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2007.06.30

滅びの予感

英会話学校NOVAが断末魔である。
ここでも書いたことがあるが、あのようなテレビCMを製作する企業のポリシーから言ってロクなものではないと思っていたが、案の定証明されたようだ。

華原朋美さんがいろいろ大変そうだが、これも予想できた。
テレビで見る、彼女の常に下手な芝居をしているような不自然な話し方や態度は非常に抵抗を感じた。
中森明菜さんもそっくりであった。
あれは弱さを隠す脆い盾である。欲望産業である芸能界で生きるには、彼女達はピュア過ぎるかもしれない。

かなり前から、ソニーも終わりだと思っていた。
とはいえ、あれだけの企業であるから、没落にも時間がかかるだろう。
特に強く確信したのは、プレステ2のCMである。
知的で立派な大人が、喜びの表情をもってプレステ2の梱包箱を開き、楽しそうに全てを忘れてプレイする様子。あの異常さに気付かないものだろうか?

一見、明るく爽やかなイメージを出すサラ金のCMも同様だ。
いくつかの大手が、経営でもおかしくなっている。さらに悪くなるだろう。

まだ、はっきり表れないが、このままでは確実に悪くなるのがソフトバンクだ。
大女優キャメロン・ディアスが、CMで、自分さえ楽しければ良いという雰囲気で携帯電話で喋り捲る。路上で、スーパーで、子供が真似しているのにも無頓着で。
人間的に欠陥なものを平気で表現するような企業が無事で済むわけもない。
ボーダフォン買収の際、テレビ画面で、大量のVodafoneの文字がSoftbankに変えられていく映像を見た時もゾっとしたが、これは強者の理論であろう。勝てば敗者を好きにできる。そのくらいでなければ成功すまい。私はあまり好きではないが。

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2007.06.28

荘子

中国の賢者といえば、表向きには孔子が代表格で、孔子の言葉を編集した「論語」を座右の書とする人が著名人にも多い。
荘子は、孔子より百年ほど後の人物とも言われるが、いかにも学問の人であり、仁義礼知信を重んじた孔子とはかなり異なる。「荘子」の中には、明らかに孔子を揶揄する文章もあるが、逆に孔子を最大に評価する部分もある。
尚、「論語」は孔子自ら著したものではないが、「荘子」は荘子(荘周)の著作である。
「荘子」は膨大な書物であり、「内編」「外編」「雑編」に分類される。ただ、おそらくは、「内編」が荘子自らの手によるもので、「外編」「雑編」の多くは弟子など、後の人によって追加されたものであると思われる(異論もある)。「内編」だけであれば、1冊に収まる。
尚、邱永漢氏は、著書「私の荘子」(絶版と思う)の中で、孔子を含めた中国の古代賢者達の中で、荘子が一番知能指数が高いと思うと書いておられたのが面白い。
荘子の教えを一言で言うと、「なりゆきにまかせ、作為をするな」である。
なな、なんとである(笑)。
言い直せば、「ただ流れに身を任せよ」である。
さらに、「価値判断をするな」とある。分別もいかんとある。役に立つものになろうとするなとも・・・(笑)。
まさに、投げやりな人生、受身一方の人生を薦めるがごとしである。
しかし、「荘子」は実に奥深く面白い書である。
先にあげた邱永漢氏や竹村健一氏も、中国諸賢者の中で、おそらくは荘子が一番お気に入りのように感じる。

実際、「荘子」は本物である。
そして、私も荘子は天才というか、超人的な洞察力を持っていたことは間違いないと思う。
今でこそ、精神分析学や脳機能科学の助けを借り、膨大な数の優秀な方々の考え方を参考にすれば、私にだって荘子が言うことは分かる。
しかし、2千数百年も前に、なぜこのような真理を悟れたかは不可思議だ。

さて、荘子は「作為をするな」「役に立つな」「知を働かせるな」「価値判断するな」を繰り返す。しかし、「荘子」に登場する賢者達は、時には結構働いている。良いことを教えてもいる。
勝手に付け加えるなら、いかに「作為」を捨てても、人は何もしないわけではない。また、いろいろな出来事は勝手に起こる。
それで良いのである。ものごとは起こるままに任せれば良い。そして、何をしても良いが、自分が行為者であると思ってはならない。
このあたりが難しいところである。
例えば、犯罪を犯しておいて、「私が行為者ではない。何かが起こさせたのだ」と言って良いのであろうか?
実は良いのである。科学的にも正しいと思う。
犯罪者が犯罪を犯すのは不可避であった。これについて、犯罪者の生まれ育ちを調べれば、ある程度は納得すると思う。
では、生まれ育ちが悪ければ、その者はだめなのか?
そうとも言えるし、そうでないとも言える。犯罪者は、いかに更生施設に入り教育されようとも犯罪を繰り返す傾向が大きいことはご存知と思う。
そんな者に、自分が行為者ではないと言うと、いよいよ好き勝手に悪いことをすまいか?
しかし、行為者でないことが本当に理解できれば、犯罪を起こす必要がなくなる。よって素行が改まる可能性が高い。
それどころか、自分が行為者でないことが分かれば、悟りに至る道に入ったと言える。
ラマナ・マハルシと以下のような対話をした者がいる。
「彼は、日々の仕事を熱意と責任感を持って遂行しているように見えるかもしれない。また、偉大な仕事を成し遂げようとしている者がいるかもしれない。しかし、彼は実際には何もしていない。行為は、行為者であるという自覚を持って行わなければいけないという決まりはない」
「それではまるで夢遊病です」
「その通りだ」

では、勉強や、その他の訓練に身の入らない子供はどうすべきであろうか?
私は、放っておくしかないと思う。
もし、その者の傾向性が掴めるなら、向いたことをやらせても良いだろう。
しかし、放っておいても何かが起こるものだ。
その者をどうこうしようと思う者すら、実は自分が何をしているか分からないものなのだ。
なりゆきにまかせるのが一番である。

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2007.06.26

自己覚醒の方法。完全無料(笑)

では、ラマナ・マハルシの教えた自己覚醒の方法を説明する。自己覚醒とは、つまるところ、悟りを開いたり、宇宙と一体になったり、神になることと思えば良い。
マハルシの方法に版権はないので、無料で勝手に教えても良い。
また、Webサイト上によくあるように、「誰でもできる効果抜群の方法はこちら」なんて騙しをする気もない(笑)。真に良いものは無料である。

マハルシの言った方法は簡単だ(簡単過ぎる)。「私は誰か?」とひたすら自分に問えば良い。「さあ、やれ!」って、誰がやる(笑)。
修行や訓練なんて、「黙って言われた通りにやるものだ」と言う者もいるが、それは相手が子供の場合だ。良し悪しはともかく、大人であれば、ある程度は頭で納得しないとやれないであろう。

尚、自己覚醒の条件とは、心の沈黙である。
聖書にも「心を鎮め、自分が神であると知れ」と書いてあり、そのこと自体は良いのであるが、どうやって心を鎮めれば良いか書いていない(いいかげんだなぁ)。
心が消え去った状態は、無我と言う。人は、心を自己と同一視するから問題が起こるのである。フロイトも、心は幻想であると言っているが、脳機能科学的にも正しい。
この説明は長くなるので、ここらで切り上げる。

マハルシは、この自己を問う方法以外に適当な方法はないと言った。
ニサルガダッタ・マハラジは、マハルシの方法を肯定しているが、別の方法も教えている。それでも、マハラジはマハルシに欠点があると言っていない。
どちらが良いかは気質によるが、別にどちらでも良いと思う。今回はマハルシのものだ。

