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2007.07.31

現代的国家侵略の方法

もし私が、経済力のある国を侵略・支配するとしたらどうするであろうか?豊かであるということは、それなりに自由が認められた民主国家であるはずだ。
では、間違いなく発達しているであろうメディアを利用するのが良いだろう。
ただ、ナチスの時代ではないので、露骨に特定のスローガンを宣伝してもダメだ。反対の立場の訴えが沸き起こった時に制御する方法がない。某国で、「漫画は子供をダメにする」というスローガンを国家主導でやってみたが、漫画家連中の粘り強さの前に敗れたということもあった。
そこで、国民の幼児化、無能化を徹底して進め、経済やモラルが低下しかけた時の混乱の中、政治や経済の中枢を狙うのが良い。
こうやるのだ。

まず、朝のテレビ番組では、どの局にも占いコーナーを設けさせる。長く続ければ、占いに抵抗がなくなる。こういった、何らの根拠もない、あるいは、根拠など全く不明なものを否定しない訓練により、思考力は大幅にダウンする。
カリスマ占い師も積極的に支援する。「アンタ、死ぬわよ!」といった、多少批判されるかもしれないがインパクトのある言葉で印象付け、実際に恐怖感も持たせると良いだろう。テレビ番組で有名人を公開鑑定させ、占い師が「ズバリ言うわよ!」と言うところで、占われる方には怯えていただくのが良い。しかし、時々は人情を見せ、女子高生を厳しく叱った後で、優しい言葉をかけて薄っぺらな感動を与えると尚良い。
これで、国民は、訳が分からなくても、強硬・傲慢で押しの強い者を何か特別な人と思い込み、無思慮に受け入れるようになるだろう。

そして、しっかり押さえるべきは、子供に強い影響を与える母親だ。この母親の頭を馬鹿にすれば、育つ国民はもはや恐れるに足らずである。
これには、女性幼児化作戦に限る。
若い女性に憧れを起こさせる、20代の美人モデルを使う。彼女の表情、しぐさを幼児化させる。早い話が、女は、可愛い少女として振舞ってさえいれば良いと思わせるのだ。
自分の快楽のみに関心を持ち、欲求を我慢しないのが良いことであること、外見さえ良ければ、何でも思い通りであることを女たちに強く訴えるのだ。美人モデルは常にはしゃぎ楽しむ様子を見せ、指をびっと立てて主張しさえすればそれで良く、シナを作ってすました顔、ふてくされた顔をしてみせればそれが魅力的で、主張は認められ、要求は通ると思い込ませる。そうそう、モデルさんの名前も覚えやすく軽薄なのが良い。例えば、姓に蛯みたいな文字が含まれていれば「エビちゃん」みたいな・・・。

ダメ押しは学校だ。これは長年アメリカで実験し、効果の認められた義務教育を流用すれば良い。
同じ年齢の子供ばかりを、30~40名程度集めて、常に一緒にいさせる。全員に同じ行動、考え方をするよう強制するには、これが絶対に効率的で都合が良い。相手は子供だ。ちょっと脅して、時々アメを与えればいいなりだ。
「前に倣え」で、縦に並んだ子供に同じポーズをさせる。びしっと同じ格好で決めるロボットのような子供達を見るとワクワクしてくるはずだ。こんな子供が大人になれば、この国はもう思い通りなのだからな。小川は「サラサラ流れる」でないといけない。他の流れ方など考えさせるな。
授業時間は1時間以内で切り、例え子供が授業内容に興味を持っても、授業は断固終わらせ、無理やりに別のものに注意を向けさせるのだ。これで子供達は集中力が続かなくなり、何ごとにも興味を失くす。
奇妙な規則を沢山作り、それを守らないことが罪悪であることも子供達に叩き込む必要がある。教師に嫌われたら学校が辛いものになることを身に沁みさせないといけない。
以上で、子供達は、自分でものを考える能力を持たず、常に管理者が必要な人間になる。何事にも興味がなく、自分にしか興味がないので、いつも退屈だ。適当な労働をするようになれば、国家の下僕たる大企業の製品やサービスを次々欲しがり浪費する立派な大人になるのである。
くれぐれも、子供には集団行動以外は許可してはならない。単独行動をするのは自分勝手な人間、不良だと言い聞かせ、そんな者にはみじめな将来が待っていると思い込ませるのだ。集団ほど飼いならしやすいものはないが、単独になれば、人間は自分でものを考えてしまうのだ。
「集団に真理は無い」と高名な詩人が言っても、その者はあくまで芸術家という、現実的ではない一種の変わり者とすれば良い。

そして、さらに念を入れるため、ゲーム機を徹底的に普及させる。
知的な人間も、立派な大人もゲームを楽しむべきであると信じさせるテレビCMも作る。
毎日、長時間ゲームをすると、思考力は見事に消滅する。ゲームは単純なルールの元で単に反射的に反応することが要求され、これほど思考中枢を無視する習慣を付けるための効率的な訓練はない。

さあ、以上で国民の幼児化、無能化は達成できるのだ。後はどうとでも支配できるはずだ。
で、ニッポンという国の状況はどうかね?完全に成功かね?ふむ、確かに!

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2007.07.30

カール・ゴッチ氏死去に寄せて

「プロレスの神様」カール・ゴッチが亡くなった。
朝日、読売等、一般新聞紙にはこのニュースは出ていないように思う。
2002年に「地上最強の鉄人」ルー・テーズが亡くなった時には、朝日新聞に記事が出ていたように思う。
1958年、テーズは、力道山とインターナショナル・ヘビー級選手権試合を日本で行い、その時のテレビ視聴率が87%であったらしいが、テーズは日本人にとって非常に思い出深い特別なプロレスラーであるということだろうか?
ルー・テーズといえば、ジャイアント馬場が1999年に亡くなった時にも、朝日新聞に彼のコメントが載っていたが、その内容が印象的だった。アメリカの試合で馬場と引き分けたが、その後の試合では自分が勝ったという。テーズほどのレスラーでありながら、日本では、力道山、馬場、猪木との重要な試合で負けていた。しかし、力道山の時はともかく、馬場との試合ではテーズは50歳、猪木の時は58歳であった。対して、馬場、猪木はその時が全盛であった。やはり、自分は全盛時、いや、46歳位までは誰にも負けなかったことを少しは言いたかったのかと思った。そして、馬場について「プロモーターとしても偉大で、約束したギャラは必ず払ってくれる誠実な人だった」と言った。ここは馬場らしいところだと思う。テーズに限らず、全てのアメリカの大物レスラーが馬場の誠実な人柄を賞賛していた。そして、特にアメリカでは約束を守らないプロモーターも多かったということかもしれない。

選手としてのゴッチは、日本で記憶に残る試合はあまりなかったかもしれないが、指導者としては実に重要な存在であった。その意味、日本プロレス界にとっては、ゴッチはテーズに優るとも劣らないかけがえの無い人物であったはずだ。
前田日明氏の初の海外遠征の際、新日本プロレスが決めていたフロリダを強硬に反対し、英国にしたのがカール・ゴッチだった。ショーマンシップの温床であるフロリダに素質ある前田を行かせるのが我慢できなかったのだと言われる。
前田が世界にその名を轟かせることになった、マーシャルアーツ全米王者のドン・ナカヤ・ニールセンの試合では、コーチおよびセコンドとして前田の世話をし、見事、前田はニールセンを破った。その当時、ゴッチは、猪木を「良い友人だった」と過去形で語ったと言われる。ゴッチは猪木の代名詞とも言える、卍固めや、ジャーマン・スープレックスホールドを伝授し、自身、その名をとったという、初代世界ヘビー級王者フランク・ゴッチのチャンピオンベルトを猪木に譲った。しかし、ゴッチの言うとおり、後の2人は親しくはなかった。

ところで、先に述べた、力道山とルー・テーズのインターナショナルヘビー級タイトルマッチであるが、表向きには、日米スーパースターの決戦であった。しかし、2人は試合前に申し合わせていたのだが、力道山は朝鮮の、テーズはハンガリーの民族の誇りをかけて戦うことを誓っていた。当時は誰も知らなかったことと思う。

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2007.07.29

狂気と芸術

横尾忠則さんは、芸術に狂気が必要と言うが、池田満寿夫さんは、私には狂気はないと言う。
だが、ゲーテが、最悪の日に生まれたら、悪い日も快いと言っていたことを思い出す。
池田満寿夫さんは狂気に馴染みすぎていたのかもしれない。
岡本太郎さんは、芸術は人生と言ったが、確かに、人生は狂気である。

で、全然狂気のない私の日曜のラクガキ(笑)
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵がでます。

20070728

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2007.07.28

ソルジャーナイフ

Soldier

我が愛刀、スイスのビクトリノックス社の「ソルジャー」です。
ナイフ遍歴を重ねてきましたが、辿りついたのはこれです。他には、以前書いた、フランスのオピネルがあります。
ソルジャーの値段は3千円位です(税込。アマゾンでは1426円で販売)。
つまり、ナイフとしては決して高価なものではなく、むしろ安価です。
私は、観賞用でもない限り、ナイフはあまり高価であってはならず、メーカーは安価に高品質なものを作る努力をすべきと思います。

このソルジャーは、他のビクトリノックス製のナイフと異なり、スイス国章が入っています。他の製品は、赤十字を囲むデザインが若干異なるビクトリノックスの紋章が入っています。

ソルジャーも、いわゆるマルチツールポケットナイフ(多機能ポケットナイフ)で、ブレードの他に、栓抜き、缶切り、リーマー(穴あけ)が付いています。今の日本では、栓抜き、缶切りを使うことは少ないですが、この栓抜きや缶切りは、大小のマイナスドライバーやワイヤーストリッパー(電線の被覆剥がし)を兼ねています。
とはいえ、私にとって、ナイフ以外はおまけのようなものです。

ソルジャーは、1891年から現在に至るまで、スイス陸軍に採用されています。そして、1891年のモデルから基本的には姿を変えていません。
メカニズム、デザインも磨きぬかれ、使いやすく、酷使に耐えます。

