« April 2007 | Main | June 2007 »

2007.05.31

宇宙人が存在するかと尋ねる愚かしさ

(知的な)宇宙人が存在するかどうかより、一般的にはこの議論に意味がないことを知る方が良いことである。
宇宙人が存在しないと考える人の中には、「いるんなら、来ているはず(だが見たことがない)」と言う人もかなり多いらしいが、こんな人は宇宙の大きさというものを捕えそこなっている。
丁度、地図というものを知らない未開人が、初めて世界地図を見せられ、アフリカからアメリカまで泳いで行こうと考えるようなものだ。
宇宙の大きさ、太陽系近隣の恒星までの距離の概念を、例えば地球の直径を1センチとすると、太陽に最も近い太陽系ですら3万キロ(地球の直径の倍以上)の彼方というように考えれば良いかもしれない。そして、ほとんど全ての人が、地球の直径という大きさすら見当が付かないが、それは想像するよりはるかに大きい。
地表から数百キロ離れたらどんな状態かすら、実際にはほとんど誰も知らないのに、他の惑星のことを想像しても仕方がない。さらに、生命の誕生なんて、生物学者ですら、本当は大したことは知らないのだ。
これらから、普通の人に「宇宙人が存在すると思うか?」と聞くことに何の意味もないことが分かる。せいぜいが、SFや風説でしかないUFOや宇宙人の知識を基に考えるのであるから、その考えなど、本当にどうでも良いことである。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.05.30

自信の美徳

謙譲の美徳はもちろん美しいが、自信もまた美徳である。

新約聖書にイエスがこう言うところがある。
「ニネベの者は、ヨナの説教で悔い改めた。ここにヨナに優る者(自分のこと)がいる。それなのに、なぜお前達は悔い改めない」
「南の女王はソロモンの知恵で悟った。ソロモンの知恵は偉大であった。しかし、ソロモンに優る者がいる。それなのにお前達はなぜ悟らない」

ここまで自信を持って言われると、思わず敬服しようというものだ。

アニメ「エイトマン」で、巨大電子頭脳(今日ではコンピュータと言う方が適切か)が、「私は優秀なので世界を支配する」と言うと、エイトマン(スーパーロボット)は、堂々と「私はあらゆる点でお前に優っている」と宣言した。

アニメ「灼眼のシャナ」で、シャナ(まだ名前がない時であったが)は最初の戦いを無敵の怪物トーチ(元々人間だったが、死んだ後、まがい物の身体で活動している者)である天目一個(てんもくいっこ)と行うことになった。
戦いの中、天目一個は、「我、強者(つわもの)と試合うため、自らミステス(特殊なトーチ)となる」と明かし、シャナと、シャナの中にあって彼女に力を与える「天壌の劫火(てんじょうのごうか)」アラストールを驚かせる。
天目一個は、その目的は、自分の持つ大太刀である贄殿遮那(にえとののしゃな)を持つべき強者に逢うためと言った。
シャナは誇り高く宣言する。「安心しろ、天目一個。贄殿遮那を持つべき強者はここにいる」

聖書と1963年の古典アニメと現代の萌えアニメを見事に融合させる私は三島由紀夫に優る。
ふっ・・・自信は美徳だ(笑)。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.29

ZARD

ZARDのDVDLe Portfolio 1991-2006をオーダーした。
ZARDのPVは、坂井泉水自体の美しさもあるが、印象深いものばかりで、全て集めたものが欲しかったのだが、こんな時に手に入れようとは思わなかった。
Portfolio・・・フランス語のようだが、Theを付ければそのまま英語である。
ポートフォリオとは、写真家やデザイナーなどが自分の作品をまとめたものという意味らしい。

ZARDといえば、昔、初めてその名を見たのは、なんと日経産業新聞だったと思う。
大体、こんな記事であった。「ZARDやB'zというグループをご存知だろうか?ミリオンヒットを連発する音楽グループであるが、知ってる人は知ってても、知らない人は全く知らない。彼らはテレビに登場することはほとんどない」
それ以前は、人気歌手というのはテレビに頻繁に登場し、子供からお年寄りまで、誰にでも憶えてもらおうとしていた。しかし、そうではなく、自らの音楽性を追求し、聴いてくれる人だけ聴いてくれればいいという姿勢のようだった。
日本国民が誰でも知っていたという歌手。例えば、美空ひばり、山口百恵、ピンクレディー、松田聖子、Winkといったところだろう。どんな年代のどんな趣向の人にでも受け入れられる音楽。それは、個性に欠け、歌い手の思いより、マーケティング主体の音楽になるかもしれない。現在では、テレビに出ていても、非常に個性的な歌手が多くなった・・・というか、個性が強くないとかえって認められないと思う。当然、万人に受けることなど、最初から狙っていないと思う。
しかし、当時、人気歌手がテレビに出ないことは画期的なことだったと思う。なんといっても、現在でもそうだが、テレビはメディアの王様である。しかも、美貌の坂井泉水がそれに登場しないなど、勿体無いというか、営業戦略的にあり得ないように思う者もいたはずだ。

坂井泉水さんといえば、CDのジャケットも、シンプルなシャツとジーンズで、美しいが化粧っけのない顔にポニーテールという印象がある。実際、素朴でシャイな人だったようだ。
彼女の歌のほぼ全ては自身の作詞であるが、彼女は情熱を求めていたように思う。ある時は熱く燃えていても、やがて冷えてきてしまう。なぜそうなるのか?再び心を燃やすにはどうすれば良いのか?彼女の歌には、そんな疑問や願望を感じるが、彼女は答えを得たのであろうか?私もある意味、同じものを求めていたが、解決は得たと思う。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.05.28

幻想のエロス

パンチラの話を切り口に、文化、心理学問題を鋭くえぐる(マジか?)。

アニメや映画ではヒロインのスカートがあり得ないほど短いというのは珍しくはない。
しかし、アニメなどでも、現在ではパンティーが見えるということはほとんどないらしい。
子供向けとされるアニメの「カードキャプターさくら」(実際は大人のファンも多い)では、原作者のCLAMP(4人組)さんが、アニメ製作側に「よほどのことがない限りパンツは見せないように」と設定資料の中で指示しているのを見たことがある。
現在のプリキュアはよく知らないながら多分変わらないとは思うが、「ぷたりはプリキュア」では、パンチラはもちろん、「カードキャプターさくら」ではよくあった入浴シーンや水着姿もなしとしていた(もっとも、プリキュアは中学2年生で、さくらは小学4年生という違いもある)。

昔であれば、「美少女戦士セーラームーン」では、パンチラというかパンモロもかなりあった。ただ、同時代の「怪盗セイント・テール」や「魔法騎士レイアース」では、ヒロイン達はミニスカートで派手にアクションしながらも、決して下着が見えることはなかった。

近年、パンチラがなくなったのには、やはり海外輸出への配慮があると思う。アメリカでは非常に規制が厳しく、パンチラはもちろん、入浴シーンもカットされるらしい。

ただ、規制するのが必ずしも健全であるかというと、いろいろ意見があると思う。規制する者が一番エッチだという見解もある。
また、やはり2人の美少女が超ミニで宙返りやハイキックも連発していたアニメ「ノワール」も、何も見えなかったが、製作責任者の中に「見えそうで見えないのが本当のエロス」という信念を持つ者がおり、楽しく製作していたようだ。

次に、パンティーが見えるのが必ずしも楽しいのかという問題がある。
「灼眼のシャナ」でも、シャナはスカートの短いセーラー服で、見えてないことは絶対にないという派手な動きをするが、画面上でパンティーは見えなかった(ただ、下着姿というのはかなりあったように思う)。それが最終回では、視聴者への感謝の印なのか、戦いの中でパンティー見せまくりであった。しかし、やはり、見えない方が良かったように私は思う。