ところで、マハルシは「私は誰か?」と問えば良いと言ったが、マハルシはインドのある地方の方言で話したはずだ。これが正しく、「私は誰か?(Who am I?)」という日本語の意味になるかどうかは注意した方が良いかもしれない。
とはいえ、ここでそのようなことを検討する方法もない。
結論として、私は、「私は誰か?」より、「私とは何か?」あるいは「私とは?」と問う方が良いと思う。
「誰」という時、我々は当然、人間をイメージするはずだ。人によっては、神や神霊、あるいは天使や妖精といったものも含むかもしれないが、そのいずれも良くないのである。それらには先入観があるからだ。
そのために先入観の入りにくい「何」の方をお薦めする。

問い方は、声に出そうが、心の中で問おうが構わない。しかし、普通は心の中で問う方が便利だろう。
ではなぜ、「私とは何か?」と問うと自己覚醒に至るのであろう。
これに関しては、マハルシとマハラジは異なることを言っているように思われる。実際には全く同じなのであるが、表現が異なる。

マハルシの説明はこうだ。
あらゆる想念の中で、最も最初に起こる想念は「私」という想いだ。
何かの想念が起こった時、その想念は誰に起こったのかというと、それは「私に」であるに決まっている。
想念がある限り、「私」が存在しているのだ。
想念の大元である「私」に想いを固定すれば、他の想いは消えてなくなる。

マハラジの説明はこうである。
心に「私とは何か?」と問うても、心は答を出せない。なぜなら、その答えは、心の限界を超えているからだ。
言い換えれば、心は、自己が何であるかを見ることができない。なぜなら、自己は心ではなく、心を超えたものであるからだ。
よって、自己を問い続けると、その問いは意識を心の果てに連れて行く。

ただ、これらは、言葉で説明できないことを、敢えて言葉で述べただけに、どこかすっきりしないのは仕方がない。

いずれにせよ、簡単である。「私とは何か?」あるいは「私とは?」と常に問えば良いのだ。
就寝時にベッドの中でやると、あっという間に寝てしまうが、それで良い。

さて、これでやるかやらないかはもちろん自由だ。
「そんなことをやってどんな得があるか?」というと、何も得をしない。昨今、書店に沢山ある本のように「ツキが恐ろしいほどやって」きたり、「素敵な人を魔法のように引き寄せ」たり、「お金が不思議なほど入る」なんてことは絶対にない。ただ、それらの本に無関心になるだろう。大金持ちのハデな占いオバさんに「アンタ、死ぬわよ」と言われても、彼女が滑稽に思えるようになるだろう。
では、「それをやることで何の効果があるか?」というと、恐ろしい効果がある。
何事であれ同じであるが、敢えてやってみた者だけが素晴らしい体験をするのだ。
無料で危険はない。
ただ、この方法がうまくいかない場合がある。それは、心が十分に強くなく、集中力がない場合だ。
これは、根本的には心が鍛えられていない場合である。言い換えれば、心が柔軟であるという意味でもあるのだが、自己覚醒には心の円熟も必要だ。具体的には、世間で働いて、心を鍛えるのが一番だ。勉強やスポーツに励むのももちろん効果的だが、世間で鍛えられることに比べればあまりにたやすく、必要な心の強さには足りないであろう。例外として、極めて若い学生でも自己覚醒できる場合があるが、やはり例外である。
心も身体も超え、時間も空間も超えた自己である体験・・・いや、体験も超えた存在となっていただきたい。

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2007.06.24

デートの鉄則

デートが下手な女の子が多いですね。親が教えていないというよりは、親の性格そのままかもしれません。
デートでは、わがままと同時に、相手にまかせっきりが絶対よくない。仮に相手にまかせるなら、相手の意思(遊びや食事)を全く自分の意思とすることです。もちろん、相手の好みが自分と正反対ということもありますが、その場合は別れた方が良いです。

ところで、神様相手のデートも似たようなものです。拒否されることを承知で自己主張するか、神様の意思を全て自分の意思とすることです。これは決して、神様の思し召しに従うという意味ではありません。
尚、神様は無限の意志を持ちますので、性格不一致の心配はありません(笑)。

20070624

珍しく笑顔の絵です。そして、これも珍しく色付きです(笑)。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2007.06.22

私とは何か?

昔から、「私って何?」「私は誰?」といった奇妙な質問が絶えたことがない。
「ソフィーの世界」も、そんな問いから始まっている。
しかし、誰が自分とは何かを見出しただろう。膨大な数の「ソフィーの世界」の読者も全員ダメだったはずだ。
なぜだろうか?
私が何であるかの発見は究極のものであり、もしそれを望むのなら、それは他のあらゆる欲望に優る。
人は、ちょっとした望み、例えば、車が欲しいとか、痩せたいとか、あの人と結婚したいとかいったものですら、一度望めばなかなか忘れず、かなりの時間想い続けるものだ。
しかし、最大の望みであるはずの「私は何か?」が思い出されるのは、たまたまその疑問を持った一瞬だけである。例え「ソフィーの世界」を読んだとしても、それを考えることは、他の望みに比べ不当に少ない。
それでは、自分が何か見出せるはずがない。

しかし、自己を常に問い続けるなら、必ず見出せる。それは、爆発と驚きの中で知ることである。
問題は、自己を問う激しい情熱が持てないことだ。たかが車や美しい少女であれば熱心になるのに、最も重要な自己に関してはなおざりというわけだ。
自己を問う情熱を持つには、全てにうんざりする必要がある。ただし、全てにだ。普通、「何もかもいやになった」という者は、本当は何かの俗っぽい欲望を持っている。単に、あるものは好きだが、あるものは嫌いであると言っているに過ぎない。

芸術家と単なるクリエイターの違いは、芸術家は自己を探求しているだけだということだ。
まさか芸術家が、他人が見てきれいと思うものを作ったりはしない。むしろ醜いものを作るはずだ。
だが、芸術家も最後の爆発に至ることは少ない。どうしても欲望が振り切れないからだ。

言葉で言うなら、自己とはただの観照者だ。これを常に自分に言い聞かせていれば心は純粋になる。
ただ、こう言われても、なかなか納得しないだろう。
しかし、脳機能科学によれば、それが正しいことが、おそらくは1950年代には解明されていた・・・大人相手にはこういう言い方でないといけない。
フロイト精神分析学では、観照者としての自分は語られないが、現象としては同じで、心とは幻想であるとしている。
自然の風景を静かに見ている時、自分が観照者であることを認めるであろう。しかし、「ただの」観照者であるとはどういうことであろうか?
その自然の風景は美しいかもしれない。例えば、紅く空を染める夕焼けであれば感動するかもしれない。それを愛する人と見ているのであれば、至高の美と感じることもあろう。しかし、美しさに感動している感情ですら、それをただ観照しているのが自分なのである。
「美しいと思う心。これが自分だ」というのは、最も陥りやすい大誤解なのだ。単に、脳の中に感動回路があって、それが作動しているに過ぎない。これは、深遠な哲学としてなら、なかなか理解できないであろうが、単に脳機能科学の教える事実である。

