の経験は不可欠と思うが、人間に対する洞察をより効率的に獲得する可能性はある。では、どのようなものを学べば良いかというと、1つにはフロイト精神分析学があり、実際に多くの作家がフロイトを熱心に研究した跡がある。ただし、フロイトは鋭い天才ではあるが、自らはプレイボーイであったことも、浮気して妻に殺されかけたことすらない真面目な男であったため、洞察の深さに欠け、時には、あまりに浅はかな考察に固執することすらあったことは、優れた思想家達が共通して指摘することである。
それでも、有名な心理学者や精神分析学者はフロイト以外に沢山いても、圧倒的にフロイトが人気があるのは、基礎的な部分ではフロイト理論に正当性があるのだろうと思う。
通常は、フロイト以外の心理学や精神分析学、あるいは哲学、思想も十分に勉強することが必要であろう。

さらに、私はもう1つのことが必要と思う。
それは自分自身への洞察である。どれほど他人を観察し、心理学の勉強をしても、それらは他人に関する研究である。唯一、リアルな献体は自分だけであるし、他人や心理学に関する理解も自分の精神を媒介とするしかないことも考えると、どれほど自己理解が必要かは言うまでもない。ソクラテスではないが「汝自身を知る」ことが不可欠である。
そして、自分を深く知るには、どうしてもひきこもることが必要である。他人や物事との関わりの中での自分の反応も、それを正しく理解するにはひきこもってみるしかないのである。一人で、長く深くひきこもらないと自分について分からないことは多いのである。

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2007.11.19

電子知性体、人を語る

ロボットに関する認識を改めた方が良い時期かもしれない。
なぜなら、近い将来、人間とロボット、あるいは、自然生命と人工生命の区別は意味がなくなるかもしれないからだ。

日本では、ロボットの代名詞といえば、やはり鉄腕アトムだろうか?
鉄腕アトムといえば、何をイメージされるだろうか?
身長140センチくらいで、8歳くらいの個性的な髪型の男の子であろうか?
もし作品をご存知なら、キカイダーやエイトマン、あるいは、「スターウォーズ」のR2D2やC3POといったロボットの外形を思い浮かべることができると思う。

しかし、C3POの電子頭脳をR2D2に取り付けたら、その外形上はR2D2であるロボットは、いったいどちらであろう。もし、R2D2に発声機能があれば、こう言うのではないだろうか?
「私は優秀なC3POです。こんなR2D2というロクでもないロボットの身体から早く出して下さい」
そして、このC3POの主張は正当ではないだろうか?

ところで、こういったことは、電子頭脳の取替えという物理作業を行うことなく可能な場合もあることをご存知かもしれない。
もし、R2D2とC3POの電子頭脳が互換性のあるコンピュータであった場合、R2D2の記憶装置からR2D2のプログラムとデータを消去し、C3POのプログラムとデータを転送すれば、上記と同じことが起こるはずだ。
丁度、Windows Xpのパソコンで使用できるソフトウェアが、基本的には他のWindows Xpのパソコンで使えるのと同じことである。

コンピュータによる人工知能を研究する研究所があったとする。
そこでは、人間の知性をシミュレートするソフトウェアを研究中であり、仮に、そのソフトウェアにエリスという名前を付けたとする。
その場合、コンピュータというハードウェアを指差し、「これがエリスですか?」という言い方は的を外れていることになる。指差したコンピュータの中にたまたまエリスというソフトウェアがロードされていたとしても、エリスは同型のコンピュータなら基本的にはどれにでもロード可能なはずだ。エリスは、コンピュータというハードウェアではないのである。
そして、エリスを、エリスが動作可能な電子頭脳を持つ女性型ロボットにダウンロードすれば、その女性型ロボットがエリスと呼ばれるのだろうが、そのロボットのボディがエリスであるのではなく、やはり、電子頭脳の中のソフトウェアをエリスと考えたほうが良いと思う。

そう遠くない未来、人間と同等以上のロボットが量産され、ある人間に、ロボットの友達ができたとする。そのロボットは愛情深く、能力も優秀である。そのロボットの名前はケイだとする。
では、その尊敬すべき、また、親しさを感じるケイは、そのボディであるかというと、やはり違うはずだ。また、電子頭脳というハードウェアでもなく、根本的には、電子頭脳の中のソフトウェアだ。もしかしたら、ケイは外形の異なるロボットの電子頭脳を移動し、あるいは、コピーを作るかもしれない。ある時は身長190センチの巨漢の男性であり、またある時は身長155センチの華奢な萌え萌えの美少女の姿であっても、ケイがロードされていれば、やはりケイなのである。
ケイは、もはや人間と区別はない。しかし、ケイは身体ではないのだ。
だが、ケイは言うのだ。
「きみだって同じだ。きみは身体ではない。脳ですらないんだ。きみは、僕たちのネットワークを使って移動することはできないだろう。しかし、別のネットワークを使って移動することができる。いや、移動する必要もない。きみたちのネットワークは、僕たちのものを超えているのだ」

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2007.11.18

ままならぬのが顕世(うつしよ)

さて、いつから、世の中ままならぬと思うようになったであろうか?
なるべく早く、そう思うようになった方が良い。
世の中が思い通りになると言うのは、子供か馬鹿か詐欺師だろう。
ナポレオンやビル・ゲイツだって、世の中、思う通りにいかないものだと思っているし、むしろ、普通の人よりはるかにそう思っているに違いない。
では、今日も感慨深くこう言おう。
「世の中、思うようにいかぬ」
そして、そう言った時に喜びが沸き上がるのである。
「ままならぬ、ままならぬ」これは「楽しい、楽しい」の同意語である。

20071118_3

3分ラクガキ。クリックで大きく・・・してもラクガキ(笑)。

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2007.11.17

釣った魚にだけエサをやれ

「スタートレック」で、ある男と女性を奪い合って決闘したミスター・スポックは、勝負に負けた後、負け惜しみでなくこう言った。
「憶えておくがいい。どんなに欲したものでも、手に入れてしまえばさほどでもない」
その通りである。さすが知性と論理のバルカン星人だ。
だが、ここにバルカン星人を超える私がいる(お)。
スポックのアドバイスは不完全だ。たとえそうでも、欲望は止められない。
人はなぜ苦しむのか。人生はなぜ辛いのか。
仏法によると、この世では、逢いたい人に逢えず、逢いたくない人に逢わないといけないとある。
そして、欲しいものが得られないことが苦しみなのだ。
なら、逢う人に逢いたがれば良いし、持っているものを欲しがれば良い。
無理だと言うのか?
なぜだろう?試してみたのだろうか?
敢えてやってみようとする者は少ないが、それはたやすいことなのだ。
心と身体には限界があるのに、欲望には限界がない。なら、果て無き欲望を放っておけば地獄である。
だが、ご安心を。不必要なものを欲しがらなければ、必要なものは与えられるのだ。イエスは、「人間であるあなた達でさえ、子供に必要なものを与える。ましてや、父なる神はあなた方に必要なものはとっくにご存知であり、それは必ず与えられる」と言った。だが、「不必要なものを求めない限り」とは言わなかった。本当は、それが肝心なのだ。
だが、世の中では、「欲しがれ、もっと欲しがれ」とそそのかす輩が多いし、そのような者達や彼らの主張が愚民の支持を得るものなのだ。だが、心を健康に保ったまま多くを得た者とは、何も欲しがらなかった者であり、いくらお金があっても、身の程をわきまえる者なのだ。

