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2007.09.30

自分の価値を見出すには

ディール・カーネギーは、人間の最大の切望は「自己重要感」であるといった。つまり、自分が重要であるという確信が欲しいのである。これは、どちらかというとフロイトの言う退行性万能感、すなわち、自分が神様や王様であったと思えた幼児の感覚の名残りとも思えるが、実際にそんな人間が多いことは否定できない。
自己重要感を渇望するということは、それだけ誰も自分の価値を見出せないのである。
そして、それはかなりの実績を持つ者ですらそうである。当然である。巨万の富も自己の本質とは何の関係もないし、得たものは失うことになる。遅くとも死ぬ時にはね。オリンピックで金メダルを取っても、ちやほやされるのは一時である。満足感は続かない。

では、自分に価値を付けるにはどうすれば良いのか?
「価値を付ける」という言い方をするなら、がんばるしかない。そして悲哀を味わうしかない。付けた価値はやがて無くなる。それも一瞬に。
正しいのは「自己の価値を見出す」ことだ。フロイトは誤りとするかもしれないが、実際にもともと価値があるのだ。しかし、宗教家の言う、私達は神の子だからなんて理由でもない。
ここらは本来、議論の外にある。真の価値を言葉で表現することはできない。
ひたすら静かにするのが正しいのだ。
自分の価値を求めてあがき、動き回り、戦ってはいけない。静かに、静かにしていることだ。
ただし、静かにすべきは心である。心は静かでも、外から見るとビジネスに血眼になり、ハードトレーニングに明け暮れて戦いまくる格闘家であるかもしれない。外はどうでも良いのである。また、何もしないとかえって心が騒ぐものであるかもしれない。

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ラキガキ(^^;
絵をクリックするとポップアップで大きな絵が・・・出ますが別に見るほどでも(笑)。

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2007.09.29

老人がハナ歌を歌う訳は

老人はよくハナ歌を歌うが、誰かが身近に来た時に不意に歌い出すことが多い。
それは、相手の注意を引きたいからであることは容易に想像できる。老人になると、そうでもしないと、自分を見てもらえない場合が多いのだ。なぜなら、年を取り、能力が衰え、容姿も見苦しくなると、そのままでは何の価値もなく、誰も注意を払ってくれないのである。何か他人を振り向かせるものでもあれば良いのだが、何もない場合、せめてハナ歌を歌うしかないのである。

暴走族がわざと騒音の出るオートバイに乗っているのも、心理的には同じである。そんな馬鹿な主張でもしないと、自分に何の価値もないのだが、誰にも注意を払ってもらえないのが苦しいので、せめて他人に迷惑をかけて自分に気を引きたいのである。
要は、暴走族は年寄りと同じ哀れな存在である。

しかし、老人や暴走族ばかりではない。自分に価値がなく、他人の注意を引くことを渇望する者は非常に多いのだ。
電車の中で、かかとを継続して鳴らしたり、指で窓をたたき続ける迷惑な人間がよくいるが、これも同じなのである。
馬鹿げているほど大きな音でくしゃみをしたり、わけのわからない大きな声や大袈裟な息の音を上げる連中もしかりだ。
学校やオフィスで、やたらハイな調子で、意味もなく笑い声を上げ、不自然にはしゃぐような声で話す者がよくいる。常にお笑いタレントのような口調で、一見、盛り上げ役やムードメーカーのように見えるが、彼ら彼女らは、自分に価値がないという傷の痛みをまぎらすのに必死なのだ。
今は電車の中で携帯電話で話すのは、よほどマナー知らずの不法者であるが、ある時、若い女性が延々、陽気で大きな声で、身振り手振りも大きく話し続けていた。乗っている30分ほどずっとである。会話は英語であった。ネイティブに近い。彼女もまた、自分の無価値に苦しむ反動で、自分の英会話を悲しいまでにアピールしているようだった。英会話ができる程度、何の価値もありはしないのである。
また、老人を極端に嫌う者もまた、自分の無価値に苦しんでいる。老人を見ると、鏡を見るようで苦しいのである。

反して、本当の美女、美少女は実に静かである。
黙っていても注意、関心を引き、本当に、「これ以上、他人の気を引きたくない」のである。
よって、アイドルなんて、本当の美少女には向かない。どこか欠点のある少女が、目立ち注目を集めることで、そのコンプレックスを克服したいというのが、アイドルでがんばれる原動力なのである。
また、本物のムードメーカーは、ちゃらちゃらしていない。実際にはそれほど喋らない。高度なムードメーカーは、自らはかなり静かでありながら、周りを盛り上げるものである。

だが、逆もまた真なりなのである。
静かでいることで価値は上がるのである。ただし、静かにするのは心である。心が静かであれば、その者のおしゃべりも心地よいのだ。心は騒いでいるのに黙りこくっても価値は上がらない。
心を静かにする秘法は、常に心を見張ることだ。心を泥棒とみなして、油断なく見張るのである。あるいは、心を使わず、何が起こるかをただ見ていても良い。または、ただ在ることに徹し、それ以外の何物でもなくなることだ。ただ、日常で行うべきことに抵抗することはない。仕事をしないといいけないなら仕事をすれば良い。しかし、無駄なことを付け加える必要もない。
これで、絶世の美女、美少女と同じ、あるいは、それ以上の価値を得ることができるのである。

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2007.09.28

「天空の城ラピュタ」のエロチックさ

宮崎駿は、何か事情があるらしいが、「天空の城ラピュタ」以降、美少女キャラを登場させず、そのせいか、ストーリーが高度になり、ある面、評価を上げたと思うが、「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」とそのヒロインであるナウシカ、シータの人気は衰えることはない。
そこで「天空の城ラピュタ」であるが、このヒロインであるシータほどエロチシズムを感じさせるヒロインはいないと思う。それはまず、初っ端のシーンから言える。
飛行艇から落ちて行くシータ。気を失い、真っ逆さまに高速落下する。あの姿の美しさは比類がない。既に死んだも同然であるが、恐怖が去った表情は繊細で儚さに満ちている。深い夜空のみが少女を包むという神々しさ。見ている者の一方的な愛情を受け、自らは何の反応もしない。そこに、人々は自己愛に基づく、究極のエロチシズムを感じるのだ。彼女と一緒に落ちるならそれでも良いと思わずにはいられないはずだ。

その後も、確信犯的なエロスをシータにまとわせている。
シータとパズーの年齢は明示されないが、シータは12~13歳、パズーはその1つ位上としてさほどの不都合はあるまい。
空から降ってきたシータをパズーは1人で住んでいる家に「持ち帰る」。シータは気を失ったままだ。なんとも危ない(笑)。もし、その時、親方や誰か大人に、「この子を僕の家に連れて帰る」と言っていれば、容赦なくパンチが飛んできたはずである^^;
シータは翌朝、パズーのベッドで1人で目を覚ます。この後のパズーの様子はちょっと不自然だ。ハイ過ぎるように感じる。何か後ろめたいところでもあるのではないか?^^;
ある程度のこと・・・例えば、キスくらいはしたとしても責められはしないと思う。いや、むしろ、よくそこまでで我慢したと褒めてやりたい位だ(笑)。
その後の、シータに対する献身から言えば、かなりのことまで許せるようにも思う。男として責任は取ったと言えるはずだ(をい)。

シータから見れば立派なおじさんであるドーラの息子達がシータにメロメロなのは確実である。シータが料理を作っている厨房に言い訳をしながら次々と全員がやって来る。彼らは、他の兄弟がいることを不快がるが、もしいなかったら一体何をする気だったのか^^;
実際、誰もいないと思って、シータに後ろから手を伸ばした者もいるのである。
そして、シータはそんなことなど全く意に介さない振る舞いだ。アウト・オブ・眼中といったところである。
そして、空賊であり、勇猛さは持ち合わせていても、彼らは女の子にはからっきしのようである。そして、シータを「子犬のような目」でぼーっと見る。当然、視聴者は彼らに感情移入し、シータへの思いを募らせるわけである。

そして、シータは無理やりムスカの花嫁にさせられる。ムスカは30代の若き大佐と思われるが、もうオッサンと言える雰囲気である。ここでも、シータは両腕を縛られ、危うさを醸し出す。だが、ムスカはそれどころではなかったのかもしれないが、あまりシータに萌えている様子でもなかった。雰囲気としてはかなりのロリコンに見えるのであるが^^;

実際、パズーは1歩間違えれば死・・・という危険をシータのために何度も冒す。これなら、あの最初の日、シータの胸を3秒触ったくらいは不問としたい。
「ロリータ」では、ハンバートはロリータを睡眠薬で眠らせ、靴下だけ残して全部脱がせることを計画していたのに比べれば勲章ものであると言えよう(ハンバートの計画は失敗に終わっている)。
あの物語の後、シータとパズーは早くも同棲に入った可能性は大きい。そして、5年も過ぎる頃は、でっぷり太ったシータは子供をあやしながら家事に励んでいることと思う。人生の目的をすでに達したパズーも同様である。
パズーは、日に日にドーラになっていくシータを見ながら、あの最初の夜、心臓をバクバクいわせながらベッドに横たえたシータのスカートを恐る恐るまくったという、未告白の行為を思い出すのである・・・。

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2007.09.27

コトバの少女と無限の想像力

小説などの中で、文章だけで表現された少女の美のイメージが、絵などで見るよりかえって強烈であることはないだろうか?
もちろん、その少女の行いや発言といった印象の蓄積の影響は大きいと思うが、むしろ、わずか1行の文章で鮮烈な印象を得ることもある。
いくつかあげてみるが、その本そのものを引っ張り出して確認したわけではないので、かなりいい加減である。

最も凄いと思ったのは、W.B.イェイツの小説「まだらの鳥」にあった。これはイェイツの自伝的小説で、主人公マイケルはイェイツの投影である。
マイケルは、マーガレットという少女を見て、美しさが過ぎると、むしろ哀れに感じると述べる。哀れに感じるほどの絶世の美。想像もつかないが鮮烈な言葉である。