※参考書籍「脳はなぜ心を作ったのか」(前野隆司著 筑摩書房)
※尚、この本の全てが正しいとは言わないが、心が幻想であることは無理なく説明されている。

自分がただの観照者であることを常に自分に言い聞かせれば、心は静まり、ものごとは自然に正しく進むようになるだろう。
だが、観照者としての自己が究極ではない。
しかし、これ以上進めると、宗教や霊魂のような話になりやすい。何らかの超現実的な概念が必要になるからだ。だが、原初、針の先よりも小さかった宇宙が出現する前に、何らかの意思、あるいは、意識のようなものがあったのではないかと言われることもあるし、生物にしてもDNA構造が完全に解明されたとしても、それを基にどう生命活動が行われるかは何も分かっていない。
しかし、確実に言えるのは、観照者である自己が存在することだ。結局、言葉で到達できる真理はここまでだ。
とはいえ、観照者である自己が存在するという意識は最も純粋な意識だ。いや、自己は観照者に過ぎないのだから、自己が存在するという意識は最も純粋だと言うべきだ。
そこには、学んで身につけた観念が一切ない。その純粋な意識にとどまると、観照者である自己もその中に溶け去る。その後、爆発が起こるのだが、それはどうにもこうにも言葉で言い表せられない。
その時に人は、神様になるというか、神を超えることになる。
ただ、あまりに若いうちは、しっかりと自己を確立する必要がある。後には邪魔になるかもしれない自我であるが、一旦はそれを強固に逞しくする必要がある。そのためには、世俗的活動が大いに役に立つ。特に熱心に仕事に取組むのが何よりだ。

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2007.06.20

文学作品と漫画・アニメの違い

かなり以前から、男性の中に、本物の女の子よりアニメやゲームの美少女キャラを好む者がいましたし、現在はそんな男性が急増していると聞きます。
これを聞くと、現実の彼女がいる男たちが蔑みの笑みを浮かべて言います。「やっぱり本物の女の子の方が絶対にいいぜ」。そして、大抵は誰でもその通りと思うでしょう。
しかし・・・見逃していることがあります。
それは、「本物の女の子」もバーチャルであるということです。
養老孟司氏の「唯脳論」でも読めばよく分かるのですが、人間にとって現実とは、単に脳内のバーチャルイメージに過ぎないわけです。
物理学的に言っても、女の子の顔形、スタイル、肌や髪の色といったところで、単に光子という電磁波の反射物を目で捕え、脳が脳のやり方でイメージ化しているに過ぎません。
音もそうです。単なる空気を媒体とした波動を耳の器官で捕え、やはり脳内で脳の方法で再現したに過ぎません。触覚、嗅覚もしかり。いずれも、驚くべき機能であることも確かですが、あくまで脳が構成したバーチャルイメージでしかないことでは、現実と呼ぶものも、アニメやゲームの映像も同等です。
そして、アニメの女の子より、生身の女の子の方が価値が高いというのも、1つの思い込みに過ぎません。
実際に、アニメやゲームの女の子の方が、現実の女の子よりリアルに暖かく感じたとしても、別段不思議なことではありません。
優れた小説では、そこに登場する少女に、現実の少女に対するよりはるかに強い愛情を感じるというのは、特に珍しい話ではないかもしれません。
また、確かに、アニメやゲームの女の子の映像の進歩は凄いですね。今後、まだまだ進歩するでしょう。
私は一切のゲームをやりませんが、アニメやゲームの女の子に欠ける点は、おそらく意外性のなさでしょう。かなり制限された範囲内の感情表現や行動をしていると思います。しかし、優れた小説(もちろん、漫画でも良いですが)の場合は、その意外性があります。
ここらが文学作品と一般的な漫画やアニメとの違いと思います。

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2007.06.19

ニートと子供の教育の関係

私は、引きこもりは良いがニートは大問題と思っている。
引きこもりは、自己を深く見つめることにもつながり、大変に良いことかもしれない。しかし、その良さも、仕事をしない限り腐ってしまうはずだ。
引きこもりとニートを同一視する向きもあると思うが、引きこもりでも働いている人はもちろん沢山いるというか、それが当然である。

ところで、なぜニートがこんなに増えたかというと、その根本的な原因は教育である。
本質的には家庭教育であるが、現実的には子供達は異常なほどの時間を学校に拘束されているのだから、学校の責任も大きい。
子供には、小さい時から、遅くとも大学卒業時、通常は二十歳になれば家を出るものであることをしっかり教える必要がある。
いくら二十歳過ぎたからといって、ある日突然に「家を出ろ」と言われてもそれは困るであろう。しかし、幼い頃から言い聞かせれてあれば、二十歳になる前から準備し、ごく当たり前に家を出るであろう。基本的には必要な費用は子供自身がバイトなどで貯めておくべきであるが、まあとりあえず、調度品や多少の費用などの面倒を親が見るのはいいのではないかと思う。しかし、それ以降の援助はあってはならない。子供が成人してから後は、親の金は親自身のために使うべきである。

いい年をして、いつまでも親の家に住んでいるのも確かにおかしいが、これは親も悪い。小さい時から、大人になれば家を出るのが当然と言い、自らも考えていないといけない。親も、子供に身近にいて欲しいと思う気持ちもあるかもしれないが、子供は家を出た方が早く立派になり幸福になるのである。
大人になっても家にいるなら、それは、その家の子供の立場ではなく、あくまで居候である。全てにおいて親が優先される。それまで自分の部屋だったものを取上げられても当然だし、テレビが見たければ自分で購入して見るしかない。また、電話を使うなら、自分で引くべきであろう。
言うまでもなく、食費、部屋代、光熱費は支払う必要がある。早い話、それなら家を出た方が良い。

考えてみれば、大学に入るとき、親に「大学に行かせて下さい」と頭を下げて頼む者がどれだけいるだろう。しかし、そうでないならおかしいのだ。いまどき、国公立大学でも学費は莫大であり、本来は親が楽しむべき金の大部分を使うのだ。
ところが、いまや、「頼むから大学行って」と親が子供に頼むということが異常であることにすら気が付かないようだ。
普通は、子供が少々頼んでも、親はそれを何度も突っぱね、それでも粘って大学に行きたがった時にのみ許可するようなもののはずだ。
大学生はよくバイトするらしいが、稼いだお金を全部自分の小遣いにする者が多いなどは呆れてものが言えない。大学生であれば、少なくとも月3~5万円は稼ぎ、可能であれば授業料を親に返還するのが好ましいが、少なくとも、服や昼食を含めた小遣いは、もはや親に迷惑をかけるべきではないだろう。

現在の若者は甘え過ぎているが、先にも書いたように、ある日突然厳しく放り出されても困るであろう(困るが対応不能とも思えないが)。
やはり、小さい時から、成人すれば親に頼れないことや、家を出て当然であることをしっかり教えておけば、ニートがこんなに増えたりはしないはずだ。
ニートの多くは、親が専用のパソコンやテレビ、あげくゲーム機まで与え、さらになんと小遣いまで渡している場合も多いと聞く。そして、これが続けば、ニートの方もそれが当然と思い、年を取り、自分の老い先も不安になった親が援助を打ち切る話をすると暴力を振るうことも多いようだ。
ニートには、食事と最低限の衣服はまあ仕方が無いとしても、それ以上を与えてはいけない。楽しむためには、自分で金を稼がないといけないことをしっかり教えないといけない。