ところで、下着あるいはそのさらに下の肌そのものが見えるのがエッチだとか恥ずかしいというのは、案外思い込みであるかもしれないのだ。
ご存知のように、昔の日本では女性は下着を着用しなかった。着物の裾は現在のミニスカートほどではなくても短い場合もあり、モロに見えるようなこともあったが、別段誰も気にしなかったらしい。それどころか、通行人もいるような家の前で、若い娘がたらいで普通に水浴したということだ。言うまでもなく裸でである。
そういえば、北欧では、家族全員とかさらに来客も一緒に裸でサウナに入るということもあるらしい。言うまでもなく、奥さんや年頃のお嬢さんも一緒である。当然、男性の来客も、「そのこと」については嬉しくもないし、お嬢さんも恥ずかしいわけではないらしい。
現在、女性のジーンズのカットは短いのが普通で、しゃがんだりしたら当然パンティーは見えるが、そんなものにいちいち興奮するのはおじさん達だけだろう。しかし、これを僅か10年前にやればかなりのセンセーションだったと思う。しかし、それでも、スカートの中からパンティーが見えるのは都合が悪いらしく、どこぞの手鏡でスカートの中を見たとかで逮捕されたという元大学教授のことは記憶に新しいが(これは冤罪であると主張する書籍が出ている)、もしかしたら近い将来、そのような行為を咎められないというか、奇異に見られるだけになるかもしれない。

こう考えると、「エッチなこと」というのも、単なる洗脳の一種と思うが、多分正しいと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.27

自我消滅の法

自我が消滅すれば、身体も心も超えるし、時間も空間も超える。
それは驚くべき体験だ。
だが、おかしなことに、それ以前に強い個性を自分で育てる必要はあるのだ。
実は熟しないと弾けない。個性が強くないと爆発しない。
個性を育てるには、世間で働く以外、適当な方法はない。自営で十分に自立するか、職場で、欠くべからざる人間になれば十分だ。

自我を消すには、自我がないように振舞えば良い。これは学生にも準備としては有効だ。
1ヶ月懸命に働いて貰った給料を全額他人にあげるような行為がそれにあたるが、普通の人間は知恵がないので生活に困るから、もっと易しいことをすれば良い。
例えば、電車に乗っていて席が空いても、他人に譲れば良い。電車でもコンビニのレジでも、割り込みを見過ごせば良い。
自我の性質は「われ先」である。よって、「われ後」に徹すれば良い。

20070527_1

日曜日恒例のラクガキです。絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

この世は全て偶然である

夢や目標が非常に大切だと言う者がいれば、そんなものは不要、あるいは、あるべきでないと言う者もいる。
前者の方が好意的に受け入れられ、後者が批判されるのは、やはり学校やテレビによる国家や大企業の洗脳と言って間違いない。
「唯脳論」の養老孟司氏や「唯幻論」の岸田秀氏は、「人生に目標なし」論の方で、知的には彼らの主張の方が自然と思う。最近は、彼らの真似か、人生無目標を説く者が増えたような気もするが、いかにも不自然なものが多い。

「荘子」に、ひどい病気になった男が、その運命を平然と受け入れ死ぬ話がある。彼は、「鉄が、自分は名刀になるんだと言ったところでどうにもならない」と言った。
エベレストにも登頂した登山家が、遭難して生死の境をさ迷っていた時、自分の人生は偶然に支配されていることを確信したという。
死のぎりぎり手前までいく経験を何度かすると、自分が生き残ったのは神様のおかげというよりは、やはり「たまたま」と思うものだ。でないと、自分よりはるかに立派な人間が死んで、自分が生き残ることが理不尽である。
だが、ニーチェはツァラトゥストラに、偶然を跪かせたと言わせる。

全ては偶然である。もし必然というなら、原因があるということになる。宇宙全体がものごとの原因というなら、それもまた正しいだろう。しかし、探って見つかるような原因といったものはない。殺されたのが恨みを買ったことがその原因としても、恨みを買ったことにも複雑な理由があり、殺す理由にも様々な知られぬ訳があろう。やはり「たまたま」殺されたのだ。
事件が起こると、テレビなどで「警察は動機の解明を急いでいる」とか言うが、本当の動機が表に出てくることなど、まずないものである。これはむしろ、現場で捜査をしている警官が一番良く知っていることと思う。

私はどうも自我が僅かに残っていたらしく、ただ1つおかしな夢があった。
民間の乗客を乗せた宇宙船。私もその乗客の1人だが、宇宙船が事故を起こし、致命的な状況になる。なんとか持ちこたえた中、ようやく救助艇が来る。だが、そこに移るためには、宇宙服を着て船外に出る必要がある。時間はギリギり。だが、宇宙服は1つ足りない。
私は美貌と透る声を生かし、指示役に回る。身障者、病人、60歳以上、および12歳以下の子供とその保護者に先に宇宙服を渡す。12歳が13歳でも別に構わない。そこらの子供を捕まえ、保護者に成り済ます者がいても、それも構わない。宇宙服は十分にあるのだ。
私は、最後の1人に宇宙服を着せて送り出すと役割を終える。
別に英雄的行為でも、犠牲的精神の表れでもなんでもない。私は既に死んでいるので、乗った宇宙船が爆発しようが、私には関係がない。
幻想とは、自分の身体とそれにくっついた自我、あるいは、他人の中の記憶としての自分を残すことを基本に人間にまとわりつく。しかし、それらを拒否した時、丁度、火かき棒自体が燃え尽きるように、自我は消滅する。
そこまでいかなくても、宇宙船でなくても、たとえば、電車に乗るとき、自分は後から乗って座席に執着しないようにすれば良い。テレビCMでも見るが、一般人の座席への執着は狂気である。彼らは、いつも不平不満が絶えず、惨めな人生を送らざるをえない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.26

CLOVER


アニメ作品「CLOVER」のDVDを購入しました。
収録時間「7 min.」と記載されています。実質5分というところです。
1999年8月に、当時の大人気アニメ「カードキャプターさくら」の劇場版と同時上映されていたもので、原作者は「カードキャプターさくら」と同じCLAMP(4人組の漫画家ユニット)です。
劇場で見たこの作品の映像が鮮烈だったので、メディア販売が無いかと待ち続けること8年近くという意中の恋人というわけです(笑)。
フルデジタル作品で、3次元手法の巨大でリアルな天使の像は、子供が見るとトラウマになる可能性も(笑)。


原作は、実にハイセンスな装丁が印象深い4冊で、扉絵の12歳の少女スゥが妖しく美しい。CLAMPさんの美しい詩作に満ちた叙情的作品です(現在も未完であるらしい)。

アニメの「CLOVER」に戻りますが、当時としては、アニメでここまでの映像は衝撃的だったのではないかと思います。しかし、さすがに現在ではありふれているとは言えないまでも、特別とは言えないかもしれないですし、特に人物には欠点を感じるかもしれません。
さすがに7分の作品。アニメだけでは意味は分かりかねます。原作は非常に個性的でシュールな漫画ですので、気に入るかもしれません。CLAMPのカラー絵だけでも相当なものだと思います。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.23

幻想の未来と未来の真理

「想像もできない」とよく言う。だから、「信じられない」という意味と思う。
言い直すと、「想像できないことは信じられない」となる。
多くの人が、これを当たり前と思うだろう。
しかし、想像できることを信じない方が良い。そうすれば賢くなれる。
想像できるものは偽りである。
想像された未来。それは幻想である。
予期されず、予測不可能な未来が真理である。

偽りや幻想が実現されれば悲惨である。
予期されないことであれば、何であれ、起こることは喜ばしい。
この考え方がもし奇異に思えるなら、自分を無力に感じているはずである。

予期されぬ未来には、無限の多様性がある。
しかし、想像された未来は個人の幻想の中にしかない。
もし、幻想を持たない人間であれば、未来に起こることが自分の意思であろう。
それこそが、充実した喜びの人生である。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.05.22

宇宙プログラム

中山正和氏の本が手に入りにくくなりました。
中山氏は少し前に亡くなられましたが、それにしてもこんな良い本が出版されなくなるのですから、日本の出版について考え直さないといけないように思います。

心理学では、さすがにいまどき、何でもかでもフロイトということはないですが、心のモデルとしては、フロイトが一応の標準のようです。
ただ、実際のフロイトは精神分析医であり、精神的な病人ばかりを相手にしてましたので、フロイトの心理学が病的であることは否めません。