仏教学者のひろさちや氏の釈迦の伝記的な書物である「いま、釈迦に学ぶ生き方」という本で、伝説にある話と思うが面白い話があった。
釈迦の従弟のアーナンダが結婚を控えていた。だが、釈迦はアーナンダに、結婚なんかやめて修行しろという。アーナンダは拒否する。当然である。花嫁は16歳の素晴らしい美少女で、アーナンダは楽しみでならなかったのだ(何がだ)。
そこで、釈迦は神通力(超能力)を発揮し、アーナンダをヒマラヤの山奥に連れて行き、年を取ってよぼよぼの雌ザルを見せ、アーナンダに「お前の花嫁と、この雌ザルではどちらが美しいか?」と尋ねた。アーナンダは憤慨し、「私の花嫁に決まってます」と答えた。
次に釈迦は、アーナンダを天界に連れて行き、天女を見せた。そして同じく、「お前の花嫁と、この天女ではどちらが美しいか?」と尋ねた。アーナンダは、「この天女と私の花嫁では、私の花嫁と、先程の雌ザルほどの差があります」と答えた。
釈迦はトドメの一撃を放つ。「アーナンダよ、修行すれば、この天女はお前のものである」。
アーナンダが一心不乱に修行に励んだことは言うまでもない(笑)。そして、修行が進むにつれ、アーナンダは天女のことも忘れたのだった。「嘘も方便」とはこのことである。

光瀬龍氏の小説「夕映え作戦」は、今でも出版されているが、30年以上前の作品と思う。当時はライトノベルなどという言葉はなかったはずだが、おそらくそれに該当する。
現代の中学生がタイムマシンで江戸時代に行き、忍者とも戦うといったものだが、現在の発育の良い中学生の方が昔の忍者より強いところが面白い。
ある忍者集団の頭領が13歳の少女というのも凄いが、夜の会議の際、蝋燭の炎に照らされたその少女の顔がはっとするほど美しかったとある。その1行で私には強烈な印象が残った。これも感受性と思う。

アンデルセンの自伝の中で、スペインで出逢ったある少女のことが書かれている。
年は11歳くらいで、貧しくボロをまとってはいたが、神殿の石段に座るその姿は美の化身のようであったとアンデルセンは書いていた。
後にアンデルセンは、「即興詩人」という小説の中で、この少女をモデルにしたララという名の盲目の少女を登場させている。この少女の描写については「年は11より多くはなし」と書かれていたのしか憶えていない。何せ、森鴎外の格調高い文語体の訳文は私には歯が立たなかったのだ(笑)。

絵や映像で示されると、それがむしろ制限となる。
しかし、人間は無限の想像力を持つのであり、いつも目で見るばかりでなく、文章などから自分で想像して見るのも良いことと思う。
芸術作品には、やはり見る者に無限の想像を起させるものもあると思う。ただ、芸術を見る目がない場合にはブタに真珠というものかもしれない。
現在は特に、美しい少女のあんな姿やあんな姿が(笑)写真やアニメや絵で豊富に提供されているが、それが果たして幸せなことか疑問だ。というよりは、誰にとっても不幸とは言えまいか?

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2007.09.26

モテる秘密

モテない男はどこにでもいるが、モテない原因は、大抵は女性へのアプローチが下手か、そもそもアプローチしないかのいずれかだ。
いくらいい男だって、黙ってじってしていても女は来ない。来たとしても複数で来る。
サザンの歌ではないが、男は、「立てよ、行けよ女のもとへ」である。
しかし、モテないのは、その男の母親の責任と言える。モテモテとは言わないまでも、数撃ちゃ当たる程度にモテるくらいなら、さっぱりとした男らしささえあれば良い。それもなく、意思表示がはっきりできない男は、母親が構い過ぎたのが原因である。高校生にもなった息子に毎日弁当を持たせるようではダメである。

世界的作家・詩人であるアンデルセンは、14歳で田舎から単独コペンハーゲンに出てきたのは立派であるが、それまで母親がべっとり構っていた。おかげで、やはり一生モテず、結婚もできなかった。親しい美しい女性は沢山いたが、尊敬はされていたかもしれないが、浮名は一度も流さなかった。
挙句、自伝で大絶賛したのは、スペインで逢った11歳くらいの盲目の少女で、アンデルセンは彼女のことを「美の女神の化身」とまで書いている。そして、「即興詩人」という小説の中で、彼女をモデルにしたララという少女まで登場させた。
自伝の中で、その少女をどうしたかは書かれていない。ただ、「施しをする機会を逸した」とあり、お話もできなかったことが想像できる。「即興詩人」の中では、ララの額にいきなりキスし、ララは悲鳴を上げて逃げたとあるが、アンデルセンもそんなことをしたのではないかと思う。
アンデルセンの女性へのアプローチの哀しいまでに下手だったことを示す逸話がある。
彼は24歳の時、美しい少女に恋をした。ところが、アンデルセンが取った手は、自分の自伝を書いて送ることだった。当然、うまくいくはずがない。モテない男の中には、案外、これに近いことをやった者もいるはずだ。自分の中味を知ってもらえば好かれるはずなんて、やはり母親の毒が回っている者の考え方である。
ちょっと話は異なるが、かの天才、南方熊楠は、40歳で28歳の女性と見合い結婚したが、婚約後、樽に本を詰め込んで送り、「1冊でも多く読むように」と伝えたそうだ。見合いでもしなければ、彼も結婚は無理だったろう。
一方、モテたのは岡本太郎だ。日本人の中でも背の低い男であったが、パリでは、パリジェンヌはもちろん、各国の美女、美少女と親しくし、同棲も多くしたとある。どうすればモテるかは、彼の「自分の中に毒を持て」でも読んで欲しい。もっとも、この本の中でも、恋愛に関する話題はあるが、「片思いでもいいじゃないか」と書かれてはいるのだが^^;

尚、私が知る限り、最強のモテ男は、「荘子」に出てくる哀駘它(あいたいだ)だ。
天下一の醜男(ぶおとこ)である哀駘它は、女はもちろん、男も惚れこまずにいられない。
別に何か特技があるわけでも、壮大なポリシーがあるわけでもない。
しかし、若い娘は妾でいいから側に置いてと言い、国王であれば、国をまかせてしまおうとする。
なぜ哀駘它がモテるかは、あの孔子がじっくり解説してくれている(もちろん、荘子が孔子のキャラを借りているだけであるが)。
内編の「徳充符」に登場する。読むべし!

話は変わるが(私の話はコロコロ変わる)、最近、テレビなどで、女性が人差し指をビっと立てるポーズを取るのをよく見る。
異常である。女性はそんなことやってはいけない。
これは、女性が変質してきたことを顕しているのである。もちろん、悪い変質だ。こんなの女ではない。
マイケル・ジャクソンは、ステージ上やビデオクリップなどで、必ず人差し指を立てる。その指を女性の目の前でクネクネ動かしたり、舌で舐めてどこかに差し込むようなポーズをする。
その意味するところはお分かりと思うが、あまり品の良いとはいえないナンパテクである。しかし、今の日本でも非常に効果的だ。あまりに効果があるのに驚くかもしれない。心して使うように(をい)。

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2007.09.25

スポーツと教育を疑え

スポーツとか勉強というのは、練習時間や勉強時間はがんばっていても、それが終わったら、まるでスポーツや勉強を拒否するように、だらーんと座ったり寝転んだりブラブラしたり、面白さ愉快さだけを求める馬鹿になったりする。
これって、大矛盾だと気が付いた方が良い。
実際、スポーツマンほど姿勢が悪くて健康じゃないし、優等生ほど馬鹿であるのはほぼ間違いない。
それよりも、普段、正しい姿勢で座り、立っていたり、平常からいろいろ自分でものを考える方が、身体も鍛えられ、頭も良くなるのではないかと思う。
椅子に座る時、腰を前にずらせて背中が丸くなっていたり、脚をやたら広げて座っているのは腹筋や背筋が弱くなり、腰も悪くすると思う。本当に必要な腹筋や背筋は筋トレでは鍛えられないと聞く。
ジーンズの着用で、女性も股を広げて座っている方がいるが、あれではエステやダイエットで肉を落としても、妙に緩んだ身体になり魅力がない。
また、若い人の歩き方が異常に遅いことや、エスカレーターでじっと立っている学生をよく見たり、ましてや電車の床で座っているのは、単に身体が弱いのだと思う。
特定の時間ではなく、普段の頭脳の使い方が本当の脳トレであり、昨今流行のゲーム機での脳トレが知性を養うなんてことはまずないと思う。あれはパターンマッチング能力は多少磨くかもしれないが、その程度のことである。ましてや、日常の多くの時間を、携帯メールのような決まりきった言い回ししかしない文書打ちや、非常に限定された思考や反射行動で事足りるゲームをしていたら、頭が悪くなるのは絶対に確かと思うのであるが如何なものであろう。
普段、良い姿勢を保っていれば、それで身体は鍛えられて引き締まるし、良い姿勢は格好良いのでモテるかもしれない。実用的な体力はよく歩くことで付くので、あまり車を利用せず、なるべく歩くと良い。
また、普段、愉快なだけの漫画や、テレビでお笑いタレントばかり見ず、H.G.ウェルズやポーやホフマンを読んでみたら良いと思う。実に面白い上、知性も磨いてくれるはずだ。
学校の勉強は、算数と読み書きをしっかり身に付ければ、後はいくらでも勝手に勉強できる。しかし、今は、一流大学の学生でも、決して少なくはない者が小学校の算数ができないらしい。それなのに、余計なことを詰め込むために授業時間を増やすらしい。つまり、学校というものは、必要な教育を身に付けるところではなく、別の目的のためにある場所なのである。
何にせよ、これまで教え込まれた価値観を疑ってみることだ。否定するのではなく、自分で真剣に考えてみることだ。そうすれば、大企業や現状政府、それに公的教育機関にはとても都合の悪い人間になるであろうが、あなたは幸福になる可能性が高い。

