« September 2007 | Main | November 2007 »

2007.10.31

ひきこもりに向いた仕事

ひきこもりに冷たい社会ではあるが、十分な収入があればそう困ることもないと思う。
そこで、ひきこもりに相応しい仕事について書いてみようと思う。
自らもひきこもりであると公言する詩人、文藝評論家、思想家の吉本隆明さんは、作家というか、物書きというのはひきこもりに向いた職業であるといった趣旨のことを書いておられる。
こう言うと、特に社会評論家のような方は猛反発するかもしれない。しかし、私はシステムエンジニアだが、他のシステムエンジニアが言う「システムエンジニアの適性」なんて全く信用していない。彼らが嘘か間違いを言ってるとは言わないが、同じ仕事でも色々であるのだ。私は、システムエンジニアもひきこもり向きと思うが(私もかなりのひきこもりだ)、それは次回以降延べる。

吉本隆明氏が言う、作家になる方法とは、「毎日書く」ことだけだ。とにかく、毎日絶対書く。書けなくても原稿用紙に向かう。これを10年続ければ絶対にものになるのだそうだ。尚、今なら原稿用紙ではなく、パソコンかあるいは携帯であるが、特に携帯の場合は単純過ぎる文章になりやすいことに注意する必要があると思う。

以前、サラリーマンをやめて物書きになった人が、その経緯を書いた本を読んだことがある。会社をやめた原因がいまひとつ分かりにくかったが、彼もひきこもりだったのではないかと思う。彼は、カウンセリングというか、「相談業」のようなことを始めたのだ。まあ、客が来るはずもない。毎日、事務所にしているアパートに「出勤」し、1人で何もせず過ごして夕方に帰るのである。(ひきこもりには最高である。)
しかし、さすがに退屈になったので、何か書き始めたらしい。そして、毎日、原稿用紙1枚を埋めることをノルマにしたと言う。1年も続けると、多少は文章も上手くなり、これは書かれてはいなかったが、ひきこもり特有の感性の鋭さもあってか、食べていけるようになったらしい。彼の場合、10年でなく1年であった。

最後に、アメリカの作家マーク・ハーナッキーについて述べる。
彼は、小学教師、証券マン、弁護士と仕事を変え、成功を目指しがんばったが全く成功せず、仕事はどれも面白くなかった。そして、ついに病気に倒れる。その中で自分を見直し、自分に向いた仕事は作家であると認識する。
作家として成功した後、人に「作家ですか!うらやましいですね。私も作家になりたかったのです」と言われると、必ず「では、あなたも作家になればいいじゃないですか」と言い返すようだ。なりたければ絶対になれると確信を持っているのである。
彼だって、作家になると決めた時、仕事のあても無ければ、文章力もないという状況だったが、とにかくがんばったとしか言えないらしい。彼は、「目的の達成のために必要ないかなることも自発的に行う心構え」さえあれば可能であるという。尚、必要なのは心構えだけで、実際に何かする必要はないらしい。ただし、例えば、社会保障を受けるために、その方面の機関などに電話をかけることまでしなくていいと言っているわけではないことに注意するようにと書いてはいたと思う。

ひきこもりの方にはテレビゲーム愛好家が多いと聞く。私は、この点だけは憂慮している。
そんなことはやめて、書き物に励めばどうかと思う。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.30

世界というショー

現在のSF映画や怪獣映画のCGを駆使した映像技術は凄い。
ただ、1950年代や1960年代は、当然CGは無いならがも、現在でも鑑賞に耐える素晴らしいものもある。反面、確かに、「チャチ~!」と言わざるをえないものもあると思う。
言っては悪いが、1966年公開という「黄金バット」という特撮映画のDVDを見たが、これが「チャチ」の代表のようなものだった。確かに、現代は、この「黄金バット」のような純粋に子供向けの特撮、あるいはアニメは少なく、アニメですら「大人の鑑賞」をクリアする作りとなっていることに注意する必要もある。
で、「黄金バット」であるが、全てにおいて、子供向きということもあるのだが、とにかくチャチであった。
しかし・・・。
当時、この作品を見ていた子供達は、決してそうは思わなかったはずだ。
荘厳ささえ感じる映画であったに違いない。普通の大人の感覚では、変な袋を被っただけのような宇宙人ナゾーも、実に恐ろしく、雰囲気たっぷりだったと思う。

私が中学1年の時、ある漫画を見ていると、生贄にされる裸体の少女の実に艶かしく美しい絵に見入ったことがある。しかし、わずか1ヵ月後、同じ絵を見ると、なんとも単純で、また下手な絵としか見えなかった。
しかし、これを「目が肥えた」と言うべきか、「感性が衰えた」と言うかは判断が付かない。

再び、「黄金バット」を精神を変性させて見てみた。すると、そこに、無限の迫力を持つ強烈な世界が浮かび上がった。
映画だけではない。この世界そのものが、マインドが作り出す幻想なのである。実際、世界は素晴らしいショーである。しかし、言い方を変えればショーに過ぎない。
人生をどう感じるかは自分次第であることが分かると思う。

尚、「黄金バット」の主人公、ヤマトネ博士を演じた当時27歳の千葉真一がクールでカッコ良かった。そして、当時10歳の少女モデル、高見エミリーの可憐さは掛け値なしであった。黄金バットも、「お前が水を注いでくれた」から、お前の召還にいつでも応じるとエミリーに言ったが、実は可愛いからだと正直に言っても良かったと思う(笑)。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.29

儀式

大一番を前に儀式を行うことがよくある。
それが、形骸化されているものもあれば、欠くべからざるものであることもある。
聖杯という、酒を注ぐ道具が重要な儀式に使われることがあるが、日本でも杯にまつわる儀式は多い。
私は、これは本来、杯よりも、酒に意味があるが、聖杯の美しさ、荘厳さがそれをより効果的にするのだと思う。

「エル・カザド」というアニメで、賞金稼ぎ(早い話が殺し屋)のリカルドが、愛くるしい幼い娘のリリオ(自分の娘ではない)に、優しく「仕事だ。終わったらすぐ戻る」と言い残し去った後、酒場でおそらくは強い酒を一気に飲み干すと、目の色が変わるシーンがある。おそらく、類似のものはよく見ると思う。これが最もシンプルな儀式である。

ムエタイ(タイ式ボクシング)では、試合前、選手は一連の踊りを踊るようだが、あれも儀式である。酒は飲まないが、やはり踊りで論理思考を麻痺させる目的はあるのではないだろうか?
日本の、決戦前の水杯も、本来は本物の酒が良いのではと思うが、いろいろ不都合があるので水になったのだろう。しかし、酒を飲んだ時の感覚は思い出すと思う。また、酔うと本当に強くなる剣士はいると思う。
日本の結婚式の三々九度が本当に酒を飲むのは面白い。

儀式とは、心を抹殺するために行うのである。高貴な目的のために邪魔なのは心の外面的な働きである。心が静まり、不動となった時、人に不可能はなくなる。
あなたも心を打ち消すセレモニーを行うように。そうすれば、あなたは無敵である。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.10.28

現実という想像

日本の思想書の中で、極めて特異な地位を築く「共同幻想論」を書いた吉本隆明氏は、自らもひきこもりであることを自認するが、彼によると、ひきこもりの性質は1歳位までに決まり、その後修正できる範囲は3割程度と言う。
私も、4歳で幼稚園に入園した際、自分がひきこもりであることを自覚した。幼稚園の先生に言われた言葉で憶えているのは、「あら、1人で遊んでいるの?」だけである。
ところが、そこはカトリック系の幼稚園であったが、お御堂に行くと、必ずある若いシスターが居て、いつも全面的な愛情を注いでくれた。しかし、彼女をお御堂以外で見た憶えはないし、卒園アルバムにも全く写っていない。考えてみれば、せいぜいが15歳にしか見えない若いシスターがいるはずがない。彼女は私が作り出した幻だったのだろうか?いや、想像と現実に違いがあるのだろうか?

