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2007.04.30

美術教育の破滅的効果

美術教育において、そもそも制作する目的が問題にされることがない。
絵で生活するプロは別だが、絵とは別に他人に見せるためのものでなくて良い。
私に関して言うなら、絵は心や感覚の歪みを見るのに実に都合が良いから描いている。
絵は、心や感覚の歪みをはっきり示す。絵はこの目的において簡単で便利だ。ただ、その絵の歪みに気付くのに数ヶ月かかる場合がある。しかし、慣れると、描いたその場で分かるようになる。
そもそもが、芸術なんて、ある種の心の歪みでしかないかもしれない。

だが、絵を描くテクニックを修得すると、心が歪んでいても絵が歪まなくなる。
商用イラストや、「きれいな絵」を描くにはテクニックや練習が必要だ。しかし、自分と対話するために絵を描くなら、テクニックは百害あって一利なしである。
イラストレーターや「きれいな絵」を描く画家になるのでもない限り、上手い絵を描く人に描き方なんて教わらない方が良い。いや、教わってはいけない。心を示すはずのものに他人の干渉を受ければ取り返しのつかないことになる。滅多なことでは取れない心の曇りになるのだ。それは、その者を一生不幸にするくらいの力はある。

20070430

毎週日曜に描いていたラクガキが、昨日できずに今日になりました。
一度「手抜きです」って、言ってみたいなあ。私はこれがせいぜい^^;
まあ、時間かけてない分は、やはり手抜きなのかなあ(笑)。
クリックすると、大きな絵がポップアップで出ます。

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2007.04.29

秘宝の本

私は変わった本を何冊か持っている。
本当は1冊で良いのだが、気分が変わる方が良い場合もある。

分からない人は次の文は無視のこと^^;
丁度、シャナが、アラストールが清めてくれるので着替えは必要ないが、気分で下着を替えるようなものだ。

で、その本は、読むたびに内容が変わるのだ。
別に本でなくて良いのかもしれない。妖怪でも仏でも。しかし、私に動揺を与えない配慮から、本の形を取り、その時々に必要な挑戦を私に仕掛けるのであろう。個人的には天使の姿をとってくれればありがたいが・・・いや、いずれそうなるかもしれない。

実を言うと、本というのは全てそうなのだ。ただ、読んでいる者が、それをはっきりと認識できないだけだ。サルトルも、それとなく言ってたように思う。
さっき読んだ本では、主人公の高校1年生の男子についてこう書かれていた。

お前は人ではない。存在を食われてすでに消えている。
いまは、本物の残りかすとしてしばらく存在する
しかし、それもすぐに消える
消えてしまえば、誰もお前を憶えていないし、お前が関わった跡は全て消える

この高校1年生の男子は愕然とし打ちのめされる。少女は、彼の態度を見定めようとする。
その時、私は本の中に入り込み、この男子と融合した。
私は答えた。
「そうかい?私には何の関係もないけどね」
少女はにっこりと微笑んだ。「やっと合格ね」

ああ、この本は誰でも買える。電撃文庫「灼眼のシャナ」(第1巻)。著者は高橋弥七郎という猫だ(笑)。

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2007.04.28

幻想のゴールデンウィーク

今日からGW(ゴールデンウィーク)とかいうものらしい。
だが、私と何の関係があるだろうか?
長い休みになり、遊びに行くかもしれない。
そうではなく、仕事が入り、毎日深夜0時過ぎまで働くことになるかもしれない。
あるいは、休みにはなったが、特にやることもなく、家で本を読んだりDVDを見るかもしれない。
しかし、そんなことは私とは何の関係もない。

数年前、GW中の取材番組で、楽しく休暇を楽しむ人々の映像の後で、スーツを着て出勤する男性の姿が出てくる。取材者は彼にインタビューを始める。
「お仕事ですか?」
「はい」
「お休みは?」
「ありません」
こんなやり取りの後、その男性は、いかにも辛そうに、「こんな人がいることも知って欲しい」と言った。

実は私も、正月からGW明けまで、1日の休暇もなく、毎日深夜まで働き、GW明けに倒れたという経験がある。
まあ、過労はよろしくはないが、それを除けば別にどうということもない。

遊びに行くとか、旅行でもすることになれば、それはきっと楽しいだろう。しかし、その楽しさは、「もしかしたら仕事になったかもしれないのに、遊ぶことができる」という楽しさでない。
仕事になれば、精神や肉体の疲労は当然あるだろう。しかし、「休暇で遊べるはずが、仕事になってしまった」と感じていっそう辛いというわけではない。

自我と共に生きないとは、こういうことである。
アーサー・ケストラーは、人間の脳は欠陥品だと悲観して自殺したし、岸田秀氏は人間は幻想の中で生きており、幻想に支えられた人間の自我は例外なく不安定であると唱えるが、自我と共に生きていない私には関わりのないことである。

ちなみに、私も一応は長い休暇の予定である。
それに備えて、16冊の小説を買い込んだ。
それは・・・「灼眼のシャナ」全巻である(笑)。
挿絵のいとうのいぢ氏の画集「いとうのいぢ画集 紅蓮」も購入した。
いとうのいぢ氏は、アダルトゲームの原画家で、この「灼眼のシャナ」でライトノベルの挿絵を手がけ、同じく挿絵を描いたライトノベルの「涼宮ハルヒ」シリーズが大ヒットし、一躍人気イラストレーターとして大ブレイクを果たした。
良い話である。アダルトゲームの原画家というのは、いくらかは引け目というのもあると思う。しかし、真面目に腕を磨いていれば報われることもあることを示してくれたと思う。
尚、いとうのいぢ氏の絵は、いかにも女性らしく繊細だし、明るく柔らかい。描かれる少女に歪んだ陰りがない。私は、この絵は本質的にはあまりアダルトには向かないと思う。
音楽の世界でも、アダルトゲームの音楽を作っていた人(グループ)がメジャーになることもある。ただ、現在のアダルトゲームの絵や音楽のレベルは非常に高いものが多い・・・らしい(笑)。別に照れるわけではないが、私はアダルト、ノンアダルトに関わらず、ゲームは一切しない。2年ほど前、内容が良いと聞いて、PCアダルトゲームの「KANON」を買ったが、結局いまだ封も開けていない。
なぜゲームをしないかというと、あまりに時間を浪費するからだ。
最近は「脳を鍛える」だのというゲームがあるが、あんなもので実戦的な能力が向上したりすることは絶対にない。時間の無駄以外の何物でもない。

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2007.04.27

百年バレない嘘

すぐにバレる嘘はやめた方が良い。
しかし、百年バレない嘘であれば有益であることも多い。
これは、世界的数理物理学者ロジャー・ペンローズの仮説「ツイスター理論」について、「ペンローズの量子脳理論」(徳間書店)で訳者か解説者が書いていたことだと思う(私もいい加減だなあ^^;)。
科学においては、嘘か本当か分からない仮設は、たとえ嘘であっても、研究者に素晴らしいヒントを与え、科学を発達させることがよくある。おそらく、「ツイスター仮説」もそのようなものだというわけだ。