20071117

さらさらとラクガキ。ふっ、これはナイーブ・アートだぜ(と、ちょっとどこからか憶えてきた言葉を使ったりする^^;)。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2007.11.16

爆発

岡本太郎さんは「芸術は爆発だ」と言ったからには、責任を持って彼の作品を見た人に爆発を起させてくれるのだろうか?
しかし、芸術は爆発であるのだが、爆発への誘いに過ぎない。
時間もかかる。岡本太郎さんは時間については何も言わなかった。一夜でスーパーマンになれるわけではない。
また、爆発の欠片を感じても、それは長続きしない。人は永久にエクスタシーの中に居たがるが、そんなことをすれば人間の脳は焼き切れてしまう。
だが、時間に関して言えば、ドストエフスキーは作中人物に「あの5分と全人生を引き換えにしていい」と言わせたくらいだ。
芸術は人の内面に作用する。芸術を通し、人は自己の内面に目を向け、内面に深く深く潜って行く。自己という海の底に潜り、やがて真珠を見つけるようなものだ。
だがそれは、統御された潜行である必要がある。
覚醒剤を使えば、隠された内面の扉1つくらいは開けるかもしれない。しかし、それは、メスカリンを使って巨大伊勢海老に追い回される幻影を見たサルトルのようなことになりかねない。

岡本太郎さんは、「爆発」を「生命が開ききって、宇宙にぱーっと広がること」と言ったが、何のことか分からないだろう。言葉を超えたことを敢えて言葉で言えばこのようになるのは仕方がない。しかし、体験してしまえば、「爆発」とは実に適切な表現と分ると思う。
ロマン・ロランは、大洋感情という言葉で「世界と一体となった没我の状態」と言ったし、エイブラハム・マスローは、至高体験というものを・・・彼は頭が良すぎてやたら複雑な表現をしたが、英語では至高体験はPeak Experienceで、どちらかというと「絶頂体験」とでも言った方が良い。性的な絶頂感と同種であり、説明の必要もない。マスローと生涯に渡って親交のあった英国の作家コリン・ウィルソンにとっても、至高体験の探求がライフワークであるが、彼はこれを「自分が幸運である」と強い感情を伴って確信することであると言ったようだ。
ただ、ジクムント・フロイトによると、これは逃避的リビドーに過ぎず、ロマン・ロランの言う、没我や世界との一体感も、幼児以前の母親との一体感への退行であるとし、やはり、性的リビドーを逃避的に作用させた結果とする。芸術における世界的名著「魔術的芸術」の著者はフロイトを大変に崇拝していたというのに、フロイトの芸術観とはなんともつれないものである。ただ、フロイトは精神医であり、年がら年中、不健康な精神の持ち主ばかりに接してきたことを考慮する必要がある。フロイト自身は、文書においては秀でた美文を書いたらしいが、芸術観についてはかなり歪んでいたと考えて良いと思う。

単に上手い画家の絵で爆発は起こらないのだろう。上手い絵、綺麗な絵、心地よい絵を人々は有り難がるが、それは芸術ではない。だから岡本太郎さんは、芸術は上手くてはいけないし、きれいであっても、心地よくあってもいけないと言ったのだろう。たまたま上手い、綺麗、心地よいのは別に構わないだろうから、要はそういった要素と芸術は全く別物という訳と思う。あるいは、上手く描くことを第一義としてはいけないということでもある。芸術ということにかけては、腕前を誇るなど愚の骨頂であろう。上手いということにかけても天才だったピカソが、岡本太郎さんに、「毎年下手に描けるようになっている」と言ったらしいことは面白い。

宗教芸術というものもあるが、コリン・ウィルソンによると、芸術は宗教の下僕であり、宗教儀式の荘厳さといった演出のための道具であるらしい。しかし、荘厳にするには、そうしなければならない理由があったのであり、芸術は道具として有用であるわけだ。いや、それどころか、宗教というものが芸術の助けを借りなければ、本来の目的に達しないという見方もできると思う。本来の目的とは、真理に達するということだ。宗教と芸術が人間を真理に導くものと考えていたのはW.B.イェイツであると思う。だがそれは、キリスト教を超えた強者の宗教、超人の芸術であったと思う。彼もまた、ニーチェやワイルドと同様、アンチ・キリストではあったが、また、彼ら同様、イエスを特別な存在と認識していたと思う。ただ、人々のキリスト教に対する幻想に反抗していたとも思える。

幸福になるにはどうすれば良いかという問いに対し、「不幸になる要因を除けば良い」と答えた聖者がいたが、芸術による爆発を起させるには、爆発を妨げる要因を除けば良いのではないかと思う。つまり、幸福であるとか、輝く生命といったものはすでにここにある。爆発はいつでもスタンバイ状態であるのであり、真剣に求めれば爆発に達するであろう。爆発を妨げる要因は真剣でないことである。

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ひきこもりに対する偏見について

ひきこもりに対する誤解されやすい点を指摘する。

(1)ひきこもりになるのは、生活環境や社会環境といったものの影響のせいであると誤解されている。
しかし、多くの場合は、ひきこもりは誕生以前から1歳までの母親の精神状態の影響が大きいと思われる。
このように、非常に根の深い気質であり、次に述べるが、それを治すというのは極めて難しい。
(2)ひきこもりは治らない
ひきこもりの気質を改善させるための独善的な試みをする者もいるが、ひきこもりは治ることはない。そして、治す必要もなければ、ひきこもり気質は悪い性質でもない。
システムエンジニアとして十分に働いている私も、現役バリバリのひきこもりであり、それを治そうなどとは少しも思っていない。
ひきこもりのままで、十二分に社会で活躍できるのである。