ニートの職業訓練なども実施するところもあるらしいが、はっきり言って、さほど効果的ではないだろう。実際に働く中での常識や、場の読み方の勘どころが重要であり、訓練で習得したことなど、実際の職場では数十分から数日で身に付く。それどころか、訓練で教わった内容の修正にかえって時間がかかることもある。
どんな職業でも、最初は何もできないので、せめて先輩の使用人として役に立つしかない。期待されるのは当然、頭脳ではなく体力と素直さである。これは、若いうちならちょっとの精神的な抵抗を感じるだけでやれるものであり、逆にいえば、そうやって実体のないプライドをいったん壊す必要がある。しかし、少し年をとれば、もはやそんなことに耐えられなくなる。35歳までまともに働いたことがなければ、もはや終わりと思う。
子供の教育とは、博士や大臣になるために必要なのではなく、当たり前に生きるためにこそ重要である。

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2007.06.18

愚かな女

若い女の子に有益な話をする。
自分がはしゃいでいる姿が、男にとって可愛かったり魅力的に見えるなど、ゆめゆめ思うなかれである。
これがモテない女の子の最大の特徴なのだ。モテない女の子ほど、好きな男の前で大袈裟にはしゃいで見せる。醜悪の一言だ。
あんたがはしゃいでいる姿を見て楽しかったり、可愛いと思うのは、あんたのお父さんだけだ。せめてお父さんを大事にして欲しい。
よほどの美少女であれば、確かに何をしても可愛いし魅力的かもしれない。しかし、そんな美少女であってすら、13歳も過ぎてただはしゃぐ姿は魅力を半減させる。ましてあんたなら・・・(察して欲しい)。
こんな女の子のクセは一生直らない。自分が楽しそうな姿、おいしそうに食べる姿が良いものであると思っている愚かな女が多い。昼間の喫茶店やファミレスで、おばさんの集団に行き当たったら、思わず日頃の自分の行いが悪かったのかと反省するはずだ。サバトと思って諦めるしかあるまい。
女の魅力は、自分ではなく、相手を楽しませる時に輝く。これが分かれば、嫌でもモテるオンナになるであろう。

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2007.06.17

「ロリータ」は何が問題か?

よく、悪いことをした後で、「なぜ自分がこんなことをしたのか分からない」と言い訳する者がいますね。
ところで、なぜ自分がそうしたのか分かる人間なんていないのですよ。
信じられなくても事実です。
だから、自分の行動の動機が分からないことが罪の軽減になる理由にはなりません。
実際は、何を良いとし、何を悪いとするかは難しい問題です。しかし、その行動がどう評価されるものであろうが、行為者は自分の行動の原因や動機など知りません。
もし、「いや、知ってる」と言う者がいあたとしたら、それは、知ってると思ってるだけです。実際には知りません。

「ロリータ」という有名なアメリカ文学があります。著者はナボコフというロシア名で、確かにナボコフはロシア生まれですが、アメリカに住んでいました。
性的倒錯者、早い話が変態のおじさんのお話なのですが、世界的文学作品です。
この作品の主人公、変態おじさんハンバートは、9歳から14歳の美少女(当然、好みのタイプの場合ですが)が大好きです。
ハンバートはこう考えるべきでした。「幼い少女が好きと私に思わせているのは何だろう?」。彼の問題は、少女が好きなのは自分そのものであると誤解していたことです。事実は、単にそう思い込まされていただけなのです。何にかと言いますと、自分の脳にです。
「ロリータ」というのは、一部の人達が誤解しているようなラブ・ロマンスでは決してありません。代表的な人間の愚かさを鮮明に描いてみせた傑作です。そして、現在では、その愚かさも理解できるべきものと思います。

20070617_3

日曜日恒例のラクガキです。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

ところで、「ラクガキ」というのは、手早く描くかどうかは別として、本来、思いいれのあるものでしょうねえ。
ラクガキを宣言する割には、それが足りないかもしれません。

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2007.06.15

ITスキル向上のために何が良いか?

50年くらい前と比べても、一般的には世の中なんてそんなに変わってはいないと思うが、ことITに関しては劇的に世界を変えていると思う。それは、車が空を飛ぶといった変化ではなく、人間の基礎的な能力を増強する形で貢献しているのである。
しかし、一般の人のITスキルはあまり上がってはいないと感じる。
e-mailやWebを存分に利用しているのは確かだが、だからこそ、ITの本質を理解していないひずみが現れ、おかしなトラブルが起こる。
では、IT教育は何を主眼にやれば良いのだろうか?

昔、パソコンの普及が本格的になってきた1990年代、日本でも遅れ気味だったパソコン教育が行われるようになった。
ここで行われた教育は、小学校~大学まで含めてほとんど悲惨だった。パソコンは机上の学問ではない。実践が大切であるが、そのような教育を本の勉強しか知らない学校教師にやらせて成果があるはずがない。
教師自体も、パソコンに自信がないと正直に表明した方が多かったが、パソコンは勉強して自信が付くものではなく、実際に役立たせて初めて理解できるものであるのだから当然である。
小中学校では、退屈なパソコン操作やタイピング、ワープロやお絵かきみたいなお茶を濁した教育が行われ、大学ではプログラム教育なども行われたが、どれもやらない方がマシなものばかりだった。

ところで、大学での一般教養としてのパソコン講義でプログラミングを教えたことも批判された。
しかし、ITの理解には、どう言ってもプログラミングが最も良いのである。ただ、そのやり方が問題だ。紙と鉛筆でやってもできることをコンピュータでやっても意味はない。やるからには、コンピュータでないとできないことをしないといけない。それは、別段、難しいテーマでなくても良い。例えば、30万円で、2800円のTシャツと4300円のYシャツを200円残して買うには何枚ずつ買えば良いかなどである(これ、紙と鉛筆でできる?)。
また、コンピュータでしか出来ないとはいえ、その場では楽しそうなフラクタル図形を表示させても、フラクタル自体の意味が分からければ意味はないのだ。
昔は、パソコンに漏れなくBASIC言語のインタープリタが付いており、これをうまく使えばITの理解を深めることは可能であったのだ。少なくとも、大学生においてはそうである。
BASIC言語は、そのような目的でダートマス大学のジョン・ケメニー、トーマス・カーツの両数学教授によって開発されたものだ。これは主に、文系学生のコンピュータ教育に使われた。これは後のパソコンのBASICとは比較にならない程使いにくいものであったが、成果を上げていたのである。

ただ、現在のパソコンにはBASICは付いていないし、パソコンでできる面白いことがいくらでもあり、地味なプログラミングをやろうと思うことはないと思う。
それでも、プログラミングをやってみることの価値はある。
BASIC言語なら、十進BASICという素晴らしいものが無償公開されている。
BASICは教育用に良く出来ている。
Perl言語も良いと思う。英語サイトだが、ActivePerl(アクティブ・パール)がリンク先で無償で入手できる。
実用性ではPerl言語であるが、基礎的なプログラミングの理解という意味ではBASICを薦めたい。Perlは強力過ぎて、初心者では本質を見失うと思う。
WordやExcelにはVBAという、VisualBasic(ビジュアル・ベーシック)互換のBASICが付いているが、あまり学習には向かないと思う。最近のVisualBasic.Netも無償で使えるが、こんな巨大でややこしいものを初心者に薦める気はない(VBAでも巨大過ぎる)。
もちろん、Javaも無償だが、やはり初心者には向かない。C系言語もマイクロソフトやボーランドが無償の処理系を公開しているが、やはり同様である。

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2007.06.14

本が足りない?