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2007.09.24

彼女百人の作り方

私は別に信心深いわけでもないし、それどころか何か宗教を信仰しているわけでもありませんが、宗教の本を読むことが時々あります。
尚、どこかの西洋人が言ったらしい「宗教なしで道徳を教えることはできない」というのは、単なる思い込みでしかないと思います。

それで、「般若心経」という最も短い仏教のお経の最後の呪文の部分をサンスクリット語の原文のまま憶えていたのですが、意味はみんなが勝手なことを言うので、それは無視していました。
この呪文の最後は「ボーディ、スヴァーハー」です。日本では「ボウジ、ソワカ」と唱えます。ボーディは悟りという意味と思いますが、スヴァーハーが分かりませんでした。
ところが、最近読んだ「脳と魂」という本で、スヴァーハーは「成就した」という意味だと、宗教家の玄侑宗久さんが言っておられました。つまり、「ボーディー、スヴァーハー」とは、「悟りを成就した」となります。

ところで、アメリカのキリスト教の宗教家であるJ.E.アディントンの本だったと思いますが、キリスト経のお祈りの中に「神の国が来ますように」という部分があるのですが、これは元々は、「神の国は来ているのです」という現在形で書かれていたとありました。これだけでなく、キリスト経のお祈りは、すべて本来は現在形であると言います。

さっきの、サンスクリット語のスヴァーハーですが、日本のお経では「ソワカ」で、これと同じ意味の「ソモコ」という言葉は、お経の中に頻発するそうです。つまり、お経というのは、あれが成就した、これが成就したという現在形の断定が多いようです。

成就したという現在形は、過去完了形と言って良いと思います。
政木和三さんは、「欲望を捨て、過去完了形で願えば望みは叶う」と著書に書かれていましたが、この欲望を捨てることが難しく、それなら望みは叶わないことになってしまいます。ところが、いつだったか、政木さんがちょっとビールが入っていた時に、こんなことを言われました。「私はね、女性なんかちっとも欲しくないのですよ。でもね、私に身を任せる女性が常時百人いると思ってますから、そうなってるんですよ」と。私は、これはうまい手だと思いました。心を騙しているのですが、これは良い騙し方と思います。そもそもが、我々は心に騙されているのですから、多少騙し返したって悪いことはありません(笑)。

尚、先の玄侑宗久さんも書いておられましたが、人間は「成就した」という断言に追随するように出来ていると思います。「疲れた」と言うと疲れますし、「ムカついた」と言うとムカつきます。しかし「ムカつかない」では、余計ムカつくかもしれません。やはり、過去完了形で「ムカつきが消えた」というと、少しずつかもしれませんが、心や身体が追随してきます。「気にならなくなった」「健康になった」とかも言っているうちに、やはり心身が追随してきます。
まあ、「金持ちになった」とか「彼女ができた」とかいうのは、一足飛びに叶うことでもありませんので、どうなるか分かりませんが、そういう雰囲気を持つことで成就しやすくなるかもしれません。また、それが達成された時の準備にもなります。クリント・イーストウッドは、駆け出しの頃のバート・レイノルズの「成功するまで何をしてたか?」の質問に、「成功した時の準備をしていた」と答え、それを聞いて悟ったレイノルズは大成功を収めたと聞きます。

宗教は、政治に利用されることも多く、その内容が正しく伝わっているか、あるいは、その教えが本当に正しいのか不明なことも多いのですが、いくらかの真理は含まれるものであると思います。

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2007.09.23

日本の伝統

池田満寿夫さんが、欧米でインタビューを受けた時、相手側がいかにも池田さんを白人とは違う人間として扱ってくると、池田さんは「ボクはコーラもハンバーガーも大好きだ」と、彼らと何ら変わらない人間であることをアピールしたことがあった。
しかし、池田さんの版画が評価されるようになった時、日本人の画家が池田さんに「お前が成功したのは、版画ということよりも、作品が小さいからだ」と言われ、それを認めたが、その理由は、「日本人は雄大な空間の感覚は無いかもしれないが、小さなものを緻密に作るのは向いているのだ」というものだった。
そして、晩年(といっても、池田さんは63歳までしか生きなかったが)、日本の伝統に回帰し、陶芸などを熱心に行うようになった。
池田さんは活動拠点をニューヨークに移し、テレビで見たその頃の様子はまさにアメリカ人のようであったが、やはり最後は日本的なものに戻った。

画家のアンドリュー・ルーミスは、デッサンのテキストの中で、「生まれは隠せない。貧しく育った者が豪華な生活を描くのは難しいが、彼は荒れ果てた小屋の中を、それは美しく描くのだ」と書いていたことを思い出す。
横尾忠則さんも、例えばシャガールの絵は、聖書や神話以外は故郷をモチーフにしていると言い、人間は、自分が10代の頃に夢中になったことの影響が大きいのだとよく著書などに書いているが、通じるものがあるように思う。

また、個人の問題だけでなく、日本人には日本の伝統がやはり生きている部分があり、ある時期にこれが欧米式に大きく転換されたが、それは非常に悪影響があったと、最近読んだ、解剖学者の養老孟司さんと、宗教家の玄侑宗久さんの対談本である「脳と魂」にあったが、半ば私も納得した。
今は、正座なんてものは時代遅れと思われているが、あれは腹筋と背筋を鍛える効果があり、それを西洋人のように、椅子に脱力して座るようになったことで、体力や集中力がなくなったようだとある。
ところで、かつての人気アニメ「美少女戦士セーラームーン」では、彼女達は結構、正座して勉強しているシーンがよくあり、それが自然に描かれていたと思う。現在のプリキュアなどでもそうだったように思う。
威圧的な強要は良くないが、正座を見直すのも良いかもしれない。

20070923
夢や過去の思い出は大抵、色は付いていません。これは、ある夢です。
クリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2007.09.22

光と海と風

竹宮恵子さんの漫画「私を月に連れてって!」で、12歳の美少女ニナは、恋人のダン・マイルド(宇宙飛行士、27歳)に、「人間は自然に接しないと馬鹿になる」と言われたと語るシーンがある(ニナはダンを、「もう27のオジン」と言ったが^^;)。

それで思い出したが、養老孟司さんは、「唯脳論」の中でもっと具体的で面白い話を書かれていた。
都市や制度といった人工物は、人の脳が作り出したものであり、全て予期でき、理解しやすい。それどころか、人は様々な都合から、予期でき、共通認識しやすい世界の構築に躍起になってきたと言える。
そこで、人工物の中だけで過ごす人間は、世界の全てが予期でき、自分に理解できるものであると思ってしまうようになる。そのような世界は狭く固定された幻想のようなものだ。
対して、自然とは広大で予期できないものである。しかし、現代の人は、予期できない世界を恐れ、さらには、そんなものはないと思い込む。例えば、一流大学に行けば幸福になるといった馬鹿げた妄想はその最たるものである。

竹宮恵子さんがニナに語らせた洞察は、単純ながらも見事な真理である。

ところで、自然を表す言葉といえば、どのようなものがあるであろう?
光、風、海、そして、空といったところではないかと思う。
これらの言葉を使った歌をいくつか思い出せるかもしれない。
私は知らなかったが、「海・風・光」という合唱曲があるらしい。
田村直美さんのヒット曲に「光と影を抱きしめたまま」というものがある。作詞作曲も田村さんの手になるものであるが、詩の中に「光、海、風」という3つの言葉を入れることは最初から要請されていたと思う。と言うのは、この歌は、CLAMPさんの漫画「魔法騎士(マジックナイト)レイアース」のアニメの主題歌であり、ヒロイン3人の名前が、それぞれ、光、海、風であったからだ。詩はソラで憶えているが、抜粋すると、

胸の奥で震えてる
光と影を抱きしめたまま
捨てきれない夢を追いかけて
誇り高く愛は蘇る

夕焼けの色が切なく綺麗で
閉ざしていた心の海にこぼれた涙
輝きは二度と戻らない
明日吹く風のような自由が欲しい

である。
なんとも素晴らしい詩と思う。
尚、空という言葉が出てこないが、漫画のヒロインは3人組で空ちゃんはいないからだ。
ところが、ヒロインの1人、風(ふう)の姉の名が空(くう)である。素晴らしく賢明な姉であった。

ところで、アニメの曲で、空まで含めた歌がある。伝説の名曲「エイトマンの歌」だ。

光る海 光る大空 光る大地

で始まる。
おや、「風」が無い?心配(?)ご無用。3番が次のように始まる。

燃える空 燃える風 燃える心

シンプルながら、素晴らしい詩と思う。
尚、ここで、自然のさらに1つに「地」があることが指摘された。
実は、「魔法騎士レイアース」の「レイアース」はRayとEarthから成る造語で、「光る大地」である(!)。
面白い偶然の一致である。

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2007.09.21

オンナの表情を美しくするもの

女性が最も美しい表情を見せるのはどのような時であろうか?
楽しくてはしゃいでいる時であろうか?若い女性には特に言っておきたいが、あなたがはしゃいでいる様子を可愛いなどと思うのは、せいぜいがあなたの父親だけである。

「心身医学の父」と呼ばれるドイツの天才医師ゲオルグ・グロデックは、女性の出産の時の神々しいまでに美しい表情について著書で強調していた。
初めての出産に恐れる女性が麻酔を使うよう願った時、グロデックは、それに了解の意を示しつつ、「あなたが望めばすぐに麻酔を使う」とだけ言った。しかし、出産が始まるや、女性は麻酔を要求しなかった。
グロデックによると、出産こそ、女性最大の快楽であるという。それを麻酔で邪魔するなど、なんとももったいないのであると力説する。
さて、一般に特に男性が思い浮かぶ女性の素晴らしい表情とは・・・露骨に表現するのもはばかられるし、さりとて「エッチの最中」なんて俗な表現も嫌いだが、もう書いてしまったので、そういうことにするが(笑)、その時の表情であることに同意されると思う。

だが、最近かどうかは分からないが、あの時の表情が良くない女性が増えてきた。良くないどころか醜悪ですらある。何かの俗っぽい写真集で、女性のその時の表情を擬似的に作って撮影したものがあったが、これもことごとく醜い。
その理由を以下に解き明かす。