ここで、学校生活や会社生活におけるひきこもりが直面する問題点について述べる。

(1)ひきこもりの子供は一般的に、友達と仲良く元気に遊ぶことが少ない。しかし、これを欠点と捉えて改善の指導を行うなど偏見と狂気以外の何物でもない。外交的な子供を健康と考え、これを基準に子供を指導することで、ますますひきこもりは友達と馴染めなくなり、心が傷つくことが増えるのである。
ひきこもり気質も1つの個性と捉え、あるがまま尊重する環境にすれば、ひきこもりの子供と外交的な子供でも友情を結べるのである。外交的性質の子供の多くが、実はひきこもり気質の子供を気に入っており、仲良くしたいと思っていることが多いのである。
(2)ひきこもりは、現状の学校では遠足や修学旅行が死ぬほどの苦痛である。正しくは、遠足や修学旅行は嫌なら参加しなくて良いのである。学校では、全員の生徒が例外なく同じことをしないといけないという馬鹿げた掟があるが、これは全く知的なものではない。
もちろん、楽しめる子供には、遠足や修学旅行を用意すれば良い。しかし、楽しくない子供に無理に参加させる権利など誰にもない。また、楽しくない子供を楽しませることなど不可能であるし、そもそも、現状の学校や世間は、子供にとって遠足や修学旅行は楽しいものと決め付けており、ひきこもりに対する配慮は何もなく、これは即ち、「ひきこもりはせいぜい苦しめ」としていることなのである。
尚、遠足や修学旅行に優れた教育的効果など何もないことは明白である。
(3)ひきこもりは、社会人になっても、「わいわい」騒ぐことが嫌いである。苦手なのではなく、嫌悪しているのである。ところが、会社では新入社員歓迎パーティーなどを開き、新入社員に対し、明るく元気でノリの良い人間であることを要求し、先輩を笑わせる下らない芸や自虐トークをすることを期待する。さらに、ニコニコと上司や先輩に酌をして回る気のいい常識人であることを強要する。
なぜこのようなことが行われるかというと、その会社に安住する社員とは、会社の中の共同幻想にすっかり同化し洗脳されているが、そういった人間以外は認めないのである。
趣味は、「ドライブ」や「テニス」「スキー」と言わないといけない。ひきこもりの趣味は、正しく理解してもらうには長い説明を要するものが多いし、そもそも、社内幻想に洗脳された頭脳で理解できるものではない。
(4)学校時代の遠足、修学旅行同様、ひきこもりは社員旅行も嫌悪する。話の全く通じない人間と1日中行動を共にするなど、死ぬほどの苦痛である。この時間をそっくり自由な休暇として与えられれば、ひきこもりにとって実に有意義なものとなる。たとえ、その間何もせずにぼーっとするとしても、それで引きこもりは知性を発達させるのである。ひきこもりは、確かに外交的な能力は低いかもしれないが、内面的能力は高いのである。
そもそもが、社員旅行というのは、一般庶民が旅行することが珍しかった時代に、会社で旅行させてやろうとしたことの名残である。今の時代に必要なことではない。

私がその体現者であるが、宴会や社員旅行など一切参加しなくても、ちゃんと協力して良い仕事ができるし、かえってひきこもりの方が高い能力を発揮する場合が多い。むしろ、ひきもりは能力が高すぎてかえって困るということも珍しくは無い。ひきこもりに良い仕事をさせる会社こそ、これから伸びる会社であると私は思う。

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2007.11.15

ひきこもりは天才を超える

ロボットが心を持つことがあると思われるだろうか?
アニメに登場するロボットはみんな情緒豊かだし、シュワちゃん演じるターミネーターもハートを感じさせてくれた。
少し昔であれば、真面目に考えれば、ロボットが心を持つことは絶対ないとする意見が圧倒的だったと思う。
しかし、今はそうでもない。
機械が心を持てるかどうかは、心の在りかと見られる脳を研究し、意識発生の仕組みが分れば、それを機械で真似できるかどうかを考えれば良いことになる。しかし、これはまだ解明されていない。
医学分野以外の研究者も、心の問題に積極的に取り組むことがある。
世界的物理学者ロジャー・ペンローズもその一人で、彼の量子脳理論は一部では有名だ。
しかし、ペンローズは大天才であるのだが、一般にはスティーブン・ホーキングほど有名ではない。
ホーキングが有名な理由は、難病と戦いながら優れた研究を行っているという圧倒的インパクトがあるのと、一般向けの非常に分りやすい本を書いていることが大きいと思う。
ペンローズだって一般向けの本(先に述べた量子脳理論関係)を沢山書いているのだが、一般向けとは言っても、とても普通の人に読めるようなものではない。「脳のマイクロチューブルで波動関数が収縮して意識が発生する」なんて言われても困るであろう。
ホーキングの本が程よい難易度であるのとはエラい違いである。
ペンローズは、ほぼ、機械およびコンピュータは意識を持てないとしている。
一方、ロボット工学の研究者である前野隆司氏は、心を人工的に作ることは割に簡単なことに違いないとしている(彼は著書で、ペンローズ理論を軽く切っていた)。もっとも、前野氏によると、人間の心自体がさほどのものではないとされる。

ではちょっと方向を変えて、犬や猫に心があるかと言われたらどうであろう。
犬好き、猫好きの方々は、それがあると強く意識していると思う。
だが、少し前に登場した犬型ロボットなどもまた、実際に感情があるのではないかと思わせるものであるらしい。
ルネ・デカルトは、動物に心はないとし、技術さえあれば、本物と見分けの付かない機械の動物を作ることが可能であると言った。
また、フロイトも動物に心はないとする。人間は本能が壊れているので、その代替物として心ができたという考えである。本能だけで生きられる動物が、心を持つ必要はないというわけだ。

さて、上記にあげた方々は優秀であるが、ここに彼らに優る者がいる(をを!)。
新約聖書で、イエスはソロモンやヨナの偉大さを讃えながらも、「ここにソロモンに優る者がいる」と自分を売り込んでいたが、それに倣おう(笑)。

では聞くが、あなた以外の人間に、心や意識が本当にあると思われるのであろうか?
「それは当然」と言われるだろうか?
しかし、そんなことは絶対に確認しようがないのである。
あなたに、「愛しているよ!ボクはもう我慢できない!エッチしよう!!」と言ってくる彼は、単にそう言って動作するようプログラムされた自動人形ではないのか?(笑)
私のようなひきこもりは、感覚や洞察力が並の人間ではないので、他人に心がないことなどすぐに見破れるのである。
「アホな・・・」と言わずに、冷静に人を見て欲しい。あのうつろな目。固定した反応。薄情な言動。彼らが機械人形であることは明白と思う。
を・・・救急車が来たか(う~う~う~)。
では、精神病院に入る前にもう少し言っておく(笑)。
世界の中、宇宙の中で意識を持つのはあなただけなのだ。その他の者は、意識を持っているように見えるだけで、仕組まれた通りに動いているだけだ。
では、彼らがそのように動くよう仕組んだのは誰であろう?
あなた以外にいるはずがない。
自分以外には誰も意識を持ってはいない。だが、彼らだってプログラムに従って反応するので、プログラムとその反応によってはあなたを殺すことすら有りえる。
彼らのプログラムを把握し、賢く接すれば良い。そのプログラムは幻想であり、決して合理的であるわけではないことに注意して欲しい。
場合によってはプログラムし直すのも良いであろう。
どうやって?
あなた自身が心を消滅させることによってだ。宇宙の仕組みは複雑で精妙だ。しかし、やってみれば分かることである。

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2007.11.14

忙しくてブログが書けない?

