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2007.04.17

存在

人間の不幸や苦悩は、「存在」に注意を向けなくなったことから起きているように思う。
自分の意識が存在することから始まり、思考、感情、感覚があり、身体の存在が認識され、周りに存在するものが認識される。
存在は当たり前過ぎて、注意を払うほどではなくなったらしい。
一方では、存在論は認識論と並び哲学の主要テーマとなり、頭の良い人が「存在の根源とは何ぞや?」と考え続けたが、これが人類の幸福に寄与したことはない。何せ、それを考えている者の存在が不明であるというパラドクスがあるのだから。
存在は存在でしかないが、時間や空間に制限されないので、これらに依存する記憶や思考で捕えられるはずがない。

「存在感のある人」という人が実際に存在すると思っている人が多いかもしれない。学校や会社の美男美女や個性的な人、際立って有能な人、あるいは、身近な存在ではないカリスマ的なシンガーなどを思い浮かべるかもしれない。
そんな人たちは、特別な存在感を持っているのであろうか?
そんなことは嘘っぱちである。あなたが彼らに強い存在感を与えているだけである。
人でなくても、車好きなら、ある種の車に存在感を感じるし、その他、個人的な趣味により、何かに特別な存在感を感じるかもしれない。
しかし、何か大問題が起こったり、あまりに精神的に衝撃を受けた時は、普段、巨大な存在感を感じるものが、身近にあっても気付かないことすらある。
これで、「存在感」なんてものは自分が与えているだけであることが分かる。
そして、それは強い存在感でなくても、普通の存在感や弱い存在感でも同じである。
いや、存在ですら自分が与えているのだ。何かが存在するかどうかはあなた次第である。
あなたが存在を与えれば幽霊だって神だって存在する。

だが、存在というものを真面目に考えなくなったことで不幸が起こる。
自分が存在を与えたもののみが存在するのであるが、それは、「存在すると思う」だけである。それが実際に存在することは分からない。
そこでデカルトは、「疑っている我は確実に存在する」と結論した。しかし、尊敬するデカルトではあるが、コリン・ウィルソンと同じ反論をするしかない。「疑っていようがいまいが存在する」と。ただ、デカルトの言う我とは、究極の知的存在としての、神のような我であったと思う。誰かがデカルトに「我歩く、ゆえに我あり」で良いではないかと言い、デカルトは憤慨したが、うまく反論できない。歩くことと疑うことは、共に存在そのものとは無関係であることが共通するからだ。

人間とって、確かに存在すると言えるのは心だけである。その心が、他に存在を与えているだけである。こう言うと、神秘家あたりが、「いや実際の存在は真我である」と言うかもしれないが、認識できる存在としては心しかない。
ところで、この心というものは人間にしか存在しない。犬や猫にも心がありそうな感じはするが、そうではない。
ここはフロイト説を使うが、心は本能の代替品である。人間は本能が壊れているので、生きるために心を作ったのである。心は自我を形成し、自我は世界観のようなものを構築し、それに従って生きるようになった。しかし、自我の作る世界観ははなはだいい加減なもので、幻想と言って差し支えない。人間は、なんとも危ういものにすがって生きているわけである。
その自我が、幻想の中で、他に存在を与えるのである。その与え方により、何かを特に強い存在感を持つものと妄想する。分かりやすい例で言えば、プレスリーや尾崎豊や浜崎あゆみといったところである。
何が存在するかは、自我の世界観、すなわち、幻想次第である。

しかし、自分にとって唯一存在するものである自我に注意を集めると、ちょっとおかしなことが起こる。注意を向けられるということは、存在が現れることである。存在を与える自我が存在を与えられるのである。これをうまくやると、とたんに自我以外の存在が希薄となる。妙に嘘っぽく感じたり、現実感を失くしたりする。
存在を与える自我が存在を与えられると、他に存在を与える力が弱まりでもするようである。では、自我に存在を与えたものは何であろう。それが自我を超えているなら、いかなる描写もできないであろう。ただ、自我は、存在を与えることができないと、役割を失い、やがては消滅する。よくは分からないが、自我に存在を与えたものは、通常の人間では自我とぴったりと重なっているのであろう。それと分離してしまった自我は、存在の力を自在に発揮できず、やがては自ら滅びるようだ。
ただ、滅びるとは言っても、消えてなくなるわけではない。さほどのリアリティのない世界を構築するようになるだけだ。だが、そのおかげで、隠れていた世界のリアリティが前面に現れる。自我は自我としての機能を果たすツールとなるが、世界を悲惨に陥れる危険はもはやない。
そして、通常は自我の作る世界に隠れている存在こそ実在である。

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