フロイトの心や自我の説明は結構面白いものです。
まず、フロイトは、人間は本能が壊れた動物であると考えました。動物のように、本能に従っていればうまく生きられるというわけではありません。
そこで、本能の代替物として心が生まれ、心は意識と無意識に別れ、さらに自我が生まれました。しかし、自我は自然に根ざした実体のあるものではなく、幻想のようなものと言います。
日本では、心理学者の岸田秀氏がこの説を基に独自に発展させた「唯幻論」を唱え、人間は個人的あるいは集団的な幻想の中で生きているとしました。幻想はやはりなんら実体のあるものではなく、人間は、みな狂っているとしています。理解しやすく、また、いろいろな文化的実際をかなり説明できることから人気があります。

ところが、中山正和氏の考え方は違っていたように思います。
中山氏は科学者で発明家ですから、当然理系発想です。フロイトや岸田氏には理系発想はほとんどないように思われます。
本能というのは、コンピュータのプログラムのようなものと言って良いでしょう。動物の脳には、本能というプログラムが組み込まれ、普通は単純かつ正常に動作します。
人間には、動物の本能をはるかに上回る高機能・高性能なプログラムが組み込まれています。中山氏はこれを仮に「宇宙プログラムX]と呼んでいました。
このXがそのまま現れれば、完全な人間であり、それは天才です。しかし、通常、Xは歪みます。脳には、イメージ記憶という右脳管轄の記憶があります。しかし、人間は言葉を発明しましたので、コトバ記憶というものが生じ、これは左脳が管轄します。本来、右脳のイメージ記憶は、見たまま、聞いたままが記録されているのですが、左脳が言葉で嘘の記憶を与えると、これがイメージ記憶を歪めます。言葉は、勝手なイメージを作るからです。よって、正しいデータのみ集め、右脳のイメージをきれいにすれば正常な人間となるわけです。ただ、言葉を使う以上、完全にイメージ記憶を整然とさせることは難しいのです。
特に、抑圧という形でイメージ記憶を歪めてしまうと、なかなか厄介なことになります。その形態が深く形作られ、修復が難しいのです。

フロイトや岸田氏の説では、閃きや、マスローの「至高体験」を説明できません。
しかし、中山氏の理論では、イメージ記憶が一瞬、整然とした時に至高体験や閃き、あるいは、天啓のようなものを得ることになります。
ただの日曜音楽家が、名曲の誉れ高いフランス国歌「ラ・マルセーエーズ」を一夜にして作曲するようなことも実際に起こるわけです(実話です)。
私は、フロイトの自我は、中山氏のイメージ記憶に関係すると思います。言葉が自我を構築しますが、それを自分と勘違いするわけです。
真の自己とは、意識と呼ぶものに近いと考えます。意識は、美しいイメージ配列を通してXを感じることができます。これが至高体験と思われます。
意識の正体はよく分かっていません。ロジャー・ペンローズの「量子脳理論」では、脳の中のマイクロチューブルという小さな管のような機関での波動関数の収縮で意識が生起するとあります。証明はまだですが、意識が存在することは確かですので、それが自己であるかもしれませんが、自我は自己ではないと私は考えています。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

2007.05.21

誤解されている「信じる」の意味

「自分以外は皆師」などと言う言葉がある。
とんでもない話で、こんなことを考えていたら、カルト宗教に騙され、テレビコマーシャルに煽られ、学校では完璧な馬鹿に教育されるであろう。
可愛い女の子なら、何されるか分かったものではない。いや、必ず何かされるであろう。

かと思えば、デカルトは「方法叙説」の中で、「珍奇な学問ですら役に立った」と書いているが、「珍奇な学問」とは、占いやオカルトの類であるらしい。
だが、デカルトは、この「方法叙説」でも、「単に真らしく見えるものは全て虚偽とする」という思索のルールを書いていたことから考え、もともとデカルトには批判精神があったから言えたことであろう。

私も、実に多くのものに騙された。ただ、現在は、それらを否定していたり、控えめに言っても、判断を保留しているものがほとんどだ。列挙すると、
・ジョセフ・マーフィーの成功法則(否定・破棄)
・船井幸雄(否定・破棄)
・ナポレオン・ヒル(批判的・破棄)
・超越瞑想(批判的・破棄)
・ダイアネティックス(批判的・保留)
・NLP(批判的・破棄)
・唯幻論(批判的・保留)
であるが、これらは、そのごく一部で、ざっとこの20倍はあると思う。思えば暇だった(笑)。
福永法源など、法で裁かれたものは省いたが、福永法源の本を真面目に読んでいた時期もある(笑)。
船井幸雄など、一頃は心酔していたが、ある時に完璧に目が覚め、一時的には嫌悪の対象であった(今は単に「アホらし」と思っている)。
しかし、これらに取り組んだことは、実に役に立ったのである。

私は、これらに騙されながら、なぜ今では完全に捨て去ることができ、しかも有益なものに転換できたかというと、、幸運にも、実に素晴らしい特性を有していたからだ。
その特性は、もちろん学校で教えられたわけではない。真面目に学校で学んでいれば、これらに致命的に洗脳されることになる。また、その特性を誰かに教わったわけでもない。
その特性とは、「信じる」という言葉の解釈である。この言葉の解釈は、学校で学んだ者全員が間違えているはずで、それは不幸を呼ぶ。
学校では、学校や教師や国の教育制度やその指針を無分別に信じろという、なんとも馬鹿げたことを強要される。
「信じる」という言葉の正しくも優れた解釈とは「試してみる決意をする」ことなのである。これは、誰も教わらなかったはずだ。しかし、これを知っていれば、どこで何を学んでも、それは有益なものに変換されるのである。

私は、様々なことを信じたが、それは単に、試してみる決意をしただけであり、無分別に信じたわけではない。また、無分別に信じることを強要するものは全部偽者と断じた。もちろん、学校もである。
「私を信じろ」という言葉は単に「試してごらん」という意味だ。
もちろん、試してみることに多少の危険があったり、お金がかかることはある。しかし、たかが試して見ることに、それほどの危険やお金は必要ない。相応の危険が回避できる実力があれば、ある程度の危険を慎重に試しても良いし、百万円なら惜しくないほどの収入があれば、そのくらい使っても良い。しかし、無理はいけない。このあたりの分別は忘れてはならない。

この、「信じる」という言葉の真の意味を知ったおかげで、私には何でも役に立った。
嘘だらけの中にも、少しは真理が含まれることもある。さらに、あまりにひどい嘘は、かえって真理を知るのに有益なこともある。
ということで、私を信じて欲しい(笑)。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.05.20

自己嫌悪は不要である

「自分が嫌いになる」という言葉を見たり聞いたりすることがあると思う。
少女漫画風に言えば、「私ってなんて醜い!」とかである。
いわゆる、自己嫌悪というものである。
ライバルの失敗、不幸、あるいは死に対して喜びの感情が起こったり、逆にライバルの成功を妬むと、自己嫌悪に苦しむわけである。

最近人気のフィギュアスケートを観戦していて、こんなことを考えた人は多いと思う。
自分より後に滑るライバルの演技は見ない方が良い。ライバルが転んだ時、思わずニヤリとしたら困るだろうと。選手にとって、これも自己嫌悪を呼び起こすかもしれない。そんな時は、悔しい顔や残念そうな顔をするのが立派なスポーツマンのイメージなのであろうし、その立派なイメージに合わない自分が嫌になるかもしれない。

これは難しい問題だと認識されていると思うが、私は解決した。
結論として、ライバルの失敗や、嫌な相手の不幸を喜んでも、自己嫌悪を感じる必要はない。

心理学者の岸田秀氏は、自己嫌悪というのは、自己の過大評価から来るとしている。即ち、自分が思っている自分のレベルより低い自分を認めることに葛藤があるというわけである。
だが、私のは全く違う。
私の知る真理は、心と自己とは別物なのであるから、悔やむことも恥じる必要もないというものだ。
人は誰でも、心や身体を自分と思っている。だから、このことはなかなか理解し難いし、一生理解しないのが普通だ。しかし、分かってしまえば、あまりに明白なことなのである。
そして、心が自分でないと理解すると、今度はライバルの失敗を喜んだり、ライバルの成功を妬まなくなる。好きな人を恋敵に取られても、恋敵の幸福を想像して一緒に嬉しくなることはあっても、妬みや嫉妬は起こらなくなる。

