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2007.08.31

肥後守に惚れる

Higonokami
最近購入した、「特別手作り青鋼本割込大」の肥後守(ひごのかみ)だ。
これほど美しいブレードを持つナイフはないと思うのだが。

前にも書いたが、私はこの2年ほど、ナイフに興味を持ち、和式、洋式、シースナイフ(主に皮製の鞘に納まるもの)、フォールディングナイフ(折りたたみ式ナイフ)、狩猟刀、渓流刀(釣り用)、マルチツールナイフ(多機能ナイフ)の様々なものを入手した。
そして、最終的に気に入ったのは、比較的安価なフランスのオピネルと、スイスのビクトリノックスであったと前に書いた。
しかし、試しに日本の伝統的ナイフである「肥後守(ひごのかみ)」を購入してみた。どうも私は、肥後守に偏見があったようで、興味を持っていなかった。しかし、買ってみると、これが非常に素晴らしかった。

ところで、面白いことに、肥後守は1890年代に製造が始まったらしいが、オピネルもその原型が出来たのが1890年、ビクトリノックス社がソルジャーナイフをスイス軍に収め始めたのが1891年と、いずれも1890年代がその起源になっている。

さて、肥後守であるが、私も子供の頃に持っていたことがあるので、どんなものか知らないわけではなかった。
真鍮あるいはアルミの板を曲げただけの、なんとも簡単なハンドル。刃のロック機構は一切なく、チキリと呼ばれる刃の尻尾のような部分を親指で押さえて使うという単純なものだ。ポケットナイフであるらしいが、ポケットに入れると、飛び出たチキリがポケットを破く可能性があるし、転ぶとチキリで怪我をするかもしれない。いや、それどころか、ロック機能が無いので、ポケットの中でも容易に刃が出てしまう。
しかし、それなら、ケースか袋に入れれば済むことだ。立派なケースである必要もない。何なら、布切れで包んでおけば良いが、それがいかにも肥後守に似合う。日本では、ナイフは携帯時、すぐに取り出せないようにしていないと、銃刀法あるいは軽犯罪法に問われる恐れがあるので、持ち運ぶ際には、布で巻き、紐で括っておけば良いと思う。
さて、このど単純な作りの肥後守であるが、私は、これほど刃の形状の美しいナイフを知らない。ガーバー社のシルバーナイトは美しいと思ったが、迫力では肥後守の方がはるかにある。それはより実用的な刃であるからだと思う。
ロック機構がないのは、別にいいじゃないかと思う。使い慣れると、むしろ無い方が気楽で良い。安全という意味では、安全なように注意すれば良い。ちょっと気を使えばできることでわざわざ何かを用意しない方が良いというのは、この世の法則でもあると思う。むしろ、多少危ないことで、ナイフというものの恐さを認識し、注意するよう意識することは良いことと思う。ところで、肥後守の単純さが問題を起したという話はあまり聞かない。

誰が考えたのか知らないが、チキリが付いたナイフは世界でも珍しいと思う。
肥後守は、切れ味の良い炭素鋼であるが、これはステンレスナイフと違い錆びる。しかし、チキリがあると、刃の開閉を行うのに刃を指で触る必要がないので、刃面に湿気を付けることが少なくなる。これが、オピネルであれば、刃を触らない限り、刃の引き出しはできない。オピネルも、現在は錆びないステンレス(イノックス)鋼のものもあるが、炭素鋼のものが本物と言えるかもしれない。
ただ、私はステンレス鋼が悪いというつもりもない。ビクトリノックス社のナイフは、その社名にイノックスが含まれるように、刃はイノックス鋼である。イノックス鋼と言っても様々であるようだが、ビクトリノックスは実によく切れる。腕や脚の多少細い毛でもすらっと切れるほどである。

私が購入した肥後守は「特別手作り青鋼本割込大」という、やや高級なタイプだ。
標準品より刃の厚みもあり、がっしりした感じである。上にも書いたが、やや細身の刃身は実に美しい。価格は、約5千円と、標準品よりやや高い。しかし、普通は標準品で十分と思う。
同じ刃身80ミリのモデルでは、標準品の肥後守とオピネルは共に千数百円で買え、安価と言える。ビクトリノックスはソルジャーナイフで刃身が65ミリ程度で、実際の購入価格は2千円を下回ると思う。

どれが一番というわけではない。用途に合ったものを使えば良いと思う。
オピネルはキャンプでは包丁代わりに快適に使えるが、この用途に肥後守を使う気にはならない(別に、その気になる人がいても構わないが)。
肥後守は、イメージとして工作用に向いていると思う。鍛え上げた切れ味の良い炭素鋼は木もよく切れそうだからだ。
ところで、ダンボール箱の荷物等の開梱や、封書を開けるのには何がいいかというと、私は小型のシースナイフばかり使うのに気が付いた。封書の開封には、いかにもシルバーナイトという小型のフォールディングナイフが向きそうなのだが、実に、刃を引っ張り出すのが面倒臭いのだ。小型シースナイフは、皮製のシースにとくにボタンを留めずにナイフを突っ込んでいるだけなので、簡単に抜き出せる。
ただ、オピネルは、刃を引き出した状態で放って置いても様になる気がする。これを家庭で肉や果物やパンを切るのに使う人がいるかどうかは知らないが、できなくもないと思う。
ビクトリノックスは、刃を引き出すのに力がいるし、爪でひっかけて引き出すので、真面目にやらないと爪を痛めかねないのはやや負担だ。ただ、精密かつタフで、デザインセンスも良いビクトリノックスはやはり持っていて楽しいものである。

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2007.08.30

鈍感力より受容力

小泉前総理が閣僚に薦めたことで、渡辺淳一氏の「鈍感力」が注目されたことがあった。
私は、鈍感力が良いものであることには賛成である。鈍感力とは簡単に言うと、昔の一休さんのアニメの歌の「気にしない、気にしない」の状態と言って良いと思う。

小泉前総理が、この本を紹介した際には、知識人達には「鈍感力ではなく敏感力が必要なんじゃないのか」と言う者も多かったが、一般論として鈍感と敏感のどちらが良いという議論に何の意味もなく、なんとも間の抜けた発言をする知識人達もあったものだと思った。

ただ、鈍感力の良さは認めながらも、普通の人がそう簡単に鈍感になれるはずがない。
もちろん、人間は他人のことには鈍感だ。その理由は、他人が可愛くないからだ。しかし、限りなく可愛い自分のことに関して鈍感になれるはずがない。
そこで思い至ったことがある。
子供達に人気のある特撮ドラマの「スーパー戦隊シリーズ」の1つに「百獣戦隊ガオレンジャー」というのがあり、私は見るともなく数回見ていたと思う。その1つで、ヒーローの1人が「戦士の誓」といったものを唱えていた。内容はさっぱり忘れたが、戦士とはかくあるべしという宣誓のようなものだったと思う。そのさっぱり憶えていないものの中に、1つだけ「悲しみは受け入れる」という言葉を聞き、それが妙に印象に残って憶えている。
戦士の誓であれば、悲しみをぶっ飛ばしたり、そんなものに囚われてはいけないといった言葉がきそうであるが、それを「受け入れろ」という。

悲しみというのは、いかに雄々しく勇敢な戦士であっても、必ずしもそれを制御できるわけではない。鈍感力を持っても「気にしない」とはならない。
人の心とはそのようなものである。
一般的なことでいえば、愛する恋人が、自分以外の異性(場合によっては同性)と親密にしていたり、いわんや抱き合ってキスでもしていたら「気にしない」とはなるまい。そして、それが、どうしようもない事態である時、どうすれば良いのか?鈍感力が助けてくれる可能性はほとんどない。そんな時は、その苦しみを受け入れれば良いのである。
苦しみ、悲しみを受け入れることで起こることは奇跡的なものである。
受け入れる能力、それは受容力と言って良いと思う。実に、受容力は鈍感力の千万の力を持つ。苦しみ、悲しみを受容することができると思っていない者も多いと思う。しかし、試してみると良い。決して失望はしないだろう。心は静まり、新たな視点が開け、快楽を受容するよりはるかに深い喜びを得るであろう。
ただし、本当に受容すればである。
これは、くどくど言葉で説明するより試してみることだ。

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2007.08.27

運動会のビデオ撮影など必要か?