たまたま見ていたテレビであったのだが、ある小学校で、予算不足のため、図書館に置く十分な本が買えないという問題を取上げていた。
数が十分でなくて、コピーを取ったり、古い本しかなくて、最新の情報でないとかだった。
何人かの子供のインタビューもあったが、その中で女の子の生徒が現状の不満を言うのだが、いかにも自分が被害者であるような雰囲気であることが気になる。やらせとまでは言わないが、子供にそんな返答を期待する雰囲気はなかったか?あるいは、他の子供のインタビューもあったが、わざとあのようなものを選んで放送したのか?

本がないといっても、図書館にはそれなりの本があった。
本が足りないならコピーが使える。いったい何が不満なのだ?
すでにある本は十分に読んだのか?
新しい本がなければ何もできないのか?
考えれば考えるほど、何の問題もないことが分かる。

大島弓子さんの漫画だったと思うが、こんな短編があった。作者自身の子供時代の回想である。小学校も低学年の頃と思う。
その頃は、教科書を持っていない生徒もいたらしい(半世紀以上前の話だ)。
ところで、隣の席の男の子の教科書がちょっと変わっていた。なんと手書きの複製であった。当然、コピーなどない時代だ。それが、全ての教科書が、挿絵まで含めて見事に書き写されていて、非常に驚かされたようだ。
聞くと、お父さんが書いてくれたと言う。
教科書についてはそれ以上聞かなかったらしいので、詳しいことは分からないが、私は常識的な想像をした。
彼の家には、教科書を買うお金がなかったのだろう。
そこで、彼のお父さんは、教科書を持っている家を探し、親にそれを貸してくれるよう頼んだのだろう。子供と同じ学年の子供がどこにいるのかはすぐに分かったのだろうか?そして、頼めばすんなり貸してくれたかどうかは分からない。貧しい人間の頼みでもある。父親はペコペコ、いや、地面に頭をこすり付けて頼み込んだかもしれない。それでも、何度も断られたかもしれない。
なんとか貸してもらえたとしても、そんなに長い時間貸してくれるはずがない。ひょっとしたら、1つの家庭ではなく、いくつかの家から借りた可能性もある。
父親は、仕事の後に複製にかかり、不休でがんばったはずだ。子供が見たこととはいえ、見事な複製であったことから、父親はスピードだけでなく、できるだけ本物そっくりになるようがんばったことが分かる。睡眠時間をかなり削ったことは間違いがない。
小さい子供とはいえ、それを使って勉強する気持ちはいかなるものだったのであろう?

昔であれば、国民全体が貧しく、一般家庭では本のような生活必需品でもないものを買うことはなかなかなかったと思う。生活必需品すら不足し勝ちのはずである。
そこで、子供たちは、図書館や書店で本を見て憶え、家に帰って書き写すということをよくやったらしい。有名な南方熊楠は驚異的な記憶力で、完璧な複製を作ったらしいが、逆に言えば、こうやって記憶力を鍛えたとも言えるかもしれない。そして、当然知識も付くわけである。彼は、イギリスなどに留学した時も、図書館を利用し、複製作成に励んだらしい。
特に貴重であった辞書を複製したという話はよく聞く。勝海舟も、オランダ語の分厚い辞書を複製したが、それを貸してもらえるまでがまた大変であった。
これらの者たちは、本を豊富に与えられる現代の人たちに比べ劣るであろうか?むしろ、全く逆と思う。

かくいう私は、小さい頃から文学全集を用意してもらうなど、本の獲得に苦労したことはない。ただ、読まなかっただけだ^^;
よって、あまり説得力はないが(笑)、最低限の服や食べ物ならともかく、本を買ってもらえないこと、それも必要な本は与えられているのに不満を言うことなど容認するわけにはいかない。

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2007.06.13

NTTはどこかの国の下僕か?

NTTのフレッツ光(光ファイバーインターネット接続サービス)のテレビCMを見た。
非常に問題だ。誰の企画か知らないが、思慮の無さにも程がある。(単なる馬鹿かもしれないが)

小学5年生くらいの男の子が、父親に「飛行機雲はなぜできるの?」「世界にはいくつ国があるの?」「世界一大きなカブト虫は何?」と質問し、父親が困って黙る。
要はこれらをインターネットで調べれば良いとでも言いたいのだろう?

で、何が馬鹿なのか?
子供にこんなことを聞かれて黙る父親である。
そして、聞けば答を得られると思い込んでいる子供である。
私は、こんなに大きくなっているのに、無邪気な顔でこんなことを聞く子供を殴ってやりたい(半分冗談)。

父親はものしり博士ではない。上のような質問に答えることができない正当な理由を言ってやれば良い。
「世界にいくつ国があるか?」と聞かれたら、「お前はいくつ知ってる?」と聞き返せば良い。そんな質問に200とか答えても、それこそ意味がない。子供は、日本や、せいぜいが多少イメージのわくアメリカみたいな国が200あると思うだろう。
国の数より重要な問題があることを教えてやれば良い。
子供にとっては予期せぬ答かもしれないが、質問された通りに答えれば良いというものではない。

このテレビCMを作った人も、学校教育に毒されているのだろう。
そして、架空の存在であるが、一般的な姿と思われる小学生とその父親も。
単純な答えの存在する問題にしか関心がなく、その答を管理者が知っていると思い込んでいるのである。さらには、それが進むと、何にでも単純な答があると思い込み始める。

それとも、NTTもアメリカか中国かは知らないが、日本人無能化作戦(え?今以上に^^;)の兵隊に成り果てているのかもしれない。可能性は高い。

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2007.06.12

私を騙すのは私?

面白いものをお見せしよう。

北岡明佳の錯視のページ

トップページの沢山のグルグル模様が回転しているのが見えると思う。
しかし、こう言われると驚くと思う。
「本当は動いていない」
実際、これは本当に動いていない。

これが「錯視」である。
私は錯視という言葉自体知らないのだが、こういう説明ができると思う。
もちろん、目でモノを見るのであるが、それを映像として認識させるのは脳の働きだ。
つまり、脳が騙されていると言えるが、「脳に騙されている」とも言えるだろう。

我々の感覚というものは、このように頼りない部分がある。
ところで、このように騙されるのが感覚だけかというと、そうでもない。
例えば、決意や決断は人間の高度な能力のはずである。
「バイクを買うと決めた」
「迷ったが、入学するのはA大学にしよう」
「B子を恋人にする。A子はやめよう」
これらの決意も、脳に「決めさせられている」だけかもしれない。それを、あたかも自分で決めたと思っている。
しかし、「私」というものは脳による意識・思考ではなかったのかと多くの人は考えるかもしれない。別に魂のようなものを持ち出すつもりはない。脳の一部の機能が意識を生じさせ、その意識を別の部分が騙したと考えれば良い。
決意が、意識以外のものに強制的にさせられているというのは有りえる話である。
脳機能科学の実験によれば、腕を動かそうと思うよりも早く、脳の運動を司る部分が腕を動かす司令を出すらしい。それを、自分が腕を動かそうと決意したのだと錯覚しているだけらしい。(※参照「脳はなぜ心を作ったか」前田隆司著)

感覚も心も全て幻想であるかもしれない。
フロイトも、心は「人間の壊れた本能」の代替物と考え、幻想であると言ったが、全く違う意味である。
私自身は、人間の本能が壊れているとは思っていない。性行為を教えられなかった子供が、本能で性行為をしないことを、人間の本能が壊れている証拠という者もいるが、これは人間はその繊細で複雑な神経系の影響を受けやすいというだけのことである。