心(自我と言った方が良い場合もあるかもしれない)を自己から分離させることは価値がある。
心は知覚を自己に伝える道具である。催眠術で細工をし、目の前の他人に、自分を彼の父親や恋人と思い込ませることも可能だ。心とは、このように歪んだり曇ったりもする。
だが、お店で商品を購入する際には、商品を冷静に観察し、金額に注意するだろう。同じような冷静さや注意を持って、自己嫌悪のような感情を扱えば良い。商品の金額が自分ではないように、感情も自分でないことが分かるようになる。
心と自分が分離して、冷淡な人間にならないか心配する必要はない。美や幸福を心で感じるのとは全く別の次元で感じるようになる。それが一瞬でも起こった時が、ロマン・ロランの大洋感情や、エイブラハム・マスローの至高体験であり、夏目漱石の天賓である。

余談だが、こうやって心を克服すると、「恋してる自分が好き」なんて感情もなくなる。慈善活動に自己満足する自分もいなくなる。その代わり、はるかに優れたものを得るのである。

日曜日のラクガキです。絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。
20070520

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.19

何回見れるか?

お気に入りの小説や映画があったとして、それを何回読んだり見たりできるものであろうか?
別に漫画でもアニメでも良いし、科学書、技術書、心理学書、哲学書その他でも著者の思想が反映されているものなら良い。
かなり好きなものでも、せいぜいが4~5回ではないかと思う。
特に、連続であれば、最初は面白いと思ったものでも、3回目には食傷気味になる場合が多いと思う。

私は小学生の時は「ピノキオ」「怪傑ゾロ」「みつばちマーヤの冒険」を繰り返し読んだが、一番よく読んだ「怪傑ゾロ」でも5回くらいと思う。
中学生の時はH.G.ウェルズが好きで、ウェルズ博士と呼ばれた位であったが、1度読めば十分であった。ただ、ウェルズの作品は数が多かったのと、1度読めば純粋にして必要なエッセンスが心の深くに残り、読み返さなくても精神の中で味わえた。こんなことが可能な作家は、私の知る限りウェルズだけで、コリン・ウィルソンが「賢者の石」という小説の中で、主人公とその知性溢れる友人共に、最高の作家はウェルズだと言わせたのも頷ける。

最もよく見た映画は「ジーザス・クライスト・スーパースター」(1973年のノーマン・ジュイソン監督のもの)で、実に70日連続でビデオで見た(未DVD化。ビデオも英語版のみ)。野外ミュージカルとしては「サウンド・オブ・ミュージック」と並ぶ傑作とされるが、嘘だらけの「サウンド・オブ・ミュージック」は1度見たら不快となり、二度と見ていない。
「ジーザス・クライスト・スーパースター」は、まず素直に音楽的に良かった。歌もオペラのようなものは別として、こんなにうまい歌手がいるものかと驚いた。また、その詩やセリフも素晴らしかった。CDは持っているが、映画のDVD化も熱望しているのだが・・・。

ところで、淀川長冶氏はアラン・ドロンの「太陽がいっぱい」を4百回以上見、そのたびに必ず涙を流したという。これは、別に聞いたことがあるわけではないが、作品の素晴らしさと共に、淀川氏の子供時代や青春時代が関係することはまず間違いないと思う。あの映画は、子供時代や青年時代に心に深い傷を負った者でないと理解できないと思う。あの映画を4百とは言わないが、数十回見れるならやはりそうだと思う。何も感じないなら、せいぜいが不満ばかり抱えてはいたが、我がままな青春だったに違いない。
いかに24歳の美貌ざかりのアラン・ドロン主演とはいえ・・・10回は見れるか(萌え)。

書籍では「ローム大霊講話集」(霞ヶ関書房)を、閉じ糸も取れて本当に「ボロボロ」になるまで読んだ人物がいた。10年以上っかっていると思う。その人に逢ってみると一瞬で只者でないことを感じたので私もチャレンジした。5回で終わった(爆)。

私はアニメも好きだが、最も多く見たのは「レイアース」(「魔法騎士レイアース」のOAV。全体で約2時間)か劇場版「美少女戦士セーラームーンR」と思う。後者は何度見ても涙が出る(笑)。少し昔、映画館でこの映画の緊迫のラストシーンをお母さんと子供が食い入るように見ていた中で「Moon Revenge」という曲が流れていたが、あの歌が冬杜花代子さん作詞(作曲は小坂明子さん)のなんとも恐ろしい歌だったとはほとんど誰も気付かなかったはずだ。
それと、毎年8月には劇場版「アキハバラ電脳組~2011年の夏休み~」を必ず1度は見る。最も好きなアニメ映画の1つで、奥井雅美さんの歌も良い。

尚、現在は「灼眼のシャナ」のDVD全24話の4巡目の視聴に入ったが、全然飽きない。
また、ある偉大な書の連続3回目の読書に入った。これは百回でも千回でも読めそうである。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.18

蝶と蜘蛛

私は、小学4年生の時、避暑に来ていた田舎で、ジョロウグモだったかもしれないが、大きな蜘蛛が中心にいる蜘蛛の巣に綺麗な蝶が引っかかるのを見た。
一瞬、蝶を助けようかと思ったが、このような光景を初めて見るので、好奇心が優り、蝶が蜘蛛に糸でグルグル巻きにされるのを眺めていた。
子供心には、蝶を助けなかったことでの葛藤があったかもしれない。
私は2歳上の姉と、9歳上の従兄に、蝶を助けるべきかどうかを尋ねた。
姉は助けるべきと言う。その理由は、助ければ両方生きられるという、近視眼的には筋の通ったものだった。
従兄は助けるべきでないと言う。9歳上の大人がどんな説明をしたかよく憶えていない。ただ、人間はそれに干渉するには無関係過ぎるというようなことを聞いたように思う。この従兄は大学1年生とはいえ、小さい頃からあちこちの親戚に預けられて育った苦労人である。欲しいものを欲しいということも出来ずに育った彼は年齢よりも落ち着きがあり、向上心が強く逞しかった(大学の強豪レスリング部で主将を務めた)。

私は、その頃より前と思うが、ワルデマル・ボンゼルスの有名な「みつばちマーヤの冒険」という小説が好きだった。
ところが、そのお話の中で、マーヤが蜘蛛の巣にかかる場面がある。マーヤは、その時、カッサンドラ(みつばちの先生)に蜘蛛の巣に対する注意を聞いたことを思い出したが手遅れであった。
身動きできないマーヤだったが、蜘蛛はなかなか近寄ってこない。マーヤは「なぜ早く来ないんだ」と訊ねると、蜘蛛は「お前の剣(蜂の針のこと)が恐い」と言う。マーヤは「この通り剣は収めた。心配するな」と言う。ここまでは憶えている。
この後、マーヤは助かるはずだが、決して蜘蛛を剣で倒した訳ではないはずだ。実は私は憶えていない。多分、子供には難しい経緯であったのだと思う。
マーヤは蜘蛛の巣にかかったからには、余計な抵抗をせず、食われる覚悟をしたようだ。その訳が書かれていたかどうかは憶えていないが、私は、この状況になったからには、自分が食われるのが自然の理であるからではないかと思う。
ところで、もしここで人間の余計な介入があり、マーヤを助けたならどうであろう。これが、鳥や猫の介入であれば、偶然起こったことであり問題はないと思う。しかし、人間の場合は勝手な考えでそれを行うこともある。その場合、助かったマーヤは、物語的な擬人法で言えば、蜘蛛を気の毒に思うだろう。