ベルニーニの彫刻に「聖テレジアの法悦」という、3.5メートルもの大理石の歴史的傑作がある。
聖テレジアとは、若い美人のシスターであり、タイトル通り、法悦の表情を表している。法悦とは宗教的恍惚感であり、それは、あの時のエクスタシーの表情と区別はない。そして、この聖テレジアも、まさに「イった」時の最高の表情であり、それは著名な美術家の多くが同意している。
この彫刻では、キュービットがテレジアを矢で突き刺している。その痛みと、神による癒しの悦楽が合い混じった表情なのだ。キュービットの矢の貫通もまた、その意味は説明するまでもあるまい。
つまり、あの行為といい、出産といい、苦痛と快楽が同時にあるからこそ最大の快楽となり、女性も良い顔をするのである。
現在の女性は苦痛を受け入れなくなったので、神々しいまでの美しい表情が消え失せ、あまりに快楽のみ求めるために醜い表情しか表せなくなったのである。

ガイナックス社に永久に収益をもたらすかに見えるアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」であるが、第23話「涙」で、歴史的ヒロインの綾波レイが素晴らしい表情を見せている。
形状不定の使途(敵である謎の生命体の呼称。この時の使徒は第16使途アルミサエル)が出現し、訳あってレイの零号機(ゼロごうき)だけが出撃する。
使途についての情報があまりに不足しているため、レイには待機が命じられるが、使途の方から接近してきた。使徒は、弾力性のある棒状の形状で先が丸いという、フロイト博士でなくても「アレ」と連想される姿でレイの零号機に突き進む。零号機はそれを手で掴むが、使途は一気に零号機の腹部に突入する。ロボットとはいえ、地面でもがく零号機が何か色っぽい。そして問題は、中のレイも同じ状態であったことだ。使途は、零号機と共に、レイにも侵入してきたのだ。
絶対冷静なレイは歯を食いしばって耐えるが、顔は上気し、背中と首を反らせ呻き声を漏らす。脚本には、その様子は「苦痛と快楽」であると明記され、レイは悦楽の声を押し殺してながらも思わず漏らしているとあった。この「苦痛と快楽」は何度も書かれている。シナリオライターはよほどこだわっていることが分かる。
そしてレイは一瞬気を失い、その間に、もう1人の自分と幻想的な対話をする。不意に目を覚ましたレイは涙をこぼす。
この一連の映像に興奮しない男性はいまい。レイが無理矢理に犯されている象徴的情景はまさに神話と言って良いであろう。
この時のレイの美しさもまた、脚本にしつこく書かれていたように「苦痛と快楽」という2つのものがレイに強要したものであり、聖テレジアの法悦と同じである。

最大の快楽が女性に喜びをもたらし、それが女性を美で輝かせるのであるが、最大の快楽には苦痛が必要である。
快楽のみでなく、苦痛も受け入れた時、女性は限りなく美しくなる。これをすっかり忘れた時、美しいはずの時でさえ、女性は醜悪になるのである。ましてや、快楽のみ求める女性は24時間醜いのである。

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2007.09.20

ドッペルゲンガーを殺す

ドッペルゲンガーというものをご存知だろうか?
もう1人の自分という不気味なもので、当然、自分そっくりである。また、自分のドッペルゲンガーを見ると、まもなく死ぬという説が支配的だ。

著名人にも、自分のドッペルゲンガーを見たことを明かした者もいるらしいが、エドガー・アラン・ポーの短編小説「ウィリアム・ウィルソン」では、やや趣は異なるが、主人公のウィリアム・ウィルソンの前にもう1人のウィリアム・ウィルソンが現れるものがある。
この小説では、本物の高慢なウィルソンは、もう1人の善良なウィルソンを、最後には剣で刺し殺すが、もう1人のウィルソンは死の間際、「お前は自分を殺したのだ。お前は、この世に対して、天国に対して、希望に対して死んだのだ」と言う。
一般に、もう1人のウィルソンは、本物のウィルソンの良心であると言われている。

だが、それは違う。
ドッペルゲンガーの、そして、ポーの「ウィリアム・ウィルソン」の真の解釈を知る者は少ない。

私は、ある時、ついに自分のドッペルゲンガーを捕らえた。
普通の人は、単に自分のドッペルゲンガーと一体化しているのだ。それを超然と、自分と異なるものとして見たのだ。
私は、ドッペルゲンガー抹殺を試みた。
だが、あのウィルソンだって、もう1人の自分の抹殺には長い時間がかかったのだ。
長く苦しい戦いであったが、ついに私もドッペルゲンガー抹殺に成功した。
そして解放されたのだ。

まこと、自分のドッペルゲンガーを見た者は、まもなく死ぬのである。この世に対しての祝福された死である。そのチャンスを得たと言えるのだ。
もう1人のウィルソンは、本物のウィルソンに刺されて倒れた時、確かに言ったのだ。「お前は勝った」と。
ドッペルゲンガーとは心に他ならない。善良で有能で、誇り高く高尚に見えても、それは欲望と恐怖にまみれた落ち着かない心に過ぎない。
それが見れるようになるには、何らかの恩寵が必要だ。回りにいる優れた人物、本の中の1つの文章、偶然聞いた言葉。これらの中に恩寵がある。
そして、もう1人の自分を見つけたなら、可能な限り即刻死刑にすることだ。なぜなら、それがあなた自身を奪い続け、人生を台無しにしていたはずだからだ。

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2007.09.19

星の危険な誘い

「荒野の用心棒」(クリント・イーストウッド主演)、「星空の用心棒」(ジュリアーノ・ジェンマ主演)といったタイトルの西部劇がある。
ところが、これらの原題はそれぞれ、「PER UN PUGNO DI DOLLARI(一握りのドルのために)」と「DAYS OF VENGEANCE(復讐の日々)」と全く違っている。
これらの日本語タイトルは、日本に配給される作品が、西部劇であるという以上の情報のない段階で決めたものであり、要はどんな作品にでも合う、少なくとも極端に外れる恐れのないC調のタイトルであるらしい。

しかし、「星のない男」は違う。原題は「MAN WITHOUT A STAR」とそのままである。
主演はカーク・ダグラス。監督は西部劇の神様キング・ヴィダー。1955年公開の名作中の名作だが、なぜかDVD化されていない。残念だ。

さて、「星はなんでも知っている」「星に願いを」と、人は星に親しみを持つものらしい。
名作小説を書きたいなら、星をうまく使わない手はない。
逆に言えば、星をうまく使えば、一般人を心酔させることも可能である。
世界的作家オグ・マンディーノが書いたこんなお話がある。以下は概要である。

舞台は紀元元年のイスラエル。
大商人が率いる商隊で馬の世話係をしている少年は、別の大商人の娘に身の程知らずの恋をし、自分も商人を志す。
大商人を説得し、商品である高価な外套を1着持ち、町に売りに行くが、少年は商売の厳しさを思い知る。いくら声をかけても見向きもされず、日は過ぎ、自分の駄目さ加減と片思いの少女へのあまりの遠さに絶望は深まる。
宿に泊まる金もなく、すっかり寒い季節に洞窟で夜を過ごしていたが、ある夜、洞窟で、赤ん坊を連れた若夫婦に出会う。母親はひどく若かったが、この寒い中でほとんど裸だった。赤ん坊に着せるものがなく、自分の衣服でくるんでいたのだ。
いったんはそこから去った少年であるが、引き返すと、持っていた商品の外套を、その母親にあげてしまう。
売れなかったばかりか、高価な商品をタダであげてしまった少年は悲痛な心で、だが仕方なく商隊に戻る。そして、真夜中に商隊のキャンプに到着すると、なんと商隊の主である大商人が外で待っている。少年は驚いたが、大商人も驚いた。
「空に恐ろしく明るい星があったのだが、その星がどんどん近付いてきた。そして、星が真上に来た時、お前が現れたのだ」
30数年後、大商人となった少年は財産の大半を商隊の者に分配し、静かに暮らしていた。貧しい時に恋したあの少女を望みどおり妻とし、幸福であったが、妻は既に亡くなっていた。彼に後継者はいなかった。
そんな彼のところに、眼光は鋭いが、ボロを着た恐ろしく貧しい若者が訪ねてきた。若者は「私の師が夢に現れ、あなたのところに行って話し方を教われと言った」と言う。そして、師の形見を大商人に見せる。それは、十字架に磔にされて処刑された彼の師が着ていたものを、サイコロ賭博で勝ち取ったローマ兵から、この若者が買い取った外套で、それはこの大商人が少年の日、あの若い母親であった聖母マリアに無償で譲ったものであった。

なんとも感動的な話を書くものだ、マンディーノ!
こんな才能が悪いことに使われなければ良いのであるが・・・

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2007.09.18

感受性なき子供達の未来とは

人間とは、つくづく不都合な仕組みの生き物と思う。
他人を殴ると、手が痛いことから、相手も痛いのかなと推測できる可能性もあるが、棒や鉄パイプでなぐると、疲労は感じるが、こちらはさっぱり痛くない。相手の声や表情から苦痛を推測できそうな気もするが、それにはある程度の経験や感受性が必要である。
ましてや、レイプや強制猥褻などは、やる方は楽しくて気持ち良いのであるから、相手の苦痛はさらに意識の外になりやすい。
一度殴られれば、殴られたら痛いということが分かるが、現在は殴られる機会は非常に少ないし、その上、テレビゲームなどで、平気で相手の身体がぶっ飛ぶほど殴りまくっていると、殴る、殴られるの現実味は更になくなると思う。
ゲームもであるが、学校の勉強も机の上でのものばかりで、実感に乏しく、感受性を発達させる機会もないので、こういった他人の苦痛というものの存在を実感できないとしても仕方がないかもしれない。

「サイボーグ009」というアニメで、他を攻撃すると、その衝撃を自分が感じるため、一切の攻撃が不可能という異世界の人間が登場したことがある。現在の日本の特に若年層の正反対である。
また、現在の漫画界の巨匠、永井豪氏の漫画で読んだが、ある男が女性をレイプしようとすると、男の魂が女性の中に入り、自分が被害者として体験することでレイプの恐ろしさを実感するというものがあった。
これらを見ることで、被害を受ける者の状況を多少想像できるようになるものであろうか?