家庭用デジタルビデオカメラが、年毎にますます高性能化してくる。
以前から、子供の運動会や各種発表会をこれで撮影するテレビCMがよくあり、もちろん、現在もある。

ところで、子供の運動会などをビデオ撮影する意味なんて本当にあるのだろうか?
よく考えたら、全く必要ないのではないだろうか?

私の場合は、子供時代、ビデオ撮影されたことは全くない。ただ、写真は沢山ある。しかし、この写真にしたって、面白がって見ていたのは、撮影後しばらくの間だけである。
また、父親や母親の学童・学生時代の写真にしても、一度見たら敢えて見ようとは思わないし、本人達もそうであったように思う。

思い出というが、それは記憶の中にあれば良く、わざわざ映像で確認する意味なんてあるのだろうか?
もし、そういった思い出の映像をしげしげ見ているとしたら、それは決して幸福な状況ではないはずだ。
私に関して言うなら、過去の映像など一切必要はない。ただ現在があるのみである。
電子機器メーカーに洗脳されてはいけない。

現在は、格差はあっても、日本には貧民というものはほとんど見なくなった。
昔の漫画に出てくるような、いかにもボロボロの服や破れた靴を履いた人を実際に見た記憶もない。
昔の人気アニメ「巨人の星」「あしたのジョー」「タイガーマスク」では、いずれも主人公達は非常に貧しい境遇からスタートしたが、現在は、特に子供達が極貧のイメージが分からないらしく、これらの作品を見せても面白さが分からないらしい。
アンデルセン童話の「マッチ売りの少女」では、大昔の他の国という前提があり、多少は推測も行われるようであるが、やはり今の子供達にはピンとこないものと思う。
とはいえ、現在の日本にだって貧しい家庭はある。数が少ないだけに、なおさら、これらの家庭の子供の苦痛は大きいかもしれない。
なるほど、靴を履かずに学校に行くと、今では援助がなされる可能性が高い。
しかし、家にビデオカメラはおろか、カメラや携帯電話がない家なら多少はある。
30年昔であれば、クラスの中で、運動会などの写真を撮ってもらえない子供が1人か2人はいたと思う。今は、学校で1人いるかどうかといったところだろうか?
いずれにせよ、その子供にとって楽しいはずがない。それでも、昔ならお仲間がいたが、現在では、それもなく、全く自分1人という状態であることが考えられる。
そんな、ロクなものでもないことのために、少数の圧倒的弱者が苦しむくらいなら、私はそんな撮影は頼まれたってやりたくはないものである。

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2007.08.26

十字架と幻想

吸血鬼が十字架を恐れることはご存知と思います。本当にあれは恐ろしい・・・いえ、何でもありません(笑)。
なぜ吸血鬼は十字架を恐れるのでしょう?
萩尾望都さんの名作漫画「ポーの一族」は、吸血鬼(バンパネラ)一族を主役にするお話ですが、バンパネラである13歳の美しきメリーベルがこう心の中で言っておりました。「あれに含まれている信仰が恐いの」。
記憶に残るだけあって、なんとも的を得た言葉だと思います。
恐ろしいのは、人々の信仰。それは、幻想、あるいは妄想と言った方が適切かもしれません。

乙女型十字架です。吸血鬼避けにあなたの寝室にどうぞ(笑)。
クリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

20070826

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2007.08.24

無敵の明日

人間の苦しみの原因の大半は力がないことに因する。
自分の能力で稼ぐ限り、経済力は大いなる力になるが、必ずしもそうでない場合もある。みじめな金持ちというのは予想以上に多いものだ。
青年が力を付けるには、社会の中で叩かれ鍛えるしかない。いくら野球やサッカーや柔道、あるいは勉強や読書をがんばっても、それによって得られる力はたかが知れている。
しかし、それが分かっていても、親としては子供が社会の荒波に翻弄されて苦しむのを見るのは辛いものだろうと思う。別に、私が人類を自分の子供と見ているわけではないのだが(笑)。
かといって、いかにも楽に力がつきそうで、その実、力を得る可能性まで奪い、一生苦しませることになる商売はいつの時代でも廃れない。カルト宗教や、「潜在意識による成功法則」とか、自己開発セミナーとか、変態じみた霊能力者の教えといえば見当がつくだろうか?

それにしても、ガンジーの「サッティヤグラハー」は驚くべき力を得る秘法と思う。
なぜこれについて、まともなことを教えないのか不思議だ。妙に歪んで、色づけされた教えならよく見るのであるが、役に立つ教え方は見たことがない。
ガンジーの稀有な悟りの恩恵に預からない手はないと思う。

もともとは、ガンジーが掲げていたのは、passive resistance(消極的抵抗)であった。
サッティヤグラハーはサンスクリット語の愛(サッティヤ)とアーグラハー(説得)から成るが、基本的には消極的抵抗と同じ意味で使い、一般には非暴力による抵抗を表すものとされる。「無抵抗運動」という言い方が浸透しているが、言葉としてはおかしいかもしれない。しかし、例えば、中国の「荘子」の中の「無為」は「無為の為」という意味があり、「無抵抗」も「無抵抗の抵抗」と解しても良いと思う。

では、これが我々にどう役に立つのか?
passive resistanceは、辞書によれが、上記に書いた通り「消極的抵抗」であるが、同じく上記に挙げた「無抵抗の抵抗」と考えた方が分かりやすい。
分かり易く言えば、「目には目を」が「抵抗の抵抗」であり、「右の頬を打たれれば左の頬を差し出せ」が無抵抗の抵抗だ。だが、後者の聖書の言葉は、あまりに説明が無さ過ぎた。いやいや反対の頬を出してもダメである。
passiveには「受動的」という意味もある。ここでは「受容的」と言った方が正しくなる。
聖書の「右の頬を打たれれば」の意味は、苦痛を受容しろという意味で、反対の頬を差し出すことで、受容を自分に説得させようとしているのである。
なぜそんなことをするのか?
苦痛を受容すれば強くなるのである。
ガンジーは苦痛を恐れず受容したのである。その結果、インドの独立を成し遂げるまでに至った。そのパワーはすさまじい。
これは、我々も使うべき秘法だ。
ではなぜ、苦痛を受容すれば強くなるのか?割に当たり前である。
自分を弱くするのは心である。自我と言い換えても良い。どうも、我々は心という言葉を間違えて使う。
「純粋な心」というものはあっても「美しい心」など存在しない。
「強い心」なども存在しない。無私、無我の時に強いのだ。これは心が澄み切った状態で、「心のない状態」と言っても良いと思う。
心が前面に現れればいつも弱いのである。
そして、快楽を求める時に心は大きくなる。心は快楽を求め、落ち着き無くさ迷うものだからだ。
逆に、苦痛の受容は心(自我)の否定である。快楽を無理に追い払おうとしても無理であることはご存知と思う。
しかし、心は本質を否定されると静まり消える。
これは「我慢する」という意味ではない。我慢には限界がある。我慢の限界を超えることを現在では「切れる」と言う。未熟な人間ほど早く切れるのは、恐怖感が強いからだ。恐怖感が強いと苦痛を受容できないのだ。