モーセの十戒(やはり「じっかい」でないと変換しない)には「盗むな」「殺すな」「不倫するな」などがある。これらは自然の理に沿うことであろうか?
人間は、状況によって盗みたくも殺したくもなる。不倫は、男女とも潜在的願望である。
自然界では、自然の理は努力無く守られているように思える。
しかし人間はそうではない。フロイト説では、人間は本能が壊れていることで説明がつく。
だが私は、人間はあまりに強力な才能を与えられたため、現在はまだそれを持て余しているのだと思っている。
フロイトのように、従ってさえいれば良いはずの本能が壊れているので、そのやむなき補完として心が生まれ、心が意識と無意識に別れ、さらに自我が生まれたとするには、本来の人間は凄すぎる。ただ、フロイトは精神的な病人のみ相手にしたので、そのような考え方をしたのであろう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.16

ゴブレット

ハリー・ポッターのおかげで「ゴブレット」という言葉を憶えた方もいると思う。
ちなみに私は、ハリー・ポッターは、それが出版される由来みたいなことなら語れるのだが、ハリー・ポッターの本は全く読んでいなし、映画を見たこともない。

ゴブレットとは、脚付きのグラスのことで、ワイングラスやシェリーグラスが一般的と思うが、ハリー・ポッターのようなお話では、聖杯のようなものであったと想像する。

ところが、英語でgobletと書くゴブレットだが、どうもこの英語の意味が分からない。
最後がlet(レット)で終わる語は多いし、日本でもよく知られている。
ブックレット(小冊子、パンフレット)でのレットは「小さい」という意味である。
ブレスレットのレットは(身に付ける)飾りの意味である。アミュレット(護符、魔よけ)もこの意味と思う。

しかし、gob(ゴブ)は口という意味であるが、これに対応するletは何であろう。口に付ける飾りという意味であろうか?それはそれで洒落た言い方と思う。
カクテルグラスも一般に脚付きだが、ギムレットをゴブレットに注ぐと、もう訳が分からないといった感じだ(笑)。

上のパンフレットで思い出すことがある。
1894年の米国ワイオミングを舞台とした映画で「キャット・バルー」という作品がある。若きジェーン・ホンダ主演の痛快ウェスタンである。酔いどれの中年殺し屋役のリー・マーヴィンがアカデミー賞主演男優賞を獲得している。
映画の最初の部分で、「デパートから商品カタログが送られ」るのが既に一般的であると紹介されていた。日本は明治27年、日英通商航海条約が交わされ、日清戦争が始まった年である。
文化の違いは恐るべしである。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.15

水木しげると岡本太郎

「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる妖怪漫画家、水木しげる氏の漫画作品「総員玉砕せよ! 」(講談社)を読んだ。
ほぼ実話と言われる戦争漫画である。実際、妙な自然さというか、リアリティを感じた。
昭和20年、南太平洋・ニューブリテン島に派遣された日本兵の物語だ。
この中で、日本兵の日常も当然描かれている。
戦闘のない日も、兵隊達は土木作業はじめ、あらゆる労働を行うが、当然、若い兵隊ほどこき使われることになる。
1日の重労働が終わり、やっと休めるという時に、初年兵の招集がかかる。上官のしごき、とはいっても、殴られるのである。この漫画では、平手打ちがほとんどだったが、もちろん楽ではないし、態度の悪い兵隊は棒でも殴る。
これが毎日のように行われる。非道であることは間違いないが、上官の気晴らしというよりは、若い兵隊を服従させ、神経を図太くする効果は確かにあるだろう。
岡本太郎が、フランス留学から帰国した30歳の時、中国に18、9歳の青年兵と共に二等兵として派遣されたことがあるが、若い兵士と一緒の訓練はさすがにきつかったらしい。
そして、夜になると、やはり下の兵隊は上官に呼び出され、殴りまくられたそうだ。その時、岡本太郎は必ず4番目に行くことにしたらしい。その意味が分かるだろうか?殴る方は、4番目が一番調子が出るのである。身体があたたまり、心もエキサイトしてくる。これが5番、6番となると、殴るのに疲れたり、手も痛くなるので加減してくる。やはり4番目が一番効くのだ。その4番をあえて岡本太郎は志願したというのだ。

水木しげる氏は実際に21歳でニューブリテン島に出兵し、左腕を失っている。マラリアでうなされている時に敵襲を受けて左腕を負傷し、治療設備もなく、麻酔もなしで切断したそうだ。
尚、「ゲゲゲの鬼太郎」のヒーロー鬼太郎は1959年に初めて「幽霊一家」という作品で登場し、1965年に「墓場の鬼太郎」で登場するも、さっぱり人気が出なかった。しかし、1967年から人気が出始め、1968年にアニメ化されるまでにヒットする。
水木しげる氏は、養老孟司氏との対談書で、65歳から、妖怪を描くのが楽しくなってきたと言っておられた。妖怪を描くと無意識になり、精霊のようなものを感じるようなことも言われていたと思う。妖怪に人生を捧げた水木しげる氏らしい。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.13

反逆と秘法

私の絵はラクガキで、いつもはおまけでしかないが、今回はテーマにしたりする。
私はシスター萌えなのだが(半分冗談)、シスターさんにフード(頭巾)は装着させない。

20070513_3
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

そんなシスターがいるかいって言われそうだが、これは一種の反逆である。そもそもが、私の描くシスターさんは15歳かそれ以下だが、少なくとも日本では、修道着はその筋の大学でも出ていないと着ることはできない。
つまり、腐敗した権威(いかなる権威もいずれ腐敗する)は無用だが、若い子がある一定の戒律や掟に従って、自由に一定の制限を加えることは良いことであることを形にしただけである。
若い子にとっては、精神の成熟に必須なことであるが、大人にとっても意味がある。人間というものは自己に制約を加えた分、力を得るものである。単純だが、この世の秘法と言って良い。例えば、願掛けとして自分に何かの制約を課しても、別に奇跡が起こるわけではないが、結果としては奇跡のような成果を得ることもある。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

大型連休の度に思うこと

GW(ゴールデンウィーク)も(とっくに)終わりましたが、私も9連休でした。
しかし、GWもですが、正月、盆、暮にも宅急便は来ますし、買い物やレジャー施設での遊戯にも全く困りません。
あたしゃ、正月に宅急便の配達をしてくれたおじさん見て涙が出ましたね(真偽不明)。

GWはお客さんが来ますので、当然、プロスポーツの興業は盛んです。スポーツ選手自体は、多くの観客は嬉しいでしょうが、運営スタッフも沢山いるわけです。

かといって、我々が買い物や遊びに行かなければ、結果として、GWなどに労働している方々は不幸になるわけです。
とはいえ、クリスマスやお正月には家族と過ごしたいという思いもあるでしょうし、GWに他の子供達が親と遊びに行くのに、連れて行ってあげられないことを気に病んでいる人は当然、沢山いるわけです。
それが彼らの仕事といえばそれまでですが、感謝の気持ちを持つのも悪くはないと思います。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.11

援助交際は認めるべきである

私は、女子中高生の援助交際というか、大人の男性との交際はおおっぴらに出来るようにすれば良いと確信する。大人の男性に妻子があろうがどうでも良い。いうまでもなく、お付き合いの内容は当事者の問題だ。

援助交際する少女は、お金が欲しいのではない。それはあくまでおまけである(もちろん、素晴らしいおまけであろうが)。
彼女たちは、家庭でも学校でも居場所がないのである。つまり、家庭や学校で自己の価値を感じることができないのだ。
少女達の家庭は、裕福であったり、両親も普通であるかもしれないし、学校の成績も悪くないかもしれない。それでも、家庭や学校で自分がそこに居るだけの価値を見出せないのである。
昔であれば、不良グループの中で自分の居場所を見出そうとする場合もあったかもしれない。以前は、そこそこ中味のある不良もおり、そこへの参加で自分の価値を高めることもあったかもしれないが、現在の不良は、せいぜいが学校教師レベルである。不良や学校教師に認められても、自分の価値など向上しない。
しかし、一般の中年のおじさんは、学校教師やオタクやチンピラの不良よりはずっと大人であり、ちょっと怯えさせるような怖さもある。そのおじさんが、表面上は王女様のようにあがめてくれる。いや、おじさん達から見れば、彼女たちはまさに憧れの王女様、あるいは、女神様であるので、彼女達は自分の価値を実感としても感じることになる。おまけに、高級車と豪華な食事付きである。確かに道徳に反することをやっているという葛藤もあるかもしれないが、視点を変えればこう言える。少女達にとっては道徳や倫理の問題だが、おじさん達にとっては法の問題でもある。法を破り、裁かれる危険を負ってまで自分を求めてくれている。これが快感でなくて何であろう?