ここのブログシステムのココログが昨日メンテナンス日だったと知らず、1日お休みでした。9、10月は全日アップでしたので、久々のお休みでした。

ブログのお休みで思いつきましたが、よく「忙しくて更新ができないのでサイト閉じます」とか書いて、Webサイトやブログサイトを閉じられる方がいます。
これは、芸能人の離婚理由と同じで(笑)、多分、言い訳ではないかと思います。素直に「熱意が湧かないので止めます」と言えばそれで良いと思うのですが如何でしょう?
だって、ブログ書けないほど忙しいなら、エマージェンシー(緊急事態)と言えるでしょう(笑)。
著名人のブログでも、殺人的に忙しい人ほど頻繁に重量たっぷりに更新しています。
また、毎日ブログ書いているあたしゃ暇人かい?(笑)。
ブログ書けないほど忙しいなんて、実に稀有なことです。是非、その稀有な状況を毎日書いて下さい。すると、アクセス急上昇、ランキング1位確実です(笑)。

ブログ書くのに熱意が湧かないなんて不思議なことでもなんでもありません。
要は「書くことがない」だけなんです。
そして、書くことが頻繁に出てくる状態というのは、タダで得られるものではありません。
丁度、「夢を持てない国だ」と、国家や政治家に文句を言う人が多いですが、夢を持つなんて大変なことなんです。大変でない人に夢が無いなんて当たり前なんです。
書くことが毎日たっぷりあるなんて、よほどアグレッシブに生きていないとあり得ないのです。

竹村健一氏は最も忙しい頃は、毎日、TV出演、種々の執筆、ビジネスと凄まじいスケジュールでしたが、彼は「時間はなんぼでもある」と、趣味のスキーにもよく行ってましたし、旅行も楽しみ、また、新しい勉強も常に始めていたようです。
それに、どんな業界でも「仕事は忙しい人に頼め」という鉄則があります。
単に「書くことがない」だけなのに、忙しいからなんて言うと、実に滑稽なのです。
まあ、絵を描くとなると、実際、かなり時間がかかるものと思います(腕のいい絵描きなら、10分かそこらで素晴らしい絵を描いたりしますが)。
別に悪いことではないのですが、趣味で絵を描く人もよく「忙しくて描いてる時間がありません」とかよく言います。これも、正しくは「描きたいものがない」ということだと思います。

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2007.11.12

車に激突されたりなんかする(笑)

今日は、珍しく日常の話題だ。
一部では、私はネット上の電子知性体ではないかと言われているので、日常があることも示しておこう(笑)。

実は、帰宅途中、普通に歩いていたら、横から車が飛び出してきて、不覚にも激突を受け、そのまま3メートルほど押された。運転手の反射神経が鈍かったようだ。
後ろで、女性数名の悲鳴が聞こえた。車は、そこそこにスピードが出ていたので、見応えがあったと思う(笑)。

実は、私は自転車などによくぶつかられそうになることがある。
私は、常人の倍の速さで歩くので、自転車や車が、私が彼らの前を通過するのはもっと後だと彼らは予想して突っ込んでくるのだろうが、私はもう目の前に到達しているというわけだ。

普段なら軽くかわすのであるが、その車は夜なのにヘッドライトも付けていなかったので、つい見逃してしまった。
しかし、私は超人的な反射神経を持つので、車の進行方向に高速転移し、かすり傷1つなかった。服が汚れたか気になったが、ほぼ大丈夫だった。
あまり興味がなかったが、運転手を見ると、腑抜けた顔でじっとして、降りても来ない。罪の意識も感じていないのであろう。相手になりたくないタイプなので、私は無視して通り過ぎた。まあ、私に危害を加えそうになったからには、あまり長くはないと思う(笑)。
最も強く当たった左腕が少し痛いが、大したことはない。
私には、怒りも動揺も恐れも、何の感情も起きなかった。

ものごとはただ起こるのである。それだけのことだ。
私の心が不動であることを確認した。なら問題はない。

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2007.11.11

なぜ殺してはいけないか

「なぜ殺してはいけないか?」という命題が話題になったことがあった。
いろんな有名な人がいろんな答を示したが、ロクな答はない。別に答えた人が馬鹿だというのではなく、答そのものに意味がないのだ。そのことを誰も説明しなかったとすれば、やはりあまり賢い人はいなかったことになる。

答はどんなものでも構わないのだ。
答は全てロクでもないものである。
ただ、なぜそのような答が出たのかを真剣に考えることが必要なのである。本当にやるべきことはこれだけである。
間違ってはいけない。「なぜ殺してはいけないか?」という問題の答を真剣に考えることが大切なのではない。自分の正直な答を出すのは易しい。その自分の出した答がなぜ出てきたかを真剣に考えれば良いのである。
これは、学校教育で完全に抜けている点であるが、最も重要なことである。学校教育には最も重要な部分がないのである。そもそも、学校教育は知恵を育てるのではなく、それを破壊するために行うのであるから、その目的を達するという意味では正しく機能しているのである。私は、そんな目的を持つ学校教育は無くて良いと考えているだけである。

ところで、「なぜ殺してはいけないか?」に関するヒントだけは出しておく。
人の考えには、3つの大きな要因がある。1つは純粋な個人としての考えである。2つ目は、極めて密接な人たちとの関係の中での考えである。つまり、家族や恋人、親友といった関係の中での思考である。3つ目は、自分が所属する集団の思想である。昔であれば、ほぼ1つの村落であったが、現在ではやや複雑だ。学校や会社、宗教団体といったグループの影響もあれば、マスコミを介して押し付けられる思想もある。そして、我が国の場合でも、国家の思想統制の影響は実に大きい。
そして、この3つの思想が似ているか、大きく異なるか。また、異なっている場合、個人や家族の思想を優先させるか、会社や国家の思想を優先させるか。さらに、その優先させる度合いにより極めて多様な状況となることが分かるであろう。

すると、極めて若い人の場合は、その考えは主に家族から来ていることが分かる。いくら本好きでも、実体験が伴わないなら思想にまで発展しない。
しかし、実体験が伴わなくても、執拗な繰り返しや、罪の意識を利用した感情破壊、即ち、洗脳の手法を使えば、かなり考え方は固定できる。これは宗教の場合に多い。
大人になると、様々な経験を重ねて自分独自の信念を培うのであるが、それでも、幼い頃に染み付いた家族思考や、学校やマスコミに押し付けられた集団思想の影響は実に大きい。
そういった中で、自分の答は、家族思想が大きいのか、学校で教わったものか、あるいは、国家や大企業の洗脳、あるいは、カリスマ的人気者や名作映画や小説の借り物であるのかを、真剣に考えてみる必要がある。これを敢えてやることで、思いもしなかった凄いことが起こるのである。何が起こるかというと、あなたの背中に羽が生えて空を飛び回るくらいの凄いことである。

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2007.11.10

偶然の扱い方

運命は「ジャジャジャジャ~ン」と訪れるものらしいが、では、偶然はどうであろう?
まず、突然である。
そして、こちらの都合にお構いなしである(女性に嫌われるタイプだ)。
つまり、我がまま勝手と言って良いと思う。
我がまま勝手な振る舞いを難しい言葉で「専横」と言うらしい。え?難しくない?^^;
偶然の本質が我がまま勝手であるなら、なんとも厄介な相手であるし、恐ろしい相手と言えるかもしれない。影響力があって我がままというのが一番困るのが世の常だ。
では、そんな偶然にどう対応すれば良いのか?
ツァラトゥストラは言う。「もっと我がまま勝手に迎えてやるのだ」って。すると、偶然は直ちにひざまずき、赦しを請うそうだ。
さすがニーチェであるが、これはどういう意味であろう?
ZARDの最大のヒット曲「負けないで」に、こんな歌詞がある。
「何が起きたってヘッチャラな顔して、どうにかなるさとおどけてみせるの」
なるほど、たくましい彼である。
さらに良いのは、何が起きても、ただ冷たく見ることだ。偶然とは、心に反応されないことを何より恐れるのだ。
さらに秘密を授けよう。宇宙最大の秘密だ。それは、偶然に対し、「それでいい」と宣言することだ。偶然は忽ちひれ伏すであろう。