2千年バレなかった嘘(というわけでもないが)の有名なものにユークリッドの「平行線の公理」がある。
「ある1点を通るある直線に平行な直線は1本である」というものだが、誰も証明できないものだから公理(正しいと仮定される事柄)から昇格できない。そして、これを証明しようとして、優秀な数学者が何人も人生を棒に振ったのだから、少なくとも数学者にとってはあまり有り難いものではない。ヤノーシュ・ボヤイもそんな数学者であったが、息子のウォルフガングがこの問題に取り組んでいるのを見て慌てて止める。
「お父さんを見なさい。これに取り組んだせいで、こんなに落ちぶれてしまったのだよ」
だが、息子は凄かった。「ある1点を通るある直線に平行な直線が1本であるとは証明できない。よって何本あっても良い」と、まっとうなことに気付いた。非ユークリッド幾何学の誕生である。

ところで、宗教においてはどうであろう?
キリストの教えが嘘かどうかはともかく、2千年もの間人類に影響を与え、その勢力はまだまだ健在である。何か、「年をとってもまだまだお元気」と言われて、若い嫁さんをもらう金持ちじいさんを想像する(何という発想^^;)。
で、イエスの教えは、人類にとって良いものだったのだろうか?
アイルランドのノーベル賞作家であり、20世紀最大の詩人とも言われるW.B.イェイツは、「再来(The second comming)」という詩の中で、「石のような2千年の眠りが、ゆらゆらと揺れるゆりかごによって悪夢をもたらした」と書いているが、石のような2千年の眠りとはキリスト教の2千年の歴史であり、それは悪夢をもたらしたとする。イェイツは、ニーチェやワイルド同様、アンチ・キリストである。

手塚治虫氏の有名な「ブラックジャック」という漫画で読んだことがあるが、貧民街で母親に虐待されながら育った若い男が、整形手術で死亡した金持ちの青年の顔になり、年老いたその青年の母親を騙して、富豪に収まろうとした。ところが、その母親に会うと、彼女は家の財産は全部なくなったと言い、彼は驚き後悔する。とりあえずは、ボロ家にその年老いた母親と住むが、彼は働くはずもなく、家でゴロゴロし、その年老いた母親が働く。だが、その母親は不満1つ言わず、息子と住めることを喜んで献身的に息子と思っている男の面倒を見る。
自分の母親とのあまりの違いに、男はかえって嫌悪感を抱いたかもしれないが、やがて彼は言う。「ママはもう働かなくていい。ボクが働く」。男は懸命に働き始めた。しかし、やがてすぐに、母親は事故で死ぬ。母親は死の直前に彼に打ち明ける。「私はあんたの本当の母さんじゃない。あんたを騙して金を取ろうと思ったのさ」

そういえば、男女関係でも、男が女を騙す時は、女は一生騙された方が良幸せな場合が多いらしい。
嘘とは奥が深いものである(笑)。

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2007.04.25

自我

自我というものが自惚れが強いことはご存知と思う。
今の時期では、会社では新入社員の扱いに手を焼く。新入社員は、表面的には先輩達を立てているが、本当は自分の方が優秀で、すぐに先輩達と立場が変わると思っている。まして、ぱっとしない中間管理職のおじさんなどは、新入社員の女子社員でも心の中で、そしてやがては態度でも露骨に見下すようになる。しかし、実際はどんなダメ社員でも、新入社員とは比較にならないくらい有能なのだ。

自我というものは完全に屈服させられるまでは諦めない。逆に言うと、完全に落胆させれば素直に従う。昔は、新入社員が壁にぶち当たることを避けさせなかったように思われるが、その時に彼らは自分の力不足を嫌というほど見せ付けられ、やっと「大人になる」。しかし、現在では、新入社員が壁に当たるのを避けさせるようになってしまった。そして、ベテラン自体が、壁に当たった経験がないということも普通になってきた。
現在は、世間中に、年齢的には老年・中年の幼児が溢れかえっている。彼らはある意味恐ろしい。

古いアニメでこんなものがあった。中学校の柔道部に新任のコーチが来る。コーチはまず、部員全員と乱取りを行い、全員を余裕で完膚なきまでに打ちのめし、実力の差を示す。そして言う。「ここまで実力の差を見せ付けられては、俺の言うことを聞かざるをえまい」。
実際は、学校教師というのは、見せ付ける実力など全くない。よく鍛えられた大人の中に入れられれば、大半が完全にガキである。それは、彼らも本当は分かっている。だから、生徒に対しては立場で威嚇するのである。これは、教師、生徒両方にとって不幸である。
中には、美術や音楽で、自分は相当なものだと思っている教師もいた。しかし、それは、せいぜいがある狭い限定された中でのことである。
こんなことがあった。生徒の前では虚勢を張って大物ぶっていた音楽教師がいた。彼は音楽教師としては、ちょっと優秀なのだろうが、音楽家とは程遠い。ところがある日、本物の大物音楽家が訪問してきて、その音楽教師が指導している学内クラブを指導した。その時の写真を新聞で見たが、その教師の歪んだ表情が印象的であった。さぞや心中穏やかでなかったであろうと気の毒に思った。

いい年をした者が尊大に振舞うようになるのはよくあることだ。自分自身は何か立派なことを達成したわけではない。いや、だからこそ尊大になる。男性では電車で脚を広げて座り、狭い道で向こうから人が来ても、肩で風を切って歩く。わが国では、それなりの敬老精神があるので、あえて彼らをたしなめる者もない。ところが、そんな男が車を運転していて、四つ角に止まっている車がちょっと邪魔で、派手にクラクションを鳴らした。まあ、「どかんか、この野郎」といった感じである。ところが、その停車していた車には人は乗っていなかったが、すぐ前の建物から5人ばかり男が出てきて、老人を車から引きずり出し、老人は両脇を2人の男に両側からロックされて建物の中に連れていかれた。その時の老人の哀れな顔は忘れられない。これで、その老人は「大人」になれたであろうか?それなら、多少痛い目に遭わされても、金を脅し取られても安いものである。

神か天使かは分からないが、それら至高の存在は私には好意的であるようだ。そんな状況を私に鮮明に見せてくれたのであるから。

以前、ネット上で交流のあった若い女性がいた。派遣で時々働いていたが、すぐにクビになる。その都度、上司が無能、社長が馬鹿と罵りまくっていた。そして、明らかに馬鹿げた根拠で自分の優秀さを主張する。この女性も、上にあげた老人と同じである。誰か、一度恐い目に遭わせてやって欲しいものだ。彼女も、「とても若い」という時期は過ぎてしまったようだ。

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2007.04.24

せめて嫌われたい

遠藤周作さんがご存命の時、何かのテレビCMで「どんどんイヤミ言って、どんどん嫌われる。そんなじいさんに私はなりたい」と言っておられた。
Watの小池徹平君のCMではないが「分かる分かるよ、君の気持ち」と思う(笑)。
嫌われる方が、相手にされない、無視されるよりずっとマシなのだ。

今日、道を歩いていると、見知らぬ中年の男性が向こうから歩いてきたが、彼は肩をゆすらせ、いかにも尊大に歩いていた。そして、私と接近した時に、なにやら大きな声で独り言を言ったが、意味もないもので私はさっぱり憶えていない。
その後、むこうから、オバサンが自転車に乗って私の方向に走ってきた。彼女は私と目が合うと、漫然と微笑み、やはり私とすれ違う時に、わけのわからない独り言を言った。
最初の男性は、いかにも誰にも相手にされそうにないタイプだ。ああやって、多少でも他人の注意を引きたいのだろう。
二人目のオバサンは、普通のオバさんであったが、若い人が彼女に用があることはないだろう。普通の女性であれば、若い時はそれなりに関心を持たれるものであるが、それが全くないことに苦痛を感じるのかもしれない。上にあげた、小池徹平君のCMのオバサン編のように「いまさらモテたって」と心配する必要は全くない。モテるとしたら、65歳以上のご隠居さんにであろう。