20071028

最近、大学生の方から、漫画・アニメに登場する私の憧れのシスターさんの彼女による直筆の絵をいただいたのですが、それがあまりに素晴らしかったので、私もシスター熱が再燃しました(*^^*)
で、私も幼い時の不可思議な(?)シスターさんを描いてみたりしました。。。
時には苦しそうな顔をしているのですが、近寄っていくと、必ず笑顔を見せる人でした。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます・・・とさ(笑)。

| | Comments (6) | TrackBack (0)

2007.10.27

思う存分ボーっとせよ

ボーっとしていることの多い人がいると思う。
授業中、ボーっとしていると、教師が怒る。私に言わせれば、何が気に食わないのか分からない。ボーっとしててあんたの邪魔になるわけではない。
アインシュタインも授業中はボーっとしていた。彼は、もともと幼い頃からボーっとしていたのだ。授業中に教師に叱責されても黙り込んでいたらしい。
エジソンももちろんボーっとしていた。教師はエジソンを辱めるあだ名を付け、いじめを行った。それでエジソンは8歳で学校をやめ、元教師であった母親が教育したが、母親は思う存分彼をボーっとさせた。エジソンはいい年になってもひどい文章を書いており、母親も形式的教育には熱心でなかったかもしれない。
思う存分、ボーっとすれば良いのである。ボーっとすることほど大切なことはない。
ボーっとしているのは、何ら生産的ではないし、何かを学習しているわけでもない。また、何かを考えているわけでもないだろう。
睡眠には、実は記憶を定着させる意味もあるらしいのだが、ボーっとすることは知恵を育むのである。睡眠をたびたび邪魔されると、精神に悪い影響を与える場合もあるが、ボーっとすることを度々邪魔されると、やはり、人間性や知性に悪い影響を与えるかもしれない。
思う存分ボーっとせずに大成した者などいない。子供の頃や、青年の頃、いったい何を考えているか分からない者が後に大物になるのである。
それを瞑想と呼ぶか、ひきこもりと呼ぶかはどうでも良いことだ。
尚、せっかくボーっとできる時間があるのに、おかしな瞑想法を学んでマントラを唱えたり、無理してイメージ描いたりしてはならない。大金持ちになった自分をイメージすればそれが実現するとかおかしなことを言う者もいるが、それで金持ちになった者はいないから心配しなくて良い。マントラに関しては、それを唱えることに退屈して居眠り状態になった時に、ようやく意味が出る。だから、心が落ち着かないならマントラも良いが、最初から心地よくボーっとできるなら、最初からただボーっとすれば良い。
学校と違い、職場ではほどほどにボーっとしなくてはいけない。しかし、ボーっとする以上に意味のあることは学校にはほぼないと思う。
家での用事は、まとめて行い、まとまった時間ボーっとできるよう工夫すると良い。
日本には、「三年寝太郎」という素晴らしい昔話がある。本当に寝る必要はないが、たっぷりボーっとする時間を持つことで、知恵とエネルギーを得ることを知っていたのであろう。

| | Comments (9) | TrackBack (1)

2007.10.26

呼ばれたら、はい、お返事?

良い子の条件とは何であろう?
それは、「呼ばれたら、すぐお返事」ができる子である。で、呼ぶということは、何か用事を言い付けるに決まっている。つまり、何かして欲しい時に、すぐに引き受けてくれるのが良い子である。
学校もこの理念を全面採用している。呼ばれたら、明るく元気にお返事しなければ容赦しないのである。先生が呼ぶ時は、生徒に偏見を叩き込みたい時に決まっている。よって、素直に洗脳されるのが良い子なのである。
ところで、一昨日も取上げた思想家の吉本隆明氏は、後に有名な漫画家および作家になる娘2人に、決してそんなしつけをしなかった。呼びつけて買い物に行かせるくらいなら、思想界の巨人が自分で買い物かごを持って野菜でも何でも買いに行った。
なぜか? 時間を分断され、まとまった時間を持てないと何もできないからだ。ぼーっとしている時間だって大切なのである。まとまった時間、思うようにすることで、考えも深まるし、個性も育つのである。
学校では、子供が興味が出てきたところで違うことをやらせる。これは、子供が何にも興味を持たなくなると同時に、思考を熟成させる機会を奪い、自分でものを考える能力を破壊する。学校は、政府や大企業にとって都合の良い、こういった人間を作る場である。
まとまった時間、好きなようにする。それがひきこもることである。ひきこもるというのは、実に良いことであるだけでなく、必要なことだ。吉本氏も、「若者よ、大いに引きこもれ」と言う。To me that's really true(僕も全く同感だ。。。なんで英語^^;)

| | Comments (4) | TrackBack (0)

2007.10.25

孤独な時間の大切さ

小学校の低学年の頃でも、休み時間に教室にポツンと1人で居る子が、クラスに1人くらいはいたと思う。それは、別に悪いことではなく、むしろ、心静かにできる素晴らしい時間であるのに、「休み時間は友達と元気に遊ばないといけない」という風潮が学校の中に強くあり、あげく「休み時間は教室に残ってはいけない」なんて馬鹿な決まりまでできたりする。それによって、1人でポツンとしていることが、何か悪いことや恥ずかしいことででもあるかのように思い込まされることが、犯罪的なほどの問題なのである。
1人孤独にひきこもらなければ分からない、大切なこともあるのである。

20071025

で、平日にラクガキしました^^;
クリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。下手でもいいじゃないか(笑)。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

2007.10.24

ひきこもり気質は欠点ではない

日本ブログ村の、メンタルヘルス-ひきこもりカテゴリーに参加した。
いまでは、私をひきこもりと言う人はいないし、むしろ恐いもの知らずのように見えるらしい。しかし、私はかなりのひきこもり気質である。
そして、ひきこもり気質というのは治るものではない。いや、「治る」という言い方自体がおかしい。ひきこもり気質は病気ではないし、欠点ですらない。

詩人、思想家として著名な吉本隆明氏(よしもとばななさんのお父さんといった方が通りが良い場合もある)も、いろいろな著書でひきこもりは決して悪い性質ではなく、普通の人より感じることや考えることが多いだけであり、むしろひきこもれる性質は優れたものであると書いておられるが、私も同意だ。
ただ、長時間ゲームをしている者は、自己を見つめるようなこととは無縁になりやすく、ひきこもりの良い面がなくなってしまうと思う。

ところで、海外の事情は分からぬが、日本では、ひきこもりに合う仕事が少ないように思う。
日本の社会は、実際には国家や大企業に支配されており、経済的に効果的なもの、すなわち、自分で考えることのない人間が集団で同じ行動をする仕事が優遇される。よって、それに備え、学校では「前に倣え」の言葉通り、皆と同じ行動および考え方をするよう強制される。感受性の強いひきこもり気質は、そのようなものにおぞましさを感じるはずだ。よって、学校も仕事もうまくいきにくいのだろう。
先の吉本隆明氏も、ひきこもりが生きて行く2つの道として、自分の性質をある程度変容させるか、ひきこもったままでもやれる仕事に就けと書いておられたが、他人と関わらずにやれる仕事はあまり多くは無いかもしれない。
しかし、あまり他人と関わらずにやれる仕事というのもある。
逆に、私の場合、見知らぬ他人と関わりまくり、話しまくる仕事から始めたのが面白い。ただ、そうなったのも、巡りあわせと言うか、運命みたいなものもあり、誰にでもお薦めできるわけではない。
人生は偶然の連続で出来ているようなものだが、運命の差し出すものを活用しさえすれば、そう悪い人生にはならないのではと思う。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.23

