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2007.06.22

私とは何か?

昔から、「私って何?」「私は誰?」といった奇妙な質問が絶えたことがない。
「ソフィーの世界」も、そんな問いから始まっている。
しかし、誰が自分とは何かを見出しただろう。膨大な数の「ソフィーの世界」の読者も全員ダメだったはずだ。
なぜだろうか?
私が何であるかの発見は究極のものであり、もしそれを望むのなら、それは他のあらゆる欲望に優る。
人は、ちょっとした望み、例えば、車が欲しいとか、痩せたいとか、あの人と結婚したいとかいったものですら、一度望めばなかなか忘れず、かなりの時間想い続けるものだ。
しかし、最大の望みであるはずの「私は何か?」が思い出されるのは、たまたまその疑問を持った一瞬だけである。例え「ソフィーの世界」を読んだとしても、それを考えることは、他の望みに比べ不当に少ない。
それでは、自分が何か見出せるはずがない。

しかし、自己を常に問い続けるなら、必ず見出せる。それは、爆発と驚きの中で知ることである。
問題は、自己を問う激しい情熱が持てないことだ。たかが車や美しい少女であれば熱心になるのに、最も重要な自己に関してはなおざりというわけだ。
自己を問う情熱を持つには、全てにうんざりする必要がある。ただし、全てにだ。普通、「何もかもいやになった」という者は、本当は何かの俗っぽい欲望を持っている。単に、あるものは好きだが、あるものは嫌いであると言っているに過ぎない。

芸術家と単なるクリエイターの違いは、芸術家は自己を探求しているだけだということだ。
まさか芸術家が、他人が見てきれいと思うものを作ったりはしない。むしろ醜いものを作るはずだ。
だが、芸術家も最後の爆発に至ることは少ない。どうしても欲望が振り切れないからだ。

言葉で言うなら、自己とはただの観照者だ。これを常に自分に言い聞かせていれば心は純粋になる。
ただ、こう言われても、なかなか納得しないだろう。
しかし、脳機能科学によれば、それが正しいことが、おそらくは1950年代には解明されていた・・・大人相手にはこういう言い方でないといけない。
フロイト精神分析学では、観照者としての自分は語られないが、現象としては同じで、心とは幻想であるとしている。
自然の風景を静かに見ている時、自分が観照者であることを認めるであろう。しかし、「ただの」観照者であるとはどういうことであろうか?
その自然の風景は美しいかもしれない。例えば、紅く空を染める夕焼けであれば感動するかもしれない。それを愛する人と見ているのであれば、至高の美と感じることもあろう。しかし、美しさに感動している感情ですら、それをただ観照しているのが自分なのである。
「美しいと思う心。これが自分だ」というのは、最も陥りやすい大誤解なのだ。単に、脳の中に感動回路があって、それが作動しているに過ぎない。これは、深遠な哲学としてなら、なかなか理解できないであろうが、単に脳機能科学の教える事実である。

※参考書籍「脳はなぜ心を作ったのか」(前野隆司著 筑摩書房)
※尚、この本の全てが正しいとは言わないが、心が幻想であることは無理なく説明されている。

自分がただの観照者であることを常に自分に言い聞かせれば、心は静まり、ものごとは自然に正しく進むようになるだろう。
だが、観照者としての自己が究極ではない。
しかし、これ以上進めると、宗教や霊魂のような話になりやすい。何らかの超現実的な概念が必要になるからだ。だが、原初、針の先よりも小さかった宇宙が出現する前に、何らかの意思、あるいは、意識のようなものがあったのではないかと言われることもあるし、生物にしてもDNA構造が完全に解明されたとしても、それを基にどう生命活動が行われるかは何も分かっていない。
しかし、確実に言えるのは、観照者である自己が存在することだ。結局、言葉で到達できる真理はここまでだ。
とはいえ、観照者である自己が存在するという意識は最も純粋な意識だ。いや、自己は観照者に過ぎないのだから、自己が存在するという意識は最も純粋だと言うべきだ。
そこには、学んで身につけた観念が一切ない。その純粋な意識にとどまると、観照者である自己もその中に溶け去る。その後、爆発が起こるのだが、それはどうにもこうにも言葉で言い表せられない。
その時に人は、神様になるというか、神を超えることになる。
ただ、あまりに若いうちは、しっかりと自己を確立する必要がある。後には邪魔になるかもしれない自我であるが、一旦はそれを強固に逞しくする必要がある。そのためには、世俗的活動が大いに役に立つ。特に熱心に仕事に取組むのが何よりだ。

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Comments

待て待て!、、(と、自分に言っている、、、)
一回目読んだときと2回目に読んだ時とでは理解度が少し違う。
今から三回目を読んでみよう。
じゃぁ、、3回目を読んでからコメントをしろってか?、、
いや、、だめだ、、4回目読んだらまた感想が変わるかもしれない、、、。
難解な文章のくせに、、興味部会、、あ!変換間違い、、興味深いテーマだ、、
困った、、、では、3回目突入しまっさ、、、

Posted by: 華文字 | 2007.06.23 at 06:23 AM

ば、爆発しましたでしょうか!?
我々は、知識が増えたせいで、理屈っぽくなっている点、いろいろ障害があるようです。
自己を見出しても、何も得しませんしぃ~。宇宙をまるごと手に入れるという程度ですから・・・

Posted by: Kay | 2007.06.24 at 04:46 PM

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