ブレードはINOX(イノックス)鋼というステンレス鋼です。そもそも、ビクトリノックス(Victorinox)という社名にはINOXが含まれています。
一般にナイフのブレード材質は、ほぼ炭素鋼かステンレス鋼で、それぞれも沢山の種類があります。大雑把には、炭素鋼はよく切れ、砥ぎやすいが錆びます。ステンレス鋼は錆びにくいことが大きなメリットですが、炭素鋼に比べ、切れ味がやや悪く、砥ぐのが難しいと言われます。
ただ、私は様々な炭素鋼やステンレス鋼のナイフを使いましたが、堅い木でも削らない限り、切れ味にもあまり差を感じたことはありません。まして、日常で紙や紐、あるいは鉛筆を削る程度では関係ないと思います。実際、使った範囲ではステンレス鋼ナイフも実に良く切れます。
このソルジャーの切れ味もかなりのものと思います。紙はカミソリのように切れ、ダンボールやロープを切ると、ちょっと恐ろしいほどの切れ味です。
ナイフというのは、自分が使う用途に合うことが肝心で、大切にはすべきですが、使い倒すつもりで選ぶべきものと思います。

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2007.07.27

富裕層になるには

日本は格差社会になってきたという。
しかし、この世界に「中間層」などというものは存在しない。中間層というのは、たまたま上位層の情けを受けることができている状況の者のことだ。上位層の庇護から漏れると下位層となる。自力で中間層になれるわけではない。本質的には中間層は下位層である。

自己啓発書というのは、いつの時代でもよく売れる。
成功の習慣とか、成功の心構えとか、成功術とか、昔からとにかく沢山ある。
あるいは、もっと堅実に、仕事の知識や技術を磨く者も多い。
これらの者は、上位層になりたいのであろう。
悲しいまでの大誤解だ。
上位層の者は、啓発書を読んだり、技術を身につけたりしない。一見、そんな努力をしているように見えても、その目的は全然別のところにある。
もし、努力をするなら、上位層の庇護を得るための努力をすべきであるのだ。それは卑屈とかそういう問題ではない。そうでなければ、中間層に留まれない可能性が高いのだ。
幸いにして、日本の上位層は情け深い者が多い。
また、従来では、日本では、個人で膨大な資産を形成するのが難しかった。
しかし状況は変わった。
日本でも個人での巨大資産の形成が割合に簡単にできるようになった。実質、いかに巨額の収入を得ても、やりようによっては僅かな税金を払えば済む様なことが合法で可能だ。よって、中間層に回す必要がなくなった。結果、中間層が減り、下位層が増え、格差を実感するわけだ。
ワーキング・プアという、ちゃんと働いているのに、年収が100万円以下なんて人は珍しくはない。上位層が高額の収入を自分で得るため、中間層に回る分がぐっと減った。つまり、下位層が中間層であるよう情けをかける上位層が極端に減ったのだ。

では、どうやれば上位層になれるか?
もし、上位層の者の身近で過ごす機会が多ければ幸運だ。彼らには決まった特長がある。
それは、状況によっては、どこまでも厚顔無恥となり、恥ずかしいという気持ちを抑えることができることだ。
今でもあるかどうか知らないが、ある有名な自己開発セミナーで、大きな駅の前で、ジャージを着て大声で歌を歌わされるというのがあったと思う。実際、あれを平気でやれない人間は上位層になったりはしない。
有名な億万長者の無恥振りは、1つや2つ思い浮かぶはずだ。
「チーズはどこに消えた」なんて本は、上位層が庇護する中間層に読ませる本だ。あんなものに感動する者は、本質は下位層のままである。

大昔のアニメで「魔法使いサリー」というのがあった。
サリーの友達で、すみれというおとなしい女の子の家で、すみれは、大きなケーキから、適当な大きさにいくつか切り分けた。元のケーキの半分ほどが切り分けられ、もう半分が残っているという状態だった。
すみれは、サリーやその弟のカブに「好きなのをどうぞ」と言う。するとカブは、その大きな半分を取る。サリーは怒るが、すみれは「男の子は遠慮するもんじゃないわ」と容認する。この脚本を書いた者は分かっている(実践しているかどうかは知らないが)。
カブは富裕層になるであろう(まあ、王様の息子だから、心構えが出来ているというべきか)。

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2007.07.26

日本生命のCMの欺瞞性

日本生命のテレビCMはかなり問題がある。
「保険には、ダイヤモンドの輝きも、パソコンの便利さもありません」

保険、ダイヤモンド、パソコンと全く質の異なるものをどう比較するというのだろう。
まるで、「リンゴにはブルドーザーのパワーはありません」と言うようなもので全く無意味である。
これが、「日本茶には、ジュースの甘さもコーラの刺激もないが、身体に良いカテキンが含まれる」なら、まだこれらには、「喉が渇いた時に気楽に飲める飲料水」という共通点があり、これなら話が成り立つ。

では、日本生命は、なぜこのような馬鹿げたコピーを作ったのだろう?
悪い言い方をすれば、人を騙して営業成果を上げようとしているのである。良い言い方では、「イメージ戦略」となるが、そのイメージが感情に訴えるだけで非論理的であり、しかも目的が利益のみであるなら、それを欺瞞と言わず、何と言うのであろう。

尚、私が非難すべきを指摘した企業は例外なく落ちぶれる。アビバ、NOVAがはっきり決着した。他の英会話学校も生き延びるところはほとんど無いであろう。サラ金も断末魔だ。ソニー、ソフトバンクといった大物も楽しみである。これらも、方向を変えなければ大変なことになるだろう。

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2007.07.25

心は泥棒である

世界は、単に心が想像したものである。
心は脳から生まれるが、そのプロセスを心自体が知ることはできない。
世界は心が作った夢のようなものだ。
気にいらなければ、好きなように変えれば良い。
心が世界を作るのであるから、まずはその心に注意を払うしかない。ほとんどの人は心に注意を払わないので、いつまでも悲惨な世界に閉じ込められている。
だが、心に言うことを聞かせることはできない。
考えてもみたまえ。心に言うことをきかせようとするのもまた心なのだ。こんな矛盾した話はない。
心に、良い世界を作らせる必要はない。
悪い世界を作らせさえしなければ良い。
そのために、心を見張らなければならない。

なぜ心を見張るのか考えよう。
もしあなたが教師であれば、何を見張るだろうか?悪いことをしでかす不良に決まっている。優等生を見張っても仕方がない。
では、野球チームのコーチであれば?やはり、怠け者や、チームの和を乱す選手を見張るだろう。イチローを見張っても仕方がない。
つまり、見張らねばならないものとは、ダメなヤツなのだ。
つまり、心はダメなヤツなのである。泥棒だと思えば丁度良い。泥棒がうろついていたら、注意して見張るはずだ。泥棒に良いことは何も期待しない。ただ、盗まれないよう見張るだけだ。そして、見張っていれば、泥棒は泥棒しないのだ。
心も同じだ。見張っていれば悪いことはできない。だが、心は、イチローのフリをするチンピラ選手だ。つい騙されて、そいつのやる悪いことを、良いことと思い込まされてしまう。例えば、イデオロギーのための興奮を至高の正義と思うようにだ。
「心のやることは全部悪い」そのくらい、心を信頼しない態度が必要なのだ。
「あの人は理想の男性に違いない」なんて思うなら、その男は詐欺師と思って間違いない。
「彼女は理想の女性だ」・・・単にパンツを脱がせたいだけだろう?

そもそも心とは何だろう。それは、認識の道具なのだ。感覚器官があっても、心がなければ何も認識できない。心は脳が作る。しかし、心機能は余計なことをするので、ものごとがありのままに見えない。
心を見張っていれば、心が活動を止めるだろう。すると、この世の真の姿が見えてくる。
そして、ちょっと、いや、かなり驚くことが起こる。
心を見張っている者が立ち現れるのだ。それは、突然に起こる。
そうなれば、もう言葉はいらないだろう。

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日曜日でもないのにラクガキをしたりします(毎週、日曜日のラクガキが私の習慣)。お風呂場でゴキブリを見つけた瞬間です(笑)。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ると思います(笑)。

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2007.07.23

「まちぶせ」と「待つわ」

最近、女性デュオ「あみん」が25年振りに復活し、かつてのヒット曲「待つわ」を歌うのをTVで見たが、これがまた、荒井由実(松任谷由実)作詞作曲の「まちぶせ」と共に、なんとも複雑な気分にさせられる歌だと思う。
「まちぶせ」はひらがな表記であるが、共に「待つ」という言葉が不気味な歌である。

「待つわ」といい「まちぶせ」といい、おそらくは男性側から見れば、本当はちょっとゾっとする歌詞ではないかと思う。
ただ、「まちぶせ」は、最初の1977年の三木聖子さんのイメージがないが、1981年にはアイドルの石川ひとみさんが歌い、1996年に「御大」荒井由実さん自らカバーしたし、「待つわ」は1982年の「あみん」の2人が芸能人らしさのない普通の女子大生振りが清楚だったこともあり、男性ファンも多いが、やはり女性に好まれたと思う。

「待つわ」と「まちぶせ」に共通するのは、共に、女の子の片思いの歌であるが、未練はいっぱいというところである。
「まちぶせ」の方では、「もうすぐあなたを振り向かせる」と前向きであるが、「待つわ」では「あなたが誰かに振られるまで待つ」と陰湿である。

しかし、なんとも寂しく、やりきれなさを感じる。
その、男性へのアプローチのあまりの下手さ、的外れさにである。
「まちぶせ」の女の子が、その男性と結ばれる可能性はまずない。「待つわ」の彼が誰かに振られる日が来ても、その女の子は相手にしてもらえまい。
石川ひとみさんや岡村孝子さんはきれいなので誤解するかもしれないが、これらの歌に出てくるような女の子は、おそらく外見は冴えないし、性格的にも自信のない、ちょっと歪んだタイプと思う。そのせいか、男に対するおよそ奇妙な思い込みを持っている。
ところで、いわゆるモテる女の子というのは1割くらいのものではなかろうか?
例えば、思い返してみれば分かると思うが、小学校で、スカートまくりのターゲットになる女の子は、せいぜいがクラスに2~3人である。小学校も高学年になると、スカートまくりは犯罪としての罰がそろそろ加えられるが、ここから中学高校に至っても、やれるものならスカートをまくりたい「憧れの対象」は、やはり、多くてもクラスに2~3人である。
大多数の女の子は、自らアプローチしなければならない必要性を感じてはいるのだが、その難しい方法を誰も教えてくれないので、おかしな方法に走る。
ペンテルの「スリッチ」というボールペンのCMを見ていると、ちょっと腹が立ってこないだろうか?あのCMはモテない女の子に買わせるという営業戦力のもとに作られたものである。あのCMに出てくる、およそ「これ以上モテたくない」と言ってもおかしくないような美少女に自分の姿を重ねて自己満足させるのである。