特定のものではなく、世界の全てに関心がある限り、関心を持たれないはずがない。
全てに関心が持てないなら、全てから関心を引き上げれば良い。そうすれば、世界は意のままである。

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2007.04.22

女子高生のイメージの嘘

これは、日本国民全員が知っておいて良いことだ(笑)。
例えば、「今の女子高生」「今の女子大生」といったら、それに対するイメージがあると思う。そのイメージは、当の女子高生や女子大生も、おじさんおばさんもそうは変わらない。ただし、実際には、そのイメージ通りの女子高生や女子大生は稀なのだ。

いまどきのオバさんといっても、大してイメージはない。ところが、女子高生や女子大生にはなぜか共通のイメージがある。それは、商業的目的でイメージが勝手に作られているだけだ。もちろん、誰にとっても関心度が高い女子高生や女子大生に商業効果が高いからである。

ところで、私には、女子高生や女子大生に関する固定のイメージなど全くない。なぜなら、学校教育に毒されていないからである。
知らず知らずに信じ込まされた女子高生のイメージ通りの女子高生なんて本当はいない。まず、このあたりから、国家や大企業(実は結託している)の洗脳を破って欲しい。
そして、当の女子高生や女子大生も、自分が世間で流行のイメージと全然違っていて当たり前だと知って欲しい。

20070422

日曜日恒例のラクガキです。
別に女子高生ではありません(笑)。
よく考えたら、システムエンジニアのラクガキなんて、なかなか見れるものではありませんよ(笑)。

クリックするとポップアップで大きな絵が出ます・・・と一応言っておきます^^;

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2007.04.21

豊と貧

いかに豊かな国と時代であれ、惨めな思いをする者はいるだろう。
大林宣彦監督の「さびしんぼう」という映画がある。
主人公の高校生ひろきは、放課後になると音楽室に1人の美しい女生徒が現れ、ピアノを弾いていることに気付き、毎日、カメラの望遠レンズで覗いていた(ストーカーか?^^;)。
その美少女は百合子という名で、ピアニストを目指していたが、放課後1~2時間の練習ではとても無理だということを理解していた。家にピアノを買う余裕はなかった。
ひろきはなんとか百合子と親しくなるが、今はやりのツンデレではないが、百合子の態度が急に冷たくなる。ひろきが困惑する中、百合子は学校に来なくなる。
ひろきが思い切って百合子の家の近くを訪ねると(百合子はひろきに家を教えたがらなかった)、およそ不似合いな着物を着た百合子が、街頭の店で小さな魚を買っていた。百合子は最初2匹頼んだが、値段を聞いて1匹にしてもらう。なんとなく、父親が病気で、学校を辞めざるをえない状況らしい。今、何をしているのかは分からないが、百合子は吹っ切れていて、ひろきにも明るく対応した。百合子はひろきの好意を知っている(ひろきは既に告っている)。百合子は言う。「反対側の顔は見ないで下さい」
富田靖子という、当時の人気アイドルを起用した映画ではあったが、大人の共感を呼んだと思う。黒澤明も絶賛したのである。
この時代であれば、自らも惨めさというものを体験している者が多かった。そんな者はたやすく百合子に同調でき、涙なくして見れないという訳である(本当か?)。

「フラッシュダンス」という映画で、ダンサーのオーディションのシーンがあった。大勢の受験者が全員でステージで思い思いに踊る。そこに指示が出る。「クラシックバレエの経験のない者は出ろ」と。試験管は、踊り続ける1人の女性に尋ねる。「きみ、クラシックバレエの経験は?」いかにも、そんな経験のなさそうな踊りであった。しかし彼女は「ないわ」と明るく答えて踊り続ける。試験管が「出ろ」と指図してもひるまない。試験管が強く「さっさと出ろ!」と命ずると、彼女は泣き出す。このシーンも、見た者のバックグラウンドで反応は変わる。彼女は家が貧しくクラシックバレエのレッスンを受けることができなかったが、彼女なりに努力したのだろう。もしかしたら、子供の頃、バレエ教室に通う子供達をうらやんだかもしれないとまで考えるのは苦労人である。

特に芸術分野は金がかかる。絵に関しては、案外我流の画家が多いが、音楽やダンスで一流になるには、良い学校で指導を受けることが必要と思う。そして、その費用はかなり高い。

もっとありふれた例である。
ある優良企業の入社式を見た。新入社員は全員、有名大学・大学院の卒業生である。
しかし、彼らに能力・人間性共、決して劣らない者が、はるかに低く、そのままでは将来も知れたような場所にいる。
学業の成功は、本人の努力ももちろん大切であるが、家庭の裕福さのアドバンテージは高い。昔であれば、家に電燈がないので、街灯の下で勉強して優れた成績で卒業したという話もあるが、現在の良い学習塾は、お金もかかるが、指導力や受験対策などは公教育など話にならないくらい進歩している。能力・努力が同じなら、裕福な者とそうでない者とが勝負するのは、コンピュータ化された装甲車に竹やりで対抗するようなものだ。
だが、なんとか竹やりで勝って欲しいと願うのである。勝ち方にもいろいろあるのだから。

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2007.04.20

成長すべきは大人だ

小説でも漫画でも映画でもアニメでも、主人公というのは若い場合が多い。子供であることも珍しくはない。主人公が老人であるものは少ない。
そして、主人公は変化していく場合が多い。大多数は良い方に成長する。

家庭であれ、学校であれ、あるいは、武道や芸術の教室であれ、子供の成長とは喜ばしいものであることは間違いないが、重要なことを見落としてはならない。
それは、成長しない大人の下で、子供が正常に成長することはないということだ。
子供に、「勉強しろ」「熱心に取り組め」「こんなところを直せ」と指示したところで、そう言う大人が不勉強で、いい加減で、欠点を指摘されるとただ憤慨するようでは、強制される子供に歪みが出るのは当然である。

教育の問題なんて、実はこういったことなのだ。大人が成長すれば子供はそれを見て成長するが、自分を顧みない大人に強制された子供はおかしくなるのである。

「灼眼のシャナ」という、中・高校生を中心に大変に人気のある小説がある。
この中に、いかにも反感を持たれそうな体育教師が登場する。生徒を威圧し服従させることに満足を求める典型的教師像である。彼は主人公のシャナという少女に厳しい制裁を受ける。
実は私は小説を読んでいないのだが、この体育教師はその後も登場し、しかも成長するらしい。「灼眼のシャナノスベテ」というガイドブックには、「大人は子供に成長する姿を見せる存在であるべき」といった解説があった。
なかなか素晴らしい作品であるようだ。
尚、ガイドブックが出るだけあり、この作品の複雑さは半端ではない。登場人物の数は凄いが、それぞれがいろいろな呼び名を持ち、そのキャラクタや登場人物同士の関係性も複雑だ。使われる固有名詞も膨大で、その意味も把握する必要がある。
私は、これのアニメの主題歌の1つのタイトルが「being」で、歌が(作詞作曲も)KOTOKOさんであるいという理由だけでDVD全部を購入し、全23話を一気に視聴し、このガイドブックに目を通して、ほぼ把握できた。しかし、正直言って、30歳以上の方には、あまりお勧めする気にはならない(笑)。