アニメの話であるが、偶然にか、これをよく表している話があった。
「灼眼のシャナ」の一場面である。
悠二「母さんが何でも受け入れる性格で助かったよ」
アラストール「貴様の母親にしては肝が据わっているな」
悠二「据わりすぎだけどね」
アラストール「そうだな」

「何でも受け入れる」平凡な主婦である悠二の母は、異世界の魔神アラストールや、数百年に渡って戦い続ける異能の戦士ヴィルヘルミナらに互角以上に対応するばかりか、明らかに彼らが劣勢になる。経験の浅い主人公のシャナ(これも強力な戦士だが)などは、まさに手のひらで転がされている状態だ。

1984年のロサンゼルスオリンピック重量級準決勝で、日本の山下選手は足を捻挫し、重症だった。決勝の相手はエジプトの強豪ラシュワン。試合後、ラシュワンは「山下選手の捻挫した足を狙わなかった」と告白した。
狙っても良かったと思う。山下選手は不利な状況を受容していたと思う。どうせなら、相手が痛い足を狙ってくることも受容できれば良かった。試合に負けても得るところは大きかったはずだ。

プロレスのアントニオ猪木さんは、一頃、膝をどうしようもないほど壊していたことがあった。その中での試合で、相手はその膝を執拗に狙ってきた。プロレスでは、相手の弱いところを狙うのは卑怯でも何でもないらしい。そういった常識外れな世界を見せるのがプロレスである。
猪木は苦しんだが、不意に痛い膝を相手に投げ出し、「攻めてこい」と言う。相手はここぞと攻めて、猪木は苦悶する。しかし、痛みにもがきながらも「もっとこい、もっと攻めろ」とアピールする。
その後も激闘の末、猪木は結局敗れたが、その鬼気迫る迫力は、まさに「試合に負けたが勝負に勝った」と思わせるに十分であったと思う。

我々一般の話に戻り、例えば会社に嫌な上司がいても、それが当然と受容すれば良い。自分の器が広がり、力が付く。すぐに上司も超えるだろう。
考えてみれば、いかに嫌な上司とはいえ、広く世界に目を向ければ、支配下の者を残酷に虐待する「上司」などザラだ。学校の教師が威圧的と言っても、本当に銃やナイフで威圧してくる「管理者」も世界のどこにでもいる。
言うまでもないが、受容すると言っても、深刻な被害は避けるべきである。しかし、状況を受容すれば、冷静になると共に行動は正しくなり、案外に被害を免れるものだ。そして強くなれば、不当に嫌がらせをするような者には負けないようになる。
あなたの無敵の明日は確実である。

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2007.08.23

「かもめのジョナサン」は社会不適合者の象徴

1970年代に世界的にヒットしたリチャード・バックの「かもめのジョナサン」という短編小説がある。
あれに陶酔する者はかなり危ないかもしれない。私がそうだったからだ(笑)。
この小説にのめり込む者は、間違いなく小市民を軽蔑しているだろう。しかし、立派に小市民をやれる者なら良いが、そうでない場合がかなり多い。
小市民を立派にやることは、かなり大変なことである。「かもめのジョナサン」は、そこからの逃避の理由にもってこいなのである。小市民とは、毎月、家族を養う収入を確実に持ち帰る者であり、少なくとも、自分が誰の世話にもならずに生きていける者である。

「荒野の7人」という映画で、農耕を営む貧しい村の用心棒に雇われた7人のガン・マンに、村の男の子が「パパたちは勇気がない。おじさん達(ガン・マン)は偉い」と言い、悪党達と戦おうとしない父親に軽蔑を示した。すると、ガン・マンは、その男の子を怒る。
「俺には作物を育て、家族を養う勇気なんかないんだ」。

かもめのジョナサン・リビングストンは、他のかもめのように、漁船の周りで餌を求めて飛び回ることをやめて曲芸飛行に専念したが、「食べずに生きられるはずが無い」という部分が省かれている。言ってみれば欠陥作品だ。それとも、親に食べさせてもらっていたのだろうか?だとすれば、ジョナサンのいかなる行為にも大した価値はない。

「かもめのジョナサン」が、まずヒッピーの間で人気が出たこともうなづける。なんだかんだ言っても、ヒッピーは社会からの逃避者でしかない。
おそらくは、「かもめのジョナサン」の熱心な読者は、社会的に不適合な者が多いと思う。
ジョナサンのように、他の平凡な人間の境地に甘んじず、人間を超え、やがて光り輝く存在となって別世界に旅立ち、やがて、愚かな民衆を救うために救世主として戻ってくることを夢見ているかもしれない。
しかし、せめて小市民として立派に生きた経験でもなければ何もできないものである。

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2007.08.22

SとM

SM(サド・マゾ)という面白いものが、洋の東西を問わず、大昔から確実に存在する。
面白いことに、一般的に苦痛と認識されることが快楽として扱われるのである。
さらに、それが決して一部のマニアの間だけの趣味ではなく、実際には誰でも興味があったり、専門家によると(知り合いがいるわけではないが)、誰でもその道に引き込むことは確実に可能だそうである。
それならば、そこに人間を理解するための見落としがちな鍵があると考えてみるのも良いと思うが、実は実際にそうである。
もちろん。これまでも心理学者や精神分析学者が偏った分析を行った形跡もあるようだが、あまり役に立つものを見たことはない。

まずは、苦痛とは何か、快楽とは何かを考える。一般的な意味をわざわざ言うまでもないだろう。そして、突き詰めて考えると、両者に根本的な差がないことが分かる。
つまりはこういうことだ。受容が快楽であり、拒否が苦痛なのだ。
苦痛と思うことは受け入れ難いと言う者もいるだろう。しかし、実際に試してみたのだろうか?
例えばバンジージャンプを考える。これをやるのが嫌な者が、何らかの理由で無理やりやらされた場合は苦痛である。
しかし、極端な高所恐怖症の者が、なんらかの心境の変化で自発的にやってみると病みつき、即ち快楽になる。
そして、もともと苦痛としていたものほど、いったん受け入れると、普通の快楽よりはるかに深いのである。SMがカルト的になるのも、それが理由である。

苦痛を受け入れること。これは人間性を深めるのに非常に役に立つ。
しかし、何もSMに走ることはない(笑)。人生に苦痛はいくらでもある。
場合にもよるが、その苦痛を嫌がって逃げ回らず、堂々と受け入れると、あまりのエクスタシに呆然となる・・・というのは、名作と言われる小説や映画の中に探すのは難しくはない。
何も、ムチで中途半端にペチペチ叩かれたり、ローソクをたらされるようなケチなことをする必要はない。
誰にだって、嫌なことが現在、10や20はあるだろう。害がなければ、あるいは、少々害があっても受け入れてみると良い。「こんなに良かったのか」と驚くだろう。
言うまでもないが、万引きグループに入って万引きをするのは、苦痛の受け入れではなく、快楽の受け入れである。万引きそのものは嫌でも、グループの中にいる快楽、あるいは、いじめられずに済むという快楽を選んだ結果であるからだ。

「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツの謎の文書に、ある不思議なアラブ人の話がある。
そのアラブ人は、家を奪われた時、家族を殺された時、自分の死期が迫った時、それぞれ強烈な喜びを体験する。苦しみが大きいほど、受容した時の喜びは大きいのである。