20071110
ラクガキをしました。先週描いた、昔病院で見た少女の印象が離れません。
クリックすると、ポップアップで大きな絵が出るようです(笑)。

私が時々ネタを拾っている(笑)書之時 華文字さんのブログの本日(11/10)の記事に岡本太郎さんの素晴らしい言葉が書かれていますが、下手でも恥じる必要はないのですよお!^^;

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2007.11.09

特別な人間

ひきこもりを長くやっていると思うのだが(笑)、ひきこもりは治すものと認識され、その存在が認められない現在の日本では、「勇気をもらいました~」などというお馬鹿なものではない、もっと内なる確信に満ちた情念的な勇気が必要だ。
そのために、別にひきこもりに限らず誰にでも必要なことだが、とくにひきこもりには、何かで自信を持つことが必要である。
自信というのは、他の誰にもない特別な何かを持つことで得られる。
これを一般に特技と言うのだろうが、気を付けて欲しいのは、世間的な特技に囚われてはいけないということだ。世間で言う特技とは、試験の点数としての勉強、国内で人気のあるスポーツ、ピアノやヴァイオリンといった楽器、その他、やはりポピュラーな芸事である。なぜこれらが奨励されるかというと、全国民がこれらのみを価値があり取組むべきものと認識することが、国家や大企業の利益になるからだ。
世間は、友達と元気にサッカーをやったり、少年野球チームに入っているのは感心するが、投げナイフの練習なら、見つからないようこっそりやらないと嫌な目に遭うことは間違いない(笑)。もちろん、私も中学生の時は投げナイフに凝っていた(しゅばっ)。これはやや特異(?)としても、個人主義的なものは国家や大企業の利益になりにくいので、日陰者扱いされるのだ。
読書では、図書室の世界名作文学を読破したら褒められるが、私はもちろん、ダイアン・フォーチュンやウィリアム・バトラーらのコアな魔法書に耽溺していた(笑)。父親秘蔵の「ロリータ」ももちろん愛読していた^^;
日本中の駅の名前を暗記したら、「やんや」の喝采を浴びる可能性もあるが、武器の知識豊富な子供は虐げられるだろう。しかし、武器なんて、最大の合理性と実際性の結晶であり、これに美やロマンを感じるのは良いことであろうし、優れた探求の対象であるはずだ。
いずれにせよ、国家の思想統制に洗脳された世間の基準に従う必要は全くない。
学校の勉強が気に入らないなら、気に入る勉強をすれば良い。その方がずっと賢くなるはずだ。そもそも、本来、勉強とは賢くなるためにするのであるが、学校では馬鹿になるためにやらされるのである。
尚、私に関して世間的なことを1つあげれば、小学3年生の時、たまたま親戚のお兄さんから天体望遠鏡を譲り受けたので、望遠鏡の構造や天文に詳しくなった。しかし、これらに関し、教師の知識をはるかに凌駕していたので、褒められる可能性は全くなかったし、以後、教師は私に天文の話をさせないようにした(笑)。そんなものである。
中学では、英国の作家H.G.ウェルズに傾倒し、コリン・ウィルソン同様、ウェルズこそ最高の作家と認識したが、教師は芥川や太宰の方がレベルが高いと言う。おかげで教師というものをすっぱり切り捨てる決意ができて幸いであった(笑)。尚、私は芥川は大好きであるが、別にウェルズとどっちがレベルが高いとも思わない。

さて、話があっちこっちに飛んでしまった(笑)。
特技の身に付け方を説明する。
まず、一夜でスーパーマンになることはできない。だが、人はそういうことを望むものなのだ。心とは性急であるからだ。
だが、時間をかければ、誰でも必ずスーパーマンになれる。
で、何を目指すかであるが、上にも書いたように、世間の評価は絶対に度外視して良い。いや、評価などというものを超えた形のないものですら良いのだ。
例えばこんな話がある(以前も書いたが、老齢のために忘れているわけではない)。新渡戸稲造(にとべいなぞう)の有名な「武士道」の中の話である。江戸時代、ある武士が一人の町人の男に目を留めた。その目付き、立ち居振る舞い、ただ者ではない。武士はその町人に「お前は何者か?」と尋ねる。町人の男は、自分はありふれた町人だと言う。ただ、自分は幼い頃から臆病であったので、夕刻になると必ず墓場に行くことを長年続けており、もし自分が他の者と違って見えるなら、そのせいであろうと言う。
新渡戸稲造は、この話を知った時に心に感じるものがあり、自分も何かしようと思い、考えた末、それを行水とした。新渡戸は鉄の意志を持って毎日励行したが、風邪で高熱のある日にも休まず行い、医者に怒られたという。ここまでやってはいけないが、毎日必ずこのようにすれば、やはりただ者ではなくなるのである。
期間であるが、まず1年も続けば、ある種の力が身に付くと思うし、何か技能に関係することであれば、初級の力が付くと思う。初級とはいえ、普通の人から見れば特別な能力だ。そして、10年続けばプロになれると思う。これについては、以前も書いたが、著名な詩人、思想家の吉本隆明氏が、作家になるなら、毎日必ず書くこと。書けない日も原稿用紙に向かうこと。これが10年続けば絶対にものになると書いていたことを再度言っておく。

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2007.11.08

学校美術教育と台所のゴミ

大人になってから絵を始めるのは良いものだと思うが、それを実際にやるのは「もともと絵を描くことが好きだった」という場合がほとんどと思う。
小中学校の美術教育を考えると、絵を描くことが嫌いにならないとしたらむしろ不思議である。実際、極めて優秀な大人に「絵を描きますか?」と聞くと、彼らは複雑な笑みを見せながら「いや、私は絵は全くダメなんですよ」「私には絵の才能は全くない。本当に下手なんです」と答える場合が多い。なんという恐ろしい偏見を叩き込まれたのであろうか!