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2007.04.19

偶然を手なずける

書店の、自己啓発のコーナーに行くと、いわゆる願望達成法の、軽いタイトルの本がやたら目につく。

「魔法のように」「努力なしに」「(超)簡単に」「嘘のように」願いがかなうという心トキメクものである(笑)。タイトルの通り、内容は全部嘘である(笑)。
著者の写真が載っている場合もあるが、全て胡散臭い怪しい連中ばっかり・・・というのは、まあ、主観かもしれぬが(笑)。

仮に、何でも願いがかなう魔法のランプをくれると言われたら、私なら絶対に断る。理由は2つだ。
1つは、そんなものは絶対にないのだから、もらっても仕方はないという理由(笑)。
もう1つは、万が一、いや、京の京倍に1(笑)、そんなものがあっても、願いの成就と共に、もっと大きなものを失うことが確実だからだ。
精神的に幼い未熟な人間の願いをかなえていたらどういうことになるかは、どこぞの独裁国家が証明しているではないか。見たら学べよと言いたい。

そんな本を読んでいる人間に、かなえたい願望とは何か・・・は、絶対に聞きたくないなあ(笑)。アホらしくて呆れかえるか、恥ずかしくて聞いていられないだろうことは確実だ。
それらの本が、あなたの状況を良くすることはない。大抵はより悪くするだけだ。

ところで、私には望みは何もない。よって、騙されることはない。
クリスチャンは「試みに遭わされませんように」と祈るそうであるが、私ならそんことは考えない。人生の挑戦はすみやかに受けて立つ。
予期せぬ出来事は全て喜んで受け入れる。なぜなら、それが自分の意思でもあるからだ。
そう宣言する時、偶然はたちまち平伏する。
そして、私もまた気紛れである。だから最も美しい天使と気が合う。
ほとんどの者は、偶然が横柄にドタバタと踏み込んでくると、慌て色をなす。だが、私はもっと横柄に彼らを迎えるのである。

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2007.04.18

なぜ死が恐いか?

なぜ、人が死を恐れるのか不思議だ。
これについて、意見を聞けばいろんな考えを聞けるが、聞くだけ疲れる(笑)。
そんな疲れる意見を言う気もないが、思い当たることがある。

人というのは、根本的には目立ちたがりなのだ。
引っ込み思案と言われる人だって、かまって欲しい人はいるはずだ。
別に不良少年でなくてもシカトされると面白くないのは、やはり人の注意を引きたいと思っているからだ。
そして、いじめのうちで最も厳しいのがシカトである。言ってみれば、完璧にシカトされている者は死んでいるに等しい。

シカトするということは、「お前は何でもない。存在しない」と宣言するようなものである。
つまり、人は「何でもない」ものであるのが恐いらしい。
所属する会社、学校、家族、そして名前すらない。それはなんとも悲惨であるらしい。
誰も自分に興味がない。野良犬や石ころほどの興味も持たれない。そんな状態が恐ろしいのかもしれない。

しかし、そんな「何でもない」存在であることには意味がある。その状態に耐えることは決して悪いことではない。
ところが、学校というものは、群れていないと非常に苦痛を味わう仕組みになっている。
よく、馬鹿な教育関係者が「いじめをなくそう」とか「いじめはなくせる」とか言ってるが、それには、学校内で1人でもちゃんと過ごせるようにするしかない。だが、それは無理なのだ。
学校というのは、賢くなる場所ではなく、馬鹿になりに行く場所である。自分で決してものを考えず、管理者が必要で、言うことを聞かせやすい人間を生産するのが学校の目的であるが、そのためには群れてもらわないと困るのだ。単独で行動すると、賢くなる可能性が高い。そんな行動を学校が許すはずがない。
その中でのいじめは悲惨だ。いじめられる方は、いじめる方に対して絶対的に弱い立場となるのだ。いじめの集団と縁を切ることすらできず、彼らに媚びるしかないのだ。これが地獄でないなら、どこに地獄があろう。

だが、できるものであれば、何でもない自分でいることに1人で耐えて欲しい。
そうなれば、誰も見なかったものを見るし、宇宙が丸ごと自分のものになるのも近い。
私なら、自分が無であることに耐える勇気がある。よって、死を恐れない。いや、もう死んでいるかもしれない。
だから幻想に生きることもない。
何でもない自分に孤独に耐えるチャンスを得て欲しい。失望はさせないだろう。

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2007.04.17

存在

人間の不幸や苦悩は、「存在」に注意を向けなくなったことから起きているように思う。
自分の意識が存在することから始まり、思考、感情、感覚があり、身体の存在が認識され、周りに存在するものが認識される。
存在は当たり前過ぎて、注意を払うほどではなくなったらしい。
一方では、存在論は認識論と並び哲学の主要テーマとなり、頭の良い人が「存在の根源とは何ぞや?」と考え続けたが、これが人類の幸福に寄与したことはない。何せ、それを考えている者の存在が不明であるというパラドクスがあるのだから。
存在は存在でしかないが、時間や空間に制限されないので、これらに依存する記憶や思考で捕えられるはずがない。

「存在感のある人」という人が実際に存在すると思っている人が多いかもしれない。学校や会社の美男美女や個性的な人、際立って有能な人、あるいは、身近な存在ではないカリスマ的なシンガーなどを思い浮かべるかもしれない。
そんな人たちは、特別な存在感を持っているのであろうか?
そんなことは嘘っぱちである。あなたが彼らに強い存在感を与えているだけである。
人でなくても、車好きなら、ある種の車に存在感を感じるし、その他、個人的な趣味により、何かに特別な存在感を感じるかもしれない。
しかし、何か大問題が起こったり、あまりに精神的に衝撃を受けた時は、普段、巨大な存在感を感じるものが、身近にあっても気付かないことすらある。
これで、「存在感」なんてものは自分が与えているだけであることが分かる。
そして、それは強い存在感でなくても、普通の存在感や弱い存在感でも同じである。
いや、存在ですら自分が与えているのだ。何かが存在するかどうかはあなた次第である。
あなたが存在を与えれば幽霊だって神だって存在する。

だが、存在というものを真面目に考えなくなったことで不幸が起こる。
自分が存在を与えたもののみが存在するのであるが、それは、「存在すると思う」だけである。それが実際に存在することは分からない。
そこでデカルトは、「疑っている我は確実に存在する」と結論した。しかし、尊敬するデカルトではあるが、コリン・ウィルソンと同じ反論をするしかない。「疑っていようがいまいが存在する」と。ただ、デカルトの言う我とは、究極の知的存在としての、神のような我であったと思う。誰かがデカルトに「我歩く、ゆえに我あり」で良いではないかと言い、デカルトは憤慨したが、うまく反論できない。歩くことと疑うことは、共に存在そのものとは無関係であることが共通するからだ。

人間とって、確かに存在すると言えるのは心だけである。その心が、他に存在を与えているだけである。こう言うと、神秘家あたりが、「いや実際の存在は真我である」と言うかもしれないが、認識できる存在としては心しかない。
ところで、この心というものは人間にしか存在しない。犬や猫にも心がありそうな感じはするが、そうではない。
ここはフロイト説を使うが、心は本能の代替品である。人間は本能が壊れているので、生きるために心を作ったのである。心は自我を形成し、自我は世界観のようなものを構築し、それに従って生きるようになった。しかし、自我の作る世界観ははなはだいい加減なもので、幻想と言って差し支えない。人間は、なんとも危ういものにすがって生きているわけである。
その自我が、幻想の中で、他に存在を与えるのである。その与え方により、何かを特に強い存在感を持つものと妄想する。分かりやすい例で言えば、プレスリーや尾崎豊や浜崎あゆみといったところである。
何が存在するかは、自我の世界観、すなわち、幻想次第である。