神もサイコロを振る

人類が文明を築き始めた頃から言い古されているが、「幸福になるには」という問題にはいまだ答が出ず、むしろ大誤解がまかり通っている。
現代の我々は、幸福になるために、良い学校に入り、良い会社に入り、良い伴侶を探す。しかし、そのようなものが幸福をもたらすことは決してない。
銃殺隊の前に引き出された男が、「なんだ!幸福になるなんて簡単なことじゃないか」と悟った話を何かで読んだが、何か緊急事態にでもならない限り、真理が見えないのは、我々の愚鈍な心のせいである。
幸福になる真理を、W.B.イェイツが戯曲「カルヴァリー」で美しく描いている。
十字架にかけられたイエスが「私が神に頼めば、叶わぬことはない」と言う。
だが、ローマ兵達は、「その神は我々の神ではない」と言う。
さらに彼らは言う。
「我々の神はサイコロである。予期せぬことでさえあれば、何事であれ、起こることが最善である」
敗北を悟ったイエスは打ちひしがれて言う。
「我が主よ。なぜ私を見捨てたもう」

幸福になるには、未知を求めることである。
それは決して、田舎娘が町に行きさえすれば幸福になれると想像することではない。想像が全ての不幸の原因である。彼女が何も期待せずに町に行くなら、幸福になるだろう。
映画「タイタニック」で、なぜ金持ち達はジャックに感心したのだろう?
ジャックは、「朝、目が覚めると、未知なる1日が始まる。どんなカードが配られても、それも人生」と言ったのだ。悟りすぎの感はあるが、まこと、ジャックは幸福な人間である。
CLAMPさんの漫画「カードキャプターさくら」で、エリオルがこう言う。
「スピネル。この世で一番楽しいことは何か知ってるかね?」
「何ですか?エリオル」
「予期せぬことが起こることさ」
もちろん、計画は立てるが良い。執着無く、知性に計画を立てさせるのだ。だが、予定通りに行かない計画を楽しむことだ。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.22

騙されるな

いまどき、ユリ・ゲラーが本物の超能力者であると信じている人は、一般の人では少ないと思うが、かつて日本を含む世界中の多くの普通の人が、彼が超能力を持つという認識を持っていたものだ。
他にも、「魔のバミューダ・トライアングル」(大西洋のバミューダ諸島を含む海域)で怪奇現象が起こると当然のように言われていた頃もあった。
また、1930年頃に、デューク大学でライン教授が行ったESP実験(遠隔透視能力等)での、ライン教授のレポートを真に受けて、ESP能力なるものに信憑性があると本気で信じられていた頃もあり、ビジネスの成功法則で著名なナポレオン・ヒルなどは、その代表的な著書「巨富を築く13の条件」で、この実験を取り上げ、人間には神秘な力があり、この力を活用する重要性を説いたりもした。(他にも、「信念の魔術」で有名なクラウド・ブリステルなど、多くの成功宗教の教祖がライン実験を引用・利用した)
将来であれば、今人気のある占いおばさんや、怪しげな霊能力者を信じていた人も多かった馬鹿な時代もあったなあと言うかもしれないが、その時は、もっと別の馬鹿なものが信じられるのだ。つまり、ある偏見が別の偏見に変わるに過ぎない。
なぜそんなことになるのかという1つの理由が、ユリ・ゲラーやバミューダ・トライアングルやライン教授の実験がセンセーショナルな時にはメディアはさかんに報道するが、それらの信憑性を明らかに覆すような事実は決して報道しないからだ。メディアというものが、真実の伝達人ではなく、単に国家や大企業の下僕だということがよく分かろうというものだ。
今でも、例えば、星野仙一氏が言うことなら何でも信じられるような風潮があり、私は彼をテレビCMなどに登場させるのは問題であると思う。彼がCMで何かを良いと言ったところで、彼が本当に理解して良いと言っているわけでもないだろうし、そもそも、彼の言うことが正しいという理由など何もない(野球に関しては、ある程度の信憑性があると考えて良いのかもしれないが)。
何でも、ロクに吟味せず無分別に真に受けてはいけない。それこそが、人間としての力を弱めることになる。あなたの力を、あなたを騙す者に与えることになるからだ。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

2007.10.21

幻想の先にあるものとは

最近はすっかりダイエット本で有名になった岡田斗司夫氏であるが、彼の「ぼくたちの洗脳社会」という歴史的名著を読んだことがある(良い本だけに当然絶版となった)。
この本で、我々庶民は騙されまくっていることを懇切に説明してくれた。岡田氏は、心理学者の岸田秀氏のファンでもあるらしく、岸田氏の本に推薦の言葉を書いていたが、岸田氏の「唯幻論」は、人間は全て幻想に生きていることをフロイト心理学を基に述べている。
だが、彼らは、我々が洗脳や幻想から逃れる道があるのか、そこから逃れた時に何が起こるのかは全く述べていない。岸田氏なら、そんなこと(幻想から逃れる)は不可能と言うと思う。
しかし、不完全ながらソロモンの知恵を得た私(この言い方がいかにも幻想っぽいが)には、幻想を絶った後の世界が掴めた。
幻想は、「払った気」になっただけなら、かえって生きていけなくなる。そして、祓うことが本当に良いのかという疑問も起こるかもしれない。しかし、それは祓うべきであるし、祓わねばならないものだ。
このブログは、その道に誘う良いブログである(笑)。

20071021
で、幻想を祓う日曜日のラクガキ(なぜ?)。クリックすると大きな絵がポップアップで出るらしい(笑)。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.10.20

ままならぬ

「ままならぬ、ままならぬ」というのは、高橋弥七郎さんの小説「灼眼のシャナ」に登場する、3つ目の美女で「逆理の裁者」と呼ばれるベルペオルの口癖だが、まさに人生の真理をそのまま言っているようだ。
人生が思い通りになるなんて言うのは、詐欺師か馬鹿かのどちらかだ。普通は、詐欺師に馬鹿が騙されてそう言うのだ。

では、ソロモンの知恵を持って分かりやすく語ってみよう。
人生とは師であり、心が弟子なのだ。
弟子が師に指図するはずがない。よって、人生は心のままになるはずがない。
人生で何が起こるかは弟子には分からない。
だが、師である人生は恩寵に満ちているのだ。弟子が師に全存在を明け渡し、人生を完全に受け入れた時、弟子は師となる。
ニーチェの強者の宗教を持つ超人がそうだった。いかなる偶然も自分の意思として受け入れるのが超人である。
イェイツも、アラブ人の賢者に言わせた。「私は神の選択ではなく、神の機会を崇拝した。その時、私は神に限りなく近付く」と。
人生に心が逆らわず、ただ流すことができた時、心は静まり、澄み切っている。そうなれば人生は意のままだ。なぜなら、その時、弟子と師は異なるものではないからだ。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.19

寂しい

ユング派の精神医である、ジーン・シノダ・ボーレンの本で読んだことがあるが、「スタートレック(邦題「宇宙大作戦」)で、肉体を持たない宇宙人が、宇宙船の操作のため、ミスター・スポックの肉体に入り込んだ時、「なんて寂しいんだ!」と言ったらしい。
名作アニメ映画「美少女戦士セーラームーンR」で、地場衛(ちばまもる)の部屋で、衛とうさぎ(月野うさぎ=セーラームーン)が一緒にいる印象深いシーンがある。衛は大学生で、うさぎは中学2年生であるから、なかなか犯罪っぽい(笑)。
衛は、幼い頃、交通事故で両親を失っている。
「いままで、ずっと一人でいたの?」
「そうだよ」
「寂しくなかった?」
「今は寂しくない。うさ子(衛はうさぎをこう呼ぶ)が俺の家族だ」
うさぎは、衛に寄り添い、心の中で告げる。
「あたしがまもちゃんの家族だよ。これからはずっとあたしが守ってあげる」