「まちぶせ」の女の子の恐るべき間違いを指摘しよう。
「偶然を装って帰り道で待つ」これ自体は悪くはないのだが、肝心なのは、待って逢った時に何をするかだ。特に何もしなければ、何度もやってるとうっとおしいと思われるし、狙いはすぐにバレる。そして、かえって嫌われるか敬遠されるのは間違いない。
逢ったなら、速攻デートに誘うしかない。そこで断られたら諦めるしかない。
デートに誘える自信が全く無ければ、飲みに誘えばいい。男は、好きでもない子とデートはしなくても、酒なら付き合う可能性がある。さらに、健康的なデートより、酒の席の方が有利なのである。酔わせて抱かせて脅し取る・・・は裏の世界の常套手段であるが、男はそれだけ馬鹿だということだ。これを利用しない手はない。もっとも、こういうことで状況をコントロールする手管は実は難しく、あくまで玉砕覚悟で挑むならである。

「他の人がくれたラブレター見せたり」ここまでくると、冗談でなく「いっぺん死んでこい」と言いたくなる(いや、もちろん冗談ですが)。
こんなことに意味があると思っている女の子は、言っては悪いが重症である。
こんなことで効果があるのは、最初から男の方に相当気がある時だけで、そもそもそれなら最初からアプローチの必要がない。
ラブレター(いまなら、告白メールというところか)を見せられた男が、本当に立派な男性ならこう思う。
「この子は、よほどラブレターをもらったことがないのだな」
これなら、まだ良い方である。
男が心を込めて書いたラブレターを他人に見せるなど、なんてひどい女だと思うはずだ。そして、仮に男性がその女の子に好意があった場合でも、それを壊す可能性の方がずっと高い。

「待つわ」に関してはこう言うしかない。「一生待ってろ」と。実際、そうなるであろう。
本来は、何もせずただ待つよりは、どんなことでもやってみる方が千倍もマシなのだ。
しかし、「まちぶせ」の女の子は、あまりに愚かだった。だが、愚かな行為でも、その苦しい失敗により成長することはできるはずだ(失敗と断定しているところにご注意願いたい)。
だが、「待つわ」の子は、失敗とそれに続く苦痛を恐れて何もせず、結果、一生そのままであるのだ。

思うに、両方の歌の女の子の大きな問題点は「自惚れ」であると思う。
それは「待つわ」の方が深刻だ。
魅力はあるが自信のない女の子が、好きな男の子に必死のアプローチを試みたり、シャイなために何もできずにただ待つという姿はいずれも可愛い。いや、より可愛さが炸裂すると言って良い。しかし、それはあくまでフィクションの世界である。
そんな映画やドラマに登場する、万人に1人の美しいアイドルに自分を重ねても何の意味もない。しかし、それをやってしまうのが人間だ。
心理学ではそれを「退行性(幼児性)全能感」と言い、幼児の頃、自分が世界で一番重要であるように扱われた時期を大半の人間が経験し、その影響は一生残る。しかし、それこそ、好きな異性に振られるといった体験により自己認識に修正を加えるのだが、何ごとにもチャレンジせず、失敗や挫折を経験しなければ、幼児性全能感は強いままだ。
全面的とは言わないが、「まちぶせ」や「待つわ」に共鳴する女の子は、甘やかされて育った上、失敗の可能性のあることにチャレンジした経験の少ない人であることは間違いないと思う。

先にも書いたが、男は単純で馬鹿である。だから、外見的魅力に弱い。男を落とすのは、基本的には見た目である。
可愛い子と張り合って勝つ可能性は無くはないが、ほぼ無い。
こう言うと、不条理なようだが、美しい女の子にだって、うるさいハエを追い払う煩わしさがあり、身の程知らずにもアプローチしてくる馬鹿を傷つけないよう諦めさせるテクニックも習得する必要がある(単なる優しさとは別に、恨みを買わないためにも)。そして、ある年齢になれば、美人もただのオバさんになる。元々が美人でない人でも、オバさんになったことを嘆くのに、美人であればその落差は普通の人よりはるかに大きいのだ。いくらエステで磨きをかけても若さという宝は決して戻らない(ここらは詐欺的なテレビCMで思い違いをさせられている女性も多いが)。
年を取った時の嘆きは元美人の方がずっと大きい。従って、あまり美人を羨む必要もないのである。
そして、恋愛は、ある程度は駆け引きと心得る必要がある。なぜなら、必ずしも最善の結果を得られるわけではなく、失敗も有りえるからで、出来るのはただ、成功の可能性を1パーセントでも押し上げることだけなのだ。
自分の切り札は所詮、なけなしの外見的魅力で、それを最大有効に活かすために、前段階として様々な努力をするのである。そして、その努力とは、正々堂々のものしかあり得ないのだ。きれいにまとめたノートを貸してあげたり、料理を勉強して美味しいお弁当を作ったり、スポーツで目立ったり、良いことで勇気を示したりである。

余談-「灼眼のシャナ」より。
自覚はないが、好きな悠二のためにお弁当を作ろうと(料理の名人、吉田一美に対抗してだ)、悠二の母、千草に料理を教わるシャナ。
しかし、千草が目を離した間に、シャナは玉子焼き(最も基本的な料理だ)を焦がしてしまう。
「ごめんなさい。シャナちゃん初めてなのに、私が目を離したから・・・」
「千草は悪くない(シャナは悠二の母親も呼び捨てである)。私の鍛錬が足りないせいだ。」
「そんな・・・鍛錬だなんて大げさなこと言うもんじゃないの。料理というのは、愛情がこもっていればいいのよ」
「愛情・・・」
小説では(この作品、小説、アニメ、漫画とあり、それぞれ微妙に違う)、シャナは確かに愛情はこもっていたがトンでもないお弁当を作り、悠二に決死の思いで渡す。
それでも良かったのは、あくまでシャナが驚くべき程の美少女であるからだ(高校1年生の悠二に対し、シャナの外見は11~12歳だが、それでも凛々しく美しい少女である)。
対抗の吉田一美もまた、かなり可愛い部類に入るほどであり、しかも最高レベルのお弁当を悠二のために作ったが、アプローチにはかなり苦労した。

男は「舌から」落とすというのは、決して間違いではない。
「大草原の小さな家」で、ローラが男の子へのアプローチを父のチャールズに尋ねた時、チャールズは言う。「美味いものを食べさせるんだ。すると男はしびれるのさ」
だが、料理に大切なのは、愛情ではなく、出来栄えであることはしっかり憶えておきたい。

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2007.07.22

願いの叶え方

願望を叶えるには以下の条件が必要である。
それは、完全に信頼する人物からの確約を得ることだ。
単に仲の良い友達や、親きょうだいではダメだ。もちろん、親や兄、姉を心から尊敬し信頼し、その人の言うことなら疑わないというくらいなら別である。
例えば、小説家になりたいなら、絶対的に信頼する人物に「きみは必ず小説家になれる」と言われなければならない。
大きな願望なんて、自分1人で望み願っても決して叶わない。そもそもが、成就なんてものは分かち合いでしかない。その最も基本的な分かち合いがなくて、ものごとが成るはずがない。
後は、その信頼する人物の言葉を憶えていれば良い。

ただ、その人に直接言われなくても、本当に信頼できるなら、その著者による本の中の言葉でも構わないと思う。例えば、岡本太郎の「今日の芸術」に「あなたも本日ただいまより芸術家になれる」と書いてある。もし、岡本太郎を心から信頼できるなら、あなたも芸術家になれるであろう。

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すっかり忘れていましたが、日曜はラクガキする日でした(笑)。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。
サロンパスをいきなりひっぺがされた雰囲気が出てますでしょうか?(?)

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2007.07.21

いじめは脳機能の問題

例えば、いじめを行う者は、端的に言えば育ちの問題とされてきたと思うが、これが脳機能の疾患が原因と言われたことはあまりないと思う。
しかし、性犯罪を繰り返すような者には、情動を制御する脳の機能に障害が見られる場合も確かにあると思う。だが、そのような場合でも、少なくとも日本においては、脳の疾患の方をあまり考慮されることはないように思う。
学校でも、会社でも、非常に不快なことを言ったり、あるいはしてきたりという者がいるかもしれない。しかし、そんな者の言動は、実は脳機能の変調や疾患に因するものかもしれない。
過去、精神分析学ではお手上げ状態の病気も、脳機能により解明されているものも多くあるはずである。
だが、このように言うと、性格や心の欠点が矯正不能なものということになってしまい、それは、人権問題に関わる可能性があることから、そう容易には認められないと思う。

では、芸術的才能はどうだろう?
確かに、芸術的才能というのは存在するが、それがどのようなものであるかは、分からない場合が多いように思う。音楽的才能であれば、音を識別する耳の内部構造に常人とは異なるような発達が見られるようなことを聞いたこともあるような気がするが、それは全ての音楽的才能の持ち主に見られるものでもないと思う。
だが、新しい脳機能科学や神経科学では、美的感覚に関係する脳の部位はかなり分かってきているようで、その部分が特化して発達すると、訓練したわけでもないのに、驚くべき作画能力を発揮するようなことがある。

芸術的才能も一種の脳疾患あるいは脳の異常状態と言えるかもしれない。
脳の異常による言動のそれぞれを、良いとするか悪いとするかは、必ずしも明確でないと思う。そもそもが、善悪にしても相対的な場合が多いのであるから。

私は、可能性としては、従来、心理学や精神医学の領域とされてきたことも、脳機能で全て説明できるようになると思う。
ただ、脳機能の異常には、神経の断裂といった、医学的処置でないと治らないもの、あるいは、現代医学の水準では治らないものもあると思うが、脳のバランスの良い発達により解決される問題も多いだろうと思う。
少なくとも、心理学や精神分析学もであるが、道徳や倫理、教育では何らの進展も見られない問題が実に多い。これらに新しいアプローチを与え、解決する可能性も高いと思われる。

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2007.07.20

慣習とは狂気である

他の地域、あるいは時代の人々の慣習には奇妙に感じるものもあるだろう。
某国のレストランで食事中に、テーブルの上でコップを引っくり返してしまい、テーブルと床をびしょびしょにした。ボーイに始末を頼んだら、ボーイはテーブルを拭いただけで行こうとするので、床の始末も頼んだところ、彼は怒り、「私の身分階級はテーブルは拭くが床はもっと下の身分階級の者の仕事だ」と言う。

中島敦さんの名作短編小説に「名人伝」がある。このお話の舞台が大昔の中国であった。著者はある場面について、「自分の息子を塩焼きにして皇帝に献上することが美徳とされた時代のことであり、この時代の人の行為を今の常識で考えてはいけない」と注意していた。