しかし、自分にとって唯一存在するものである自我に注意を集めると、ちょっとおかしなことが起こる。注意を向けられるということは、存在が現れることである。存在を与える自我が存在を与えられるのである。これをうまくやると、とたんに自我以外の存在が希薄となる。妙に嘘っぽく感じたり、現実感を失くしたりする。
存在を与える自我が存在を与えられると、他に存在を与える力が弱まりでもするようである。では、自我に存在を与えたものは何であろう。それが自我を超えているなら、いかなる描写もできないであろう。ただ、自我は、存在を与えることができないと、役割を失い、やがては消滅する。よくは分からないが、自我に存在を与えたものは、通常の人間では自我とぴったりと重なっているのであろう。それと分離してしまった自我は、存在の力を自在に発揮できず、やがては自ら滅びるようだ。
ただ、滅びるとは言っても、消えてなくなるわけではない。さほどのリアリティのない世界を構築するようになるだけだ。だが、そのおかげで、隠れていた世界のリアリティが前面に現れる。自我は自我としての機能を果たすツールとなるが、世界を悲惨に陥れる危険はもはやない。
そして、通常は自我の作る世界に隠れている存在こそ実在である。

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2007.04.15

本当の詩人とは

詩の中でも、深い真理を伝える詩には、隠し言葉や象徴が使われることはご存知と思う。
例えば、唐突に「星が消えた」という言葉が出た場合、書かれている通りに空の星のことではなく、その星は希望を表しているといった具合である。まあ、これはあくまで分かりやすい例で、本格的な隠し言葉では、それが何の象徴であるか、いや、それどころか、隠し言葉であることすら気付かれない。
なぜそんなことをするかというと、真理というものは、それを表す的確な言葉がなかなかないからだ。
そして、その象徴を解釈するのは何だろうか?それを内なる知性と言っても良いが、その力と親しい者は少ない。だが、詩人は人々の内なる知性に語っている。いや、正確には、その詩が内なる知性なのだ。本当の詩人や本当の詩とはそのようなものだ。

20070415

さて、日曜日はラキガキをする日にしております。
この体勢から、右回転しながら右手の甲を相手に叩きつけるフリッカーパンチは、女性でもなかなか威力があります・・・なんて絵ではありません^^;

左の絵をクリックすると、大きな絵がポップアップで出ます。

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2007.04.13

「真逆」は「正反対」より良い

少し前から「真逆(まぎゃく)」という言葉をよく聞くようになった。いわゆる新語で、意味は「正反対」と同じだ。
おそらく、人によっては違和感を感じたり、批判的に見ることもあると思う。
ところが、考えてみれば、「正反対」より「真逆」の方が正しい日本語である。

「真逆」「正反対」の「真」と「正」は続く言葉を強調する働きをしている。
「逆」と「反対」は大体同じ意味なので、その強調語も引っくり返しても問題はないと思うが、「真反対」は良い感じで、「真逆」流行以降、実際に使われるようになったらしいが、「正逆」はおかしい。
つまり、「正」という字には、「正邪」「不正」というように、それだけで「正しい」とか「正義」という意味があり、かなり色付きの単語だ。
一方、「真」も「真偽」とか言うし、「真なり」と言えば、「正しい」という意味であるが、それえは単に「ミスのない正解」といったもので、「正」のように善悪の善といった意味合いはない。その意味で透明な単語である。
「真意」と言えば、単に「本当の意志」であり、特に善悪は問わないが、「正意」(こんな言葉はない)と言えば、なんとなく高尚な雰囲気になる。
同じく、「真因」「真空」「真水」の真を正と置き換えることが出来ないように、「真」は客観的で冷静であるが、「正」はやはり道徳的倫理的な意味合いが入る。
それで言えば、「正反対」は、「正」をまるで「真」のように冷静で透明な意味で使っているのであり、やはり「真」を使う方が正しい。

「正面」なんて言葉がある。これも本来は「真っ直ぐ前」というように、「真」を使う方が適切である。どうも「正面」という言葉は、本来は、人と人とが真っ直ぐに向き合うといった意味で、いかにも公明正大な雰囲気を表したのだと思う。
そして、面白いことに「真正面」といった「真」と「正」を重ねた言葉があるが、これは「正面」がまさに「正しい面」であり、正々堂々の様子を示したと思うが、「真」がこれを強調している。つまり、「正」はやはり「正邪の正」であり、「真」が強調である。
よって、「逆」や「反対」の意味を強調するには、やはり「真」が正しいと思う。

私が初めて「真逆」という言葉を聞いたのは、アニメ「ふたりはプリキュア」のオープニング主題歌である「DANZEN!ふたりはプリキュア」の中の、「真逆のキャラでも相通じてる。夢を生きる力」という歌詞であった(テレビでは使用されない2番の詞である)。
「真逆のキャラ」は、従来の言い方では「正反対のキャラクター(性格)」となる(尚、キャラクター商品のキャラクターは「登場人物」という意味である)。
最初、音だけで「まぎゃくのキャラ」と聞いた時、「え?何のキャラ?」と思った。「キャラ」は分かるが、「真逆」は知らなかったのである。しかし、このアニメソングで印象を強く持って憶えた。
幼稚園から小学校中学年までの女の子向きのアニメの歌を聴くのもなかなか大変である。
ちなみに、私は今でもほのかのファンである(聞いてないって・・・)。

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2007.04.12

「見守る」ことの本当の意味

「見守って下さい」という言葉を一度は聞いたことがあると思う。
しかし、どんな意味か真剣に考えたことはないと思う。
学校なんてものに行くと、何も真剣に考えないようになるのである。

「見守る」とは不思議な言葉だ。
決して、「いざとなったら何とかして」という意味合いではないと思う。
見ていてくれるだけで良いというのである。

「量子のミステリー」(マーミン)という本がある。マーミンは物理学者であり、これは量子力学に関する一般向けの本である。
この中で、野球ファンであるマーミンが、野球に関して自分が感じていた奇妙なことを最初に言う。つまり、自分がその試合を見ていた場合とそうでない場合は結果が異なるのではないかと感じたというのだ。これは、割に誰でも考えたことがあると思う。「私が見ていなかったから阪神が負けた」とかいうものである(笑)。
一級の物理学者さえそんなことを考え、わざわざ本に書くのであるから、何らかの根拠でもあるのかもしれない。
要は、人間の認識と現象世界の関係である。これについて、アインシュタインとインドの詩聖タゴールとの歴史的会話がある。タゴールは、現象は人間の意識の中にあると言う。人が月を月として見ないなら、それはもはや月ではない。

アインシュタインは「神はサイコロ遊びをしない」と言った。宇宙は完璧な法則の上に成り立っているはずであった。だが、神はサイコロを振るのだ。W.B.イェイツは、文章の中の登場人物の口を借りて言う。「ただ、神のサイコロには無限の目があるのだ。」
その無限の目と自分の意思を一致させた時、人は限りなく神に近付くのであると。

夢の中で、野球の巨人VS阪神戦を見て、巨人が勝ったとしたら、それは夢を見てる者の意志であろうか?もしそうなら、なぜ起きていて見ている時の試合結果が自分の意思でないのであろう?自分の意思かもしれない。だが、ほとんどの人は自我と共に生きているので、それが信じられないのである。