衛でなくても、先の宇宙人の例のように、人間はみんな寂しいのである。
ゲーテも、人々の中に居る時ほど孤独を感じたと言っているが、それが人間だ。
だが、衛のように「今は寂しくない」と言える時が来るかもしれない。実は、そうなることが本来は確実なのである。この上ない恩寵をひたすら注ぎ、あなたを守ってくれる存在がいる。それはいま、ここに必ずいる。宗教でも何でもなく、確実にいる。ただ、みんなそれを見ないのだ。それがあると信じれば、やがてそこに目が向くこともあると思う。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.18

シカトの法則

シカトとは無視することであることをご存知と思う。
このシカトは、最も陰険ないじめと言われる。
ところで、無視にも2通りある。
意識的な無視と無意識的な無視である。
もし、無意識的に無視される者がいるなら、その者は聖人であるかもしれない。
聖人は見て見えず、聞いて聞こえず、触っても指に感じないとはこのことである。
しかし、いじめの無視は意識的なものだ。
この場合、実は無視する者は、無視している相手が気になって仕方がないのだ。
無視される方が、もし、決して心を使わず、ただ何が起こるか見ていたら、その者は不意に視界から消え去るであろう。無視し、その実、無視しているはずの相手が気になって仕方がない臆病者はさぞやぞっとするであろう。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.17

命のやりとりの意味

護身用の目的でナイフを持つことは確かに間違っているだろう。
しかし、なぜ間違っているか考えたこともない者が多いだろう。人間のやることはこんなものである。だから、ナイフに奇妙な幻想を持ったり、ナイフによる犯罪が起こるのである。

護身用にナイフを持ちたいなら、法的にどうこういうより持ってみるがいいと思う。
だが、あなたを襲ってくる相手は、あなたがナイフを取り出して、構えるまで待ってくれるわけではない。普通、人を襲う時は不意打ちである。一瞬であなたの動きを封じる方法を入念に考えて襲ってくるのが当たり前であろう。
もし、ナイフを持たなければならないほど危機感を感じているなら、部屋の中では常に壁を背にするとか、街中では、常に周辺に注意し、おかしな動きをする者がいないか気を配っているべきである。また、ナイフは一瞬で取り出し、すぐに戦闘態勢に入れるよう工夫すべきであるし、持っているナイフをどう使えば効果的かをよく調べ、練習もしておくべきである。
ところが、そのどれもしないで、ただナイフを持っているだけなら、全くのお笑い種である。
これらの備えを本当に行っても、まだ足りない。
ナイフというのは戦闘に使うなら凶器である。凶器を力にするには余程の心構えが必要である。
つまり、もし襲ってくる者があれば容赦なく殺すし、自分がその気であるのだから、逆に自分が殺されることも当然あると理解している必要がある。
もし、上記の条件が全て整えば、普通の人間ではあなたを襲うことなどできないであろう。

だが、現在の日本人でこのような備えと心構えのできる者はまずいまい。よって、危ないところに近付かず、人に恨みを買わないよう気を配る方がずっと良い。
ところが・・・昔、空手家の大山倍達さんがよく使う言葉だったが、「身にかかる火の粉は払わねばならない」こともないとは言えない。例えば、学校でのいじめである。教師も誰も助けてはくれないので、状況によっては本当に死んでしまう。現実問題として、それなら、上記にあげた備えと心構えを作るしかないかもしれない。いじめられる方がナイフを持てば、いじめる方も持つであろう。しかし、心構えの差があれば恐れることもないであろう。

ところで、お話はここからがメインである。
昔の、例えば武家の女性が、場合によっては短刀を持つようなことが本当にあったかもしれない。これは、陵辱を受けるような場合に相手を殺すということかと言うと、むしろ自害するためであろうと思う。女が小刀を振り回してどうなるものでもない。
だが、さらに上の境地があるのだ。その1段階は、相手を殺したくないというものだ。例え、野党狼藉の類といえども、その命は大切なものであり、相手を殺すくらいなら自分が死ぬというものだ。
そして、さらに上がある。それは、相手に「殺させない」ために、自ら命を絶つというものだ。殺すという行為の代償の大きさ、重さは想像もできないものだ。その恐ろしいことを相手にさせないことに最後の力を使うのである。これは人間ではできることではない。だが、それを本当に行うなら、永遠を得るのである。

| | Comments (2) | TrackBack (1)

2007.10.16

30年前の男になった現在の女性

昔の日本であれば、男にこう言わなければならない風潮があった。
「女とは、あなたの人生を彩る花でもなければ、心の支えでもない。一個の独立した人格である」
と。
いわゆる、男の子が母親に甘やかされたゆえの自己中心主義があまりに顕著になった頃だ。
だが、今は、同じことを女の方に言わなければならない時代になったようだ。
「男はあなたのためにいるわけではないのだ」
と。
ただ、男の方は、自己中心主義だと、そもそもモテないので救いはあった。しかし、女の場合は、若くさえあれば男を引き寄せる可能性が大きい。だが、その扱いは本質的にモノ扱いであり、しかも年と共に扱いは悪くなることは確実である。確実であるのだが、本人はそれが納得できない。そうなると、エステや化粧品業者のお得意様である。これらの業界のターゲットは何と言っても40~50過ぎの内面的魅力のない女性である。テレビで、若い女性になりきった気味の悪いオバさんが出る、化粧品やカツラのCMを見たことのある方は多いと思う。年齢の高い女性にももちろん魅力はある。しかし、それは当然、性的魅力とは全く別のものである。

さて、それなりの容姿を持っていれば、黙っていても関心を引くのが若い女性であるが、あくまでモノとしてであり、年齢と共にその価値は極端に低下する。
対して、男は、女性を一個の人格として認めることさえできれば、嫌でもモテるのである。これは保証できる。しかも、その力は年齢と共に増加し、老年になってすら衰えることはない。男はいかにもお得ではあるのだが、他人の人格を認めることは実は難しい。それには、己が虚しくある必要があるのだ。己が完全に虚しければ、男にも女にも猛烈にモテる。
「己が虚しい」とは、自我が無いことである。
もっとも、今は、どう考えても、その人格を認めることのできない女性が多くなってきた。いや、男もさしたる差はないかもしれない。
だが、その腐りきった人格の奥には宝石に優る輝きがある。それを見ることのできるものは万物に愛されることとなる。だが、それには心が完全に静まる必要がある。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.10.15

能ある鷹は・・・

上司の暴言を労災と認める、全国初の判決が本日あったらしい。
学校のいじめも酷いが、社会のいじめもそれに優るとも劣らない。
だが、昔であれば、暴言もセクハラもやり放題、され放題の状況も珍しくはなかったはずだ。
そして、海外では、いまでもそれどころではない状況がいくらでもある。児童の過酷な長時間労働や、奴隷扱い、モノ扱いの労働者も数千万とかそれ以上の規模でいる。彼らも我々と何ら変わらない人間である。
ところで、上記の判決は、上司の暴言により自殺したという因果関係を認められたものであるのだが、できれば、そのようなことで自殺などしなくて良いよう、強くあって欲しかった。
私自身は、過酷ないじめを受けた経験はないのだが、いわゆる「目をつけられやすい」タイプであった。よって、嫌がらせや攻撃は多かった。しかし、そんな連中はいつもすぐにいなくなった。文字通り、消えてなくなった。常にそうであるところを見ると、やはり私にも何らかの力があるのであろう。
「能ある鷹は爪を隠す」とか言う。しかし、栗山天心さんが本に書かれていたが、彼はこれを「能ある鷹は爪磨く」と言い換えた。大きなピストルを持っている大人より、いつもナイフを磨いている少年の方が不気味であると。
確かに、爪を磨いていると、ある種の恐ろしさ、狂おしさが漂ってくる。
これをヒントにして欲しいものだ。何かで自分を磨き続ける者がいつまでも負けることはない。どうせなら、良いものを磨いて欲しいものである。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.14