さる芸術家のブログで読んだが、オランダでは、夫の靴を奥さんが揃えると、「召使いみたい」で抵抗を感じるようである。

岡本太郎さんが、「現在は情報通信が進歩したので、世界は狭くなった。世界中の多くの民族の慣習や美的感覚はかなり似てきており、非常に奇妙に思えるようなものは少なくなってきている」と、「今日の芸術」に書いたのは1950年代の話である。
確かに、もっと大昔では、現代の日本人から見れば驚愕の風習や慣習がいたるところであったに違いない。
それに比べれば、一夫多妻など、あまり大した問題ではないと思える(笑)。

だが言っておく。
いかなる風習・慣習も、全て狂気であると。
「これは良い慣習」、「これは悪い慣習」などというものはない。全て狂ったものである。
慣習とは狂気の1つと言って間違いはない。
我々は、祖先や未開民族の慣習に驚く。しかし、未来の人からみれば、我々の慣習も、それらと大差はないに違いない。
荘子は言っている。外的には、法や慣習に従えと。無用な争いを避けるためである。だが、内面は自由でいろと。
他人の慣習は放置するに限る。慣習はそれに従う者には抗うことのできない狂気であり、それを変えることは非常に難しい。いや、仮に変えることができたとしても、それは単にあなた好みの狂気に変わったというに過ぎないのである。

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2007.07.19

当たり前の異常

夢の中でなら、自分の家の中にライオンがいようが、自分の愛車に脚があって馬のように走ろうが、別に何とも思わないかもしれない。
しかし、現実でもそれは変わらないのではないだろうか?
ある会社を覗くと、部長さんの首から上が象なのに、そこの社員は誰も違和感を持っていないということがあるかもしれない。
家の庭に、急にミサイルが設置されたのに、その家の者も、そこを通る近所の人も、それを当たり前に見ているかもしれない。
人間とは、実際にそのようなものなのだ。

芸術に、シュールレリスム(超現実主義)というものがあり、非日常の不思議な風景が描かれている。
ダリ、マグリッド、シャガールなどが有名である。
人の顔をしたネコ、腕が6本ある人、人間の指のある靴、空を飛ぶ人間。それらは自然に描かれている。見ている者は、特にそれが奇妙であるとは思わなくなる。

いや、もう現実にそのようなことが沢山実現しているのである。
そう言っても、
「何を言ってるんだ。どこもおかしくないじゃないか?」
と応える者がほとんどであろう。
夢の中で、人々がマシンガンを持っていて、「これは異常だろ?」と言われても同じように応えるようにだ。

世界は夢と変わらない。
目に見えるものをそのまま受け入れても良いが、それに価値判断を加えると夢に取り込まれる。特に、あれは好きだが、これは嫌いと思うと、目覚めることは難しくなる。
夢を見ている限り、本当の自分は不在だ。それはあるべき幸福を見失った状態である。

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2007.07.18

銃刀法で笑う

ナイフをいくつか購入したので、銃刀法、即ち、「銃砲刀剣類所持等取締法」について調べてみた。

しかし、この法律を調べてみて、はっきり言えることは、誰が書いた(作った)か知らないが、書いたのは相当な馬鹿であることは間違いない。
また、こんな馬鹿が作ったとしか考えられないものを平然と放置している政府や役人も救いようのないアホである。

まず、文章に構造を与えず、ただ、雑然と並べただけである。とてつもなく長い条文であるのだから、もっと工夫をしないといけない。
法律を護ってもらおうという姿勢が全く感じられない。そもそも、法を作る人間というのは、やる気がないということが明白である。
小説でもノウハウ本でもドキュメント本でも、こんな書き方では絶対に売れない。つまり法律は娯楽小説や通俗なノウハウ本以下なのである。
日本人にすら読む気にならないものを平気で放置しているのであるから、政府は外国人にも護ってもらおうという気持ちなどゼロパーセントであるに違いない。
では、我々にとって重要な部分である、刃物の携帯に関する条文を見よう。これは、「第四章 雑則」の第二十二条である。

何人も、業務その他正当な理由による場合を除いては、内閣府令で定めるところにより計つた刃体の長さが六センチメートルをこえる刃物を携帯してはならない。ただし、内閣府令で定めるところにより計つた刃体の長さが八センチメートル以下のはさみ若しくは折りたたみ式のナイフ又はこれらの刃物以外の刃物で、政令で定める種類又は形状のものについては、この限りでない。

なんじゃこれ?(笑)
まともな会社で、業務でこんな文書を書いたら、クビか厳重注意か降格か、休日返上で研修であろう。
「業務その他正当な理由」ってなんじゃい?
どんなのが正当な理由か示さずに、何が法律じゃい?
「内閣政府で定められるところ」が何かの記述もなければ、どうやれば見れるのかも書いていない。こんな場合は、法務大臣に電話入れたら、やってきて教えてくれると見なされても文句は言えんぞ。

「政令で定める種類又は形状のもの」って・・・。ここまでくれば、会社であれば、これを書いた者に、「書き直し!!」の一喝以外ないと思われる。
またおかしいのが、刃体の長さ6センチの刃物を携帯してはならんとしながら、折りたたみ式のナイフは8センチまで良いとはどういう意味じゃい?
責任者出て来いと言いたくならないだろうか?
折りたたみ式ナイフって、刃を出してしまえば、短剣やシースナイフと何の違いがあるのだろう?
いったい、何のために刃物の携帯を禁止しているというのだろう?
こんな訳の分からん文書をまともな会社で業務で書いたら・・・はもう言ったな(笑)。
要は、法律作る人間は、一般企業ではさっぱり勤まらんということである。

さて、とにもかくにも、奇妙珍妙な条文ではあるが、刃体6センチまでのナイフや、刃体8センチまでのホールディングナイフはいかなる場合にも携帯して良いらしい・・・と思ったら、軽犯罪法では、これもいかんとある。これを見てみよう。

軽犯罪法 第1条
正当な理由がなくて刃物、鉄棒その他人の生命を害し、又は人の身体に重大な害を加えるのに使用されるような器具を隠して携帯していた者

なんのことはない。刃物は一切持ち歩いてはならんということである。
なら、銃刀法に但し書きしとけよ(笑)。
しかし、これも救いようのない文章だ。私なら、採点する前に書き直しを命じるだろう。
「刃物、鉄棒その他」の「その他」って何なのだ?
ボールペンだって人の身体に重大な害を加えることはできる。鉛筆でも定規でも。学生さんは全員逮捕だな(笑)。
本当に人を殺す気があるなら、私なら刃物より紐か金槌を使うと思う。

ただ、「隠して携帯」に当てはまらなければ良いらしい。
しかし、「隠して携帯」とはまた、どういう意味だい?
もはや呆れてしまった。
ところで、銃刀法でも、キャンプなどの目的があれば、刃体6センチを超える刃物を持っても構わんことになるかもしれない(基準が明確でないので分からないが)。
で、条文ではないかもしれないが、こんな場合でも、目的地に着くまでは、梱包するなどして、すぐに取り出せないようにしないといけないと政府による指導が出ているのではあるまいか?ナイフ店のサイトでよく書かれている。

ということはだ。
刃体6センチの刃物と5.9センチの刃物を、キャンプで使うために携帯するとしよう。
すると、6センチのものは、梱包し、リュックに入れた「隠した」状態で運ばなければならない。
しかし、5.9センチの方は、「俺はナイフ持ってるぜえ!」って感じで、腰にぶら下げたり、首からかけて運ばないといけないのである(爆)。

正当な理由の基準が示されないことは重要な問題である。
これは、違法かどうかが、その場にいた警官の気分次第ということになるわけだ。そんなものが法治国家と言えるであろうか?
実際に、同じことをしながら、ある者は問題なかったのに、ある者は罰せられると言うことが実際に沢山起こっているのである。
権力者が国民を支配するにはこの上なく都合の良いものである。このようなものを許してはならない。

考えるべきは、これに関して言えば、どうすれば法律を作る人間が熱意を持ってまともな仕事をするように出来るかである。
そのためには、世間をよく知った人間にやらせることである。およそ法律に関わるような人間は世間知らずで常識がない。少なくとも、一般企業で20年は働いた人間でないと、人間の行動を規制するようなルールを作れるはずがないのである。

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2007.07.17

政木和三さんの思い出

政木和三さん(故人)も、トンデモさん扱いされることが多いことは私も知っている。
宇宙人からの連絡を公表したり、自分の身に起こった数々の凄い超常現象も著書に書いている。
だが、その他のトンデモさんとの圧倒的な違いは、80歳を過ぎてなお、一流企業で研究活動を行い、その成果から数多くの製品を作って販売したが、ヒット商品はあっても、世間から非難されるような製品があったとは聞かないといった、現実面での業績だ。これは、彼をトンデモさん扱いする人よりはるかに上であろう。
ゴルフの腕前も凄く、実際にエージシュートを2回達成してギネス認定されたし、関西シニアで優勝したこともある。
政木さんが長年工作センター長を勤めた大阪大学の名誉教授で、情報通信の分野で著名な人に政木さんについて聞いたことがある。「政木和三さんを知ってますか?」と訊ねると、彼は「政木は親友だ」と言う。そして、「あいつの話は、私は多分、半分も信じていない。しかし、彼は嘘をつく男ではない」という不思議な返事をした。

政木さんは、自分が発明した「神経波磁力線発生器」について、講演で「いかなる病気も治る」と宣言した。薬事法違反であろう(笑)。
ところが、私は、叔父が末期の胃がんで、余命1ヶ月と宣告されていた友人にこの話をしたら、その友人は「もう最後だ。できることはなんでもしてやりたい。」と、この装置を購入し、病院の叔父に渡した。その叔父も、可愛い甥っ子の気持ちを汲み、早速使った。
すると、ほとんど何も食べなくなり、強度の便秘で悩んでいた叔父が、10分で大量の排便があり、病院を抜け出し、喫茶店でスパゲッティを食べた。これは奇跡的な出来事だった。
数日後のレントゲン検査では癌が消えており、医者は首をひねった。医者は「放射線が効いたのだろう」と言うが、私の友人は意地悪く「アンタの誤診じゃないの?」とからかったそうだ(こらこら)。余命1ヶ月のはずの彼の叔父は、3ヵ月後に退院した。
尚、この友人は国大の化学科出身の頭の堅い役人で、普段ならこんな装置は馬鹿にする男である。その彼の報告であるから、信憑性は高い。