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2007.08.21

山口小夜子さんの絵

山口小夜子さんが亡くなられたと聞き驚いた。
私は毎日、山口小夜子さんの絵を見ているのだ。
1993年に池田満寿夫さんが描いたもので、モノクロのデッサン画とアクリルで描いたものである。
これは、河出書房新社の「池田満寿夫の人物デッサン」という本の、表と裏の表紙である。
この本のために、池田満寿夫さんは20年振りに人物モデルを使ったというが、そのモデルが山口小夜子さんだった。それは1977年のことで、本も同年に出ているが、16年後にもう一度山口小夜子さんを描き、1994年に増補版として再出版している。
本の中では、様々な画材を使い、池田満寿夫さんが山口小夜子さんを描きまくっている。
しかも、制作過程、モデルの写真も同時に収めてあるという、なんとも貴重なものである。
池田満寿夫さんは、自分のやり方を惜しみなく公開するが、読者は自分のやり方を掴んで欲しいとあった。
池田満寿夫さんが、実モデルを描くのが苦手なのは有名である。別の本に書いてあったが、とにかく緊張していたたまれないらしい。
池田満寿夫さん自身の1977年と1994年の絵の変化も面白い。1994年はすでに陶芸の仕事を多くするようになっていたが、デフォルメ具合が、より「異形」という雰囲気になっており、またモノクロデッサンも深みがあるように思う。
この本もそろそろ絶版かもしれない。

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2007.08.20

芸術家に肖像画を依頼するな

芸術画家に肖像画を依頼するのも間抜けな話と思う。
ダ・ヴィンチは、そんな依頼は多かったが、納品したことはほとんどないらしい。つまり、描きたくなかったのだろうが、芸術家なら当然だ。好きなものを好きなように描くのが芸術家である。自分の妻や子供以外の肖像画は、描くとしても、生活のため、いやいや描くだけだろう。
どうしても高名な画家に自分の肖像画を描かせたい人も多いだろうが、画家は本音では描きたくない場合が多いのだろうね。

頼まれるはずもないですが、私も依頼された肖像画(のラクガキ)など描きたくないですね(笑)。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

20070819

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2007.08.19

「24時間テレビ」はなぜ醜いか?

昔から、私は「24時間テレビ」なるものを見ると、激しい嫌悪感を憶えた。
少し前になって不快感、そして今は危機感を感じる。
まともな神経の持ち主であれば「24時間テレビ」に抵抗があるだろう。だが、なぜ抵抗があるか知らないといけないのである。

「24時間テレビ」は、「価値の押し付け」をやっているに他ならない。
番組では、自分達のやっていること、また、それぞれのイベントを「いいことやってるでしょ」「素晴らしいでしょ」「これこそ愛でしょ」「感動でしょ」「真理でしょ」と、時に激しく、時にじんわり、24時間もあるのだから、あの手この手で押し付けまくりである。
しかし、こんなものを本当に良いと思う者も多い。どんな者か?「価値を他人に決めて欲しい者」「自分で何が価値あるか決められない者」である。
これは学校教育の完全な成果である。学校では、「何が価値あるか」は絶対に生徒に決定させない。全ての重要な価値観は学校側で用意し、それを価値あると思わない限り虐待し尽すのである。

タレントの中にも、実際には「24時間テレビ」に抵抗を感じていたり、純粋に「アホらし」と思っている人も多いはずだ。しかし、それを態度や言葉にすればタレントとしては終わりである。そういう仕組みになっている。

「24時間テレビ」と似た性質を持つものに、梶原一騎原作の漫画があった。「巨人の星」「あしたのジョー」「愛と誠」などで、「男とは」「愛とは」「人生とは」について、梶原の価値観を叩き込まれ、結果、それを自分で考えずとも手に入れたと思い、小さな部分で自我を満足させた人間ができてしまった。
梶原の価値観は、自分の弱さに怯え、劣等感から他を嫉妬する感情の反動に他ならない。彼に似た人間ほど共感する。

安易に価値観を持たぬ方が良い。思想的テロやあらゆる人道的混乱、短絡的暴力は、安易な価値観にしがみついた者の特徴である。自分の経験や思索で育てた価値観でないので脆く、それが崩れる恐怖から暴力的になるのだ。彼らは、自分に同調する者には、親切で優しく、献身的だが、自分の価値観を崩す恐れのある者は、躊躇無く消えれば(死ねば)良いと思う。
「モーセの十戒」などは、最低の戒めだけ与え、後の価値観は自分で決めよ。あるいは、自分で価値を決められないなら、せめてこれに従えという意味とすれば優れたものである。
我々も、最低の十戒だけを用意すれば良いかもしれない。

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2007.08.18

オバさんはなぜ不快に感じるか?

喫茶店やファミレスなどで、近くの席にオバさんが3人以上でいたら「しまった!」と思うことと思う。
下品な声を張り上げる騒々しさ、喜色満面のオバさんの顔の醜さ・・・^^;
しかし、考えて見れば、単に「うるさい」「めざわり」というのなら、こちらも子供じゃないのだから我慢できるはずである。
オバさんの集団は、どうしてかくも不快なのだろう?と思わず真面目に考えた。
最近ようやく気付いたが、このオバさん的な不快さを発するものに、男子大学生の二人連れが多いことに気付いた。さらに、男女を問わず、高校生のグループ。女子大生の場合は、私は公共の場所で大声で話す馬鹿はあまり見ないのだが、もしそうならやはり同じと思う。
多分、彼女たちは私に見とれるので静かなのだろう(?)。
そして、単にうるさいのが問題なのではなく、その会話の内容を判別できてしまった時が問題であるのに気付く。つまり、その会話の内容が、あまりに下らないのだ。
では、その会話の内容が具体的に何であるかあげてみるべきなのだろうが、どうも私の頭が、それらを記憶することを拒否しているようで、何も憶えていない。いや、単に記憶するにはあまりに意味がないので憶えていないのだろうと思う。
しかし、大体は「どうでもいいことを熱心に喋っている」といったところと思う。代表的なのが芸能人のスキャンダルだ。高校生とかだと、遊びの話はもちろん良いのであるが、そればっかり延々では、やはり「どうでもいいこと」である。
あ、いやなものを思い出した(笑)。40過ぎのオバさんが「最近の若い人は、ジーンズの腰のカットが短いでしょう?だからあたしも長いのはみっともなくて履けないのよ」。いえ、アンタは腰のタケ1メートル以上の長いのを履いていただかないと公害ですよ(笑)。というよりも、いい年こいてどんなジーンズを履こうが「どうでもいいこと」である。ローライズにしたければ黙って履けばいい。そのこと自体は文句は言わないが、いい年をした大人が話題にするようなことではない。

ただ、やはりオバさんやお馬鹿な男子大学生や高校生が何の話をしていようが、私には無関係であり、いちいち不快に感じる必要はない。いったい、何が気に入らないのだ?
つまり、そんな連中は暇で志が低いのであるが、私自身がそういう状態である時に、そやつらを見ると、自分の引け目が目の前に顕現するのであろうと思う。
何事もそうであるが、不快に感じるというのは自分の責任である。
「うぜえよ」と言う者が一番うざいのである。

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2007.08.17

女は魔物、男は妖怪

「佐伯俊男情念絵巻」を購入。限定千部である。
ハードカバーではあるが、僅か40ページの漫画作品が4800円。さすが佐伯俊男というべきか。
内容は、シンプルな絵柄のエロ漫画であるが、さすが芸術家の作品と思わせるに十分だ。
絵は、女の子の方は、ややクセはあるが概ね可愛い。セーラー服の女子高生が中心だが、女子小学生もあった。対して、男の方は、ほぼ、化け物的なものばかりだ。中年のおじさんが圧倒的だが、頭から直接脚が生えていたり(タコ同様、頭足類か^^;)、普通のおじさんが変身して気味悪い怪物や妖怪になって女の子を襲う。
なぜ男も美男にしないのか?
そういえば、漫画家の吾妻ひでおさんは、昔から、元祖萌えと言えそうな可愛い女の子を描いたが、時折、哲学的な作品を描くこともあった。吾妻さんも、女の子は圧倒的に可愛いのに、彼女を襲う者は実に奇怪な生物の姿にすることがよくあった。あるいは、男は外見的に良いほど、中味は無茶苦茶という場合が多かった。
屈折というべきか、狂気というべきかはともかく、共通するものを感じる。
女は魔物とはよく言うが、男はもっとヘンなものかもしれない。