聖なるものとの交流

南インドの聖者、ラマナ・マハルシを訪ねた人がマハルシに言った。
「あなたと過ごす1日は素晴らしく、それが2日ならもっと良く、3日ならさらに良いのです」
マハルシはごく普通の老人であり、特に何をするわけでもなく、会話もほとんどしない。
彼の前では、誰でも(動物でさえ)直ちに安らかな気持ちになると言われる。
これほどではなくても、人と人との交わりとは、本来、このようなものなのだ。しかし、今は人が交流するのに、目的や期待が支配するようになった。
母と子にしても、母が子に何らの意図や期待も抱かない時、共に居て子は安らぐのであり、母は慈愛となるのである。

20071014
で、日曜のラクガキ。ラクガキは、私の精神の状態チェックです。みなさんもやってみると良いですよ。クリックするとポップアップで大きな絵が出るらしい(笑)。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.10.13

理想の上司

よく「理想の上司」として著名人を投票するようなものがあるが、会ったこともない人物のいったい何を理想と思うのだろうか。つまり、人間の中味を全く考察せず、上辺だけのイメージしか分かろうとしない風潮を現しているだけと思う。
では、どのような人物が理想の上司なのであろう?
「仕事ができる」「責任感がある」「明るい」など、いろいろあるだろうが、本音のところでは「自分を認めてくれる」というものではないだろうか?
いくら仕事ができても、責任感があって明るくても、自分を認めてくれない上司では嫌だと思う者が多いと思う。

しかし、真に良い上司は、決してあなたを認めないものなのである。
では、「あなたを認める」とはどういうことであろうか?
それは、あなたの感情に配慮してくれるという意味ではないだろうか?
感情にはいろいろあるが、最も強い感情は、「価値ある人間として扱って欲しい」というものではないだろうか?そして、価値ある人間であることを認めて欲しいという欲求はどこからくるのであろうか?それは自我から来る。
自我の欲求を認める者が良いリーダーであるはずがない。

社会で働き、優れた人間になるということは、技術や技能、業務への熟練といった部分ももちろんあるが、ヒューマン・スキルが非常に重要だ。そして、ヒューマン・スキルとは自我のコントロール抜きにはあり得ない。
小さな自我は配慮されればされるほど強くなる。つまり、それは甘やかしに過ぎない。
優れた上司、師匠は、徹底してあなたを消し去る。自我から発した戯言には一切耳を貸さないであろう。
「アゴで使う」という言葉がある。小さな自我にしがみついた未熟者はアゴで使うのが一番である。ただ、現在は、昔のバブル期ほどではなくても、若ければ行くところはいろいろあるので、そんなところから逃げ出す者も多いだろう。そこで、上司の方もある程度の加減は必要であり、文字通り「アメとムチ」を使い分けることにもなる。しかし、ムチをあまりに嫌う者は見込みがない者ということになり、最後には上司も見捨てる。

人々のイメージの中での「理想の上司」はあなたをダメにする上司である。
良い上司もまた、自我を支配する者であり、それにより、あなたの自我を破壊してくれる者である。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.12

心というものについて、長い間誤解され続けている。
美しい心など存在しない。清らかな心ならある。
強い心も存在しない。清らかで静かな心になれば強いのである。
不動心なんて本当は変な言葉だ。心とは動き回るものだからだ。
ただ、心が消滅した時、我々は心に引っ張られて動き回ることがないのだ。
つまり、無我、無心の時の我々が最上・・・というより、それが本来の姿なわけだ。
この世のあらゆる出来事は、心の消滅のために利用すべきと気付いた者が平和を得るのである。

| | Comments (11) | TrackBack (0)

2007.10.11

祈り

お祈りをしたことのない人はいないだろう。
「受かりますように」「勝てますように」「お金持ちになれますように」「片思いのあの人と仲良くなれますように」
しかし、このような祈り方には何の意味もない。
正しい祈り方は1つしかない。それは、「心静かでいられますように」だ。
ところで、人間の身体や心は言葉にちゃんと反応する。ただし、法外な言葉はダメだ。
しかし、「心静かになりますように」は、何ら不当な要求ではない。
ただ、祈りは現在形でなければ効果はない。よって、「心静かだ」と祈るのが正しい。
そして、心が静まれば無敵だ。思うが侭と言って良い。
これだけ知っていれば十分であり、やたら押し付けがましい占いのオバさんや、どう見ても怪しい自称霊能力者を相手にする必要はない。いや、相手にしてはいけない。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.10

大学で何を学ぶか?

加藤諦三さんのかなり古い本だと思うが「大学で何を学ぶか」という本を読んだことがある。
実におおらかな、古き良き時代のことが書かれている。
ある大学教授は、「俺の講義が嫌なら来なくていい。だが、代わりに良い勉強をしろ」と言ったらしい。
また、ある教授は、明らかに自分のところの学生ではない者が受講していても、全く構わず放置したという。加藤氏も、「やる気のない自分のところの学生より、そこの学生でもないのにわざわざ受講に来る熱意のある者の方が講義しがいがあるはず」と書かれていた。
ある学生は、大学の4年間山にこもり、就職直前に下山して就職したという。これで卒業できたのだろうかと思うが、例えば、竹村健一氏などは京大卒ではあるが、実質1ヶ月も大学に行っていないらしい。

以上、いずれも素晴らしい話である。
これこそ、真に意味のある大学の姿である。
下らない講義に隷属させられ、どんどん知性も精神力も低下させる一方の現在の大学生が気の毒というものであろう。

アインシュタインとエジソンは大学の存在意義では対立したらしい。
小学校を教師のいじめでやめざるをえず、苦労して独学したエジゾンが大学を全く無価値としたのは理解できる。
しかし、アインシュタインもまた、大学の講義には全く興味がなく独学したが、卒業証書のために試験前に詰め込み勉強した苦痛を後に述べているし、それは害になっただけだとしている。だが、自分で考える能力を育てる期間として大学は有効と主張したらしい。
つまり、アインシュタインも、現在の日本の大学のようなものに意味があると言ったのではなく、加藤氏の著書にあったような大学時代の過ごし方をするなら良いことであると言ったということではないだろうか?

ソニー創業者の1人である盛田昭夫氏は「学歴無用論」という本を書き、いまや大学教育を全く信用しないという姿勢を打ち出した。東大卒と中卒が机を並べていても何らおかしなことでないし、自身は阪大理学部卒であるが、それに意味があるとは思えないとも書いていた。それを受けてか、ソニーでは一時期、就職の応募書類から大学名の欄を無くしたこともあった。現在は、若者の知性を破壊するだけのゲーム機頼みのあがく恐竜企業の黄金時代の話である。