さて、「見守る」に戻る。
見守って欲しいのは誰だろう。愛する人や崇拝するような人だと思う。
そんな人に見ていてもらえたり、自分の行動を意識してもらっていると勇気が出たりするのであろう。極めて困難で辛い仕事を誰にも知られずに行うことは辛いことのようだ。
しかし、それならなぜ、自分が見守らないのであろう?
人が最も愛し、重要視するのは自分である。時々、「自分が好きですか?」などという質問を見たり聞いたりする。質問された者が何と答えようと、本当の答えは「好き」である。
美味しいものを食べたり、美しいものを見たり、良い音楽を聴きたがることの中に、自己への至上の愛が感じられる。そして、自己の悲惨を全力で避けようとする。
これほどまでに大切な自分が見守ることこそ最上である。
「天知る、地知る、子知る、我知る。」という楊震(ようしん)の有名な言葉がある。
(子知るとは、「あなたが知っている」という意味)
だが、重要なのは「我知る」だけである。

だが、本当に私は私のことを知っているのであろうか?私をちゃんと見ているのであろうか?
答を言うと、全く知らないし、全く見ていない。人が見ているのは自我が想像することである。
フロイトは、本能の壊れた動物である人間は自我が作る幻想をその代用品として生きているとし、心理学者の岸田秀氏はそれを深く考察し、「唯幻論」を唱えた。
しかし、それはほとんどの人が、自我と共に生き、それと闘ったことがないから、幻想の中でしか生きられないのである。
自分で自分を興味を持って慈悲深く見守るが良い。すると、「あの人」に見守られている時にはありえない奇跡が起こる。

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2007.04.11

出来事の本質

「会話をする」という。正しくは「会話がある」だ。
「私は怒った」という。正しくは「怒りがあった」である。
「経理業務をした」という。正しくは「経理業務の遂行があった」である。
画家は絵を描いていると思っている。しかし、画家は絵が完成するのを見ているだけだ。

そこここに、悲惨や理不尽が存在している。
だが、我々は、人々の状況を見て嘆いたり憤慨するが、悲惨や理不尽を見ないのだ。よって、悲惨や理不尽はなくならない。
怒りに身をまかせるだけで、怒りの本質をみない。それで、怒りは絶えることはない。
ものごとはただ起こるのである。だが、心は出来事と自分を同一化し、自分がものごとを起していると思い込む。
ものごとを、単に起こるものとして見た時、心のトリックに気付くだろう。そして、出来事にさしたる関心を持たなくなり、その影響を受けなくなる。あるいは、あらゆる出来事を予期せぬものとして歓迎するようになるだろう。

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2007.04.10

馬鹿は死ねば治るか?

「馬鹿は死ななきゃ治らない」と言う。ほとんどの人が気付かないだろうが、何とも意味深い言葉である。
さて、馬鹿とは何であろうか?
馬鹿の反対は賢明となる。賢明は馬鹿ではない。
では、賢明となるにはどうすれば良いか?
これも人類の軽く9割以上は誤解しているが、何もしなくて良い。逆に馬鹿になる方法ならある。そして、馬鹿になるために必要なことをしなければ賢くなれる。
本を読んだり学校に行けば馬鹿になることは、十分に証明されていると思うが、なぜかそれがやめられない。よって馬鹿は増えるのである。

ところが、どう見ても賢い人が、非常に沢山の本を読んでいたり、場合によっては先生に教わっていたりすることが納得できないだろうか?
私には全く自然なことである。

ジョー・ジェラードという人物をご存知だろうか?
1年で自動車を1425台売った世界記録がギネス認定されている往年のセールスマンである。
彼の言ったことで憶えていることがある。
「誰でも、優秀なセールスマンとしてスタートする」
ほとんどのセールスマンは、ダメなセールスマンになることなら何でもやるのだ。

何もしないというのは、ずっと寝ていることではない。
必要なことをやるということだ。
必要なことをしている時には、それをやっているのが自分であるという自覚はない。
何ごともうまくできない者というのは、不必要なことを多くやる者である。そんな者に注意を与えるとすれば「自覚を持て」は誤りで、「おしゃべりするな」「ゲームをするな」「お菓子をいつまでも食べているな」「あまり多くビデオを見るな」といった感じになる。

さて、では、人はなぜ、有害で不必要なことをするのであろうか?
それが心(自我と限定する言い方を好む者もいる)の性質であるからだ。
つまり、死すべき馬鹿とは心である。心が死ねば馬鹿が治るのである。
ところで、「美しい心」など存在しない。「清らかな心」なら存在する。死んだ心が「清らかな心」である。死んだ心は、人を不合理な行為に駆り立てない。
心は落ち着かず、際限なく欲望を引き起こし、恐怖や不安を解消しようと馬鹿なことを何でもやってのける。特に死を恐れ、自己を死から守るために、特に馬鹿なことをする。

宗教でも、このあたりは理解していたと思われ、心を滅却するための方法を考えてきた。しかし、少しの間静まった心は、すぐにまた立ち現れる。おかしなことに、無理に抑えた心は、より強大になる。宗教関係者の堕落振りが特に凄まじい理由はこれである。
心の正しい殺し方を知らないのだ。それが分からないのは、心の本当の機能を知らないからだと思う。
心は、死んでしまったら、ちょっとしたマジシャンのようになる。それは楽しいことをしてくれるが、もはや馬鹿な行為に駆り立てることはない。

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2007.04.08

5本脚のカエル

漫画家の白土三平氏は、「カムイ外伝」という漫画の中で、3本の腕を持つ忍者を登場させた。白土氏は、子供の頃、前足が3本あるカエルを実際に見つけたことがあるらしいが、その経験から思いついたものらしい。
その3本腕の忍者は、「俺はこれ(3本腕)ゆえに忍び(忍者)になった」と言う。
おそらくは、3本腕のため、仲間外れにされたり迫害されたりで、まっとうな道では生きていけなかったのであろう。
白土氏は、5本脚のカエルを見たことで、いろいろ考えたようだ。
現在ですら、我々は自分と異なる人間を差別し、のけ者にするといったことを露骨にやることさえある。それも、コミュニケーションのスタイルが違うといった些細なことでも我慢ができなかったり、努力家だから嫌だとかいう場合すらよくあることだ。
いじめの問題も、こんなところに原因があるのかもしれない。自分と異なった人間を認めれば、それだけ自分の存在が危うくなるという奇妙な恐怖が人間にはあるようだ。
どんな相手も取り立てて好きにならなくても良いが、憎んではならない。イェイツは、人間に(神の領域である)愛は分からないが、憎しみは分かるゆえ、憎むのをやめれば良いと言った。人間の本当の優しさとは、恋人を理解することではなく、誰にでも同じように接してあげることである。

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今週も、日曜日のラクガキをしました。
絵をクリックすると、ポップアップで大きな絵が出ます。

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2007.04.07

ホウレンソウとメロンパン

ホウレンソウとメロンパンにどんな関係があるかというと、特には無い(をい)。
また、この2つを同時に食べると美味しいかと言うと、多分合わないだろう(笑)。
ただ、私にとって、この2つは、人間の精神なんて案外にシンプルであり、制御することもコツが分かれば簡単に違いないと思わせるものだ。