影響されたのか(?)、私もセーラー服の少女をラクガキしてみる。
ただ、妖怪は出てきませんが(笑)。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

20070816

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2007.08.16

健康な夏の過ごし方

私は、今年は自室ではクーラーを全く使っていない。
もっぱら、昨年購入した扇風機のみ使っている。
アイドルの中川翔子さんのブログに書いてあったが、彼女は家ではスッポンポン(全裸)状態で過ごしているらしい(挑発文章かな・・・)。
岡本太郎さんの名著「今日の芸術」にあったが、西洋画に女性の裸像が多い理由として、西洋の家では、部屋に鍵をかけてしまえば、外から人が入ってきたり、見られたりする恐れがないので、夏などは本当に素っ裸で過ごすので、家の中でヌードでいることに抵抗がないという下地があるかららしい。
よって、習慣の違う日本人が西洋画を真似してヌードを描く滑稽を「あんたん家のかーちゃんやねーちゃんが裸でコロコロしてんのかい」と書いておられた。
スッポンポンと扇風機の組み合わせは絶妙である。そして、多少、動いて汗をかいた方が良い。外気の温度が高い時は、当然ながら扇風機から送ってくる風もあたたかい。しかし、風は汗の蒸発を早める。そもそも、汗は蒸発する際、気化熱を奪うので肌の温度を下げるために出る。よって、かなり涼しくなる。クーラーがかかっていると汗をかかないので、こういった身体の機能を使わない分、その能力が衰えたり変質する恐れもある。
尚、実際は好きな異性を見たりすると、体温を下げる準備として発汗する(なぜだろう^^;)。
サッカーのキング・カズこと三浦知良選手は、真夏でも背広ネクタイを好むらしい。当然、汗をかくが、それにより服が馴染んでくるらしい。
汗は匂いに変わるというが、普段よく汗をかき、また食べ過ぎず、自然のものを多く食べていればそうでもないようだ。若いということもあるが、友人の十代前半の美少女は汗の香りも良い・・・いえ、決してフェチではないです(笑)。

「熱い・・・」のラクガキ。家では正しくスッポンポンで(笑)。
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20070815

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2007.08.15

小説は、著者1割読者9割

梶原一騎氏原作の漫画で読んだので、事実である保証は全くないが(梶原氏は、漫画を面白くするためと思うが、正確な事実を重んじなかった)、空手家で名高い大山倍達氏は、吉川英治氏の有名な小説「宮本武蔵」を座右の書としていたらしい。
ちなみに、小説「宮本武蔵」もまたフィクションであり、武蔵の恋人として名高く、大河ドラマでは米倉涼子さんが演じた「お通さん」も架空の人物である。
武蔵に関する事実らしき根拠があるものといえば、彼自身が書いた「五輪書」だけである。
かつて、ただ英雄視ばかりされていた大山倍達氏も、最近はいろいろ裏情報が出るようになったが、ここではそれは問題にしない。
「五輪書」は素晴らしい書であるらしいが、ロマンという点では吉川英次氏の小説の方が圧倒的である。また、小説というものは、必ずしも著者のみで世界を構成するのではなく、読者が著者とは全く異なる理解をしても何ら不思議なことではない。
サルトルなどは、「小説を読むことは、小説をもう1度書くことである」と言ったが、まさにその通りである。大山氏が読んだ「宮本武蔵」は、著者吉川英次氏の「宮本武蔵」とは全くの別物と言って良い。実際、大山氏は吉川氏との対談の際、武蔵という人間についての吉川氏の解釈に怒り、あわや吉川氏を殴りたいのを堪えたという話もあり、両者の考え方はかくも違っていたのだ。
ちなみに、私は高橋弥七郎氏の「灼眼のシャナ」を昨夜14巻まで読了したが、まさに座右の書に相応しく思った(笑・・・うべきか?)。私の知る限り、この書のメイン読者と思われる高校生の読者には変なヤツが多い(笑)。もちろん、私とは解釈がまるで異なるであろうし、言ってみれば、私が読んだ「灼眼のシャナ」と彼らが読んだ「灼眼ノシャナ」は全く別物である。

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2007.08.14

エロとエロスの間

画集を2冊買った。
1つは、佐伯俊男さんの2千部限定画集「佐伯俊男70」(青林工藝舎)だ。意外に安く3500円。
もう1つは、いとうのいぢさんのセカンド画集「華焔(かえん)」(メディアワークス)だ。2800円。

およそ関連性のない2人のイラストレーターの画集だが、佐伯俊男さんは芸術家と言って良いだろう。いとうのいぢさんは今が旬の人気イラストレーターだ。

佐伯俊男さんの画集は、ぱっと見で言えば、下手な漫画だ。ほぼエッチな絵ばかりで、セーラー服の女子高生が多いように思う。ほぼ白黒で、色を塗っていても濃淡は全く無く、肌は顔も手足も完全単色である。

いとうのいぢさんの画集の絵はきれいだ。素人にも腕前がすぐ分かる。前半は「灼眼のシャナ」の絵で、ヒロインのシャナが大半だ。後半は、個人誌も含めた絵で、ほぼ女の子の絵だが、実に可愛い・・・可愛いし、幼い(ほぼ10代前半)のだが、男性を喜ばせる色っぽさは絶対的にある。しかし露骨でない。いわゆる「萌え」である。画集の帯に書かれた推薦文で、アイドルの中川翔子さん(通称ショコタン)が「奇跡の萌え」と表現する。繊細で微妙な色使いも絶妙だ。しかし、繰り返すが、半端な色っぽさではない。いとうのいぢさんは、現在もアダルトゲームの原画家でもある。
女の子を可愛く描くイラストレーターや漫画家は少なくはないが、いとうのいぢさんの絵に女性画家特有の「女性のエゴ的いやらしさ」が見えないのは、アダルトゲーム画家として、男性ユーザーをよく研究しているからではないかと思う。その意味、女性画家としての満足感にはやや自己制約しているのだろうと思う。

さて、佐伯俊男さんに戻るが、狂気を孕んだ想像力には本当に参る。日本語とフランス語で書かれた本人の手記にあるが、彼は「エロス」という耳障りの良い言葉を嫌い、モロに「エロ」と言う。芸術家として、人間の宿命に直に向き合う覚悟が見えるように思う。
彼の作品を早くから取り上げたのは、軽薄短小な青年雑誌や漫画雑誌だ。軽薄短小とは悪い意味ではない。感度の良さと動きの速さを示している。漫画雑誌だってそれがないと生き残れない。
彼も60歳を過ぎた。しかし、ピカソは「芸術家の青春は60歳」と言い、本格的にエロを描いたのはさらにそのずっと後だ。とりあえず、彼の作品は集めようと思う。

私もエロを追及・・・する気はないが、とりあえずラクガキをする(笑)。
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20070814