ましてや、精神的な苦痛となると、さらに想像できない人間が増えているに違いない。
集団暴行で人を殺すとか、自殺するほど追い詰めるようないじめ、教師の立場でありながらの女生徒への猥褻行為が毎日のように報道され、しかもそれが氷山の一角というのは、人間が痛みを経験する機会も、感受性を育てる機会もなくなっていることが原因であろう。
永井豪さんの漫画のように、魂が入れ替わればすぐに自分の行為の非道さが実感できるのであるが、それは無理だ。

初めて刃物を持った中学生が指を切り、血が流れるのを見てパニックに陥ったという話がある。刃物が危害を加えることもあることを知らなかったのだろう。こんな人間は、他人に平気でナイフを突きつける可能性が高いし、そのまま刺してしまうこともあるかもしれない。
数十年前、学校では子供にナイフを持たせない方針を徹底させ、子供がナイフを使わなくなった結果、ナイフは以前と比較にならないほど恐ろしいものになったのだ。
今、日本の間抜けな公的教育界は、小学生に全国の都道府県名と場所を暗記させようとしているらしい。またも実感の沸かない暗記である。日本の教育に未来はないであろう。

思いやりとは、他人の状況や立場を思いやる、すなわち実感として理解する能力である。美しい心の問題ではない。それには、痛みの経験や感受性が必要である。経験や感受性を育てる機会がなければ絶対に身に付かないものだ。
現在、学校教育とゲームにより、現実的経験や感受性を得る機会のほとんどは奪われている。その影響は、人々の行動に十二分に現れてきている。
可能性があるのは、隠れてナイフを使い、ゲームを買う余裕のない家庭の子供かもしれない。
ゲーム機を与えるくらいなら、天体望遠鏡が良い。天体望遠鏡を使うと、それだけで実に多くのことを学ぶ。ほんの僅か望遠鏡が動いただけで、高倍率の望遠鏡では視野が大きく外れることを知る。よって、望遠鏡は非常に丁寧に扱う必要があると気付くだけでも何と子供を成長させることか。映画やアニメで、天体望遠鏡でUFOや流星を見るシーンがあると、そんなことがあり得ないことを実感として分かるようにもなる。それは論理的類推であり、確実に頭を良くする。学校の成績ではなく、知的能力が上がるのだ。
一方、ゲームは美的かもしれないが、それも偏った美しさだ。しかも、非常に狭い範囲の知的能力しか使わないし、ほとんどがパターン通りに反応することを要求される。すると、自発的に思考することがなくなり、頭はどんどん悪くなる。また、確実にパターン化人間となる。まあ、それは学校や大企業には都合が良いのであるかもしれないがね。
世界には、男の子が10歳になればナイフを与える習慣のある国や地域が多くあるらしい。男の子の方も、ナイフを貰える日を心待ちにしているはずだ。ナイフを持つほど大人になったことの自覚や、それを使う中で何度も怪我をすることで学ぶこと。それは非常に良いことであることは間違いない。尚、女の子に持たせるのも当然良いと思うが、女の子は他に持つべき道具があるということかもしれない。だが、現在は、針で指を刺した経験のない女の子も多いかもしれない。

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2007.09.17

美しい国を作る2つの方法

安部首相が、「美しい国作り」をスローガンとしていたが、このような抽象概念を政治のスローガンにするのは、そもそも危険思想である。
しかし、もうお辞めになるということなので、あえて、どうやればこの抽象的な「美しい国」が実現するのか考察しよう。
1つの方法は、特定の個人、即ち、総理の主観に合致する「美しい国」のイメージを無理矢理実現することであり、完全な独裁国家を目指すものである。
もう1つ考えよう。その方法は、国民の大半をお金持ちにすることである。
「美しい妻」なら、金持ちであろうが貧乏人であろうがみんな欲しがる。もちろん、金持ちの獲得率の方がはるかに高い。しかし、「美しい妻」は期間限定である。
「美しい家」も誰しも欲しいが、庶民では順番は後回しになる。まずは、今の生活が最優先である。「美しい町内」となると、ぐっと優先順位が下がる。そんなことを考えるのは、美しい家を持つ者である。
家や町ですらそうである。美しい国を欲しがるのは、一生、お金の心配が全くない、浮世離れした人間である。これをもし、国民のためのスローガンにするなら、国民全員を金持ちにしないといけない。
いずれにせよ、抽象概念をスローガンにする人物をリーダーにしてはいけないという教訓を私も認識したのである。

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2007.09.16

嗚呼!絶品!!

Seigen2

最近購入した、肥後守(ひごのかみ)タイプのフォールディングナイフで、彫刻刃物の第一人者と言われる清玄さんの手作りナイフです。
肥後守というのは、兵庫県三木市の永尾駒製作所の登録商標なので、他は肥後守を名乗れません。
このナイフは、清玄特製肥後拵黒打小刀(せいげんとくせい、ひごごしらえくろうちこがたな)です。
この清玄特製肥後拵黒打小刀は、全部で4種類あり、これはその一つで、一般に笹の葉型、あるいはトンガリと呼ばれる、先が尖った形状を持ち、特別に「馬針」という呼び名があります。
清玄特製肥後拵黒打小刀は、清玄さんが、世の中にある肥後守タイプのナイフで気に入ったものがなかったので、自分のために作ったものだと言われています。
非常に精密な作りが感じられ、刃のロック機構のない肥後守タイプ独特のシンプルな作りですが、開閉に適度な重みがあり、ロック機構の必要を感じません。しかも実にスムーズに動きます。
最初から丹念に研ぎ込まれた刃は恐ろしい切れ味です。
また、真鍮製の鞘は幅が広くて握りやすいです。
いかにもシンプルで飾りっけもない道具に徹したものですが、これこそ「ザ・ナイフ」ではないかと唸ってしまいました。
良いナイフに巡り合えました。正に一生もんと思います。
見かけの派手さや、格好良さではない本物の1本を望む方にお薦めしたい逸品です。

Seigen

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2007.09.15

「星の銀貨」の真意

グリム童話に「星の銀貨」という短いお話があります。
元になった民話は、それこそ5秒でできるお話でしたが、グリムは少し長く創作しました。それでも数分で読めます。
身寄りも、住む家もなく、着ている服と一切れのパンしか持たない女の子が、それでも請われるまま、パンも服も、下着さえも老人や子供に与え、夜の森の中で裸で立っていると、行いを誉めた神様が服と沢山の銀貨を女の子に与え、彼女は裕福になったというものです。

実は、これは深い意味を持つお話です。
それは、「全てを諦めた時、全てを得る」というものです。

20070915
私の「星の銀貨」のイメージです。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2007.09.14

少女エロチシズムの芸術

少女愛の最もレベルの低い象徴的行為は監禁である。
少女を監禁し、暴力や恐怖により支配することである。ここまでいかなくても、威圧や権威で少女を支配する願望も同様であり、性的行為の成就が支配の成功であると幼稚な心は思い込む。精神的幼児とはまさに脅威である。
少女愛の本質は確実に自己愛である。
自己愛といえば、いかにもエゴイスティックな雰囲気があるが、自己を愛さない人間はおらず、純粋な精神においては自己と他者の区分は明確でなく、自己を純粋に愛するのであれば、同様に他者も愛するのである。
高度な少女愛になると、特定の少女という生身を必要とすることはない。むしろ、あってはならないと言えると思う。
穢れ無き至高の美としての少女のイメージに自己を投影し、一方的な愛を捧げるのであり、少女の側からの反応を何ら求めているわけではない。ただ、自己の内にある至高の存在に気付きたい願望が少女愛の情熱である。
よく考えれば、高度な少女愛の対象たる少女は現実の少女そのものではない。言うなれば女神のようなもので、今流行りのアニメの美少女キャラもそれに近いといえなくはないが、やはり精神が幼ければ精神的な高みを望むことはできない。
少女趣味になるのであれば、社会で相当鍛えられて精神的成熟を得ている必要があると思うのである。
しかし、学生や、社会に出ているとは言っても、さして責任ある立場でない者でも、少女愛を諦めるわけにはいかないものであろう。また、人間である限り、完全な精神の成熟は有り得ず、いかな少女愛でもエロチシズムの要素はやはり存在する。
これをエロスのみの追求に向ければ、ただの猥褻である。そこに芸術的な指向を持ち込み、万物との一体化といった精神性の痕跡を僅かでも刻み、豊かで強力な精神をいつか実現する希望を見出すことはできるであろうか?
一見、ただの猥褻のように見えるものでありながら、芸術的と広く認められるものがある。我々、見る目がない者からすれば、それのどこが芸術的であるか理解できないし、実際、それらの作品が猥褻的嗜好を目的としたメディア媒体に載せられる場合もある。
芸術的エロスでは、どこかエロスに反発したり、エロスを妙に醒めて見させる傾向がある。例えば、エロスよりもインパクトのある映像を同じ画面にもってくれば、それはエロスと主導権を争って対決する。エロスに勝てないまでも、エロスの効果を殺ぐのは確実である。
エロスと心を一体にさせるのが猥褻であり、エロスと心を引き離すのが芸術である。
芸術的エロスはシュールにならざるを得ない。
佐伯俊男氏の絵を見ると、可愛い少女に猥褻行為を働くのは妖怪物の怪の類で、その奇怪さは強烈である。また、普通のおじさんがセーラー服の少女を襲う場合は、そのおじさんは最後には目を傘で刺し貫かれたり、幽霊が横で見ていたりと、まあ、無事で済むことはない。いかに、幻想、超現実を取り込むかが重要である。
別に猥褻が悪いというつもりはないが、官能画家の椋陽児氏の絵の中には、徳の高そうな威厳ある僧侶や、正装の高級将校がセーラー服の女学生を緊縛しているものがあるが、これなどはどこもシュールではなく、いわば現実である。椋氏の絵の腕前は素晴らしいが、別に本人も芸術のつもりはあるまい。
ピカソの347スリーズや156シリーズも露骨な性描写を含むものが多いがシュールである。だが、20年ほど前、ピカソ156シリーズを展示した画廊が検挙されるというお馬鹿な事件があったようだ。
もちろん、佐伯俊男氏の絵も検察からクレームがついたものもあるであろう。
まあ、いまだ、芸術と猥褻の違いがはっきり示されることもないし、専門家も訳の分からないことを言う。私の言い分も、訳が分かるかどうかは不明であるが、人類にとって有益なものである。