私は、大学時代を活かすも無駄にするも学生次第と思う。
しかし、現在は、大学は学生がそこで有意義に過ごし、賢くなることなど全く目的としていないかもしれない。また、学生の方も、高校までですっかり馬鹿になっているので、大学時代を活かす術を知らないし、思いつかない。
しかし、社会的責任をあまり負わずに気楽に思索し勉強できる4年間は、これを活かす気のある者にとっては、有り難くかけがえのないものである。そもそも、大学はレジャーから始まっているようなものだが、その意義があるからこそであろう。
どうなるかは責任持たぬが(当たり前だ)、大学に入ったら、単位など取らなくて良いし、卒業する必要もないから、4年間、社会人になったらできない有意義な勉強・経験を積むべきと思う。それに比べれば、卒業証書など取るに足らぬものと思う。
尚、最近では政府省庁の中でも、大卒より大学中退の方が優秀と認識されている処もある。
また、ビル・ゲイツも、ライバルのスティーブ・ジョブズもラリー・ヘリスンもみんな大学中退だ。そして、みんな、大学時代を自主的・有効に過ごしたのである。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.09

to error is human

アメリカの著名な作家カート・ヴォネガットのエッセイ集にあったが、シェイクスピアはどうしようもなく下手な作家なのだが、なぜあれほどの文豪になったかというと、人間をよく知っているからだということだった。
実は私も賛成だ。シェイクスピアが優秀な作家と思ったことはない。中学や高校の時、世界的歴史的な作家ということでいくらか読んでみたが、まだ人間について全く知らないその頃には退屈で仕方のないものだった。
では、エドガー・アラン・ポーはどうだろう?私はポーも同じと思う。ポーの怪奇小説のお話としての面白さを賞賛する人もいるが、私には大して熟考したようでもない、思いつきのお話のようにしか思えない。そして、ポーの作品について、心に残っているのはストーリーではなく、人間洞察の部分であるのだ。その部分は、正しいか誤りかの問題ではなく、深く明敏な思想、洞察、想像が見られ、忘れることのできないものであると思う。
ポーに似ていると思う作家にエルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(嗚呼!長い。通常はE.T.A.ホフマンと略す場合が多い)がいる。ポーよりほぼきっかり33年早く生まれ、共に短命であったが、ポーより27年早く亡くなったドイツの小説家である。昼間は裁判官、夜は芸術家という多才な人物であった。
ホフマンと聞いてピンとこなくても、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」なら、浅田真央さんが以前使っていた曲およびバレエとしてご存知と思うが、その原作の「くるみ割り人形とはつかねずみの王様」を書いた作家だ。だが、ホフマンの本領は、このようなファンタジーではなく、何と言ってもポーのような怪奇小説だ。
やはりバレエの「コッペリア」をご存知の方もいると思う。「コッペリア」は、ホフマンの怪奇小説「砂男」を参考にしたお話であるが、「コッペリア」は喜劇である。「砂男」は「コッペリア」とは似ても似つかないおどろおどろしいお話だ。
「コッペリア」では、コッペリアは、美しい少女の自動人形(カラクリ人形)である。作ったのは時計職人のコッペリウスだ。しかし、「砂男」では、少女の人形はオリンピアという名で、作ったのは奇人的大学教授のスパランツァーニである。そして、こちらでは、コッペリウスは世にもおぞましい怪人物である。「砂男」では、人間の心の脆弱性や不合理性を見せ付けていると思う。ホフマンもポーも、何か問題を提出しているようには思えるが、その解決法に触れることはない。「自分で考えろ」と言うのか、あるいは「考えても無駄だ」というのかもしれない。ハンガリー出身の天才的科学ジャーナリストで作家のアーサー・ケストラーは、人間の脳が欠陥品であるいといい、悲観して自殺してしまったが、ポーやホフマンはそこまで悲壮ではなかったように思う。
確かに脳は極めて複雑であり、常に合理的であることを保証しないが、私は精妙・完璧であると思う。スポック博士はto error is human(人間とは間違いを犯すものだ)と言ったが、間違いを犯すのもまた脳の合理的な機能である。いまや人間の問題は解決可能であると思うが、それに取組む者はまだ極めて少ないと思う。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.08

「ムカつく」ことで全て失う

自慢げに「ムカつく」と言う者をよく見る。
そんなこと、主張している場合ではない。
世界を支配するコツは「ムカつかない」ことなのだ。
「ムカついている」限り、何事も思うとおりにならないし、いつも不安に苦しめられるしかない。気の毒である。
「ムカつく」というのは、最も低レベルな感情であるのだが、先程、それを自慢げに言う者がいると書いた通り、自分では何か重要な感情であると錯覚してしまうのである。
「ムカつかない」ことを修得すれば、宇宙は手の中である。

20071008
最近、ソフト開発の仕事が多忙で、左脳の活動が活発なためか絵が描きにくい。すんなり右脳に切り替える能力が付けば超人になれるのですが(笑)。
クリックすると大きな絵がポップアップで出ます。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.07

シークレットサービス

1974年のイタリア映画「愛のほほえみ」で、主人公の9歳の少年ルーカが、オルガという可愛い少女に初めて合う場面が印象深い。
オルガは煙草をイキに持って、「火をお持ちじゃないかしら?」とルーカに言う。驚くルーカにオルガは「あたし、やってはいけませんと言われることは何でもしてみたいの」と言う。
彼女は素直なのだ。だが、もっと良いのは、「こうしなさい、こう思いなさいと言われたことは全部疑うべきだ」だ。尚、私のこのアドヴァイス自体は、ラッセルの階型理論により、この「疑いなさい」の規則から免れる。

さて、日本ではナイフを持つことは子供には禁じられているようなものだ。昔、政府の指導で、学校からナイフが消し去られたという。
それでどうなったかというと、当然なのだが、ナイフによる凶悪犯罪が増えたのだ。ちょうど、淫行条例のせいで、逆に少女の性の商品化が極端に増えたようにだ。ちょっとでも、人間というものに対する理解があれば簡単に分かることであるが、点取り勉強ばかりしていると何も分からなくなるという証拠と言える。
アメリカあたりでは、禁酒法のおかげで、逆に酒に関する犯罪が極端に増えたことでやっと学んだのだが、日本も一度禁酒法を施行してみれば良い。
人間、「やるな」と言われるとやりたくなるのである。

Ss
このナイフは、アルマーブランドの「シークレットサービス」だ。シークレットサービスとは、アメリカの警察機関の1つであり、大統領など、要人の護衛を主業務とする。
アル・マーは中国系のアメリカ人で、米国の特殊部隊にいた経験をナイフのデザインに活かしているという話もあるが、このナイフ、はっきりいってファイティング用だ(偏見である)。
このブレードの先端の鋭さは殺傷能力や威嚇に十分だ。いくら子供にナイフを持たせることの良さを理解している方も、このナイフはやめておくだろうと思う。
だが、実に面白いナイフでもある。その合理性には感服する。
このナイフは、ライナーロックと呼ばれるブレードロック方式を採用している。普通、折りたたみ式ナイフのブレードのロック解除ボタンは、ハンドルの背面にあるが、このナイフでは内側、つまり、ブレードの収納側にある。また、このブレードの根元にボルトが付いているのが分かると思う。このボルトを親指で引っ掛けてブレードを出し、ブレードをしまう時は親指でロック解除ボタンを押すことにより、片手で簡単にブレードのオープン・クローズができる。ここらもまさにファイティングに適している。
また、ハンドルに斜めに溝があるが、これが滑り止めになると共に、異物の洗浄を容易にしている。

尚、ナイフを護身用に使うなどとんでもない話である。ナイフを出すということは、「殺すか殺されるか」の状況を容認したという意味であるのだ。つまり、「お前を殺すつもりだが、逆に私の方が殺されても仕方がない」という宣言である。
また、訓練しない限り、ナイフを武器として有効に使うことはできない。緊急時に武器を選ぶなら、私なら棒にする。

いずれにしても無粋なナイフだ。私も買ったはいいが、使い道がなくて眺めるだけである。もちろん、何にでも使えるが、人に見せる気にならない。だが、製品としての素晴らしさは上記のように認める。

| | Comments (6) | TrackBack (0)