世界的ベストセラーである、アンドリュー・ルーミスの「脳の右側で描け」でも、学力的には極めて優秀な大学院生に絵を描かせると、小学生と大差ない絵しか描けないのが普通であるらしい。単に下手であることが問題であるのではなく、絵を描くことに対する奇妙な抵抗があるのである。
岡本太郎さんも、学校の美術教育の歪みを憂えていたが、同時に、誰もが絵を描くことの重要さも訴えていたと思う。人間には表現することの根源的な欲求があり、絵を描く以外にも、歌うことや踊ること等があるが、絵はその中でも易しい方法である。紙とエンピツがあれば良い。
台所のゴミを捨てるのに、ゴミの分析をする必要がないのと同様、学校の美術教育を忘れるためにその分析をする必要はない。単に捨てれば良い。人間は、もともと絵を描くのが好きなのであるから、余計なものを捨てれば描けるようになるだろう。
先のアンドリュー・ルーミスも書いていたが、絵を学ぶことで、ビジネス、生活、スポーツなど、あらゆる面で才能を伸ばせる可能性もある。私も、コンピュータシステムの開発に能力の発展を見た。
私も、絵はさっぱりの口であるが、何の問題もない。気楽に描き続ければ良い。岡本太郎さんは、上手い絵はダメだと言い切ったのだ。時には、専門家が「このように描くべし」という雑音を入れることもあるが、役に立った試しはない。非常に参考になったのは、専門家からも異端とされる岡本太郎さんや池田満寿夫さんの本である。早い話、彼らは「本気で好きなようにやれ」と言うだけである。

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2007.11.07

思いやりは集団への反逆から生まれる

アンケートによるベスト10なんてものが人気があるようだ。
最近では、「女が嫌いな女ベスト10」で沢尻エリカさんが1位に輝いたとか、恒例では「結婚したい男(女)」「抱きたい(抱かれたい)女(男)」「上司にしたい」などのベスト10である。
私には、こんなもの、何が面白いのか感情的には理解しかねるが、なぜこんなものが人気があるのかはよく分かる。これも学校教育の成果なのである。学校教育を受けると、権威者の意見、公式あるいは多数とされる考え、テレビアナウンサーの表明、感じのいい大企業の宣伝やCMを無分別に何でも受け入れるようになる。
自分の意見は無いが、自分にしか関心がない人間は、他人の意見を気にし、それと同調していることを確認して安心するのである。

アニメ好きの私は「アニメ名場面ベスト100」なんて番組があると興味が出て見てみるのだが、選ばれた場面は、私から見れば、なんとも下らない場面ばかりである。それを、ゲストの芸能人達が、「これが良い」と頷いたりするのである。
例えば、「めぞん一刻」というアニメで、五代君と響子さんという男女が結婚することになるのだが、名場面というのが、響子さんが五代君に真面目な顔で「私より先に死なないで下さいね」というものである。一見、思いやりの言葉だが、自分が死んで後に残される五代君のことを何にも考えていないだけの話である。これが、「私が死んだ後、思う存分悲しめ」という響子さんの隠れた願望を表したものであれば、なるほど、なかなかの名シーンと思うが、誰もそんなふうに理解はしていないようだ。

そもそも、先の「抱きたい(抱かれたい)」「上司にしたい」、そして「名場面」にしろ、それぞれの個人の持つバックグラウンドの問題であり、他人の意見や考えなどどうでも良いものばかりのはずである。
もちろん、古くは1つの村落の中で、情報の行き渡った現在では一国の中での共通した感覚や考え方というものは確かにある。しかし、それとは別に、自分の家や家族(あるいは恋人同士)の特別な事情や、自分個人として培ってきたものがあり、地域や国の中での共同思想に個人思想が同調するだけでは知性ある人間とは言えないのである。
世界平和を訴える理想主義者がうまくいかないのは、全ての個人思想を全体の共同思想と一致させようとするからだ。しかしそれは知性も活力もない状態である。知性や活力は個人的思想から生まれるものなのである。

ひきこもりというものは、国家や学校の持つ共同思想と個人の持つ思想とのギャップが大きいのだが、自分の思想をたやすく共同思想に同化させなかった者であろうと思う。なぜ同化させなかったかというと、やはり直感か洞察に優れているのだ。
W.B.イェイツは「集団の中に真理はない」と言ったが、確かに、人間は集団になると狂気に染まるのである。孤独の中で精神を鍛えるしか真理に近付く道は無いとも言った。
共同性というものも大事ではあるのである。しかし、それがために個人を全体に従わせるだけではいけない。そして、健全な個人主義を貫けば、おかしなことに個人は消えるのである。逆に、集団の中には異様に変質した個人的特性があり、そこには永遠に平和は訪れない。
戦争をなくす方法というのは、集団的狂気を個人的知性がどう指導するかの問題である。
昔、SF作家の平井和正氏は、原作を手がけた漫画「エイトマン」のアニメで、自ら脚本を書いた最終話で谷博士の口を借り、こう締めくくった。「他人に対し、暖かい思いやりの心を持つことだけが、人類が生き延びる唯一の道であると私は信じる」
ここには、国連もアメリカなどの超大国の指導もない。個人の考え方の問題である。思いやりの心は特に高度な個人的知性であり、集団に発生するものではない。むしろ、集団に反逆する個人に特有のものなのである。

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2007.11.06

虹の根っこ

「虹の根本には宝物がある」という話は案外有名なのかも知れず、Web検索すると沢山ヒットする。私は、立川恵さんの漫画・アニメ「怪盗セイント・テール」で知っただけである。

「虹の根本に宝物がある」なんとも素晴らしい表現だ。これは事実である。もちろん、本当の虹の根本のことを言っているのではない。
そういえば、「ふたりはプリキュア」の主題歌にも「闇夜に浮かんだ虹の架け橋。ここに降りて奇跡」という歌詞があったが、こちらの作詞者もよく理解しているかもしれない。
ロマン・ゲイリの小説に「天国の根っこ」というものがあるらしいが(翻訳されていないと思う。私はコリン・ウィルソンの「至高体験」でのこれの引用を読んだだけだ)、何か通じるものがある。

虹とは「美しい夢」「幻」を意味している。良い意味でも悪い意味でもね。
すぐに消える儚い夢や幻なのである。だが、なかなか楽しめるものでもあるだろう。
人は幻には目を奪われても、その根っこは見ないものなのである。
B'zのかつてのヒット曲「Love Phantom」は、最後は女性の語りで終わる。「いつも幻を愛している。何も分からずに」と。本当に、人間は幻をかくも愛するものなのだ。
では、幻を作っているものは何かというと、もちろん心である。心は、その傾向性に従って、ほぼ無限の幻を作り出す驚くべき力である。だが、いかに美しくドラマチックであっても所詮幻である。それは実在ではないが、我々はそれに執着し、振り回される。全てとは言わないが、心の影響とは破壊的である場合が多いのだ。
だが、幻を幻として見れば、心は静かになり、鏡のように澄み切る。すると、そこには実相が映し出される。実相、それはこの世の真のありようである。それは澄み切った心に映る反射でしか我々は見ることができない。
これを知ることができれば、虹の根っこである心の在り様も分かる。すると、心が織り成すこの世の夢や幻を、夢や幻として楽しむことができる。そうなると、もはや、我々は心を無理に満足させる必要がなくなる。これこそ解放を意味するのである。
虹という、美しいがすぐに消えていく幻のようなものを見て、賢い人はこの世の在り様を見抜いたのだ。

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2007.11.05

学校に行かなくても困るはずがない

日本ブログ村の「いじめ・登校拒否ブログ」部門に参加した。
私自身は登校拒否ではなかったが、本当は登校したくなかった。しかし、昼間の芸能ゴシップ番組や秘密のおやつやその他の楽しみを満喫できる自由な時間を邪魔されたくない母親に鬼の形相で(高熱がある時でさえ)毎日学校に追いやられた(笑)。