昔、アメリカの子供達はホウレンソウをあまり食べなかったらしい。まあ、特に良い調理法を用いない限り、いつの時代のどこの国でもそうであろう。わが国では、ピーマンかニンジンになるであろうか?
しかし、「ポパイ」という漫画・アニメが登場し、ホウレンソウを食べて百人力となって悪者をぶっとばすポパイを見て、子供達はホウレンソウを喜んで食べるようになったという。
それなら、日本では、仮面ライダーが変身の際、ニンジンをバリっと食べるようにすれば良かったのにと思うが、教育委員会に感謝されても何にもならないからという訳でもなかろうが、そんなことはしなかった。
それどころか、「美少女戦士セーラームーン」では、子供達に最も人気のあったセーラーちびムーンことちびうさや、セーラームーンこと月野うさぎの彼氏の衛もピーマンが大嫌いで、残してしまおうとしていた(うさぎに怒られて仕方なく食べたが)。
また、「ふたりはプリキュア」の最初の2期のヒロインの一人、美墨なぎさは玉ねぎが嫌いで、やはり食べようとしなかった。
逆に、「カードキャプターさくら」や「ふたりはプリキュア」では、もともと子供達に人気のあるたこ焼きの人気をさらに押し上げた感もある。
私は、子供の科学教育に関係していたが、やはり「ふたりはプリキュア」の雪城ほのかに憧れて化学好きになった女子小学生は多かった。

さて、私の話で恐縮であるが、これまで全く買ったことも、好んで食べたこともないメロンパンを外出の度に買って帰っている。そして、実に美味しく楽しく食べている。これは、人気小説・漫画・アニメである「妁眼のシャナ」のヒロインのシャナ(フレイムヘイズという戦士)がメロンパンを溺愛するが故である。
まことに人間の精神とはシンプルである(笑)。

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2007.04.06

真に価値あるもの

日本では見られないような、壮大荘厳な大自然の風景を見て感動しても、それは一時的なものだ。
例えば、ナイアガラの滝を見て、「この感激は一生忘れない」と思っても、次はオーロラを見たくなる。
宇宙から地球を見て、全く別の人間に生まれ変わったように感じる宇宙飛行士も多いと聞くが、それも頻繁に見れるとやがて飽きてしまう。
死ぬほど恋焦がれた人と結ばれても、その幸福感は長くは続かない。結婚に至った場合、もはや恋人ではなく家族であるという認識を早く持たないと、裏切られたような気分になるだろう。
毎年、新しいアニメ作品が作られ、ヒットするものもあるが、過去に似たような作品がある場合も多い。どんなに夢中になった作品も、時がたてば色褪せ、新しいものを見たくなる。

人は誰でも、愛すべきもの、価値あるものを求めてさ迷う。
これこそ、この世を構成している幻想の罠である。
一時的には心や身体を楽しませるものも、長続きはしない。この世のいかなるものも永遠ではない。
永遠の代償は、これら有限全てである。不死の代償は死である。
マインドを使わず、何が起こるかただ見ていれば良い。
仕事をするが良い。いかに立派な仕事をやり遂げても、我々は実際には何もしていない。それはただ起こるのである。
そうすれば、真に価値あるものを見つけるし、永遠も手に入れるチャンスがあるだろう。

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2007.04.05

群れる宗教の愚かしさ

私にとっても、宗教というもののイメージは大変に悪い。
いったい、誰のせいか?^^;
おそらくは、ほとんどの宗教が持つ、権威主義、排他主義、選民思想、拝金主義が、あまり宗教に興味のない私にも伝わってくるのであろう。
キリスト教といえば、私の考えでは、聖書1冊(あるいは、新約・旧約の2冊)があれば十分と思っているが、洗礼を受け、協会に所属しないと「一人前」のクリスチャンではないらしいのである。馬鹿げた話だ。
しかし実際、あるアイドルタレントが「洗礼は受けていないけどクリスチャンです」と言ったところ、「本物」のクリスチャンが、「洗礼を受けずにクリスチャンってことはないだろ、バーカ!」と言うのを聞いたことがある。
また、「聖母マリアが処女でなければキリスト教が成り立たないわけでなし、どうでもいいことだろうと」言ったら、やはり「本格派」の信者が、「それはキリスト教の大前提ですので、マリアが処女でなければキリスト教は成り立たない」と言う。団体宗教もまた、教育と同じく偏見を植え付けられるものでしかないようである。

もちろん、好きなら教会など、宗教団体に属せば良い。しかし、本当に宗教を実践するのに、そんなことをする必要は絶対にないと断言する。
最近、アクセサリーとして売られているロザリオはケバケバしいものが多く、本来の意味を持たないものが多いが、もし、心を向けるのに役に立つなら持っていても良いと思う(シンプルなのが良い)。後は、新約だけでも良いので、聖書を心静かに読めれば、立派なクリスチャンと思う。こう言うと、「聖書の解釈は難しく、指導者が必要だ」と言う者がいるかもしれない。しかし、そんなものは必要はない。聖書の解説書なら沢山出ており、自分でどれが良いかを選べば良い。教会に属せば、歪んだただ1つの解釈を押し付けられる恐れがあり、あえてそんなリスクを背負う必要もなかろう。

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2007.04.04

星の王子様

少し前から、書店で、表紙の絵を見て「星の王子様」だと思ったら、「小さな王子」といったようなタイトルの本をよく見る。それも、様々な出版社のものがある。
フランス語の原題がLe Petit Prince(小さな王子)なのだが、日本ではこの作品は従来、岩波書店が独占で販売し、そのタイトルが「星の王子様」であるので、これがすっかり浸透してしまっているのである。
ではなぜ、最近になって原題通りのものが沢山出てきたのかというと、著作権切れとなったからであり、原文が自由に使用できるので、誰でも自分で翻訳して出版しても構わないという訳である。
ただ、「星の王子様」という題名は、岩波書店版の翻訳者である内藤濯(ないとうあろう)氏の考案であり、勝手にこの題名を使って良いものかどうかは分からないが、岩波書店の方では、このことを明記してもらいたいとだけ述べている。これは論創社が「星の王子様」の書名で新訳を出版したことに対してのコメントであるが、論創社の本に関しても重版からで良いとしたようだ。
岩波書店の主張の理由は、あくまで、内藤濯の創造的営為に対する敬意を示して欲しいというものである。

こんな話を聞くと、すぐに思い浮かぶのは、ダンテの「神曲」である。
実に数多くの翻訳が出ているが、おそらく全て「神曲」の書名であると思う(この本は詩で書かれているが、これを小説風にした「神曲物語」というものもある)。
ところが、この本もイタリア語の原題はLa Divina Commedia(神聖なる喜劇)であり、ダンテ自身が付けたタイトルは単にCommedia(喜劇)である(ボッカチオが「神聖な」を後から付けた)。
この「神曲」の題名が付いた理由が面白く、結論として森鴎外が付けたことになる。
実は、森鴎外が、アンデルセンの初期のヒット作「即興詩人」を翻訳したのだが、この作品の中にダンテの「神聖なる喜劇」について語られるところで、鴎外はこの叙事詩を「神曲」としたことから、この題名が用いられるようになったようだ。
尚、鴎外訳の「即興詩人」は、岩波文庫およびちくま文庫から出ているが、鴎外の格調高い文語体で書かれてあり、読みこなすのは大変である。(鴎外はドイツ語訳を翻訳した)

