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2007.08.24

無敵の明日

人間の苦しみの原因の大半は力がないことに因する。
自分の能力で稼ぐ限り、経済力は大いなる力になるが、必ずしもそうでない場合もある。みじめな金持ちというのは予想以上に多いものだ。
青年が力を付けるには、社会の中で叩かれ鍛えるしかない。いくら野球やサッカーや柔道、あるいは勉強や読書をがんばっても、それによって得られる力はたかが知れている。
しかし、それが分かっていても、親としては子供が社会の荒波に翻弄されて苦しむのを見るのは辛いものだろうと思う。別に、私が人類を自分の子供と見ているわけではないのだが(笑)。
かといって、いかにも楽に力がつきそうで、その実、力を得る可能性まで奪い、一生苦しませることになる商売はいつの時代でも廃れない。カルト宗教や、「潜在意識による成功法則」とか、自己開発セミナーとか、変態じみた霊能力者の教えといえば見当がつくだろうか?

それにしても、ガンジーの「サッティヤグラハー」は驚くべき力を得る秘法と思う。
なぜこれについて、まともなことを教えないのか不思議だ。妙に歪んで、色づけされた教えならよく見るのであるが、役に立つ教え方は見たことがない。
ガンジーの稀有な悟りの恩恵に預からない手はないと思う。

もともとは、ガンジーが掲げていたのは、passive resistance(消極的抵抗)であった。
サッティヤグラハーはサンスクリット語の愛(サッティヤ)とアーグラハー(説得)から成るが、基本的には消極的抵抗と同じ意味で使い、一般には非暴力による抵抗を表すものとされる。「無抵抗運動」という言い方が浸透しているが、言葉としてはおかしいかもしれない。しかし、例えば、中国の「荘子」の中の「無為」は「無為の為」という意味があり、「無抵抗」も「無抵抗の抵抗」と解しても良いと思う。

では、これが我々にどう役に立つのか?
passive resistanceは、辞書によれが、上記に書いた通り「消極的抵抗」であるが、同じく上記に挙げた「無抵抗の抵抗」と考えた方が分かりやすい。
分かり易く言えば、「目には目を」が「抵抗の抵抗」であり、「右の頬を打たれれば左の頬を差し出せ」が無抵抗の抵抗だ。だが、後者の聖書の言葉は、あまりに説明が無さ過ぎた。いやいや反対の頬を出してもダメである。
passiveには「受動的」という意味もある。ここでは「受容的」と言った方が正しくなる。
聖書の「右の頬を打たれれば」の意味は、苦痛を受容しろという意味で、反対の頬を差し出すことで、受容を自分に説得させようとしているのである。
なぜそんなことをするのか?
苦痛を受容すれば強くなるのである。
ガンジーは苦痛を恐れず受容したのである。その結果、インドの独立を成し遂げるまでに至った。そのパワーはすさまじい。
これは、我々も使うべき秘法だ。
ではなぜ、苦痛を受容すれば強くなるのか?割に当たり前である。
自分を弱くするのは心である。自我と言い換えても良い。どうも、我々は心という言葉を間違えて使う。
「純粋な心」というものはあっても「美しい心」など存在しない。
「強い心」なども存在しない。無私、無我の時に強いのだ。これは心が澄み切った状態で、「心のない状態」と言っても良いと思う。
心が前面に現れればいつも弱いのである。
そして、快楽を求める時に心は大きくなる。心は快楽を求め、落ち着き無くさ迷うものだからだ。
逆に、苦痛の受容は心(自我)の否定である。快楽を無理に追い払おうとしても無理であることはご存知と思う。
しかし、心は本質を否定されると静まり消える。
これは「我慢する」という意味ではない。我慢には限界がある。我慢の限界を超えることを現在では「切れる」と言う。未熟な人間ほど早く切れるのは、恐怖感が強いからだ。恐怖感が強いと苦痛を受容できないのだ。

アニメの話であるが、偶然にか、これをよく表している話があった。
「灼眼のシャナ」の一場面である。
悠二「母さんが何でも受け入れる性格で助かったよ」
アラストール「貴様の母親にしては肝が据わっているな」
悠二「据わりすぎだけどね」
アラストール「そうだな」

「何でも受け入れる」平凡な主婦である悠二の母は、異世界の魔神アラストールや、数百年に渡って戦い続ける異能の戦士ヴィルヘルミナらに互角以上に対応するばかりか、明らかに彼らが劣勢になる。経験の浅い主人公のシャナ(これも強力な戦士だが)などは、まさに手のひらで転がされている状態だ。

1984年のロサンゼルスオリンピック重量級準決勝で、日本の山下選手は足を捻挫し、重症だった。決勝の相手はエジプトの強豪ラシュワン。試合後、ラシュワンは「山下選手の捻挫した足を狙わなかった」と告白した。
狙っても良かったと思う。山下選手は不利な状況を受容していたと思う。どうせなら、相手が痛い足を狙ってくることも受容できれば良かった。試合に負けても得るところは大きかったはずだ。

プロレスのアントニオ猪木さんは、一頃、膝をどうしようもないほど壊していたことがあった。その中での試合で、相手はその膝を執拗に狙ってきた。プロレスでは、相手の弱いところを狙うのは卑怯でも何でもないらしい。そういった常識外れな世界を見せるのがプロレスである。
猪木は苦しんだが、不意に痛い膝を相手に投げ出し、「攻めてこい」と言う。相手はここぞと攻めて、猪木は苦悶する。しかし、痛みにもがきながらも「もっとこい、もっと攻めろ」とアピールする。
その後も激闘の末、猪木は結局敗れたが、その鬼気迫る迫力は、まさに「試合に負けたが勝負に勝った」と思わせるに十分であったと思う。

我々一般の話に戻り、例えば会社に嫌な上司がいても、それが当然と受容すれば良い。自分の器が広がり、力が付く。すぐに上司も超えるだろう。
考えてみれば、いかに嫌な上司とはいえ、広く世界に目を向ければ、支配下の者を残酷に虐待する「上司」などザラだ。学校の教師が威圧的と言っても、本当に銃やナイフで威圧してくる「管理者」も世界のどこにでもいる。
言うまでもないが、受容すると言っても、深刻な被害は避けるべきである。しかし、状況を受容すれば、冷静になると共に行動は正しくなり、案外に被害を免れるものだ。そして強くなれば、不当に嫌がらせをするような者には負けないようになる。
あなたの無敵の明日は確実である。

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Comments

無敵の明日,
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無敵の明日を目指して手ごわい自分と対峙しよう!
う~~ん、、一歩も、、進まんがな、、

Posted by: 華文字 | 2007.08.25 at 04:17 AM

ときどき霧笛が 鳴ればいい ほろほろ飲めば ほろほろと♪
をを!ノル、ノル!
いやあ、霧笛っていいですねえ!
ん?違ったか・・・?

わが師が、「明日得られるものに価値はない。それはいますでにここにある」と言っておられました。
サカナはあぶったイカでいいっス!(もうワケわからん)

Posted by: Kay | 2007.08.26 at 10:30 AM

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