2007.10.06

技術立国日本の危機

特撮ドラマやアニメの、戦闘ものやロボットもので、非常に気になることがある。
例えば、ロボットものにしよう。エヴァンゲリオンでもマジンガーZ(古!)でもいいし、私はほとんど見たことがないがガンダムでも良い。
敵の攻撃でロボットが破損すると、大抵が大至急で修理される。ロボットの腕や脚が吹っ飛ばされていたり、胴体部分をかなり破壊されている場合もあると思う。
そして修理完了!
戦闘意欲満々のヒーローはロボットに乗り込み、「今度は負けないぜ!」といざ出陣!
「ちょいまち!!」
私は叫びたい。
修理直後の複雑で強大なメカをすぐ実働するなど滅茶苦茶である。
戦闘用巨大ロボットなど、想定通りに機能しないと危険極まりないシロモノのはずだ。
そして、修理直後に完全に想定通りに動くなんてことは考えにくい。
修理が終わったら、段階的な試験稼動を行い、その1項目ずつを厳密にチェックし、それぞれの機能を調整しながら、さらに全体との統合調整を行うはずだ。チェック項目は、巨大戦闘ロボなら、数百項目なら少な過ぎるに違いない。
そして、ある程度試験が終われば、パイロット、もしくはテストパイロットが乗り込み、実稼動テストに入る。

自転車のようなものすら、修理しただけで完璧に機能することを保証するなんてことは、腕の良い修理人と言えども不安なはずだ。自分で乗ってみて調子を見るのが普通だ。
そして、自動車となるとさらにそうで、ヘリ、飛行機以上になると、修理はもちろん、点検項目やその手順は厳密に決められており、その実施には手間も時間もかかる。

技術というのは、そのようなものである。
作った、あるいは、修理しただけで、それが想定通りに正常に動作するなど夢のようなお話である。ここらのことは、子供の頃から教えておいた方が良い。それは広い範囲で有用な知恵になる。
特撮、アニメ製作者も、このあたりの描写を是非入れて欲しいものである。
試験稼動を十分にしなかったので、パイロットが危険な目に遭うなどというものでも良いと思う。

理系人間という言い方をすることがあるが、どんな者が理系人間なのかは大きな誤解があるかもしれない。何か、大学の理学部や工学部を卒業、あるいは在学していたら理系人間と言ったり、自分でもそう思っている者もいると思うが、とんでもない話で、大学程度は何の関係もない。いかにも理系の業務を実践し、経験を積んでこそ理系発想が可能になる。
逆に言えば、大学など出ていなくても理系発想は可能だ。実際、小学校も出ていないという者が高度な技術を適用した機器を開発していることもある(幼稚園中退という例もある)。彼らはほとんど自然から学んでいる。自然の理を知ることが理系発想と言えると思う。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.05

幻想を破り超人になる

事実とは甚だ異なることを信じることを、思い込み、幻想、妄想などと言うことができると思う。
我々には、無分別に受け入れた数多くのことがある。
それも生きる上で必要なことであるとみなされる場合も多い。しかし、多くの思い込みは、人に不安や恐怖を与え、結果、人から創造力や活気を奪うのである。
また、ものの真の姿を見えなくし、言動は誤りだらけとなり、心は落ち着かず、知性は欠片もなくなり、不幸な人生を送ることとなる。

思い込みや幻想は偏見と言うこともできる。他から誘導された思い込みや妄想は洗脳である。
誰だったか、教育の世界で世界的に著名な人物は「教育の成果とは偏見である」と言ったが、まさにその通りで、学校で教育されることで我々は不幸になるのである。学校で教わったことは全て駆除、清掃する必要がある。私は、読み書きや計算は習得したが、それは別に学校で教わったわけではない。また、一流大学の学生が、小学校の算数や読み書きに難がある者が多い。学校は全く不要であると断言できる。学校が非常に重要なものと思うこともまた、思い込み、偏見、幻想、妄想、洗脳である。
そもそもが、人生を惨めにするために必要なほとんどは学校で教わるのである。

学校で最初に教わるというか、強制されることに「前に倣え(前へ倣え)」がある。
なぜ誰も奇妙な言葉と思わないのか不思議だ。私など、非常に気味が悪い思いをした。
ごく普通に「まっすぐ並んで下さい」で良いではないか?
「倣う」とは、真似するということである。まっすぐ並ぶことと何の関係もない。
実は、「前に倣え」というのは学校の鉄の掟である。目の前の子と全く同じことをやるようになることが学校での最重要事項である。他の子と違うことは絶対にやってはならないのである。そのやることは学校で決められている。学校は前の子、つまり、優等生にしっかりと、行動パターンと思考パターンを教える。後の子にもまた教えられつつ、優等生の真似をさせる。同じ思い込み、偏見、妄想、幻想を持つ、洗脳されたコピー人間が大量生産される仕組みである。
これだけ言えば、学校から離れることがいかに急務か分かると思う。

偏見、妄想、幻想を持つことがどれだけ悲惨であるかは、あまり語られることはない。
常に不安で恐怖心に苦しめられ、あくことなき快楽を求め、退屈で惨めであるのが、妄想や幻想の実害である。
人は人生を好きなように作れるのに、そのパワーを完全に枯渇させるのも思い込みである。
言っておくが、良い思い込みなどと言うものも存在しない。思い込みは全て悪いのである。

偏見がなぜ悲惨かというと、偏見を持つ者は不安と恐怖に支配され、快楽への渇望に動かされるからである。このような人間は、いかなる残虐な行為も平気で行う。
いじめを行うような連中も、自らが不安や恐怖に怯えているのである。
偏見、妄想を捨てれば、何といえばいいのか分からないが、ある意味、超人になる。もちろん、「超人」に関する思い込みや幻想でイメージを作っても仕方がないので、自分で体験してみるしかない。
偏見や妄想から離れるには、それを調べてみることだ。人に教えられ、無分別に信じてきたことをあえて疑ってみるのだ。その習慣を付けることだ。テレビや雑誌のゴシップ記事をよく憶えている者ほど、馬鹿で創造力がない上、常に心が落ち着かず、不安だらけで、快楽ばかり求めることはご存知と思う。
例えば学校を疑ってみよ。冷静に考えれば、人生を破壊する要因であっただけで、何も良いものがないことが了解されるはずだ。それが分かれば、新しい境地にも進めるであろう。

「荘子」にも書かれている。ものごとを、思慮分別を一切をせずにあるがままに見、一切の価値判断をしない。これが、自らの心を鎮める偉大なノウハウである。なぜなら、我々の思慮分別や価値判断は全て偏見と妄想であるからだ。心が静まれば、真の価値判断が分かる。荘子も言いようがないので、これを知による判断でなく、明による判断と一応言ったようだ。
外にあるものは内にあるものである。マインドを使わずに何が起こるかを見ていれば自分のことが分かってくる。そうすればニーチェの超人も超えるであろう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.10.04

夜這いとお医者さんごっこは健全に

「お医者さんごっこ」と聞いて、良い思い出が浮かぶ人は幸いだ。
あくまで聞いた話とするが、あるところにお医者さんごっこの名人がいた。
小学校入学の頃から始め、最初は近所の女の子や、友達の妹あたりを「診察」していたが、学年が進むにつれて、大抵がクラスの可愛い順から3人くらいまでを集中的に診察していた。
で、5年生になった時である。相変わらず医療業務は多忙であり、女子の評判も良い名医に育っていた。だが、予想外のトラブルが起こる。これまでもないことではなかったが、他のクラスに非常に可愛い女の子がいて、猛烈なアタックの末、彼女を患者にすることに成功した。だが、これがクラスの女子にばれる。そして、大問題となった。クラスの女子全員が参加の弁護人なしの裁判にかけられてしまった。
そして判決は、何のことはない。診療はクラスの女子に限るということになった。しかも、診察順とその都度の受診者まで女子に決められてしまう。これまで、せいぜいがクラスの4~5人の可愛い子限定で診療していたのが、全員を診なければいけないことになった。
だが、さすがモテる男の子は心が広い。その条件を呑み、真面目に診療業務を行うことを誓った。まあ、確かに別の目論見もあった。クラスにこれも大変に可愛いのに、あまりにおとなしく、いくら治療の必要を訴えても診療に来ない子がいたのだ。彼女も診療されることを拒否できない状況になったわけだ。