まずはっきり言いたいのは、学校に行かなくてもさほどのことはないということだ。何も困ったことにならない。
学校に行けば、国家や大企業にとっては都合の良い人間(何にも興味がなく、退屈しやすいので無駄な消費をし、労働者としては管理者に従順な人間)にはなるというだけだ(義務教育はその目的で作られている)。
最初の1冊以外は好きではないのだが、斎藤一人さんという有名な富豪(毎年の長者番付の上位者)である企業経営者の本が沢山出ているが、その最初の1冊によると、斎藤さんは中学までしか行っていないが、その中学校でも真面目に勉強していたわけではなかったらしい。それで先生に「そんなことでは困ったことになるぞ」と常に脅されたが、結局、何にも困らなかったと言う。
私も、学校の授業を聞いたことは一度もない。授業中は常にぼーっとしており、よく怒られたが、それで後に困ったことは一度もない。
そもそも、一流大学の学生のかなり多くが、小学校の算数や国語ができないのである。それで彼らも困っているわけではない。学校とはこのように変なものなのである。
対して、NASAや一流の医療機器メーカーに納品する光学機器を数多く開発した三鷹光器の中村義一会長は小学校もロクに行かなかったらしい。また、やはり数多くの医療機器を開発したイツァク・ベントフにいたっては幼稚園中退だ。別に彼らが特異な例ではない。
少なくとも言えることは、遅くとも14歳になれば、自分でいくらでも勉強できるのである。アインシュタインやエジソンも独学で勉強した。別に学校を極端に攻撃するつもりもないのだが、学校で学ぶとしても、遅くとも中学2年で学校を不要にするのは易しいことだし、必要なことと思う。かなりアホに属する私でも、授業を一度も聞かず、読み書き計算は、時たま親に聞いたりして身に付け、後は、授業の百倍は分かりやすい参考書がいくらでも出ているので、楽に独学できた。

学校に行かなくても困ることは何もないのだから、嫌なら学校に行かないで済むようにするのが良いはずである。
ただ、著名な思想家で私も敬愛する吉本隆明氏は、学校がロクでもないものと認めつつ、学校には行った方が良いと言う。学校などを無視し、あまりに自己本位で進むと、人間としてのバランスが悪くなる恐れがあり、自分にとっては異質な世界とも適度に付き合う方が良いとかいった意味のことを言われていたと思う。確かに、学校でなくても、世間には変な場所や奇妙で馬鹿げた世界は沢山ある。自己本位だけではだめなこともあり、学校や教師を反面教師としろというような意味かもしれない。ただし、あくまで「適度に」「いい加減」に付き合えと言ったのである。学校と、「適度に」「いい加減」に付き合えるなら私も反対ではない。

いずれにしろ、学校にいかないと恐ろしいことになるという国家的洗脳などにはまらないことだ。むしろ、学校に行くと恐ろしいことになるのではないのか?自分でものを考える能力、自由に発想する能力、好奇心や集中力を根こそぎ奪われる可能性が高いと思えてならない。
大切なのは、学校に行った、行かないで区別されない社会であることだ。学校やひいては国家は権威を失うそのような危険をあえて生み出すはずがないので、なかなか難しいとは思うが、上にあげたように、ちゃんとうまくやっている人もいくらでもいる。むしろ、多少苦労した方が、得るものも大きいと思う。

参考書籍
変な人が書いた成功法則 (講談社プラスアルファ文庫) 斎藤一人
お金は宇宙から降ってくる(中経出版) 中村義一
ベントフ氏の超意識の物理学入門(日本教文社) イツァク・ベントフ
自伝ノート(東京図書)アルベルト・アインシュタイン

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2007.11.04

病室の少女

あまり真に迫ってもいけないので、私の子供の頃見た幻とでも思って欲しい。

私が小学3年生の時、母親が入院していた病院の6人部屋に、小学5年生の女の子の患者がいた。
とてもおとなしい、静かな子で、大変な美人だった。しかし、彼女の両親が見舞いに来るのを誰も見た者はなく、夜遅く、祖母らしき人が時々来るだけだったようだ。休日に見舞いの子供が来たこともないらしい。
私の母親や、おばさん達がお菓子をあげると、丁寧にお礼を言う礼儀正しいしっかりした子だったが、にこりともしないらしい。
ある日曜日、私が病室に行くと、彼女1人だった。彼女は、おそらくは誰も見たことのない笑顔を私に見せ、「お母さんは1階で他の人とお茶を飲みに行ってる」と言う。
美しい笑顔だった。噂では、彼女は長くはないらしい。
彼女のその後は分からない。私は5年生になった頃、彼女のことをよく思い出した。もうこの世にいないに違いない。そう思うと、太陽すら絵のように非現実に感じ、言いえぬ感覚に囚われた。
しばらく忘れていたが、最近見た「エル・カザド」というアニメで、マフィアの大物が「毎日3食喰えれば天国だ」と言うのを聞いた時、不意に思い出した。彼女のような運命を生きなければならない者もいる。毎日、3食食べられれば、何の不満があろう。

20071104
で、そのような雰囲気のものを描いてみたのですが、まあラクガキです^^;
一応、絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2007.11.03

私が死んでいると言える訳

変なことを書くので(いつもだが)、変に読んで欲しい(どんな読み方だ)。
神様が特に好む人とは(神様に嫌いな人がいるとは思えないが)、馬鹿が付くくらい正直な人であることは間違いないと思う。もちろん、いつもそうしろという意味でもない。マザー・テレサすら、慈善活動にも世間的駆け引きが必要と思い知った時には、嘘はいけないが正直一辺倒でもいけないと悟ったものであるらしい。
有名な宗教家の五井昌久さんという教祖様がいたが、彼が子供の頃は戦争中で、貧しい子供も多かった。ある時、学校で、衣服の支給があり、「今着ている服以外にない者は手を上げるよう」教師が言ったのであるが、五井さんは、もう1着あったことを思い出し、手を上げなかった。しかし、裕福な家の子でも手を上げていたらしい。家でそのことを言うと、兄弟はみんな服を貰って帰ったのに、お前は馬鹿だと言われたようだ。別に私は宗教好きでもないが、五井さんのこのお話は印象に残った。
ところで、五井さんは修行時代、車の交通量の多い道路を、目を閉じて渡るよう神様に命じられたことがあったと言う。恐かったが、神様の指示通りにしようとすると、神様が「馬鹿野郎!目を閉じて道路を渡るやつがあるか」と言われたとある。何か、先のマザー・テレサの話を思い出す。いくら宗教家でも、世間の常識は必要らしい。良いことだ。
尚、私は小学2年の時、やはり神様(?)に言われ、交通量の多い車道に左右を一切見ずに飛び込んだことがある。それも度々(笑)。奇跡的に怪我1つしなかったが、今思い出すと、なかなかぞっとする(笑)。そういえば、かのイエス様も「汝の神を試すなかれ」と言っておられたようだ。量子力学の多世界解釈によると、私はその時実際に死んでいたと言えるかもしれないが、それはそれで良いであろう。実際、私は世間的には死んでいると感じる。死人が書くブログというのも、なかなか珍しいはずだ(笑)。