援助交際は、裏側で行われるのが問題である。表向きは法律で禁止することで、関係のない第3者の利益が絡む場合が多くなり、これは男性の方は仕方がないとしても、少女達への被害が発生する。
ごく普通におじさんが少女達にアプローチできるようにすれば、妙な業者は不要になる。

家庭や普段の場所で自分の居場所がある、即ち、自分の価値を見出せる少女は中年のおじさんなんかと付き合わないのである。
だが、自分の居場所がない少女が多い限り、援助交際は決してなくならない。
確かに良いことばかりではないだろうが、それならおじさんに尊ばれながら堂々と付き合う方が良い。いろいろ問題はあっても、唯一付き合える大人が、実際は中味において、とても大人とは言えない学校教師しかいないよりは、はるかにマシに違いない。
また、そうなってくると、彼女たちも立派な大人の男性を選んで付き合うようになるだろう。そして、金品の受け渡しみたいなことも必要なくなるかもしれない。
また、そうでもしない限り、家庭も学校も少しも改善されないであろう。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

2007.05.09

芸術は省略だ

私は中学2年から、授業を一切聞かないことに決めていたのであるが、身体だけは授業に参加していたため、教師の声だけは聞こえていたことになる。
その中で、小学校から高校までの全授業の中で、唯一憶えている10秒がある。
それは、高校の古典か国語だかは知らないが、和歌を扱っていたものであった。
教師が、恐らくは教科書に書かれていた和歌に関する技法を説明したものだと思う。
「なるべく書かずに、読み手に想像させるものが良い」
これだけだ。しつこく憶えているところをみると、よほど胸を打ったのであろう。
これは俳句の真髄でもある「省略を巧みに」にも通じるが、当然ながら俳句は和歌から生まれたのであり、和歌より短いものであるから省略はさらに重要なはずだ。
何かを付け加えることを考えるのではなく、何を捨てるかを考える・・・というのが、イタリアの有名なコンパクト・カーであるフィアット・パンダのかつてのポリシーであったと聞いたことがあるが、何やら、この世の真理にすら通じるものであるように思う。

関係あるかどうかは分からないが、女子中高生らしい言葉使いにしたければ、言葉を妙なところで止めれば良いと思われる。例えば、
「私、もう大丈夫だから」
といった感じで、本来なら続きがあるところで止めてしまう。
言われた方は、続きを想像することで、その言葉に余韻を持たせることになる。まあ、あくまで可愛い女の子が話した場合に限定されるであろうが(笑)。
しかし、事務的な会話の場合は、このような話し方は当然NGだ。
また、余韻を味わいたくない、興味のない女性が言った場合には、言われた方はむしろ腹が立つ可能性もあるので注意したい。
そして、男性の場合は、このような話し方をせず、最後の最後まで、びしっと言わないといけない(例外は当然ある)。

俳句でなくても、詩はもちろん、小説でも、省略した方が良い場合は当然あるだろう。
絵画でもそうだと思う。なるべく描かずに済ませるタイプの画家もおり、少し離れて見るとワイングラスに見えるものが、近くで見ると、一筆を走らせてあっただけという名人芸もある。

書かれた文章や、描かれた絵の外にあるものを想像し、つまり、自己の世界で創造することが、想像力を高めることになるだろう。
可愛い女の子の、言わなかった言葉というものは、当然にして美しい心を育てる力になる。
ところで、最近の美少女アダルトゲームはこの点、実に拙い。(※注 私は決して詳しいわけではない^^;)。絵のレベルは実に高度になっているが、その素晴らしい絵で、露骨に表現されてしまっており、想像の隙間もない。一応は18禁であるが、実際には、中高校生のユーザーが多いだろう。彼らにしてみれば、現実の女の子よりずっと美しい少女の見たい姿をモロに見れ、ある意味、簡単に夢が叶ってしまうわけである。
若い時の異性への憧れこそ、想像力を育てる重要なエネルギーであるのに、なんとも勿体ない。是非、エロチックな素晴らしい小説を読んで、想像を逞しくしてもらいたい。池田満寿夫さんなども、それを熱心かつ頻繁に行ったようである。

ついでだから、付け加えであるが・・・と、なるべく書かずに済ませるポリシーは私にはないらしい(笑)。
手塚治虫さんの「アラバスター」という漫画で、多分CIAか何かだったと思うが、ロックという若い男性の捜査官が、亜美という少女(多分中学生位)を追い詰める場面がある。なんと、亜美は透明人間であったが、水に濡れて現れた姿が美しく、ロックは、彼女を○○○してしまう(想像せよ)。で、その行為中の場面は、なんと、二人がその中にいる森が描かれ、その森の絵の上に「しーーーーん」という擬音が(笑)。読者は、そのしーーーーんのシーンを想像するのである^^;;
今の漫画なら、実際の行為をモロに描きそうな気がするが、しーーーんの方が衝撃は大きいと思う。
あ、もちろん、ロックは超イケメンなので、読者からはさほどの非難は出ないのであるので・・・(と、途中で言葉を止める^^;)。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.08

ツンデレ道

これに気付かないと「超鈍感」と言われかねない。
教室や職場で、女の子が男の子にいじめスレスレのような嫌がらせや、まるで子供じみた迷惑な行為を執拗に繰り返す場合、その女の子は、その男の子のことが好きだと思って、まあ間違いない。
ただ、男の子の方はこれにほとんど気がつかない。むしろ、嫌われていると思う可能性が高い。本当は男の子が気付いてあげないと、女の子が可哀想ではあるが、男の子とは根本的に鈍感なものである。そうでないと、間違いが大量に起こることになるのだが(笑)。
こういったアプローチを取る女の子は子供っぼく、勝ち気で、あまり恋愛慣れしていない部類に入るだろう。
だが、そう言われても、幸いにその女の子が男の子の好みのタイブであれば、男の子にとって嬉しいことだろうが、そうでないと、特にうまくいかないことになる。
女の子のこのようなアプローチは、せいぜいが高校生までのものだろうが、可愛い子なら、二十歳を少々過ぎていても、傍目には可愛いものである。

今流行のツンデレとは、このようなケースを指すと思う。
ただ、女の子の方に、ツンツンしてても男の子を惹きつける魅力がないと、全く成就しないといって間違いない。
男の子の方が先にアプローチしてきた場合なら、男の子を試す上では良いことだ。しかしこれは、男の子の方が、女の子の設定したハードルをクリアしない限り捨てる覚悟があればの話である。
いずれにせよ、ツンデレの道は実は険しい。ハッピーエンドとなれば、実に良い体験となろうが、いわば戦いの道でもある。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.07

老人

老人になりたい人はいないと思う。
しかし、誰でも老人になる。
なぜ老人になりたくないのか?
身体が弱くなり、活動範囲が制限されるからか?
日常生活には支障がなくとも、頭脳が衰え、新しい外国語や科学の勉強を始めることができなくなるからか?
人生の残り時間が少なくなるというのも確かだが、実際には子供ですら明日の命の保証はない。

私が思うに、素晴らしい老人を見ていないからだと思う。
確かに、外見は老人だが、中味は17歳のチンピラと変わらない老人が増えた。しかし、やはり素晴らしい老人はいる。しかし、そこに目がいかない。

