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2007.03.20

頭が良いと論争に負ける

論争というものが、頭が良い方が勝つものだと思っていないだろうか?
ディベートのようにルールがあり、客観的に優劣が判定されるものであれば確かに優秀な方が勝つであろう。しかし、ルールのない、いわば「言い合い」では、頭の良い方がかえって不利であると言える。
前回書いた、知能指数195のエイブラハム・マスローは、「誰と議論をしても、自分の方が正しいと感じた」とは言ったが、「議論に勝った」とは言っていない。
論争で頭の良い方が勝つのは、もう一方もある程度頭が良い場合だ。

まず、頭の悪い方は、頭の良い方の論理展開についていけない。理解できないということは「発言がなかった」ことと同じだ。あるいは、頭の悪い方に理解できるような形で曲解が行われ、頭の良い方が言った本来の意味とは全く異なるものにされてしまう。
また、頭の悪い方は、自分の主張の矛盾に気付かないし、指摘されても理解しない。
ここまで言えば、論争は頭の悪い方が勝つのが当然と分る(笑)。

論争の相手が頭が悪いと分れば無視することだ。しかし、頭が悪い者ほど自惚れが強いので、無視されることに我慢ができず、ストーカー並に応答を要求してくるものである。
要は、最初から、頭の悪い者と議論をしないことが肝心だ。

一般的に、論争では、論理の正しさや証拠の確かさで争うものである。
裁判などが全くこの通りである。
しかし、これとは違い、権威ある言葉を正しさの根拠にする場合がある。もちろん、この場合は、双方にとって権威あるものでないといけないのは当然である。例えば、社員同士であれば、「社長の方針」といったものがこれに当たる。
そして、カトリック信者の間では聖書が権威あるものである。
以前見た映画で、軍隊への入隊を拒否する男と、入隊させようとする軍部との議論で、聖書が参照されるというものを見たことがある。
入隊を拒否する男は、戦争が聖書の教えに合わないと言ったが、軍部の者は、聖書の中に、イエスが弟子達に「服を売って剣を買え」と言う箇所があることを指摘する。だが男は、「しかし、イエスは剣によって立つ者は剣によって滅びると言った」と返す。
カトリック信者以外には何の意味もないことであるが、権威を認める者同士の間では重要な根拠になる。
これが、カトリック信者とそうでない者との議論であれば、なんともおかしなことになる。一方は聖書の言葉である権威により正しいと主張することが、もう一方には権威でも何でもないので、理屈で納得できないと、正しいと認める理由がない。そうなると、両者の意見は平行線のまま決して一致しない。
そして、宗教上の権威や、所属する国や民族特有の思想(事実上の偏見)というものは自分で思うよりはるかに多く持っているものである。
また、共通の認識を持っていることを多少確認しても、どのくいらいの偏見の差があるか分ったものではない。

荘子は「論争するな」「是非の判断をするな」「デタラメを言うからデタラメに聞け」と言ったが、そもそもが自分の価値判断とて頼りないものではないだろうか?
荘子は、知を超えた判断である明があると言った。それは、仮に「明」と言っただけで、その言葉に意味があるわけではなく、実際には判断ではないであろう。そして、それを得る方法も書いてあるが、人々はこれを見逃す。とても良いものであるのだが(笑)。

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