このお話をアホらしいということはできない。実は、少し昔は日本全国の大人が同じようなことをしていたという証拠もある。
「夜這い」と聞くと、まあ、男が夜に女の家に忍んで行くようなことと思うかもしれないが、かつては実に組織的に行われていた。
村の男女に、夜這いする者、される者の資格が厳しく適用されていた。男であれば、その資格を得るために、先輩の夜這いに同行して草履持ちを一定期間やるとか、立派な村人たる誓いの儀式をすませる必要があった。女の方は、大抵、あまり厳しい資格はないが、村ごとにいろいろ決まりがあった。例えば、未婚の娘や奉公人への夜這いは構わないが、人妻や後家はだめとか、あるいは、全部OKという村もあった。
また、外の村からの夜這いはだめとか、それも全部OKとか、特別な日だけOKとか、いろいろ決まりがあった。
また、当番の者が道に立っていて、あそこの娘のところは別の男がもう行ったが、あそこの娘は空いているとかを男に教えるというのもあった。
ところで、このように性的に解放された処というのは、大方、平和で活気がある。
また、上にも述べたが、遊ぶには立派な大人であることが要求され、案外に道徳的にも立派な大人になりやすかったのだ。
だが、ある時期から、政府がこのような風習を締め付けていく。するとどうなるか?あまりに当たり前なのであるが、このようなものは社会の裏側で非常にダークなものに変質し、不幸な女性を数多く生み出す。また、男の遊びも、かつてのおおっぴらな夜這いのようにカラっとしたものでなくなり、暗くジメジメしたものになった上、相当なお金を出す必要が生じた。また、こういった裏側を利用して金儲けをする者が出るが、金儲けのためには女性の犠牲が必要で、特に不幸な境遇の少女が最も狙われることになった。
こうして、表面的な性風俗の健全化は、モラルの低下、不幸な女性の量産、男性の活気の低下、ダークな資金の集中という結果となり、本当に何も良いことはなかったのである。

全国で、学園都市とか科学都市などといって、官主体でデザインした都市が現れているが、まず人が住まない。いかがわし場所を排除してしまっているからだ。人間はそんなにクリーンなものではない。また、そんな表面だけ健全なところに人が住めば、それこそ危ない。どれだけモラルが低下するか、考えるだけで恐いものである。
それらから考えると、あの5年生の時のクラスの女子達の判断は案外立派な面もあったのではないかと思う。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.03

浮気は本当に悪いのか?

H.G.ウェルズの傑作小説「「ポーリー君の物語」で、ウェルズ自身の分身と思われるポーリーが言うように、「自分の人生が気に入らなかったら、それを変えるにしくはない」のである。
人間は宇宙でも好きなように変えられる。その一歩が、我々が無分別に信じ込んでいることを疑い、吟味することである。

では、浮気をテーマに、我々の奇妙な思い込みについて考えよう。
世の奥さんは、旦那の浮気は許さないが、旦那がキャバレーで若い女の子といちゃついたり、あるいは、ソープランドに行くことは、気分が良い訳がないながら、さして問題にしないのが普通と思う。
昔、高橋留美子さんの「めぞん一刻」という人気漫画があった(現在も販売されている)。
内容を簡単に言うと、五代君という、ちょっと頼りないが純情な青年が、彼の住んでいるアパートの年上の美人管理人に恋をするラブ・コメディーである。
ある時、五代君が友人と朝帰りし、管理人さんは五代君の服のポケットにソープランドのマッチが入っているのを見つける。管理人さんは呆れはするが、この嫉妬深い管理人さんが特に荒れることはなかった。
このお話は、管理人さんというよりは、高橋留美子さんが国家に完全に洗脳されていた証拠である。
え?なぜ?と思うだろうか?あなたも洗脳されている。世の奥さん方ももちろんだ。

なぜ、素人の娘さんや人妻との浮気がいけないのだろう?
そして、風俗店に行くのは好ましくはないが、さほどの大問題にしないのであろう?
女性によっては「遊びは許すが、心からの浮気は許さない」とか、訳の分からない馬鹿を言う者は多い。
では、なぜ浮気はいけないと、国家が国民に叩き込む必要があったのか明かす。
素人娘と遊ばれたら税収にならないからだ。風俗店はちゃんと税金を払う。よって、旦那方は風俗店で遊んでいただく必要があるのだ。
実際、明治政府は、道徳など、国民教育に力を入れているようで、実は風俗を厚く保護した。無料で遊べる夜這いの風習は徹底的に弾圧した。そして、豊富な風俗店からの税収で富国強兵を成し遂げたのである。
浮気というか、旦那や妻が別の相手と遊んだって何か不都合があるわけではないが、それはまた今度、理路整然と書こう。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.10.02

最初のが一番良いという経験

素人ながら絵を描いていると思うのだが、時間をかけて修正を行った後、一番最初の状態の絵の方がずっと良かったということがよくある。ほぼいつもではないかと思う。
これは、ひょっとしたら、プロの絵描きでも同じことが多いのではないかと思う。
ピカソも、油絵では分からないが、版画では、制作枚数も凄いのであるが、修正作業も精力的に行ったらしい。版画では、その都度の試し刷りをするので、試し刷りが残っていれば修正前の状態が分かるのであるが、池田満寿夫さんによると、修正後が必ずしも良いわけではなく、明らかに悪くなったものも少なくはないらしい。
だが、それが分かっていても、修正せざるを得ないという気持ちがあるのかもしれない。

絵ではないが、ベートーヴェンも、楽譜の気に入らない1音を何十回(ひょっとしたら何百回)も書き直した後、その音が一番最初のものと同じであったということがあるらしい。
もっと日常で言うと、髪形を整える際、手を入れれば入れるほど悪くなるということを経験されている方も多いだろう。

内海康満さんという、一種の賢者がいるが、彼が著書に書いていたところによると、犬を買う時、最初に抱いた犬を気に入ったら、後は見ないのだという。
ガールフレンドを選ぶ時も同じなのかと思ってしまったが、多分そうだろう。

書いていて、「これは宇宙の真理の一端ではないか」と思ってしまった^^;

| | Comments (4) | TrackBack (0)

2007.10.01

人間にとっての致命傷とは

イアン・フレミングは、007シリーズの小説の中で、ジェームズ・ボンドに「私は背の低い男を信用しない」と言わせているらしい。背の低い男は、劣等感により世間に恨みを持っているという。
「新世紀エヴァンゲリオン」のアニメの最終回「世界の中心でアイを叫んだけもの」で、碇シンジ(14歳)は、「みんな僕が嫌いなんだ」と何度も繰り返す。ミサト、レイ、アスカ、その他が、「あんたが勝手にそう思い込んでいるだけでしょ」と何度も忠告する。

20分もあれば読め、あるいは聞くことができ、それによりたちまち運命が好転するという「マジックストーリー」というものがあるが、その中でも、人間にとって最も致命傷なのが、世間や他人に恨みを持つことで身に付けた自滅的な思い込みであるとされていた。

再びエヴァの最終回であるが、「雨が降れば憂鬱」なんて誰が決めたのか?教えられるまま信じているだけだという。ここは肝心だ。
我々は、教えられ、疑いもなく受け入れたことを疑ってみないといけない。
そうすれば、やがて宇宙は思いのままであることが分かる。
もともと、人間には、いかな突飛な願いも叶える力が与えられている。
ただ、私はそんな力は使わない。通常の能力だけで十分生きていけるからだ。
尚、このような力を使う方法を説く者に騙されてはいけない。このようなことで本を沢山書いたり、セミナーをしたり、霊能力者を名乗ってテレビに出るのは全て偽者と思って間違いない。本物は、そんなもので金儲けする必要がないので、絶対的に無料で教えているのでね。とはいえ、ただ、無分別に受け入れたことを疑うだけで十分なのであるが・・・。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

« September 2007 | Main | November 2007 »