私は政木さんの研究室も何度か訪れた。
会社の正門から近い場所にある彼の研究室は、決して豪華でも広くもないが、作りかけの試作品や計測器が溢れ、それでいて雑然とはしていない。
2002年に亡くなった彼の開発した製品は、今でもその企業から販売されている。アマゾンで買えるものもある。
政木さんは、確かに本人が言うとおり、頑固な面もまだ残っていたと思う。しかし、素晴らしい人柄であった。私1人相手にする時も尊大ではなく、柔和な態度で謙虚だった。
また、80を過ぎているのに、若者と変わらない軽やかさで階段を駆け登った。
政木さんの研究室を訪れ、お昼になり、昼食のために会社の前のホテルのレストランに入った。政木さんは「私は自分で注文したことはないのです。ここに座っていたら、適当に何か作ってくれるのです」と言う。その言葉通り、自動的に素晴らしい寿司とお吸い物が運ばれてきた。

その中で、政木さんには、願望を成就する方法や、能力を向上させる方法や、いろいろ珍しいことを教えてもらった。そこらの書籍によくあるいかがわしいものとは真逆なものであった。さらに、おそろしいことを聞いたが、内容は内緒だ(笑)。

常識はずれなスケールの大きな話をする人だったが、決して非常識ではなかった。頭の回転は恐ろしく速く、質問する前に答えるような人だった。
また、政木さんの思い出は良いものばかりである。
政木さんには形見を貰った。私がほとんど不意に、「横尾忠則さんをご存知ですか?」と聞くと(私はなぜか、政木さんに逢う日の朝から、横尾さんが気になっていた)、政木さんが黙ってある方向の壁を見た。そこには、見事な政木さんの肖像画があり、「横尾忠則」と銘が入っていた。そして、政木さんは、その絵はくれなかったが(笑)、横尾忠則さんが壮丁を手がけ、既に絶版になっていた政木さんの著書「精神文明と奇跡」を私にくれたのだ。

政木さんをトンデモさん扱いする人の言い分も分からないでもない。しかし、彼らの主張を裏付ける何らかの決定的な証拠を見たこともない。
いずれにせよ、どうでも良いことである。政木さん自身、自分を欠点の多い人間と言っていた。良い面、悪い面は誰にでもあろう。

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2007.07.16

オピネルに萌える

元レーソングドライバーで、自動車評論家の徳大寺有恒氏の本を見たことがあるが、やはり車好きらしく、これはという車を求めて、次々に乗り換えたらしい。
おそらくは超高級車も沢山乗ったと思うが、彼がついに気に入ったのが、ドイツのゴルフという大衆車だったというのが面白かった。ただ、これはかなり昔の話と思う。
ゴルフというのは、日本で言うならカローラである。ただし、同じ大衆車でも全く違うらしい。徳大寺氏はゴルフは気に入っても、カローラを気に入ったとは思えない。
ところで、私は車自体にはさほどの思い入れもなかったので、徳大寺氏が30年も続けた歴史的著作「間違いだらけのクルマ選び」(2006年で終了)は面白かったがあまり役立てなかった。だから今はマークツーなんかに乗っているのだ(笑)。

レベルは異なるが、私は少し前からナイフの収集をしている。
数々のフォールディングナイフ、シースナイフ、和式狩猟刀等や渓流刀・・・大きさも、ポケットナイフから、ちょっとヤバ気な刃体のものまで買ってみた。
あくまで実用品として見ていたので、あまり高価なもの(数十万円)は興味がなかったが、数万円程度のものはかなり買った。
ところが、最後に気に入ったのは、なんのことはない。1本2千円(大抵は千円ちょいで売っている)のフランスのオピネルだった。私はフォールディングナイフ(折りたたみ式ナイフ)はあまり好きでないに関わらず、これもフォールディングナイフである。

Opinel

そのシンプルな構造から、安物と言うなら、そう言えないことはない。しかし、超高級ナイフと比べて何か不都合があるかというと、全くない。美麗とは言えないかもしれないが、外観(ハンドルもブレードも)も実に気に入っている。
通常のフォールディングナイフは、刃を引き出すと自動でロックがかかるものが多い。そこで、ロック解除ボタンを押して刃を収めるのである。このオピネルの場合、あまりロックは必要ないと思うが、閉じた状態、刃を出した状態のいずれでもロックを掛けられるが、ロックボタンなんて洒落たものではない。単に柄の部分のリングをぐりっと回すのである。
ハンドルはブナの天然木だが、これも気に入っている。普通のフォールディングナイフのように平べったくはなく丸いが、これがなんとも握りやすい。
ブレードの形も、別に格好が売り物のナイフではないと思うが、それでもとても良い。刃の材質は炭素鋼が一般的だが、現在はステンレス(イノックス鋼)のものもある。ステンレスは錆び難いので便利だ。切れ味では炭素鋼の方が良いが、木彫りでもしない限り、普通は分からないと思う。

オピネルは100年以上前から、フランス庶民の生活に溶け込んだ大衆ナイフである。フランス人は、これでパンや果物や、あるいは肉を切る。
大きさも、2番(刀長35ミリ)から12番(同120ミリ)まであり、日常用途なら何でも合うものがある。
私が上記で、1本千円ちょいと書いたのは、写真の刃長85ミリ(No.8)のものだ。

このオピネル、「フランスの肥後守」と呼ばれることもあるらしい。日本の大衆ナイフといえば肥後守である。だが、いかに庶民ナイフということが共通でも、コンセプトは全く異なると思う。生活様式の違いもある。例えば、日本の食事は箸があれば十分で、パンやステーキのような、切ってから食べるというものがない。刃物を使うのは料理人だけである。
肥後守は、ブレードのロックどころか、親指でチキリと呼ばれる部分を押さえて使わないといけない。ハンドルは、単に刃を収めるために必要な最小限の形状に留めた金属製で、基本的に刃が勝手に開くことも防止されない。
だからといって、そんなに使い難いわけでもない。むしろ、オピネル以上の簡素さでナイフを作った潔さは大したもので、このシンプルさを好む者もいると思う。
オピネルも肥後守も絶対に武器としては作られていない。だが、ブレードロック可能なオピネルはその気になれば武器になってしまう。まあ、肥後守も、日本の伝統に従い、チキリをハンドルと紐かテープで巻けば武器になる・・・なんてことを考えてはいけない^^;
私は肥後守の良さが理解できていないかもしれない。価格はオピネルも肥後守も大して違わない。
やはりナイフは使い倒してこそのものである。
ただし、オピネルも肥後守も、1本を大切に何十年も使っている方も珍しくはなく、決して耐久性のないナイフではないと思う。

尚、私はもう1つ気に入ったナイフがある。スイスのビクトリノックスである。こちらも安価だが、オピネルとも全くコンセプトの違うものである。いずれ紹介する。

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2007.07.15

無垢な心

私が幼稚園の年長組だった5歳の春のことだ。
快晴な正午前、私は何人かの子とグラウンドで寝転がっていた。
空をジェット機が横切り、飛行機雲を残していく。
私の意識は、ジェット機の中に飛んだ。
大勢の乗客がいる。良い身なりをした、落ち着いた品格も高そうな紳士や、優しそうな御婦人が見える。顔に人生の年季を感じさせる少し老いているが意思の強そうな男性もいる。そして、衿や袖が細かな作りの白い可愛い服を着た9つくらいの育ちの良さそうな女の子がいた。
客室は清潔で、明るい雰囲気だった。
そして思った。そこにいる人々には、一生逢わない可能性が高いに違いない。これはなんとも寂しいことに感じた。
同じ地球に生まれながら、直接には全くお互いを見ることもなく、触れ合うことも、声をかけ合うこともないのだ。
いや、例え偶然に逢ったとしても、あの時のジェット機の中にいた人だなんて知る術はおそらくないに違いない。
なぜ神様は、世界をそんな風に作ったのだろう。それはあまりに寂しくはないか?
それとも、死んで天国に行った際には、そういった一切のことが明らかになるのだろうか?だとしたら、それは実に面白い。
だが分かった。一度も逢ったことすらない、見たこともない人に対しても、これほどまでに親しさを感じるということを。

20070715_1
恒例、日曜日のラクガキです。まあるいお月様とうさぎさんです(?)。
クリックすると大きな絵も出るらしい。

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2007.07.14

学校教育で歪んだ脳

最近は、書籍はアマゾン等のオンラインショップで買うことが多くなったが、書店にもよく寄る。
ところで、書店では、以下のような奇妙な体験をよくする。

下図のように、書棚が向かい合わせにあり、その間は、2人の人間がなんとかすれ違える広さの所がある。
そのような場所で本を見ていると、数分もしないうちに必ず、誰かが私の真後ろに立つのである。本当にぴったり真後ろである。
私なら多少ずらして立つ。言うまでもなく、人が通れるようにである。
Book
大勢の人がいるなら仕方ないと言えるが、2人しかいないような時でも、必ず私の真後ろである。
これが毎回、必ず行われてくると、さすがに恐ろしく、もう書店に行くのはやめようと思う。

思うにこれは学校教育の成果であろう。
学校では、絶対的に集団行動が強制され、「前に習え」の号令通り、全て皆と同じようにやらねばならない。
学校に行った者は、自分独自で立つことさえ出来ず、他人、特に私のように美しく立派な人間を見ると(♪~)、無意識に鏡に映ったように真似をするのである。

こんなこともある。
道を歩いていて、向こうから人が来るのが見える。相手は、こっちから見て、やや左寄りを歩いている。そこで私は早々に右に寄る。すると、かなり近付いた時に、相手は必ずや、私から見て同じ右側に寄るのである。
美しい私に接近したいという気持ちは分からぬでもない(♪~)。しかし、その顔を見ると、全く知性のない表情と、おどおどした、あるいは、奇妙な横柄さに満ちている。
これもまた、他人と同じことをやり、いつも群れていないといけないという学校教育の成果である。そのルールの外にある私への非難か憧憬が逆に蔑む表情を取らせるのであろう。

また、私が普通に歩く速さが、常人がかなり急いだ速さと同じである。
私がのんびり歩いていると、下品な靴音をたて、息まで荒くして必死で追いすがってくる迷惑な輩も多い。
それでも、私がのんびり歩く速さとさして変わらないので、放っておくと、かなりの時間、私は嫌な時間を持つことになる。品の無い人間と少しでも近くで歩きたくない。
そんな時、私はピタっと立ち止まる。すると、ほとんどの者がドングリを取り上げられた猿のような表情になる。
ある時は、ちょっと年配だった男が、私の横を通り過ぎる際、ずってーんと転んだ。
学校で教育された猿にはあまりに予想外で、よほどの衝撃を受けたのだろう。
学校に教育されると猿になるのである。