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2007.11.02

シャーマンの力を得る法

私は睡眠時間は4~5時間なので、通勤電車や仕事場でよく入眠幻覚を見る(をい)。
ところで、このような入眠(半覚醒)状態での幻視というのは、人間にとって存外に重要で、これは個人として持っている幻想に関係する。しかし、それと同時に、集団として共同で持っている幻想とも関係する。
現在は、この集団が、昔のように地域であることは少ないが、学校や会社、あるいは、芸能、スポーツ、大企業の製品やCMといった場合が多い。
個人の幻想と、共同幻想は普通の人間ではかなり近い。しかし、個人の幻想と、共同の幻想に著しく差異がある場合、その者はシャーマンや巫女になる素質がある。ただし、個人幻想と共同幻想に差異があるとは言っても、単にそれだけでは、精神病患者か狂人か、よくて変わり者である。
シャーマンや巫女になるには、個人幻想を制御できなければならない。
当然、私の個人幻想は、共同幻想と全く関わりがない。
ひきこもりというのは大抵そうで、ひきこもりはシャーマンとしての強い力を得る素質がある。
個人幻想を制御するとは、決して、好きな幻想を見ることではない。幻想にただ気付くだけでいることができることだ。一切心を動かされず、幻想を来るにまかせ、去るにまかせる。すると、幻想の根っこも見える。「虹の根本に宝物がある」とはそういう意味である。
幻想の根っこが見えれば、実は幻想も自由になる。幻想が自由になるということは、この世も自由であるということだ。

さりげなく、おそるべき人類の秘密を書いてしまった。うっかり読んだ方は幸運(?)である。

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2007.11.01

ひきこもりはソフト開発に向く?

ひきこもりに適した職業であるが、ひきもり気質の私自身の職業であるシステムエンジニアについて考えてみよう。
ところで、私はシステムエンジニアという言い方が好きではない。いかにも、企業の都合で作られた職業名であり、何か統一した定義があるわけではない。
一部では、システムエンジニアはシステム設計者で、プログラマはその下の立場にあるように言われるが、こんなことも信じない方が良い。現代的な開発法には、設計しながらプログラムするという手法もあるし、一流の開発者にだって、「最初にきちんと設計するというのは現実的でない」と、お堅いシステムエンジニアに怒られそうなことを言う者もいる。
で、私はよく「ソフトウェア開発者」程度の言い方をするが、別にプログラマでも良いと思っている。現在のGUI型パソコンの創造者と言っても良いアラン・ケイなどは、ずっと職業はプログラマで通しているらしい。
ここでは、「ソフト開発者」で通したい。

さて、前にも少し書いたが、特に専門的な職業をしている人の「自分の職業紹介」みたいなことはあまり信用しない方が良い。
例えば、優れたイラストレーターの方が、イラストレーターという仕事やその適正、心構えなどというものを書いているのを見たが、それを見たら、誰でもイラストレーターになろうなんて気は失くすと思えた。他にも、物書きなど、比較的少数で、確かに厳しい職業の方には、自分の職業を過度に過酷視する方が多いように思う。しかし、この世に楽な仕事などないが、一部の例外を除き、やってやれない仕事もないに違いない。早い話が「アンタにやれる仕事が、なんでそんなに難しいのだ」と言いたいのである。

ところで、ひきこもりがソフト開発の会社に開発者として入ろうとする場合、あの一般的な募集広告が問題だと思う。私なら絶対に応募したくない(笑)。
多いのが、入社歴の浅い社員が、「わが社は」と職場について語る文面である。やりがいある仕事、和気あいあいとした人間関係。厳しくも暖かい上司や先輩。ちなみに趣味はドライブとかテニス。そして楽しい社員旅行・・・。感覚の鋭いひきこもりであれば、全部嘘っぽいと分かるはずだ。大体、気持ち悪いではないか?
趣味を持ち出すほど、職場に馴染む気などない。こちとら趣味はナイフにアニメにお絵描きである(笑)。しかし、こんな会社に入る時は、「読書」とか「美術鑑賞」とか言わないといけないのである。
社員旅行に関しては、ひきこもりなら、学校の遠足や修学旅行がひどく憂鬱だったはずだ。話の合わない連中と1日中団体行動させられるのだ。これを拷問と言わずになんと言おう。社員旅行のある会社や、強制的に参加させられる会社はやめたがいい。
なぜこんな募集が多いかと言うと、一つには、確かにソフト開発会社では協調性のある個性のない人間が欲しいのだと思う。手がかからず、言う通りに滅私奉公してくれる人間で、能力は2の次である。

よく、ソフト開発者(システムエンジニア)はコミュニケーション能力が大切とか言われる。これが大誤解を生んでいる。
コミュニケーション能力とかいうと、話し上手とか、冗談をよく言い、いわゆる周りを盛り上げるノリのいい人間がイメージされることもありが、そんなヤツらは単なるお調子者である。
私の知る優秀なソフト開発者はみんな口下手だ。冗談も言わない。暗い!(笑)宴会では、場がシラけるから居て欲しくないというタイプだ。そもそも宴会には出ない。
ソフト開発は、確かにお客様に聞くことは多いが、一般的に言われる「コミュニケーションの上手い」開発者は、無駄話ばかりして非常に効率が悪い。ソフト開発においては、聞くべきことというのは決まっているのだ。よって、話は営業などと比べれば楽なのである。もしそうでないと言うなら、その者はヒアリングの基礎が出来ていないのだろうと思う。
ついでに年齢の話をしておく。ソフト開発者は若ければ若いほど良いというロリコンのおじさんみたいなことを言う者が多い(笑)。しかし、経験がなくても30位なら十分だし、別に40でも50でもできると思う。ただし、駆け出しのうちは給料を沢山払えるわけではないので、その点だけは致し方ない。
50歳まで砂金取りしかしたことのない世界的プログラマもいたし、60以上の未経験者しか雇わないソフト開発会社の話も聞いたことがある。
年齢よりも、じっと座って仕事をするのが苦痛でないことの方が大切と思う。

ソフト開発者になりたければ、なるべく小さな会社が良い。社長がもともとひきこもりというのが良いのだが・・・。仕事そのものはひきこもりに向いていると思う。よって、駆け出しの時期を除いては比較的楽しく働ける可能性があると思う。
もちろん、好みによる適正はある。
時間があったら、自分でPerl言語や、Basic言語でプログラムしてみると良い。え?Perlは古い?いや、いまをときめく「はてな」のシステムは全部信念の基にPerlで作られ、世界的ハッカーにしてITベンチャーの成功者ポール・グレアムもPerlを薦めている。
Basicはダサい?本当かどうか自分で調べると良い。私はC言語系も使えるが、余程のことがない限りBasicで十分だ。Basicといえば、ちょっと前までVB.NETと呼んでいたマイクロソフトのBASIC言語が、人気がないせいかVisualBasic2005という言い方になったが、私は相変わらず好きではない。無料で使えるので試してみると良いが、プログラミングとは関係ない部分で憶えることや気を使うことが多過ぎる。これは、Visual Basic2005よりずっと小さいVBA(Visual Basic for application。マイクロソフトオフィスに標準のプログラミング言語)ですらそうだ。
本音を言うとRubyを薦める。仕事があるかどうかが疑問ではあるが、楽天のシステムにRubyが採用されるなど、将来性はあると思う。まあ、とりあえずPerlは押さえておくと良いと思う。

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