本題と外れ、「即興詩人」の話であるが、これはあくまで創作小説であるのだが、アンデルセン自身が、小説の舞台であるイタリアを旅行している。この中で、主人公アントニオが出会う盲目の美少女ララは、アンデルセンがスペインで実際に逢った盲目の少女がモデルであることは明らかと思う。「即興詩人」では、ララの年齢は「12より多くはない」とあった。「アンデルセン自伝」では、その少女は貧しく、ボロをまとい、飾りとしては、黒髪にスミレの花をさすのみとある。しかし、神殿の石段に座っていた彼女は「美の化身のよう」であると、最大の賛辞を書いていた。
アンデルセンは金持ちではないがヨーロッパからアメリカにまでその名が知れていた著名人であり、美人女優や美人歌手ともよく会ったが、浮名を流したことはない。それでも、このララのモデルと思える少女をこれほどに印象に残しているところをみると、ルイス・キャロルのように少女趣味の面はあったかもしれないと思う。アンデルセンは、17歳くらいになっても、人形に着せる服を裁縫で作る趣味があり、このあたりからも彼の少女趣味は想像できるが、ルイス・キャロル同様、無害なロリコン(?)であったようだ。

ダンテも9歳くらいの時に出逢った同じくらいの年齢の美少女ベアトリーチェを生涯崇拝し、「神曲」の中でも天女としてヒロインの扱いをしているが、少女崇拝も高貴な想像力と結びつけば、素晴らしい芸術を生み出すものだと思う。

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2007.04.02

アルビノ

最近、著名な心理学者の著書をきっかけに、アルビノというものについて詳しく知ることができた。
アルビノとは、遺伝子情報の欠損により、先天的にメラニン色素がない人間あるいは動物で、日本語では先天性白皮症という。昔は白子(しらこ)と呼ばれたこともあるが、現在ではあまり使わない。
動物では、シロウサギやシロヘビがアルビノである。尚、ホワイトライオンや、ホワイトタイガーが時々発見されるが、これらはアルビノではなく、白変種という突然変異である。
白変種は、メラニンをもっており、目が黒かったりするが、アルビノは一般に目の脈絡膜にもメラニンがないので、目が赤い場合が多い。

私自身は、もしかしたら気が付かなかっただけかもしれないが、学校の同じクラスや、さらに同じ学校の中にアルビノの子がいた覚えがない。アルビノは2~3万人に1人という稀な存在なので、1つの学校に1人もいなくても不思議ではないかもしれない。
私の姉は、クラスにアルビノの子がいたことが何度かあったというが、色が白く、髪が淡い金髪のようであった以外には普通の子と変わらなかったという。ただ、アルビノはメラニンがない分、紫外線に弱く、目に障害がある場合が多いらしい。

尚、アルビノと間違いやすいものに、尋常性白斑という病気がある。これは、後天的に肌の色素が抜けていく病気で、進行が進めば全身に及ぶ場合もある。この病気は不規則に進行するのが普通で、肌がまだらになる場合が多く、特に子供や若い女性には深刻である。
マイケル・ジャクソンがこの病気にかかっていることは有名で、彼の肌がある時期からどんどん白くなった理由はこれである。マイケルも、ある時期までは、色むらを隠すため黒のファンデーションで誤魔化していたが、進行が進むとやむなく白のファンデーションを使うようになったという。
尋常性白斑は、まずは小さな白の斑点が発見されることから始まると思う。発生率はアルビノよりはるかに高く、白人で2~3パーセントというが、その原因は分かっていないし、確固とした治療法もない。

アルビノにしろ、尋常性白斑にしろ、無知な時代(現代がそうでないとは言えないが)には、恐れの反動の場合もあるが、差別されてきた。動物の場合では、シロヘビのアルビノが神聖視されることもあったが、人間の場合は厳しい状況に耐える必要があった。
しかし、アルビノや尋常性白斑は遺伝子異常や病気であり、これらのことで人を蔑む理由は全くないことから、差別する者が不合理で無知な人間であることは明らかである。
また、日本に来日したマイケル・ジャクソンを見て、「白~い!!」といった歓声を本人の前で上げた者がいたらしいが、マイケルが日本語が分からないにせよ、やはり恐ろしい無知であり、恥ずかしいことであろう。

現代のアニメでは、髪や目の色に現実的でない彩色をすることが多く、いまやそれが不自然に見えないくらいだ。この中で、人気アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の歴史的ヒロインである綾波レイ(14歳)は、赤い瞳と淡い青の髪で、色白であることから、一部のファンの間でアルビノであるとされ、レイは美少女であるから、アルビノを美的に認識する場合もあると聞くが、綾波レイは特にアルビノとの設定はないらしい。
このように、アルビノについてよく知りもせずに、たとえ美的な意味にせよ無思慮にアルビノを考えることも非常に良くない。例えば、ガンという病気は、同情すべきものであったとしても、それを煩う人間はいかなる意味においても、ガンという病気で評価されるべきでないのと同様、アルビノに良いも悪いもないのである。

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2007.04.01

人を鼓舞するもの

岡本太郎もコリン・ウィルソンも、あるいは狂気や神性を感じさせる芸術家の目的も、生命エネルギーの増大に他ならないと思う。
「元気(あるいは勇気)をもらいました」なんて言うのが流行のようだが、それはおそらくちっぽけなエネルギーをもらった時の合言葉だ。どうせならでっかく得るべきだ。
生命力を得る最も簡単な方法はエネルギーと同一化することだ。例えば祭りに参加し、暴れまわると良い。これと似たものとしては、例えば昔のマイケル・ジャクソンのコンサートがある。ジュット機2台で搬送した機材を300名のクルーがセッティングしたマイケルのコンサートでは、ひっきりなしに失神者をスタッフが運ぶ光景が見られる。
祭りもマイケルのコンサートも、モラルをかなり引き下げる必要があり、ある程度下品さも現れる。マイケルが、あらぬところに手を当て、奇声を発するのは、祭りでは肌の露出が多いほど盛り上がるのと同じ原理だ。
実を言うと、宗教の目的すら、人間の生命力の増大であったが、それを精妙に行おうとしたものであった。宗教が力をなくすと、その役割は芸術が受け継いだ。
祭りやマイケルのコンサートはいつでも行えないし、実は弊害もある。
コリン・ウィルソンは、自分の目的はつまるところ、好みのタイプの美女が全裸で近付いてきた時の生命力を得ることと言ったが、あくまで洗練された方法が必要であると考えていたと思う。
池田満寿夫は、猥褻と芸術の違いはソフィスティケート(洗練)と言ったが、まさに的確な言葉と思う。尚、マイケルのパフォーマンスはその妥協点と思う。
芸術家でありながら、自己を鼓舞するのに「葉隠」を必要とした三島由紀夫にはやや疑問を感じるが、普通の者は、やはり自らを鼓舞するものを持てば良い。これを知るのとそうでないのとでは、人生に天地の差が生じるはずだ。
尚、ウィルソンは、「好みのタイプの美女が全裸」であれば生命力が沸きあがるとしたが、日本人の場合は「恥じらいながら」が付かないといけない。日本人とはエレガントなものである。

20070401

恒例となってきた、日曜日のラクガキです。
昔、女性の裸像に抵抗があった時代、画家は女性と一緒にキューピットをセットで描きました。すると、その女性はヴィーナスとなり、ヴィーナスが全裸であるのは自然であり、責めを免れました。
今の時代、誰が何を描こうが問題でないかもしれませんが、私が少女の裸像を描くときは全部、人間になった時の人魚姫を想うことで、私自身抵抗がないわけです(笑)。

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