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2007.07.13

本当に好きな人とは

皆さんも、一度は、「その人が、本当に好きかどうかを判定する方法」というものを聞いたことがあると思う。
私が最近読んだ百合漫画の傑作「くちびる ためいき さくらいろ」(森永みるく著)では、女性専用であると思うが、「その人にキスされるところを想像し、嫌悪感がなければ嫌いではない」という、なんとも分かりやすいことが書かれていた。
もちっと深い感じのものでは、「その人に二度と逢えないとしたらどう感じるか?」というのを聞いたこともある。

ただ、これらは感傷的であり、あまり正しいことは分からないと思う。
それなら、「時をかける少女式」が良い。
これは、「その人のことが記憶からなくなるとしたらどう感じるか?」というものである。
これなら、「逢えないとなると悲しいが、記憶がなくなるなら何とも思わないのだから、別にいいかな」となる。そして、よく考えたら、ほとんどの人に関して、「別にいいかな」ということになると思う。
好きな人の記憶が無くなるというのも、また悲しいだろうが、どうにも耐えられないというほどでもないと思われる。
好きなんて気持ちは随分利己的であることがわかる。
もし、少しはマシな気持ちでその人のことが好きなら、自分がその人のことを忘れることを考えたら、すぐにその人の立場に回るはずである。即ち、「自分に忘れられるその人はどうだろうか?」と。どんな気持ちかは知らぬが、その相手の気持ちに深く同調できれば、それは真実の愛・・・かもしれない(笑)。

私の場合は、もう二度と逢えなかろうが、その人を忘れてしまおうがどうでもいい(笑)。
土台、どれほどの社交家であっても、一生に親交を結べる相手の数なんてたかがしれている。一生逢わない人間の数の方が圧倒的以上に圧倒的なのである。
逢わない人の中に、どれほど素晴らしい人がいることかと思えば、たまたま逢った人にそれほどこだわる必要もない。
たまたま逢った縁というのも大切であることは分かるが、その1つが消えても、また次の出逢いを待つだけである。以前、竹村健一氏が本に書いていたが、彼は女性にふられたとしても、「おお、神様は、また新しい女性と愛し合うチャンスを私に与えてくれた。今度の相手はもっと美人に違いない」と思ったそうである。

もう1つある。
忘れたくない人と別にそうでない人といった選り好みは本当は好ましくはないのだ。
いや、選り好みも何も、実際には他者など存在しない。全ては自己である。分割できない自己を分割し、ここは好きだがあそこは嫌いと考えるのは本当は愚かしいことなのだ。
真の愛は、そのようなことはしない。2人の世界にどっぷり浸っているカップルは、実にこっけいなものである。電車の中などで、そんな連中を見たことがあると思う。すぐに分かれる2人である。

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2007.07.12

地に落ちた若者達

かなり以前から、電車などの床に座る若者が増えている。
私は、これは単に、彼らの脚や身体が弱いのだと結論した。
10代の男子が、電車で我先に乗り込み、座席を確保したり、エスカレーターでじっとしたまま運ばれているのを頻繁に見るとそう思わざるをえない。
私は10代というか、今でもそうだが、エスカレーターで歩かないことはない。
電車では、今は席があれば座るが、人と争ってまで座る気はない。立ってるのも迷惑な場合があるから座るだけである。ただ、10代の頃は、仮に座席がガラガラでも、立っているのが一種の「若者のプライド」であったと思う。

しんどいからと言って床に座るようになると、もう人間、一生終わりである。
何事も、最後の理性がどこまで存在するかで決まるが、床に座る者は、文字通り「地に落ちる」ことを選んだのである。生涯、ロクなものにならないことは保証する。
電車で立っているだけでも、座っているよりは脚が鍛えられる。その意志の問題である。
私は車は持っているが、なるべく使わずに歩くことにしている。地に落ちたくはないものだ。

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2007.07.11

死ぬくらいなら逃げろ

いじめで自殺したという話を聞くたびに思うことがある。
死ぬのは逃げである。
ただ、逃げることが悪いことではない。
無駄な争いを避け、逃げることは良いことだ。特に、相手がどうしようもない不条理な人間の場合は逃げるのが正しい。逃げるのも勇気なのだ。
だが、死んで逃げるのではなく、生きて逃げて欲しい。
死ぬ気になればなんでもできるなんて言う者もいる。これは絶対嘘だ。しかし、逃げることならできる。

学校なんか行かなくて良い。
むしろ行かない方が良い。学校は頭脳を破壊する場所なのだ。

大人の側に言いたい。
いじめで死ぬ子供をこれ以上出したくなければ、唯一の方法が、被害者が逃げやすいようにしてしてやることだ。これしかないのだ。
学校では集団行動が強制される。その中では、いじめる方はいじめ放題で、いじめられる方はなす術がないのだ。現状の学校のあり方では、いじめられる子に「死ね!」と言っているのに等しいのだ。
考えるまでもない。自殺した子達が、学校に集団行動を銃で脅されるのと少しも変わらない恐ろしさで強制されなければ、誰も死んでいないのだ。
学校がなぜ集団行動を強制するかの話はここではしないでおこう。
要は、そんなことをしなければ、いじめでの死者は出ない。

しかし、いじめもセクハラも待ってはくれない。
学校などに行くな。勉強なんて、読み書き計算ができれば1人でいくらでもできる。私も中学2年からは授業に参加していない。小学校でも授業を聞いたことはない。しかし、全く困っていない。
親も、子供が学校に行きたくなければ無理に行かせるな。
同時に、家庭から逃げなければいけない子供も多い。
日本の児童福祉に必要なのは、子供の逃げ場所だ。見つけてくれるのを待っていたら死んでしまう。自分で逃げれるようにするのだ。そして、逃げることを教えろ。
大学に進んでも、小学校の算数が出来ないのが、2割とか3割という数でいるのである。つまり、学校の授業に意味がないという現実がはっきりしている。無駄な学習項目が多過ぎるのだ。履修科目問題など、狂気というよりは馬鹿の一言だ。履修科目を減らし、教師も減らし、子供は地域に参加させてまともな大人に接するようにし、それを推進する企業や地域にお金を回せば良い。

とにかく、逃げろ(Beat It)。
死ぬよりマシだ。

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2007.07.09

イブのいちじくの葉

「アダムとイブ」を描いた絵では、2人がある部分をいちじくの葉で隠している場合が多いのをご存知と思う。
聖書にも、彼らがいちじくの葉で身体を隠したことが記述されているらしい。

ところで、誰がそのようなことを書いたのかは知らないが、罪なことと思う。いや、意図的であったのではないかとも思う。もし意図的であったのなら、それはもしかしたら神のごとき賢者の仕業であるかもしれない。
アダムは特に隠す必要はなかったと思う。
問題はイブだ。イブがその部分を隠したことが、人類の運命を決めたのである。

実際、男の場合は、特に身体のどの部分かを隠す必要はない。公衆道徳の問題や、あるいは、映画「タイタニック」で、ローズ嬢が発言して、周りの貴婦人方を仰天させた「男性はサイズにこだわりますのね」という問題もあるのだろうが、根本的には無理して隠すものでもない。
しかし、女性は違う。ただ、違うとは言っても、「なぜか違う」ということなのだ。

つまり、男性のあの部分は秘密でも神秘でも何にもない。名画にだって時折描かれているから、子供のものと多少外観が異なるとはいえ、年若い乙女だって全く知らないわけではないだろう。
しかし、女性のあの部分は神秘であると同時に幻想であり嘘なのだ。
男の子の場合、女の子のあの部分に関しては、ごく小さい頃であれば見る機会もあるかもしれないが、さほどの印象もないものであると思う。つまり、単に「自分にあるものがない」というだけのことだ。
しかし、次第に、イブがそこをいちじくの葉で隠したように、女はそれを極めて強力に防御することに気付く。それにより、何かそれが、神秘的に美しいものであるという幻想を抱くようになるのである。
そして、女の方も、その幻想を利用するようになる。
男の子は、それが天国の花か世界の果てにある宝のように美しいものであるという幻想に囚われた結果、それを見たくて仕方がなくなる。そして、それは簡単に女の子に察知される。ここから、女の子の精神的優位が始まるのである。
かなり小さい頃なら、自分や(男の)友人の妹や、近所の顔馴染みの女の子とうまく交渉して、あるいは、お医者さんごっこのような形式で首尾よく鑑賞に成功する男の子もいるかもしれない。しかし、男の子のその程度の手管は、とっくに先読みされており、女の子は母親から、そこはとても大切なので、絶対に見せてはならないと教えられ(脅され)ている場合が多いので、成功率は低いはずだ。
何かの映画であったが、11か12歳位の2人の男の子が、隠れた場所で少し年下の可愛い女の子の服のすそをたくし上げ、下着の引き降ろしも終え、あまりの喜びに歓声を上げていたが、大人に見つかってしまう(女の子の母親だったかもしれない)。
男の子達は、公衆の面前で罰を受けることになる。だが、罰が実施されようとした時、男の子達の父親が、女の子の父親に言う。「なあ、ここまでしなくても。俺達にも分からないことでもないじゃないか」。女の子の父親は、すぐに納得する。だが、母親に問い詰められたその女の子は、自分は彼らに無理やりにあんなことをされたと言って泣き出す。本当は彼女も喜んでいたのであるが、男の子達は純情で、それに反論できない。
女の子が泣いては仕方がない。女の子の父親は、男の子のズボンをパンツごと引き降ろし、硬い革靴を振りかざす。男の子の悲鳴が上がると、女の子の顔が喜びに染まる。それはもちろん、復讐の喜びではない。女の武器を確認し、その威力を確信した喜びである。その女の子は美少女でもあったので、少し成長すると、学校教師を誘惑し振り回して楽しむようになる。