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2007.09.13

絶対的美少女に確実になる方法

美少女の絶対的な条件、それは「軽い」ということだ。
「亜麻色の髪の乙女」でも、乙女は「羽のように」丘を下るのである。丘を下るだけなら、羽よりはパチンコ玉かドラム缶の方が都合が良いはずであり、そもそも羽はちゃんと丘を下るか怪しい。それでも、ドラム缶のように丘を下っては歌はヒットしないのである。
ところで、羽と丘と言えば、かつての人気アニメ「怪盗セイント・テール」のヒロインの名は羽丘芽美で、このネーミングセンスの素晴らしさには脱帽する。セイント・テールは当然身軽な美少女で、屋根から屋根を飛び移りながら、疾走する自動車すら追いかけ、風船で空を飛んでみせる。
また、美少女の代表的存在ともいえるのは「カードキャプターさくら」のさくらちゃんであるが、このアニメの最初期のオープニングのスタート場面は、正に美少女の真髄を見せていた。
さくらの花弁1つが水面に落ち、さくらちゃんは、その花弁の上につま先で降り、そればかりかその上を跳ねてみせる。
さくらちゃんに憧れる女の子は、保護者同伴で、さほど危なくない池かプールにさくらの花弁を浮かべ、その上に飛び乗って欲しい。いや、私は真面目だ。
女の子達は、悲惨な結果を嫌というほど味わって欲しい。
さくらちゃんの持っている杖のおもちゃを買ってもらい、コスチュームも作ってもらってその気になっても、自分はさくらちゃんになれない現実を思い知って欲しい。
そして、そうしてこそ、さくらちゃんへの道は開かれるのだ。

ちょっと冗談めかしてはいるが、人が「軽い」存在にいかに憧れるかはよく分かると思う。

身軽さの究極を表現した美少女の象徴といえば、当然天使である。
天使こそ美少女の真の姿である。
さて、さきほどの「カードキャプターさくら」の作者CLAMPのその前の作品は「魔法騎士レイアース」であるが、そのヒロインの1人、龍崎海のテーマ曲は、田村直美さんの手による「いつか天使になれる」である。この歌には、天使になる方法が本当に明かされている。ただ、「いつか」ではない。すでに天使であるのだ。だが、そう言われても分からないであろう。心とは馬鹿なものであるからだ。心を超えた時、実に簡単に分かる。
この歌で、「愛しさに傷ついて 天使に生まれ変わる。哀しみを追い越して 彼女は天使に変わり続ける」と繰り返される。さすが田村直美さんだ。実に簡単に天使になれる方法を教えてくれている。
ん?全然分からないって?
こんな美しい言葉に解説なんて付けたくはないが仕方がない。
「愛しさに傷ついた心を容赦なく見つめることで痛みの意味が知られる。すると、哀しみを作り出した心の彼方にまで行き、広大なるものに直面する」
その時に爆発が起こるのだ。すると、心という重石がなくなり飛翔する。
このあたりは、霊的アーティストがいろいろに表現している。
Let's fly high keep the pain you knew sppning below
「ガッチャマン'94」の主題歌の中の1文で、冬杜花代子さんは、「地上の大騒ぎ尻目に僕達は行くのさ」とか「飛ぼう、辛いことは地上で空回りさせておけばいい」といった感じで訳されていたと思う(手元に資料がないのだ)。
歴史的な名曲「Over the rainbow」なんて、まさにそのものを表現している。「虹の向こう」そこは誰にでもすぐにでも行ける処なのだ。あの歌は人類の財産であるはずだ。
だが、「虹の向こう」は良い場所であるのだが、本当に行かなければ何にもならない。行ってもいないのに、行ったつもりでいることが最も悲惨なのだ。

「天空の城ラピュタ」で、空から静かに降りてくるシータを見てパズーがドキドキしたのは当然なのだ。その時点では、パズーにはシータが美少女であることは見えていないはずである(スカートがひらひらしていたのは確かで、パズーも健康的男子であるからにはエッチであるとは思うが・・・)。
しかし、あれだけ軽やかに降りてくる少女が美少女でないはずがない。飛行石だって美少女でなければ地面に叩き落すはずなのだ・・・というのは冗談で、美少女が空中にふわりと浮くイメージがいかに自然であるかということである。
そして、私が上に述べたことを実行すれば、あなたもそのような存在になれるのである。比喩的に言えば「飛行石を手に入れることができる」のである。
ふて腐れたり、文句を言うのは、必要なことが実行できていない証拠だ。別に我慢しろと言っているのではない。怒り、嫉み、自尊心、傲慢さ、損失感情、そんなものをただ見ろと言っているだけである。それが文句など言葉や行動になるということは、それらと一体化したということなのだ。心は一体化するものである。それによって存続しているのだからだ。一体化をやめれば良い。心の動きを超然と見れば、心に取り込まれることはなくなる。
それを容易くする呪文を教えよう。「私は在る」だ。我思おうが思うまいが私は在る。生きていようが死んでいようが私は在る。呪文を思い出したなら、ただ在れば良い。あなたが、さくらちゃんやシータや、あるいは天使になることは確実である。

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2007.09.12

段階的恐怖

マシンガンを構えたテロリストが目の前に出現すれば間違いなく怖いだろうが、「段階的恐怖」というものもある。
これは、「希望が徐々に消えていく」恐怖である。

スーパーマンの前シリーズで、クリプトン星の3悪人が登場するものがあったのをご存知の方も多いと思う。
3悪人は、月で、月面探査中の宇宙飛行士を襲う。
そして、宇宙飛行士が乗った月着陸船を破壊にかかる。
ここだ。
宇宙飛行士にとって、月着陸船は絶対の命綱だ。これが壊されたら最後である。
破壊は徐々に行われる。まずは、着陸船の脚が3悪人の1人が目から放った熱戦で熔けて、着陸船が傾く。大変なことだが、これだけならまだ対応ができるかもしれない。
宇宙飛行士は、ヒューストンに必死で呼びかける。
だが、3悪人の男は無造作に着陸船に追加の攻撃を加える。攻撃を受けた部分が破壊される。
「まだなんとかできるだろうか?もうだめだろうか?」
見ている者が緊迫する。架空の世界とはいえ、宇宙飛行士が誰よりもそうであろう。
そして、破壊が進んで行き、希望はどんどん無くなっていく。
このように、可能性を段階的に剥ぎ取られるというのは、なんとも残酷なことではあるまいか?

悪趣味な漫画であるが、こんなものがあった。もちろん(?)梶原一騎作品だ。
美少女が連れ去られ、脂ぎった中年男が、彼女に拒否しようのない条件を突きつけ、身を任せるように迫る。少女はいいなりになるしかなく、身を横たえる。
彼女を愛する少年が、彼女を救おうと必死に追うが、彼は大勢の男たちとの戦いになる。
そうする間にも、ドスケベな中年男は少女の服を脱がせていく。
彼女を助けたい少年も強いが、多勢に無勢。戦いは長引き、少年は焦るばかりか、攻撃を受けて傷付き、やがて押さえ込まれ袋叩き状態になる。少年は自分の痛みより、少女を案ずるが、一方のシーンで、少女は下着まで剥ぎ取られ、中年男のいやらしい手が思うが侭にそのほっそりとした身体を弄ぶ。
少年のところには、より強い少女の義兄が現れる。義兄は訳あって少年を助けるつもりはないが、少年は必死で窮状を告げ、「もうかなり時間が経っている。早く助けろ」となりふり構わず喚き、義兄も驚き、少年の敵を叩きのめして少年を救う。
ようやく、少年は少女のところへ疾走する。
これもまた、段階的惨劇であり、このような人間の神経への衝撃は様々な作品に利用される。
え?少女はどうなったかって?
何考えてんですか!?(人気ブログランキング投票アイコンをクリックしたら教えるとか・・・^^;)

では、我々は、このような恐怖をどう克服すべきか?
もちろん、このような悲惨を避ければ良いのであるが、世の中とは何が起こるか分からない。出来事とは勝手に起こるものなのだ。
もし、わが師に、「あなたの乗っている月着陸船が破壊されたらどうしますか?」と聞いたなら、彼は答えるであろう。「それが私に何の関係があるのか?」と。
では、「あなたの娘が好色な中年男に弄ばれたとしたら?」と尋ねられたら、おそらく、「私は嘆き喚くかもしれない。しかし、それが私に何の関係があるのか」と答えるかもしれない。
殺す者、レイプする者は、殺される者、レイプされる者より悲惨なのである・・・と言ったら非難されるかもしれないが、実際そうであると思う。
「悪人がのうのうと暮らしている」と言うことがよくある。しかし、あなたは実際にそれを見たであろうか?性善、性悪に関わらず、心にそそのかされるまま苦しみを与えた者は果てなく惨めである。
W.B.イェイツの謎の文章「アラブ人への手紙」に出てくるアラブ人は、家族を殺された時、死ぬほどの苦しみを味わうが、やがて歓喜の念に打たれ、喜びの歌を作った。
イェイツの詩に「それがどうした」という言葉がよく出てくるのも偶然ではない。
彼らは、神の世界を垣間見たのだ。

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2007.09.11

社会保険庁等の真の問題は?