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2007.08.13

芸術は金にならないのが当然

その絵を見て、「きれいだな」「うまいな」「透明感が素晴らしい」「感動的だ」「いい絵だ」と思うようなものなら、それは芸術ではない。
単に上手い絵である。そして、作者は、上記のような賞賛を目標に描いたのだ。
そんなものが芸術であるはずがない。
芸術であるなら、他人の評価など全く眼中にないはずだ。自分だけが満足であれば良い。
確かに、ゴッホは自分の絵が売れることを望んだ。
しかし、彼は、「どんな絵を描けば売れるか」などこれっぽっちも考えなかった。あくまで自分が満足する絵を描いた。結果、彼の生存中、絵は1枚も売れなかった。
芸術家がお金持ちになるはずがない。確かに、何かの間違いでお金持ちになった芸術家もいるにはいる。しかし、ウォーホールは儲かるようにやれたから儲かったのであり、ピカソは幸運だった。
また、ウォーホールがそうだが、「金にならない芸術」と「金になるデザインやイラスト」を両立させてうまくいった芸術家もいる。
岡本太郎は大芸術家だが、一流のデザイナーであったようだ。彼は、誰もが芸術家になることを薦めたが、金になるとは一言も言わなかった。
芸術家を目指す人は、何か生計の手段を持つのだ良さそうだ。芸術ではないが、ジャッキー・チェンが、俳優がダメだった時のために、ペンキ塗り職人の技能を身に付けたようにね。才能があっても世にでなかった芸術家なんてゴマンといるはずだ。まあ、これは芸術に限らないことでもあるのだが。

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2007.08.12

人魚姫に足りなかったもの

実際は夏のお話ではないのでしょうが、人魚姫を思い出す季節です。
おさらいをしますと、人魚姫は、魔法使いのおばあさんに、人間になる薬をもらいますが、代償として声を取られます。彼女の声は海の者達の中で、最高の美しさを持っていました。
その声で王子様を誘惑するという手段を失ったのですが、おばあさんは、人魚姫の姿は比類なく美しく、誘惑に十分以上であることを保証します。特に、瞳の美しさと軽やかな身のこなしは特別であると言います。
つまり、彼女は15歳の絶世の美少女なわけです。
しかし、王子様は人魚姫を大変に可愛がりましたが、あくまで妹扱いで終わります。それほどの美少女をなぜ・・・と思いますが、単に好みの問題だったのか?
推測するに、人魚姫は故郷を捨て、異世界に飛び込む勇気はあったのですが、それまで、毎日遊ぶか勉強するかで暮らしてきて、社会経験がありません。王子様は、そんな彼女を、可愛いがまだ子供と見たのかもしれません(ご立派!)。

20070812

年に1度は描く人魚姫のラクガキ。まさにラクガキ(笑)。
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2007.08.11

超人になる方法

幼稚園や小学校で、「大人になったら何になりたい?」という話をよくしたと思う。
その答えは昔からさほど変わらない。
これもまた、学校による思想統制教育なのである。
「13歳のハローワーク」なんてものがあり、中学生にそれぞれの仕事の実際を教えるような風を装っているが、あれでは仕事の実際はさっぱり伝わらない。
ましてや、小学生には、現実の仕事の最低のことも分からないし、社会経験のない教師にそんなものを伝えらるはずがない。それも、一応は自分がその職業に就いているはずの「教師」という仕事に関してもそうであろうと思う。学校は、教師に、本当の師たる能力など全く求めていないのである。
「何になりたい」と聞かれれば、「強く」と答えるのが正しい。年齢によっては「魔法使い」と答えたって良い。

学校は、「強く」なる方法は絶対に教えない。教師にも、それを教える能力は決して持たせない。学校は「弱い」人間を作る場所である。
では、強くなるにはどうすればいいかって?
本当は、みんなそれを知りたいはずだ。それで、巷に溢れる、全くのデタラメの「強く」なる方法を身に付けてしまう。言葉の心地よさに魅かれ、弱くなる教えを聞く。変な占いのオバさんや、変態顔の霊能力者の言うことを聞いてね。
強くなるには、自己に制約を加えれば良いだけだ。仮に神と言うが、神は、人が自分に与えた制約の数倍の力をその者に与えるのである。
いま、人類最大の秘法を聞いてしまった方は何人いるのかな?(笑)

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2007.08.10

天下取りの秘訣

不満を沢山持った人が多いようです。
不満も多くなると、顔の相に現れます。それはかなり醜いものと思います。
「不満があるから向上の意欲が沸く」ということもあるかもしれませんが、それは間違った方向に行く可能性が高いですね。
そもそも、「あなたにいったい何の不満があるのよ?」と言ってやるべき人が多いと思われます。
実に、不満を持たないことが人生のコツであるはずです。
風説とは思いますが、ある程度核心を突いているお話として、徳川家康に「天下取りの方法」を尋ねた人がいます。家康は、それは2つあると言いました。「上を見るな」と「身の程を知れ」です。いずれも、要は「不満を持つな」ということです。
実際、世界を広く見れば、我々には何の不満もないことが分かります。
それと、不満を持つのは感受性の欠如の問題もあります。世界に関する情報が足りなくても、例えば、「マッチ売りの少女」のことを思えば、大方の不満は吹っ飛ぶはずです。
そもそも、学び、感性を磨く本来の目的は、まず不満を持たないようにするためです。
学校では、不満を抱える人間しか育てません。そんな人間の方が、都合の良い消費者になりますので、経済大国には都合が良いとは思いますが。
尚、金儲けをたくらむ連中は、人々の不満を利用します。そして、不満を多く持つ人は簡単に騙されます。また、不満を持つと、ものごとの正しい姿が見えなくなります。
ストレスの多くも不満から来ます。不満がなければストレスもありません。
不満を持たないためには、多くのものを見、経験して、精神が成熟する必要があります。
そして、真の満足を知れば不満は消えます。真の満足とは、決して贅沢や賞賛や権力や恋愛ではありません。それは心が完全に静まり、澄み切った状態で体験します。
そうなれば、天下を取ろうと思わなくても、天下の方からやってきます。

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2007.08.09

勇気に元気

人間は、元気とか勇気とかいったものが欲しいのである。アントニオ猪木ではないが、「元気があれば何でもできる」とは、なるほど言い得ている。問題は、どうやれば元気になるかである。
よく、「勇気(あるいは元気)をもらいました」なんて言葉を聞くが、およそ私が最も不快に思う言葉だ。それが不幸の元だからである。

勇気、元気とも、気という言葉が入っており、気とは大切なものである。
元々が、老子や荘子の中に、「天地、大地の気」などという言葉がよく使われており、気を扱う代表格のような気功はこの老荘をルーツとする仙道から来ていると聞くこともある。
だが、私は、老荘は分かるが、気功はどうも怪しいと思っていた。
気功の他に気を語るものとして、植芝盛平氏が創始した武道である合気道がある。植芝盛平氏の気は実に難解であるが、その高弟の藤平光一氏は、「氣」という文字を使うが、いくらか易しく解説してくれている。私は藤平氏の氣なら納得できるし、非常に正しいと思う。
(だが、私は藤平氏のパフォーマンスやビッグネームに訴える宣伝は、アメリカでの普及活動を思えばやむなしかもしれないが、あまり好きではない)
藤平氏も著書に書かれていたが、気功では、外にある気を自分の中に取り込もうとするのであるが、それが正しくないと言う。私も全く同感だ。あまつさえ、他人の気を自分の中に取り入れる(盗むというべきか)ことさえするらしい。浅ましい限りである。
藤平氏は、氣は出すものとする。出せば勝手に入ってくる。
実際、気や氣が何を意味するかは言葉で語るのは難しいし、それが意味する「あるもの」(物ではないが)を気と呼ぼうが、氣と呼ぼうが、あるいは、プラナと呼ぼうが実際には意味はない。だが、最大の良きものであり、存在の本質たる何かは出すものであり、自分のところに取り込むものではない。

コゲどんぼさんの漫画「ぴたテン」で、魔界の少女である紫亜は、この世では力を失う一方で弱りかけていた。見習い天使の美紗は、特に何の決意もなく「あたしの命をあげるっス」と言って、悪魔の少女に生命を譲ろうとする。
美紗はいつも「元気」なわけである。

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2007.08.08

祭りの後は口説きの好機?