最近、「ロッキー・ザ・ファイナル」という、実に下らない映画がヒットし、スタローンをまた大儲けさせている。
今時、60歳で老人とは言わないだろうが、なんで60歳にもなって身体を鍛え、現役世界チャンピオンとボクシングの試合をしないといけないのだ?
人々が、若者のやることにしか価値を感じられないほど知的に貧しいという現実を思い知らされる。
60歳なら、30歳や40歳にはできない、やるべきことがある。その価値は、ボクシングで世界王者になることにいささかも劣らない。いや、比較にならないほど凌駕するといって間違いあるまい。
ロッキーは、中味が30歳で止まった愚かな人間である。そして、作り話ならともかく、現実には60歳で現役ボクサーはやれない。
いい年をしてナイスバディを誇ることを煽るエステをはじめ、必要以上の美容を年配の女性に興味を持たせる営利活動も馬鹿げている。ある程度は必要かもしれないが、エステや化粧にいくらつぎ込んでも、若い男に興味を持たれることは1000パーセントないので安心するがいい。逆に気味悪い老女になるだけである(これらのテレビCMも、若い男性は気味悪がっているのだ)。女性も、50歳なら50歳。60歳なら60歳の良さがある。しかし、それは決して性的魅力でないことは言うまでもない。
中年や老人も、若者を無視しないのは良いが、媚びて真似る必要はない。

いずれは、英知と風格を備えた素晴らしい老人になりたいとなぜ思わないものか?
できれば、華麗でなくても、品質の高い必然的に高価な服を着、それが似合うようになりたいものだし、そのために、若い間によく働き、高収入になるように向上心を持つのも良いだろう。また、老人であっても、背筋がピンと伸び、貫禄ある立ち居振る舞いを自然に行えるよう、若いうちから節制し、ある程度身体を嫌えるのも良いことだ。
しかし、これらが得られなくとも、中味の輝きがあればなんら変わらないものだ。
おそらくは、若い時なんてあっという間。あまり先のことばかり考えても良くないし、現実には今にしか生きれないのであるが、まっとうな老人の良さに目を向けるのも悪くはないと思う。

| | Comments (3) | TrackBack (0)

2007.05.06

心的エネルギー

人が何かを成し遂げるには、エネルギーのようなものが必要だとは思うが、それは体力のみではなく、何か感情的なものの力も大きいように思われる。
しかし、感情的エネルギー、あるいは、心的エネルギーなんてものは定義しがたく、ましてやそれを自在に扱うことは難しい。

この心的エネルギーみたいなものを、インドではプラーナ、中国では気とか呼び、時にはそれを操る技術について真面目に考えられることもあるようだ。一部に人気のある気功もその1つである。とはいえ、気功というものの信憑性は必ずしも認められているわけではなく、むしろ怪しいもののように思える。昔、気のパワーで人を吹っ飛ばすなんてパフォーマンスを披露する、自称「気の超人」みたいなのはいたが、吹っ飛ばせるのは弟子だけとは笑い話でしかない。

ナポレオン・ヒルは、人を動かす神秘のエネルギーの正体は性エネルギーとした。まあ、人間の「いい男」「いい女」を得るための強烈なエネルギーを考えれば分からぬでもない。また、この考え方はフロイトの初期の説である、人間の欲動は「性の欲動」と「自我の欲動」すなわち自己保存の欲動というところからきていると予測される。ただ、フロイトはこの説を後に修正し、人間の欲動を「生の欲動」と「死の欲動」とした。

フロイトでは、生命エネルギーである欲動は「エス」の中にあるとした。エスとはフロイトでは、心を構成する3要素「自我」「超自我」「エス」の1つであるが、自我や超自我もエスからできており、エスは生命エネルギーそのものだ。
エスの概念を、フロイトはドイツの医師グロデックから借りたが、そのグロデックのエスとなると、なんとも理解しがたく神秘とさえいえる。

人間、「やる気」であると言われるが、「やる気」を表す生命エネルギーとはかくも謎であり、ましてや操ることは難しい。
だが、当然にして人はそれを求める。好きな人に思いがけず告白でもされたら、しばらくの間は凄いパワーにみなぎるだろう。コリン・ウィルソンは、もっと直接的に「好みのタイプの美女が全裸でやってきた時の」状況といい、自分のやりたいことはそのパワーを人々に与えることとしている。だが、彼の素晴らしくも膨大な書籍は、必ずしも成功しているとはいえない。
まあ、簡単な方法としては、欲は1つに限定することだ。すなわち、限りあるエネルギーを分散させて無駄にしないことで、1つの目的への達成率は高まる。ただ、それが難しいの人間である。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2007.05.05

カーテンの服

服の好みなんて様々だが、大抵は一貫した好みの傾向というものは存在するかもしれない。
形状で言えば、ぴっちりしたものか、ゆったりしたものか、あるいはだぶだぶか?
ラフかフォーマルかはTPOで変えるとしても、やはりどちらを好むかはあると思う。
特に女性の服であれば、豪華な雰囲気か、むしろ軽やかか。素材の良さを際立たせる無地のものにも良さはあるし、非常に細かいステッチや刺繍が好きな場合もあるだろう。
靴下1つでも、ルーズソックスかハイソックスかは、いまや流行の後にその着用が定着してきた女子中高生にも、実際には好みがあるだろうし、男性側もいずれかを好む場合が多いと思う(若年の一部を除き、男性はハイソックスを好むようだ)。

ところで、私は、女性の服といえば、カーテンが良いと思っている(笑)。
有名なミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、マリアがカジュアル服を持たないトラップ家の子供達に、カーテンで服を作ってあげたことがある(そのことで、マリアはトラップ大佐に叱責されるが)。あれが妙にいい雰囲気であった。
また、萩尾望都さんの短編漫画「妖精の子守り」で、バーバラという12歳くらいの少女が、川に落ちてずぶ濡れになった服を脱いだ後で、冗談でカーテンを身体に巻きつけてみた。その姿をウォルトという、同じ年くらいの少年が眩しそうに見ていたのだが、確かに美しかった。
そんなわけで、私にとって、乙女の服はなんといってもカーテンになった(笑)。

20070505

そんなわけで、というわけではありませんが、カーテンみたいな服を着た、ツンツンした少女をラクガキしてみる(笑)。

クリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.04

美術教育では何が起こっているか

建築やコンピュータソフト開発、あるいは、空手や柔道といった武術など、人が編み出した技芸について、上級者が初心者に適切な指導を与えることが可能だ。
しかし、それがほとんど不可能であるのが絵というものであろう。
もちろん、商業的な理由から必要と考えられる絵のスタイルや雰囲気を作る技術を指導することはできるだろう。逆に、商業的理由でもなければ、絵の指導というものはさっぱり意味がないばかりか、害になるかもしれない。
ところが、おかしなことに、それだからこそ、薄っぺらな上級者は自分の流儀を高いものと思い込みたがるものだろう。なぜなら、それが彼らの自我の頼りない支えになっているからだ。詳細を語るまでもなく、人間の自我の性質上、いともたやすくそうなるものだろう。
教わる方も、教える方はいかに高尚なことを言葉で唱えても、単に自己満足であることに感付くものであるが、自己満足というものの性質上、弱い立場の卑屈さを要求する。
これが美術教育において行われることである。
つまることろ、良い美術教育とは聞かれない限り教えないことであり、教わる際も参考程度に聞くことだ。実際は教わる必要はないのだから。

日本ブログ村のランキングから離れます。理由は、単にランキングにさっぱり興味がないからです。ただ、日本ブログ村から来てもらいにくくなります。毎日、ここから40回は来て下さっているようですが、それがちょっと気懸かりですね。まあ、アクセスが減ったら、また復帰するかもしれません^^;
人気ブログランキングの方は、ランキング不参加の設定がありませんので、このまま放置します。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.03

トラックバックについてのお知らせ

私はトラックバックに関しては、従来、アダルトサイトからのものでもない限り、あまり悪質に見えない営業サイトや、私の記事の趣旨と多少外れたものでも受け付けていました。

しかし、この数ヶ月、アダルトを含む営業目的のみのサイトからのものが大変な数になり、トラックバックはいったん非公開の状態で私が審査した後に公開することとしました。
通常、翌々日には公開されます。