人間が自分だと思っている「私」は、脳から生じながら、感覚も知性も脳に騙されている。そんな「私」とは何であろう。
デカルトは賢明ではなかったろうか?彼は、知覚も知性も全て疑い、結局確かなのは「疑っている我が存在すること」だけと言った。デカルトにも間違った部分も当然あるが、彼の時代の偏見や情報入手の困難さ、そして基礎的な科学の未熟を考えれば、やはり彼は最高の賢者と思う・・・いや、私は、そう思わされている(笑)。

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2007.06.11

リーダーの条件

政治でも会社でも学校でも、統制や管理がうまくできていないことへの文句が絶えたことはない。
しかし、これは、勘違いというか、人間を理解しない者のたわごとだ。
あまり大きな規模では分かり辛いが、職場や、あるいは遊びのグループを考えてもらえば分かるが、ものごとは「声の大きい者が勝つ」のである。

「禁断の惑星」という1950年代の傑作SFで、アルテア第4惑星に住んでいた博士と、そこを調査にきた地球の宇宙船の船長とドクターが、この惑星の昔の住民(人類をはるかに超える文明を持っていたが滅びた)が残した装置で知能を計測する場面がある。
IQ180のドクターも、ここの先住民の幼児に及ばない。船長の知能を測った博士は、「リーダーというのは大きな声が出ればいい」と言う(つまり、大した知能でなかった)。
あまりにさりげないシーンであったが、実はこれが真理だ。
そもそも、人間の脳そのものが、そんな性質を持っているらしい。考えれば分かる。面白いアニメを見ていても、部屋の中が炎で染まれば逃げるだろう。何も理性が知的に判断して逃げるわけではなく、「逃げろ」という衝動が起こって逃げるのだ。その衝動は、アニメの名場面にも優る、つまり、「大きな声の指令」なのである。

声の大きな者の不合理を、声が小さい者が論理的に突くことで撤回させるという場面もあるかもしれない。しかし、それは一時的だ。
「国民の声の大きさ」という言葉の通り、論理ではなく、声の大きさが必要だ。
TVシリーズの「宇宙大作戦」では、カーク船長の白熱の演説が敵を説得する場面が多かったが、あれも、カークが正しいというよりは声が大きかったからうまくいった。「論理的」なスポックは、決してカークにとって変わろうとしなかったのだ。それがスポックの「論理的」でもあったのだと思う。

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2007.06.10

永遠の生命

20070610_1

悪魔さんと少女です(笑)。絵をクリックすると、大きな絵がポップアップで出ます。
「お前の命はこの炎のように儚い。私がお前に永遠の命と若さを約束しよう。そのかわり・・・」
なんて言ってるのかなあ。昔からのパターンですね。古いよ悪魔くん(笑)。
いえ、下手なマジックを見せるおにーさんと少女という設定が、少女が怯えの表情になり、おにーさんがあまりに怪しくなったのは、私の邪まな潜在意識というか、ニューラルネットの仕業か(笑)。

最近のテレビCMを見ていると、オバさんに若さを与えるような期待をもたせる気色の悪いものが多いですね(笑)。綺麗になれるかどうかは知りませんが、50歳を21歳にすることはできないのですよ。
また、若い女性向けの雑誌を見ると、それこそ女性自身が男向けの商品になりたがっているようにしか思えないし、その結末が女子高生というか、女子中学生を目指しているようにしか感じられない。
なぜそこまで女性の知性を低下させようとするのか?やはりどこかの国の陰謀かなあとマジに疑っています。

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2007.06.08

傭兵に学ぶ子供を護る知恵

本や学校で学んだことが役に立つことはない。
そんな学び方しかしていない者が、人にモノを教えても意味がない。むしろ、教える弊害の方が問題であるので、教えさせないことだ(これを徹底すると、学校教師の大半は失業するが)。
良い知恵を持った者とは、それを得るに相応しい経験をした者だ。その中でも、生命の危険のある中で厳しい仕事をした者の知恵はかなり価値がある。
生物としての生命の危機は、頭脳や身体の覚醒をもたらす可能性が高いが、次に良いのは精神的な生命である自我を危機にさらすことだ。つまり、自尊心や自負心が全く通用しない世界で鍛えることだ。
例えば、セールスマンをやればいい。それもフル・コミッション、即ち、売らなければ1円も貰えない方式が良い。テレビの保険のCMで見るような、お客様の家で暖かく迎えられ、悠然と商品の説明をするセールスレディなど全くの幻想であることが分かる。
フル・コミッションのセールスマンは、自己の力を簡単に知る良い仕事だ。いくら本を読み、また、いくらがんばっても、売れなければお金は貰えない。貰った額がそのまま、人間としての能力であり価値だ。商品が悪い、客が悪い、天気が悪い、病気だった・・・等々、何の言い訳にもならない。単にアンタが無能という以外何もない。
これは、基本的に自営、あるいは、会社経営と同じであるが、資本も準備もなく、誰でもすぐに体験できるところが良い。

最高の経験となると、軍隊、それも、活躍が絶対条件である傭兵(雇われ兵)がその1つだろう。
そう思っていたら、米国で傭兵、ボディーガードを長年勤めたテレンス・リー氏(日本人)の書いた「誰が子供を狙うのか」という本を見て、やはり感服した。
京都の学習塾で、講師に殺された小学6年生の女の子の事件について語っていたが、塾はもちろん、学校でもおかしな教師がいたら、子供が学校を変わるべしという考え方に私も深く同意する(現状ではという意味だが)。確かに考えてみれば、学校や教師が悪いのに、子供が友達や、家に近いという便利な条件を捨てて転向するのは損な気がする。しかし、致命的な被害に遭うよりはるかにマシである。
学校の中にロリコン変態の男性教師は必ず少なくとも5~10人はいると考えるべきだろう。変態の定義は確かに難しい面もあり、その意味を広げれば誰しも変態であろう。ここでは、常に好みの相手を欲望の対象とし、欲望を果たすチャンスを狙い、そのための自発的な行動にも自制のない者としておく。運悪く、このような教師が担任になれば、その教師と支配、隷属の関係の中で1年間狙われると思えば良い。運悪くとは言っても、宝くじに期待する人は多いが、その数万倍の確率でヒットするという現実に目を向ける必要がある。
ならば、こちらから逃げるしか方法はない。
だから、いじめ問題も含め、生徒は学校に行かない権利も必要であり、また、単独で安全に過ごせるようにしてあげなければならない。もちろん、あらゆる行動が無制限に許されるわけではないが、いじめは、集団行動が強制される中では逃れようがないのである。
見るからに無能なリーダーを頂く政府が、アホな教育改革を進めようとしているが、これ以上学校に拘束される時間を増やしてはならない。未履修問題で騒がれたが、無駄な授業や科目が多過ぎるだけである。
中学2年から一度も授業を聞いたことのない平均的頭脳の私が何ら困っていないのだから、学校の膨大なカリキュラムは、政府や教育関係者の都合で存在するのであろう。
まあ、私より、何かと話題の斎藤一人さん(会社社長。長者番付上位常連)が、中学時代、教師に「勉強しないと困るぞ」と言われたが何も困らなかったと言っていることも参考になる。斎藤さんはずっと劣等性で、高校には行っていない。(尚、私は、斎藤一人さんの本は、最初の1冊以外は無駄と思っている)
おそらく、算数と国語と理科が最低限分かれば、後は興味のあることを勝手に勉強するだろう。私の場合、算数を親と姉に適当に教わっただけで、教師に教わって分かったということは全くない。興味のない科目は全くやらず、それでいろいろ苦しい立場になることはあったが、そこそこの大学までは入れた。
もっと上級生と下級生が接触できるようにすれば、上の子が下の子に勝手に教えるだろう。
で、今は、この最低限の算数と国語ができない大学生が大勢いるのであるから、いかに学校教育が無駄であるかが分かる。そして、学校教育を避けた私が正解であったと言って良いであろう。
このあたり、私の考えをほぼそのまま書いてくれているのが、ニューヨーク州最優秀教師賞にまで輝いたジョン・テイラー・ガットの書いたバカを作る学校(成甲書房)だ。
子供を愛する人の必読書である。

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2007.06.07

花のような美しさ

「花のように美しい」というのが、本当は一番言われたい美しさの称えられ方ではあるまいか?