祭りの後のナンパは成功率が高いのはご存知かもしれない。
喧騒でフィーバー(熱狂)し、理性を麻痺させ、生命エネルギーを解放するのだから、当然といえば当然だ。
盆踊りのような大人しい祭りでも、シンプルな音楽と踊りの繰り返しで理性は眠り、集団で同じ動作を行う一体感や、夜の照明、太鼓の音はゆるやかなフィーバーを起こす。盆踊りの後で、妙にハイな気分を体験することもあると思う。
今年の盆踊り。男性諸君はがんばるように。乙女諸君はガードを固めるように・・・。

20070808
祭りの後はこうなりやすいというのが今回のテーマ・・・かな(笑)。
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2007.08.07

本当の自分の見方

「本当の自分」などと言うことがある。
見たいだろうか?本当の自分を。
それは驚きである。
どうやれば見れるのであろうか?
その見方を教えよう。

みにくいアヒルの子は本当の自分の姿を見ていなかった。
それで、美しい白鳥を見て、憧れると共に、「こんな醜い自分が近寄ったら殺されるだろう。しかし、あんな美しいものに殺されるならそれでもいい」と思って、白鳥達に近付いた。しかし、思いがけず、白鳥達の大歓迎を受ける。
その時、みにくいアヒルの子は水面に映る「本当の自分の姿」を見て驚く。

この寓話で、1つ注意したいことは、水面が静かであったことだ。もし、波が激しかったら、みにくいアヒルの子は自分の本当の姿を見ることはできなかった。

この話に大きなヒントがある。
まず、自分で自分を見ることはできない。自分の顔を自分で見れないようなものだ。
しかし、鏡があれば見ることができる。
鏡の役割を果たすのは心である。
みにくいアヒルの子が浮いていた水面が静かであったように、心が静かであれば、自分の本当の姿が正確に映る。逆に、心が動き回っていては、正しい姿は見えない。
心が静まり返った時に映る自分の姿への驚きは、みにくいアヒルの子どころではない。
では、どうやれば心は静かになるであろうか?
みにくいアヒルの子が、殺してもらうつもりで白鳥達に近付いたように、全てを諦めることだ。あれとこれを諦めるのではない。全てだ。

みにくいアヒルの子の本当は意味は、このようなものである。

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2007.08.06

私は私

「私は私」という言葉を聞いたことがあると思います。
分かったような分からない言葉です。
相手に対して言うときは「お前さんはお前さんさ」となります。
ワケは分からないながら、良い言葉らしく、信頼する人に言われると心が落ち着いたりします。
この言葉は、「私は他の誰とも違う唯一の存在である」といった意味と思われます。そして、唯一の存在である自分の存在意義を認めるということでありましょう。

さて、「私は私」から進歩すると「私は全て」となります。
聞き慣れた言い方では「全ては私次第」となります。こちらはむしろ、相手に対して言う「全てはお前さん次第さ」の方がよく聞くような気がします。
「私は私」もOnly One状態かもしれませんが、やはり「私は全て」状態まで進んだ時がよりOnly Oneに相応しいように思われます。

ところで、「私は全て」から更に進むと、言葉が意味を持たなくなります。
それを敢えて言葉で言えば「私は在る」となります。
私がいるから全ては起こります。空に太陽があるのだって私がいるからです。アインシュタインはタゴールのこんな主張に反論できませんでした。もっとも、タゴールは月を例に出したのですが・・・。

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2007.08.05

ロボットと人間の違い

ロボットという概念および言葉を作ったのは、チェコスロバキアの作家チャペクである。1920年のことだ。尚、このロボットは、フランケンシュタインのような人造生物であったらしい。
1950年のアイザック・アジモフのSF小説「われはロボット」でロボット工学三原則が登場し、これが有名になったことから、ロボットの実質的な産みの親はアジモフと言えるかもしれない。
しかし、17世紀のフランスの自然学者・哲学者ルネ・デカルトは、動物に関しては精巧に作りさえすれば本物と区別は付かないと考えていた。

さて、現在では、ロボットと人間の究極的区別は、「クオリア」を持つかどうかであると言われる。以前は「心」の有無によるとされていたが、一般的に言うならあまり変わらない。ただ、心という言葉はあまりに抽象的で漠然としており、その範囲も曖昧だ。
一頃、やたらと「いやな感じ」とか「アイス食べたい感じ」という言い方がされたが、簡単に言えば、この「感じ」がクオリアである。
ロボットにクオリアはないとされていた。ただ、外見上でいえば、本当にクオリアを持っているのか、クオリアをシミュレートしているだけなのかは分からないかもしれない。

鉄腕アトムやエイトマンはクオリアを持っているように見える。ただ、これも、単にクオリアをシミュレートしているだけかもしれない。
しかし、逆に言えば、人間のクオリアも単にあるように思われるだけの幻想であるとする考え方もある。突き詰めると、この場合、人間もロボットも差はない。

2005年の漫画「エイトマン インフィニティ」では、ついにクオリアという言葉が使われた。今のエイトマンファンはなかなか大変だ(笑)。
この作品では、クオリアは魂のようなものとし、量子コンピュータが作り出している。これは、ペンローズの量子脳理論を引用しているようにも思える。
主人公の東光一とアンナの関係が「灼眼のシャナ」のシャナと悠ニの関係にちょっと似ている。面白い作品だ。

20070805

で、私のクオリアのラクガキ(笑)。気楽なラクガキこそ、クオリア存在の証明かもしれない(?)
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2007.08.04

阿久悠さんの瞑想

今月1日に亡くなられた阿久悠さんであるが、私にはこんな記憶がある。
無能唱元というお坊さんの書かれた「強くなる瞑想法」という本があり(現在廃版)、阿久悠さんが表紙裏だったと思うが、PR文を書いておられた。
ところが、この2行ほどの文章が、この本1冊より価値があった。

「強くなる瞑想法」とは、当時流行っていたニューソート系の願望達成術を、日本人向きにして、潜在意識の魔術的なパワーであらゆる願望を達成するというものである。
確か、内容は、ロウソクを立てて、その炎を見つめて「ひとーつ」「ふたーつ」と数を数えて・・・と、かなりいかがわしいものであったが、まあ、何か効果のあった人はいないとは思う(笑)。

阿久悠さんは、こんなことを書いておられた(手元に本がないので正確ではない)。
「息を吸い込み、そして止める。その間、自分の書いた歌がヒットする情景をイメージする。そして全て忘れる」
こうすることで、歌がヒットしたといい、このような瞑想をせずにヒットした歌はないと言う。
無能唱元の本1冊を読むより、これだけやってみればいい。これなら、たとえ効果はなくとも被害は少ないからだ。無能唱元の本を読むと、無駄な時間を使い、効果がなければ同種の本を次々読み出すが、そんなことになれば人生終わりだろう。
一応言っておくが、あくまで阿久悠さんは、自分の専門の作詞について述べておられることに注意したい。可愛い女の子とホテルで何かしている情景を瞑想したわけではない(笑)。あくまで、実力があることについて瞑想することが肝心である。その点、無能唱元は全く勘違いしているように思う。

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2007.08.03

朝青龍騒動と植草一秀事件

朝青龍騒動を見ていたら、私は植草一秀事件を思い出した。

まず、朝青龍事件であるが、私にはどうにもよく分からない。
腰の疲労骨折として医師の診断書を提出し、相撲協会の公式行事である夏巡業の不参加の許可を得ていたのが、朝青龍のモンゴルでサッカーをやっていた映像が紹介された。事実はこれだけである。
これだけでは何が問題か分からないのではないか?

「腰の疲労骨折でサッカーができるはずがない」
本当だろうか?
体重百キロ以上の力士の鍛え抜かれた突進をささえるのと、遊びのサッカーでは全然違う。
本格的なサッカーではもちろんない。うまく加減しながらやれば、なんとか出来る状態だったからやっただけではないのか?