ただ、以下に該当すると私が判断したものは公開されません。
・アダルトサイト
・営業目的のみのサイト
・トラックバック先の記事が私の記事の趣旨とほとんど関係のないもの
・トラックバック先の記事に、倫理的、道徳的な逸脱があるもの
・トラックバック先の記事において、著者の一般常識や人間性に疑問を感じるもの
その判断はあくまで独断でありますが、トラックバックが公開されない場合はご了承の程、お願い申し上げます。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

芸術的な絵とは

いい話であると同時に、芸術を考えるのによいヒントになるものがある。
池田満寿夫さんが、女子高生から手紙で、工房を見学させて欲しいと頼まれたが、応ずるでもなく断るでもなく、返事をしなかったらしい。
理由は、「恥ずかしいから」だったようだ。私は、相手が女子高生だったので恥ずかしかったのだろうと思っていたが、それもあるのだろうが、本質的に違うようだ。
池田満寿夫さんは、根本的に自分が恥ずかしいのである。
池田満寿夫さんは、純粋な芸術家だと思う。
彼は、建築家やデザイナー、音楽家であれば、このような恥ずかしさはないだろうと言う。
おそらく、絵描きであっても、絵のうまさを売り物とするイラストレーターや図鑑に動物の絵を描くような人ならそうではないはずだ。そんな絵描きは別に芸術家ではない。
だが、(芸術)画家や詩人は、役にも立たないものを創造する恥ずかしさがあると言う。
岡本太郎は、芸術はうまくあってはいけないと言ったが、たまたま絵が上手い芸術家がいるだけで、上手い下手は芸術とは何の関係もないであろう。上手い画家は言ってみれば優れた職人である。まあ、写真機がなかった時代は、上手くないと画家になれなかったらしいが、いまでも写真のような絵や、どれも同じような美大生の「上手い」石膏デッサンや、退屈なヌードデッサンが良い絵だと思っている人が多いのは誰のせいか(笑)。
私は、池田満寿夫さんの作品を購入するほどでもないが、画集が出ていれば値段を見ずに注文する(と言っても、最高でせいぜい1万円位だが)。彼の絵は、上手いか下手かといえば、考えたこともないが、上手いことはないと思う。そもそも、生前、池田さんはテレビで、自分の絵の腕前については「街の似顔絵描きに馬鹿にされる程度」と言っておられたことがある。だが、彼の絵には感動があることが分かる。子供が描いたような、殴り書きしたような線画にだって感動がある。
確かに、恐ろしく上手くて、なおかつ感動のあるギュスターヴ・ドレやノーマン・ロックウェルといった画家もいるが、彼らは職人的な意味で天才であると共に、自らをイラストレーターと認識し、特に画家であるかどうかは問題にしなかったようだ。

職人として優れた絵描きよりも、下手でも想像力のある素人の絵の中に芸術性があるものだろう。
職人でない素人の絵描きが、上手い絵を描く理由なんて何もないと言える。そして、岡本太郎の言うような、本当にデタラメをやれる器があれば芸術家になれるだろう(多分^^;)。学校の美術教育や単なる上手い絵描きの空論の悪影響で素人が上手い絵を描こうとしたりせず、器を広げる方が良い。まあ、それが絶対に難しい。それは先入観を完全に切り捨てることであり、そのような器が十分にあれば、大芸術家になったり、万民を動かす大政治家、あるいは、大悪人になれるだろう。
逆に、絵を描くことで自分の器を制限する固定観念を見ることができる。私が絵を描く目的はそこにある。
こういった理由からも、絵とは見るものではなく、また、見せるものでもなく、描くものと思う。当然、下手であってよく、いや、下手でないといけない。絵を描くからには上手い絵を目指さないといけないかのような美術教育の洗脳に染まった愚人は無視し、誰でも絵を描くべきであろう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.02

給食

裕福でありながら、子供の給食費を払わない親がいるという話を聞いたことがあると思う。
給食といえば、私は2つのことを思い出す。

1つは、作家の太田治子(おおたはるこ)さんだ。父親は太宰治らしいが、母親(太田静子)とは別の妻とその子供がいたらしい。しかし、「治」の字が名前にあるように、認知はしてもらったらしい。もっとも、誕生の翌年、太宰は自殺している。
母親の静子は働きに働いたが、貧しく、学校でただ1人、給食費を払えなかった。担任の男性教師は彼女によそよそしく、彼女が得意であり、国語の時間の楽しみであった、本の朗読には決して彼女を指名しなかった。実は私も、本の朗読が得意であったが、小学2年生の時の年配の女性の教師とソリが合わず、彼女はある時期から露骨に私を指名しなくなった。子供には、得意を封じられることはなかなかきつい(大人でもか^^;)。

そもそも、給食というものが始まったのは、戦後、連合国総司令官ダグラス・マッカーサーの来日が関係する。これがもう1つの話だ。
マッカーサーは、当然、日本最高のホテルのビップルームに宿泊した。最初の日、彼の側近は、朝食のメニューをホテルに指定した。
翌朝、朝食の席についたマッカーサーは、ホテル側の誤りに抗議する。彼は、朝は目玉焼き2つを食べることを習慣にしていた。しかし、皿の上には、目玉焼きは1つしかない。
コック長は苦しい説明をする。一晩中、皆で町中探したが、卵は1つしか手に入らなかった。
マッカーサーは愕然とする。日本最高のホテルでさえ、最高の客に2つの卵が出せない。
調査を命じると、子供の栄養状態が非常に悪い。マッカーサーは、学校給食の実施に着手する。

「灼眼のシャナ」というアニメの第1話で、高校1年生の主人公、坂井悠二の朝食シーンがある。若く美人のお母さんが運んできた皿には、目玉焼きが2つ乗っている。テーブルには、サラダとトーストもある。悠二は皿を持ち上げ、2つの目玉焼きを口に滑り込ませる。いまや、日本にこれを羨む者はほとんどいまい。

給食費を払わない親に何かを言う気はない。彼らの思考パターンは、彼らが作ったものではない。彼らによって困っているだろう学校そのものが作ったのだ。学校以外に、そんな馬鹿を作る要因はない。そこに目を向けた者は誰もいないようである。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2007.05.01

プロのイラストレーターは間違いなく速描きの能力を持つらしいが、実際には、プロの絵描きであれば、その気になれば、誰でもそれなりに速く描けるに違いない。
有名な速描きの画家といえば、ピカソ、ゴッホ、モディリアーニというところが思い浮かぶ。ゴッホは、精神病院での1年間に150点を描き、ことごとく傑作であったという。
ピカソは、発表しないものも含めたら、毎日2点以上描いていたという話もある。
逆に、描くのが遅いというわけではないが、制作数が際立って少ないのがダ・ヴィンチだろう。作品は生涯で10数点に過ぎないというし、代表作の「モナ・リザ」は生涯手を入れ続けたようだ。
ムンクもまた、速描きで知られるが、彼の重要なターニング・ポイントとなった作品という「病める子」は何度も描き直したものだ。
私は、今はこの「病める子」がなんとも馴染む。他の人がこの絵をどう評しているかは知らないが、死と祝福の光に溢れているが、絵と対になって根源的な存在が見えてくる絵だ。しかし、それは自分の死を通してでないと見えてこない。
ムンクは、幼くして母が死に、姉と弟も若くして死に、自身も虚弱であった。幸いにして彼は長生きしたが、死を身近に感じていたのだと思う。
誰にでも、これまでの人生の中で、死の可能性をもった出来事というのがあるかもしれない。意外に物理学者にも支持者の多い、多世界解釈というものがあり、平行した無限の世界が存在し、それらは異なる可能性が実現された世界だ。1つの世界では、車にひかれそうになってひやっとしたくらいで済むが、平行する別の世界では重症を負ったり、死んだりしているかもしれない。それならば、誰でも死んでいることになるし、生き残っているのも、たまたまに過ぎないかもしれない。
特に私の場合は、奇跡的に生き延びたに過ぎないことが2度もあり、やはり死は親しい感じがする。
おかげで私は、身体も心も超えたし、時間も空間も超えた。
死を知れば、人生は充実するし、死を超えることもできる。
逆に、死を知らなければ、人生は自我に乗っ取られたまま幻想の中で過ごすことになる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« April 2007 | Main | June 2007 »