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2007.04.18

なぜ死が恐いか?

なぜ、人が死を恐れるのか不思議だ。
これについて、意見を聞けばいろんな考えを聞けるが、聞くだけ疲れる(笑)。
そんな疲れる意見を言う気もないが、思い当たることがある。

人というのは、根本的には目立ちたがりなのだ。
引っ込み思案と言われる人だって、かまって欲しい人はいるはずだ。
別に不良少年でなくてもシカトされると面白くないのは、やはり人の注意を引きたいと思っているからだ。
そして、いじめのうちで最も厳しいのがシカトである。言ってみれば、完璧にシカトされている者は死んでいるに等しい。

シカトするということは、「お前は何でもない。存在しない」と宣言するようなものである。
つまり、人は「何でもない」ものであるのが恐いらしい。
所属する会社、学校、家族、そして名前すらない。それはなんとも悲惨であるらしい。
誰も自分に興味がない。野良犬や石ころほどの興味も持たれない。そんな状態が恐ろしいのかもしれない。

しかし、そんな「何でもない」存在であることには意味がある。その状態に耐えることは決して悪いことではない。
ところが、学校というものは、群れていないと非常に苦痛を味わう仕組みになっている。
よく、馬鹿な教育関係者が「いじめをなくそう」とか「いじめはなくせる」とか言ってるが、それには、学校内で1人でもちゃんと過ごせるようにするしかない。だが、それは無理なのだ。
学校というのは、賢くなる場所ではなく、馬鹿になりに行く場所である。自分で決してものを考えず、管理者が必要で、言うことを聞かせやすい人間を生産するのが学校の目的であるが、そのためには群れてもらわないと困るのだ。単独で行動すると、賢くなる可能性が高い。そんな行動を学校が許すはずがない。
その中でのいじめは悲惨だ。いじめられる方は、いじめる方に対して絶対的に弱い立場となるのだ。いじめの集団と縁を切ることすらできず、彼らに媚びるしかないのだ。これが地獄でないなら、どこに地獄があろう。

だが、できるものであれば、何でもない自分でいることに1人で耐えて欲しい。
そうなれば、誰も見なかったものを見るし、宇宙が丸ごと自分のものになるのも近い。
私なら、自分が無であることに耐える勇気がある。よって、死を恐れない。いや、もう死んでいるかもしれない。
だから幻想に生きることもない。
何でもない自分に孤独に耐えるチャンスを得て欲しい。失望はさせないだろう。

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