ところで、この「花のような美しさ」の意味は大誤解されている。
「花のような美しさ」と、化粧、ダイエット、服装、アクセサリは何の関係もない。
花は美しくあろうと意図したりなどしない。
単に花の本質が美しいのである。
美を目的としたら花のような美しさを顕せない。
花は存在自体が美しいのである。
そして、人間は花と比べて行為するという特長が大きい。
だから、花のように美しい人とは、存在自体が美しく、行為そのものが美しいのである。
美しく存在しようとか、美しい行為をしようという意図などはない。また、意図すればするほど美から遠ざかる。

ではここで花の美しさをさらに深く探る。
心理状態によっては、咲き誇る花も美しく見えないことがある。
何かで読んだ詩だが、「新たな目で」みかんを見ると、実に美しいとあった。どこから見ても美しいと。私も早速、「新たな目」でそこらのものを見てみた。やはり美しいのに驚いた。まあ、その時は私も12歳くらいだったので、「新たな目」と言われてすぐに実践できたのだ。

花は、「新たな目」で見るよう、自然に誘うのだ。おそらくは、そのか弱さや命の短さの故に、また、色や形の微妙さ故に、見る者に集中を起こさせるのである。集中せずに見たものは美しくないのだ。
そして、幼さの残る少女、か弱い女、病弱な女、儚げな女に美のイメージが付き纏うのも同じ理由だ。

では、自然に集中して見ることに何の意味があるのか?
荘子は、「視線は自然に」と言ったし、宮本武蔵も「五輪書」で視線に関しては特に注意書きをしている。
それは、心の消失を意味する。誤解されているが、花のように美しいものを見て心が躍ったりなどしない。そんな時、心は静まっているのだ。
心のない状態、それが至福の状態である。美とは、至福の状態の知覚の別名である。
「心奪われる」の言葉は、その通りに受け取った方が良い。心を奪われる、即ち、心を持たない時、真に美しさを感じる。
結論を言うと、「花のように美しい女性」とは、見る者の心を消失させる特質を持つ女性である。その方法は・・・ナイショ!(嘘)ちょっと長くなったので、気が向けばまた書こう。

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2007.06.06

美の実体

乙女が憧れの彼を想って胸がキュンとなるとか、逆に男が少女の真っ白な肌を見てゾクっとするなどは、詩人や作家は言葉を尽くして表現しようとするが、それは、何か感情や感覚のインパクトであり、本来は言葉で言い表せるものではない。
また、画家はそれを描写しようと試みるが、写実に描いてもその衝撃を表現できるものではないため、様々な表現形式が生まれることになる。しかし、詩にしろ絵にしろ、究極に達すれば、書かないこと、描かないことが最上の表現であることを知る。
特に最近の若い人は、語彙が少ないのに、それをなんとか簡単に表現し、自分にも納得させたいことから、単純で音感の良い言葉、「超きれい」「バリ萌え」「ギザ可愛い」などに心のイメージを投影して一応満足する。ただ、これらは個人的イメージであるために、コミュニケーションとして成立する範囲は、その言葉がいかに流行しているように見えようが惨めなほど狭いことに気付かない。
ところで、美とは、自分の内側の外側への反映であることを知ると、目で見る、心で感じる、いや、もっと正確には脳でイメージする外側の美に執着しなくなる。なぜ執着しないのか?それは、全ての美が自分のものであることを知るからだ。

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2007.06.05

好みのタイプという幻想

私は、ひどくみすぼらしい老人に会った。
ボロを着て、髪はボサボサ、身体も汚れ、貧しい老人であることは一目で分かるのであるが、その目付きがただ者でないことを表していた。
私は老人に「あなたは誰か?」と訊ねた。
老人は「至高の実在である」と言う。
私は、「もしそうなら、それでも状況を改善できないのか?」と訊ねた。
すると老人は、「どの状況かね?」と聞き返してきた。
この光景は一瞬で消え失せた。
私の内部のグル(師)が、私の自我にアクセスしてきたのだろう。

これはかなり以前の話で、私がまだ自我を持っていた頃だ。

誰しも、異性の好みというものがあると思う。それは地域や時代が同じであれば、人々のそれが似る可能性が高い。逆に言えば、地域・時代が異なれば、場合によっては極端に違う場合もある。
これは単に記憶に操作されているだけだ。
まだ男性に特定の趣味を持っていなかった女の子が、ある男性が人々に賞賛されている光景を映画やテレビで見る。すると、その男性のイメージが上がる。また、別の男性が蔑まれるのを見て、その男性のイメージが下がる。このような数多くの記憶が積み重ねられる中で、自分にとって好ましい男性像が出来上がる。
映画やテレビの影響が大きい場合、人々の好みは特に似てくるに違いない。反対に、それぞれが、かなり個性的な経験をする場合には、様々な好みが生まれる。
私も記憶を持っている。
しかし、普通の人と違い、私は記憶を使うが、記憶に使われない。だから、本来は特定の美的嗜好はない。しかし、普通の人には信じられないだろうが、自発的に特定の嗜好を持つことはできるのだ。これも一種の遊びである。

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2007.06.04

運命と選択

将来の道を親などに決められてしまっている人もいるだろう。
完全にか、ある程度かの違いはあるかもしれないが、それは子供にとって不幸だろうか?
例えば、教育ママが幅を利かせている家庭で、とにかく東大入学を目指したという場合、母親にはそれ以上のビジョンが無い場合が多いが、父親も一緒になって官庁への入庁を目指させるということもあるだろう。
また、父親が社長の場合、長男であれば、会社を継ぐのが当たり前ということもよくあるが、息子が真面目にやる限り、一生裕福に暮らせる可能性は十分にある。

ただ、これらの表向きを見ただけでは、その者が幸福か不幸かは分からない。

昔、「巨人の星」という、良くも悪くも昭和を代表する漫画・アニメでは、飛雄馬という男の子は、元巨人軍サードであった父親の星一徹に、野球選手となるためだけに育てられ、幼い頃から英才教育を受ける。飛雄馬は時には反発したが、強力なライバルに出会う度、闘争心が出たのか、やがて迷うことなく野球道を進む。

ところで、好きな道を選択できるというのは、ごく近年の先進国に見られることであり、現在でも、そんなことが可能な人間は、地球レベルで考えるとさほど多くはないと思う。
アンデルセンは、10歳かそこらになったら、何かの職人の親方に弟子入りをし、修業をして一人前の職人になる以外の道はない状況であった。しかし、そのように生きたが、本当は文学好きな父親の悲観と失意の中での病死を見て、自分はそんな風にならないと誓い、14歳で単身コペンハーゲンに出た。そして、大変な苦難の末、大学を出、やがて詩人、作家としてブレイクする。しかし、アンデルセンの場合は時代を考えると、かなり無茶であったとは言える。