子供の頃、男の子は、女の子のあの部分が神秘的に美しいという幻想を植え付けられる。
すると、精神、あるいは脳の構造上、一生、その幻想を保持するのである。
しかし、これを言うことはほとんどタブーであるのだが、あんなものが美しいはずがないことは、当の女なら誰でも知っている。はっきり言ってグロテスクとも言える。位置的にも不潔である。しかし、それを美しいものであると男の子に信じさせる必要があるのである。
もはや詐欺と言えるようであるが、この巨大な詐欺により、人類はうまくいった部分もあるかもしれない。旧約聖書の著者の狙い通りであろうか?
だが、女の子の方も、あの部分を男に見られることには強い羞恥心があるはずだ。しかし、よく考えると、妙な羞恥心ではあるまいか?少なくとも男の子にとってはそうであるはずだ。神秘的に美しいものであるなら、見られて恥ずかしいというのはおかしい。つまり、醜い場合に見られるのが恥ずかしいと考えるのが自然である。そして、女の子にとっては、美しいと思われているものを、実際はそうでないということを知られるのは都合が悪いというのが、強い抵抗を示す理由であろう。
いずれにせよ、女の子のガードの理由は(なぜかは分からぬが)羞恥心であると男の子は思い込んでいるので、その羞恥心が大きければ大きいほど、それが美しいという幻想は強まるのである。
だが、このようなことを男の子に教えるのは、歴史的なタブーであるかもしれない。

ところで、昔から理性に乏しい馬鹿な男はいたもので、矢口高雄氏の漫画で紹介されていたが、日本でも戦前や戦後まもなくの頃、小学校や中学校で、男の子が大勢で女の子を押さえつけて下半身を裸にするという行為(露骨に犯罪であるが)が「解剖」と呼ばれ、かなり行われたらしい。本当かどうかは知らないが、あり得そうな話である。
別に現在でも同じであるが、程度の低い男というのは、性的興奮を得るのに、女の屈辱を必要とする。いや、程度が低くない男というのは存在しないので、程度の差はあるが、どんな男も同じである。だから、恥じらいのない女は魅力がないとされる。だが、極端に程度の低い男であれば、暴力に訴え、女性に巨大な屈辱を与えることで満足しようとするものである。粗暴な男でなくとも、ロリコンと呼ばれる男はそうであると思われる。彼らは、実際に女の子のあの部分を見たこともないので、それが美しいという幻想は宇宙のように大きいし、可憐な少女は、必ずや自分を満足させる恥じらいを見せると思い込んでいる。まあ、まかり間違って、そんなオタク男が、本当に可憐な少女と奇跡的にことに及ぶことになれば悲惨かもしれない。その理由はちょっと言えない(笑)。

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2007.07.08

人生が気に入らなければ

「コリン・ウィルソンのすべて」という、2004年に出版されたウィルソンの自伝がある。
ウィルソンの人生の細々した出来事、特に、「アウトサイダー」を出して不意に有名人になった直後のゴタゴタは退屈であった。
しかし、時々、さりげなく、極めて重要なことを書いていたりする。もう年寄りなんだから、こんな気まぐれな書き方をするなよと言いたいが、もう出版してしまったものは仕方がない。
この本で、何度か、ウェルズの作中の人物のミスター・ポリーの言葉として「自分の人生が気に入らなかったら、それを変えるにしくはない」というものが書かれていた。
どのウェルズか書いてなかった。このウェルズとミスター・ポリーで作品を特定できる人はそうはいまい。訳者の中村保男氏はウィルソンの翻訳は長いのだから、ちゃんと注釈を付けろよと言いたい。
この作品はH.G.ウェルズの「The History of Mr. Polly」で、ミスター・ポリーはウェルズ自身の分身と思われる。日本語のタイトルは「ポーリー君の物語」となるらしいが、翻訳が出ているかどうかは知らない(洋書ならアマゾンでも買える)。

「自分の人生が気に入らなかったら、それを変えるにしくはない」とは心トキメク言葉ではあるが、詐欺師が最も活用する人間の欲望であることに注意したい。「潜在意識の法則」やらスピリチュアルやら占いやらで、人をだまくらかして儲ける連中は後を絶たないが、騙されることも幸せなのであろうか?騙されている連中に真実を教えると、大抵攻撃されるのだ(笑)。
真実を知る稀有な者としてつらつら書くと、人生を変えるのに、自発的欲望というものはまず役に立たない。例えば、「歌手になる」「女優になる」「作家になる」などを、ただ自分だけの欲望として望んだ場合である。
また、ポリーの言葉にちょっとした間違いもある。変えるべきは人生ではない。こう言うと、「ああ、自分を変えろと言うのだろう?」と言う者もいるかもしれないが、自分なんて変えられない。変えるのは世界である。それが理解できないと何も変わらないのだ。
世界は変えられる。好きなように変えるが良い。ただし、望みの大きさに従って、エネルギーと時間が必要だ。まとめれば、思いの強さである。もし、願いが叶わないなら、思いが十分に強くないのだ。そして、自発的欲望は大したエネルギーを引き出さない。
もし、信頼する人間に「きみは音楽家になるよ」と言われ、それを忘れなければ必ず叶うのである。憶えていればね・・・。

20070708_2

日曜恒例のラクガキです。
クリックすると、大きな絵がポップアップで出ますとさ(笑)。

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2007.07.07

百合を真面目に語る

本日は、真面目に百合のお話である。
百合と言っても、お花の百合ではなく、すぐピンと来る方もいるだろうが、いわゆる女性の同性愛者である。
歴史的には、女性の同性愛者をレズビアン、男性の場合をゲイと呼んでいる。ホモセクシュアルはゲイのイメージが強いが、同性愛者一般を指す。
また、現在では、女性の同性愛を題材とした小説・漫画のジャンルをガールズラブというが、実は、男性同士のボーイズラブの方が先にできた言葉らしい。
ボーイズラブに関しては、日本でも近代の文豪の作品にそれらしいものは沢山あると思う。むしろ、ガールズラブの方がずっと少なく感じる。
漫画では、昭和以前からボーイズラブは人気があるが、それを楽しむのは女性の方がはるかに多いように思われる。尚、現在では、ボーイズラブを趣味とする女性を腐女子と呼ぶのが一般的になっている。

私はボーイズラブもガールズラブもあまり詳しくはない。
露骨なガールズラブを描いた漫画・アニメの傑作である「神無月の巫女」は、コミックス、DVDを全て揃えて繰り返し見たが、ガールズラブの真髄をつかめなかった。
ところで、女の子であれば、ある時期に同性に恋愛感情と区別が付かないような憧れを持つのは全く正常なことである。しかし、それを知らないために、「自分はおかしいのではないか?」と悩む女の子は多いようである。
また、美少女2人がコンビを組む漫画・アニメでは、ほとんどと言って良い位、多少は百合の雰囲気を表現することがあるが、別に不自然なことではないと思う。
女子小学生に人気抜群であった「ふたりはプリキュア」(「プリキュア」シリーズは現在も継続中)で、なぎさがほのかのことを「あたしが男子なら好きになるタイプ」と言ったことがあったが、その中に百合的雰囲気を多少感じても良いと思う。

少し前になるが、子供向きと言って何ら疑いようのない人気アニメ「カードキャプターさくら」では、小学4年生のさくらの親友である知世は、さくらに親友以上の感情を抱いていたし、実際、知世がこの世で一番好きな人はさくらであった。さくらは、やはり知世のことが好きで大切に思っているが、知世は「私の好きは、さくらちゃんのとは違う」と自覚していた。ただ、これを同性愛と呼べるかどうかは疑問である。
さくら自身は、高校2年生の兄である桃矢(とうや)の親友の雪兎(ゆきと)に憧れていた。年は離れているが、実際、2人は結ばれると見えた。しかし、雪兎と結ばれるのは、なんと桃矢であった。ただ、これもゲイと呼ぶのはむしろ難しいものであった。

私は、これらの漫画・アニメに何ら抵抗を持たないというほどではなかったが、最近、かなり認識を変えてくれるものがあった。
「ないしょのつぼみ」(やぶうち優著)という、小学館の小学生向け雑誌に連載された性教育をテーマとした素晴らしい漫画がある。そのコミックス第3巻で紫音(しおん)という小学5年生の女の子が、女の子を好きなことが分かり、主人公のつぼみは驚く。だが、つぼみのことが好きな男の子である幹図(みきと)は、「同性異性に関わらず、人を好きになるのは自然なこと。好きになったのがたまたま同性であっただけ。何もおかしくはない」と肯定する。
それで大いに納得した後で、シンクロニシティかセレンディピティかは知らぬが、たまたま百合漫画の大傑作「くちびる ためいき さくらいろ」(森永みるく著)を読んだからたまらない(笑)。その抜群に美しい絵と共に、描かれた少女どうしの愛は、これまで見た百合、あるいは百合的作品の比ではない何かがあった。「この世に残された最後の純愛」のコピーは伊達ではない。かくして私は完全に百合に目覚めた(笑)。

愛にはいろんな面がある。
1997年の「ストーカー 逃げ切れぬ愛」というドラマは、当時、社会問題化し始めた「ストーカー」をテーマとしていた。
この主題歌が坂本龍一の「The Other Side of Love」で、彼の実娘Sister Mが歌っていたが、このタイトルは印象的だ。誤解を恐れずに言えば、ストーカーもまた、愛の一つの形である。
何事も、問題はその表現手段だ。
尚、愛の本質とは統合である。それは、一切の差別を忘れ、全てを一と見ることが究極である。男女の愛が強調されるのは統合を表現しやすいからだ。崇高なる一であるものへの統合に向かうものであれば、それがガールズラブであれボーイズラブであれ問題ではない。
ストーカー、あるいは、痴漢といった歪んだ形での愛を表現する場合もある(言うまでも無く、これらの全てが愛ではない)。しかし、本当はこのような方法を使う必要が全くないことを理解できれば良いのである。

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2007.07.06

ドクター・ハマー

アーマンド・ハマーという、伝説的なビジネスマンがいた。
彼が生まれたのは1898年であった。
医学部(コロンビア大学)を出た本当の医者であることから、通称はドクター・ハマーである。
彼は、学生時代に既に富を築き、貧困に喘ぐ旧ソ連での医療活動に人生を捧げようとしていた。シュヴァイツァー博士のアメリカ版である。
アーマンドの父親ジュリアスも医者であった。ジュリアスは肉体労働者であったが、23歳で医学校に入って医者になり、善良で献身的な医師として人々に愛された。

23歳のハマーは、医療機器や薬品を満載した船でソ連に入るが、レーニンに医療ではなく、経済活動での支援を要請された。
社会主義国家の経済活動の不合理さや効率の悪さは驚くべきものだった。ハマーは貿易ビジネスや工業で手腕を発揮し、ソ連経済に貢献する。
この中で、世界的な人脈を築くが、さらに、ソ連やアメリカの歴代首脳(ソ連ではゴルバチョフ、アメリカではレーガンまで)と親交を結んだ。
石油をはじめ、巨大なビジネスで成功を収め大富豪となるが、90歳を過ぎて尚、プライベートジェットで世界中を股にかけてビジネスを行った。
そして、1990年、冷戦の終焉を見届けて満足したかのように、92歳で世を去る。