相撲協会やマスコミは、こぞって「ファンの気持ちを踏みにじった」とし、それを代弁するようなファンのインタビューを選んで放送する。立派な情報操作だ。
新聞などは「軽やかに走り」「豪快なシュートを決め」と、朝青龍いじめをあおる表現をする。私は、別に、とくに軽やかとも豪快とも思わなかったのだが。
大相撲の、しかも横綱ともなれば超人だ。多少悪いところがあっても、常人には考えられないような力があるのは当然である。そこいらは完全に無視である。

あまりにも理不尽な朝青龍バッシングばかりなので、とりあえず、朝青龍の味方の立場で書いてみた。私の意見が正しいというのではなく、相撲協会やマスコミの言うことを無分別に受け入れず、少しは公平に考えるべきであると言っているだけだ。
それより、北の湖理事長のセクハラ問題はどうなったのか?
おそよ、世界的不幸の原因とは、権威ある意見の無分別な受け入れである。ナチスや、旧日本軍部を思い出すまでもない。

次に植草一秀事件である。
私は断言するが、植草氏が痴漢行為を働いたかどうかを判断する材料は、我々一般民衆には何もない。
よって、我々には、彼が良いか悪いかは絶対に分からないという立場を崩してはならないのである。
しかし、これもマスコミは、公平であるべきマスコミは、植草氏が有罪であることを国民に思い込ませるよう煽り立てるだけであった。こんなマスコミは必要ない。
書籍などで、植草氏の無罪を主張するものがいろいろ出てきている。残念ながら、それらについても、私は果たして正しいかどうかは分からない。なぜなら、警察や検察側のこれらの本に対する反論がないからだ。検察側では、これらの本やその活動は全く無視であろう。国家とはそんなものである。

だが、この事件に関しては、私は検察側がかなりおかしいと見る。
それは、植草氏の自宅を家宅捜査し、セーラー服などが見つかったということだが、これが何の関係があるのだろうか?
セーラー服を集める趣味があったから、女子高生に痴漢行為をしたという論理なら馬鹿げている。土台、成人男性で、そんな趣味のない人の方が少ないのではないか?
多くの男性が、女房や娘にバレなければ(息子は理解者であって欲しい)、自分もセーラー服やブルマなど、一度は買ってみたいと思っているはずだ。植草氏は並外れた人間であり、行動力もあるので、善は急げ(?)で実行しても不思議は無い。それに、いまは楽天参加ショップはもちろん、アマゾンですらこんなものは買えるのである(あまり詳しくはありませんが^^;)。
植草氏は警察に、容疑を認めないと、こういったことが世間にバレ、自分だけでなく家族が苦しむことになると脅されたという情報もあるが、最近の警察の自白強要、デッチ上げ、冤罪事件の数々を見れば、そういうこともあった可能性は否定できない。そして、事実、植草氏の「まともな趣味」が世間に公表されている。これについては、植草氏は恥じる必要もないし、ことさら植草氏を見下すのは、同じ趣味を持つ者の、いわゆる「同病相哀れむ」だと思うのであるが如何であろう?つまり、一番いやらしいのは検察である。

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2007.08.02

悪魔によりて空を飛ぶ

スピッツの歌で「空も飛べるはず」というのがあります。
やはり人間は、マシンの力を借りずに天使のように空を飛ぶことに憧れるものと思いますが、それはなぜでしょうね?
絵画では、シャガールには、それは気持ちよく空を飛ぶ恋人達の絵とかがありますし、マグリッドも人を飛ばせるのがお好きな様子(笑)。ただ、これらは、シューレリスム(超現実主義)とされる作品で、いかにも現実感はありません。

手塚治虫さんの漫画作品「海のトリトン」で、人間が空を飛ぶ夢を見るのは、実は太古の昔、海の中を泳いでいた魚類だった時代の記憶だという研究者もいると紹介されていましたが、はたしてどうか・・・。

英国の作家チェスタートンは、Angels fly because they take themselves lightly と言ってますが、いろんな訳があります。直訳では、「天使は自分を軽いと思っているから飛べるんだ」となりますね。「天使は気楽だから」とか「天使は自分にこだわらないから」と訳す人もいるようです。英語もなかなか難しいですね。

そういえば、某カルト団体だけではありませんが、空中浮遊ヨーガといいまして、結跏趺坐(けっかふざ)という座禅式に座った状態から、空中に浮かぶとかいうのもあります。ビートルズも指導を受けたというふれこみのインドの聖者であるマハリシ・マヘーシュ・ヨーギが発明した(正しくは、彼は師であるグル・デヴから伝授されたらしい)TM(超越瞑想)という瞑想の上級レッスンであるTMシディを受けると、ホッピングといって、やはり座った状態から浮き上がると、マハリシ総合研究所は主張します。

最近、「エル・カザド」というアニメにハマっているのですが、主人公の1人であるエリスという愛らしい少女(13歳位?)が、時々、異常な跳躍能力を発揮しますが、彼女が「マックスウェルの悪魔」に関わるらしいことから、私は、人間が空を飛ぶ原理を理解しました(笑)。
さあ、これであなたも空を飛べます(?)。
この原理は、簡単に言うと、空気中の熱エネルギーを位置エネルギーに変換するというものです。
位置エネルギーは、「重さ×高さ×定数(※この定数は重力加速度)」で表すエネルギーで、同じ重さなら高い位置にあるものほど大きな位置エネルギーを持ちます。落下させると運動エネルギーに変わり、運動エネルギーは最終的に熱や音のエネルギーになって拡散します。
これを逆に、空気中に拡散された熱エネルギーを位置エネルギーにすれば、位置エネルギーに見合う高さまで飛べるわけです。
まあ、理屈はそうなんですが、空気中の熱を位置エネルギーにする方法が難しいのです。
空気中の熱は雑然として存在しますが、これを1つの物体に集める、即ち、秩序ある状態に変えることは、実は不可能です。それは、塩と砂糖の混合物から、砂糖だけを取り出すようなものです。
熱力学の第2法則によれば、エントロピー(単純に言えば乱雑さのこと)は必ず増大しますので、これに反することにもなります。
ただ、「マックスウェルの悪魔」という思考実験では、熱力学の第2法則が破られる場合もあるとされ、「エル・カザド」のエリスは、それを行う能力があるということなのだと思います。まあ、可愛いから赦します(笑)。
結論として、マックスウェルの悪魔さんと提携すれば空も飛べるわけです(笑)。それを売ってくれとか言わないで下さい。情報技術者たる私は、情報理論に則り、マックスウェルの悪魔さんを否定する側におりますので・・・。

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2007.08.01

最後の言葉

小説でも映画でも、また、漫画、アニメでも、作者の主張は最も最後のあたりで出てくることが多いと思う。
1963年に放送が開始されたSFロボットアニメの「エイトマン」は、最終話は「超人類ミュータント」の前編、後編の2回に分かれている。その後編の最終シーンで、谷博士(エイトマンを作った科学者)が、「他人を思いやる暖かい心を持つことだけが、我々が生き延びる唯一の道であると信じる」と言って締め括った。
原作者である平井和正氏自らの脚本であった。
私はこれを、今年の4月に亡くなったアメリカの小説家カート・ヴォネガットの「国のない男」というエッセイ集の中にあった、「私が知るこの世の決まりはたった1つだ。人に優しくしろ」という言葉を見て思い出した。
平井氏もヴォネガット氏もシンプルな同じことを語ったように思う。
「エイトマン」といえば、随分古いアニメのようだが、原作者の平井氏はまだ70歳にもなっておらず、現在も意欲的に創作活動をしておられるようだ。少なくとも、後20年はがんばっていただきたいものである。

20070801_2

本日のラクガキです。
絵をクリックすると、さらにでっかい絵が出ます。別に見なくていいですが(笑)。

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