年金未払い問題では、社会保険庁のずさんな仕事振りが次々出てきて批判を浴びているが、政府機関、教育機関、司法機関、公安・警察機関等も、探せばまだまだあっけにとられるほどのがいくらでも出てくるはずだ。
何が問題であるのかと考えてみれば、単に「仕事をやる気がない」だけなのである。
考えてみれば気の毒である。これらの機関の仕事は、身分や収入が保証されることで羨まれることもあるが、絶対に面白かったり、熱意を持ってやれることでもない。

「禅とオートバイ修理技術」という本がある。歴史的と言って良い素晴らしい本だが、既に絶版と思う。
著者ロバート M.パーシグが、沢山の出版社から出版を断られ、やっと出版を請け負ってくれたところからも、全く期待されていなかった。しかし、世界的ベストセラーになったところは、やはり最初はどこも出版してくれなかったハリー・ポッターと同じだ。
この本は、自分の仕事をしっかりやることの大切さを気付かせてくれる。
パーシグは、趣味で乗るようになったオートバイの調子が悪くなり、整備工場に整備を依頼するが、オートバイの調子はますます悪くなる。そして、自分で整備技術を修得して気付いたのが、あの整備工場にいる整備工達は、そこらの子供を連れてきたのがペンチやドライバーを振り回しているだけなのだと。
何ら責任感も熱意もない仕事とはそのようなものなのだ。
社会保険庁の役人も、また、大方の政治家もいまや、この整備工と同じというだけのことなのだ。
そもそもが、この本やハリー・ポッターを出版しなかった出版社の人たちだって、まともな仕事をしていなかったのである。

人はなぜ仕事をするのか?
報酬や懲罰の回避・・・つまり安定のためか?
行き過ぎた安定が生命力を著しく低下させることは誰でも知っている。
役所の中なんて、社会主義国家みたいなものだ。旧ソ連の工場の生産性がどれほどひどいものであったかを考えると、現在の日本の役所でどんな問題が起こっても不思議は無い。
人間性に配慮した改革を行わない限り、未来永劫、同じ問題は起こるのである。
人間は、萌え、もとい、燃えたいのである。
そのためにはリスクだって多少は必要である。リスクを負うということは責任を負うということである。責任を負うということは未知に踏み出す環境にあるということである。
そうでない仕事で人は生きてはいけないものなのだ。

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2007.09.10

真の美少女

浅田真央さんが以前、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の曲を使っていたことを憶えている方は多いと思います。
私には、これは妙にエロチックな連想をもたらします(笑)。
同じく、人形が登場するバレエに「コッペリア」というものがあります。ドイツの作家ホフマンの怪奇小説「砂男」を題材にしたお話をバレエにしたものです。
フランツという青年は、恋人がいるにも関わらず、人形職人コッペリウスの家の窓から見える可愛い少女に一目ぼれします。しかし、その少女コッペリアは、コッペリウスの作った人形でした。
ところで、「くるみ割り人形」の原作は「くるみ割り人形とはつかねずみの王様」で、作者はやはりホフマンです。
「くるみ割り人形とはつかねずみの王様」は童話であり、ファンタジーですが、「砂男」の原作は狂気に満ちた恐ろしいお話です。
よく、スリムで身軽な少女の体操選手やフィギュアスケート選手を「機械仕掛けの人形」のようと言います。そして、コッペリアは精密で美しい少女型の自動人形です。紀元前の時代から、精密に作られた乙女の彫刻が、神の力や魔術で動き出すお話があり、そんな少女人形に恋した青年の物語は数多くあります。やがて機械技術が発達してくると、芸術と技術の両方の才能を持った巨匠達の中には少女の自動人形を作る者がいました。
そうなると、命を持たない人形と、命を持っているはずの人間の少女との、ぞっとする類似性に気付くようになります。
最近、我が国では、美少女フィギュアというものが人気がありますが、明るく可愛いものにはさほどの魅力はないのではと思います。やはりどこか死の影をまとったもの、例えば、「新世紀エヴァンゲリオン」の伝説のヒロイン綾波レイのようなものに、深いエロチシズムを感じるのではないかと思います。
ナボコフの「ロリータ」でも、ハンバートは健康な胃袋を持った少女をどこか興醒めに語っていますが、本物の美少女というものは、やはり生気がないものではないかと思います。
童話でも、小説でも、あるいはアニメでも、薄幸の少女が特に美しいのは偶然ではないと思われます。美少女は、人形のように生命力を持たないようなところがあるのではないでしょうか。
それは、少女の側でも、食の細さ、貧血症といったものをなぜか売り物にする昔からの風習にも、真の美少女が人形的であることの認識があるのかもしれません。
また、人形が歌ったり、踊ったりすることはあっても、はしゃいだり、主張したりはしません。真の美少女もまた、そんなことは決してしないものです。

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2007.09.09

芸術と狂気の謎

芸術家というものは、自らのエネルギーの枯渇に怯える者なのではないかと思うことがある。
80歳を超えたピカソが347枚の版画を短期間に仕上げ(エロチカ347シリーズ。制作と同時に修正も精力的に行った)、その後さらに156シリーズを制作したそのエネルギーこそ芸術の究極の目的であり、ゆえに347シリーズは、子供のラクガキと言われると同時に、ピカソの最高傑作とも言われる。
W.B.イェイツは、芸術の目的はエクスタシであると言ったが、彼の言う狂気の老人こそ、芸術家の姿そのものと思う。老人の安らぎを徹底して拒否し死の間近に最高の激しい詩を作り、自らを投影した狂人たる老人は若い娘を渇望した。
岡本太郎の爆発もそうだ。岡本太郎は、芸術は爆発と言ったが、世界各地に必ずある祭りの風習も、そこにあるのは爆発であり、エネルギーの充足が目的と言う。
三島由紀夫はもっと足掻いていたと思う。「葉隠れ」で自らを鼓舞し、過度に勇敢な言動やパフォーマンスをしなければならなかったのは、彼は芸術を掴み損ねていたのかもしれないと思う。
昨今、「元気をもらいました」という言葉が流行のようであるが、なんとも甘っちょろい。
KOTOKOさんの「being」という歌の歌詞にある「燃え巡り照らす太陽のような強さと永遠に焦がれた」というくらいであって良い。

20070909_2

こちらは単に子供のラクガキ(のようなもの)。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。
原画はエッチ過ぎて見せられない(笑)。

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2007.09.08

「三つ指を突く」文化復活が日本発展の鍵

日本人というのは、本来、パワフルで風流であり、知的であった。
鎖国は主に科学技術の分野で遅れを取ることになったが、独自の文化の醸成をもたらしたのは間違いない。
さて、日本は品格をすっかり失くし、知恵も力も失くしつつある。
それを取り戻し、さらに強力になるためには・・・・。
「三つ指を突く」文化の復活が重要である。
と言われて、女性達が「いやぁーだ!」「古臭い!」と言うなら、まさにこれが良いことだということが分かる。

本当に素晴らしい夫や彼氏とは、あなた(女性)にとって何であると思うだろうか?
最近、たまたま喫茶店で聞いた小田和正の歌にあったような「この世で一番大切な人」かな?
違う。「削除すべき厄介なもの」なのだ。
恋人があなただけに優しいなら、破局は目前と言える。
さて、妻は三つ指を突いて夫を向かえ、夫が入浴して食卓に入ると、子供達は正座し黙って待っている。そして、主人の合図で黙って食事が始まる。西洋では、食事は神が与えてくれるが、日本では主人が与えるのだ。
家の中で主人は絶対である。だが、主人だって、勤め先では社長が絶対であり、その権威の中で上司は絶対である。
家の中で妻は厄介な自分を削除され、主人は会社の中で厄介な自分を削除する。
勤め人でない場合はやや趣は異なるが、何らかの絶対者により、自分を削除することになるのは間違いない。
また、自分を削除したなら、良い社長になれる可能性もあるだろう。

解放とは、あなたが誰かから自由になることではない。
あなたが自分から自由になることである。

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2007.09.06

宇宙人に勝つ方法実践編

仮の話であるが、非常に都合が良いのでこういう言い方をするのであるが、我々人間は、宇宙人に思考・感情を完全コントロールされている。
例えば、男性がある女性を見て、理想のタイプと感じ、どうしても結婚したいと思ったとしても、それも宇宙人によるコントロールであり、「そう思わされた」だけである。
誰か、非常に気に入らない人がいたという場合も、自分ではいろいろ理由を付けるであろうが、それもまた同じく宇宙人による思考・感情操作である。
宇宙人のコントロールは非常に緻密で完全であり、それこそ、靴下をどちらの足から履くかだって彼らの支配下にないものはない。
では、私がこれを書いているのも宇宙人のコントロールなのだろうか?
実は、私は彼らの支配を免れることに成功したのである。
その方法を紹介するが、ほとんどの人は取組もうとはしないであろう。

宇宙人は、人の心を利用するのである。
もともと、人間も他の動物同様、心というものを持っていなかった。このような場合、支配するのは簡単としても、ダイナミズムに欠ける。つまり、結果は単純に予想されて面白くないし、創造的発展も期待できない。
そこで、宇宙人は人間に心を与えた。心とは、簡単に言えば、出来事に対し、印象の量を変えることのできる器官である。「きれいだ」「怖い」「楽しい」「美味しい」等の印象が、それぞれ最大レベルからゼロレベルまで変化し、印象が大きいものほど記憶しやすくなる。「きれい」がハイレベルになった印象は「感激」や「感動」となる。
あらゆるレベルの印象をコントロールすることで人間を支配できるが、これら印象間の関係や知的能力、身体能力その他の影響で、人間の行動は実に多様性を見せる。これは非常に面白い実験であり、興味深い遊びでもある。