再度問うが、進む道を決められることは、必ずしも不幸だろうか?
最近感動したものに、高橋弥七郎氏の小説「灼眼のシャナ」がある。
ヴィルヘルミナが拾わなければ確実に死んでいた赤子は、フレイムヘイズとなるためだけに育てられる。フレイムヘイズとは、異世界の悪人と戦って討滅するだけの異能者、早い話が戦士だ。その戦いは、死ぬまで永遠に続く。その赤子(女の子)に、他に選択できる道はない。幼い頃から過酷に鍛えられ、傷に寝込むこともあった。
ヴィルヘルミナは言う。その女の子が捨てられるべくなったのは偶然。自分がたまたま通りかかったのも偶然。ここより他に生きる場所がなくなったのも偶然。しかし、この子がフレイムヘイズとしての才能を発揮したのは必然・・・と。
その女の子は、進む道は他に無かったが、自らフレイムヘイズになることを選ぶ。

アンデルセンもそうではなかったのか?
貧しい靴職人の家に生まれたのは偶然。父親が文学好きで、そのおかげで家にあった面白い本を母親に読んでもらったのも偶然。学校でいじめられて、家に引きこもったのも偶然。父親がラテン語学校の生徒を羨んでいたのを見たのも偶然。しかし、創造の道に憧れてコペンハーゲンに行き、ラテン語学校や大学に進み、文学の才能を発揮したのは必然だ。

では、たまたま決められた道への才能がない場合は不幸だろうか?
問題は、偶然に起こったことを自らの意思とするかどうかだ。ニーチェはこれを「運命愛」と呼んだと思う。
私の経験で言うなら、向いてなくてもいったんは熱心にやってみるのも手かもしれない。
全ては偶然である。だからこそ、その織り込みは緩い。運命は決まっていない。
信念を持っていれば、運命を変えることも可能だろう。

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2007.06.03

夢はカラーか?

夢がカラーだった、モノクロだったと言うのを聞いたことがあるだろうか?

過去や未来を想像した時、普通はモノクロだ。いや、実は想像自体がモノクロである。やってみれば分かる。
想像は記憶を使っている。記憶というのは、自我にたやすく影響される。あまり信用しない方が良い。

道元は「正法眼蔵」で、過去も未来も現在で体験されると書いている。
これが鍵である。
言葉で言うと、「過去」「現在」「未来」とまるで同列だ。実はそうなのだが、現在に特別な事情があることから、他の2つに比べて意味がある。
それは、「感覚に力を与えるもの」が現在にしかいないからだ。だから、全ては現在で体験する。感覚に力を与えるものが現在にいるので、脳機能や催眠状態にあるなどの自我の影響がない限り、カラーで見える。
だが、現在も記憶で、つまり、自我を通して見るとモノクロになりうる。「色あせた現実」である。このような者が多い。「あるがままに」見ることが必要だ。
感覚に力を与えるもの。それが生命であり、場合によっては神であると言えるかもしれない。自分という存在が、ただそれであることを知れば、自我は消滅する。これは確かだ。

今週のラクガキです。カラーかモノクロか?(笑)
クリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

20070603_3

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2007.06.02

天使と悪魔の賭け

「幻の四十八時間」という、L.ロン.ハバートの短編小説がある。
天使と悪魔が賭けをし、ある女性に不思議を起こす。彼女は、一切の冒険をせずに60歳過ぎまで、ただ繰り返しの日々を送っていたが、遂に死が訪れる。結婚も恋もせず、ただタイピストとして働いた彼女は初めて後悔を感じた。
だが、彼女には後48時間が与えられ、18歳の若さと最高の美しさ、そして、魔法の力も与えられる。だが、48時間が過ぎると、老人に戻り、死ぬ。
このお話は、ニュー・エラ・パブリケーションズ・ジャパンから出版されている「死の代理人」に収録されている。絶版のようなだが、アマゾンで古本が安く買える。

あなたは美男美女かもしれないが、理想の年齢と最高の美しさ、そして魔法を48時間だけ与えたとしたら、あなたはどうするだろうか?たとえ空想でも、なかなかワクワクすまいか?
よく、「これが叶ったら死んでもいい」とか言うのを聞くことがあるが、その願いは、おそらくはこれで十分に叶うと思う。

では、この「最高の条件」が与えられたとして、あなたは何をするか?
私なら、天使か悪魔か知らないが、そんなもの叩き返し、両名に説教するだろう。
「本当の自分でない自分に何をさせようってんだ。この大ばか者めらが!」
実際には、こんなおバカな天使や悪魔が存在しないことを期待する。

L.ロン.ハバートは「バトル・フィールド・アース」の作者として有名な米国屈指の人気作家だ。
ただ、宗教団体「サイエントロジー」の教祖、心身療法「ダイアネティックス」の開発者としては批判も多い。トム・クルーズやジョン・トラボルタといった米国のハリウッドの大スターがサイエントロジーの信者として有名であるが、フランスではサイエントロジーはカルトと認定され、擬似科学批判で著名なアメリカのマーティン・ガードナーはダイアネティックスは擬似科学と指摘した。私も「ダイアネティックス」は何度か読んでみたが、面白いとは思ったが、真偽の程は不明で、矛盾点もいくらか発見した。
尚、「幻の四十八時間」から分かることは、ハバートは、女性が一番魅力的なのは18歳だと思っているらしいことである。20歳だと可憐さをやや失うし、16歳だと教養や人間性が磨かれていないということか?今の日本では、30や40を超えても、中味を磨かない女性は多いのだが・・・^^^;

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ランキングに支配された国

いろんなランキングが作られ発表される。
「一番見たい映画ランキング」「卒業の歌ランキング」「お嫁さんにしたいタレントランキング」
オンライン書籍販売のAmazonサイトに行くと、書籍、CD、DVDなどの売れ筋ランキングや、「最もクリックされている商品」ランキングが出てくる。また、何かの商品をクリックしたら、「この商品を買った人はこれも買っています」と別商品の紹介が出る。
「売れ筋ランキング」は良い情報かというと、よく売れる商品はロクでもないものだと相場は決まっているので、自分が購入する際の参考ではなく、世間の一事的な流行程度に認識するならそう言えるかもしれない。

ランキングの扱いを見ると、まさに洗脳大国ニッポンである。日本はランキングに支配された国である。
これは学校教育の成果である。「みんながこうしているから、お前もそうしろ」「ものごとの価値は、お前が考えなくても既に決まっている」が義務教育の基本指導方針である。
私なら、他人が何の映画を見たがっているかや、誰をお嫁さんにしたがっているか、どんな商品に興味を持っているかなど、何の関心もない。
たまたま私と同じ商品を買った人が、他に何を買ったのかなど、知ったことではない。

他人の動向が気になり、疑いもせず大勢に従い、次々に欲しがり消費する。テレビアナウンサーや大起業のPRを無思慮に受け入れ、自発的には何にも興味がない。
これはアメリカの義務教育の当初からの目的で、その教育制度を受継いだ日本人もロボット化したとする意見に私も賛成せざるを得ないが、日本人を支配するのは、日本の支配層ではなく、アメリカ政府やアメリカの大企業かもしれない。

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