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2007.05.18

蝶と蜘蛛

私は、小学4年生の時、避暑に来ていた田舎で、ジョロウグモだったかもしれないが、大きな蜘蛛が中心にいる蜘蛛の巣に綺麗な蝶が引っかかるのを見た。
一瞬、蝶を助けようかと思ったが、このような光景を初めて見るので、好奇心が優り、蝶が蜘蛛に糸でグルグル巻きにされるのを眺めていた。
子供心には、蝶を助けなかったことでの葛藤があったかもしれない。
私は2歳上の姉と、9歳上の従兄に、蝶を助けるべきかどうかを尋ねた。
姉は助けるべきと言う。その理由は、助ければ両方生きられるという、近視眼的には筋の通ったものだった。
従兄は助けるべきでないと言う。9歳上の大人がどんな説明をしたかよく憶えていない。ただ、人間はそれに干渉するには無関係過ぎるというようなことを聞いたように思う。この従兄は大学1年生とはいえ、小さい頃からあちこちの親戚に預けられて育った苦労人である。欲しいものを欲しいということも出来ずに育った彼は年齢よりも落ち着きがあり、向上心が強く逞しかった(大学の強豪レスリング部で主将を務めた)。

私は、その頃より前と思うが、ワルデマル・ボンゼルスの有名な「みつばちマーヤの冒険」という小説が好きだった。
ところが、そのお話の中で、マーヤが蜘蛛の巣にかかる場面がある。マーヤは、その時、カッサンドラ(みつばちの先生)に蜘蛛の巣に対する注意を聞いたことを思い出したが手遅れであった。
身動きできないマーヤだったが、蜘蛛はなかなか近寄ってこない。マーヤは「なぜ早く来ないんだ」と訊ねると、蜘蛛は「お前の剣(蜂の針のこと)が恐い」と言う。マーヤは「この通り剣は収めた。心配するな」と言う。ここまでは憶えている。
この後、マーヤは助かるはずだが、決して蜘蛛を剣で倒した訳ではないはずだ。実は私は憶えていない。多分、子供には難しい経緯であったのだと思う。
マーヤは蜘蛛の巣にかかったからには、余計な抵抗をせず、食われる覚悟をしたようだ。その訳が書かれていたかどうかは憶えていないが、私は、この状況になったからには、自分が食われるのが自然の理であるからではないかと思う。
ところで、もしここで人間の余計な介入があり、マーヤを助けたならどうであろう。これが、鳥や猫の介入であれば、偶然起こったことであり問題はないと思う。しかし、人間の場合は勝手な考えでそれを行うこともある。その場合、助かったマーヤは、物語的な擬人法で言えば、蜘蛛を気の毒に思うだろう。

モーセの十戒(やはり「じっかい」でないと変換しない)には「盗むな」「殺すな」「不倫するな」などがある。これらは自然の理に沿うことであろうか?
人間は、状況によって盗みたくも殺したくもなる。不倫は、男女とも潜在的願望である。
自然界では、自然の理は努力無く守られているように思える。
しかし人間はそうではない。フロイト説では、人間は本能が壊れていることで説明がつく。
だが私は、人間はあまりに強力な才能を与えられたため、現在はまだそれを持て余しているのだと思っている。
フロイトのように、従ってさえいれば良いはずの本能が壊れているので、そのやむなき補完として心が生まれ、心が意識と無意識に別れ、さらに自我が生まれたとするには、本来の人間は凄すぎる。ただ、フロイトは精神的な病人のみ相手にしたので、そのような考え方をしたのであろう。

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