以上は、かなり前に、ハマーの自伝「ドクター・ハマー」を1度読んだだけで憶えていることなので、間違いもあるかもしれない。
この本の中で、3つのことを特に印象深く憶えている。

まず、ハマーは、人生の目標を7歳で決定した。それは「自分より優れた人のため、少しでも役に立つ」である。尚、ここで言う、「自分より優れた人」とは、おそらくは全人類を指しているのだと思った。

ハマーは、ビジネス成功の秘訣は、1つの成功を次に結びつけることであると言う。
読んだ当時はあまり分からなかったが、「次に結びつける」とは、単に「儲かれば良い」と思っていてはできないことと思う。そして、商売をそんな風に心得る者はやはり成功しない。次に結びつけるとは、1つには、顧客に継続的な売り込みを行うことであるいが、やはり、誠意を持って顧客を大切にすることが大事であろう。それには、当然、アフターフォローを充実させる必要もある。
なるほど、成功の秘訣は単純だ。巷では、「ビジネス必勝の秘訣」や「成功術」を商売にしている輩もいるが、こういった基本ができていなければ絶対にどんな秘訣も効果はないし、そもそも、成功に秘訣なしであろう。

3つ目は、ハマーがビジネスの経費の大半をポケットマネーで支払っていたということだ。
経営者としていうなら、経費にせず、税の優遇を受けなかったということだし、個人としては、プライベートなお金を仕事に投入したということである。
はっきりとは分からないが、この心構えも、稀な成功者となった要因の1つと思える。
私は、経営者ではないが、多少の経費なら会社に請求しないようにしたが、これは確実に良い効果がある。ただ、上司が親切過ぎて、私が費用請求しないことに気付き、無理に請求させたということはあった。
また、私の業種(コンピュータソフト開発)は残業の多いことで有名であるが、私の勤務していた会社は残業時間は自己申告であった。同僚達は、休憩室でコーヒーを飲みながらダラダラ午後10時までいるだけで4時間の残業申請をしていた。私は、休憩室がどうなっているか知らないほどで、真面目に深夜まで勤務していたが、残業申請は一切しなかった。面白いことに、他と比べて私の収益率は高かったが、残業が少ないということで昇進対象から外されそうになった(先の親切な上司がフォローしてくれたが)。
こう言えば、実に損をしているように見えるが、このような態度で他人に遅れを取るはずはない。早い話が実力がついた。
その後、会社は買収され、同僚の大半はリストラされたが、私はその前に好条件でヘッドハンティングされたのである。

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2007.07.05

沈魚落雁

「沈魚落雁(ちんぎょらくがん)」という言葉をご存知だろうか?
中国、日本の小説で同じ意味で使われているものであるらしいが、読んだままの「魚も恥らって水に潜り、雁も空から落とすほどの美人」という意味である。
この言葉は、「荘子」の「斉物論」編の中に現れるのであるが、実は、上にあげた現在の意味と正反対なのである。

本当はこの言葉は、人間から見た美人も、魚が見れば恐れて水に潜り、雁も驚いて落ちるという意味で、美人の美しさが通用するのは人間同士の間だけであり、絶対的な美ではないということを言っているのである。
この他にも、荘子は、住居に関していえば、ドジョウは沼地に住むが、人間が真似をすれば病気になる。人間は家畜を美食と心得るが、ムカデはヘビを好んで食べる。
このような例を出して、人間の定める価値が一面的であり、絶対的ではないということを分かりやすく説明しているのである。
荘子は、そこから更に論を進め、人間の行う価値判断がいかにあやふやでいい加減なものであるかを論じている。
一方から見れば是であっても、他方から見れば非となる。何ごとも、人の行う価値判断は相対的であり、絶対的なものではないことを教えている。

このように、「沈魚落雁」が、その出所である「荘子」での意味と全く違う意味で現在使われているのは、元々の意味が奥深く理解しにくいものであるからであろう。

「斉物論」の考え方は、「荘子」固有であるかといえば、そうではない。
古代インド哲学や、その流れを汲む近代インドの聖者によって語られる教えも、非常によく似ているというか、おそらくは同じである。
大きさ、重量、時間といった、従来は全宇宙で絶対的と考えられていたものはアインシュタインの相対性理論でその絶対性が否定された。相対性理論は巨大なスケールの世界でのことであったが、逆に極微な世界も量子力学により、我々の通常の常識が成り立たないことが分かった。
さらに、精神分析学や心理学、脳機能科学の成果により、人間の感覚、思考、感情に関することも、実際は我々が当然と考えていたことと事実はかなり異なることが分かってきている。
荘子や古代インド哲学は、さらに壮大で奥深いことを語るが、どこまでが真理であるかは証明されていないし、証明されるはずがない。荘子にしろ古代インド哲学にしろ、言葉での説明が不可能であるとされる以上、証明の前提である言葉での記述自体ができないからだ。
しかし、荘子にしろ、古代インド哲学にしろ、人間の根本的な幸福や、真に充実した人生の鍵はそこ(万物斉同や不二一元論)にあるとされる。
もしそうであるなら、人が日々行う、自己の幸福のために良かれと思って行うことは、その正反対の結果となるかもしれないのだ。

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2007.07.04

すべてを愛することは可能か?

savage geniusの「光の行方」(作詞:ああ、作曲:タクミ、曲:梶浦由記)を聞いていて、気になる歌詞があった。

全てを愛するにはあまりに未完成すぎて

ある意味、分かりやすい言葉と思う。
しかし、これは人間の不幸の根本と言えるほどの大誤解であるのだ。

全てを愛するには、完成されていないといけないのだろうか?
いつ完成するのか?
そもそも、完成する未来なんてあるのだろうか?
全て幻想である。

全てを愛することのできる「完成」が未来に得られるものであるはずがない。
なぜなら、得られるものは失われるものに過ぎず、なんら実体はない。
全てを愛するという究極の属性が実体のないものであるはずがない。
それはいつでもここにあるはずなのである。
全てを愛さないのは、単に、わがままな言い訳に過ぎない。
迷わず、全てを愛するが良い。問題なく可能なはずなのだ。

こんな言い方もできる。
全てを愛さないのもまた完成であるのだ。
全てを愛せないなら、全てのものから関心を引き上げれば良い。
全てに無関心でいることができずに何かを愛するのも未完成である。
人間の欠陥とは、あるものは好きだが、あるものが嫌いだということであり、それが全ての悲惨の原因である。

全てを愛する完成形が例えば神だとしよう。
もし神を信じるなら、神と共にあれば良い。
もし神を信じないなら、自分が神になれば良い。
自分が世界をコントロールしていると思うのなら、世界の一切の責任を負えば良い。
そうでないなら、全てを神にゆだねれば良い。
試してみれば、実に驚くべきことが分かるものである。

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2007.07.02

敵の殺し方、生かし方

私は昔から敵を作りやすい。
相手は、露骨な攻撃、嫌がらせ、難癖に及ぶことが多い。
しかし、不親切にも、私は全くとり合わないのだ。
連中が楽しい思いをしたことはない。
難病奇病で身体の機能の一部以上を失った者、死に至った者もいる。
私が迷いを解いてやれば良かったかもしれない。
言うまでもないが、私に呪術の類が使える訳ではない。
しかし、それは必然なのだ。
仮に私に欠陥があるとしても、それを憎み攻撃を行うことは自然の法則に反している。自然に逆らえば歪みが起こるのは当たり前なのだ。
最近、また1人出てきたなあ^^;
同じレベルで相手してやれば、あやつも不幸を免れるかもしれないのだが。
しかし、私は相手を地上で空回りさせて空高く飛ぶのだ。嗚呼、不親切^^;

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最悪への対処

最悪な状況に陥っている人に相談を受けたらどうするであろうか?
また、自分が最悪の状況になったらどうするであろうか?

人気小説「灼眼のシャナ」(高橋弥七郎著)で、高校1年生の坂井悠二は、自分が最悪の状況になっていることを知る。
(この最悪の状況とは、説明しにくいが、要は、後わずかの期間で悠二が消えてなくなる)
そこに現れた、見掛けが11~12歳の少女は、ただその事実を淡々と悠二に告げ(半分面倒臭そうに)、悠二が少しでも希望的観測をすると、少女は即座にきっぱり否定する。
少女は、一切の同情、慰め、哀れみの様子を見せない。
だが、悠二は、自分でも気付かず、そんな少女に好意を感じ始める。

1999年に人類が滅亡しなかったせいか、評価が落ちたかもしれないノストラダムス研究家の五島勉(ごとうべん)氏の「死活の書」というのを昔読んだことがある。
竹村健一氏や舛添要一氏が推薦文を書いていた。
1994年、バルト海でのエストニア号遭難の際、駆けつけた家族に対し、ボランティア(非常に素晴らしく組織されている)の人たちは家族に言う。「おそらく絶望でしょう。遺体も上がらないに違いない」。なんとも冷酷な宣言であるが、家族達には最善であった。このボランティアだって、重い経験から、それが良いことを知っていたのだ。
「アメリカでは撃たれると思え、ヨーロッパではレイプされると思え」と五島勉氏は当たり前のことを当たり前に書く。
私は五島氏のノストラダムスやエドガー・ケイシーに関する本は、正直あまり信じてはいない。しかし、この本は素晴らしい本だ。毎日、下らない本が大量に出版され、こんな良い本が絶版になるなんて、なんと勿体無く、なんと日本の出版界は愚かなのであろう。

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2007.07.01

悩みをぶっ飛ばすには

悩みの無い人間は無いらしい(私にはあったろうか?^^;)。
昔、竹村健一氏に、26歳の男性が18歳の女の子を好きになり、彼女の態度に深刻に悩んでいるという相談があった。
竹村氏は「1週間メシを食うな」とアドバイスした。適確である。
病気、イジメ等、本当に深刻な悩みもあろうが、大抵は弱さと甘えが原因である。それを理解するのが第一だ。よって、それはほぼ万能のアドバイスである。(我が師マハラジはいかな深刻な悩みもとり合わない)
尚、素人断食は危険で、体調によっては死ぬこともあるらしい。しかし、アドバイスした相手に「何かあったら責任を取ってくれるか」と言うなら、もはや救いようのない馬鹿である。

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私のラクガキは一種の懐古趣味と思いますね。
どんなに清純さを売り物にしたようなアイドルでも、いやらしく見えて仕方ないですね。幸福とは果てのない快楽であるという誤解が世に蔓延っていることを表しているように思います。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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