では、宇宙人の支配を逃れるにはどうすれば良いか?
実は、宇宙人が人間に対して実施したことには抜けがある。つまり、あくまで心を通しての支配であるのだが、心は時々静止してしまう。その時、宇宙人に支配されない素の状態を体験してしまうことがある。これが、悟りの体験のようなものであるが、それは一時的なものであり、普段の心の印象の渦の中で忘れ去られてしまう。
このような状況を作れば良くのだが、それは高度な集中により達成可能ではある。ただし、宇宙人だってそんなことを見逃すはずがない。すぐに邪念を心に起させ、集中を中断させることはご存知と思う。
ここらの事情は、米国の有名な黒人男性歌手が歌で表現していた。「集中しろ」「集中は難しくない」と歌ったが、彼は宇宙人の反撃にあい、その対抗策に無知であったために、むしろおかしなことをやるようになってしまった。
だが、私は対抗策を知っている。
好みのタイプの異性を見たら、「なるほど、これが宇宙人のコントロールか」と思えば良い。ただ、別に抵抗しなくて良い。ただ、自分の心を観察していれば良い。
いやなヤツを見て、「気に食わない」と感じたら、その感情もただ見ていれば良い。
自分の家に忍び込もうとしている泥棒を見張るような感じで心を見張るのだ。
そんなことを繰り返していると、感情や思考が自分ではないことが分かってくる。そうすると、身体が自分でないことも分かってくる。
そして、いままで考えもしなかったが、心を観察する自分というものが確かに存在し、それが大変なものであることを発見する。宇宙人は、この「観察する自分」が無いのだと人間に信じ込ませるために、人間が、自分を心だと思い込むようにしたのだ。しかし、観察する自分はあまりに強力であるため、いかに宇宙人でもこれを支配することは不可能だ。
鑑賞する自分に何ができるかというと、別に何もできない。だって、それは心を要しないものなので、願望などないので、何もする必要がない。だが、あえて心を作用させれば、現象界でいかな突飛なことでも実現させてしまう力がある。
だが、その仕組みは心で思考する限りは分からない。その力を自分で獲得して試していただくしかない。宇宙人も、驚くべきおもちゃを我々に与えたものである。何らかの意図があるのであろうが、それは時節が来れば分かるであろう。

余談(どうでもいい話)
そういえば、今年でウルトラセブン40周年であるらしい。
「祝!40周年記念 ウルトラセブン大賞」で、見事大賞を獲得したメトロン星人は、タバコの中に結晶体を混ぜ、これによる精神操作により地球人の信頼関係を壊そうと目論んだ。
授賞式では、メトロン星人は「大変な名誉」と喜びを語ると共に、「最近はタバコを吸う人が少ない。別の手段を考えねば」と語った。これを聞いた、愛飲家で知られる、アンヌ隊員役のひし美ゆり子さんが「お酒に混ぜちゃイヤ」と言って笑いを取った。
最後に、メトロン星人はダン役の森次晃嗣さんとがっちりと握手。翌日のデイリースポーツ紙では、「歴史的和解!」と報じられた。(みんなヒマだなあ・・・)
尚、メトロン星人登場の第8話のエンディングのナレーションはこうであるらしい。「われわれ人類は今、宇宙人に狙われる程、お互いを信頼してはいません」

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2007.09.05

宇宙人に勝つ方法

例えば、今日の昼食はラーメンにしようと思ったり、今夜はカラオケに行くぞと決めた時、それらのことを自分で決めたと思うことだろう。
入学する学校を選んだり、あるいは、彼氏彼女を選ぶのも、自分の意思によってであると思っている。
しかし、実際はそうではない。

昔から、SFなどで、宇宙人が人間をコントロールし、思うがままに動かすといったお話がよくあるが、我々は、実際にはそんな人間と大差ない。

美しい光景を見て、自発的に感動したと思っているが、実は自分をコントロールしている宇宙人に感動させられただけかもしれない。
マフラーを買う時、白かパープルか考え、自分の判断で白にしたと思っていようが、これも同様である。

「荘子」の中にも、影の外側にできる薄い影が、影に「おまえの行動はいい加減だ」と批判すると、影は「俺は主人に従って動いているだけで、どう動くか俺には分からない。だが、俺の主人にしたって同じだよ」と言う。
荘子の洞察力は凄い。
新約聖書によれば、十字架上のイエスは「彼らは自分のやっていることが分かっていない」と言ったようだが、イエスも現代の脳機能科学の重要な成果を直観で洞察していたのかもしれない。しかし、キリスト教徒は、この貴重な言葉を聞いても、自分に当てはめることはなかった。残念なことである。

米国メジャーリーグ野球の今年のオールスター戦でランニングホームランを放ったイチローが、インタビューで「出ましたね」と言われ、「出したんですよ」と反発するように言い返した。
だが、実際は「出た」のだ。イチローは、その準備を十分にやったと主張するかもしれないが、その準備すら「やらされた」のだ。

仮の言い方ではあるが、我々は間違いなく宇宙人にコントロールされている。
しかし、自分の意思であるように感じる。心があるからだ。この心の正体は「クオリア」と呼ばれるもので、自分に自発性があるよう感じさせる目的で人間に備えられたものだ(宇宙人に備え付けられた?)。

では、我々は宇宙人のなすがままで、反撃できないのであろうか?
できる。
やや不思議な方法を使ってね。
私は宇宙人に勝利したのだ。

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2007.09.04

体験

若い人間は体験を求めるものである。
歌やダンスをやる人なら、とんでもなくレベルの高いオーディションに出たいだろうし、ビジネスマンなら、高度なプロジェクトを自分で指揮したいと思うだろう。
無鉄砲に実施することは控えるべきであるが、戦場を駆け回ったり、密林で生活することも新しい何かを得る体験であるとはいえるであろう。
体験は求めれば得られるものだ。
だが、どこにいても必要な体験は得られるものかもしれない。
私の経験で言えば、コンピュータシステム開発者として能力が上がるたびに、より難しいハードな仕事が自然にやってきた。いつも、「この仕事が3ヶ月前に来ていたら、私は大失敗していたはずだ」と不思議に思った。
そういえば、昔人気があったセーラームーンというアニメも、よく見ると、セーラームーンの成長と共に敵のレベルもぐんぐ上がったが、丁度それと同じような感じだ。
しかし、しなくて良い体験もある。どんな体験も無駄ではないというのも一面の真理であるが、そのために心が曇るなら、その損害は大きい。
例えば借金だ。やむにやまれずという場合ならそうでもないが、自分の稼ぎ以上の行為のための借金は品格を落とすことになり、取り返しが付かない。
また、昨今流行のように思うが、ごく普通の若い(10代も前半の)女の子がどうみても正気とは思えない猥褻な写真を撮らせる体験も、彼女達に恐るべき損失を与えている。残念ながら、彼女達の人生は破壊されたも同然であり、それを回復させるためには凄まじい苦痛が必要である。

反対に、とっておきの体験を得る方法もある。
自分が時も空間も超えた存在であるかのように振舞うことだ。
我々は、過去に生まれ、未来に死ぬとされている。昨日を懐かしみ、明日を夢見る。そんなものはないように振舞うのだ。決して生まれなかったし、決して死なない。昨日などなかったし、明日もまたない。
世界の中の小さな空間を占めるのが自分だと思っている。しかし、自分の中に世界があるように振舞うのだ。
この振る舞いは確実に反応を引き出す。そして、実際に自分が時も空間も超え、宇宙が自分のものであることを知るだろう。

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2007.09.02

才能の見極め

ビル・ゲイツ氏は、ハーバード大に入学した当初は、数学を専攻する気でいたらしい。高校時代には圧倒的な成績を収めていたし、自信もあったのだろう。しかし、ハーバードで、本物の天才達を見て能力の大差を思い知らされて数学を諦め、1年も経たず退学した(ハーバードでは長く彼を休学扱いし、今年、彼に名誉学士号を与えた)。
ライス国務長官こと、コンドリーザ・ライス氏は、15歳でデンバー大学に入学するなど、学業も超秀才であったが、ピアニストを目指していた。しかし、あるコンクールで、自分なら1年かかるような演奏を1時間でこなす11歳の天才少年を見て目を覚ました。

SF作家の平井和正氏は、最初漫画家を目指したが、石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)氏に会い、こんなやつに勝てるはずがないと思い、作家に専念した。
梶原一騎氏も同じような経緯があったらしい。

ゲイツ氏もライス氏も、それなりの数学者やピアニストになれる素質も意欲もあったが、彼らはトップになれない限り興味がなかったようだ。
おそらく、平井和正氏や梶原一騎氏も、漫画家になっても成功したかもしれないが、自分を打ちのめした天才には敵わなかったかもしれない。

しかし、別の例もある。
元マラソンランナーの瀬古利彦氏は、米国に留学し、アメフトの選手達が、走り専門の自分よりずっと走力が高いことに愕然とする。しかし、それでも陸上を諦めなかった。
版画家の池田満寿夫氏は、絵そのものは街の似顔絵屋に馬鹿にされ、東京芸大にも3回連続で受験に失敗して諦めたが、画家になること自体は諦めたことはないように思う。
ビートルスも当初はオーディションに落ちまくっていたことはよく知られている。
また、フレッド・アステア氏は、生涯手元に置いていたようだが、若い時のオーディションで「演技ダメ、ダンス、そこそこ」と評価された成績票を受け取った。

絶対的な才能・能力がなくればダメな分野も確かにある。
しかし、何が才能や能力であるか不明である分野の方が圧倒的に多いと思う。
むしろ、最初はどうしようもないほどダメな者が、後で成功することは非常に多い。
ただ、確かに一生芽の出なかった芸人や芸術家などいくらでもいるだろう。
逆に、ゲイツ氏やライス氏にショックを与えたような大天才を後で逆転した例もないではない。
才能の見極めと粘り、それは微妙な問題である。
エジソンは「天才は1パーセントのインスピレーションと99パーセントの努力」と言ったらしい。これは一般に知られているものと違い、「1パーセントのインスピレーションが無ければ努力しても無駄」という意味だ。しかし、1パーセントのインスピレーションなら誰にだってある。やはり微妙だ(笑)。

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2007.09.01

私の本質

私がコンピュータソフトウェアを作る時、私はソフトウェア開発者ではない。私はソフトウェアを作る有能さだ。
私が愛する人といる時、私は男でも女でもない。私はその間にある愛情だ。
悲惨を見る時、私は慈悲だ。
暴力や不正、あるいは愚かさを見る時、私は理解だ。
私が良い知識を得る時、私は知だ。
そして、私は存在の中の存在性である。

過ぎ行く夏を惜しみ、水着の女の子のラクガキを。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

20070901

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