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2007.06.12

私を騙すのは私?

面白いものをお見せしよう。

北岡明佳の錯視のページ

トップページの沢山のグルグル模様が回転しているのが見えると思う。
しかし、こう言われると驚くと思う。
「本当は動いていない」
実際、これは本当に動いていない。

これが「錯視」である。
私は錯視という言葉自体知らないのだが、こういう説明ができると思う。
もちろん、目でモノを見るのであるが、それを映像として認識させるのは脳の働きだ。
つまり、脳が騙されていると言えるが、「脳に騙されている」とも言えるだろう。

我々の感覚というものは、このように頼りない部分がある。
ところで、このように騙されるのが感覚だけかというと、そうでもない。
例えば、決意や決断は人間の高度な能力のはずである。
「バイクを買うと決めた」
「迷ったが、入学するのはA大学にしよう」
「B子を恋人にする。A子はやめよう」
これらの決意も、脳に「決めさせられている」だけかもしれない。それを、あたかも自分で決めたと思っている。
しかし、「私」というものは脳による意識・思考ではなかったのかと多くの人は考えるかもしれない。別に魂のようなものを持ち出すつもりはない。脳の一部の機能が意識を生じさせ、その意識を別の部分が騙したと考えれば良い。
決意が、意識以外のものに強制的にさせられているというのは有りえる話である。
脳機能科学の実験によれば、腕を動かそうと思うよりも早く、脳の運動を司る部分が腕を動かす司令を出すらしい。それを、自分が腕を動かそうと決意したのだと錯覚しているだけらしい。(※参照「脳はなぜ心を作ったか」前田隆司著)

感覚も心も全て幻想であるかもしれない。
フロイトも、心は「人間の壊れた本能」の代替物と考え、幻想であると言ったが、全く違う意味である。
私自身は、人間の本能が壊れているとは思っていない。性行為を教えられなかった子供が、本能で性行為をしないことを、人間の本能が壊れている証拠という者もいるが、これは人間はその繊細で複雑な神経系の影響を受けやすいというだけのことである。

人間が自分だと思っている「私」は、脳から生じながら、感覚も知性も脳に騙されている。そんな「私」とは何であろう。
デカルトは賢明ではなかったろうか?彼は、知覚も知性も全て疑い、結局確かなのは「疑っている我が存在すること」だけと言った。デカルトにも間違った部分も当然あるが、彼の時代の偏見や情報入手の困難さ、そして基礎的な科学の未熟を考えれば、やはり彼は最高の賢者と思う・・・いや、私は、そう思わされている(笑)。

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