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2007.04.12

「見守る」ことの本当の意味

「見守って下さい」という言葉を一度は聞いたことがあると思う。
しかし、どんな意味か真剣に考えたことはないと思う。
学校なんてものに行くと、何も真剣に考えないようになるのである。

「見守る」とは不思議な言葉だ。
決して、「いざとなったら何とかして」という意味合いではないと思う。
見ていてくれるだけで良いというのである。

「量子のミステリー」(マーミン)という本がある。マーミンは物理学者であり、これは量子力学に関する一般向けの本である。
この中で、野球ファンであるマーミンが、野球に関して自分が感じていた奇妙なことを最初に言う。つまり、自分がその試合を見ていた場合とそうでない場合は結果が異なるのではないかと感じたというのだ。これは、割に誰でも考えたことがあると思う。「私が見ていなかったから阪神が負けた」とかいうものである(笑)。
一級の物理学者さえそんなことを考え、わざわざ本に書くのであるから、何らかの根拠でもあるのかもしれない。
要は、人間の認識と現象世界の関係である。これについて、アインシュタインとインドの詩聖タゴールとの歴史的会話がある。タゴールは、現象は人間の意識の中にあると言う。人が月を月として見ないなら、それはもはや月ではない。

アインシュタインは「神はサイコロ遊びをしない」と言った。宇宙は完璧な法則の上に成り立っているはずであった。だが、神はサイコロを振るのだ。W.B.イェイツは、文章の中の登場人物の口を借りて言う。「ただ、神のサイコロには無限の目があるのだ。」
その無限の目と自分の意思を一致させた時、人は限りなく神に近付くのであると。

夢の中で、野球の巨人VS阪神戦を見て、巨人が勝ったとしたら、それは夢を見てる者の意志であろうか?もしそうなら、なぜ起きていて見ている時の試合結果が自分の意思でないのであろう?自分の意思かもしれない。だが、ほとんどの人は自我と共に生きているので、それが信じられないのである。

さて、「見守る」に戻る。
見守って欲しいのは誰だろう。愛する人や崇拝するような人だと思う。
そんな人に見ていてもらえたり、自分の行動を意識してもらっていると勇気が出たりするのであろう。極めて困難で辛い仕事を誰にも知られずに行うことは辛いことのようだ。
しかし、それならなぜ、自分が見守らないのであろう?
人が最も愛し、重要視するのは自分である。時々、「自分が好きですか?」などという質問を見たり聞いたりする。質問された者が何と答えようと、本当の答えは「好き」である。
美味しいものを食べたり、美しいものを見たり、良い音楽を聴きたがることの中に、自己への至上の愛が感じられる。そして、自己の悲惨を全力で避けようとする。
これほどまでに大切な自分が見守ることこそ最上である。
「天知る、地知る、子知る、我知る。」という楊震(ようしん)の有名な言葉がある。
(子知るとは、「あなたが知っている」という意味)
だが、重要なのは「我知る」だけである。

だが、本当に私は私のことを知っているのであろうか?私をちゃんと見ているのであろうか?
答を言うと、全く知らないし、全く見ていない。人が見ているのは自我が想像することである。
フロイトは、本能の壊れた動物である人間は自我が作る幻想をその代用品として生きているとし、心理学者の岸田秀氏はそれを深く考察し、「唯幻論」を唱えた。
しかし、それはほとんどの人が、自我と共に生き、それと闘ったことがないから、幻想の中でしか生きられないのである。
自分で自分を興味を持って慈悲深く見守るが良い。すると、「あの人」に見守られている時にはありえない奇跡が起こる。

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